八力武道への道・・・川鍋健次郎先輩回想録 語り手:川鍋健次郎(S29 卒) 聞き手:笠尾 恭二(S36 卒) 1.新入部員の頃 笠尾:これまで数年間、この川鍋道場で度々お話をうかが ってきましたが、本日は一応のまとめとして、改めて入部 の頃からの思い出を語っていただきたいと思います。まず、 早稲田に入学したのは何年だったのでしょうか。 川鍋:私が早稲田に入ったのは昭和 25 年の春です。 笠尾:地元の厚木高校のご出身ですね。 川鍋:新制厚木高校の第 2 回卒業生です。戦前の昭和 19 年 4 月、旧制厚木中学に入学、6 年間お世話になった。 笠尾:大学で学部はどちらですか。 川鍋:文学部の英文学科。国際化の時代を迎えて、英語を 本気で学びたいと思いました。 笠尾:空手部も最初から志望していたんですか。 -1- 川鍋:いや、はじめは柔道部に入るつもりだったのです。 空手部に入ったのは半ば偶然のことから。 笠尾:どういうことだったのでしょうか。 川鍋:入学後しばらくして柔道場に行ったら、ちょうど明 大と試合している真っ最中だった。その年、明大の主将は 曽根康治さん。当時の柔道界ではずば抜けた実力を持って いた。早稲田はこの人にまったく歯が立たなかった。見て いるこちらもがっくりして、なんとなく階段を上がって空 手部の道場ものぞいてみたら、そこには柔道場とはうって 変わった異様な光景があった。近藤勇かマントヒヒか、と 言いたいような顔つきの男が必死になって型を稽古してい たのです。鬼気迫る、ものすごい迫力! 私は思わず息を 呑んでたたずんでしまった。 笠尾:それが「赤鬼」と異名を取った伝説的な先輩、新田 さんとの出会いだったのですね。 川鍋:迫力に魅せられた私は「赤鬼」のほんとうの恐ろし さも知らずに即日入部してしまった。 笠尾:それ以前、空手の体験は全くなかったのですか。 川鍋:実は高校時代、近所の知り合いで当時、慈恵医大の インターンだった五島宏という人から個人的に指導を受け -2- ていました。五島さんは目黒の修道館(遠山寛賢師範)で 空手を修行していた。のちに立派な医者になりましたが、 この人は一言でいうと「豪勇のサムライ」。大酒飲みで喧 嘩早かった。ある時、地元の不良グループと大立ち回りを 演じたが、独りで全員を叩きのめしたことがある。私が自 分の道場を開いてからもよく声をかけてくれた。残念なが らもうだいぶ以前に亡くなられた。 笠尾:その頃はまだ高校時代から空手を学ぶ者はそれほど 多くなかったと思います。新人の中でも目立ったことでし ょう。当時、空手部の稽古時間はどうだったんですか。 川鍋:正規稽古は月曜日から土曜日まで毎日 4 時から 6 時。あとは自主稽古です。 笠尾:私たちの時代は、正規稽古としては 4 時~ 5 時半で した。 ちゆうぶる 川鍋:当時、新入部員は「新人」と呼ばれ、2 年目が「 中 古」、 それから「中堅」、そして「幹部」となる。 笠尾:私たちの時代も同じです。 川鍋:運が良かったのかどうかわかりませんが、新入部員 の稽古指導者が副将の「赤鬼」新田博之さんでした。おか げで私の新人時代は実にインパクトの強い 1 年間だった。 -3- 私の同期生で空手部に入部した者は約 150 名だったが、夏 合宿に参加した者はわずか 11 名。合宿が終り秋になると 5 名になってしまった。 笠尾:夏合宿前に 11 名とはすさまじい「消耗率」ですね。 普通ならば夏合宿後に減るものですが。 川鍋:毎日の稽古でも 1 発や 2 発殴られたり蹴られたりし ない日はほとんどなかった。そのため稽古時間の 4 時近く になると身体が自然に緊張してきましたね。 笠尾:私も新人時代は同様です。授業をさぼって稽古向け に気力を集中しないと道場に行く気がしませんでした。最 初の夏合宿はどちらでしたか。 川鍋:千葉の勝浦です。1 週 7 日間を朝夕 2 回の稽古だっ た。新人にとっては特にハードな稽古で、1 週間が実に長 かった。2 日目、3 日目になると、中古や中堅さんまでが 旅館の 2 階へ行く階段をみな這うようにして上り下りして いた。疲労や筋肉痛あるいは故障などで、まともに動けな くなるんですね。 笠尾:合宿稽古の内容はどうだったんですか。 川鍋:基本的にはいつもと同じ。基本稽古、型、そして組 手です。組手は三本組手、五本組手、自由一本組手。自由 -4- 組手はあまりやりませんでした。 笠尾:我々も自由組手はやりませんでしたが、ただ五本組 手でも極め手が甘いと、すぐに自由組手になり、最後は組 み討ちになって床の上をころげまわるというようなことが よくありましたね。 川鍋:そう。約束組手と言っても全く気が抜けなかった。 五本組手でこちらが一本目を突き出そうとする瞬間からカ ウンターパンチが飛んでくる。すきがあれば弱い所へ蹴り が来る。相手が幹部ともなると、こちらはもう、めくら滅 法。鍛錬の差を見せつけられましたね。いざ本気になった ら負けるもんかという気持ちをいつも持っているつもりで したが、あがけばあがくほど己の無力さを思い知らされる だけでした。 笠尾:「鉄槌」はあったんですか。五本組手で新人が 1 本 突くたび鉄槌打ちを食らうという・・・。 川鍋:ありましたよ。内出血で腕全体が腫れあがった。合 宿が終わったときには、腕が学生服の袖を通らないほどで したね。 笠尾:ええ。私など右腕の肘関節が歪んで、ずっと後遺症 に苦しみました。「鉄槌」は合宿の伝統行事のようなもの でしたが、率直に言って私には無意味な鍛錬に思えました。 -5- 川鍋:当時の稽古は「理屈を言うな。からだで学べ」とい う訓練主義でしたからね。私は昭和 28 年の主将として夏 合宿に臨んだときはだいぶ合理的な稽古に切り替えたつも りです。 笠尾:私も自分が幹部になったときには「夏合宿の鉄槌廃 止」を率先して主張したほどです。 川鍋:確かに、不合理な稽古は技術的にも精神的にも実を 結ばないものです。しかしながら一見不合理に思われる荒 稽古の中にも鍛錬の妙味というのを感じ取れることがあり ます。 合宿最後の日の夕稽古の時だった。これが終われば、晴 れて帰還だと私は疲れ果てた心身に鞭打って稽古にのぞん だ。最後の稽古は、平安の型に始まって鉄騎の型、さらに 抜塞・観空など合計 15 の型を各 20 回ずつ体み無くやる。 延々と 300 回の型をこなすことになる。当然のことながら 途中で疲れて力が出てこなくなった。するとその途端、幹 部達の叱声や突き・蹴りの見舞いが飛んで来る。100 回目 ぐらいは登り坂の急勾配と言ったところでしょう。ところ が不思議なもので、この峠を越すと次第に下り坂となり、 さらにそれが急傾斜になって、動きが楽になってきた。ど んどんリラックスして力が出てくるようになったのです。 恐らくこれはマラソンにも共通するのかも知れない。回 数稽古の効用と言うものでしょうが、回数が増えるに従い -6- 身体は疲れているはずなのに、残りが少なくなる頃は余計 な力が抜けて動きが良くなっていた。それに何より、いつ の間にか余計なことを考えずにただ黙々とやっているので す。雑念が消えて気持ちのプレッシャーが無くなっていた。 そして、我ながら不思議なくらい身体が動く。300 回を終 えたころは、全く爽快な気分になり、まだやれるぞという 気にさえなりました。 笠尾:新人の夏合宿に耐えた体験はその後の人生にとって も荒波を越える大きな支えになったような気がします。合 宿の 2 日目か 3 日目でしたか、夜中に脱走した者が 3 名も いました。その一人など、合宿前には上級生達と「フリー をやるのが楽しみだ」などと豪語していた。フリーって何 だと思ったら自由組手のことだった。 「すごいやつだなあ」 と思っていたら深夜の脱走! 朝、同室の者が目を覚まし たら枕元に稽古着が畳んであり「どうぞお使いください」 とメモ書きがあったという(笑)。 川鍋:当時は毎年のように中途で脱落者が出ましたね。私 にもこんな体験がある。合宿の何日目の夜だったか、上級 生の X さんが私を海岸に誘った。夕涼みをしながら辛かっ たその日の稽古のことなどを語り合っていたら、日頃豪気 な彼が突然弱音を吐いて「遁走しよう」と言い出した。 「鍋 よ、こんな野蛮な合宿は無意味だ。学生のやるべき稽古で はない」などと言うのです。 正面きって主将や幹部らと話し合い、正式に退部した上 -7- で帰るのならばともかく、単なる遁走では前線における敵 前逃亡に等しい。「自分は負け犬にはなりたくない。ここ に残ります」と私はきっぱり言った。そこで X さんも踏み 止まったのです。 他人から見れば大した思い出ではないかもしれないが、 私には忘れられない一幕となった。もしもあの時、彼の言 葉に従って、ともに「遁走」していれば、空手と私の絆は 断ち切られていたし、それは彼にとっても同じことでしょ う。その後の人生、現在のあり方を含め重大な運命の分か れ道となった。後になって、あれは「神だめし」、神が私 を試したと思い、有り難く受け止めています。 いずれにしろ合宿を含め、新人時代は数多くの貴重な体 験をした 1 年間でした。私は本来、短気で、しかも異常な ほど負けず嫌いだったが、この 1 年間でずいぶん性格が矯 正されたような気がする。自己の力の限界を知り、謙虚に 地道に鍛錬することがいかに重要であるかを学んだ 1 年間 でもありました。 2.「赤鬼」新田博之さんの思い出 笠尾:当時の先輩で特に記憶に残る人と言えば、やはり「赤 -8- 鬼」新田さんということになりますか。 川鍋:そうですね。空手部先輩には一 風変わった人が多かったけれども、私 にとって学生時代の思い出の先輩と言 えば、まず第一に早稲田の「赤鬼」と 異名を取った新田先輩ということにな るでしょう。 新田さんは私が入部したときの 4 年 生で副将兼新人教育係だった。私は昭 新田博之先輩 和 6 年生まれ。ちょうど戦前と戦後の中間にあって架け橋 の役をする世代だと思っていますが、年齢は 2 歳違いなが ら新田さんは戦後になっても、「身は常に戦場に在り」の 気概で生きた鬼才です。空手をやるために生まれて来たよ うな人。わずか 31 年という短い生涯だったが、その生命 と情熱を完全燃焼させた熱血の快男児だった。 笠尾:新宿でよく喧嘩を売っていたとか。それも袴姿で。 しかも早稲田の学帽をかぶって・・・。 川鍋:新田さんは実戦主義で軽い技は問題にしなかった。 ところが昭和 23 年頃、夏休みで郷里に帰省中、夏祭りの おみこしが通りかかったとき、その先頭を勝手に横切った ということで、みこし担ぎの若者達と大喧嘩になった。多 数を相手に孤軍奮闘して身を守ったが、突き蹴りで倒して も相手がすぐに起き上がって反撃してきたという。「おれ -9- の技はだめだ」と言って、それからますます稽古に励んだ。 そして、時には新宿の盛り場で街のやくざものを相手に自 分の技を試すようになったのです。 新田さんはもともと猛稽古の人だった。とにかく寝ても 覚めても空手一筋という日々。時や場所は無頓着に稽古を するので、下宿を転々と変わらねばならなかった。真夜中 でも稽古が始まるので、まず同宿の下宿人から苦情が出る。 そのうち壁が壊れ、畳がぼろぼろになり、ついには屋主か ら追い出しを食らうという羽目になった。発明家が四六時 中、研究に没頭しているようなもので、稽古の熱にとりつ かれている状態だったのでしょう。 笠尾:でも、喧嘩に行くのに袴に学帽で、というスタイル が理解できませんね。 川鍋:当時はまだ大学生はよくそういう服装をしていまし たよ。いわば「正装」という感覚があった。新田さんにと って、喧嘩は単なる喧嘩ではなかった。あくまでも空手研 究というか、武術的修行の一環。だから喧嘩するにも武士 の作法と名誉を重んじて、きちんと学帽をかぶり、それな りの覚悟をもって出向いて行ったのです。 笠尾:新田さんにとっては新宿の歌舞伎町も野外道場の一 つにすぎず、喧嘩も「他流試合」という感覚だったのかも 知れませんね。 - 10 - 川鍋:「男児、門を出づれば七人の敵あり」という諺があ りますが、赤鬼先輩の場合は「男児、七人の敵を求めて門 を出づ」だった(笑)。初めから戦う覚悟ができているか ら、まさに鬼に金棒だったのです。 笠尾:やくざ者との喧嘩には、当然危険がつきまとうと思 うのですが・・・。 川鍋:その頃はまだ終戦後間もない時期で、新宿の街はい くつかのやくざ一家が闇市やマーケットの利権をめぐって 勢力争いをしていた。だから懐に短刀を隠し持つやくざも 少なくなかったでしょうね。日本全体にわたって気風は荒 々しかった。しかし喧嘩となると、どこかで暗黙のルール があった。彼らの世界でも命をやりとりする本気の抗争と 普通の喧嘩とには目に見えない一線が引かれていたでしょ うね。 笠尾:言われてみると、その頃はどこでも祭りの喧嘩さわ ぎには、半ばスポーツ的な気分がありました。子供の喧嘩 でもそうでしたね。本気で争うけれども、案外深刻なけが をしなかったものです。勝負がつけば、それで終わり。相 撲が日常の遊びとして定着していたことも暗黙のルール作 りに役立っていたのかも知れません。 川鍋:我らが赤鬼さんの武勇伝にはこんなこともあった。 ある時、若いやくざ者が数名集まっているところで赤鬼さ - 11 - んは、わざわざ上から小便をひっかけた。その後は当然の 成り行きとなったが、赤鬼さん「今日はおれ、酔っぱらっ ているから、一人ずつかかって来い」と言った。すると、 当時のやくざ気質と言うのか、ちゃんと一人ずつかかって 来たそうです(笑)。 笠尾:だんだん赤鬼武勇伝の具体的なイメージが湧いてき ました。 川鍋:ある組からチンピラ整理に用心棒的な協力を申し込 まれたこともあった。そんなある日、ある紛争に巻き込ま れて単身、某組に話をつけに行ったところ、親分がその度 さかずき 胸に惚れ込んで酒 盃をやると言ったそうです。 笠尾:「こっちの用心棒になってくれ」と・・・。逆スカ ウトですね。 川鍋:もちろん赤鬼さんは、「わしゃ、早稲田大学空手部 の副将だ。やくざの酒盃なぞもらえん」と、きっばり辞退 したということでした。 笠尾:なんだか三船敏郎か高倉健の映画にでも出てきそう な場面ですね。 川鍋:映画と言えば、赤鬼さんは、三船敏郎よりも一時代 前の時代劇スター阪東妻三郎主演の映画を見たとき、その - 12 - 立ち廻りにすっかり感激して、「あれを自分で実際に試し てみたい」などと願うような人だった。 笠尾:ほかにはどんな武勇伝が・・・。 川鍋:こんな話もある。ある時、新宿の酒場で柔道家タイ プの体格の良い男が声高に、「おれは木村政彦とやって三 本に一本は取る。空手なんぞも大したことはない。柔道の 方が強いぞ」と息巻いていた。偶然にも我らが赤鬼さんが そばで呑んでいた。最初は聞き流していたがあんまり空手 をけなすので、赤鬼さんは男のそばに行って、例のように 名乗りを上げて言った。「それほど柔道が強いのならば表 に出て試してみようではないか」 とたんに男はすっかりおとなしくなって、平謝りに謝っ たという。 笠尾:初代主将の野口さんがまだ現役の頃、つまり昭和 10 年頃ということになりますが、「おれは早大空手部主将の 野口である」と言って新宿を飲み歩いていた男がいたそう です(笑)。野口さんが自分でとっつかまえてお説教した とのことですが。 川鍋:新宿はむかしから面白いところですな。 笠尾:川鍋先輩は赤鬼さんに随行して、その戦いぶりを目 撃したことはあるんですか。 - 13 - 川鍋:実は一度もありません。当時の空手部は赤鬼さんが 新宿で何をしていたか、具体的には誰も知らなかったでし ょうね。ご本人が道場や部室で武勇伝を語るということは 全くなかったのです。 笠尾:それなのに、どうして詳しくご存じなのですか。 川鍋:赤鬼さんには忠僕というか、付き人のような人がい ました。大学は違ったが、赤鬼さんと同郷の人。この人が 当時、たまたま私の友人でもあった。そこで赤鬼先輩の武 勇伝は逐一私に「報告」されていたのです。 笠尾:道場でも毎日恐ろしかったでしょうね。 川鍋:ええ、そうですね。なにしろ独り稽古をしていても 迫力があったくらいですから。新人時代はどの上級生も猛 者に見えたものですが、そのうちのお一人がある日、赤鬼 先輩と組手になった時、あまりの迫力に圧倒されて、突然 背中を向けると、脱兎の如く道場を飛び出し、走って逃げ ていったことがある。そのまま二度と道場に顔を出しませ んでした(笑)。 笠尾:稽古中にけがをさせるようなことはなかったんです か。 - 14 - 川鍋:好んでけがをさせるようなことはなかった。むしろ 自分が担当する新人は、鍛えたいと思う一方で、こいつら はおれが守るという気持ちもあったでしょうね。それでも 常に真剣勝負の気合いでやる人だから、技が制御できず、 つい極め技が相手に入ってしまうということはたびたびあ ったのです。特に蹴り技が怖かった。 さっきの笑い話と対照的に、シリアスな思い出としてこ んなことがあります。 私より一年先輩の I さんが赤鬼さんと組手をしていた時、 赤鬼さんの猛烈な蹴りがまともに入ってしまった。腰の力 たて げ がぐっと入ったすさまじい縦蹴り(前蹴り)。I さんはその まま道場に倒れて動けなくなった。ただちに担架で近所の 病院へ運ばれました。 郷里から母親が駆け付けた時、赤鬼さんが深々と頭を下 げてお詫びしたところ、なんとも気丈なお母さんで「あな たが詫びることはない。私の息子が弱いのです。もっと鍛 えて、強くしてやって下さい」と言ったそうです。赤鬼先 輩は、その場ではらはらと涙を流して立っていたそうです。 笠尾:I さんはどうなりましたか。 川鍋:幸い手術が成功して、療養後、道場に戻ってきまし た。それからは以前にも増して積極的な稽古を続け、ぐん と強くなりましたね。「この母にしてこの子あり!」と感 じ入ったものです。 - 15 - 笠尾:人も恐れる赤鬼先輩が、「おれはほんとうは弱い人 間なんだ」と漏らしたこともあったそうですが・・・? 川鍋:のちに私はたまたま少年期の彼を知る人と語り合う 機会があった。新田先輩がいかに恐ろしかったかを話した ら、「とうてい信じられない。別人ではないのか。中学時 代の彼は青ばなを垂らした意気地のない少年だった」と、 けげんな顔をしていました。それほどに彼の変貌は大きか った。 むかしの武人伝説などには「山中で一心不乱に修行して いたら、ある時、強力な霊が憑依して、別人のように強い 人間になった」という話がある。そういう話が真実と思わ せるほど彼の変貌は大きかった。だが、その大変貌のきっ かけを知る人は誰もいなかったのです。 笠尾:そもそも空手部に入部したのが変貌の転機になった のかも知れませんね。先日、新田先輩は空手部史の中でど ういう位置にあるのか確かめたいと思って、改めて「稻門 空手会名簿」を見たら、新田さんは昭和 26 年法学部卒。 その時代の先輩を見ると、終戦直後の荒々しい時代に活躍 した豪傑がずらりとそろっています。吉田悦造(S22)・志 岐(原田)五十郎(S23)、鎌田博・渋谷松男・川口史郎(S24)、 野間義一(S25)等々・・・。いずれも社会人としては立派 な諸先輩でしたが、現役時代、道場内ではやっぱり鬼のよ うな人達だった。こういう大鬼達の洗礼を受けて、 「赤鬼」 が誕生したのではないか。言い換えれば、大鬼たちの強力 - 16 - な霊が赤鬼先輩に乗り移った・・・? 川鍋:そういう豪傑先輩方の影響は、我々の世代にも及ん でいます。 笠尾:その大鬼達の迫力に満ちた空手は、当時アメリカの 写真週刊誌「LIFE」に掲載されて海外にも紹介されました。 私は昨年、川口先輩のご協力を得て、当時の「LIFE」誌取 材の全写真を解説付きで復元し、稻門空手会のホームペー ジに紹介しました。ぜひご覧いただきたいと思います。最 近気づいたのですが、中国のネット上にはすでに流れてい ます。解説抜きの写真だけですが。 川鍋:今日、私が赤鬼さんの武勇伝をあれこれ紹介したの は、決して暴力礼讃の気持ちからではありません。いつの 時代でも、精一杯命の焔を燃やして生きる真剣な姿には感 動があるものです。そしてそこには汲めども尽きない教訓 があるとも思うからです。そのあたりはぜひ誤解の無いよ うにお願いしたいと思います。 笠尾:はい。今日はこれまでで最も詳しく、熱い赤鬼伝を うかがうことができて幸いでした。 川鍋:私がこの先輩に最後に逢ったのは、たしか昭和 32 年のことだった。 - 17 - 笠尾:ちょうど私が入部した年ということになります。 川鍋:私が井上方軒先生に師事して古流武術を学び、新た な空手の道を模索していることを知ると、「それは良いこ とだ。大いにやれ」と励ましてくれました。「学校でやっ た空手など技になっていない。おれだから使えたが、常人 には無理だ。もっと理にかなった稽古を積まねば、ものに はならんよ。今のおれは、絶対打たれぬ工夫をしたから大 丈夫だ。大先生の言われるように、人間なんてあっけない もんだ。この角度でポンと打てば、ストッと倒れる。ずい ぶんと実験済みだよ」と、笑って話してくれた。それが最 後になりました。 笠尾:新田先輩がわずか 31 歳で亡くなったのは、実に惜 しまれることですが、地元のやくざに嫌われて、その抗争 の中で死んだというのは、ほんとうのことでしょうか。 川鍋:私は「交通事故で死んだ」と聞いています。 笠尾:事故説にしても仕組まれたものではないのかという 人もいるのです。あんまり強いから、酒をたらふく飲まし て・・・などと。 川鍋:さあ、どうでしょうか。私が最後に会った時、学生 時代の、あの猛々しかった猛気は影をひそめていました。 単なる争い事などはもう必要としない心境だったでしょ - 18 - う。私には 30 歳の若さで、すでに達人の境地に達してい たように感じられました。 笠尾:そうでしたか。私などは伝説の赤鬼先輩が若くして 死んだことに納得できなくて、学生時代の武勇伝と結びつ け、妄想的な英雄伝説を勝手に追い求めていたのかも知れ ません。 川鍋:やくざと争って死んだなどというのは、かえって赤 鬼さんの面影に泥を塗るようなものでしょう。たとえ不慮 の交通事故死であっても、それが事実ならば事実として受 け止め、青春時代の懐かしい思い出とともに新田さんのご 冥福をお祈りしたいと思います。 3.船越義珍先生の思い出 笠尾:川鍋先輩の時代、日常の稽古で は船越先生もまだ師範として時々道場 に来られていたのですね。 おおせんせい 川鍋:ええ。私が大 先 生と初めてお逢 いしたのは、入部した昭和 25 年の春 です。それから卒業までの 4 年間、毎 月 1 度は道場にお見えになっていまし た。 - 19 - 当時の船越義珍先生 笠尾:船越先生は昭和 32 年の 4 月、私が入部した直後に 亡くなられました。生前、一度もお目にかかることができ なかったのはとても残念です。 川鍋:大先生はいつも着物姿の下駄履きでした。驚いたこ とに、いつ見ても、その下駄の歯がまっすぐに減っていた。 笠尾:我々の時代でも学生は下駄履きが多かったけれど も、歯がまっすぐ減っている者は見たことがありません。 川鍋:大先生は日常生活の中でも常にすきが無い身のこな しをされていた。歩く姿も稽古の延長そのまま。すり足で、 上体は鉄騎の型そのままなんです。 笠尾:鉄騎で歩く?! 川鍋:無作為の作為と言うか、すべての所作が法にかなっ た動きをされていました。大先生はいつも「空手道は粗暴 ししじんじん を避け、志士仁人の道を究極まで高めていくものぞ」と説 かれていた。空手修練を通じて練り上げたその精神が先生 の行住坐臥の姿勢にも現れていたのです。学生時代はそれ がいかにすごいことか分からなかった。後年、振り返って そのことに気づき、まことに尊いことだと痛感したのです。 笠尾:「志士仁人の道」とは、『論語』の言葉だったでしょ - 20 - うか。私なりに簡単に言い換えれば「我欲を捨て、世のた め人のため常に高潔であれ」という教えになるかと思いま す。 川鍋:大先生は学生達の下駄の歯の減り方や肩で風切るよ うな歩き方を見て、「みなさん豪傑が多いことで・・・」 と笑っておられたが、先生の眼には学生達の行動は何とも 幼稚に見えたことでしょう。先生の行住座臥のこの姿勢は 正に名人のそれで、それが一向理解できずにいた学生時代 の私はまことに恥ずかしい思いです。 笠尾:船越先生は当時すでに 80 歳を越えておられたと思 いますが、実際に稽古着を着て指導されたのですか。 川鍋:いえ、道場では静かに見守っておられた。いつも稽 古着に着替えようとなさるのですが、冬の寒い時期には「先 生、どうぞ暖かい着物のままで」と、あえて着替えを押し 止めたこともあったくらいです。稽古が終わると、先生に 付き添ってお見送りするのも我々の大切な任務だった。ま ず近所のそば屋で天ぷらそばを食べていただく。時間をか けて一本一本大事そうに食べるのがとても印象的だった。 それから近くの都電までお送りするのですが、途中が心配 で、先生が「大丈夫だから」と言われても、ついついご自 宅までご一緒することがありました。 笠尾:そういう時は、先生と個人的にもお話しできるわけ - 21 - ですね。 川鍋:そうです。私などは大先生晩年の弟子で、手取り足 取り教わった者ではないのですが、先生はいつも「川鍋と 言えば空手、空手と言えば川鍋と言われるような男になる んですよ」と励ましてくださった。先生と私は 60 歳ぐら いの年齢差があった。先生にとって私達は孫のように見え たのかも知れません。 おおせんせい 笠尾:古い先輩達はみな船越義珍先生を「大 先 生」、ご次 よしたか わかせんせい 男の義 豪さんを「若 先 生」とお呼びしていますが、その 呼び方だけは我々の世代にも伝わっています。まだ空手部 初期の先輩達がお元気でしたから。 川鍋:若先生が終戦後間もなく不治の病で亡くなられたの はほんとうに残念でしたね。「若先生の一撃一蹴は命がけ で鍛え上げられた技で、げに必殺の恐ろしさを秘めた精悍 無比の技であった」と聞き及んでいます。若先生の修業は、 大先生の静的修業とは対照的に、より現実的な動的修業で あったと言えるでしょう。豪毅な性格の上、身体が柔軟か つ敏捷だった。その豪拳は誰もよけることができなかった そうです。学生達の突きが偶然にも若先生の顔にかすりで もしたら、次の瞬間「行くぞ!」の声もろとも眼もくらむ 様な一撃をくらったと、先輩達は語っております。 笠尾:普段は静かな人だったが、道場ではものすごく迫力 - 22 - があったそうですね。 川鍋:大先生はと言えば、道場の内外を問わず、「威あっ て猛からず」の思想が良く心体に溶け込んだような方でし た。自己主張は一切されず、空手をやっていること自体知 られたくもないというような姿勢を貫かれた。ところがね、 常に温顔を絶やさないその先生が一度、真っ赤になって学 生を叱りつけたことがあります。 笠尾:どんなことがあったのですか。 川鍋:当時の道場の壁は、下地のコンクリートの上に空間 があって、その上にぶ厚い板が張ってあった。弾力があっ て実に蹴りやすかった。 笠尾:私も自主練習の時は二段蹴りの練習でよく使いまし たよ。走っていって遠目から飛んで蹴る。2 発目を蹴った 勢いでまたボーンと宙を飛んで戻る。実に快適な稽古でし た(笑)。 川鍋:一部の学生がそういう風に、羽目板を練習台にして 突いたり蹴ったりしていたら、それを見た大先生が「その ような粗暴の者は空手を稽古する資格がない。やめなさ い!」と厳しく叱ったのです。 笠尾:今ならばそのお気持ちがよく分かります。若気の至 - 23 - りで私も現役時代はあれこれと、ものしらずな失敗を重ね ました。振り返ってみて、まことに未熟であったと反省せ ざるを得ません。 川鍋:むかしから大先生には厳しい一面もあったようで す。江上さんから直接聞いた話ですが、ある日のこと、江 上先輩は道場で大先生から厳しく叱られたことがあった。 そのとき若先生が後ろから「まあまあお父さん」と、正座 していた大先生の肩に手をかけた瞬間、その手を振り払い ざま若先生をものすごい勢いで投げ飛ばしてしまった。こ れには江上先輩も大変驚き、あの物静かで温厚な大先生の どこにあのような恐ろしい力が潜んでいたのか想像もでき なかったと語っておられました。 笠尾:大先生はまさに「外柔内剛」というか、内側には厳 しく激しいものが秘められていた。その剛的なところが脈 々と若先生の血にも受け継がれていたのでしょう。若先生 の強さは突然変異的に生まれたものではなさそうです。 川鍋:大先生の言葉に、「空手道は虎をも一撃で伏す威力 がなくてはならぬ」という教えがある。江上先輩の体験は 正にその言葉を思い起こす一幕であったのです。 笠尾:大先生は「温和」だからといって「柔弱」だったわ けではない。若先生は「剛強」だからといって決して「粗 暴」だったわけではない。若先生も普段は社会人として礼 - 24 - 節を重んじ、学生に対しても道場外では紳士的な態度で接 したと聞いています。 川鍋:大先生は常々、「空手を修業している者は、手を隠 すのですよ。粗暴はいけません。慎まねばなりません。人 間なぞ『ホイ』と一撃で死んでしまうのですから」と語っ ておられた。大先生はまた「危険な場所はよけて通りなさ いよ。危険分子がたむろしているような場所は、自分は遠 回りして行きます」とも常々おっしゃっていた。 笠尾:大先生か若先生のどちらの言葉であったか忘れまし たが、「武勇伝無きを以て武勇伝と為す」が船越家のいわ ば家訓であったようですね。 川鍋:私も直接聞いたことがあります。「空手道とは心身 を究極まで正しく、美しく、強く練り上げて行く道であり、 その所産の技を一生に一度も使用せず終われば、その人は 最も幸せ者だ」と話しておられました。 剣客の中でも型を主流とする名人と組太刀を主流とする 名人がいる。幕末、型名人の寺田五郎右衛門と組太刀名人 の千葉周作が立ち合うシーンを小説で読んだことはあるけ れども、これはどちらが強いかの比較論にはならない。た だ敢えて分類すれば、大先生は型稽古、空手の型の修練を 通して名人になった方で、若先生は組手を通して達人にな った天才肌の方と、私は考えます。 大先生は若い頃、鉄騎の型鍛錬のため、台風の中で戸板 - 25 - を持って屋根の上に騎馬立ちで立ち、何度も地上に落ちて 泥んこまみれになりながら、ついには見事に嵐の中に立ち はだかったそうですが、型の鍛錬は精神や身体、それに呼 吸法等の強化に役立つ。組手では味わえない妙味があると 思います。 笠尾:船越先生の得意型は何だったのでしょうか。 川鍋:大先生の得意型は鉄騎と観空です。私はたまたま演 武会で先生の観空の型を間近に見たことがある。拳がぶれ ないで、びしっと極まるのが印象的でした。 笠尾:大先生はご長寿でしたが、亡くなる直前まで武道大 会などでは型や組手を披露することがあったそうですね。 川鍋:大先生の「空手道二十訓」に「空手道とは一生のも の」という教えがある。大先生は生涯かけてみずから実践 された。 笠尾:「空手道二十訓」は私も若いときから座右の銘とし てきました。言葉は簡潔ですが、いざ実践となると難しい ものばかりです。 川鍋:この「二十訓」を思うにつけ大先生が私達の遥かに 及ばぬご苦労と精進工夫をされ、いかに高い境地に達して いたかをうかがい知ることができるのです。また、「海南 - 26 - の神技、これ空拳」に始まる、先生のあの有名な漢詩(*) を見ても、空手の修行と普及発展に生涯をかけた先生の強 い意志と情熱を感得することができます。 * 述志(志を述ぶ) かいなん しんぎ こ 松濤 くうけん 海 南の神技、是れ空 拳 うら すいび 船越義珍 せいでん た 恨むべし、衰微して正 傳の絶ゆるを たれ な ちゆうこうたいせい ぎよう 誰か作さん、中 興大 成の 業 こ こころふんぱつ そうてん ちこ 斯の 心 奮 発、蒼 天に誓う 笠尾:私もあの漢詩が好きで、ひとりでよく吟じました。 吟じているうちに自ずから気分が高揚してくるすばらしい 詩です。船越先生の魂が込められているからでしょうね。 船越先生は武人らしい言行一致で生涯を貫かれた。言葉と 実践、日常生活と空手修行に全くズレというものがなかっ たように思います。 川鍋:船越義珍先生のその生涯はまことに敬虔な尊い空手 道家の一生であったと思います。先生は私が卒業して 3 年 後に亡くなられた。護国寺で行われた葬儀に、私は 2 番目 に師事した井上方軒先生と共に参列しました。いつも私を 温かく励ましてくださった先生のお言葉が、今でも昨日の ように私の耳元に響いています。 - 27 - 4.中古・中堅時代の思い出 笠尾:ご自分が上級生になってからの思い出としては、ど んなものがありますか。 川鍋:2 年目、中古時代は、嵐が去って風が急に和らいだ ような日々というか・・・、ただ一つ挙げるとすれば、関 西大学との交歓稽古ですね。 笠尾:当時の交歓稽古は、かなり荒っぽいものだったと聞 いています。例えば組手の最中、先輩から「『当てるな!』 と声がかかれば、それは『当てろ!』と言う意味だった」 とか・・・。実際そんなことがあったのでしょうか。それ とも、これもまた歪曲された伝説にすぎないものでしょう か。 川鍋:実際にそういう声はかかりましたよ。 笠尾:え、ほんとうだったんですか!? 川鍋:「当てるな!」イコール「当てろ!」などというス トレートなものではなかったけれども「当てるな。(しか し、押されるな。徹底的に戦え!)」という、いわば激励 の気合いだったでしょう。審判を置いていちいち技を判定 するわけではなく、数人ずつ前に出て自由組手をやるんで - 28 - すが、まあ荒っぽい交歓稽古ではありましたね。関大とは、 新人・中古時代と、2 度やったと思います。 笠尾:そうでしたか。川鍋先輩が黒帯になられたのはかな り早かったと聞いていますが、いつごろでしたか。 川鍋:2 年目の春に初段、3 年目の春に二段だったか、も う正確には覚えていませんが、当時としては最短コースで した。 笠尾:昇段審査は船越先生が直接審査なさったのでしょう か。 川鍋:いえ。当時の昇段審査は松濤館系大学が集まって行 う合同審査会のようなものでした。実際に審査員として立 ち会ったのは各大学の指導的 OB たち。ただ、免状には大 先生の署名があった。それがとてもありがたかった。 笠尾:それは貴重ですね。私たちの時代はすでに早稲田独 自の審査会で免状も稲門空手会の会長名義になっていまし た。試合制度のなかった時代、同門諸大学の合同審査会は、 受験する各大学の空手部員にとっては、それ自体が貴重な 交流体験になったでしょうね。見ていても、なまじの演武 会よりは刺激的でおもしろかったのではないでしょうか。 川鍋:交流体験としては、三年目の中堅時代、慶応大学空 - 29 - 手部との交歓試合は忘れ得ぬ思い出の一つです。審判は拓 大 OB の中山正敏さん、ただ一人。自由組手方式で、技が 極まったときは声をかけるが、むしろ勝負は互いの心の判 断にゆだね、真剣かつ紳士的に戦った。実に気迫あふれる 試合だったが、存分に己の技量を発揮し、しかも相手にけ がをさせなかった。競技規則のなかった当時としては理想 的な試合だったと思います。 笠尾:現今の学生競技空手はここから始まったと聞いてい ます。 川鍋:腕を試し合い、競い合う文字通りの「試合」だった。 私たちは過度に勝敗にこだわることなく、互いに伸び伸び とやった。実に爽やかな、後味の良いものでしたよ。 笠尾:その翌年、最終学年の幹部時代はいよいよ主将とし て活躍されたわけですね。 川鍋:実は、主将としての私の立場には苦しいものがあっ た。なにしろ学生空手界では群を抜いていた重戦車達が 10 名近くも卒業してしまい、戦力が大幅に低下してしまった のです。何とかして戦力強化を図り、部の伝統を維持しな くてはならない。私にとっては背伸びした踏ん張りの一年 でした。とは言うもののいったん道場を出れば、新宿の街 の夜風が青春の感激をかき立ててくれた楽しい一年でもあ った。同期の堀口たちと、よく呑みに行きました。 - 30 - 中堅時代:藤田・堀口・川鍋・林 5.空手修行の新たな壁 笠尾:重責を担って苦しい面もあったと思いますが、稽古 自体は実力もいよいよ身について、道場では日々充実して いたのではありませんか。 川鍋:ところが、こと稽古に関しては、4 年間の締めくく りとしては全く不満足のまま終わってしまいました。 笠尾:指導に忙しくて自分の稽古ができなかったというこ とでしょうか。 川鍋:いや、稽古量は人一倍、積んだつもりです。私が悩 んだのは、武術の稽古で一番基本となる「気・拳・体」な いしは「気・力・体」の一致がなかなかできないというこ とだった。 - 31 - 笠尾:なるほど。そういう武術修練の核心となる問題だっ たのですか。 いっそく 川鍋:私としては、「一 息の突き」あるいは「無拍子の突 き」を追求していたに過ぎない。その前提が「気・拳・体」 の一致。ところが、まず追突きの時の後ろ足の運足ができ ない。これができないと一息の突きとか、無拍子の突きな どは当然できないのです。武術で一番大切な運足ができな ければ「気・拳・体」の一致ができず、リズムを細かく刻 んで行くこともできない。これを何とか解決したいと、夜 中でも人通りの絶えた家の前の道路で懸命に稽古をするの ですが、ついぞ満足の行く稽古とはならなかった。ただ、 この稽古の積み重ねは、私に何かが根本的に間違っている からで、発想の転換が必要だということを自覚させてくれ るには充分な効果がありました。 笠尾:空手修行の新たな苦悩! その壁を乗り越えるに当 たって最も大きな影響を受けたのが「奥山空手」だったと いうことになるのでしょうか。空手部 OB の中で奥山さん に最も長く師事したのが川鍋先輩だったと聞いているので すが・・・。 - 32 - 川鍋:私は江上・奥山両先輩から大き な影響を受けました。おふたりとも戦 前の松濤館の中でも強豪として知られ た。そしておふたりとも戦前の日本陸 軍と深く関わった。特に奥山さんは陸 軍中野学校(特務機関員養成所)の格 闘術教官として実戦的な空手を追求し ました。 奥山先輩(S18 年合 宿) 笠尾:そこに戦前空手部のもう一人の実戦的な強豪、鎌田 俊夫先輩が中野学校にスカウトされて「学生」として入校 してきた。当時、陸軍高官には皇族の人がいたそうですが、 この人物がある時お忍びで中野学校の視察に来られた。そ こで御前演武として鎌田・奥山両先輩が壮絶な試合を展開 したと聞いています。私はその話がもっと知りたくて、現 役時代、鎌田先輩に直接お話を伺おうとしたのですが、 「私 たちは力一杯やりました。オワリ!」。具体的なことは何 も聞けませんでした(笑)。 川鍋:あの両先輩が戦うとなれば、それはもう気迫あふれ る壮絶な試合となったことでしょう。 笠尾:戦後、江上・奥山両先輩の空手は体動が全く柔らか くなった。従来の空手とは一線を画すものになったと思い ますが、そのきっかけはどんなところにあったのでしょう か。奥山さんは終戦直後、大本教の本部に入り、そのまま - 33 - 居着いて武道師範となった。大本教との関わりが大変貌の 契機となったのでしょうか。 川鍋:大本教とどういう経緯で関わるようになったのか は、よく知りません。私の現役時代は江上さんが空手部監 督だった。私が奥山さんに親しく指導を受けるようになっ たのは卒業後のことです。奥山さんはその頃、すでに大本 教からは教主ご子弟の教育を任されるほど深く信頼される 指導者の一員になっていました。奥山さんにとっても大本 教本部は己の人生と空手を根本的に見直す良い場所ではあ ったでしょう。 しかし、技法的に見ると、奥山さんの空手は実戦教程を 追求する中野学校教官時代からすでに一般の空手とはかな り異なる独自の路線を歩んでいたと、私は思う。終戦後、 それを世間と隔絶した静かな環境の中でゼロから見つめ直 し、従来の枠組みにとらわれず新たな体系を純粋にまとめ 上げていったということになるでしょう。 笠尾:それが川鍋先輩の「壁」をぶち破った? 川鍋:そう簡単にはいかなかったのです。私は卒業後の一 時期、奥山さんとは一軒家で寝食を共にして修行したこと がある。奥山さんのご指導によって私は新たな発想を得た が、その根源を求めて一九五四年、親和体道・井上方軒先 生の道場に入門した。それもまた奥山先輩の導きによるも のでしたが。当時、奥山先輩は方軒先生と親しく交流して - 34 - いた。それが奥山さんの空手に深く影響したのです。それ 以前、奥山さんの空手は独自の理念と技法を持つ個性的な ものではあったが、大きく見れば伝統的な空手の枠組みに 入るものだった。それが方軒先生との交流を契機に大きな 変貌を遂げた。江上さんが方軒先生と交流するようになっ たのは、それからしばらく経ってからのことです。 笠尾:私は現役時代、合気道・植芝盛平翁の演武は機会あ るごとに見学に行きましたが、井上方軒先生の演武は残念 ながら一度も見たことがありません。方軒先生は植芝盛平 翁のご親族と聞いています。親和体道とは要するに合気道 と同様のものと理解してよろしいでしょうか。 川鍋:方軒先生は合気道、柔術だけではなく古武道全般に 広く通じておられた。しかし、私が方軒先生のもとで学ん だのは、そういう諸流の外面的な技法ではなく、そのエッ センスというか、技法を駆使する「力の運用法」だった。 力とは何か、運足・身法とどう結びつけるかという原理的 な問題だったのです。 笠尾:そういう経緯だったのですか。そこからいよいよ現 役時代の最後にぶつかった「壁」を乗り越え、「川鍋空手 道」の新たな道が切り開かれることになったわけですね。 5.八力武道への道 - 35 - 川鍋:私は、のちになって自分の習 はちりき 得したものを「八 力武道」としてま とめました。 笠尾:この道場にうかがうたび、先 輩から「八力」の説明を受けてきま したが、正直言ってよく理解できま せんでした。細かく説明されればさ れるほど、まるで迷路に入っていく 八力の構え(川鍋) ような戸惑いを感じました。 ところが前回、先輩は「ちかごろ私は単純なことだと考 えているんだ」と、一つの身法を示された。自然体で柔ら かく立つ。相手が出ようとするところを、機先を制して前 足から踏み込み、瞬時に突く。そのあとはたちまち自然体 に帰っている。柔らかく立っていたのに、突いた瞬間は、 支えの後ろ足から拳尖までが一体化して、まるで突如とし て床から相手の喉元につっかい棒が出現したように見えま した。その時、私は理屈へのこだわりが一瞬で吹っ飛び、 先輩の言わんとすることは要するにこういうことだったの かと、直感的に理解できたような気がしました。まさに達 人の拳を見たという思いがあります。 川鍋:「八力」とは、具体的には、「動、静、引、弛、凝、 解、分、合」の八つです。 - 36 - <八力示意図> 笠尾:はい。前回、先輩の体道要訣が直感的に理解できた ように思いましたが、以来その理念にも改めて興味を感じ、 今回は自分でも源流までさかのぼって予習してきました。 「八力」とは大本教の基本教理で、単なる物理的な力では なく、宇宙の根源的なエネルギーとしての「力」を意味す るようですね。 川鍋:ええ、そうです。 笠尾:さらにさかのぼると、「八力論」は最初、幕末の熱 ほんだちかあつ 烈な神道学者本田親徳(1822 - 1889)によって霊学的な 万物生成論として説かれた。 「万物は霊・力(八力)・体(三 元=剛体・柔体・流体)の三者によって生成される」と。 それが副島種臣、出口王仁三郎(大本教)ら古神道家に広 - 37 - まり、さらに植芝盛平翁によって合気道の根本哲理となっ た。さらにまたそれが、かつて中野学校格闘術教官として 実戦的な体術を追求した奥山忠男先輩によって空手にも導 入され、新たな武道要訣が生まれた。それを基に自己の修 練を通じて独自にまとめ上げたものが川鍋先輩の「八力武 道」である・・・。簡潔にまとめれば、こういう流れにな るのではないでしょうか。簡潔すぎて失礼なところがあれ ばお許し願いたいと思いますが・・・。 川鍋:我々の言う「力」とは、単なる力ではなく「根源的 な力」を意味する。それを理解していただくことが第一歩 となる。この身は宇宙の中に創造された地球と同様である と、からだを地球に見立てて、そこに大宇宙と同じ「八力」 の原理がはたらいていると見なす。しかし、君がまとめる ように、いきなり「八力は宇宙エネルギーなんだ。八力武 道はそれを駆使する術である」などと言えば、一般には大 げさに聞こえるかも知れない。 笠尾:いえ、決して大げさではありません。これも私なり に単純化して言えば、「宇宙エネルギーを使う」というこ とは、つまるところ「自然のままに」ということになると 思うんです。現役時代、ある時、昇段審査の後でしたか、 初代主将の野口先輩が道場でこんなことを言われた。「合 気は滝に和す。空手は滝を断つ!」と。私はその勇ましさ に奮い立ちましたが、のちになって、滝に和して自然エネ ルギーを使う方が強いんじゃないかと思うようになりまし - 38 - しゅとう た。手 刀一本で大滝に向かう自分の姿をイメージすると、 ちょっと無理しているんじゃないかと・・・(笑)。 川鍋:だが、滝をも断たんとする、その意気は大いに良し ちよろず いくさ とすべきです。私の座右銘とするものに「千 万の 戦 なり ことあ と き おのこ おも とも言挙げせず取りて来ぬべき 男 とぞ思ふ」という歌が ある。 笠尾:古来、武人の愛唱する『万葉集』の歌ですね。 川鍋:私はこれを大和魂を象徴し、武道の神髄を歌ったも のとする。こういう何ものも恐れぬ敢闘精神によって修練 した末に「自然のままに」達すれば、それが最も良いとい うことになるでしょう。最初から「自然のままに」では修 こっけい 行になりませんよ。かえって滑 稽です。 笠尾:この川鍋道場では、八力武道のみを教授しているの ですか。 川鍋:私が学んだものはすべて伝えたいと思っています。 私は空手から体術、そして剣術の順で稽古を続けてきまし たが、その鍛錬法としては、次のようなものを基本と心得、 実践しております。 (1)歩き方・足の運びの稽古 (2)八力の開発の稽古 (3)呼吸の鍛錬 - 39 - (4)上中下の三丹田の鍛錬 この稽古によって、空手、体術、剣などいずれにも通用 する、法にかなった力が身につく。それは単なる肉体的な 力ではなく、呼吸から発する動きや力ということになる。 精神を呼吸に凝らした力や動きが技となって展開すると き、それが理想的な武道となり、ひいては十全の身体機能 を開発する修道の道ともなると私は確信しております。 笠尾:やさしく言い替えれば、八力武道とは単なる対敵技 術ではなく、応用範囲の広い心身開発法でもあるというこ とでしょうか。実はかつて月刊『武道』(日本武道館 2003 年 5 月号)でも先輩のエッセイ「私の思考する武道」を拝 見しました。「武道の『道』とは単なる観念上のものでは ない。現実に働きかける潜在的な力である。それをいかに 稽古に表現していくかということが問われるところなん だ」と強調されていました。私にはそこが強く印象に残っ ております。 川鍋:「心正しからざれば剣また正しからず」という。正 しい心が正しい技を生み出す。それがまた強い心を育てる。 それがさらに技に反映されて、正しく強い剣が身について いく。精神が技術を作り上げ、技術は精神の向上を促すの です。心と体はこういう相互扶助の関係にある。いかに高 邁な理念を展開しても現実的な技術の裏付けがなければ絵 に描いた餅に等しい。その反対に正しい理念や哲学のない 技術は気力・体力に頼る粗暴な格闘技となり、とうてい「武 - 40 - 道」とは言えないでしょう 笠尾:はい、まったく同感です。ところで質問が前後して 恐縮ですが、そもそもこの川鍋道場はいつ創立されたので しょうか。 川鍋:昭和 33 年(1958)、私が 27 歳のときです。創立以 来、何度も移転して、この道場に至りました。 笠尾:ここはコンクリート造りの立派な道場ですね。先輩 のアルバムの中には、木造らしい道場で、アメリカ人がず らりと並んで基本練習をしている古い写真がありました。 川鍋:あれが創設時の道場。市役所のそばだった。二つ目 は厚木駅近く、警察署の裏。当時はこの厚木に米軍基地も あったので、警察官、米軍人なども多数出入りしていて、 なかなか活気があったものです。 笠尾:インターネットで見ると、近年は「KAWANABE(川 鍋)」とか「HACHIRIKI(八力)」が海外でも広く知られて いるようですが、川鍋道場は当初から居ながらにして国際 化が始まっていたわけですね。 川鍋:その中には帰国後、自分で道場をつくった者がいま す。例えば、アリゾナ州ツーソンのエリヒオ・クリエルな ど。彼とはもう 40 年来の付き合いになる。ほかに、ニュ - 41 - ーヨークのカルロス・バロンも自分で道場をもつ空手家で す。彼らはパソコンが普及してからは、インターネットで 活発に情報を発信している。私の名がネットや海外の空手 雑誌などで少しは国際的に知られるようになったのは、こ の二人の積極的な広報活動によるところが大きいのです。 カルロスとエルヒヨ 英国の空手雑誌 川鍋道場 50 周年にて インタビュー記事掲載 笠尾:そういうことを私は最近になって知ったわけです が、なにしろパソコンに「KENJIRO KAWANABE」と打ち 込むだけで先輩の写真が数枚、パッと画面上に現れるのに は驚きました。彼らのブログの中には「八力」や「川鍋空 手道」の解説、川鍋先輩に対する詳しいインタビュー記事 などもある。日本人とはちょっと異なる発想、視点から質 問や解説をしている部分もあるので、私にはとても興味深 く、参考になりました。 川鍋:彼らは私の支部ということではなく、あくまでも独 - 42 - 立した組織ですが、今でも私とは親密な交流関係にありま す。特にツーソンのクリエル君などは、何年かに一度は、 わざわざ長期休暇を取って特訓のためこの道場に通ってく る。その根性にはこちらが敬服するぐらいです。私もツー ソンには 6、7 度指導に行っていますが。 笠尾:春先お伺いしたとき、「今年の 5 月は海外から研修 生が来るので若干忙しい」とのお話でしたが、それも彼の ことだったのですか。 川鍋:そうです。彼の道友で、現在サウジアラビアに土木 技師として滞在中のマイク・シッピオネ君とともに来訪し ました。 笠尾:たしか 7 月にも海外から研修生が来るとのことでし たが・・・。 川鍋:ええ、これもツーソンから。50 代の女性が 1 人。 笠尾:女性の空手家ですか!? 川鍋:いや、職業は大学教授です。数学の専門家。7 月 2 日から 31 日まで連日、熱心に稽古して帰りました。7 月に はもう 1 人、インドからも来ました。そして 10 月はイタ リアから 3 人。また、11 月にはギリシャから 1 人来る予定 でしたが、本人の都合で来年の春に延期になりました。こ - 43 - けいこじん れも実に熱心な稽古人です。空手三段。彼にとっては 3 回 目の研修になります。 笠尾:彼らの具体的な研修目的はどんなところにあるので しょうか。従来の空手だけではなく八力武道として学びた いという者がいますか。 川鍋:私の所に来る者はむしろ八力に関心を持つ者が多 い。 笠尾:そうですか! 我々が大学で学ぶ空手は書道で言え ば楷書、数学に例えれば算数を学ぶ段階だと思います。 「奥 山空手」ないし「八力武道」となると、それはもはや草書 であり、高等数学であり、我々の一般常識を越えるところ があると思うのですが、空手を学ぶ外国人がそういうもの まで求めるというのは正直言って驚きです。 川鍋:率直に言わせてもらうと、空手を学ぶ者には「井の 中の蛙」になって自己満足に陥っている人が少なくない。 だが、歴史的、世界的に視野を広げて見れば、空手は量的 には飽和状態に達し、質的にはより高く、より深いものが 求められていると私は思う。海外から私を訪ねてくる人々 はみな私の説かんとする武道論に素直に耳を傾けてくれま す。 笠尾:それで一つ思い出したことがあります。もう 50 年 - 44 - 近く前になりますが、大学を出て数年後、私はアメリカ大 陸を西から東まで稽古着抱えて無銭旅行をしたことがあり ます。旅の途中、飛び入りでいくつかの道場と交歓稽古し てみて、意外にも生涯武道として空手に取り組んでいる人 が多いのに驚きました。即効的な格闘術として空手に興味 を持つ者が多い反面、社会的にも知的レベルの高い人々が 高級文化の一つとして日本空手道を生涯にわたって学ぼう としている。そういうアメリカの空手風景に日本人として かえってカルチャーショックを感じたものです。 川鍋:それは良い体験をしましたね。日本では卒業してか らでも「学生空手」が中心。海外では、社会人空手が主流 です。当然、生涯空手として取り組む人が多い。それが実 は、空手道本来のあり方ですよね。船越先生も松濤二十訓 の中で「道場のみの空手と思うな」、また「空手の修行は 一生である」と説かれている。 笠尾:先輩は今年おいくつになられたでしょうか。 川鍋:83 歳。きみは? 笠尾:昭和 14 年生まれの 75 歳です。私など近頃、若い拳 友諸君と会っても口先ばかり・・・。80 歳を超えてなお日 々に修練を重ねておられる先輩に接するたび、大いに反省 しております。 - 45 - 川鍋:船越先生に較べれば、私などまだまだですよ。 笠尾:本日も貴重なお話をありがとうございました。今後 も引き続きご指導いただきたく宜しくお願い致します。 川鍋:また、いつでも来てください。楽しみにしておりま す。 川鍋道場 50 周年(2007 年) 完 (文責:笠尾 - 46 - 2014.10.15)
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