解 題 はじめに 近世の博多を学ぶには博多津要録・石城志・石城遺聞・博多古説拾遺・博多記など、戒いは筑前続風土記・同付 録・同拾遺の中の博多に関する記述等数多くあるが、ここに取り上げる﹁近世博多年代記﹂︵仮題︶は上記のものに 全く記されていない記事、また同じ事実と思われるが異同が多くあり、今後近世中期の博多を学ぶには無視すること ができない史料と思われる。 この文書は博多竪町の三宅酒壷桐氏の所蔵されていたもので、昭和三十年代に九州大学の箭内健次教授が代表で文 部省の科学研究費による﹁近世博多の総合的研究﹂をされていた時に、箭内先生に三木俊秋氏と秀村が随行して一一一宅 酒壷洞氏宅を訪れて、ご所蔵の文書を拝見させていただいた時に見出した文書である。広渡正利によれば、三宅氏は 本名安太郎、明治三十五年にご誕生。早くから那土史家として令名高く、仙崖の研究者の第一人者であり、俳人であっ た。民俗芸能に詳しく福岡県文化財専門委員・福岡市文化財保護審議会委員に選任された。古文書、書画、民俗資料 等を多数収蔵されて、﹁長春軒文庫﹂と名づけて希望者には快く閲覧させられていた。私は﹃博多津要録﹄刊行の際 に博多について種々ご教示を受け、ご所蔵の博多古図を複写掲載させていただいたが、おおらかで淡白、面倒見のよ い、かつての古き良き時代の博多人の典型のような方であった。昭和四八年には福岡県文化功労者として表彰されて いられる。昭和五七年ご逝去︵五七歳︶。収集愛蔵されていた一七、 0 0 0余点の全資料は福岡市民図書館に寄贈さ れて同館編集・刊行﹃三宅長春軒文庫目録﹄︵一九八六︶があり、一般に公開されている。 三宅家参上の際に近世博多の文書でこれまで見たことがない文書数点があり、九州大学九州文化史研究所に借り出 されたが、その中でもとくに注目したのは、無造作に綴じられた表題のない五綴りの文書であった。研究所では三木 氏が﹁博多関係記録﹂と仮題を付し、仮に各綴に第一綴1第五綴と番号の紙を付して写真撮影された。しかし写真の 写りが薄く、その上見聞きの綴じ目がよく撮影されてなかった。しかも、その後原本が所在不明となった由で、この -146ー 文書は誰にもまったく読まれることはなかったと思う。 その後﹁福岡県史﹄編纂の際に、私は県史の﹁近世資料編﹂の中に﹃年代記﹂編纂の企画をし、その一巻に筑前回 全般の年代記と幾つかの筑前の村方文書の中の年代記とともに町方文書の中からも年代記を入れたいと思い、この﹁博 多関係記録﹂五綴が元禄期から宝暦期に至る年代記的記述がなされていことを思い出し、これを﹁年代記﹂として入 れたいと思い、文化史所蔵の写真のフィルムをヨリ鮮明にするように業者に頼み、以前よりも多少読みやすくなった が、程度の差にすぎず、綴じ目の部分は当然読めないままであった。しかも筆者である磯野五兵衛の最晩年の筆記で あるためか自由奔放な表現、文字で、その上当て字、誤字、脱字等も多く、きわめて読み辛い文書であったため、県 史に収めるのをためらい断念したのであった︵博多を除いて県史の﹃年代記﹄は平成二年刊行︶。その後も或るカル チュアセンターでの古文書講座のテキストとしても用いたが依然として読み辛かった。その後西日本文化協会で数年 間私が受けもっていた近世古文書講座を閉議する際に、この﹁博多年代記﹂を同志の力で解読できればと思い希望者 を募ったところ、幸いに十人の希望者があり以来七年の歳月この難読の文書の解読を続けた。数行読むごとに喧々誇々、 いつ果てるともない議論になったり、新奇な解釈にとまどったり、多くの文献、資料にあたり関係の場所や人を訪ね たり苦労を重ねたが、仲良く苦心して解読、校注を続け、さらに校正段階で徹底的に見直し、難読の箇所は最終的判 断をして何とか刊行に漕ぎ着けたのである。私としてはこれまで読解に最も苦しんだ古文書で、参加された市民の執 念と忍耐には全く敬服しており、私も参加して、意見を延べさせていただいた。また銀銭、米価等の理解のためにそ の分野の若い研究者古賀康士君に頼り、日頃私が今後の地域史研究のあり方として主張する﹁民学協同﹂でこの難解 な文書に取り組んで、ともかく読み終えることができたのは真に幸いであったと思っている。 この五綴の文書は九州文化史研究所で仮に第一報から第五綴まで番号を付しているが、この順序は文化史で写真撮 影の際に便宜上付した順番にすぎないが、少なくとも第一綴と第五綴と第二 1第四綴りとはそれぞれ内容的には異 なっている。第一綴ははじめ何丁かは失われているが、残りの十六丁の初めの一丁半には元禄1享保期の銀銭、米価 -147- 等に関する記述があり、喪われている前の部分にもおそらく元禄以前の銀銭、米価の記述がなされていたと思われる。 続けて二丁目の裏には﹁拙者家記録﹂の題目が立てられて、以下十五丁半は金屋︵鋳物師︶磯野五兵衛と犠野家のこ と、金屋︵鋳物師・釜屋︶と金屋座︵金屋仲間︶に雇傭された番子のことが記されている。次に、第二、第三、第四 綴は享保から宝暦までの博多の町の推移を年代的に連続して叙述しており、おおむね年月順であるが、乱丁、落丁と 思われる部分もある。このことは凡例に別記しているので参照されたい。また第二綴と第三綴の聞には享保十四年の 記事がなく、或いは一丁位脱落しているのかもしれない。また第三綴と第四綴は年月的には連続しているが、第四綴 のはじめには空白の白紙があるので、或いは第四綴は新しい冊子の初めに何か書くつもりであったかもしれない。もっ ともこの綴の末尾は空白の裏白紙半丁で終わっている。年月、五兵衛の年齢から言ってこれが末尾であろう。 第五綴は他と性格はまったく別で、博多の町奉行、家老、御用勤、執権、大目付、宗旨奉行、附衆本〆、博多御附 衆中、福岡御附衆中、年行司の氏名を列挙したもので、他の綴りとは違う性格のもので、町役として心得べき藩のス タッフの人名でありこれを第五綴としたのは文化史研究所で写真撮影時の順序で重要である。 順序はともかく︵第五綴が最初と考えられないでもないがおそらく現在の順序のままでよいのではないか︶この五 綴が筆者金屋︵鋳物師︶磯野五兵衛と金屋と金屋座、その運上、元禄1宝暦期の博多の町々と人々の生活、事件、事 象、気象等をほぼ年代を追って叙述していており、ことに他の史料に記述されていないものも多く、近世中期の博多 の理解のためには極めて貴重な史料と思われる。 なお博多の古文書、記録では鋳物師・金屋・釜屋、また金屋座・釜屋座・金屋仲間・釜屋仲間は混用されており、 この解題では便宜的に金屋、金屋座に統一した。 ︵秀村選三︶ -148ー 鶴野五兵衛とその一族 ほんや 鶴野本家について 平成二十二年︵二 O 一O︶十一月、犠野本家を訪問し、秀村先生も同行された。犠野元子夫人は、犠野家初代、二 しちひ&号え Lち べ え 代目、三代目の肖像画軸三幅を床の間に掛けて、﹁初めは犠野の姓を名乗り、ある時期磯野と書き、のちに本来の犠 野に戻った。名の読みも初めは七兵衛、のちに七兵衛となる。家紋は永楽通宝である﹂と説明下さり、また本家を 犠野料品市と云われる。当日、﹃磯野家由緒書﹄︵以後﹃由緒書﹄とする︶、﹃磯野本家聖衆位系譜﹄︵以後﹃系譜﹄とす る︶を拝借した。 ﹃系譜﹄の末尾に、磁野泰二郎氏は左の様に記している。 川口町ニアリシ妙行寺ハ昭和弐拾年六月十九日戦災ニテ灰瞳ニ蹄シタルタメ野聞大池ニ移転セラレシモ過去帖焼失 ノ為住職ハ過去帖ノ作成ヲ初メラレ犠野本家ノ資料ヲ依頼サレル。当家ニ於テモ初代ヨリ伝ハリシ系図焼失ノタメ、 第十二代犠野七平保慶ニヨリ明治三十九年︵一九 O六︶ニ作成セシ犠野松和泉︵十一代議野七平親保︶小伝ニ附シタ ル系図ヲ基ニ磁野本家ノ過去帖ヲ作成ス。資料不足ノ為不明ノ点多々アルモ致シ方ナシ。 昭和四十七年七月二十六日第十三代主磯野泰二郎 ﹃系譜﹄に見える、五兵衛の父藤兵衛の死亡年と、﹃年代記﹄に記された五兵衛の出生年の矛盾は、磯野泰二郎氏の たかす 文面のごとく﹁資料不足ノ為﹂であろう。 ﹃由緒書﹄は、宮津平兵衛が筑前高祖の原田家の家臣田中氏へ身を寄せた大永三年︵一五二三︶から、明治四年︵一 八七こ、黒田長知︵十二代藩主︶が東京へ移転の発艦前、﹁御用金﹂の調達を命じられて用達した犠野七十郎親久ま での、三百四十年余の由緒を伝え、﹃系譜﹄は宮津平兵衛の孫、磯野吉左衛門慶満の死亡から始まっている。 分家の家系は、犠野五兵衛の子供の世代までで、五兵衛が﹃年代記﹄に﹁裏糟屋郡萩尾村の萩尾大明神へ奉揚﹂と -149ー 記した宝暦九年 ︵一七五九︶ 二月以後は全く記述されていない。 磁野一族について よしたね ﹃由緒書﹄によれば、犠野家の先祖は、江州伊香郡議野村︵滋賀県長浜市︶の城主犠野刑部の二男宮浮忠左衛門で、 たかす 足利八代将軍義政へ仕え、その子平兵衛は十代将軍義植へ仕え、大永三年淡路島に於いて義植死去の後宮津平兵衛は、 筑前の恰土郡高祖原田氏の家臣、田中氏へ身を寄せて高祖に居住し苗字を犠野に戻したと伝える。 平兵衛の孫磯野吉左衛門は、太宰府の住人九州鋳物師の司、藤野藤左衛門のもとで﹁鋳物職﹂を修め、永禄年中︵一 v 五五八 1 一五六九︶、博多聖福寺前久保小路に居住して鋳物職を営んだ︵以問問削伽鵬一伺間同一甥州地山口約一献川町川醐州問揃誠一u 哩一時一な防相純昨日ト店内初ー︶と記している。磯野家は兵火のため焼失して、恰土郡高祖へ帰住したが、秀吉の町割り が行われた天正十五年︵一五八七︶に再び博多に出て来て、兄磯野吉左衛門慶満︵川挟収日正竹田円紅白︶は金屋小路、 弟犠野又次郎慶利︵酎味﹃一唯一時計回一安↑献ι ﹂︶は大乗寺前町に、家職である鋳物業を再興したという。 磯野吉左衛門は天正十七年、磯野本家初代となる息子藤左衛門が十三歳の時死亡。藤左衛門︵璃団対ゆか州都一ド眠時研一昨、︿一 4服 仁 昨 、 ︿ ﹂ 弘 一 位kp 亡︶の弟又右衛門後惣右衛門は﹁本家に入りて家職を助く﹂と﹃系譜﹄に記されている。 寛永十五年︵一六三八︶二月、﹁嶋原の乱﹂の時、磯野藤左衛門・太田五郎左衛門・太田清左衛門の三人は、陣所 に呼ばれて、﹁石火矢︵大砲︶﹂の玉の鋳立てを申付けられて、人足の賃銭を前受けし、米十二石五斗を受取った。翌 寛永十六年︵一六三九︶十二月二日には、或る事情で太田五郎左衛門・太田清左衛門の両家は断絶し、嶋原へ従軍し た鋳物職の子孫は磯野家のみとなった。磯野の苗字は初代藤左衛門から名乗り、年始礼、松原出を始め、慶事の度々 頂戴の節も罷り出たという。 延宝の頃︵一六七三1一六八O︶、芸州の三木市之進︵三木流砲術の祖︶は筑前博多の犠野家に逗留中であった時、 小川権左衛門邸で、砲術の達人片岡兵太夫津嘉左衛門と会い、芸術見分があった。これを光之︵三代藩主︶達は喜こ び、家臣に砲術の指南をすることを三木に頼み、磁野七兵衛慶永︵三代目︶は、三木のもとで石火矢の鋳立てを修め Fhu nU て、鋳立てた短筒、櫓に納める家臣の持筒共、百二十挺程の内、八十三挺は三木の自作であったと伝える。 その後、筒を熱心に望む家臣には、手間賃無く筒を差出した。その時の物を数通所蔵。三木を推挙したことで、福 岡に﹁三木流﹂伝来となった。 元禄年中︵一六八八 1 一 七 O三︶、磯野家は櫓に備えの玉を鋳立てた。また福岡藩領内で使う鋤二種は、磯野藤左 衛門が鋳立て始めたので、犠野一家に鋳立てを命じられた。﹃系譜﹄七兵衛慶永︵三代目︶の項に、﹁家製の鋤整圏内 専造ヲ国守ヨリ特許セラル﹂とある。その鋤は筑後・肥前・天草・日田で使われ、別名、筑前鋤・博多鋤・木ノ葉鋤・ 四寸鋤・重鋤本土鋤・七兵衛鋤とも呼ばれたと云う。 元禄十二年︵一六九九︶、執権四宮甚大夫・大野忠右衛門は、鋳物師中の﹁金屋座﹂願いに、詮議を以て願いの通 り、磯野七兵衛他併せて十軒にのみ福岡藩領内の﹁金屋座﹂を命じた。この他は後年とも新規の金屋座仕立ては大小 によらず停止となった。鉄・鋳物ともに運上銀高は十五貫目となり、願の通り月割にして翌年正月より毎月、一ヶ年 中銀高相違無く運上の事となった。 葡野五兵衛一族について 天正十五年︵一五八七︶、磯野又次郎慶利は、妙行寺︵福岡市博多区︶の住僧従善︵臨 1錦繍畑一緒初啄︶の頃、妙行寺 の近くに職住の拠点を定めて、寺社に党鐘・鰐口・磐︵吊り下げて撞木で打ち鳴らす楽器︶などを奉納した。 又次郎慶利は、龍宮寺︵福岡市博多区︶に鰐口を奉納。﹁龍宮寺荒神堂ニ、首先祖家印之鰐口有ル成銘ニ、三宝 大荒神慶長甲寅︵十九年︿一六一四﹀︶七月吉田、大工又次郎﹂とある。 延宝元年︵一六七三︶六月、口口口見へ犠野口兵衛正利︵幼名惣太郎二歳︶鰐口を奉納。 天和元年︵一六八二、住吉妙園寺観世音堂︵福岡市博多区︶へ善兵衛︵祖父︶は鰐口を奉納。 天和三年︵一六八三︶六月、祇園宮︵福岡市博多区︶へ磁野五兵衛︵惣太郎十二歳︶鰐口を奉納。この鰐口は子・ 丑の凶年︵恥僻一改交冊一伊14 也 一 一 一 一 市 一 千 弐 一 一 苛γ↑は紅十れ︶に盗まれた。 -151- 磯野五兵衛家の先祖又次郎、祖父普兵衛、五兵衛、及び久兵衛︵五兵衛の子カ︶、五七︵五兵衛の子ヵ孫カ︶の五 人は、寺社へ鰐口を奉納している。五兵衛の父藤兵衛の鰐口奉納記録はない。 貞享三年︵一六八六︶、磯野藤兵衛は、藤七他一人を番子として仕事をした 0・其の時、五兵衛は子供名を惣太郎と 云い十五歳、惣太郎の弟甚三郎は九歳で、又次郎はまだ生まれていない。 元禄三年︵一六九 O︶、惣太郎は十九歳の時、親藤兵衛家の隣家を購入。元禄八年︵一六九五︶に吉兵衛購入の家 と併せて借家とし、段々売買し蔵二棟を建てた。元禄十二年、惣太郎は二十八歳で家を持ち、宝永二年︵一七 O五 ︶ 、 三十四歳の時五兵衛と名を改めた。九市郎・おミや・藤十郎と三人の子供を持った。 正徳二年︵一七二己、五兵衛は﹁銀月行司﹂となり︵四十一歳︶、正徳五年︵一七一五︶、櫛田宮の葺替えには、 町々からの奉加に﹁年寄役﹂として奉加金の取立てに廻った。 享保二年︵一七一七︶、久留米妙蓮寺法要の時、磯野五兵衛・藤兵衛︵惣太郎の弟甚三郎成長後の名であろうか︶ 又次郎の三人は連名で、妙行寺宛に銀百匁ずつ奉加している。 享保六年︵一七二二、五兵衛は年寄役儀を願い上げ、藤兵衛に渡した︵五十歳︶。 享保十三年︵一七二人︶、磯野分家の先祖である磯野又次郎から百十五年目に、笠小兵衛の跡役として、﹁年行司 役﹂を命じられた︵五十七歳︶。 ﹃石城志﹄津田元顧︵斑叫川町一梓⋮一坑川町⋮肱一日れ、︶著に、﹁享保の年行司十一名の中、磯野五兵衛は大乗寺前町ニ住、今 の釜屋五兵衛の父なり﹂と書かれている。津田元顧が﹃石城志﹄を執筆の頃、九市郎または藤十郎が父親の名前を継 承していた事になる。享保二十年︵一七三五︶二月二十八日御役所記録に、﹁右之通名付以永々記録也﹂と記されて .いる六人の金屋の一人、大乗寺前町上金屋磯野久兵衛︵五兵衛の子カ︶は、宝暦九年︵一七五九︶二月以後に、五兵 衛を継承したのであろうか。﹃年代記﹄には﹁享保六年︵一七二二、年寄役を願い上げて藤兵衛に渡す﹂とあり年寄 役の件以外何の記録もない。 -152- 五兵衛は、年行司として﹁大飢鐘﹂﹁博多の行事﹂﹁能、芝居、相撲﹂の記録、及び私的記録も記している。 享保十五年︵一七三 O︶七月、風雨のため五兵衛の抱屋敷︵厨子下︶は倒壊し、﹁其節芦屋船に手前釜・藤兵衛釜 ・積み移し須崎にて破船致﹂とある。元禄十三年︵一七 O O︶より﹁大坂釜座本﹂を長年努めてきた磯野五兵衛家の災 難である。船頭は波戸場番所に届けず入船のため、藤兵衛・久兵衛は番所・浦方役所へ願い上げを差上げた。 享保十六年︵一七三こ十二月一日朝、﹁日蝕﹂。悪風が吹き、毒が降るという噂が流れて、朝から昼まで外出しな い人もあった。五兵衛は九僚家の薬の処方による煎じ薬を飲み、彼方此方へもこの煎じ薬を配った。 享保十七年七月一日、櫛目前町︵福岡市博多区︶停四郎家は、善三郎・藤兵衛他一同で吹立ての時、西あなぜの風 で屋根裏が火事となるが早速消火した。町中集まり、役人達が出向き、停四郎とその家族・善三郎・藤兵衛・町中の 口上書きと絵図を奉行へ差出した。奉行は﹁先ず、金屋両人穏便に﹂と命じ、翌日善三郎・藤兵衛は禁足を命じられ たが﹁大戸・蔀はおろすには及ばず、随分密かに﹂とのこと。当時藤兵衛は年寄役儀、自分は年行司役を勤めており、 五兵衛は役所へ罷り出で﹁大戸・蔀を下ろし申筈、この儀は何分仕るべき哉﹂と用番附衆に相談したが、四日には﹁御 免﹂になり、五兵衛は役所、役人衆へ札に廻った。年行司の格式がなければ、磯野五兵衛家は大変な難儀を背負った 事であろう。 福岡藩は、町家の格式として、豊前中津から加水・長政に従って筑前に入国した、大賀宗九を祖とする両大賀家を 筆頭とし、﹁大賀﹂に次ぐという意味で、以下﹁大賀並﹂﹁大賀次﹂﹁大賀格﹂などの格式を附与した。やがてそれは ﹁御用銀調達﹂の為の施策へと変質した。﹁年行司﹂などの富裕町人や豪農は、蓄積した財力で窮民救済その他社会 奉仕・藩への献金などによって、苗字・帯万のご免・絹服着用等の特典を得たとある。︵﹃石城志﹄より︶ 享保十七春より、十八年は﹁大飢僅﹂であった。五兵衛は大飢鐘時の津中在々の苦難、役所の対処を書いている。 番子・町の衆へ米・銭を少しずつ分け与える、これは格式による窮民救済時の社会奉仕であろう。 同年十一月金屋座の一人、三郎右衛門改め善三郎は運上金支払の工面は出来ず、不納分百三十七匁七分二厘は年々 -1日 一 久兵衛が上納した。善三郎座は久兵衛が買い取り、役所帳面にも磯野久兵衛と書留められた。善三郎は万端納得して 家屋敷を明け渡し、十九年︵一七三四︶正月、善三郎の細工場は磯野久兵衛の所有となった。久兵衛は元文五年十一 月、土居町惣右衛門大羽釜下しの節、﹁この方久兵衛見当て、仲間中に申出候﹂とある。磯野久兵衛は、この方則ち、 犠野五兵衛の右腕として活躍する五兵衛の子供、九市郎・藤十郎のどちらかであろう。五兵衛は﹃年代記﹄の中に子 供達の成長後の名前を明記していない。 享保二十年︵一七三五︶二月二十六日、槙長左衛門・岸田瀬兵衛両町奉行月番は、五兵衛及び金屋中を呼び出し、 郡懸り矢野六大夫より飯塚孫兵衛に仰せ付けられた﹁金屋座相止メ申儀﹂の手紙の趣を読み聞かせ、﹁この手紙は後 年に至り証拠となる。書写し、金屋中へ一通ずつ渡すように﹂と五兵衛に命じた。 この年二月二十八日、御役所記録に金屋中名付けとして、柴藤小四郎他五人の中に、大乗寺前町上磯野久兵衛の名 前があり、﹁右之通名付以永々記録也﹂と記されている。大坂釜座本と金屋の肩書きを持った犠野五兵衛一族である。 享保二十一年︵一七三六︶四月、櫛田宮は普請、九月には遷宮、棟上げと続き、磯野五兵衛も年番として出る。櫛 田宮普請相談が決まり、宮司座敷で祝いの席上、優雅に歌を詠む博多町人磯野五兵衛も見える。 ﹃博多津要録﹄巻十一には、櫛田宮本社成就。還幸あり、井に棟札銘には、元文二年︵一七三七︶十一月十七日、 家老六名、及び年行司六名の中に磯野五兵衛︵正行︶の名前を見る。 元文五年十月、須崎町上平三郎大坂羽釜下しの件で、五兵衛、金屋中は隅田清作月番役所へ呼び出されて、月番よ り詮議の趣を聞かされる、月番の言葉﹁大坂釜は元禄十三年金屋座始まる年、座本を命じた時から五兵衛方を指名し、 今以て何の差支えもない、これ以後も何の差支えもないように。此外は、大坂釜下し申さず候様に致べく候﹂。年行 司の不祥事が取り沙汰される時期である。この年五兵衛は役儀御免になったが、﹁此儀町−一拙者儀宜沙汰有﹂と記して いる。六十九歳であった。同五年十一月六日には、天和三年六月、惣太郎︵五兵衛の幼名︶が十二歳の時に奉納して、 子・丑の凶年に盗まれた祇園宮の鰐口を、赤金で一尺六寸、掛け目二十六斤の鰐口に鋳立て、改めて祇園宮に奉納し -154ー ている。 延享三年︵一七四六︶の麻疹流行、及び宝暦二年︵一七五二︶癌措流行の時には、擢病した家内こりよ・惣次郎・ 清七・与八・おひさ・五三郎、唐人町に住む金助・おミやの症状、癌宿の手当・食事療法を記している。治癒後は、 ﹁癌婿祝﹂として赤飯を町中残らず配っている。ここには家族の健康に一喜一憂する老年に至った五兵衛が健在であ り、家族の名前もほず判明する。 鶴野五兵衛の年齢及び、終藷について 貞享三年、父藤兵衛の子供は惣太郎十五歳。元禄三年家を購入時は十九歳。宝暦三年︵一七五三︶八月二日、六条 3bか一﹂匂似t F一段一附倒的vhト肱ト羽r恥料開一腕前恥一日早本願寺︶よ ︵東本願寺︶の使僧は五兵衛に云う。﹁教如上人︵鰍酬叫ん鵬 ι城崎− り八代の間犠野氏は続き、五兵衛は八十二歳まで長命に暮らし、まめやかに居る、耳も遠く猶目出度い﹂と。この三 ケ所に五兵衛は自分の年齢を記している。この年齢を根拠にすれば、磯野五兵衛の誕生は寛文十二年︵一六七二︶生 まれである。宝暦九年二月、裏糟屋郡萩尾村の萩尾大明神へ奉揚犠野五口口口口、とあるが何を奉揚したのか不明で あるが、この時五兵衛は八十八歳であろう。 寛延三年︵一七五 O︶八月、五兵衛は七十九歳の時、妙行寺の墓所二間一間半の所を銀百三十目を出して借り切る。 妙行寺から墓地を抜けると其処は磯野本家。分家からも妙行寺は目と鼻の先であった。妙行寺の墓所を借りるまで、 分家磯野家は先祖の供養をどのように執り行っていたのか、﹃年代記﹄の中に自分の先祖に対する供養の記録は見当 たらない。菩提寺妙行寺への寄進は様々に記している。犠野本家に伝わる﹃系譜﹄には、磯野分家の又次郎慶利、善 兵衛慶専・正人・善太郎・藤兵衛︵贈時点鵠錨⋮開銀︶・宇兵衛の名前もあり、本家はこの六人も先祖として、平成二十四 年︵二 O 二 一 ︶ の 今 日 も 、 月 毎 に 妙 行 寺 に よ っ て 手 厚 く 供 養 さ れ て い る 。 ︵ 中 村 順 子 ︶ -155- ︵金屋小路後土居町︶ 平兵衛孫 磁野吉左衛門慶満 角=~ と 親 邑「一一斗 慶 門) 貞 弟 善太郎 弟 弟 lil− − 五 兵 衛 改 普 兵 衛 慶 専 | ﹂ l 藤兵衛 「一一~ 1 又次郎 ︵四代︶ |七兵衛慶珍 正 永 I藤十郎 ーおミや 慶 七( 兵三 喜弟 右 孫( 右二 衛代 普弟 三 郎 鶴野家系図 ︷宮湾忠左衛門の子︶ 宮津平兵衛 ︵大乗寺前町︶ 門 鹿 ︵中村順子︶ おミやは子年生まれ、藤十郎は亥年生まれと十二支のみ記載のため、兄弟の順序は不明である。 代記﹄から掲出した。子供の生年月日について、九市郎は元禄十二年八月十七日出生とある。 宇兵衛は﹃磯野本家聖衆位系譜﹄から掲出した。磯野五兵衛の兄弟及び、子供三人の名前は﹃博多年 *磯野家系図 本家磁野士口左衛門慶満とその子孫、及ぴ分家磯野又次郎慶利、善兵衛慶専・正八・善太郎、藤兵衛・ 八 平兵衛孫 磁野又次郎慶利 塑衛 口 ) 語 門 1 甚三郎 「一一~ 一弟 ﹁宇兵衛 俊右 藤( 左初 衛代 合又弟 正弟 日 金屋・金屋座と番子 ﹁筑前続風土記﹂には遠賀郡芦屋里に鋳物師の良工あり、元祖は元朝より帰化した良工で禁中にも作品を献上して おり、芦屋の山鹿に居住したので山鹿姓を称し、長政入国の頃まで芦屋にいたが、その後博多或いは姪浜に移り、そ の中の太田次兵衛はすぐれた良工であったと記している。また、この﹁博多年代記﹂の筆者、犠野五兵衛の家は前節 に書かれているように近江の出で筑前高祖に来たと伝え、太閤町割の時より博多に居住したもので、島原の乱の時に は太田・犠野の両家は黒田忠之の軍勢に従軍して鋳物師として兵器、弾薬の鋳造に尽力し、忠之より厚く賞与される のを固辞し、後年に願い出たときには、その願いを聞き入れてくれるようにと願って許されたが、そのことは後年に 大きな意味をもったのであった。 この博多年代記の五綴のうちの第三綴には、享保十五年︵一七三 O︶六月公儀︵幕府︶より博多鋳物師の由緒につ いてお尋ねがあり、﹁公儀御尋被為成候事﹂として太田次兵衛より三通の文書︵もっとも明らかに偽文書と思われる が、それなりに権威あるものとされた︶を書付けて差し出したことが見えている。幕府は御蔵真継美濃守安網に諸国 の鋳物師の支配を命じ、各国に惣官鋳物師をおいて新規鋳物師を禁止して営業独占権を認めることにしたが、実際に は近世の真継家の支配は近畿・関東・北陸を核とするものの、広く全国に及ぶものではなかった。むしろ後には真継 家への編成を拒否した八日市金屋鋳物師や京都三条釜座などもあり、ことに全国的ネットワークをもって展開した近 江田辻村の鋳物師集団があったといわれている︵横田冬彦﹁鋳物師﹂、塚田孝編﹃職人・親方・仲間﹄︶。 近世九州では真継家の支配は、実質的にはほとんどなかったと思われる。前掲の太田家より差出した文書写には太 宰府九州惣宮地頭職として鋳物師東藤衛門尉藤原康秀・平井大炊助藤原秀光等々が見え、ことに文書を偽造し公然と まかり通らせるに成功した真継久直の名が見えるが、中世から近世への変革期について網野善彦は﹁支配者層が文書 の真贋について驚くべく無神経であったことは間違いない﹂と言っている。︵網野善彦﹃日本中世の非農業民と天皇﹄ -157- 五二三頁︶。 もっとも磯野家の系譜には中世末に犠野吉左衛門が太宰府の住人九州鋳物師の司藤野藤左衛門のもとで鋳物業を修 業したと伝えていることは太宰府に鋳物師が居たと思われ、また佐賀藩において支藩小城鍋島家の家臣の鋳物師と大 配分の鍋島生三家領の鋳物師とが争ったときも、後者がその根拠に太宰府の鋳物師平井家の許可を得ているとして 争ったことがあり︵清水雅代﹁鋳物之司職日出島家と佐賀藩の鋳物業﹂︿﹁幕末佐賀科学技術史研究第六号 2012V︶、また太宰府に真継家支配という名目のもとに、この地方の鋳物師支配をした平井家があったと思われ る。また筑後瀬高には平井惣兵衛家があり、羽犬塚にはその本家平井家があって、双方が柳川藩立花家から代々惣司 職を賜ったと報告されている︵ webサイト﹁庄福BICサイト﹂の中の﹁瀬高上庄の鋳物師平井惣兵衛﹂︶。 福岡藩では、近世初期はともかくこの年代記の時代の元禄以降には金屋座の成員は博多の九家と甘木の一家のみに 限られている︵甘木には鋳物師の一家がある︵﹃甘木市史資料近世編﹄第五集六人頁。おそらくこの家は近世初期 以降いたのであろう︶、これら十家はあくまで藩の統制のもとにあった。年代記では金屋の運上が始まったのは元禄 十二年と翌年の元禄十三年を記しているが、おそらくこの年代に藩は金屋座を厳しく統制し、運上の確保を把握して 絶対に他の支配を入れることはなかったと思われる。 博多年代記によれば橋口町柳屋普左衛門により貞享三年︵一六八六︶に﹁金屋運上﹂が始まり、元禄十二年︵一六 九九︶に唐人町角屋六郎左衛門が運上を請け、元禄十三年には金屋座が成立し、鉄・釜・大鋤・相ひこ︵筆者は未知、 乞御教示︶の古金の運上額が定められた。銑の運上請方の十人であり、このうちに甘木の者一人が入っている。その 後金屋座十人の内一人は家が倒れ、また他の二人も家業が取続きできなかったため、運上は他の七人で上納し、その 後は後者両人の運上は銀高を減少して納め、享保十六年︵一七三一︶八月には、後年経営が回復すれば前通りに上納 することと決めている。享保二十年二月にはおそらく藩としては不足分の補填や釜屋座へ運上金額の増加を促す意味 もあったのであうか、飯塚の古川孫兵衛にも釜屋座を仰せ付けられて、金屋座としては一応承知したものの、あとで -158- 金屋座で協議して願書を出した。年番が病気のため犠野五兵衛が年番方へ提出して、さきに島原の陣における太田・ 犠野家の功績への賞誉は、後年に至って金屋より願い出でた時には聞き届ける旨を藩主忠之が許したことを述べると ともに、金屋座としては前述の運上の上納不足分と後二人分の上納は金屋座より上納することを申し出て、当職吉田 六郎太夫からの達しによって飯塚古川孫兵衛に御免の座は取止めとなり、その旨を記したお手紙を五兵衛に読み聞か せて、さらに金屋座の銘々の者もこの手紙を写し取り、一通充ずつ保管するよう命じたのであった さらに延享二年︵一七四五︶︶十一月に金屋町の茂平が石火矢・鉄砲の製作を藩に願い出たが、金屋座としては、 さきに元文二年︵一七三七︶八月に金屋町与市郎が先祖以来鋳立ての石火矢鉄砲の鋳立てを願い出た時に、石火矢・ 鉄砲の鋳立ては金屋座として何時でもできること、さらに先年の飯塚の孫兵衛の座取止めの事情をも述べて、与市郎 の願いをやめさせて金屋座の特権を守ったのであった。これらの事例によっても金屋座がその特権を守るのには如何 に深く配慮していたかがわかる。それは特権を守るだけでなく、それに応じる技術を守るためにも当然きびしく心を 注ぎ、その伝承に熱心であったと思われる。 また元文五年︵一七四 O︶に博多町一般に対して新運上決定の御書き出しがあり・博多・福岡両市中の者四千六百 人は組合ごとに寄合い、町々年寄よりも各運上口々よりもそれぞれに存知寄書を差し上げて、各仲間として、また博 多の会町として慎重に協議して両年行司︵その一人は磯野五兵衛︶が町役所に減額を願い出ることによって新運上額 が減少されたのであった。かかる場合に仲間の団結がいかに重要であったことを示している。 次に金屋には仕事の補助をする職人として香子がいた。番子は﹃古事類苑﹂の﹁楽舞部﹂には下級の楽人として見 えるのみで一般の辞書などには見えず、僅かに﹃野史呼び名辞典﹄に﹁広島・製鉄業で踏輔踏み作業者、踏輔踏み・ 雑用係り、九州では徒弟、佐渡では鍛治の雇い﹂と見え、この博多年代記では金屋に雇われた補助的な職人をいうよ うである。また﹁博多津要録﹂には刀工の職人としても見えており、広い意味で鉄を扱う職人をいう言葉であったと 思われる。 -159ー この番子に金屋座としても、また福岡藩としても他国へ出ることを禁止していた。年月は不明であるが、元禄1事 保頃に先年香子が佐賀に行き細工をしたために博多の金屋の技能が佐賀へ移ることを警戒し、町奉行に願い出て引き 戻した。その後も三人の番子が日田へ商売に行くと云って往来切手を受けて行ったが、日田で釜細工をしていること が分かり、呼び戻して手錠を打ち町中預かりで、やがて許されたと記している。 さらに元文五年︵一五四 O︶十二月に犠野五兵衛の番子が犠野より離れて他家へ勤めていたが、その家が続かず、 甘木に行き細工をしていたが、彼を金屋番の善左衛門が呼ぴ返して五兵衛方に再び勤めることになったが、この者は 甘木に居た時の借金は返却したけれども、他にも借金があったため、五兵衛より数度借金することによって返却し、 寛保二年︵一七四二︶より五兵衛のもとに勤めるようになった。 これまでも番子が他地方へ移ることは金屋の技能が他に移転するのを防止するために旅出は禁止されていたのだが、 右のことがあったので寛保二年︵一七四七︶八月には番子を残らず町役所に呼び出して、他領へ出ることを禁じたの であった。同年十一月にも同様の記事がある。このことは経済的にも、また藩にとっては軍事的な意味もあり、釜屋 の特権を重んじたのである。 同様なことは﹁博多津要録﹂には大工についても記されている。近世も中期になると前期の城下町建設のごとき大 きな仕事がなく、近年生活が苦しくなったので佐賀藩領や日田幕領に移住して仕事をしていたのを大工仲間から福岡 に引き戻し、藩としても以後他領へ出ることを禁止したのであった。金屋と同様に大工の技能は福岡としてもその技 能が他領へ伝えられることを警戒し、藩としては軍事技術にもかかわることであり禁止したのであった。︵なお本項 については別の機会に小論を書くつもりである。︶︵秀村選三︶ -160- 綱政1継高時代の福岡藩 福岡藩第四代藩主黒田綱政から第六代藩主継高までの福岡藩の変遷を、﹃博多年代記﹄の中に見ていこう。 黒囲網政の時代 福岡藩第三代藩主黒田光之が隠居して四男の綱政︵一六五九 1 一七一一︶が第四代藩主になったのは元禄元年︵一 六八八︶十二月であった。十九年後の宝永田年︵一七 O七︶五月光之が福岡城で死去し、その法事が終わると同時に 光之の側近に対し粛正が始まった。その矛先は、先ず家老の鎌田八左衛門親子と立花五郎左衛門︵実山︶に向けられ た。鎌田八左衛門昌生と子の九郎兵衛は、東長寺での法事が終わった翌日の六月六日に逼塞を申し渡された。その理 由について、﹃近世福岡博多史料第一集﹄︵﹃長野日記﹄西日本文化協会九三頁︶には、﹁思召有之、趣ハ不相知﹂ ︵殿様のお考えである。理由はわからない︶とあるが、市中では﹁先札遣ノ儀ニ付﹂︵この間からの藩札流通につい て︶と藩札の流通に原因したとの噂があった。 福岡藩は財政不足を補うために、元禄十六年︵一七 O三︶、幕府に藩札流通を願い出許可を得ると、元禄十七年 H 宝永元年︵一七 O四︶正月より藩札の流通が始まった。その中心となって政策の実行を任されたのが、家老の鎌田八 左衛円であった。この政策は効を奏せず、物価の高騰や藩札の価値の下落に陥った。宝永田年︵一七 O七︶五月二 O 日ごろは藩札の価値は半分以下になり、諸物価は二倍1三倍に騰がった。幕府の命もあり、同年八月十四日藩札の流 通は中止となる。その藩札流通失敗の責任を鎌田親子が負わされたというのである。その年の十月二六日、鎌田八左 衛門は﹁かま郡﹂︵実は宗像郡︶八並へ、息子の九郎兵衛は志摩郡障子岳へ逼塞させられた。また、隠居した光之付 の家老であった立花五郎左衛門︵実山︶の罪状はわからないが、﹁在へ参り行方不知、役人たたきころし申候と聞く﹂ と、その非業の死が市中で噂された。そして、五郎左衛門の弟千太夫は小呂島へ流され、宝永五年︵一七 O八︶一一一月 亡くなったという。鎌田八左衛門、立花五郎左衛門の他、光之に取り立てられた家臣たちの減石、役替え・屋敷替え EU なども行われた。 しかし、網政は、宝永八年︵一七一一︶ H正徳元年六月十八日に福岡城で没し、同年八月十一日に二男宣政︵一六 八五1 一七七七︶が第五代藩主となった。光之存命の聞は遠慮があった網政が、自分の思い通りに藩政を指揮できた のはわずか四年間であった。 黒田宣政の時代 宣政の治世になると、家老であった隅田清左衛門以下網政に取り立てられた家臣たちは、減石・役替え・屋敷替え となった。又、公金米の支配に携わっていた有力町人三人も不正があったとして、城下から三里の立ち退きを命じら れ、家屋・金銀類が召し上げられた。 藩主になった宣政は、正徳二年︵一七一二︶三月一一一日江戸を発ち、四月二一日国入りをした。箱崎松原で家臣や 町人たちの出迎えを受け、九月には家中の者および主だった町人に﹁御料理﹂が振舞われた。正徳三年九月に参勤の ために江戸へ登った宣政は、翌年の四月帰国の予定であった。しかし、それより前の三月一五日、江戸からの早飛脚 は、﹁殿様﹁おたんくわ﹂わづいなされ候﹂という内容のものであった。宣政の帰国は延期され、家老の黒田美作や 郡平馬などが急ぎ江戸へ登った。四月一六日には、幕府に直方藩主黒団長情の嫡子菊千代︵後の継高︶を宣政の養子 に願い出、四月二一一一日には許可されている。宣政は病気扱いとなり、藩主の役目である長崎警護や福岡藩の家中のこ とについては、直方藩主が後見をすることになった︵﹃長野日記﹄二ハ一頁︶。長崎警護は、異国船の渡来を警戒し て寛永十八年︵一六四こから始まり、福岡藩と佐賀藩が、一年交替でその任に当たるものであった。 宣政が藩政から遠ざかっている問、福岡藩では様々な難題が浮上していた。享保二年︵一七一七︶の三月から翌年 の四月にかけて、﹁官人船︵中国船︶二十般程﹂が黒埼・若松の沖へ集団でやって来た。それまで漂着と称して数艇 の中国船が北部九州の沿岸にやって来ることは度々あったが、この時は集団でやってきたのである。幕府からは、長 門・小倉・福岡の三藩で追い払うよう指示があり︵﹃通航一覧﹄第五巻国書刊行会二五 O頁︶、家老を始として、 -162ー 家中の頭立つ者が入れ替わり立ち代り若松へ出かけ、足軽や浦人を指揮して追い払いの任にあたった。中国船に立ち 退くよう命じたがなかなか従わず、とうとう鉄砲が使われ死者が出た。この官人船の来航目的は﹁当地に出買段々有﹂ とあり、抜け荷の売買が目的であった。 また、享保四年︵一七一九︶七月二十八日の夜、︵八月一日﹃長野日記﹄一一一一一頁︶朝鮮通信使の一行﹁四百七八 十人﹂が、﹁官人船六船﹂で福岡藩領の相之島へやって来た。徳川家康の要請で始まった朝鮮通信使の来聴は、概ね 将軍の代替わりを以って行われた。享保四年は、六月の初め頃より接待のために福岡藩から大勢の藩士が相之島へ出 向き、準備を進めていた。しかし、二十四日からの台風による強風と高波のために相之島への通信使の到着は遅れた のである。そして、八月十一日に江戸に向けて出港したものの、また強風と高波のために航行できずに、地島へ引き 返し﹁四、五日﹂留まった。この時の強風と高波による被害は甚大で、﹁三十般﹂の破船と六十1七十人の犠牲者が 出たという。朝鮮通信使を迎えるというのは、藩にとって大事な役目であり、半年前から準備にかかっている。通信 使だけではなく案内役の封馬藩士への接待もあり、滞留が長引けば長引くほど、出費が嵩む。この時は、十八日間の 逗留で︵﹃福岡県史﹄通史編福岡藩︵こ﹄五五六頁︶、福岡藩は大きな負担を強いられた。二十九年後の延享五年 ︵一七四八︶四月に相之島へやって来た朝鮮通信使の一行のように、往路・帰路ともに滞在が一日というときもあれ ば、享保四年の場合のように、天候の具合によって滞在が長引き大きな被害と犠牲を出し負担が多大なときもあった。 黒田継高の時代 享保四年十一月一一一一日、宣政は隠居し、継高︵一七 O三1 一七七五︶が福岡藩第六代藩主となった。福岡藩の後見 役であった直方藩主黒田長清は、翌享保五年︵一七二 O︶二月一一一二日に江戸で死去した。継高が本藩の藩主となって 三ヶ月後のことである。直方藩は本藩の福岡藩に返還されることとなり、その年の五月二四日に、継高は福岡藩主と して初めての国入りをした。そして、五日後の二九日には長崎警備へ出立した。十月二五日から、藩主国入りの祝賀 がはじまり、﹁御用銀﹂を差上げた博多・福岡の町人へも十一月一二日に料理が振舞われた。翌年九月一八日、継高 -163- は初めての参勤で福岡を発った。 享保六年︵一七二ニ、家老の吉田六郎太夫︵式部︶が隠居し、息子の又助︵栄年︶が家督を継いだ。年若くて大 藩を背負った藩主継高の相談相手は限られていたのか、家中に亀裂が生じ家老聞の対立へと発展していった。その原 因は、郡正太夫父子とその取り巻きによって藩政が左右され、他の家老たちがそれに反発したことによる︵﹃福岡県 史﹄通史編福岡藩︵二︶二八七頁︶。家中の対立は表出し、市中にも﹁御家中さわぎ﹂として知れ渡った。享保十 二年︵一七二七︶の六月には落ち着いたのか、七月から九月にかけて役替えや、不正を行った者に対する処罰が行わ れた。蔵奉行たちの﹁悪事﹂も暴かれた。家老の野村太郎兵衛︵御勝手方元締︶はその責任を負わされ﹁御暇被仰付﹂ 瓦町下屋敷に入り、息子の小太郎が中老となり新規に三千石を賜った。 福岡藩の経済は恒常的に逼迫していた。藩はこの財源不足を打開するために、上米・倹約・雄高制などを導入して 藩の収入増の対策を講じたが、改善することはなかった。継高の藩政時代も同様の財源不足で、緊急に逼られると、 博多・福岡の富豪の者に御用銀が課せられた。享保十五年︵一七三 O︶二月、藩主の帰国に際して財源不足のため、 藩は博多・福岡の町人に三 O O貫目の﹁御当用銀﹂を命じた。しかし、余りの大金のために、この時は町人側が﹁段々 御断申上﹂、結局福岡・博多の両町合せておよそ五十貫目を指し出したという。翌年もおよそ六十貫目の御用銀を命 じている。ところが、それに追いつかない出費の必要に逼られた。 享保十六年三月十七日、江戸麻布の下屋敷が類焼し、家臣の住む長屋一軒が残るのみでそのほかは消失した︵﹃長 野日記﹄二九七 1三O三頁︶。そして、その約一ヶ月後の四月十五日には、江戸の大火で桜田の上屋敷がほぼ全焼し た。莫大な修復費の必要に逼られた藩は、その費用を捻出するために、在方へ前納米三万俵を命じ、博多・福岡の両 町へ三 O O貫目で買わせ、費用に当てようとした。加えて翌年の享保十七年は、最悪の年であった。天候不順で西園 地方は大飢鐘に見舞われた。麦の刈り入れの時期から長雨が続き、田植えが終わると﹁こぬか虫︵ウンカ︶﹂が稲を ﹁食いからし﹂、米の収穫の見込みがなかった。七月には﹁御国中田方三拾四万六千石皆損﹂の書出しが出され、米 -164- 価は高勝した。人々は飢え、在からも飢えた人々が博多の町へ物乞いに集まった。同時に病気が流行ったために、死 者の数は移しかった。享保十八年︵一七三三︶春の宗旨判形は秋に延期され﹁改斗誓詞なし﹂︵人数の確認だけで、 誓詞は取られなかった︶とある。この飢鐘による死亡者は六万人1七万人で、人口の約二 O %にあたる︵﹃福岡県史 通史編福岡藩︵二︶﹄九九頁︶。人的被害が余りに多かったために、人数を確認するだけで精一杯だったのであろ 。 っ 、福岡藩の財源不足の実態は、﹁町方御払方滞銀米被渡候定書﹂にもみる事が出来る。﹁町方御払方滞銀米被渡候定書﹂ は、元文元年︵一七三六︶六月に町奉行名で出されたものである。藩が町方から買った品物の﹁御買物代銀﹂が未払 いになっていて、その支払い方法について出された定書である。網政代の滞り分の三分の一と宣政代の滞り銀の半分 を二十年賦で、﹁当代﹂︵継高︶の分は二十年賦で返済され、残りは﹁捨てり﹂というものであった。この定書の通り に返済が行われたかどうかはわからない。江戸時代中期の福岡藩の経済状態が、あちこちでほころび始めていたこと がわかる。 寛保元年︵一七四二年九月の参勤から﹁殿様惣りく被成、惣代御家中御用登も惣りくニ成・申候﹂とあり、此の年 から参勤の全行程が陸路となり、公用で江戸へ行く家中の者も大方陸路になった。陸路の方が安全性は高いが、経済 的にはどうだつたのであろうか。﹃福岡県史通史編福岡藩︵こ﹄の﹁二参勤交代制の展開と実態﹂によると、 ﹁船の建造・修復﹂の費用が不要で雇いの水主もいらないことや﹁旅費節減の余地が残されており、これが藩財政担 当者に好まれ﹂たとある。 延享元年︵一七七四︶八月一一一日の江戸からの報せは、前藩主宣政の死であった。その月の十日、江戸︵白金邸︶ で死去した宣政は、﹁町人痛不申様ニ触事可致﹂︵町人に迷惑がかからないように触れを出すこと︶と遺言をしたとい う。翌二二日の朝出された﹁御触﹂は、音楽・作事は十四日の停止、諸職人の商売は﹁遠慮ニ不及﹂というものであっ た。﹁おたんくわ﹂を患って以来、藩政から降ろされた宣政ではあったが、遺言の内容からは穏やかな晩年であった -165- かと推測される。﹁おたんくわ﹂という病がどのような病気か不明であるが、宝永七年︵一七一 O︶に兄吉之が二九 歳で亡くなり翌年の正徳元年に父綱政が亡くなったことで、心構えが不十分なまま藩主の座に着いた宣政にとって、 心の負担が大きかったのであろうか。宣政は、六十年の生涯を終えた。 宝暦七年︵一七五七︶、藩は財政窮乏から脱しようとして、﹁御切手銀﹂を発行した。いわゆる藩札である。必要な ときに切手の免換が出来るように、両市中の﹁家屋敷所持﹂の者︵身上が良い者︶たちから出銀を募って開始された。 しかし、この政策も宝暦八年︵一七五人︶十二月二十日には取り止めになった︵﹃博多津要録﹄第三巻四二六頁︶。 ﹁御切手銀﹂は、元禄十六年︵一七 O三︶の藩札発行の時と同じように紙くず同然になってしまったのである。 恒常的な財源不足に陥っている福岡藩は、あの手この手で財源を確保しようとした。﹃博多年代記﹄には、十七世 紀後半から十八世紀半ばにかけて、活発な経済活動によって力を持つようになった福岡・博多の町人の金力を後ろ盾 にしないと、藩を維持することが難しくなりつつあった福岡藩の様子が見えてくる。︵森弘子︶ 博多の町と生活 年行司 貞事から宝暦にかけての約七十年聞を対象として書かれた﹃博多年代記﹄から当時の博多の町と生活の一端を窺い 知ることができる。 古代・中世を通じて我が国の代表的な交易都市・自治都市として発展してきた博多は、戦国時代には大内・大友を はじめとする群雄の争奪戦で焦土と化し、壊滅的な状態にあったが、秀吉による町割りを経て再興した。その後黒田 長政の入国によって那珂川を挟んだ東側の博多に対して西側に城下町としての福岡が形成され、商人の町としての博 多とともに両町や両市中などの呼び方で二つの町が並存してきたのである。 -166- しかし両町といっても、どちらも行政的には黒田家支配の城下町には変わりはなかったが、町の歴史や成り立ちに よって自ずからその性格は異なったものにならざるをえなかった。 特に博多は中世以来大きな変貌を遂げてきたが、為政者は底流にある自治の仕組みゃ伝統・文化などを無視するこ とは出来ず、むしろそれらを町人支配に積極的に利用してきた。このことは自治の仕組みとして従来からあった年行 司を藩政時代に行政組織として残したことにも見受けられる。 博多は秀吉による町割りによって、流︵ながれ︶という主要道路︵竪筋または横筋︶を基本とした区域が七つ置か れ、ひとつの流は十カ町前後から十数カ町で構成されていた。町にはそれぞれに年寄、その下に組頭が置かれた。 流は須崎流・魚町流・西町流・石堂流・土居流・東町流・呉服町流の七流であった。これら七つの流をまとめる行 政上のトップとして年行司が複数人おかれ、藩政初期には十二人を数えたが、時代が下るに従ってその数は減少して いる︵﹃福岡県史﹄通史編福岡藩一六一九頁︶。 因みに福岡においては、機能は年行司と同じであるが、月行司と称した。 ﹃博多年代記﹄︵以下年代記と略す︶における最初の年行司の記述は元文三年︵一七三八︶四月で、両行司︵年行司 と月行司︶に札馬支配が仰せ付けられている。札馬とは旅程の中継地︵博多と福岡にそれぞれ一ヶ所あり、継所と称 した︶における公認の荷馬のことであり、その支配は年行司の重要な役割の一つであった。 その後寛保元年︵一七四こ福岡の月行司も年行司と称するようになった。 同年博多年行司は勤め方がよろしくないという理由で六人が四人に減らされたが、その四人共に延享三年︵一七四 六︶春時分よりの両市中での落首騒ぎで四人の内の二人が役儀取り上げになり、津中︵博多津︶の年寄・組頭による 入れ札に︵投票︶よって新たに別の二人が年行司に選ばれ、任命されている。 以上のことから藩の役所が行う勤め方の評定に加えて、落首による民意を年行司の任命・罷免の判断材料の一つに していたことが窺われて興味深い。 -167- 年行司はその役割の故から年代記の多くの場面に登場しており、年代記の筆者である磯野五兵衛も事保年間に年行 司を勤めた。 年行司は実刑免除などの特権も与えられたが、そのことが五兵衛の記述に見られる。事保十七年︵一七三二︶隣接 の櫛目前町で火事が発生し、早速消火されるが、関係者二人は禁足を言い渡されたので、五兵衛は年行司を勤めてい 運上とは江戸時代の雑税の一つ ることもあり、役所に相談したところ五兵衛の実刑を免じるとのことで、役人衆にお札に廻ったと記されている。 運上 次に藩の重要な財源である運上と年行司との関係について年代記を見てみよう。 で、商・工・漁猟・運送などの営業者に課した。 最初の記述として、貞享三年︵一六八六︶金屋仲間の運上が始まり、その年には運上請方の掛町柳屋善左衛門より 運上銀を公儀に納めることになったとある。 元禄十一年︵一六九八︶六月の運上請方は一ヵ年に十一貫九百五十目の鉄銑鋳物類の運上を藩に納めている。 その後享保十二年︵一七二七︶十一月からは運上取立ては町方御役所による直接支配となったが、享保十九年︵一 七三四︶には取立ての請方を入札によって決める仕組みに変えようとしたところ、一ヶ所に決められては津中が大騒 ぎになるということで、両行司に取り立て支配が仰せ付けられ、手当てが毎年五百目支給されることになった。しか し商売に差し障りがあるということで、他に手当て二百五十目が支給され合計七百五十目、さらに年番︵当番︶のと きは二百目が追加されている。藩も運上の取立て方法について腐心していることが窺える。 元文五年︵一七四 O︶四月には新しい運上仕組みに関する書き出しが藩によって両行司十人に示された。その際渡 された両市中の運上を納める対象者四千六百人余の銀高に基づいて両市中の組合ごとに寄合・相談がなされ、折り合 わない場合は町々の年寄より存寄書を差し上げ、両行司・御用聞を含めて折衝が続けられたことが詳細に述べられて いる。 同年十二月に組町大問屋・小問屋の運上高について折り合いがつかず決着し−ないため、年番の年行司と古参の年行 司両人が釘付けを言い渡されたとの記述があり、藩の運上の新仕組みに対する強い取り組み姿勢が窺われる。 町割 次に博多の町割についての記述を見てみよう。 元文二年︵一七三七︶、公儀より西町浜・市小路浜・浜口浜・立町浜の空地が市中に売りに出された際に、右の四 町より買取願いがなされ、願いの通りになったことが記されている。右の地区は町割によって出来た七つの流の外 にあり、新町流として位置づけられた区域である。その中の四町自らが空き地を買取ったことが町の区域の広がりと 発展さらには後の大浜田町の形成につながったとみるべきであろう。 元文五年︵一七四 O︶には石堂口に松原茶屋を立てる件につき、近くの宮内町・浜口上番・小山町の三町の住人に 認可が下り、だんだん賑わってきたとある。後の水茶屋である。 同年、町奉行支配であった松原が十一月をもって郡奉行支配になったため、博多松原と呼べなくなった。 寛保元年︵一七四こ、博多の外側に接した十七ヶ所の番所については一夜に一人の番人を置くように、それ以外 は家々毎に自身番を勤めるようにとの触れが出された。 橋に関しては年代記に五回の記載がある。まず享保三年︵一七一八︶には中島先橋︵西側の那珂川に架かる︶の 架け直し、中島前橋︵東側の博多川に架かる︶は享保八年︵一七二三︶に架け直される。事保二十年︵一七三五︶に は四月十日よりの大雨で石堂橋の三番目柱が流れた。石堂橋の架け直しは三年後の元文三年︵一七三八︶となる。そ の後、中島前橋は元文五年︵一七四 O︶に十七年ぶりに架かり、中島先橋は寛保元年︵一七四一︶に二十三年ぶりの 架け直しで中高勾配に造られていた。因みに中島先橋・中島前橋ともに当時のメインストリートである博多六町筋 と福岡六町筋をつなぐ重要な橋であった。 博多六町筋とは、東から石堂川に架かる石堂橋を渡って博多に入ったところにある官内町から始り中石堂町・中間 n u 町・綱場町・掛町・麹屋番の六町からなる東西に連なる横筋のことで、大店が軒を連ねる博多の基幹道路であった。 さらに西へ中島前橋・中島先橋を渡って祈形門から福岡に入ると東名島町・西名島町・呉服町・本町・大工町・費 子町と続く横筋があり、これを福岡六町筋と言った。 博多六町筋が町割りを経て復興した博多を貫く町筋であったのに対し、福岡六町筋は黒田家の転封に伴って移動し ながれ てきた御用商人や技術者・職人を主な住人とする新しい町筋であった。 松曜子と祇園山霊 先に触れた博多独特の構成単位である流は行政組織であると共に祭礼や行事における構成要素でもあった。そのう ち年始の十五日におこなわれる松轍子行事の記述を見てみよう。 事保六年︵一七二この松嚇子を六代藩主継高が見物し、絹布ご法度にもかかわらず十四歳以下は絹物を着るよう に、又松曜子を大いに賑やかにするようにとの言葉があった。 元文六年︵一七四一︶には前藩主五代宣政死去につき松蝉子は一ヶ月延期の二月十五日に行われたが、人出なくさ びしいものであった。 延享三年︵一七四六︶将軍の姫が他界した時は、一月十九日に延期になった。 松嚇子は一月十五日に行われる新年を寿ぐ行事であり、博多の町人が福神︵魚町流︶・恵比寿︵石堂流︶・大黒︵須 崎流︶・稚児︵西町・土居・東町・呉服町各流︶を仕立てて城中に恭賀の挨拶に出向くもので、一年の内この日だけ は城内出入りが自由とされ、大いに賑わったとされる。この新年行事が藩主などの死去により中止されるのではな く、延期しても実施されたことを年代記は伝えている。 次に博多の夏の祭礼である祇園山笠の記述を示す。 宝永田年︵一七 O七︶三代藩主光之の死去により、山笠は本来の六月十五日から九月十日に延期となった。 宝永八年︵一七一一︶五月には各町にて小山笠が出来、昇き山笠は言うまでもなく引き山が萱堂・奥小路・新町・ -170- 妙楽寺・浜小路他で作られた。 ることに留意したい。 ここでは、先に説明した町割り時の七流の後に出来た新町流の﹁新町﹂の記述があ 正徳三年︵一七二ニ︶六月、米が高値のため町が疲弊しているので、在所よりの祇園参りをしないようにとの触れ がでている。また博多内も客を招くことが禁止されている。その上大雨で十五日に山笠が動かなかった上に、十六日 から十八日までは四代藩主網政の三回忌のため山は動かず、二十一日に山笠が動いた。その年の山笠は例年と異なり 在所からの人が参加しなかったため、各流の内だけで山を昇いたと記されている。この記述によって通常は山笠も 在所からの加勢を得て動いていたということがわかる。 正徳六年︵一七二ハ︶四月、将軍家継死去で祇園山笠は八月二十六日に延期された。 享保六年︵一七二一︶六月十五日、六代藩主継高が山笠を見物し、能装束を贈ったのは同年の祇園能︵鎮めの能︶ からであった。 享保十九年︵一七三四︶六月十四日朝より雨、十五日も大雨で山笠動かず、川水出る騒ぎであったが、十六日・十 七日と天気もよくなり十九日朝山笠が動き、役人衆、奉行衆も二人共に見物し、例年通り弁当にて対応したとあるが、 この間祇園能をいつにするか或いは山笠をいつ動かすかなどを年行司が奉行衆にお伺いを立てる過程が生き生きと記 されている。 元文二年︵一七三七︶、姫︵継高息女カ︶東長寺前にて山笠を上覧、櫛田神社から取り寄せた座敷で見物になった。 座敷前には町奉行が出、また町奉行他役人衆及び年行司・各町の年寄・組頭も櫛田神社及び各辻に出てことなきよう に気を配った。 宝暦七年︵一七五七︶六月の祇園山笠は江戸にて本光院︵網政男吉之の室︶他界につき、二十五日に延期となる。 その年一番山の土居流︵当番町土居町下︶は承天寺︵古来より各山笠は敬意を表すため寺の山門前に山を昇き入れ ることになっている。︶の門前に昇き入れたが、他の五本の山は入らなかったため、承天寺より抗議があったと記さ れている。鎌倉時代、承天寺の開山である聖一国師が、博多で疫病が流行した時に、施餓鬼棚に乗って町民に担わせ、 祈祷水を振り撒いて病魔を鎮めたということが山笠の起源として有力である。従って、承天寺への山笠の昇き入れは、 承天寺が山笠発祥の寺であるということに由来したものであり、現在まで連綿として受け継がれている。 さらに、山笠と疫病退散が深い関係にあるいうことを窺い知ることができるものとして癌宿山笠がある。 年代記の享保十七年ご七三二︶の記述によれば、極措山笠の出来始めは随分と小山笠であったが、後には大分大 きくなり数も増えてきた。奥堂町は牒麟山、市小路浜は蓬莱山が出来、町々は大いに賑わい、福岡にも山笠︵癌搭山 笠︶が出来たとある。 癌癒に対する当時の人々の恐れと山笠奉納によって癌宿を払うという願いが強く感じられる。 つぎに年代記の記述にはないが、秀吉による町割り以来、博多には入軒︵いりけん︶という言葉があり、そのこと について述べてみたい。 現在の博多の町はプロック毎の町割りとなっているが、旧来の町割りでは主要道路︵本筋︶を挟んだ両側は同じ町 内であり、背中合わせの家々は他町となる。この場合、本筋から入った道の角から角の中間の位置︵大体角から二、 三軒目あたり︶が町と町との境界線で、各々の町の角から境界線までが入軒である。言い換えれば一町内の数軒が他 町に入り込むのである。入軒は主として東西の横筋の町に多く見られる。 入軒は現在では山笠の用語としてのみ使われており、この境界線に接するこ町の所属する流︵ながれ︶が異なる場 合は、山笠の流れ鼻き︵各流区域内を昇き廻る︶の時には山笠は町の境界線まで界き入れて、そのまま逆向きに引き 返すということになり、これを入軒引き返しと云う。また、道幅が広い場合は境界線で押し廻して向きを替えること もある。 以上松曜子と祇園山笠の記述を見てきたが、いずれも流︵ながれ︶を単位として運営されており、両者が町の自治 と密接に結びついた行事あるいは祭事であるということが云えるであろう。 -172- 藩もそれらを尊重し、町民統治の円滑化にそれらを活用したと思われる。 町の生活 最後に町の生活に関する事項について触れてみたい。 正徳四年︵一七一四︶、絹物を着ることの禁止をはじめ万事簡略にとの触れが出された中で、福岡の唐人町松本屋 女房が古絹を買い求め、それを着て歩いているのが御目付衆の目にかかり、主人は手錠、女房は三つになる子を連れ て牢入りになるという厳しい処分を受けている。 享保十三年︵一七二八︶十一月三日夜より遊郭である柳町の夜見世が始まっている。くぐり門を開け四日・五日と 賑わったが、六日には中止するように役所より年行司経由にて、柳町の年寄・組頭に仰せ付けられている。その際、 浜流︵新町流︶の年寄にも同じ趣旨の申し渡しがあったと記されている。 柳町は博多内に立地していたが、当初より行政上は各流の外に位置付けされていた。しかし浜流は柳町と隣接して いた関係で右の申し渡しがあったと思われる。 ﹃博多古説拾遺﹄︵熊本敬卿︶によれば、柳町は古くは須崎の浜にあったが、慶長の中頃に竪町浜に移転した。古老 の話として、寛文の頃この町より火事が起こって以降は夜見世は中止になり、元文元年までで中止されて七十年にな るとのことである。年代記の記述は、長年の中止の中で一時的に夜見世を許可したもののすぐに再中止した役所の動 きを示しており、興味深い。 享保十五年︵一七三 O︶三月宗旨判形︵宗旨改め︶が一流︵ながれ︶毎に正定寺にて始まっている。 享保十七年︵一七三二︶から十八年︵一七三三︶にかけて西国は大飢鑑で、筑前も空前の餓死者がでる惨状であっ た。年代記はこの間の状況を克明に著している。以下その概略を記してみたい。 享保十七年︵一七三二︶春以来雨ばかり降り、麦米ともに不作で西国は大飢鐘となった。筑前でも盆の内から在所々 より移しい男女が毎日々両市中︵博多・福岡︶に流れ込んできた。又同年八月よりは両市中・在所々で飢え果てる者 -173- 移しく、翌十八年春には疫病がはやり毎日病死する者が数知れなかった。 次に元文五年︵一七四 O︶十二月十一日第五代藩主宣政公の死去に伴って出された触事についてみてみよう。 当地には藩主の死去は十一日遅れで伝わり、その日より音楽・作事七日停止、月代剃ることならずとの触れがあっ たが、早々にまた触事が出て月代は勝手次第とあり、その後二十九日には注連縄飾りをすることも勝手次第、氏神参 詣は羽織・袴で梓は着ないように、寺参り・親兄弟への年始廻りも同じとあったが、惣代の弥六が来て言、つには、惣 代身分の者は一人も宮参りに行かず、尤も小者は町内だけを廻っている。家中の門松は勝手次第とあるが、立ててい ない屋敷もあり、家中の者は月代を剃らず、静かにしておくようにと仰せ付けられている。やはりこの場合、触事と 実態とではかなりの違いが見られることがよくわかる。 寛延四年︵一七五こ十一月、紅屋徳兵衛方の婚礼の節、法外千万の仕方があり、その罪により年寄二人が七日の 牢、若者達が二十八日の牢という事件が起こっている。この事件は博多津要録にくわしい記述があり、法外千万の仕 方とは、何かの意趣があって若者達が座敷にある器や建具・畳に至るまで悉く切り破り、庇つけ、川に流したことで、 言語同断と表現されている。 以上が年代記を五つの事項に分けてその概要を見てきたが、年代記自体は多岐に渡る内容を擁しており、しかも公 的な文書には見られない内容をも多く含んだ貴重な史料と云える。 なお年代記は﹃博多津要録﹄︵以下津要録と略す︶と密接な関係があり、主要な項目の多くが津要録に記載されて はいるが、記載されていない項目もかなりある。一方記載されていても表現の内容や量において違いが見られ、興 味は尽きない。両書の書かれた経緯や目的の違いがそうさせるのであろうか。たとえば事保十七年︵一七三二︶の大 飢値は年代記では克明に記述されているが、津要録は公儀施行という内容で簡潔にサラリと記されている。 いずれにしても津要録に年代記という史料を加えて、博多の町の研究がさらに深化することを期待するものである。 ︵青木綜ニ -174- 寺社・修験 ﹃年代記﹄には寺社に関する記述が、各所に多数見られる。その内容は①社殿、仏閣の修理に関するもの、② 祭事に関するもの、③参詣に関するもの等が見られるが、何れも当時の庶民の生活に密接に関係している事がうかず われる。主要な神社、仏寺について概要を述べる。 神社 櫛田神社櫛田社家町 言迄もなく、博多津中の総鎮守である。創建については肥前神崎庄の倉敷の所在地・同庄の櫛田神社を博多に平 滑盛が原田種直の勧請で創建されたと云われている。平家と博多との関係が推測される。中殿は櫛田大明神、左殿 は天照大神、右殿は祇園大明神である。社内には松尾社、薬師堂、稲荷社、恵比須社、弁財天堂等がある。祇園社 の祭礼が﹁博多祇園山笠﹂である。黒田氏の筑前入部以後も、歴代藩主の崇敬と庶民の信仰により、社殿の営繕や 行事が繰り返されて来た。﹁年代記﹂には、正徳五年の櫛田宮茸替、享保廿一年の櫛田宮普請等の記述があり、又 御姫様山笠御上覧等もみえる。 綱場天神︵網輪天神︶綱場町 菅原道真が、大宰府に赴く時、袖湊︵博多の古称︶で船より上陸した時に、海辺で敷物もなかったので、その所 の海人舟の綱をたぐり、輸の様に重ねて敷物として暫く休息した。後に此場所に杜を建て網輪天神と号した。綱場 と称するのは横枇である。 今熊権現社︵今熊野社︶今熊町 祭神は熊野三所十二社権現で、正応二年此地に杷ると云う。 城下の福岡には産神として東に警固神社、西に鳥飼八幡宮があり、町人町に水鏡天満宮があった。 -175- 警固神社・小烏神社薬院町︵福岡︶ この社は、昔福崎︵福岡城本丸の地︶の山上に在ったが、福岡城の築城に伴い、平尾村の小烏明神の社に移った。 慶長十三年社殿完成、小烏社の古小鳥より薬院町の東の方へ移した。 小烏神社は、古より此地に鎮座する地主神で有るので、警固神社遷宮の時、相殿に祭られたと伝えられる。 中殿は警固大明神、左殿は小烏大明神・白山権現、右殿は神功皇后・八幡大神である。 福岡城鎮守の神として、黒田忠之の産神として尊崇された。﹁年代記﹂には同社での能や流鏑馬が見えている。 鳥飼八幡宮西町︵福岡︶ 祭神は三座で、右座は聖母大神、中座は八幡大神、左座は宝満大神である。古は鳥飼村平山に鎮座していたが、 慶長十三年に今の地に移したと云われている。 元文三年、六代藩主継高の長子左京︵重政︶が誕生し、産社としたので、社殿等を修覆し新に能舞台を建造した。 ﹁年代記﹂には、御能拝見の記述が所々に見える。 水鏡天満宮橋口町︵福岡︶ すがたみ 菅原道真が大宰府に赴く途中、乗船が袖湊に着き上陸して、四十川に臨んで水鏡を見、罪なくして径を受けた 心中から、容姿の衰えを嘆かれたと言う。後に其所に桐を建て水鏡天神と崇う。又容見天神、四十川天神とも 一言、っ。四十川は那珂郡庄村の辺にあり、社は慶長十七年、城下建設の時、今の所に移された。橋口町・天神町・因 幡町・東名嶋町・材木町・鍛治町・船津町・州崎町・中嶋町等町人町の産神である。 博多の域外であるが、関係の深いものとして、箱崎・住吉・太宰府・香椎宮の各神社がある。 箱崎八幡宮糟屋郡箱崎村 祭神は三座で、右座は八幡大神、中座は神功皇后、左座は玉依姫である。上代は穂波郡大分村に在り、中世に今 の場所に移ったと云われている。座主坊を五智輪院弥勤寺と云、外に赤幡坊、勧進坊、蓮乗坊、学頭坊、智禅坊が -176- ほうじようや あった。祭事では玉取の祭︵玉せ、り︶、放生会が有名である。 住吉社那珂郡住吉村 筑前一の宮で全国二一 O O社の住吉杜の元祖といわれる。祭神は三座、底筒男命・中筒男命・表筒男命である。 相殿に天照大神・聖母大神をも合せ祭る。鎌倉時代には神宮佐伯氏は御家人であり、鎮西探題の奉行人であった。 今泉村に末社の若宮大明神があり、毎年御神幸があった。 太宰府天満宮御笠郡宰府村 菅原道虞を杷り天満天神・菅公霊廟ともいう。九 O三年︵延喜三年︶道虞が捜し、遺骸を葬り、九 O五年に杷廟 を建立、その後御墓寺安楽寺も創建され、以後明治初年まで天満宮と同体であった。別当は菅原氏の子孫から選ば れた。﹁年代記﹂には元禄十五年の八百年忌、宝暦二年の八百五十年忌等の記述があり、遠国よりも移しく参詣 し嘗時の賑を思わせるものがある。 香椎宮糟屋郡香椎村 祭神は伸哀天皇・応仁天皇・住吉が配杷、奈良時代以来国の大事には勅使差遣あり、建武三年に中断したが、延 享元年に再興あり、年代記にはこの時のことが見える。 寺院 聖福寺御供所町 安固山と号し、臨済宗妙心寺派。開山は千光祖師︵栄西︶である。宋より帰朝した後、建久六年に閉山した。此 地は宋人が建立した百堂の旧跡が在ったが、此所に寺を立てる事を願い、造営由・状を将軍源頼朝に差出し此地を賜っ た。山門には後鳥羽上皇震翰の﹁扶桑最初禅窟﹂の扇額が懸けられている。以前は塔頭子院は三十八匝を数えたが、 ﹁筑前国読風土記附録﹂では僅に八匿となっている。護聖院︵開山堂︶、円覚寺、慶福庵、幻住庵、順心庵、節信 院、瑞臆庵等である。 -177ー 承天寺辻堂町上 高松山と号し、臨済宗東福寺派 閥山は聖一国師︵円爾弁円︶である。宋人謝国明が開基し請われて仁治三年︵一二四二年︶聖一国師が閉山し たと云われている。後に上洛し京都東山東福寺を閉山し住持となった。塔頭は古は四十三区あったが、﹁筑前回読 風土記附録﹂では十四区残っている。尚博多山笠の起源について諸説ある中に、聖一国師が施餓鬼棚に乗り博多津 中を巡り祈祷水をまき、疫病退散を念じたと云われている。 東長寺小山町上 南岳山宝持院と号し、真言宗京都仁和寺に属す。弘法大師︵空海︶が大同元年︵八 O六年︶に唐より博多に帰着 し、一堂を建てたのが始まりと云われている。当初は旧行町にあったが、元弘の頃︵一一一一一一一一 1三四年︶兵火に逢っ て焼失した。その後二代藩主忠之の外護により現在地に再建され、黒田家の書提寺の一つとなり二代忠之、三代光 之、八代治高の墓所が在る。 大乗寺大乗寺前町 法皇山宝珠院と号し、真言宗京都仁和寺に属す。亀山法皇の勅願寺である。古は律宗であったが、正保元年︵一 六六四年︶藩主忠之に依り真言宗となった。本尊は博多七観音の一ッ大乗寺千手観音で、弘法大師の作と伝えられ ている。尚、此寺は大正九年に現中央区大手門一丁目の長宮院境内に合併移転した。 称名寺片土居町 金波山西岸院と号し、時宗藤沢山清浄光寺に属す。元臆二年︵八七七年︶博多の住人、称阿・名阿と云父子が此 寺を建立し、乗阿上人を請して開山とした。施主二人の名から一字を取って寺名とした。又所在地から土居道場と も云われた。 清浄光寺︵遊行寺︶の住持遊行上人が廻国の時、当寺は芦屋金台寺と共に時宗寺院の拠点となっていた。大正十 。 。 , 司 四年に現在地の東区馬出四丁目に移転した。 善導寺蓮池町 光明山悟真院と号し、浄土宗鎮西派に属す。開山は広誉上人と言、っ。筑後国善導寺を再興の後、康正年中、博多 に来て、文明九年に当寺を建立した。文明十一年後土御門天皇の勅願所となる。首初は寺家・塔頭が十六坊在った。 大内氏の援助・優遇によって隆盛。 光泉寺土居町下 袖湊山と号し、時宗称名寺に属す。寛文年中の開基で始は本寺の境内に在ったと言う。 勝立寺橋口町︵福岡︶ 正輿山と号し、日蓮宗京都妙覚寺の末寺である。開山は唯心院日忠と言う。日忠は、京都妙覚寺より弘法の為、 博多に下り、妙典寺で説法をする。キリスト教の三人の宣教師及二百余人の宗徒が、慶長八年二月廿五日妙典寺に て難問し、宗門の優劣を争う。日忠はこれを論破し宗門論争に勝った。慶長十八年︵一六二ニ︶キリシタン禁令に より橋口町の教会堂が取り壊された跡に開基。問答に勝った寺で﹁勝立寺﹂の寺号となった。 善龍寺唐人町︵福岡︶ 瑞雲山と号し、真宗東本願寺の直末寺である。寛永田年、如水公の夫人が卒した時、此地で火葬を執行された。 その後、薬院町光専寺開山の僧浄徳に此地を賜り、一寺を建立し瑞雲山善龍寺と号した。 光専寺薬院町横町︵福岡︶ 真宗西本願寺の直末寺である。開基の僧を浄徳と言、っ。慶長十五年長政より今の所に寺地を賜り、資財も施され て、本堂を創立したという。延宝年中四世住持の時より、真宗一派の燭頭となる。開山の僧海徳は退隠後、唐人町 の善龍寺を建立した。 -179ー 妙行寺土居川口町 袖湊山と号し、真宗東本願寺に属す。寺伝に依れば古は天台宗で芦原道場と呼ばれていた。 明醸︵一四九二 1 一 五 O 一年︶の頃、蓮如上人の門下となり、宗旨を改めた。其後故有て山号を袖湊山と改めた。 永禄︵一五五八 1七 O年︶年中兵火に逢い焼失したが、天正︵一五七三 1九二年︶年中に仲言と云う僧が再建し慶 長七年︵一六 O二年︶真宗が東西二派に分れた時、住持松安は、たまノ\在京していたので東門跡に属したと云わ れる。福岡大空襲で焼失し昭和三十年頃、現在地の南区野間四丁目に移転した 万行寺祇園町下 普賢山と号し、浄土真宗本願寺派に属す。開基は性空と云。明麿年中、蓮如上人の弟子となり、享禄頃、博多の 普賢堂に住居した。天文十年︵一五四一年︶本山より弥陀の影像をうけ寺号を許されて馬場町︵万行寺前町︶に寺 を建てた。慶長七年本願寺が東西に分割された時、長政の命令により本国︵筑前︶の真宗は総て西派となり、その 触頭に任ぜられた。寺域が狭いので寛文五年︵一六六五年︶藩庁に願い出て、今の所に寺を移した。 龍宮寺小山町上 冷泉山視現院と号し、浄土宗鎮西派に属す。開山は谷阿上人と言う。此寺はじめは袖湊の海辺に在、寺内迄潮が 来たので﹁浮御堂﹂と言った。貞腰元年︵一一一一一一一年︶四月十四日、博多の海より人魚を捕獲した。此事を朝廷へ 奏聞し、勅使として冷泉中納言が下向し、暫く此寺に住居した。其時、人魚の出現を占い、天下の瑞兆とした。又、 文明十二年︵一四八 O年︶宗祇法師が西国に下り博多に滞在した時、此寺に寄寓した。 なお博多の外であるが関係の深い寺院がある。 崇福寺粕屋郡堅粕村 横岳山と号し臨済宗大徳寺派に属す。仁治元年︵一二四 O年︶に湛慧と云う僧が、太宰府横岳に一寺を建立し たのが始まりと云われている。其後兵火に逢い焼失したが、慶長六年大徳寺住職春屋国師の願に依り黒田長政が再 -180- 興し黒田家の菩提寺となり、藩祖孝高︵加水︶、初代長政、四代網政、六代継高、七代治之の墓所が在る。 金台寺遠賀郡芦屋村中小路 海雲山と号し、時宗藤沢山清浄光寺に属す。応安元年︵一三六八年︶、一遍上人より七世の法孫像阿上人が開 基した。古は垂間野橋の辺に在ったので垂間道場とも云ったと言う。江戸時代初期に現在地に移転したと言う。 武蔵寺御笠郡武蔵村 椿花山成就院と号し、天台宗福岡源光院に属する。開基は、藤原鎌足の末商、藤原虎丸と云われる。本尊薬師 加来像、十二神将、大黒天像は、伝教大師の作と伝えられる。古は大寺で堂塔も多く子院七坊が在り、筑紫最古の 寺とも云われる。 遊行上人の廻国 藤沢山清浄光寺の住持遊行上人は、歴代諸国を廻国修行し、廻国には幕府から特典を与えられていた。藩では遊 行上人を迎えるに当り、役人はもとより年行司・月行司が、滞在中の世話にあたった。年代記には正徳五年二月、 享保十七年三月、延享三年四月の三度の滞在について記されて何れも藩をあげての歓待振りがうかずわれる。 修験 神仏混請し道教の要素も集合した山岳崇拝の修験道は、この地域では英彦山と宝満山・脊振山が親しまれた。 彦山︵英彦山︶ 神の山の崇拝に道教・仏教が融合した英彦山修験が成立。元禄九年︵一六九六︶以降天台修験別本山となり座主 を頂点に二五O坊があった。享保十四年︵一七二九︶霊元上皇より英彦山の称号を、つけた。年代記には元文五年に 山々大雪で二月十五日の祭り止む。三月三日祭りとある。 宝満山 白鳳時代の開山。役行者来山の伝説あり。近世では宝満二五坊といわれ、座主院を中心に盛んであった。年代記 。 。 には享保十二年四月十日座主峰入で、総山伏八十人、博多石堂口より入り東長寺に詣で、櫛田神社に止宿して読経、 護摩たき終夜あり、大乗寺で読経、翌日福岡の町を通ってお城に入った。 脊振山 ︵原田一男︶ 天台宗霊泉寺あり、脊振千坊の堂場があった。脊振弁財天参詣で親しまれ、十月上の亥の日、亥の子祭りには多 数の者が登山したという。 地震・台風・火事・飢館、流行病など この年代記のなかで犠野五兵衛が書いている元禄十三年︵一七OO︶から宝暦二年︵一七五二︶にかけての、天災・ 火災・流行病・飢鑑について主なものを紹介する。この年間に地震は四回、台風・洪水などは七回、火事は十六回、 飢簡は享保十七・十八年の大飢鐘の様子が生々と記されている。また突出して火事は多く、しかも大火災で、特に新 町は三回、川端は二回被災している。新町の場合は町名が良くないということか湊町と改めたり、困り果てた藩当局 は瓦葺きを奨励するため、低利の貸付金を出したりしている様子も記されている。 地震 元禄は十三︵一七OO︶年二月二十六日から四、五日間、正徳五︵一七一五︶年は六月二十八日と廿九日、享保は 八︵一七二三︶年十一月二十二日から四、五日間、十五︵一七三O︶年は正月二十四日・二十五日が記載されており 七ないし十五年周期で地震が発生しているように見受ける。元禄十三年の﹁大地震﹂の様子は﹁大地震仕、家内皆々 より外ニ出申、家ゆるき桶水ゆりこほれ酒屋酒ゆりこほし、四、五日之間地震仕候︵大地震があり、みんな家から外 に逃げ出た。家は揺れ桶の水はこぼれ、酒屋では樽酒が揺れこぼれた。日数四・五日の問地震があったこと書いて -182ー いるが、さいわい家が倒壊したとか火災の記述はない。 元禄十六︵一七O三︶年十二月より十七年の正月にかけ、江戸で大地震・大火事が起き多数の死者が出ている様子 を﹁江戸大地震大火事ニ成、大分人そんし御屋敷其外そんし、愛元6日用三百人程参申叫︵江戸大地震・大火事にな り多数の死者も出て、御国屋敷その外に損害が出たので、当国より三百人程の人夫が出かけた︶﹂。こちらは大地震に 伴い大火災も発生し多数の死者まで出ている。 台風 元禄十五︵一七O二︶年八月二十九日夜より三十日九ッ時︵昼十二時︶まで勢力の強い台風が吹き、多数の家や蔵 が壊れ松の木が倒れ、漬口町嶋井・市小路町白水家の蔵が壊れた。正徳五︵一七一五︶年八月十七日夜、北からの大 きな台風で住吉宮の大松が、お宮に倒れかかり屋根が壊れた。享保十四︵一七二九︶年八月十九日昼より雨が降りだ し、夜になり大雨・大風・洪水となり、今熊の吉祥院まで冠水し、中嶋橋に六端︵帆の広さの単位で一端は約0・九 M 川︶ほどの大きさの船が流されてきた。享保十九︵一七三四︶年七月十六日夜中より大風、所々で家が壊されたと四 件ほど書かれており、いずれの年も八月が多いようである。 異常気象 享保十︵一七二五︶年は、四月十六日から五月二十九日まで四十四、五日間大雨、六月に入り一転して一日より七 月六日まで六十日間大日︵干天︶で、夏物類は焼き枯れ、小莱・大根は八月まで不作だった。 享保十六︵一七三こ年二月三日夜八ツ時、大あられ・電がふり、重さ一匁二、三分︵約五グラム︶、大きさは直 ︷唐由中︶ 径五1七分︵約十、ゲ︶、梅の花の膏に当たって奮が落ち、また地面が柔らかいところでは跡形がつくほどだった。 享保十九︵一七三四︶年六月十六日の庚申待︵庚申会︶の月を﹁こうしん御月之かさと御見へ、月のまわり紅く、 其またまわりあおく、又あかく:::﹂と、赤青五重に傘がかかっていた様子を絵図に書き、古来五十年ぶりの見事な お月様であったと称えている。 -183- 元禄十五︵一七O二︶年四月中時分、毛の長さ五、六寸ほどの白毛が所々に落ちてきた。享保六︵一七一一一一︶年一一一 月朔日大あられ・みぞれが降り、その節あちこちで大豆・小豆が天より落ちてきて、大乗寺内にも沢山落ちてきたの で女、子供が拾う。また三月九日箱崎松原でも落ちてきたので、私︵五兵衛︶も拾ったとある。十日余り天候不順が 続いたのだろうか。これは低気圧のため上昇気流が発生して竜巻が起き、納屋などに貯蔵されていた大豆や小豆が吸 い上げられ、気流に乗ってきて広い範囲に落ちてきたのではないかと考えられるが、白毛については動物の毛か植物 なのか諸説がある。 同様の自然現象は現代でも発生しており、平成二十一年六月空からオタマジャクシが降ってきた新聞記事で世間を 騒がせた。﹁石川県七尾市の市民センター駐車場に、空からオタマジャクシ百匹ほどが落ちてきた﹂というのである。 その後、岩手・宮城・埼玉・長野・広島・鹿児島でも同様の現象が報告された︵﹃西日本新聞﹄共同通信配信︶。原因 については竜巻、つむじ風、鳥︵サギ・カラスなどていたずら説などがありはっきりはしない。馬に落雷した記述 がある。享保十三︵一七二八︶年六月大夕立があり川端町・戸波殿の門前に雷が落ち馬が死んだ。 享保五︵一七二O︶年五月、直方の伊勢守長清の長子菊千代︵七代藩主継高︶が入国の時、大雨で底井野川が増水 し足止めをされ二日遅れる。さすがの権勢の殿様でも大水はままならなかった。 享保十六︵一七三こ年十二月一日には日蝕の記述があり、朝十時前より畳頃まで﹁日蝕﹂となり、悪風が吹いた り毒がふってくるという噂が流れたので、二十八、九日噴より煎じ薬を飲んだと日蝕を恐れた記述がある。この時の 日蝕は皆既日蝕、金環蝕、部分蝕のいずれだったのだろうか。太陽を月が遮る天体現象に大驚失色したに違いない。 元文二︵一七三六︶年六月九日から七月二十一、二日まで雨が降らなかったので、宮崎宮で雨乞い相撲をしたが降 らなかった。七月二十五日大雨になったと記している。 延享元︵一七四四︶年冬は﹁近年無之寒︵近年にない寒︶﹂と書き、花立てが割れたり、川に氷が張ったり、豆腐 まで凍ったりした。 -184- 火事 ﹁火事と喧嘩は華々しい方がよい﹂とは、見る側のはなはだ身勝手すぎる言い分だが、本文書でも享保元︵一七一 六︶年から二十八年間に十六回の火事が記録され、二年に一回強となる。 いろりや矩健・火箱を禁止し、神仏の燈明の消し忘れを注意したり、失火や放火を厳しく罰し、自身番や風が強い 日など夜回りまでしていても、それでも火災はおきた︵﹃長野日記﹄西日本文化協会・昭和五十六年︶。 大火事を福岡も含めて年代順に幾つかあげると、享保元年四月二十日夜明け時分、四百軒以上焼ける。﹁福岡大火 事﹂享保十︵一七二五︶年十一月十八日昼二時分より、﹁荒戸四番町櫛橋又之進殿﹂火元で、新町、演ノ町、費の子 町、大工町、天神町東側二屋敷、因幡町、土手町、中庄、警固まで焼け、その節は大きな大西風で午後八時前に焼失 してしまい、この時から﹁新町﹂を﹁湊町﹂と名をかえる。事保十三︵一七二八︶年二月二十日夜九時、福岡地行町 大火事で残らず焼ける。享保十九︵一七三四︶年二月七日夜十一時すぎ﹁箱崎大火事﹂箱崎中残らず焼け、﹁御茶屋・ 御郡屋﹂も焼ける。元文二︵一七三七︶年四月二十一日午後二時﹁御城内火事﹂﹁浦上三郎兵衛殿宅﹂より火が出る。 この火は﹁鉄砲の火縄﹂からで、三郎兵衛屋敷は残らず焼け、﹁矢野六郎大夫殿・美作殿屋敷﹂も残らず焼け、門ま で焼け落ちる。奉行衆から年行司に対し、両市中の人足が城内に入り消火するよう要請され、年行司が出て町の﹁後 消し人足﹂を域内に入れた。これまでは例え城内で大火事が出ても、津中より城内へ入ることは固く禁止されていた が、元文二年四月の火事から、奉行衆の要請があれば火消し人足が城内に入れるようになる。 元文五︵一七四O︶年三月﹁福岡六町通﹂火災。この時代は茅葺きの家が多かったので類火に泣かされた。いった ん火事が発生すると消火はまず困難で、町ぐるみが灰壊と化した。このため藩は瓦葺きを奨励した。この瓦葺きは町 の景観維持の上でも役に立った。表向きだけ瓦葺きにすれば小間一聞につき文銀二百目づっ、庇だけは百目づっ五年 賦の利なしで貸すと書いている。 享保八︵一七二三︶年四月六日八ツ時、大坂より荷を積んだ安武七郎左衛門の関係する船が火事をおこしたので、 。 。 後始末として荷主が﹁銀目立つもの﹂の配当を受けたと記している。 流行病 享保六︵一七二一︶年暮れ、享保七︵一七一一一一︶年春、享保十二︵一七二七︶年冬、享保廿一︵一七三六︶年春、 延享三︵一七四六︶年春、宝暦二︵一七五二︶年正月と宿病︵癌宿︶が流行っている。現在では天然痘︵癌癌︶の病 名を聞くことは非常にまれで、予防接種を始めとした医学の進歩により、世界中から消滅したといわれる。日本には 六世紀ごろ入ってきたようで、光明皇后の兄の藤原四兄弟や藤原道長の子女、徳川時代は十一代将軍家斉の子女五十 三人が全員権りその内二人が死亡している。特に乳幼児の死亡率が高く恐れられた疫病である。種痘が輸入されたの は幕末で、それまでは迷信的な薬法や神仏に頼るしかなかった。﹁小鳥居殿︵太宰府天満宮の神主︶﹂より﹁お守り﹂ が出ると本文書にもある。﹁此辺上下十七人癌靖人之内、草かへや善四郎方二人仕そんし、残下権右衛門子、上藤兵 ほろせ 衛・あわしゃ子残﹂と書かれているので善四郎方の二人は亡くなった模様だ。五兵衛方では惣次郎が三月二十一日に 躍り、二十四日郷子になり、四月九日に一番湯かけ、十四日に癌宿祝いの赤飯を町中に配ったと書いているので、惣 次郎は全快したのだろう。 なお﹁をね﹂という病気が見られるが、さきに秀村選三・保立道久が中・近世文書に見える病気として種々論じた が、年代的にも地域的にも広く見られて実態は明確でない。何らかの悪病とするにとどめる。 享保十五︵一七三O︶年年七月から十月にかけて痢疹︵はしか︶が大流行し病死する者も出る。享保十六︵一七三 二年五月に津中に悪病がはやるがこの病名は記されていない。町々で町角に提灯を灯したり、念仏を唱えて﹁百万 遍﹂の数珠を繰る。また秋には筑後久留米より狂犬病が流行って来た様子を﹁久留米よりはやり来たり、いぬはしか と申し、犬患いきっさに人間に食いつき、子どもなどに食いつくに付き、町々歩くに皆々杖っきて子どもまわる﹂︵久 留米より入ってきた病気は、犬はしか︵狂犬病︶といい犬が擢り、耐え難きに子どもや大人にまで噛みつく。子ども などは町を歩くのに杖を持って歩いている︶と書いている。 -186- 飢箇 享保六年春は大飢鐘で﹁米六十四匁から七十四、五匁、六月に入り九十四匁祇園前には百三匁﹂と高騰し、麦まで 大損耗で﹁町々困窮﹂する。享保十四︵一七二九︶年春より雨が降らず、四月から七月にかけては、一日も雨降らず 稲が枯れてしまった。享保十七、人︵一七三二 1 一七三三︶年の未曾有の大飢鐘の様子を﹁享保十七年子の年八月よ り九、十月、十一月とかけ両市中在々飢え果て叫おびただしく、毎日毎日死に、同十八年春、町々在々時疫はやり毎 日病死おびただしく︵両市中や在々まで食べ物がなくなり、毎日毎日餓死者が出た。十八年春には、時疫︵疫痢︶が はやり毎日病死する人が出た︶﹂、米も麦も高騰し大根までが一匁で五、六十本買えたのが一本が三文、五文となり、 川辺に大根葉の一筋も流れてこなくなった。﹁御国中田方三拾四万六千石皆損﹂の書出しも出る。事保十八正月には、 ﹁上下着致礼人壱人も無之︵持を着て年賀に行く人は一人もいない︶﹂、在々町々では正月末より飢え死にする人が一 町に十人、二十人と出る。二月、三月になるといよいよ食べるものが底を突き、木の皮まで食べるので人々の顔色が すぐれない。﹁正月五日より御公儀圃施行かゆ﹂が西町演で始まり、私︵五兵衛︶たち年番は﹁かゆ札﹂を配った。 二月に入ると米を一一一日分一人に一合宛でかゆを作り、四月初め頃まで施行かゆを行う。これでも飢え死にするものが 多く、その上に大ね病が流行し病死する。犬猫までもが飢え死にした。御公儀より毎日病人増し滅り、相果て者名附 け圃様仰附けられ一時の暇もこれなし﹂の忙しきである、と書いている。 ﹃長野日記﹄は、享保十七・十八年飢鐘を千七百を超える字数で、路上の死人や歩くことが出来ず道路に伏せてい る者は妨げとなるので、非人に申し付け西演の飢え人小屋に運び、死人の上に寝せ置いた、苦しくうめく声を出す者 を幾人も重ねて置いた、死んだら演に埋めた、と言語に絶する阿鼻叫喚の様子が書かれている。 ﹃博多津要録﹄︵西日本文化協会刊︶第一巻には、当年春以来長雨が続き:::国中全部回の稲株ほとんど腐れ、古今 これにない飢鐘凶年で、冬になり圏内で大勢飢死者がでて、両市中の貧しい者は大勢飢えに苦しんだ、博多西町演で 公儀施行をするように言われた、とこちらは淡々と記しており、それぞれ文書の違いを穆ませている。 -187- 後年、博多・福岡の町中では、お寺に供養塔・餓死塔・無縁塔が建立されたり、町中に地蔵尊が作られた。中州二 丁目の飢え人地蔵では、現在も毎年八月二十三・二十四日町の有志により供養が営まれている。 この文書で五兵衛は、ある時は子どもの癌痛全快を祝し町内に赤飯を配ったり、貨幣改鋳や皐魁・大雨による米相 ︻奥つ城カ︸ 場を敏感に記し、町の有力者として神社仏閣に寄進し、庚申会では﹁拙者御月奉行﹂とおどけたり、櫛田宮普請の宴 席では雀が飛び込んで来たのを見て﹁御圃っきのす、ふり立ル宮す、めむねふき上よ烏の羽かさね﹂と発句をした り、また年行司としては町政に心を配り、特に享保十七 1十八年の飢鐘時は御役所の御用で﹁一時の暇もない﹂ほど の忙しさと書いたり、黒田家の左京︵継高二男︶誕生の御祝儀に肴やあられ茶釜を差し上げたりの自慢事まで記して おり、資料としての価値だけでなく、磁野五兵衛の豊かな人間味を感じさせる文書でもあると思う。 しかしこれだけ広範囲にわたり記録をしているのに、自分の出自に関すること、妻に関すること、家業に関する記 述がなく、もしくは散逸したのかも知れないが不思議に思えてならない。︵江崎久誌︶ 相撲と芸能 相撲・能・謡・芝居が数多く挙げられており、項目別に整理してみるとする。 相撲 相撲が国技といわれるのは明治四十二年、両国の回向院の隣に建てられた常設興業の出来る国技館が建てられた頃 からの話である。﹃古事記﹄には建御雷神︵たけみかづちのかみ︶と、建御名方神︵たけみなかたのかみ︶の力競べ による、国譲伝説があり又﹃日本書記﹄には垂仁天皇の時代七年七月七日に、野見宿禰と当麻蹴速︵とうまのけはや︶ が力くらべをして宿禰が相手を打ち負かしたとの記録がのこり、戦前には史実として宿禰が日本の始祖とされて杷ら れていたと伝えられ、この相撲伝説が七月七日であることから、七夕祭の余興に宮中で、相撲の観覧することが恒例 -188ー となったと云われる。相撲の歴史は古く、約千三百年程前、皇極天皇の御代百済の使者をもてなすため、健児︵宮廷 の衛士︶を招集して相撲をとらせてもてなしたと云う。後に聖武天皇の太平六年︵西暦七三四年︶七月七日に天覧相 撲が宮中で催され、この後七月七日七夕の祭りに相撲天覧が定着し、毎年行なはれた事が知られている。平安朝にな ると相撲大会も制度諸式を整え、宮中の重要儀式化して三度節のひとつとして加わり相撲節会という独立した儀式 となったといわれる。七夕の宴の余興として催されていた相撲は、長く庶民の聞で行なはれる様に成り農作の、豊凶 を占う農耕儀礼の神事、相撲節会に発展していったといわれている。相撲は七夕の祭から離脱して、相撲節会という 儀式に発展した。節会とは朝廷での節目、季節の変り目などに祝いを行う日で、元旦・白馬・踏歌・端午・重陽・豊 明などの行事である。相撲が本来神事であつことにより神前︵あるひは仏前︶が選ばれのは当然の成り行きとされた。 相撲節会は約三百年間三節会の一っとして規模の盛衰もあったが、毎年催されていたが高倉天皇の時代︵西暦一一七 四年︶を最後に廃絶してしまったという。源平の争覇から政権は武士階級に移り、相撲は戦場における実戦用の組討 に必要な武術主して鍛練され武家社会で伝承されていった。武人となって戦場に出陣し、戦後各地に帰国した相撲人 ︵武人︶は節会相撲の作法︵ル lル︶と形を伝えて土地相撲の基礎をつくり相撲は本来の庶民的農耕儀礼に結びつい て、相撲の勝敗を農業の豊凶になぞらえて神事相撲を益々盛んにしていった。勧進相撲は神事相撲の名で初期には流 鏑馬・舞楽とともに祭事として奉納されるのが常であった。興業で得る利益は本来、社寺の建設費・修繕費等に充当 すべきものであったが、室町時代あたりから相撲そのものを職業的に行う武人が現れ、組を組織して各地を巡り、勧 進のためと称して免許を受け勧進元に成り人々を集めた。寺社奉行から興業許可を得る必要から、相変わらず勧進相 撲の名を用いてきた。 ﹃年代記﹄の相撲の記述と、その他の資料から相撲の興業の模様を年度順にをひろうとしよう。御国相撲は許可を 受けて行う興業相撲のほかに、藩の命令による上覧相撲や雨乞い相撲なども行なわれていた。元禄十五年に秋月藩 主長重︵甲州様︶がお出でになり、御広間之庭にて相撲を行っている。相撲取りの人数四十三人程が参加、年代記の 。 。 相撲の初見が享保十一年八月廿一日西門川原︵長野日記では、博多西門口となっている二五九頁︶で日数十四日間 行われ事が記述されている。︵享保十一年の番付表の記載無し︶土俵入りが廿一日廿一一一日より始まる。﹁長野日記﹂ では勧進相撲が八月廿二日より九月十四日迄、日数十四日とある。関取衆の名前が書き上げられているのが東方は上 方の者、西方は西国の者︵長野日記より︶東方大関谷風・関脇大筒・小結巻戸・前頭筆頭八栗山・出来山以下三十一人、 西方大関嵐山・関脇乱竿・小結鯨波・前頭筆頭片男波・金碇以下回十人。 本書では此のほか、さぬき・八嶋・きぬ嶋・ひろ嶋等の名前が記載あり。 享保十二年西門川原相撲九月廿五日より初り十一月四日迄、日数十七日間、天候の加減で日数が長引くのか不明 享保十三年京都相撲九月廿七日より初ル、当地より金碇・西国・白藤・槙川の出場が知らされている。 享保十五年︵一七三 O年︶西門川原相撲九月三日より、金碇本〆 東方荒滝・二八角・三能撮・方地山 西方秋津嶋・三鷹嶋・錦戸・金碇 等多数参加するも番付不詳記載無し 享保二十年西門川原相撲 西方相撲取ばかりとの記述は西国生まれの相撲人ばかりで、東国出身の関取の参加がなかったと思われる。興業 的には如何であったのか不明。 宝暦三年︵一七五三年︶藩主継高の四子長経が福岡の鳥飼八幡宮で能と相撲を見物した際に四十人程の相撲人が参 加している。 雨乞相撲は元文二年︵一七三七年︶寛延元年︵一七四八年︶宝暦四年︵一七五四年︶に箱崎八幡宮にて行われ博多 津中から多くの力士が加わり特に宝暦の年は両市中のほか郡部からも大勢の相撲取りが参加して箱崎に中立宿が設け られたと言う。延享五年︵一七四四年︶人月十三日の相撲では翌十四日より雨と成ると雨乞いの効能が記述されてい -190ー 芝居 芝居に付いて本史料に芝居興業が多く散見される。 芝居の歴史は歌舞伎以前に湖る、日本の伝統演劇の一種、舞楽が一 0 0 0余年の歴史をもっ宮廷貴族の芸能、能− 狂言が六 O O年前に完成した武家貴族の芸能に対して、歌舞伎・文楽・芝居は約四 O O年程の歴史をもっ、江戸時代 町人の芸能であり一部の演劇を除き古典化の傾向をたとりながら今日に至っている。芝居は元来寺社の境内などの神 聖な芝生の意であったが、南北朝時代の頃から一般に芝生をきしていうようになり、又﹁芝居をする﹂と動調にも使 われて芝のある所にたむろする意味を生じた。室町時代になり猿楽、女曲舞、念仏踊りが演じられ芸能の見物席の意 味をもつようにも成った。見物席に桟敷が設けられるときは、桟敷は高価で貴族向きであった、め芝生は大衆席にあ てられた。近世初頭歌舞伎が成立すると、芝居という言葉が拡大されて、ついに見物席を含めた劇場全体をさし、 さらにそこで演じられる歌舞伎そのものをいうように転じた。したがって﹁芝居﹂という言葉は劇場・演劇・演技な どさまざまの意味をもっ、あいまいな言葉になっている。近世出雲の阿国が演じた念仏踊りがかぶき者踊りと呼ばれ、 阿国が後に能の舞台様式を踏襲し道具や音楽も能に似て簡素だが本質的に異なる流行・風俗・流行歌−を取り入れた歌 舞が、歌舞伎の初期のものとなり発展して今日の演劇に成ったといわれている 福岡博多の芝居役者の中心は芦屋・植木の芦屋寺中・植木寺中の演ずるものが多く、時には下り役者︵京・大阪役 者が地方で演ずる事から︶が演ずる事があったようであるが、藩の財政上の理由からか上方役者の歌舞は禁じられて、 地元の寺中役者の歌舞が中心であったようである。寺中とは時宗遊行派が芦屋金台寺︵芦屋寺中の場合︶︵外に植木・ 泊・聖福寺に寺中あり︶の門前に寺役を勤める念仏衆が、居住するところから寺中町の町名が定まった事が﹃筑前続 風土記﹄に記載されている。諸国遊行の半僧半俗の念仏聖たちが大勢集まり、村人に念仏踊りを教えて、中には遊芸 にたずさわる者もあり、踊り念仏から歌舞伎踊りと役者の道へと踏み込んだといわれる。この者達が﹁寺中役者﹂と -191- る 。 呼ばれる様になったという。筑豊の平野を北流して響灘に注ぐ遠賀川河口に開けた芦屋は、中世より茶の湯の名器の 産地でもある。本書の主たる釜屋達に深く拘わりのある﹁筑前芦屋釜﹂が鋳造されたところとして有名であるが、ま た空也上人の流れをくむ念仏衆が町の一角に役者町を形成し、歌舞伎を演じて生計を立てた﹁芦屋寺中役者﹂を生 んだ町でもある。 植木寺中は平安の昔空也上人が草深い田舎の植木村に十七人の仏弟子を連れて、筑紫の固に下られて、布教の旅 で戦乱で荒果てた暗い世相の中に唱導する踊念仏の教義で多くの人々に、仏の有難さを知らしめ爆発的な勢いで拡 がっていった。布教の役目が終わり、上人は京に帰られでも、念仏堂が建てられ堂守が住みつき、人々を教え導く主 となる。ところが或年堂守が急に姿を消して不在となる。堂守は念仏起源の一座に従い念仏踊から猿楽の踊りまで 習い覚え、後年念仏起源の歌舞伎一座の座頭となり植木念仏堂に帰って来て、念仏踊りのみならず役者育成を手掛 け、植木寺中の元となったという︵﹃鞍手町史﹄︶。 次に博多寺中に転じてみると﹃筑前国続風土記﹄に﹁聖福寺の東北の側に歌舞を業とする借優︵わざおぎ︶の住む 町があったが、栄西禅師が唐土より連れてきた人たちに、阿弥陀経を伝え僧衣と数珠を授け、西光寺を与えて念仏 修行をさせたと伝えられている。その後子孫は念仏をやめ、歌舞を業とし又茶尭を売って身を立てた﹂とある。歌 舞伎の流行にともないこの町の人々は歌舞伎役者となり寺中役者と呼ばれた。又藩から芝居の興業権を与えられ、座 元となって興行を行って博多芸能の発祥地ともなった。操り芝居操り人形芝居の略称大陸から散楽の一部として 渡来した健偶師によってはじまり文禄・慶長年間︵一五九二年1 一ムハ一五年︶に新しく興隆した浄瑠璃に合わせる 人形浄瑠璃として発達江戸時代にもっとも栄えたといわれる。江戸時代の庶民にとって歌舞伎︵芝居︶見物は憂世 を浮世に換える最大の楽しみの一日であり非日常の世界に浸り、日噴の憂きをはらす手段でもあった。観客は前々か ら準備し早朝に家を出て芝居を楽しみ、日が落ちて家路に付き一日がかりの大イベントだったようで現代て−−Pえば海 外旅行程の感覚であったと思われる赤坂治績﹃歌舞伎のしくみ﹄。次に本書に書載られた芝居の日時・様子を拾い上 -192- げてみよう。その外芝居興業の様子を探ってみると 元禄十年九月にも小烏御祭礼にもかぶき芝居有り、網政の 元禄九年九月十一日百道の紅葉八幡宮御祭礼にかぶき芝居が有 り同十九日福岡の小鳥神社の祭礼にもかぶき芝居有り 女久姫が芝居見物をして居る。 元禄十三年コマうち芝居興業の記録かのこされている。はかた独楽の見世物興業として独特の発展をしたといわれ る 。 宝永六年博多祇園杜にて、操り芝居あり。又此の年福岡の薬院堀端にでも歌舞伎芝居有り。 享保十年五月十三日まめた耐きを見世物として祇園祭りに出す。これも人集め興業ではあるが芝居ではない。 享保十二年十一月芝居の記録があるも詳細不詳。 享保十三年六月十六日より||神宮寺内ニて当地寺中にてはじまる見物も多く有りと記録されている。 享保十四年この年春博多船持衆に、秋には浦方衆に十四日ずつ歌舞伎芝居を行うように許可が出され一一一月十 一日に芦屋役者の興業が始まる。このころ芦屋役者内には座元がいく組もあって、それぞれが座を作くって活動し ていた様で、その座の頭が三組ほどあつまり興業したものかも知れない。芝居興行における被差別民の差別について は別項を参照されたい。 享保十四年九月四日より閏九月七日まで植木寺中に上方役者加わり芝居興業される。 享保十四年九月廿日より金山芝居十月十五日同一役者にて興業。 享保十五年三月十五日より上方役者にて福岡船持芝居が興業されるも天気悪く大赤字興業となる。 享保十五年九月十五日より博多船持芝居あり、始日より十日迄不入り。十一日より大入の興業となる。此頃現代に 比較して娯楽の少ない時代故か相撲・芝居等の興業が多く記録されているが現代に比較して数少ない娯楽であり価値 の比較が難しい。 -193- 能・揺 能日本の伝統演劇の一つ謡と曜子と舞の総合による独自の様式をもっ、歌舞劇能の歴史は奈良時代に唐から輸入 された、散楽は奇術・幻術・曲芸・軽業の芸能であったが平安時代には滑稽な物まねが主流となり、サルガク・サル ゴウと呼ばれる今日の能・狂言の母体であり、猿楽・申楽の字が用いられた。鎌倉時代に、賎民猿楽者の集団が﹁座﹂ を結ぶ頃には、狂言の原形が出来真面目な内容をもっ歌舞劇の分化が猿楽の﹁能﹂として進化をはじめた。鎌倉時代 に金春流・金剛流が成立し南北朝時代に観阿弥が組織した観世流が足利義満の援護を受け、世阿弥・観阿弥の父子 の天才と努力は﹁能﹂の芸術性を飛躍的に高めたと云われている。室町幕府が弱体化し戦乱の時代に観世信光等の大 衆性を持つ作品を書く能役者も出て、地方の支持を受けて生き続けてきた。﹁能﹂の作品の多くは室町時代に作られ たものが多い。 桃山時代は﹁能﹂のマニアであった秀吉の庇護により面や装束の改善、技法の洗練に進歩が著しく、又アマチュア 化が顕著でみづから演じ楽しむ素人の手猿楽が流行し﹁能﹂は国民演劇としてのひろがりをもっに至ったと言われて いる。能楽は江戸時代以前は四座によって継承され秀吉が保護・育成し、秀吉自身が金春で﹁能﹂を学んだ事から金 春が重く用いられたが、秀吉は金春だけでなく広く能役者を四座に統合する形で扶持米支給の保護策をとり、自らも 自作能﹃太閤﹄を演じたといわれる。 安土桃山時代信長は謡曲﹃敦盛﹄を好み、又秀吉も同様に好んだ事から次第に武家にも武士の教養として好まれる 様になり。江戸幕府にも踏襲され官位昇進・婚礼・などの祝儀および接待や供応に不可欠であり﹁能﹂の中心も江 戸に移り、観世・金春・宝生・金剛の四座が幕府公認となり、扶持を受ける事となる。︵後に新興の喜多流が加えら れる︶幕府指定の儀式古典芸能となって、再現芸術としての道を歩みはじめ、世襲による家元制度と分業制度が確立 する。武士階級の専有物となったが﹁能﹂から分離した、﹁謡﹂が町人にも浸透し流行していったといわれる。此の 時期黒田藩と﹁謡﹂の関係を調べて見ると福岡藩も諸藩同様であるが外様大名では武力に力を注いでいない姿勢を 且 aτ 示す必要性から﹁能﹂が重んじられた。 更に黒田長政と拘わりの大きい喜多流を確立した北七大夫に就いて記してみよう。北七大夫は元武士の出身で七歳 で能を舞って七ッ大夫と呼ばれたことから七大夫と称したといわれる。金剛座で活躍し二十歳で座を仕切る金剛大夫 になる。しかし大坂夏の障で豊臣方に加担し敗れて、落人となり長政の庇護を受け紅雪と改名して、福岡藩で七年間 稽古能を指導し藩内に喜多流を指導する。因みに櫛田神社の山笠納能は現在でも喜多流で納められる。能界に復帰を 許された七大夫は四座の大夫なみに扱われ、五流の一翼に連なることが許された。その芸風が武士に相応しいとされ、 家光も喜多流を後援したこともあって地方の諸藩においても観世流を凌ぐ勢力を持ち得たといわれる。本書に見える 羽衣・膿・楊貴 此の年九月十九日に小烏 吉之様御病気清快ニ付、御祝儀能有り。諸士の外に町人、百姓ニも拝見を許される。 ほかに同時代の︻能・謡︼の様子を拾い出してみると 元禄十五年正月廿八日 天満宮八百年御忌ニ付、連歌・能が行われる。 例年之通り能番組・歌舞伎踊りが行われている。﹃長野日記﹄ 二月廿五日 番組三番受・高砂・頼政・松風・天鼓・百万・鉢木・海女 宝永二年九月十九日 泉州公︵宣政︶清左衛門︵隅田重時︶宅で行う。御能興業有り 能あり。 宝永五年二月五日 妃・郎郡外五番有り。﹃長野日記﹄ 御新造之御座船、船内にて仕舞を執り行う。慶事なり。 千歳三史・難波・頼 宝永七年九月十六日 番組千歳三番史・高砂・八嶋・葵ノ上・熊坂・狸々十九日は 御代替御祝儀能、宣政五代藩主に襲封、町人等にも見物を許される。 廿七日にも御能興業有り。泉州公は自ら御能を成され、網政公は始終御覧に成る。 番 正徳三年正月十三日十九日 一一月十八日 組 \ 正徳三年四月廿九日 正徳三年五月七日 事保元年十一月廿一日 寛保元年九月十九日 元文三年十一月五日 享保十二年三月廿七日 事保十二年三月廿五日 享保十一年六月十六日 政・湯谷・羅生門・三輪・三井寺・養老 御祝儀能表御舞台にて能有り諸士に拝見を許されている。﹃福岡県史通史編 藩文化︵下︶﹄番組高砂・膿・野々宮・相崎・源氏供養等、外五番有り。 御祝儀能 番組加茂・八嶋・江口・桜川・郁郁等外五番有り。﹃長野日記﹄ 番組老松・腺・野々宮・清経・田村・乱﹃福岡県史通史編福岡藩文化︵下︶﹄ 岡 録﹄﹃福岡県史通史編福岡藩文化︵下︶﹄にも記載なし。 鳥飼八幡宮に新たに能舞台が出来て神事能がはじまるが、この能舞台の事は﹃博多津要 記されている。 面白いのは、能が行なはれている聞は、小用等に立てば再入場が禁止されていたことが 賀両行事御用銀御用達之者、一町上り年寄一人組頭一人充ての札が出されている。 左京若君様の誕生祝儀能に、武士町人六百人程が見物を許されて居る。町人は両大 ︵ 下 ︶ ﹄ 番組曜子難波・忠度・松風・黒塚・春日竜神﹃福岡県史通史編福岡藩文化 番組三番史・高砂・膿・芭蕉・葵ノ上・海士﹃長野日記﹄ 天満宮八百二十五年御思ニ付能が行われる。 ︵ 下 ︶ ﹄ 番組曜子・仕舞・高砂・桜川・来女・春栄・三輪﹃福岡県史通史編福岡藩文化 愛好した様がうかがわれる。 享保七年二月二日五日七日 継高公自身が在府中に襲封祝の能を催す等又自ら小鼓をうつなどして役者相手に能楽を 福 延享二年四月十五日 宝暦三年二月三日 番 組 御 祝 儀 能 翁・三番聖・高砂・田村・羽衣・龍田・金札﹃福岡県史 岡藩文化︵下︶﹄ 通史編 六代藩主継高公の昇進祝儀能が行われ町人御用銀御用達之者年寄組頭等が拝見を 許されている。継高公は殊の外、能を好まれこの外再三能舞台を催して居ることが記録 に残されている。︵野村護︶ 芝居興行における差別と重罪の判決 この﹃博多年代記﹄のごとく都市の歴史を直接、詳細に記述する史料には、屡々部落差別に関する文章や文言が見 出される。それは権力者側にも一般民衆側にも見られるが、ともすれば権力者側の差別に重点をおいて論じられるこ とが多いが、一般民衆にもきわめて根深い差別感があったことを見落してはならない。一般民衆の古来の根深い差別 感があるからこそ権力者側もこれを容易に是認し利用して権力を示威することが出来たと言えるであろう。以前編纂 した近世博多の最も重要な史料集である﹃博多津要録﹄︵二七冊、西日本文化協会にて刊行、三巻︶にも差別問題は 屡々見出され、解題において、これらを明示し解説を加えたが、﹃博多年代記﹄の中にも第二綴には西門河原での芝 居興行に際しての差別事件が記されている。しかし﹁年代記﹂に見られるこの事件は﹃博多津要録﹄には記載されて はいない。 この事件は次の通りである。以前は御笠川︵石堂川︶の川幅は現在よりも広かったのであろう、絵図には広く河原 が描かれているものがあるが、西門河原での芝居の興行が屡々記録されている。事保十四年︵一七二九︶三月十一日 芦屋役者による芝居が始まって三日目に被差別民衆が芝居見物に入ることを申し立てたので、博多の町方としては、 西門河原は博多の中に入らず、郡方の支配に属するので、郡方に申し出て、さらに町奉行・浦奉行にも申し出て、先 -197- 福 年からの芝居の書付、元禄十五年以来の目録、十五、六年以前よりの書付を差し出した。役人はこれを検討して、先 年より彼らが見物に来たことはなかったと判断し、役人より町方へ﹁芝居見物に入った前例はなく、今後も入れない ように﹂と命じた。 その後四月廿日より五月十八日までの芝居の八日目の五月十日朝、百人の者が芝居に押しかけてきて、後ろの垣を 三か所切り破り、弁当の膳を踏み落とし、幕を切って三つを破り、人形四つを打ち割り、手すりを打ち破って引き取っ た。もっとも人には一人も手をかけなかったが、白鉢巻、白装束で手槍、山なぎなた、鎌、竹槍を持って乗り込んで きたのであった。 すぐ役人たちが来て、年行司仲間の三人も立ち会いに来て、町奉行の御付衆も全員来て早々町奉行へ報告し、奉行 は藩庁へ届けるとともに町方へは芝居は早々に始めるようにと命じ、五月十三日に再び始まった。その後被差別民の 頭取七人が詮議されて厳しい処分を受けたと記している︵﹁長野日記﹂によれば打ち首二人、その他︶。 もっとも博多年代記の別の箇所には、操り芝居が享保十四年四月二十四日より五月十八日までに十四日であったが、 この芝居で被差別民の喧嘩があり・:被差別民が押しかけ狼籍したとのみ録されているが、前記の事件を別に簡略にし て記したものと思われる。 前述のように﹁博多津要録﹂にはこの喧嘩は全く記録されてなく、少し前の同じ享保十四年︵一七二九︶二月に、 七ヶ年の問、一ヶ年に博多に一度、福岡へ一度、日数十四日ずつ箱崎松原か博多松原での芝居見物を許し、相撲・操 り、歌舞伎の間勝手たるべしと記すのみである。 しかし﹃長野日記﹄にはこの事件を別の観点から見た記述がある。それには、石堂口で操芝居があったときに被差 別民衆が多勢で芝居へ乱入し狼籍を働いたので役人が詮議したところ、これまで芝居奥行には、町方より付け届けが なされる慣行があったのに、それがなかったからだとの弁明がなされた。これに対して役人が﹁拷問﹂して詮議した ところ、付け届けの儀は証拠がないということになった。 -198ー しかし一般に付け届けは慣行であって、文書に書かれるようなものではないのに、その配慮はまったくなかった。 しかも春以来芝居を見物したかった六十人余︵年代記では百人︶の民衆が﹁徒党﹂を組んで狼籍におよんだというこ とにして﹁拷問﹂によって無理に﹁白状﹂させて、詮議の上、頭取二人は﹁打首﹂、さらに六人の者には一命は助け るが、過銀、追放となった。しかも過銀は町方へ渡すなど極めて一方的に重い判決であった。﹁拷問﹂をして詮議し て﹁白状﹂させたこと、多数で押しかけ乱入したのを﹁徒党﹂を組んだとする判断は、当初より事件の公正な判断し ようとせず、﹁天下の大法﹂である徒党の禁を犯したと一方的に断定をすることで二人には打ち首の判決をなし、し かも他の六人には過銀、追放の判決。過銀は町方へ渡すという極めて不公正な判決であった。 芝居という当時の民衆の最大の娯楽であった芝居見物から博多の町は被差別民を排除し、抗議の行動に対しては、 町は直ちに藩の役人に訴え、藩の役人が乗り出して拷問をして﹁白状﹂させて極刑を科したのは、全く被差別民への 差別そのものであり、町方民衆の差別意識と権力者の差別的判断、判決を端的に示すものである。部落解放史上、差 別の事実の貴重な記録であり、深い反省の資とするとともに、この史料を活用するにあたっては、とくに慎重な配慮 をしなければならない。︵秀村選三︶ 貨幣と物価 ﹃博多年代記﹄の特徴の一つに、貨幣と物価に関わる記事が多く含まれていることがあげられる。現状の第一綴冒 頭には十八世紀前半の福岡藩札と銀貨の沿革が記され、第二綴以降にも﹁金銀さわぎ﹂や﹁新銀つまり﹂といった博 多・福岡の経済事情が書き留められている。これらの記録は自ら金屋業を営み博多年行司を勤めた磯野五兵衛の経済 に対する関心の高さを示すとともに、﹃博多年代記﹄が作成された時代に博多・福岡の貨幣と物価が大きな変動に見 舞われたことを教えてくれる。ここではその具体的な様子を、元禄・宝永期の福岡藩札と享保期における銀貨の価値 -199- 変動の問題から見ておくことにしよう。いずれも﹃博多年代記﹄における経済関係の記事を理解する上で基礎的な前 提事項である。 元禄・宝永期の福岡藩札 元禄十六年︵一七 O三︶十一月に福岡藩は、同藩にとって初めての試みとなる藩札の発行を開始した︵二頁︶。藩 札の額面は、五匁から二分までの小額面が六種類、五 O匁以上の高額面︵大札︶が三種類で、藩札の発行に伴って二 分︵藩札の最少額面︶以上の金・銀・銭の使用が禁止された。この時期の福岡藩は、京都・大坂への借銀や凶作によっ て財政の逼迫が深刻化していた。福岡藩は領内に藩札を強制的に流通させることで、城下・地方に存在する正金銀を 藩の財政に吸収しようとしたのである。 こうした福岡藩の思惑に反し、福岡藩札の流通は順調には進まなかった。発行直後から贋札が出回り始め、藩札の 価値も額面通りの価値を維持できなかった。領内では銀への両替が制限されていたため、﹁旅出﹂する者が藩札を﹁内 証替﹂する際には、三、四割の割増が必要となったという︵二頁︶。藩札の実質的な価値は額面の七割ほどに落ち込 んでいたことになる。 また藩札の引替に充てられる正銀の準備も不足しがちであった。藩札発行から三年後の宝永三年︵一七 O六︶八月 には、博多年行司中から引替の準備銀の改善を含む札遣いの改革案が藩に提出されたが、採用されずに終わっている ︵﹃博多津要録﹄第一巻、二七三|五頁、﹃福岡県史通史編福岡藩︵二︶﹄七六四頁︶。紙で作られた藩札がその 価値を維持するには充分な引替準備が必要となるが、当時の福岡藩にはこの点に対する充分な配慮が欠けていたとい えるだろう。結局、宝永四年五月になると準備銀の不足から引替の滞りが発生し、藩札の価値は大幅な値崩れを起こ すことになった。銀への引替におよそ二 O割︵二 O O %︶の割増が求められたというから︵二頁︶、藩札の価値は一 挙に額面の三分の一にまで下落したのである。 この藩札の暴落が博多と福岡に与えた影響を磯野五兵衛は同時期の他の記録類に較べて詳しく書き留めている︵一一 -200- 一一|二三頁︶。それによると、この時、特に問題となったのは米価高騰による米穀流通の機能不全であった。藩札の 価値が三分の一まで下落した結果、物価は約三倍に跳ね上がる。米価の場合、一俵︵三斗三升入り︶三四1三五匁だっ たものが、九 O匁にまで急騰することになる。こうした米価の急激な上昇が日常的に飯米を購入して生活する博多・ 福岡の人々に大きな負担となったことは想像に難くない。都市零細民を中心に飯米の購入が困難となったためであろ う、博多の中津川原では老人と子供への米の施行が行なわれている。また高騰した米価を引き下げるために、米の小 売価格の規制や米を売り惜しみ隠匿した町人に対する厳しい処罰も実施された。 こうした処置の結果、米価の高騰が沈静化したのに対し、藩札自体への信用は回復することはなかった。逆に、同 年八月に幕府から諸藩に対して札遣いの停止を命じられると、﹁札よはり﹂と呼ばれる藩札の信用不安が加速するこ とになる。この信用不安においては、藩札の流通停止を見越した人々が抵当に入れた質物をこぞって請け戻したため、 質屋が大損する事態にもなっている︵二三頁︶。やがて廃止されるであろう藩札から物的資産への逃避が一斉に広がっ たのである。最終的に福岡藩札の流通は同年九月に停止され、当時の市中の相場に準じた価格︵額面の三O %︶で回 収されることになった︵二、二三頁︶。福岡藩による初めての札遣いは、領内に様々な経済的混乱を引き起こした末、 わずか四年で頓挫することになったのである。 享保期の銀貨の変動 藩札が回収された後、博多と福岡に貨幣として残されたのは銀貨と銭貨であった。このうち銀貨は、﹃博多年代記﹄ にしばしば﹁銀くるい﹂といった表現が見られるように︵九、三四、三九頁などて様々な流通上の問題点を抱えて いた。この藩札回収後の銀貨の問題は、銭貨の流通をも巻き込みながら、博多・福岡の経済のあり方を大きく転換さ せることになる。以下、十八世紀初頭の銀貨の流通状況を整理しながら、この﹁銀くるい﹂の実態を見ていこう。 磯野五兵衛が生きた時代、銀は単一の銀貨だけから構成されるものではなかった。当時の銀貨は、宝永銀、永字銀 ︵二宝銀︶、三宝銀、四宝銀といったように、いくつかの種類に分かれ、しかも銀の含有率︵品位︶がそれぞれ異なっ -201- ていた。これは幕府の勘定奉行であった荻原重秀が改鋳による利益︵出目︶を 元禄銀 元禄 8年( 1 6 θ 5 ) 6 4 .0 0 8 0 .0 宝永銀 宝永 3年(口四) 永字銀 宝永 7年( 1 7 1 0 ) 三ツ宝銀 宝永 7年( 1 7 1 0 ) 四ツ宝銀 正徳 1年( 1 7 1 1 ) 正徳・享保銀 正徳 4年( 1 7 1 4 ) 5 0 . 0 0 6 2 . 5 4 0 .0 0 5 0 .0 3 2 .0 0 '4 0 .0 2 0 . 0 0 2 5 . 0 8 0 .0 01 0 0 . 元文銀 元文 I年( 1 7 3 6 ) 4 6 . 0 0 5 7 . 5 う通用規定の変更はしばしば物価の急激な変動を引き起こすことになる。 この点を実際の相場の動きから見ておきたい。表2は十八世紀初頭における博多・福岡の米相場と銀相場︵銭建て︶ 価が徐々に上昇しているが、これが銀の価値の低下に起因するものであることは表の銀相場の動きから明らかであろ だが、この時期に目立つのは銀貨の価値が変化したことによる米価の変動である。享保三年から同六年に銀建ての米 をまとめたものである。通常、米価の変動は享保十七年の飢鐘の際のように、米の需給関係に規定されることが多い。 注:指数は慶長銀の品位を 1 0 0とした数値 求めて、銀貨の品位を徐々に切り下げていったことが背景にある。近世初期に 鋳造された慶長銀の品位が八O%であ引たのに対し、元禄銀は六四%、宝永銀 は五O%、永字銀は四O%、三宝銀は三二%、四宝銀に至つては二O%にまで 引き下げられ、これらが同じ価値で流通するように規定された︵表1参照︶。 宝永四年︵一七O七︶に幕府が諸国の札遣いを禁止したのも、低品位の銀貨の 流通を促進しようとした意図があったといわれている。 しかし、この改鋳による出目の獲得を基調とした幕府の貨幣政策は、正徳二 年︵一七二一︶年に荻原重秀が失脚し、貨幣の品位を重視する新井白石が幕政 の中枢を握ると正反対の方向に転換する。三宝銀・四宝銀・など品質の悪い銀貨 はそれぞれ品位に基づく流通価格が設定され、新たに鋳造された﹁新銀﹂︵正 徳・享保銀︶も品位が慶長銀のレベルにまで高められることになる。これらの 政策は改鋳を重ねてきた幕府の貨幣政策を是正するものであったが、それに伴 。 8 0 .0 0 1 0 0 . う。また品位が高い﹁新銀﹂︵正徳・享保銀︶が本格的に導入される事保七年にも、銀相場の上昇に合わせて前年に ~ 202- 品位(%)指数 種類 鋳造開始年 。 慶長 6年( 1 6 0 1 ) 慶長銀 う副作用も決して小さくなかった。品位に基づく価値の換算は市中における銀貨の流通を混乱させ、新貨の導入に伴 表 1 銀貨の鋳造開始年と品位 表2 博多・福岡の米価と銀銭相場の推移 (1703-41年 ) 年代 米価 ( 銀 匁 ) 銀銭相場 ( 銭 文 ) 克禄 1 6 年( 1 7 0 3 ) (1 7 0 4 ) 宝永 1年 宝永 2年( 1 7 0 5 ) 宝永 3年( 1 7 0 6 ) (1 7 0 7 ) 宝永 4年 3 0∼9 0 (1 7 0 8 ) 宝永 5年 宝永 6年 (1 7 0 9 ) 宝永 7年 (1 7 1 0 ) 1 9 (1 7 1 1 ) 正徳 l年 (1 7 1 2 ) 正徳 2年 正徳 3年 (1 7 1 3 ) 4 8 (1 7 1 4 ) 正 徳 、 4年 0 3 6∼4 (1 7 1 5 ) 正徳 5年 享保 l年( 1 7 1 6 ) 0 3 7∼5 享保 2年( 1 7 1 7 ) 3 8∼5 0 享保 3年( 1 7 1 8 ) 2 5∼4 2 享保 4年 (1 7 1 9 ) 4 8∼5 9 享保 5年 (1 7 2 0 ) 5 7∼8 6 享保 6年 (1 7 2 1 ) 7 2∼1 0 0 享保 7年 (1 7 2 2 ) 1 5∼2 5 享保 8年 (1 7 2 3 ) 9 . 2∼1 5 (1 7 2 4 ) 1 享保 9年 0 .5 0 .4∼1 享保1 0 年 (1 7 2 5 ) 5 1 2∼1 享保1 1年 (1 7 2 6 ) 1 5 .2∼2 0 .8 享保1 2 年 (1 7 2 7 ) 1 0∼1 6 享保1 3 年 (1 7 2 8 ) 1 0∼1 4 享保1 4 年 (1 7 2 9 ) 3 9∼1 享保1 5 年 (1 7 3 0 ) 享保1 6 年( 1 7 3 1 ) 1 0 享保1 7 年 (1 7 3 2 ) 1 2 . 4∼4 4 8 年 (1 7 3 3 ) 享保1 1 2∼3 8 享保1 9 年 (1 7 3 4 ) 享保2 0 年 (1 7 3 5 ) 元文 l年( 1 7 3 6 ) 1 7 3 7 ) 元文 2年( 元文 3年 (1 7 3 8 ) 元文 4年 (1 7 3 9 ) 元文 5年 ( 1 7 4 0 ) 1 7 4 1 ) 寛保 l年( 2 5∼3 0 備考 1 1月、福岡藩札の発行・流通 6月、三ツ宝銀の鋳造開始 8月、福岡藩札の流通悪化。幕府、藩札を禁止 3月、永字銀。 4月、三ツ宝銀、乾字金の鋳造 8月、四ツ宝銀の鋳造開始 6月、米高値 正徳(享保)銀の鋳造開始 3 0∼4 0 1 1月 、 I 金銀さわぎJ(新金銀通用令) 2 4∼2 8 1 8∼2 2 1 8∼2 0 7 6∼8 0 新銀(享保銀)建てとなる。「新銀つまり J 7 6 「銀つまり」 7 4 8 8 8 2∼8 4 秋より飢穫となる(享保飢餓) 元文銀の鋳造開始 4 4 銭遣いを元文銀(文銀)に合わせる 大坂にて鉄銭鋳造 、『博多津要録』、「長野日記Jより作成。 典拠:『博多年代記J 注:米価は l俵( 3斗 3升入)あたり。銀銭相場は銀 1匁あたり。 相場の数値は典拠史料で確認される各年の最大値と最小値を採った。典拠史料 で数値が確認できない年は空欄とした。 -203- 一O O匁にまで達した米相場が一五 1二O匁へと急落したことが確認される。こうした貨幣的な要因による物価の急 激な変動は、単に数字の上だけの問題に止まらない。このことを知実に伝えるのが﹃博多年代記﹂の第二綴にある﹁金 銀さわぎ﹂と﹁新銀つまり﹂のくだりである︵三五|三六頁︶。 ﹁金銀さわざにとは、幕府が享保三年間十月に三宝銀・四宝銀などの品位の低い銀貨の通用価値を大幅に切り下げ たことに端を発する騒動である。品位二 O %の四宝銀の場合、新銀の品位八 O %との比がとられ、新銀一 O貫目 H四 宝銀四 O貫目とされた。つまり四宝銀の価値は四分の一にまで切り下げられたわけである。当時の博多・福岡では四 宝銀が通用銀として一般的に用いられていたので、その社会・経済への影響も甚大であったと考えられる。 一方、﹁新銀つまり﹂は先に表で触れた享保七年一月の新銀の本格的な導入に伴う経済不況である。この年は四宝 銀などの﹁古銀﹂の流通を停止し、良質な﹁新銀﹂への切り換えが行われたが、肝心の新銀の流通量が不足したため か、博多・福岡では﹁商売事一切無、商売人難儀仕リ﹂と市中の商取引が麻布博する状態に陥っている。このように福 岡藩札の回収以降、享保期の博多・福岡は銀貨の価値変動による弊害が顕著にみられた。 もっともこうした銀貨の変動に対して、何ら対応がなされなかったわけではない。博多・福岡では享保期の﹁金銀 さわぎ﹂や﹁新銀つまり﹂を画期として、不安定な銀貨に代わって、銭貨を価値の尺度として用いることが徐々に一 般的となる。﹃博多年代記﹄が作成された十八世紀前半は、銀貨の使用範囲が縮小し、銭貨の使用範囲が拡大した時 代でもあったのである。注意深く﹃博多年代記﹄に目を通せば、享保期頃から銭の使用例が増加することにおそらく 気付かされるだろう。 もちろん銭貨の使用は古代・中世にまで遡り、近世に入っても博多・福岡の日常的な小口取引において重要な役割 を果たしてきた。しかしここで留意すべきは、近世前期における銭貨の使用は大半が支払いの手段としてであって、 商品の価値を測る尺度としての機能は限定的であったことである。十七世紀の博多の基礎史料である﹃博多津要録﹄ の銀・銭の使用例を見てみても、十七世紀末までは殆ど銀建てが使用され、銭建ての表記はわずかな事例に止まる。 -204- 宝永・享保期の銀貨の相次ぐ改鋳とそれによる物価変動は、この銀を基準とする経済の根幹を揺るがすものとなった のである。 一般的な価値尺度として銀と銭が措抗している状況を示す興味深い現象が享保四年に起きている︵三五頁︶。この 年は前年からの﹁金銀さわぎ﹂の影響が残り、銀の価値は乱高下を繰り返していた。注目されるのは、この乱高下に 対する博多・福岡の人々の対応である。九月の段階での銀相場は銀一匁 H銭二四文であったが、銀の評判が幾分か回 t z 復すると銀一匁日銭二四文の相場に対し二歩︵二%︶ほどの歩合を取り︵﹁銭6弐歩指﹂︶、反対に銀の評判が悪化す ︵ ると今度は銀に七 1八%の歩合が設けている︵﹁銀廿四文ニ又銀圃歩出ル﹂︶。つまり、ここでは銀の短期的な変動を 銀銭相場の数値によってではなく、一定量の銭を基準に︵ここでは市中の銀銭相場の銭二四文︶、そこから歩合を取 ることで調整しているのである。このことは博多・福岡において一定量の銭が銀と同等の価値尺度として機能し始め ていることを意味しよう。 何文の銭を基準とするかは、内外の銀銭相場の動向を窺いながら、博多町人や福岡藩によって決められていたよう である。博多では享保十六年二月五日に一匁が銭八八文とされたが、﹁此銭ハ町方6願不申︵今回の銭は町方より願 い出ないことあり︵六九頁︶、博多の町方において日常的に銭の基準量が取り決められていたことが間接的に窺える。 こうした一連の傾向がさらに進むと、銭は﹁四十四文銭﹂や﹁五十銭﹂といった形で、ある種の独立した貨幣単位 として振る舞い始めることになる︵一一六頁など︶。四四文銭は一匁を四四文とし、銀貨と同じ単位︵匁・分・厘︶ をとるが、銀の価値とは議離している。四四文銭一匁の価値は、銀銭相場がどれだけ変化しようと四四文である。 二疋量の銭を匁の単位で使用する勘定方式は、銭を紐に通して束ねるという鱈銭の慣行に支えられ、博多・福岡で 広く普及していく。寛保元年︵一七四一︶五月には、四四文銭・六O文銭・六三文銭など数種類の使用例が確認され、 その﹁銭目之貫﹂の統一化が福岡藩によって図られでもいる︵﹃博多津要録﹄第二巻、一四 O頁︶。﹁銭目之貫﹂は縄 銭一本あたりの銭の枚数を示すものであろう。このように博多・福岡では元禄・宝永期の藩札政策の失敗と享保期の -205- 銀貨の価値変動を経て、銭建てを標準とする経済圏に変っていったのである。 経済史料としての﹁博多年代記﹄ ﹃博多年代記﹂の時代は、福岡藩札の失敗、銀建てから銭建てへの移行、さらにそれらに伴う物価変動と、貨幣を 中心に激しい経済的な変動に見舞われた時代であった。こうした大規模な経済の変動に、金屋業を営む磯野五兵衛も 無関係ではありえなかった。 ﹁博多年代記﹄の後半、寛保元年︵一七四このくだりに博多市中の銑鉄切れの記事がある︵一一六頁︶。鉄器の鋳 造原料である銑鉄が欠乏した直接的な原因は、﹁大坂ニ鉄銭出来候ニ付﹂とあるように、大坂において鉄銭の鋳造が 開始され、その原料として銑鉄の需要が急増したことがあったが、さらに因果関係を手繰っていくと、その背景には 博多・福岡を含み九州などで形成されつつあった銭建て経済固とそれに伴う全国的な銭貨需要の増大があった。なぜ ならば、大坂での鉄銭の鋳造は、市中の銭貨が域外に大量に流出したことへの対策としての意味を持ち、しかも銭貨 の主な流出先は九州を中心とする﹁西国﹂であったからである︵﹃大阪市史﹄二一巻、四一七頁︶。十八世紀に入り、列 島規模で本格化する大小の﹁国産﹂化の動きも、小農らによる小額貨幣への大規模な需要を喚起させ、銭貨の利用拡 大の流れを加速させていた。 さまざまな経済的な現象が﹃博多年代記﹄には描かれているが、それらの因果関係までを磯野五兵衛が理解してい たかは定かでない。磯野五兵衛の筆致は、あくまで金屋を営み、博多年行司の要職を勤めた町人らしく、淡々と事実 を書き留めたものが殆どである。ただ、記述の簡素さはその史料的価値を弱めるものではない。むしろ、一人の博多 町人の筆を通じて、近世中期の経済の分水嶺が活写された史料として、﹃博多年代記﹄の価値を高めているといえる だろう。︵古賀康士︶ -206- ︵参考︶ 博多古図 博多古図 AH 九州大学附属図書館附設記録資料館九州文化史研究部門所蔵 三奈木黒田家文書 博多の古図としてほ模求的、であるが∼各町々や寺社等の関係位置はほぼ正し く、興味ある古図であろう。 那珂川・博多川・石堂川は書かれていないが、博多川のあたりに袖湊と書か れている。現在の中州中島町あたりは中嶋と害かれているが、このあたりは文 字通り中島で多少とも町らしくなりつつあったが、その南の川の中に中津と書 かれているあたりは、川の中の津︵ふなっき︶にすぎず、何もない州であった ろう。春吉村・住吉村から出作りしていたといわれる。津要録でも中津と見え るが、ここが後に中州と呼ばれるところである。 櫛田神社の裏手から春吉道と住吉道が出ており、また、石堂川を渡って箱崎 ないで 道と金出道に分かれているのが画かれている。石堂口と辻堂口には門が図示さ れ、また、橋口町のところには家が書かれているが、制札場であろう中嶋への 湊橋がある。 唐津街道は石堂口から宮内町・石堂町・中間町・綱場町・掛町・椛屋番のい わゆる六町筋を経て橋口町になる。 町名にはイハシ町︵鰯町︶が見える。延享三年に川端町下を鰯町に改めたが、 津要録によると以前から鰯町と過称されていたとも書かれ、この図でも川端町 下の浜側がイハシ町となっている。他の古図に古門戸町、妙楽寺新町、同裏町 と見え、幕末もそのように見える町々が、この図では古門戸町上、中、下となっ ている。馬次とあるのは人馬継所である。また、この図には鷹匠町が出ている が、鷹匠町は比較的早い時期に祇園町と改めたと云われる。 しかし、町名はおそらく公式の町名とともに通称や以前の町名等も併用され るのが普通で、この図にもそうした町名が書かれていると見てよい。小さな庵 や桐も細かく示され、ことに魚町︵津要録には中小路町と書かれている︶の地 蔵︵葛城地蔵・将軍地蔵︶が示されているのは少ないと思う。 -208- 品 あとがき 今まで史料集なるものを数十巻校注、編纂、監修してきたけれども、この﹃近世博多年代記﹄ほど手こずり、最後 まで刊行に不安感のある史料集は初めてである。解題の最初にも書いたように原本は失われており、写真の撮影は素 人写真でフィルムの映りが薄く、しかも各丁の綴目がよく撮影されてないことや、落丁、乱丁、白紙の挿入と推定さ れる箇所もあり、その上、筆者が晩年で高齢のためか、誤字、脱字、当て字等も多く、しかも奔放な書きぶりで、お そらく他人に読ませるつもりはなかったのであろう。しかし内容は他の博多関係の史料にはない記事も多く、今後の 近世博多史研究の重要な史料の一つとなるとの思いで刊行するものである。 以前﹃福岡県史 近世資料編﹄の﹃年代記﹄のなかに福岡藩全般の年代記や村方の年代記とともに町方の年代記と して、この博多の年代記を収めようとしたが、読解に苦しんで自信なく、 ついに断念し︵県史﹃年代記﹄ 一は町方ぬ きで平成二年に刊行したてその後もある古文書のグループとともに読んだが、やはり読解に苦しみ中途でやめたこ とがあった。その後数年続けていた西日本文化協会による市民との﹁古文書を読む会﹂の終講時︵二 O O六年九月︶ に、改めて希望者を募ってこの文書と取り組むこととしたが、幸いに十人の方が応募された。また私が貨幣史には暗 いので、九州大学の大学院博士課程の古賀康士君に適宜加わってもらい、丸七年聞かけて、ようやく刊行に漕ぎ着け たものである。すでに二年前の年末には、会員の方々はようやく完成したと思われ、忘年会か新年会で完成のお祝い をと思われていたときに、私は真に言い辛かったが、﹁たしかに良く読まれたし、このまま刊行されても一応はいい でしょう。努力されたことを私は書かせてもらいますが、しかし出来ればもう一度初心に帰って最初から読み直して 点検されませんか。﹂と言った。皆さん唖然とされていたのであろう、しばらく黙っていられたが、やがて﹁それな らばやりましょう。しかし疲れているから、三月まで休ませて下さい﹂と言われた。私としては﹁百里の道は九十九 里をもって半ばとする﹂という古人の言葉を信奉しているためであるが、よく私の言葉に怒らず、再度挑戦に踏み切っ て頂いたことには衷心から感謝している。やがて一昨年四月に再開した研究会は、やっとここに刊行の日を迎えよう としている。会員の方々にはさぞかし不平不満もあったろうが、よくぞ忍耐して努力されたことには、ただただ心か ら感謝したいと思う。私が年来﹁民学協同で地域史を学ぼう﹂と言ってきたことがいかに素晴らしい成果を生むかを 実証したと、全く感謝の気持ちで一杯である。 なお解題ははじめ簡略に思っていたが、各人よく読まれて詳しい解説になった観がするが、その御努力を重んじて、 ほぼそのまま載せることにしたことを御理解いただきたい。古賀康士君には適切な解説をいただき感謝している。 この史料は前欠があるため、いつから始められているかは不明だが、元禄後期あたりから年代を追って記述されて、 初めには元禄期の貨幣、米価のこと、その後磯野家と金屋座のこと、その後は博多の諸事象を年代を追って記述して いる。もっとも年月が前後することもあるが、老年期の回想として磯野家のこと、金屋、金屋座、香子のこと、貨幣、 米価のこと、博多町方の諸事万般、藩との関係、気象、地震、飢鑑、病気、相撲、芸能等々について他の史料には全 く書かれていない記事も多く、さすがは町年寄や年行司を務めた由緒ある一廉の町人の記録であり、近世中期の博多 について新しい知識を得ることができよう。私の単なる憶測にすぎないが、或いは改めて他人に依頼して五兵衛一生 の覚書を作る積りであったのかも知れない。また私は近世初期︵明暦?︶より宝暦九年までの記録である﹃博多津要 録﹄は原田安信撰となってはいるが、多くの人々、とくに年行司等を務めた人々の記録・覚書等の基礎史料があって -212- 編纂されたものであろうから、年行司等を務めた者には自分の役職の在任期間のこと、さらにはそれ以前、以後のこ とを記録することは、役職にあった者として当然各人の心にはあったのではあるまいか。年行司の役所にはそれらが 三二四・五頁︶︶、或いはこの﹃博多年代記﹄が何らか一つの示唆を与えるかもしれないと思って 保存されていたのではないかと思われる。私は﹃博多津要録﹂の成立について年来問題にしているが︵﹃福岡県史﹄ 通史編・福岡藩口 いる。 筆者の誤字、脱字、当て字や奔放な文面にはしばしば頭を悩まし、文言の解釈に議論百出することがあって、その 意味でも、まことに難しい文書であった。文字にそのまま大真面目に拘泥すると誤字が多いためかえって思わぬ落と し穴の怖れもあり、文字や文言からの新説、珍説には私自身あわてたこともあり、実のところ正確な判断を下し得な かったものもあった。私たちのギリギリの努力にもかかわらず、なお不安感が残る史料集の刊行は今回が初めてであ る。しかし、最近しきりに思い出すのは、若いころ竹内理三先生の史料叢書のお手伝いをしていた頃に、私が﹁まだ 不安です﹂と言った時に、先生が﹁まあいいんだ﹂と言われ、﹁ギリギリやれば早く出すことが大切だ。誤りは後の 人に訂正してもらえばいい﹂と言われていたことが、今になって大変意味深いお言葉であったことに気づき、あらた めて先生の偉さを思うのである。今は先生のお言葉に従って素直な気持ちで刊行したいと思う。 それにしても、この七年間この博多年代記の研究会の会員一同よく努力していただいたと思う。私の拙い指導、し かも老齢のため出席時間を短くして頂き、最近は体調不良からご迷惑をかけ種々ご配慮していただいたことを心から 感謝している。 本書の刊行にあたっては文書を御所蔵され利用を快諾された故三宅酒壷洞氏、御所蔵の磯野家本家の古文書を快く 閲覧利用させていただいた犠野元子さん、磯野敏明氏、御紹介いただいた磯野幸成氏、稲生治子さん、種々御配慮い -213 ただいた九州大学記録資料館、櫛田神社、西日本文化協会、福岡県人権研究所、福岡県立図書館・福岡市総合図書館、 福岡市博物館、部落解放同盟福岡県連合会、また研究会の会場として西日本文化協会、奈良屋公民館︵館長西頭敬一 郎氏︶、ことに長い年月にわたり利用させていただいた大浜公民館︵前館長三宅剛照氏・前主事中林至氏、現館長大 島弘枝氏︶に深く感謝申し上げるものである。また種々御教示、御配慮いただいた組坂繁之・庄村福夫・瀬戸美都子・ 瀬野精一郎・服部民子・森山泊一・山口信枝・吉岡正博氏の諸兄姉に深く御礼申し上げるものである。ふりかえって 思うとこの難読の文書に思い悩んだ末、十人の市民の方々と院生の古賀康士君と共に読むことができたのは本当に幸 -214- いであったと心から感謝するとともに、この会の運営に何かと御配慮いただいた野村護・江崎久誌両氏に御礼申し上 選 て コ げるものである。また、初めから熱心に参加されていて、病気のため休まれて回復後再び加わることを楽しみにされ ていたが、不幸急に亡くなられた渡辺薫さんのみたま安かれと切にお祈りする。 なお、最後まで気懸りなのは磯野五兵衛家の系図が五兵衛の子供までしか明らかでなく、その後の系図や御子孫の 方が分らず、調査が不充分であったことは残念に思っている。もし御存知の方があれば研究会の会員にお知らせいた だければ幸いである。 最後に大変面倒な印刷に長年にわたりご尽力いただき、まことに非常識な十三校まで一言もお怒りの言葉なく、 きあって下さった︵株︶昭和堂の各位には御礼の言葉に苦しむものである。この御寛容があったからこそ、この史料 集は完成したと心から感謝申し上げるものである。 村 どうかこの﹃博多年代記﹄が今後博多の歴史を愛する人々に読み続けられるようにと心から祈るものである。 二O 一三年二月二十二日 秀 校註代表紹介 秀村選三(ひでむら・せんぞう) 1 9 2 2年福岡市に生まれる。 九州大学名苦手数授・経済学博士 主要警編鶴『幕末期薩摩務の農業と社会』、『博 多津要録j第 l∼3巻(校注代表)、『守屋舎人 日限j第 l∼第 1 1巻、『西 I 菊地域史研究j第 l ∼第 1 3 1 '骨(編著)、『筑最石炭機業史年表 j ( 編 集代表) 磁野五兵衛覚書 近世博多年代記 発 行 地域史資料叢書 第三輯 註 二O 二二︵平成二十五︶年三月廿一日 ι 選 校 近世博多年代記研究会 』 主主 ヰ叶 J ︵非売品︶ 口 手 秀 ふかe 昭 近世博多年代記研究会 ( 栂 校註代表 リ 席 発行所 1 : n
© Copyright 2024 ExpyDoc