明治を代表する経済人 片山平三郎と大黒屋 九十 九橋 (福井市つくも町) ︿芦原街道﹀ 半 木 半 石 の 奇 橋、 名 橋 と し て 江 戸 月の 福 井 商 法 会 議 所の 創 設に も 加 わ 年、 県 会 議 員 に 選 出 さ れ、 そ の 年 4 当 選 し、明 治 発 起 人 を 務 め、 議 員 選 挙 で は トッ プ 年 8 月 認 可の 新 制 福 期 に 全 国 に 知 ら れ た 九 十 九 橋。 福 井 井会議所の最初の会頭に就任した。 日の橋南大火では、 る。北陸道の要所であった。橋の北詰 2 代 会 頭 に 就 任。 当 時 の 福 井 県 の 最 で 初 代 会 頭 で あっ た 伊 藤 真 に 代 り 第 るとともに、福井の商工業者が大きな 焼 失 し た が、い ち 早 く 店 舗 を 再 建 す 平三郎の大黒屋も店舗など家産一切を 年4月 には福井藩の藩札を扱っていた駒屋が 大の課 題であった春 日 野 道(現 在の国 明治 あり、幕末の物産総会所もここに置か の資料の制約もあり、明治期の記述に 『 福 井 商 工 会 議 所 百 年 史 』は、当 時 会議所会頭に就任した。 打撃を受けていたため、請われて三度 年 7 月、 春 道 8 号の前身)の建設資金確保の先頭 契機に会頭を勇退した。 混乱が見られ、片山平三郎の三度にわ なお、彼は書画にも通じた風流人で、 たる会頭としての事績は脱漏している。 年 4 月 福 井 市 発 足に 伴 う 市 会議員選挙でも一級議員で当選してい 明治 年 月2日 11 才で死 去、法 名 64 は良善院桃洲小洞居士。 45 片 山 桃 洲の雅 号で作 品 を 残 している。 る。因みにこの年、市税の最高納税額 条 例 に 基 づ く 福 井 商 業 会 議 所 設 立の 商 業 会 議 所 条 例 が 公 布 さ れ る と、 簾 を 受 け 継 ぐ と と も に、 明 治 維 新 後 明治 近くにあった片山家建立にかかる 宝蔵寺跡付近(つくも町) 九十九橋現況 たのは 慶 応 2 年 4 月 で、大 黒 屋の 暖 大 黒 屋 の 当 主 片 山 秋 直 の 養 子 と なっ 18 は片山平三郎であった。 22 丹 生 郡 本 保 村 生 ま れ の 平 三 郎 が、 れていた。南 詰めにあったのが、江戸 18 に た ち 奮 闘 し た。 明 治 年 8 月の 福 井 商 法 会 議 所 臨 時 大 会 26 中 期 に 創 業 し 和ロ ー ソ ク や 鬢 付 け を 33 日 野 道 建 設 が 政 府 認 可 と なっ た の を の 特 徴 あ る 橋 を 架 け た と 言 わ れ てい り、 ま も な く 副 会 頭 に 就 い た。 明 治 大黒屋 (片山家) 市の中心に架かる橋で、柴田勝家がこ 久保町 明治中期の大黒屋(商工便覧店舗) 片山平三郎 川 羽 足 花月橋 九十九橋北 商っていた大黒屋(片山家)である。 17 は 徐 々に 福 井 地 域 で の 商 工 業 者 の リ ーダとなっていった。 福 井 が 石 川 県 に 属 し てい た 明 治 13
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