新しい芸術” - tsnym.nu

新しい芸術”
19 世紀末から 20 世紀初頭にかけておこった、装身具、家具、ポスター、室内装飾や建築にまで及んだ<アール・
ヌーヴォー=新しい芸術>と総称される芸術運動。
■サミュエル・ピング
ハンブルク出身の美術商。アール・ヌーヴォーの名称は、1895 年にピングがパリの一角に開いた
美術店名に由来する。875 年には日本へ旅行して多くの日本陶器を持ち帰る。1888 年からは月刊
誌「芸術的日本」を刊行。この雑誌は 1891 年までの聞に英仏独の 3 カ国語で 36 号が刊行され、
ヨーロッパの工芸界に新鮮な衝撃を与えた。
■ブリュッセル
新しい芸術は、パリよりブリュッセルが先行していた 1893 年に完成したヴィクトール・オルタの
多彩な曲線装飾によるタッセル邸等が代表的。
■アンリ・ヴァン・ド・ヴェルド
画家を志したヴァン・ド・ヴェルドはこの時、モリスの理想に鼓舞され、また装飾によって生み
だされる確かな表現力を自覚して、工芸家へ完全に転身していた。1895 年、 ピングはブリュッセ
ル近郊に建てられたヴァン・ド・ヴェルドの新居を訪ね、くアール・ヌーヴォー〉の店の装飾を
彼に依頼した。
■アール・ヌーヴォー・パビリオン
ピングが 1900 年のパリ万国博覧会で企画したパビリオン。大好評をおさめ、くアール・ヌー
ヴォー〉の名を、桟式名に定着させた。
■エクトール・ギマール
建築家エクトール・ギマールはパリにおけるアール・ヌーヴォーの中心的人物であった。1898 年
に完成したラ・フォンテーヌ街の集合住宅カステル・ぺランジェ]流れるような曲線と曲面によっ
て人びとの注目を集めた。カステル・ベランジェの新様式は、 パリ市が主催したファサード・コ
ンクールに入賞した。さらに、ギマルはパリ市からの依頼を受け、市内 100 以上の地下鉄入口を
手がけた。この地下鉄入り口は今もなおパリで目にすることができる。
ネオ・ロココ、ナンシー派
アール・ヌーヴォーは、フランス・ロレーヌ地方の古都ナンシーに行いても、総合的な規模で展開した。中心人物
のガラスエ芸家エミール・ガレなど、ナンシー派の芸術家は、 ロココの伝統に影響を受けていた。
もう一点ナンシ一派の形式を影響を与えた物とひて、 日本の美意識がある。アール・ヌーヴォーの空間感情が日本
の美術工芸から多くの啓示を受けたことは、他の多くの例で示されるのだが、 とりわけナンシー派についてはこの地の
水利森林学校に留学した日本画家高島得三からの直接的な影響があった。
デザイン史概説 #05 新しい芸術 ポスターの世紀
アール・ヌーヴォーの時期は、同時にポスターの黄金時代であった。この時代は、絵画そのものが装飾の可能性を
めざしていた。この時代の代表的な作家として、ドニ、ピエール・ボナール、ポール・ランソンらナビ派や、アンリ・
ド・卜ウールーズ=ロートレック、ジュール・シェレ、ウジェーヌ・グラッセ、アルフォンス・ミュッシャなどがいる。
ユーゲントシュティール
フランスのアール・ヌーヴォーと同時期、 ドイツに主ち現れた新傾向に対しては、ユーゲントシュティール(青春
様式)との呼び名で総称された。これは 1896 年にミュンへンで発刊された雑誌「ユーゲント」から、その名がとられて
いる。ミュンへンのユーゲントシュティールは。1897 年、この地に<手工芸芸術共同工房>が設立された時、実質的な
運動体となった。ここにはオーブリストの他、ベルンハル卜・パンコク、 リヒャルト・リーマーシュミット、それに
ベーター・ベーレンスらが名を連ねている。
分離派結成
「時代には時代固有の芸術を、芸術にはその自由を」、1897 年にウィーンで結成された介離派は、この精神を信条
とした。彼らが目途においたのは、分離派のその名の通り過去様式からの<分離>であり、新時代を切り開く芸術の創造
にあった。
分離派の初代会長は画家グスタフ・クリム卜である。また分離派には画家彫刻家の他に、建築家ヨーゼフ・マリ
ア・オルブリヒとヨーゼフ・ホフマンが加わっていた。二人は建築家オットー・ヴァーグナーの門下生である。
ホフマンとウィーン工房
ホフマンは 1903 年工芸家集団「ウィーン工房」を設立した。アーツ・アンド・クラフツ運動と同じく、ウィーン工
房は職人技術の復興を目標にしたものであった。もとより製品は入念に製作された。その上すべてめ製品に、分離派ゆ
ずりの優雅な感覚らが行きわたった。
ホフマンとウィーン工房は、 1932 年までこの種の優雅さを持続させたそれは近代デザインの進行に歩調を合わせる
ことからはかなり遠正ぎかった活動だった時代の本流とは、徹底して機能性や有用性を求める方向に他ならなかった。
ここではすべての装飾は逸脱とみなされることになる。
装飾と罪悪
ウィーンの地で、ひとり分雛派とウィーン工房を痛烈に批判したのは、建築家アドルフ・ロースであった。 1908 年
に発表した「装飾と罪悪」なる一文では、過激にも装飾は犯罪者や変質者の刺青に例えられた。ロースが攻撃をしかけ
たのは、幾分かでも香気を発散させる建築家や工芸家に対してであった。このロースの著作は、その後のモダンデザイ
ンにおける装飾の価値に多大な影響を及ぼした。
デザイン史概説 #05 新しい芸術