フレグ家の通婚関係にみられる交換婚

フレグ家 の通婚関係 にみ られる交換婚
宇
野
伸
浩
は じめ に
1,ギ ブ ・ ア ン ド・テイクの交換婚 の特徴
2.フ レグ家 とオイラ ト族 テ ンギズ家 との交換婚
3 交換婚 の政治的背景
結論
は じめ に
筆者 はこれまでに、チ ンギス ・カンか らモ ンケ ・ カアンまでのチ ンギス ・ カン家 の通婚
関係、お よびクビライ ・カアン以 降の元朝皇帝 の通婚 関係 につい て介筑 し、チ ンギス・ カ
ン家 と最 も通婚関係 の密接 な コンギラ ト族アルチ ・ ノヤ ン家、オイラ ト族 ク ドカ・ベ キ家
との通婚 関係が、ギ ブ・ ア ン ド・テイクのパ ター ンをもつ互酬的な縁組みシステム に基づ
いてい ることを明 らかに した。 この研究成果 は、す でに 2本 の論文 にまとめて発表 した1。
しか し、 これ ら論文では、 フレグ家 については十分 に論 じることがで きなか った。 フレグ
とその息子 ジュム クルについ て、オイラ ト族 のク ドカ・ベ キ家 とギブ ・ア ン ド・テイクの
通婚関係がある ことを論証 したが、アバ ガ以 降のフレグ家 の通婚関係 については言及 しな
か った。それは、 フレグ家 の通婚関係 に独 自の特徴があ り、当時 はそれ を十分 に論 ず るだ
けの用意が なかったか らである。今 回、あ らためてフレグ家の通婚 関係 を取 り上げ、その
特徴 を明 らかに してみたい。
当初筆者 は、イルカン国におい ては、ギブ・ ア ン ド・テイクの縁組みシステムが機能 し
ていなか ったのではないか と考 えていた。なぜなら、イルカンの母 方 の血筋 を見てみると、
コンギラ ト族、オイラ ト族 などの名門姻族が重ん じられてい ない よ うに見 えるか らである。
例 えば、第 2代 アバ ガ・ カンの母 イス ンジン・カ トンは、 スル ドス族 出身であ り、第 4代
アルグ ン・カンの母 カイ ミシ ・エ ゲチは出身部族不明の側室であ り、第 6代 ガザ ン・ カン
の母 クル タク ・エ ゲチは ドルベ ン族 出身の側室 で あ り、 いずれ もオイラ ト族や コンギラ ト
族 などの名門姻族 出身ではない。そのため、一見、 フレグ家 では名門姻族 との姻戚関係が
軽視 されていた ように見 える。イルカ ン国のイルカン位継承 は、 フレグ ーアバ ガ ーアルグ
ン ーガザ ンの直系 ライ ンが支柱 になってお り、そ の直系 ライ ンにお いて、 この ように繰 り
―… 27 -―
『北東アジア研究』別冊第 1号 (2008年
3月
)
返 し母方の血筋が名門姻族 と関係ないのであるならば、チ ンギス ・カン以来の縁組みシス
テムは機能 してい ないような印象 を受けるのである。
ところが、『集史』 などの史料から婚姻 の事例 を抽出 し、通婚のパ ターンを詳細に分析
した結果、名門姻族が軽視 されていたのではないことがわかった。フレグ家 とオイラ ト族
との間では、連続的なギブ・ア ン ド・テイクの通婚パ ターンが一度途切れるが、その後ギ
ブ・ア ン ド・テイクの交換のパ ターンに基づいた交換婚が新 たにスター トしていた。なぜ
一度途切れた通婚パ ターンが再開したのか、イルカンが名門姻族 とどのような関係を維持
していたかについて、その背後にある政治状況を含めて本稿 で論 じてみたい。
イルカン国の姻成関係については、志茂碩彼氏 の詳細な研究がある
2。
のカ トンについては、ラム トンの若干の分析がある
3。
また、イルカン国
本稿 では、ギブ・アン ド・テイクの
通婚パ ターンの抽出 とい う独 自の方法でイルカン家の通婚関係 の分析を行 うことにより、
新 たな事実 を解明 してみたい。
1.ギ ブ・ ア ン ド・ テイクの交換婚 の特徴
4に
まず、 これまでに筆者が発表 した論文
おい
て明 らかに したチ ンギス ・カン家 に見 られる縁
組 システムについ て説明 してお きたい。
チ ンギ ス ・ カン家 と名 門姻族 との間に見 られ
る縁組みシステムは、図 1の ように、
「ある男性
自己
が妻を要 ったお返 しに、自分の娘を妻の兄弟 の
息子に嫁がせる」 とい うギブ・アン ド・テイク
の交換婚である。チ ンギス・カン家だけでなく、
相手 の姻族 も同 じルールにそ ってギブ 。ア ン
ド・テイクの交換婚を行 うことにより、世代 を
妻の兄弟の息子
図
1
チ ンギス・ カン家の交換婚の基本 パ
ターン
超 えて姻戚関係が形成 され続 ける。
この ように同一の家系 と女性 を交換 し合 う (妻 を警 り、娘 を嫁がせ る)こ とによ り2重
の姻成関係 が形成 されるが、 さらに理想的に機能 した場合 は、それに母方の親族関係が加
わ り、 3重 の姻戚 ・親族関係が同一の家系 との間に形成 される。ただ し、母方の親族関係
によつて二つの家系が集団 として結 び付 け られるためには条件があ り、婚入 して きた女性
か ら生 まれた息子が、父 の跡 を継 いでその家系 を代表す る当主 となることが必要 で ある。
その条件が満 た された場合、二つの家系 は、集団 として母方 の親族関係 によつて結 ばれ、
その関係 を世代 を超 えて持続す ることがで きる。
例 えば、図 2で 言 えば、チ ンギス・ カンの娘 チチェゲ ンが ク ドカ・ベ キ家の トレルチ に
嫁 い だことによ り、二 人か ら生 まれたブカ ・テムルにとってチ ンギス ・カンは母方 の祖父
となる。さらに、 トレルチ とチチェゲ ンか ら生 まれた娘 クイクが フレグに嫁 ぐことによ り、
―- 28 -―
フ レグ家 の通婚 関係 にみ られ る交換婚
二 人 か ら生 まれたジュム クルに
Quduqa Beki
とって、 今度 は トレルチが母方
の祖 父になる。 このように交互
に相 手 の母方 の親族 にな りなが
ら、世代 を超 えて一定 の母方 の
親族 関係が、 二つの家系 の 間で
Buqa‐ temiir
維持 される。
0町
eiC=F
この母方 の親族関係が二つの
家系 を集団 として結 びつ け る絆
と して機能す るためには、婚入
して きた女性か ら生 まれた息子
が父 の跡 を継 いで当主になるこ
と、す なわちブカ・ テムルが ト
図2
チンギス・ カン家 とク ドカ・ベキ家の通婚関係
婚を示す)
(↓ はレヴィレー ト
レルチの跡 を継 ぎ、ジュム クル
が フ レグの跡 を継 ぐことが必要である。従 って、当主 の跡 を継 ぐ者 の母方 の血筋が重要 で
ある ことがわかる。 もし、婚入 して きた女性か ら生 まれた息子が当主の跡 を継がない なら
ば、息子の世代 では、母方 の親族関係 は形成 されて も、両家 を集団 として結 びつ ける絆 と
しては機能 しないこ とになる。
2.フ
レグ家 とオ イ ラ ト族 テ ンギ ズ家 との交 換 婚
フ レグ家 では、 図 2の よ うに、チ ンギス ・ カンか らフレグの次子ジ ュム クルまで連続 し
て い た名門姻族オイラ ト族 ク ドカ・ベ キ家 との連続的な交換婚が途絶 えて しまった。 しか
し、 フレグの時代 に、オイラ ト族テ ンギズ家 との 間に新 たな交換婚が ス ター トしたのであ
る。 同 じオイラ ト族 の 中で新たな姻族が登場 し、姻族の交代が起 きたのは、ジ ュム クルが
死去 し、結果的にアバ ガがイルカンに即位 した ことと密接 な関係がある。
まず、テ ンギズ家 との 間で どの ような交換婚が生 じたかを述べ、その上で、その背景 と
な った政治的文脈 を明 らかにしたい。なお、 フレグ家 とテンギズ家 との婚姻 の事例 につい
ては、志茂氏がす でに史料 か ら網羅的に抽 出 してい る。併せて参照 していただ きたい
5。
(1)通 婚関係 の始まり
テ ンギズ は、 史料 1に よると、ク ドカ ・ベ キ家 と父方 の親族関係があ った とい うが、詳
しい 関係 は不明である。テ ンギズは、史料 1に 述 べ られてい るように、は じめオ ゴデイの
息子 グユ クの娘 を要 って、 オ ゴデイ家 と姻成関係 を持 っていた。そのため、 トルイ家がオ
ゴデ イ家 との帝位継承争 い に勝 ち、1251年 に トルイ家 のモ ンケが即位 した とき、テ ンギズ
は杖刑 に処 されたが、彼が要つたグユ クの娘 の懇願 により助命 された。
―- 29 -―
『北東アジア研究』別冊第 1号 (2008年 3月
(史 料
)
1)オ イラ トの部族長 であるク ドカ ・ベ キ と親類関係 にあるア ミールたちやグ
レゲ ンたちの中の一人は、テンギズ ・グレゲ ン (Tenggiz gu■ gen<Telllh z kurkh)
で ある。グユ ク ・カンは彼 に娘 を与 え、彼 は婿 となった。グユ ク・ カンが死去 しモ ン
ケ ・カンが王位 に即 い たとき、グユ ク ・カンの一族 と何人かのアミー ルが反逆 を謀 り、
アミー ルたちが処刑 された。その と き、テ ンギズ ・グレゲ ン も告訴 され、彼の両腿の
肉がそげ落ちるほ ど棒 で打 たれた。その後、彼のカ トンであ ったその娘が彼 の助命 を
請 い、彼 を彼女 に授 けた。
『集史J部 族編
(Raき
=VAttИ
-3狐 el-1:p.227)
それ との前後関係 は不明 であるが、史料 2に よれば、テ ンギズの娘アリカン・エ ゲチは、
フレグの側室 とな り、 フレグが西 アジア遠征 に出発 した ときには、モ ンゴル に残 され、 コ
ンギ ラ ト族 出身のフレグの第一カ トンで あ ったク トイ・ カ トンの宮廷 を委ね られた
6。
(史 料
2)(フ レグの)第 8番 目の息子 アジヤイ。彼 の母親は側室 で あ り、名前 をアリ
カン・エ ゲチ (Ariqall Egeも i<Attqalll Tk巧
=)と
いつてテ ンギズ ・グレゲ ンの娘 で あ
リ、ク トイ ・カ トンのオル ドにい た。 フレグ・ カンがイランの地 に来 るとき、彼女 を
VAЛ И-3aAe 3:p.11)
(Rぶ こ
ク トイ・ カ トンの オル ドの長 に定 め た。
以上 は、テ ンギズ が モ ンゴル高原 にい た 時代
に、テ ンギズ 家 とチ ンギス ・ カ ン家 との 間 に生
じた最初 の姻戚 関係 で あ る。 この二 組 の婚 姻 を
図示す ると図 3の ようにな り
(ト
ウ ドウゲチ の
婚姻については後述)、 ギブ ・ア ン ド・テイクで
はあるが、図 1の よ うな典型 的 なギブ 。ア ン
ド・テイクのパ ター ンにはな ってい な い。 ま
た、当時テ ンギズ家 は、同 じオイラ ト族 のク ド
カ・ベ キ家 と比べ れば、姻族 としてははるかに
図3
フレグ家 とテンギズ家の通婚関係
(1)
小 さい存在 で しかなか った。
(2)フ レグ家におけ るテ ンギズ家 との交換婚の展開
ところが、フレグとともにイラ ンに来たテ ンギズは、イルカン国で、 フレグ家の重要 な
姻族 となったのである。 まず、史料 3に よると、テ ンギズ 自身が フレグの娘の トゥ ドゥゲ
チ を嬰 った。
(史料 3)(フ レグの)4番 目の娘 トウ ドウゲチ (Tindingeも i<Tidllk菊
)。
彼女 の母親は
ドクズ ・カ トンのオル ドの側室であ り、彼女 の名前 は,… 。彼女 をオイラ ト族 出身の
一- 30 -―
フレグ家の通婚関係にみられる交換婚
テ ンギズ ・ グ レゲ ンに与 えた。彼 は以前 にグユ ク ・カ ンの娘 を嬰 り、彼 女 の名前 は,…
であ る。 テ ンギズ 。グ レゲ ンが死 去 した と き、彼 の 息子 のス ラ ミシが 彼 女 を要 った。
現在 、 テ ンギ ズ の孫 の チチ ェ ク ・ グ レゲ ンが彼 女 を嬰 ってい る。
F集 史』 フ レグ ・ カ ン紀 (Rattd/AЛ И-3朝 e3:p.16)
フ レグが ドクズ ・ カ トン を嬰 ったの は イ ラ ンに来 る途 中 で あ ったの で、 そ の オル ドに い た
側室 の娘 の トウ ドゥゲチ をテ ンギ ズ が要 ったの は、 フ レグ とテ ンギ ズ が イ ラ ンに来 た後 の
ことで ある。 この婚姻 によって、 フレグとテンギズは、図 3の よ うに互 い に娘 を嫁がせ合
うタイプの交換婚 を行 った。チ ンギス家の姻戚関係全体 の 中で、互 い に姉妹 を嫁がせ合 う
姉妹交換婚 の例 はい くつ かあるが、娘 をたが い に嫁がせ る交換婚は珍 しい タイプである。
そ して、次の史料 4に 述 べ られてい るように、テ ンギズの娘 のク トルグが フレグの孫 の
アルグ ンに嫁 い だ。
(史 料
4)ア ルグン・カ ンは、 アバ ガ・ カンの最年長 の息子であ り、 カイ ミシ・エゲ
チか ら生 まれた。彼 にはカ トンたちと側室たちがいた。その全ての中で最 も上であ り
テ ンギズ ・ グレゲ ンの娘 であるク トルグ・カ トンを要 った。彼女が亡 くな った とき、
ス ラミシの娘であ り
(ク
トルグの)姪 のオルジタイを求 めた。彼女 の母親は トゥ ドゥ
ゲチである。彼女 はまだ子供 であ ったので、彼 と夫婦 にはならなかった。
『集史』アルグン・カン紀
以上の二組 の婚姻
(テ
-3朝 e3:p.196)
(RaきTVAЛ И
ンギズ と トゥ ドゥ
ゲチの婚姻、 アルグ ンとク トルグの婚姻 )
を図示 す ると図 4の よ うにな り、図 1の ギ
ブ ・ア ン ド・テイクのパ ター ンにそった交
換婚 で ある ことがわかる。ただ し、テ ンギ
Tudilgeも i
G品
Abaγ a
の娘
ズの娘 ク トル グは、 トゥ ドゥゲチの娘 では
な く、 上述のグユ クの娘 とテ ンギズの 間に
Otitai
7。
生 まれた娘であった
→
図4
フ レグ家 とテ ンギズ家 の通 婚関係
(2)
(3)交 換婚の展開
では、この交換婚は、アルグンとク トルグの婚姻以後、どのように連続 したのであろうか。
まず、テ ンギズの妻 トゥドゥゲチは、前掲の史料 3、 史料 4に よると、図 4の ように、
テンギズの死後、 レヴィレー ト婚によ り、テンギズの息子スラミシに嫁 ぎ、スラミシとトゥ
ドゥゲチの間に娘オルジタイが生まれた。一方、アルグンに嫁いだク トルグが、次の史料
5の ように1288年 に死去す ると、史料 4に 述べ られているように、アルグンはそのオルジ
-31-
『北東アジア研究』別冊第 1号 (2008年 3月
)
タイを要 った。
(史料
5)そ の年
(イ
スラム暦687年 )の サフアル月の 7日 に (1288年 3月 13日
)、
オイ
ラ ト族出身のテ ンギズ ・グレゲ ンの娘 で、王子カタイ 'オ グルの母親であるク トルグ・
F集 史』アルグン・カン紀
カ トンが死去 した。
オルジタイはク トルグの姪
(兄 弟 の娘)に
-3頸 e3:p.207)
(Rattd/AЛ И
あたるので、アルグ ンが、妻ク トルグの死後、
妻の姪オルジタイを要 ったとい う点からすれば、 これはソロレー ト婚である といえる
(図
コ ュ
4参 照)。 また、 これを交換 のパ ターンとしてみれば、図 5の ように、スラミシが妻 トゥ
ドゥゲチを要 ったお返 しとして、妻の兄弟アバガの息子アルグンに、娘 のオルジタイを嫁
がせ た こ とにな り、 ギ ブ・ ア ン ド・ テイクの パ
ターンにそった交換婚 になってい る。従 って、左
右対称 に連続 した交換 婚 ではな い が、交換 のパ
ターンは維持 されてい たことがわかる。
さらにその後、 スラミシが死去す ると、 もう一
度 レヴイレー ト婚 を行 い、 トウ ドゥゲチはスラミ
ンの息子チチ ェグに嫁 い だ。チチ ェグと トゥ ドゥ
Aryun
ゲチか ら生 まれたのが、史料 6に 述べ られている
ように、ハ ジであ り、 ハ ジはアルグンの息子オル
Oも ltai
図5
ジェイ トゥに嫁 い だ (図 6参 照 )。
(3)
目の カ トンは、 ハ ジ ・カ トンで あ り、 フ レ
グ・ カンの娘 である母 親 トゥ ドウゲチか ら生
まれた。彼女は、テ ンギズ ・ グレゲ ンの息子
チチ ェ グの娘 で あ り、彼女 か らアブ ー・サ
イー ドとい う名 の皇 帝 になった好逗な息子が
い た。
卒︱︱小︱︱▲
6)(オ ルジェイ トウ・ カンの)第 4呑
鰤
晩
]
︶
(史 料
フレグ家 とテンギズ家の通婚関係
『オルジ ェイ トゥ史』 (Qaき 孤コ町amb巨 :p.7)
この婚姻 も、チチ ェ グが妻 トゥ ドウゲチのお返 し
として娘 ハ ジを妻の一族 に嫁がせたとい う点では、
ギブ・ ア ン ド・テイクの交換婚 になってい るが、
チチ ェ グが、妻の兄弟 アバ ガの息子 にではな く、
妻 の兄弟 アバ ガの孫 オルジェ イ トウにハ ジを嫁が
―- 32 -―
図 6
フ レグ家 とテ ンギズ家 の通婚関係
(4)
フレグ家 の通婚関係にみ られる交換婚
せた とい う点 では、典型的なタイプよ リー世代ず
れて い る ことがわかる (図
7)。
このよ うに、フレグ家 とテンギズ家 との間で生
じた新たな姻戚関係はギブ・ア ン ド・テイクのパ
ター ンにそった交換婚 になって い た。 従 って、
イルカ ン国のフレグ家において も、チ ンギス家の
TlidilgeLi
通婚関係 に特有のギブ・ア ン ド・テイクの縁組シ
ステムが浮鮪としていたことがわかる。ただ、ク ド
カ ・ベ キ家 との交換婚がおよそ左右対称 に連続 し
ていたの に対 し、テ ンギズ家 との交換婚 はレヴイ
レー ト婚 を挟 んで著 しく左右ア ンバ ラ ンス になっ
図7
フレグ家 とテ ンギ ズ家 の通 婚関係
(5)
てい た。
では、 フレグ家が、オイラ ト族テ ンギズ家 との間に交換婚を展開・継続 したにもかかわ
らず、イルカ ンの母方の血筋が名門姻族 と関係が薄か ったのはなぜであろうか。 この点に
ついて、 次章でイルカン位継承 をめ ぐる政治的背景 と関連づ けながら論 じてみたい。
3.交 換 婚 の政治的背景
(1)第 2代 アバ ガ・ カンの即位一アバ ガ・ カンの母方の血筋
フレグの長子アバ ガは、1265年 にイルカン国の第 2代 イルカンとして即位 した。 このア
バガの即位に関 してまず検討すべ き点は、なぜ、フレグの次子ではあるが嫡長子
(第 一カ
トンの長子)で あるジュムクルが、第 2代 イルカンにならなかったかとい う点である。ジュ
ムクルは、フレグの最初の第一カ トンであるクイク・カ トンの一番上の息子であ り、クイ
ク・カ トンは図 2の ように、名門夕
因族オイラ ト族ク ドカ・ベキ家の出身であった。従 って、
ジュムクルはフレグの後継者 として申し分のない条件がそろつていた。実際、次の史料 7
に述べ られているように、 フレグが、イランに出発する前に後継者候補 として選んだのは
ジュムクルであった。
(史 料
7)(フ レグは)ジ ュムクル王子を、母親が他のカ トンたちより上であったので、
自分 の後継者 として、オル ドと軍隊の上に定めた。息子たちの中から、年上のアバ ガ
とヨシュム トを自分の連れとして指名 した。
『世界征服者 の歴史』 (J■ lwttIIL/Qa輔、pp.96⇒ 7)
しか し、従来の研究では、フレグの死後、アバ ガがイルカン位を継承 したのは、アバ ガが
長子であ つたからだと考えられてお り、この点について疑間がもたれたことはあまりなかっ
た。確かに『集史』には、
―- 33 -―
『北東アジア研究』別冊第 1号 (2008年 3月 )
(史 料
8)フ
レグ ・カンが死去 した と き、彼 らの慣例 に従 って、諸道 を閉鎖 した。 い
かなる者 も移動 してはならない とい うヤサが発せ られた。す ぐに使者がアバ ガ・ カン
の もとへ 、ホラーサ ー ン方面へ 派遣 された。 なぜ なら、彼が年長であ り後継者 で あ っ
たか らである。 また官職にあ ってアバ ガ ・カンに仕 えてい たアルグ ン・アカ も召喚 さ
れた。アバ ガ ・カンは、その ときマーザ ングラーンの冬営地 にい た。ユ シュム トは、
彼 に属 していたデルベ ン ドとアラー ンの領地 にい たが、父親 の死後 8日 後に
(フ
レグ
『集史』アバ ガ・カン紀 (Ra諏協翫И…
3錮 C31p.101)
のオル ドに)到 着 した。
とあ り、アバ ガが「年長」 であること、すなわち長子 で ある ことが後継者 となった正当な
理 由であるかの ように書かれてい る。 さらに、次の史料 9に よれば、 フレグがアバガ を後
継者 とす るとい う遺言 を残 していたのであ り、それ をセク トル・ ノヤ ン らが証言 したこと
に よって、アバ ガの即位 が決定 した。
(史 料
9)哀 悼 の儀式 を挙行 した後、すべ てのカ トンた ち、王子たち、甜馬たち、 ア
ミールたちが集 まり、彼
(ア
バ ガ)の 即位 につい て相談 した。その とき、昔 か らの大
ア ミールたちが 出席 していた。た とえばイルカ ・ノヤ ン、ス ンジ ャク ・ノヤ ン、ス ン
タイ 。ノヤ ン、サ マガル ・ノヤ ン、 セ ク トル ・ノヤ ン、アルグン・アカ。その他の者
は冗長になるので省略す る。その中か ら、イルカ ン
(フ
レグ)が 遺言 を与 え、 ビリク
を委ねていたセク トル・ ノヤ ン、お よびス ンジ ャク・ アカが、その他のア ミールた ち
の前 で、後継者 はアバ ガ・ カンであると証言 した。
[集 史』 アバ ガ ・カン紀
(Ra側 氏ЛИ-3朝 e3:pp.100101)
アバ ガの死後に第 3代 イルカ ンと して即位 したのは、アバ ガの弟テグデルで ある。そ の
後、 イルカ ン国では、 この ように兄が先に即位 しその後 に弟がイルカ ンの地位 を継承す る
とい うパ ター ンが繰 り返 された。すなわち、アバ ガの長子 アルグ ンが即位 した後 にアルグ
ンの弟 ガイハ トウがその地位 を継承 し、アルグ ンの長子 ガザ ンが即位 した後 にガザ ンの弟
オルジ ェイ トゥがその地位 を継承 した。従 って、長子 には、弟 よ り先 に即位す る正当性が
認め られてい たかのように見える。
しか し、モ ンゴル帝国におけ るチ ンギス ・ カン以 来の帝位継承 か らみると奇異であるの
は、 アバ ガ、アルグン、ガザ ンの母親たちはみな第一カ トンではな く、血筋が他 の弟 たち
の母親 に比べ て劣 り、地位が低 い ことで ある。 アバ ガの母 イス ンジンは、スル ドス族出身
の側室であ り、 もともとオイラ ト族出身の第一 カ トンの クイク・カ トンの オル ドにい た。
彼女 は、のちにカ トンとなったが、第一 カ トンでは なか った。 また、アルグ ンの母 カイ ミ
ン ・エ ゲチは、出身部族不明であ り、恨1室 であった。ガザ ンの母クルタク ・エ ゲチは ドル
ベ ン族 出身で あ り、側室 であった。
―- 34 -一
フレグ家の通婚関係にみられる交換婚
それに対 して、チ ンギス ・ カン以来、モ ンゴル帝国の帝位継承 は、常 に第一 カ トンの息
子たちの間で争われてきた。まず、チ ンギス ・ カンの第一カ トンのボルテの息子 たち
(ジ
ョ
チ、チャガタイ、オ ゴデイ、 トルイ)お よび彼 らの子孫 の範囲内で帝位が争 われ、次にオ
ゴデイ家か ら トルイ家へ 帝位が移 った後 は、 トルイの第一 カ トンのソルカ クタニ・ベ キの
息子たち
(モ
ンケ、ク ビライ、 フレグ、アリク・ ブケ)の 範囲内で帝位が争われた。元朝
成立以後 も、ク ビライの第一カ トンのチヤブイの息子たち (ド ルジ、チ ンキ ム、マ ンガラ、
ノムガン)の 範囲内 で帝位が争 われた。従 って、モ ンゴル帝国の帝位継承者 は、ほとんど
の場合、第一カ トンの息子 であ り8、 母親 の血筋に よって後継者候補 の範囲が絞 られていた
と考 えられる。
イルカン位 の継承が、 この原貝Uか ら大 きくはずれているのはなぜであろ うか。 しか し、
フレグの後継者 の場合、 はじめか ら母親 の血筋が問われなかったのではない。1253年 にフ
レグが西アジア遠征 に出発 したとき、フレグは次子のジュムクルに自分 の後継者 としてモ
ンゴル高原のユル トを委ね、長子アバ ガと第二子 ヨシュム トを連れて、イランヘ 向かった。
このとき、次子ジュムクルを自分の後継者 とみなした理 由は、前掲 の史料 7に 明確に述べ
られているように、ジュムクルの母親が「他 のカ トンよ り上であったJか ら、すなわち第
一カ トンであったか らである。
ジュムクルの母クイク・カ トンは、名門姻族のオイラ ト族ク ドカ・ベキ家の出身であっ
た。一方、長子アバ ガの母イス ンジン・カ トンは、次の史料10に 「クイク・カ トンのオル
ドから要 った」 とあることから分かるように、 もともとクイク・カ トンのオル ドにセヽ
た側
室であり、スル ドス族出身であったので、血筋の点ではクイク・カ トンの方が明らかに上
であつた。
(史 料 10)も
う一人のカ トンのイス ンジン・カ トンはスル ドス族 の出身であ り、彼女
もモンゴル地方でクイク・カ トンのオル ドから嬰 った。彼女は、ク トクイ
(正
しくは
ク トイ)と ともにモンゴルの地に残つていたが、その後 こちらへ来た。
『集史』 フレグ・カン紀 (RattAЛ И-3朝 e3:p.8)
従 って、1253年 の時点では、フレグは、自分 の後継者候補 の条件 として、長子であるこ
とよ りも、母親が第一カ トンであることを重視 していたのである。
次に、 このジュムクルは、フレグが死去 した1265年 2月 8日 の前年の1264年 まで生 きて
いたことを確認 しておきたい。まず、次の史料 11に よると、ジュムクルは、クビライとア
リク・ブケの帝位継承争いに巻 き込まれ、アリク・ブケ側について戦っていたが、アリク・
ブケ側が敗北 して、アリク・ブケがクビライに投降するためにクビライのもとへ 向か った
とき、ジュムクルは病気のため離脱 した。
―- 35 -―
『北東アジア研究』別冊第 1号 (2008年 3月 )
(史 料 11)ア バ ガ・ カ ンはホ ラーサ ー ンヘ 向か い、 セラフス まで来 ると、 冬 はマーザ
ンダラー ンとその周辺 で冬営 した。 フレグ・カンのアウルクが到着 した とい う知 らせ
が届 くと、彼 は彼 らを出迎 えた。カブー ド・ ジャー メの周辺 に、ク トイ ・カ トンが、
二 人 の息子テクシンとテグデル、ジュムクルの息子ジ ュシュカー ブとキ ンクシュ、 タ
ルカイの息子バ イ ドウ、アバ ガ・ カンの母親 のイス ンジン・カ トンとともに到着 した。
彼 らの話 は次 の如 くである。 フレグ・ カンが イラ ン国へ 出発 した と き、 自分 のアウル
クをモ ンケ ・カアンの もとに残 した。アリク ・ブケの乱の時、ジ ュム クルは彼の仲 間
であった。 (ア リク ・ブケが)ア ルグとの戦 い に敗れ、 (ク ビライ ・)カ ア ンの もとヘ
向か った とき、ジ ュム クルは、病気 と治療 を理 由に して後 に残 り、その地方 に留 まっ
た。 この知 らせが フレグ ・カンに届 くと、662年
(1263H4-12641023)に アバ タ
イ ・ノヤ ンをジ ュム クル とアウルクを呼 び寄せ るために派遣 した。ジ ュム クルは病気
であったため、途中で死去 した。 アバ タイ・ ノヤ ンは、彼 らをサ マルカン ドの周辺に
残 してフ レグ ・カンの もとへ帰 った。状況を申 し上げると、アバ ガ ・カンは彼 を有罪
である として80回 の杖刑 に処 し、「彼 をよく警護 せ ず、 また飲食物 へ の権力 の行使、
カ トンた ちへ の監督 の点 で行 き過 ぎていた」 と仰せ になった。
結局、上述の時に、あるイ ン ド人が彼 らを案内 し、ある道か ら うま く彼 らを脱出さ
せ、アム河 を渡 らせ、666年 ジュマー ダー・ アルウー ラー月 の19日
(1268年 2月 7日
)
にカブー ド・ジャー メの周辺 で、アバ ガ ・カンの もとへ 到着 した。アバ ガ ・カンは彼
を慰撫 し、 タルカ ンに した。 ク トイ・ カ トンは、フ レグ・ カンが死 んだ とい う知 らせ
をバ ダクシャ ンの周辺 で 聞 き、 目が見 えな くなるほどひど く泣 い た。アバ ガ ・カンは
彼 らの到着 を喜び、彼 らの到着 を称 え、多 くの財宝 を与 えた。
『集史』 アバ ガ ・カン紀 (Rattd/AЛ И-3狐 e31 pp.105106)
ジュムクルが アリク・ ブケか ら離れた時期 は、次 の史料 12か ら、1264年 で ある ことがわか
る。
(史 料 12)フ
レグ ・カ ンの息子 のジュムクルは、 突然軽 い病気 にかか ると、治療のた
めにサ マルカン ド方面 へ 行 くとい う理由で、 アリク ・ブケに暇乞 い を求めた。662年
のラビー ・アルアッワル月 (1264年 1月
年 に、彼
(ア
)が 年頭 にあたる qt1lqllfla yllす なわちネズ ミ
リク ・ブケ)か ら別れた。
『集史」 クビライ・カン紀 (RaЫ d/Topkapl 1518:fol.202a)
ジュムクルがアリク・ブケから離れたことを知 ったフレグは、史料11に 述べ られている
ように、使者アバ タイ・ノヤンを派遣 してジュムクルを呼び寄せようとしたが、結局、ジュ
ムクルは病死 した。アバ タイ・ノヤンは、ジュムクルが連れていたカ トンや他の王子たち
- 36-一
フレグ家 の通婚関係にみられる交換婚
を残 して フ レグの もとへ 帰 り、 フ レグにジュム クルの死 去 を報 告 した。
このように、 フレグが死去する前年まで、フレグが最初に後継者 とみなしたジュムクル
は生 きてお り、フレグは彼 を呼び寄せようと努力 していたのである。一方、『集史』の中で、
アバ ガをフレグの後継者候補 として記 している箇所
(史 料 8、
史料 9)は 、あ くまでジュ
ムクルが死去 した後の記事 である。従 って、アバ ガは、長子であつたとい う理由だけで、
ただちにフレグの後継者候補 であったわけではな く、最初の後継者候補のジュムクルが死
去 したことによって、初めて後継者候補になりえたのである。
なお、『集史』 は、アバ ガの孫 のガザ ンとオルジェイ トゥの治世に編纂 された ものであ
るので、アバ ガの即位 の正当化に有利な事実は積極的に記 してい るが、ジュムクルが最初
後継者候補 であったとい うアバ ガにとって不利な事実 は、あえて記 さなかったとい うこと
は、『集史』 の史料的な性格からして、十分に考えられることである。
ところで、フレグの第一カ トンの地位は、クイク・カ トンが早 く死去 した後、次の史料
13に 述べ られているように、 コンギラ ト族出身のク トイ・カ トンに引 き継がれた。
(史 料13)も
う一人のカ トンのク トイ・カ トン (Qutui Qatun<Q
ンギラ ト族 の王の骨
Vttm)は 、 コ
(血 筋)出 身の一―の娘 である。クイク・カ トンがモ ンゴル地方
イク・カ トン)の 牧地 (ytlrt)を 彼女 (ク
『集史』 フレグ・カン紀 (Ra鵡\ЛИ-3弧 e3,p.8)
で亡 くなったとき、彼女を要 り、彼女
トイ ・カ トン)に 授 けた。
(ク
フレグ家 とコンギラ ト族 の姻戚関係については、史料か ら網羅的に婚姻例を抽出した志
茂氏 の研究があ り
9、
それにもとづ きフレグ家 とコンギラ ト族のムサ・グレゲ ンー族 との通
婚関係を系図にしたものが図 8で ある。 この通婚関係にもギブ・ア ン ド・テイクの交換婚
のパ ターンがあることが確認できる。フレグは、モンゴル高原にいた時代に一時期 コンギ
ラ ト族 との姻戚関係 を重視 し、オイラ ト族の第一カ トンが亡 くなった後、 コンギラ ト族出
身のムサの姉妹 ク トイを要 って第一カ
トンの地位 につ け、自分 の五 女 のタラ
カイをムサに嫁がせた。 しか し、フレ
グが西アジア遠征 に出発す る頃には、
再度オイラ ト族 との姻戚関係 を重視す
Qatai
る方針 に転換 したよ うで あ り1° 、上述
のよ うに、後継者 としてモ ンゴルの初
封地に残 されたのはオイラ ト族出身の
母か ら生 まれたジ ュム クルであった。
ク トイ ・カ トンか らは、テクシ ン、
テグデルの二 人の息子が生 まれた。フ
→
図8
一- 37 -一
フレグ家 とコンギラ ト族の通婚関係
『北東アジア研究』別冊第 1号 (2008年 3月
)
レグは、 このク トイ・ カ トンを二 人の息子 と共 にモ ンゴル に残 してイラ ンヘ 向か った。 フ
レグは、イランヘ 向か う途中で、新 しい第一カ トンと して、ケ レイ ト族 出身の ドクズ ・ カ
トンを要 ったが 、 ドクズ ・ カ トンか らは男子 は生 まれなか った。
ジ ュム クルが死去 した時を
点で、 フレグの後継者 として、アバ ガ以外 に、 フレグの二代 目
の第一 カ トンで あるク トイ ・カ トンか ら生 まれたテクシ ン、テグデ ル も候補 に考えられて
い た可能性 が十分 あ りうると思われる。 しか し、実際には後継者 にな らなかった。おそ ら
く、 この二 人はジ ュム クル とともにイランに向かったが、フレグが死去 した とき、まだイ
ラ ンに到着 してい なか ったことが、理由の一 つ であろ う。
また、 もう一つの理 由 として、フレグが コンギラ ト族 との姻戚関係 を軽視するように変
わったことが考 え られる。 フレグが西アジア遠征 に出発 した1253年 には、 2年 前 に即位 し
たモ ンケ ・カアンがオイラ ト族支持 に変わつていたため、 コンギラ ト族 は姻族 としての勢
力 を失 いつつ あ った。 フレグもコンギラ ト族 との姻成関係 を軽視 し、前述の ように、 コン
ギラ ト族出身 のク トイ ・カ トンの オル ドをオイラ ト族 の 出身の側室 ア リカ ン・エゲチに委
ねて しまった。以後、 フレグはオイラ ト族テ ンギズ家 との 関係 を強めたので、 コンギラ ト
族 の血 を引 くク トイ ・カ トンの息子たちを自分 の後継者 とす ることを望 まなか った とい う
可能性が考 え られる。
(2)ア パ ガと名門姻族 との関係
上述 した よ うな経緯 を経て、アバ ガは元来 フレグの後継者候補 ではなかったが、結果的
には1265年 に31歳 で第 2代 イルカンとなった。
フレグ家 にとって名 門姻族 とは、チ ンギス ・カン、 トルイ、 フレグの第 一カ トンの 出身
部族 である。 すな わち、 コンギラ ト族 (ボ ルテ、 ク トイの出身部族 )、 ケ レイ ト族
カクタニ ・ベ キ、 ドクズの 出身部族)、 オイラ ト族
(ク
(ソ
ル
イクの出 身部族 )の 3部 族が最 も
有力 な姻族である。歴代 イルカ ンは、 この 3部 族 と何 らかの形で姻戚関係 を持 っていた。
アバ ガ も、 この 3部 族 出身のカ トンを嬰 った。ケ レイ ト族か らは トクタニ・カ トン、オ
イラ ト族か らはオルジ ェ イ ・カ トンを要った。次の史料 14に 述べ られてい るように、 この
二 人のカ トンを要 ったのは、父 フレグの死 後 に父の寡婦 を警 るレヴイレー ト婚 によつてで
あ つた。ただ し、 この二 人は第一カ トンにはな らなかった。
(史 料 14)ア バ ガ ・カンはフレグ・カンの死 後、オルジェイ ・カ トンを要 った。 また、
フレグ ・カンの側室であった トクタイ (正 しくは トクタニ)・ カ トンを自分 に要 り、
彼女 は ドクズ ・ カ トンの代 わ りにブクタクを頭 に被 り、 カ トンになった。
F集 史」 アバ ガ・ カン紀 (Raud/AЛ
И…
3狐 e3:p.96)
アバ ガは、 コンギ ラ ト族か らは、次の史料 15に 述べ られてい るよ うに、マル タイ・ カ トン
―- 38 -一
フレグ家の通婚 関係 にみ られる交換婚
を要 った。 図 8か ら分 かるように、 この婚姻 はギブ・ ア ン ド・テイクの交換婚のパ ターン
にそ った婚姻 で あ ったが、彼女 も第一カ トンでは なか った。史料 15に よれば、バ ヤウ ト族
出身 の大 ブルガ ン・カ トンの方が彼女 よ り地位が上であったので、マル タイ・ カ トンはあ
ま り重視 されてい なかった らしい。
(史 料 15)(ア バ ガ ・カンは)そ の次に、 コンギラ ト族出身のマルタイ ・カ トンを嬰 っ
た。彼女 はチ ンギス ・カンの娘 の息子である ムサ ・グレゲ ンの姉妹 であ り、 ムサの母
はク トイ ・カ トンの母で もあった。彼 らは従兄弟だった
・ 。 マル タイ ・カ トンは アル
グ ン・カンの時代 に亡 くな り、アルグン・カ ンはやは リコンギラ ト族 出身で あ つた ト
ダイ ・カ トンにブクタクを被 らせ、彼女 の地位 につ けた。
その次に、 ノカイ・ヤルグチの親族であった大ブルガ ン・カ トンを要 った。彼女 を非
常 に愛 していたので、マル タイとデス ピナ よ り上位 に置 いた。アバ ガ ・カンが死去 し
た と き、アルグン・ カンが彼女 (大 ブルガ ン・ カ トン)を 嬰 った。彼女が亡 くなった
と き、ブルガン・カ トンを彼女の地位 につ けた。
『集史』 アバ ガ・ カン紀 (Ra諏脇翫И-3朝 C3:p.97)
アバ ガの第一 カ トンは、史料 16に よれば、一代 目は ドルジ ・カ トンで あ った。彼女 の出
身部族 は 『集史』 に記 されてお らず不 明で ある。 アバ ガは、 ドルジ・ カ トンの死後、 タタ
ル族 出身の ノクダン・ カ トンを二代 目の第一 カ トンと して警 り、史料 17に よれば、彼女か
ら次子 ガイハ トゥが生 まれた。史料 18に よれば、ガイハ トゥより先 に、側室のカイミシ ・
エ ゲチ (出 身部族 は不明)か ら、長子アルグ ンが生 まれた。
(史 料 16)(ア バ ガの)全 ての (カ トンの)長 は、 ドルジ ・カ トンで あ った。彼女が亡
くな った とき、 タタル族出身のノクダ ン・カ トンを嬰 り、彼女 の地位 につ けた。彼女
が死去 した とき、 コンギラ ト族出身のタルカイ ・グレゲ ンの姉妹 であ り、ク トルク・
テ ムルの娘 であるイル トズ ミン ・カ トンを嬰 り、彼女 の地位 につ けた。
『集史』 アバ ガ・ カン紀
(Raミ\ЛИ-3躯 C3:p.96)
(史 料 17)ガ イハ トウは、 アバ ガ・ カンの久子 で あ り、 タタル族のノクダン・カ トン
か ら生 まれた。バ クシたちが彼 にイリ ンジ ン・ ドルジとい う名前 をつ けた。
F集 史』 ガイハ
トウ・カン紀
(Raき
=VAЛ
И-3狐 e3:p.231)
(史 料 18)ア ルグン・カンは、 アバ ガ ・カンの最年長 の息子 で あ り、 カイ ミシ ・エゲ
チか ら生 まれた。
『集史』 アルグ ン・カン紀 (Ra諏協翫И-3駆 e3:p.196)
一- 39 -―
『北東 アジア研究』別冊第 1号 (2008年 3月 )
以上か ら明 らかなように、アバ ガは名門姻族出力者のカ トンも要 ってはいるが、第 1代 、
第 2代 の第一カ トンは名門姻族以外 の都族出身者であ り、名門姻族が重視 されていなかっ
たのである。これは、フレグの後4匹 者候補 であったジュムクルが、名門姻族のオイラ ト族
ク ドカ・ベキ家の娘をカ トンとして要 り、名門姻族 と関係が深かつたことと対照的である。
(3)ア ルグンのライバルたちの母方の血筋 と姻戚関係
モ ンゴル帝国では、カアンが 自分の息子 の一人に帝位 を継がせ ようとした場合、その後
継者候補 の息子に、名門姻族からカ トンを嬰 らす ことが多い。例えば、オゴデイは息子の
クチュを後継者 として選び、彼にはコンギラ ト族か らカタカシュ (ボ ルテの兄弟の孫)を
12。
嬰 らした
フレグ家で も、前述 のように、フレグが最初に後継者に選んだジュムクルは、オイラ ト
族のク ドカ・ベキ家から、母親クイク・カ トンの姪 ノルン・カ トンを嬰 った
(図 2)。
一方、
アバ ガは、後継者候補 でなかったため、最初は名門姻族から第一カ トンを要 らなかった。
それに加えて、即位以前に要 った側室 カイミシ・エゲチとタタル族出身の第一カ トンのノ
クダンからしか男子が生 まれなかったとい う偶然 も重なった。その結果、アバ ガの息子は
二人 とも、父アバ ガと同様、母親が名門姻族の出身ではな く、イルカン位継承には不利だつ
たのである。
アルグンのイルカン位継承に とつて彼 のライバ ルは、叔父たち、すなわちアバ ガの弟 た
ちであった。 とくに、名門姻族を母親に持つ叔父たちが、最大のライバ ルであった。
アバ ガの弟 は13人 いたが、その うち 9人 は側室からの生まれであ り、イルカンの後継者
として不利 であつた。13人 の うちカ トンか ら生まれた者は、ジュムクル、テクシン、テグ
デル、モ ンケ ・テムルの 4人 であ り、ジュムクルはすでに死去 していたので、残る 3人 が
アルグ ンにとって最大のライバ ルとなった (表 1参 照)。
表1
息子 の名前
フレグの息子 13人 の うちカ トンから生 まれた息子の母親の出身部族
続
柄
母親の名前
母親の出身部族
考
備
長子
イス ンジ ン
スル ドス族
1265年 即位。1282年 死去。
次子
クイク
オイラ ト族
1264年 イランに向かう途中で死去。
テクシン
第四子
ク トイ
コ ンギ ラ ト族
1268年 イラン到着、1271年 死去。
テグデル
第七子
ク トイ
コンギ ラ ト族
1268年 イラ ン到着、1282年 員口
位。
モ ンケ ・ テムル
第十 一 子
オルジ ェ イ
オイ ラ ト族
1265年 には10歳 、1282年 に死去。
アバ ガ
ジ ュム クル
と くに、 ジュムクルとともにイランに向かい、アバ ガの即位後 にイランに到着 した第四
子テクシンと第七子テグデルは、フレグの第一カ トンのク トイ・カ トンの息子であ り、母
方で コンギラ ト族の血を引 くとい う点で、最 も強力なライバルであ った。 この二人の うち、
第四子テクシンは、ジュムクルの死後、 ジュムクルのカ トンであるノルン
一-
40-―
(オ
イラ ト族ク
フレグ家の通婚関係にみられる交換婚
ドカ ・ベ キ家 出身)を レヴ ィ レー ト婚 に よって要 り、 オ イラ ト族 との姻 戚 関係 を作 り、 イ
ル カ ン位継承 に とつて有利 な条件 を整 えて い た。 しか し彼 は、 アバ ガ在 位 中 の1271年 に病
気 の ため に死去 して しまった。 一 方 、第七子 テ グデルは、次 の 史料 19に 述 べ られ て い る よ
うに、 コ ンギ ラ ト族 出身 の カ トン を 3人 も要 り、 コンギ ラ ト族 との姻戚 関係 で 固めて い た。
(史 料 19)ア
フマ ド
(・
テグデル)は 、 フレグの 7番 目の息子であ り、 ク トイ・ カ ト
ンか ら生 まれた。彼 には多 くのカ トンた ちと側室たちが いた。
彼 のカ トンた ちの中の最上位は、 コンギラ ト族 出身のテクズ ・カ トンであ った。彼
女 の次に、やは り、 コンギラ ト族出身のアルマ ニ・ カ トンを嬰 った。彼女の次 に、フ
セイ ン・アカの娘のバ イテキ ンを要 った。彼女の次 に、 (コ ンギラ ト族 の)ム サ ・ グ
レゲ ンの娘 の トダク ・カ トンを要 った。彼女 の次に、キ ンシュの娘 で あ り、 トガチ ャ
クの母親であるイル ・ク トルグを嬰 った。人 々が、彼女 を流行 して い る妖術 の嫌疑に
かけたが、彼が王位 につい た とき、彼女 を要 り、ブクタクを被 らせた。最後 に、 トダ
イ・カ トンも要 った。
[集 史』 テ グデ ル紀 (Ra
d/AЛ И-3駆 e3:p.166)
第十一子 のモ ンケ ・テムルは、母親が オイラ ト族 ク ドカ・ベ キ家出身のオルジェイ ・カ
トン
(ク
イク・ カ トンの妹 )で ある。前述の ように、アバ ガはこのオルジェイ ・カ トンを
レヴイレー ト婚 により自分のカ トンに した。従 って、 モ ンケ・ テムルが 自分 の息子 にとっ
てライバ ルで ある とは考 えてお らず、 モ ンケ 。テムル にイルカ ン位 を4匹 承 させ、モ ンケ・
13。
テムルか らアルグ ンにイルカ ン位 を継承 させ るとい う案 も考 えてい た らしい
しか し、
モ ンケ ・テムルは、次の史料 20に よれば、アバ ガが死去 した1282年 4月 1日 の25日 後 に急
14
死 して しまった。暗殺 された とす る説 もある
(史 料20)(モ
月26日
ンケ 。テムルはイス ラム暦 )681年 ムハ ッラム月16日 の 日曜 日 (1282年 4
)に 死去 した。彼 の生 涯 の期間は26年 と2カ 月 であった。
[集 史』 フレグ ・カン紀 (Raき
=VAЛ
И-3a/1e3:p.13)
その結果、アバ ガが長子 アルグ ンにイルカ ン位 を継承 させ る上で最大 のライバ ル となるの
は、母方 で コンギラ ト族 の血 を引 き、 コンギラ ト族 との姻戚関係 も築 いて いた弟テグデル
だけ になったのである。
(4)ア ルグンの姻戚関係の政治的意図
前述 したフレグ家 とテンギズ家 とのギブ・アンド・テイクの通婚関係 を、このようなイ
ルカン位継承をめ ぐる争いとい う文脈に置いて考えてみると、どのような政治的意図があっ
たと言えるであろうか。
-41-
『北東アジア研究』別冊第 1号 (2008年 3月 )
アバ ガは、長子 アルグンが母親 の血筋 では名門姻族 と関係 ない ため、名門姻族 か らカ ト
ンを嬰 らせ姻戚関係 を築 くことにより、アルグンのイルカン位継承 に有利 な条件 を作 ろ う
とした と考 えられる。名 門 3姻 族 の コンギラ ト族、オイラ ト族、ケ レイ ト族 の うち、 コン
ギラ ト族 はライバ ルのテグデルの姻族 で もあ り母方 の親族 で もあ ったのでこれは除外 され、
オイラ ト族 とケ レイ ト族が姻戚関係 を築 くべ き姑象 となった。
その際に、単 にオイラ ト族か らカ トンを要 るのではな く、ギ ブ ・ア ン ド・ テイクの交換
のパ ター ンにそつて交換婚 を継続 させた ことが重要である。かつ てグユ クの娘が嫁 い だ人
物 であ り、またその娘が フレグの側室 になってい たオイラ ト族 のテ ンギズ ・グレゲ ンの家
系 が交換婚の相手 として選 ばれた。アバ ガは 自分 の娘 トゥ ドゥゲチ をテ ンギズ に嫁がせ、
そのお返 しとして、テ ンギズ とグユ クの娘 との 間に生 まれすでに成長 していた と思われる
ク トルグを長子 アルグ ンに要 らせた。 ク トルグ ・カ トンは、次の史料21に よれば、アルグ
ンの第一 カ トンとなった。
(史料21)(ア ルグンは)そ の全ての 中で最 も上であ リテ ンギズ ・グレゲ ンの娘 である
ク トルグ・ カ トンを要 った。彼女 が亡 くなった とき、ス ラミシの娘であ り
(ク
トルグ
の)姪 のオルジタイを求めた。彼女 の母親は トゥ ドゥゲチである。彼女はまだ子供で
あ ったので、彼 と夫婦 にはな らなかった。
『集史』アルグン・カン紀
(Ra
-3朝 e3:p.196)
d/AЛ И
一 方、ケ レイ ト族か らは、次の史料22に よる
と、オ ン・ カンの孫サ リチ ヤの娘のオルグ
(フ
レグの ドクズ ・カ トンの姪 )を アルグ ンに要 ら
せた。ただ し、 この場合 は、交換婚 の形 を取 ら
なかった。チ ンギス ・ カン家 とケ レイ ト族 との
通婚関係 は、一度 もギブ ・ア ン ド・テイクのパ
ター ンにならず、図 9の よ うに常 に一方通行 で
あ った。
(史 料 22)そ
の 次 に、ケ レイ ト族 のア ミー
ル ・イリンジンの姉妹 であ り、サ リチ ヤの
娘 で あ る オ ル グ ・ カ トン を要 っ た。 サ リ
チ ャは ドクズ ・ カ トンの 兄弟 で あ る。彼 女
図9
チンギス・カン家とケレイ ト族の通婚
関係
の死 後 、 ル ーム のス ル タ ン・ ロ ク ン ・ア ッデ ィー ンの娘 のサ ル ジ ェ ク ・ カ トンを要 っ
た。
『集史』 アル グ ン・ カ ン紀 (RattJAЛ И‐
3朝 e3:p196)
―- 42 -―
フレグ家 の通婚 関係にみ られる交換婚
このように、アバ ガは、弟テグデルに姑抗 し長子アルグンにイルカ ン位を継承 させるた
めに、アルグンに名門姻族 との姻戚関係を作 り、母方の血筋がよくないという弱点をカバー
しようとした と考えられる。
しか し結局、周知のように、1282年 にアバ ガが死去する と、結果的には、テグデルが、
王族 ・ノヤ ンたちに支持され、第 3代 イルカ ンとなった。アルグンは、このテグデルから
実力でイルカン位を奪い、 2年 後の1284年 に即位するのである。
結論
フレグ家 におけるアバ ガ、アルグン、ガザ ンのイルカン位の継承 だけを見 ると、フレグ
家においては ヨンギラ ト族、オイラ ト族、ケ レイ ト族 の 3大 名門姻族 との姻戚関係が軽視
され、母方の血筋は考慮 されず、長子であることの方がイルカン位継承に有利に働 いたか
のように見える。 しか し、前章までの分析か ら明らかなように、フレグ家においても、オ
イラ ト族、 コンギラ ト族 との間にギブ・ア ン ド・テイクのパ ターンにそった交換婚が行わ
れてお り、イルカン位継承において後継者候補 の母方の血筋 は意識されていた。名門姻族
出身の母親 を持つ王族はイルカン位継承に有利であ り、母方の血筋が名門姻族 と関係ない
場合 は、名門姻族か ら妻をめ とり、姻戚関係 を作ることによって、名門姻族 とのつ なが り
を作 ろ うとしたのである。
注
1)宇 野 1993、
2)志 茂 1983、
宇野 1999
志茂 1995
3)Lambton 1988,pp.258-296.
4)宇 野 1993、 宇野 1999
5)志 茂 1995、 pp.276-278.
6)モ ンケの即位 と同時に、カラコルムお よびその周辺 の トルイ家では、 コンギラ ト族 のつ
きた と考 え られる。詳 しくは、宇野1993、 pp.93、
7)チ
96-99参 照。
が起
'除
ンギス ・カン家 のギブ ・ア ン ド・テイクの交換婚 の 中には、 この ように自分 の側か ら婚 出 し
た女性以外 の妻か ら生 まれた娘が嫁 ぎ返 して くる場合がある。チ ンギス ・カン家 の通婚関係 に見
られる交換婚は、交換のパ ター ンとしては人類学の「父方交叉イ トコ婚 (父 の姉妹 の娘 との婚姻)」
に類似 して い るが、夫 と妻 の系譜関係 を考 えてみる と、この ように「父方交叉イ トコ婚」にはな
らない場合があ る。つ ま り、アルグンか らみて、妻 ク トルグは、父 アバ ガの姉妹 トウ ドウゲチの
「父の姉妹の夫の別の妻の娘」であるので、
「父方交叉 イ トコ婚」ではない ことにな
娘 ではな く、
る。人類 学 の縁組 み理論 において、夫 と妻 の系譜関係 によって婚姻 を定義することが伝統 的な方
法 であるが、チ ンギス ・カン家 の交換婚 を定義するには充分ではな く、チ ンギス ・カン家 の交換
婚 の事例 は、前章で述べ たように、交換 のパ ター ンの みによって定義す る必要がある。従 って、
交換 され る女性 の母親が誰であるかは問題 にな らない。
8)『 集史』 によれば、第 3代 グユ ク・ カア ンの母 トレゲネは、 オ ゴデイ ・ カアンの第ニ カ トンで
―-
43 -
『北東 アジア研究哲別冊第 1号 (2008年 3月
)
あ る。ただ し、オ ゴデイのカ トンについては諸史料 に食 い違 いがあ り、混乱がある ように思われ
る。
9)志 茂 1995、 pp.280-286
10)宇 野 1993、 pp 423-425、 427-429
11)こ の部分 は写本 に混乱がある。Raき TVAIИ -3aAC 3:p97の 校訂テキス トに従 えば「ムサの母は
ク トイ ・カ トンであ った。彼 らは従兄弟だつた。」 と訳す ことになるが、 コンギラ ト族 に嫁 いで
きた ム サ ・ グ レゲ ンの 母親 が カ トンで あ る は ず が な く、誤 りが あ る と考 え られ る。Raき Td/
AЛ И-3aД C
3!p97の 脚注 には、Rパ Td/Bibliotheque
「mad餌 (母 )」 があること、「
ralnzada bidalld(彼
Nttiona1 209に 「 ク トイ・ カ トン」 の前 に
らは従兄弟だった)」 の部分が ない ことが注記
されてい る。該当す る R益電侶ibliohequc Nationa1 209,fo1 296bを 調べ てみ ると、「 ク トイ・ カ
「 ク トイ・カ トン」 の後 ろに「五
トン」 の前 の「mad餌 (母 )」 に横線 を引 い て消 してあ り、
=z(∼
も)」 が あ り、「彼 らは従兄弟だ つた」が行 の上 に加筆 してある。 一 方、Raき Tdん stcrrcichischc
326,fo1 213aは 、Rお
8blionё quc Nationa1 209に 近 いが、「madar(母 )」 に横線 はな く、「IIIz
「ム
「彼 らは従兄弟 だった」は本文の行 の 中に入 つている。 これに従 うな らば、
(∼ も)」 があ り、
」 と読む ことがで きる。ただ し、
サ の母 はク トイ・カ トンの母で もあった。彼 らは従兄弟 だった。
「彼 らは従兄弟 だったJの 部分 は、解釈が困難 で ある。
12)宇 野 1993、 p.76
13)ド ー ソン1976、
P,174,
14)ド ー ソン1976、 p l19
参考文献
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J'α ,London:I.B,Tauis
カMe'テ ¢
ッ
α乃す働 α/P=¢ テ
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一
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1999「 チ ンギス ・ カン家の通婚 関係 にみ られる対称 的婚姻縁組」『目立民族学博物館研
-ヽ究辛Rどョ房J冊 』20、
pp.1-68
ペ ル シ ア話 史料 写本 略号 お よび校 訂 テキス ト・ 訳注 略 号 一 覧
プカプ・サライ博物館付属図書館 Topkapi SΥ ayl Mizesi,Kiitiiphancsi,
Raき
=d/Topkapl 1518:ト
IS.Re、 vall k6ski1 1518
Raき Td/Bibliothё
quc Nationa1 209:フ ラ ンス 国立 図書 館 Bibliotheque National,MS Supp16mcnt
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RAttOsttreichischc 326:オ ース トリア国立 図書館 Ostcrrcichische N onalbibliottck,Wien,MS,
―-44
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フレダ家の通婚関係にみられ―
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