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川村学園女子大学 国際英語学科
2015 年度 「児童文学英訳コンテスト」
【課題作品】 上橋菜穂子『神の守り人――帰還編』(偕成社、2003 年)
あらすじ:
前編の『神の守り人――来訪編』より続く。
短槍を操る女用心棒バルサは、タルの民の少女アスラを連れ、ナカという商人の率いる隊商
の護衛として旅をしている。アスラの兄チキサとバルサの幼なじみタンダを救うため、ロタ王
国のジタン祭儀場へ向かうつもりなのである。アスラはナカの娘のミナと仲良くなる。
ある晩、隊商が狼の群れに襲われる。狼の数が多すぎてバルサにさえ防ぎきれず、アスラと
ミナの身にも危険が迫る。そのときアスラを依代(よりしろ)としている恐るべき神、タルハ
マヤの力が覚醒し、狼をつぎつぎに殺していく。
アスラの力がいかに危険なものであるかを知ったバルサは、交易市場に赴き、アスラを追っ
ている呪術師、スファルについて情報を集めようとする。情報屋のタジルとカイナの話から、
バルサはアスラを追っているのがスファルだけではないこと、彼女の一件が、ロタ国王ヨーサ
ムと弟イーハンの関係、南部の大領主と北部の氏族の勢力争い、さらには多数派のロタの民と
少数民族であるタルの民との軋轢などにからむ、複雑な問題であることに気づきはじめる。
ナカの隊商と別れたバルサとアスラのもとへ、タルの民の女性、イアヌが訪れる。イアヌは
アスラの母の知人で、かつてタルハマヤの依代「サーダ・タルハマヤ」に仕えていた一族の末
裔だという。二人がジタンへ向かうのを助けたいというイアヌの申し出をバルサは受け、彼女
らの一行に同行することにする。しかし、イアヌの真の目的は、バルサを排除し、タルハマヤ
の力をもつアスラを手中に収めることであるとわかる。
イアヌの背後にいたのはスファルの娘シハナだった。彼女はアスラを「サーダ・タルハマヤ」
として再臨させ、その力をロタ王国の権力争いに利用しようともくろんでいたのである。彼女
の計画が全貌をあらわすにつれ、物語は終盤に向けて大きく動きはじめる。
【課題文1】
ミナは、くすぐったそうに笑って、アスラを抱きしめた。
「こわかったねぇ! 狼! さっき、お母さんに怒られちゃった。もうすこしで狼に食い殺さ
れるところだったんだよって。……でも、ほんとうに、どうしてたすかったのかなぁ? アスラ
はみなかった? だれが狼を殺したのかなぁ?」
アスラは、しずかに身体をはなして、ミナの顔をのぞきこんだ。
「……きっと、カミサマがたすけてくださったのよ。ミナが、お父さんのこと、たすけてっ
て、いっしょうけんめい願ったから、ききとどけてくださったのよ。」
アスラが、ちらっとバルサをみて、ほほえんだ。
バルサは、笑みをかえせなかった。稲妻のように、ある想いが心のなかにひらめいたからだ。
(――そうか。アスラは、あれを、神だと思っているのか……!)
人を気づかう、やさしい娘なのに、アスラが、おおぜいの人を虐殺したことを深く思い悩ん
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でいるようにみえなかったのが、バルサにはふしぎでならなかった。
たとえ自分の命をまもるためでも、人を殺した記憶は魂に深くきざまれる。なまぐさい血の
においとともに。……どんなに正当化しようとしても、のがれられない思いと後悔を、魂にき
ざむものだ。
だが、神ならば――祈りをききとどけて、神がたすけてくれたのだと思っているのなら、罪
の意識を感じることもあるまい。祈りをききとどけたのは神。裁きをくだしたのも、アスラで
はなく、神なのだから。
いま、アスラの目にうかんでいるのは、心から安らいでいる者の、やわらかい笑みだった。
あの狼を殺したことで、神がまもってくれていると、いつでも自分の招喚に応じてくれると確
信したのだろう。いまのアスラには、おそれるものがないのだ。……兄をたすけることもかん
たんにできると思って、ほっとしているのかもしれない。
腹の底から寒気がはいあがってきた。それは、狼を殺しつくしたアスラがほほえんだときに
感じたのと、おなじ寒気だった。(pp. 79-80)
【課題文2】
カイナは、にやっと笑って、息子をちょっとどかせると、長椅子にどっかり腰をおろした。
「あんた、わたしが娘のころ、どこにいたか知っているかい?」
バルサがだまっていると、カイナの目に、自慢げな色がうかんだ。
「わたしはね、若いころ、ジタンのお城で料理番をしてたのさ。この子がうまれたころには、
料理長にまで出世していたんだよ。」
タジルがげんなりした顔でつぶやいた。
「バルサ、気をつけろよ。話が長くなるからな。」
カイナは、じろっと息子をにらみつけた。
「わたしゃ、昼間っから若いころのひとつ話をくりかえしてるジジイとはちがうからね。要
点だけ、ずばずば話してやるさ。
ジタン城は、知ってのとおり、代々、王弟殿下が住まわれる居城だよ。ロタ王国第二の都市
の、大きなお城さ。氏族の城塞とちがって、王族が住まわれる城だから、格式も高い。
わたしはね、そこで、六つの年から五十年もはたらいたのさ。城の厨房ってところは、噂話
がどっさりと集まってくるところなんだよ。タジルが、いっちょまえに情報屋なんぞをやって
いるのは、もとをただせば、わたしの人脈があったからさ。」
タジルは、ぶすっとした顔をしていたが、今度は茶々をいれなかった。カイナの目には、む
かしを思いだしている、なつかしげな色がうかんでいた。
「亭主に死なれて、女手ひとつでタジルをそだてていたあのころ、わたしゃ、よく街の酒場
で、あらっぽい男たちと対等に酒を飲み、情報をいろいろ、おしえてやってたもんさ。
あんたの養い親のジグロにであったのも、そんなころだったよ。おぼえているだろう?」
バルサは苦笑した。いまのでっぷりふとった姿からは想像できないが、当時のカイナは、す
らりとした容姿の、きっぷのいい女だった。大声で笑い、酒を飲み、そして、情報をやりとり
していた頭のきれるカイナの姿は、いまも思いだせる。(pp. 94-96)
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【課題文3】
ちらちらと、雪がふりはじめた。
道はしだいに上り坂になり、地面から角のようにつきだした、苔むした岩が目立つようになっ
た。馬たちは白い息をはきながら、器用に山道をのぼっていく。
前方から、水が流れる音がきこえはじめた。谷川があるのだろう。
イアヌがふりかえって、大きな声でバルサにいった。
「もうすぐ、サイ川です。吊り橋を越えたら、シャーンの森の領域で、ロタ人は、はいって
くることはありません。吊り橋を越えたら、ひと休みしましょうね。」
バルサは、わかったというしるしに短槍を小さくふってみせたが、イアヌの大声に眉をひそ
めていた。
ほんのすこしまえから、バルサは、なにかを感じていた。音はまったくきこえないのだが、
うなじがびりびりしている。その正体をさぐろうとした瞬間に、イアヌが大声をだしたので、
集中力がみだされてしまった。
森がとぎれ、急峻な崖があらわれた。幅はたいしたことなく、元気な山羊ならとびこえてし
まえるほどだったが、きりたった崖で、たしかに吊り橋がかかっていた。
吊り橋がみえてきたことで、ほっとしたのだろうか。イアヌは、ひんぱんに、ふりかえって
は、バルサに声をかけてきた。
「この吊り橋です! バルサさん、もうすこしですよ。」
バルサはこたえなかった。
背中に鳥肌がたった。殺気がチリチリと肌につきささってきた。まちがいない。待ち伏せさ
れている……!
バルサは短槍をひとふりして、アスラがのっている馬の尻をたたいた。
「アスラ、走れっ! 罠だ……!」
バルサの声がおわらぬ間に、矢がバルサの背をおそった。
バルサは身をねじって矢をよけると、手綱を乱暴にひいて、馬のむきを変えた。
木々のあいだから、おおぜいの武装した男たちが、ぬっと立ちあがった。
「……バルサ!」
アスラが、悲鳴のような声をあげた。(pp. 136-138)
【登場人物紹介、および人物名の英語表記例】
バルサ(Balsa):女用心棒。短槍使いの達人。
ジグロ(Jiguro):バルサの養父、短槍の師匠。
アスラ(Asura):タルの民。12 歳の少女。
ミナ(Mina):バルサが護衛していた隊商の頭の娘。8 歳。
タジル(Tajil):交易市場の情報屋。カイナの息子。
カイナ(Kaina):タジルの母親。陰の情報に詳しい。
イアヌ(Ianu):タルの女性。
※上記以外の固有名詞は、原則としてローマ字表記とする。
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