卓球王国プラス

PERSONAL MAGAZINE ☆ PRODUCED BY TAKKYU OUKOKU
卓球王国完全プロデュース
パーソナルマガジン 卓球王国が
『あなたのための雑誌』
を
作ります
雑誌作りの専門家である、卓球王国編集部記者が直接取材し、インタビュー記事にして、
あなただけの 1 冊のオリジナル雑誌を作ります。それが『 卓球王国プラス 』です。
自らお持ちの卓球観や自分の卓球歴など、1 冊の雑誌にして残しておきませんか ? ま
た、お子さんやお孫さんの成長の記録を 1 冊にまとめるのもいいかもしれません。個人で
なくても OK。たとえば、創立 10 周年記念にチームで 1 冊の雑誌を作るのもおすすめです。
書籍だと、金銭的にも手間的にもハードルが高いですが、16 ページ( または 8 ページ )
の雑誌ならば、気軽に作ることができます。
め ん ど う
自分でゼロから作り上げるのは面倒なものですが、卓球王国がすべてサポートしますの
い っ さ い
で、専門的な知識は一切不要です。
※この雑誌は一般に販売されるものではありません
用途はいろいろ︵主なご利用例︶
卓球自分史
●自分のために残しておく ●家族や親しい友人、知人に贈る
●講演会や講習会時に渡す資料にする
お祝い記念史
●子どもや孫が親の還暦や古希、喜寿などのお祝いに贈る
●祝いの席の引き出物にする 子ども成長史
● 入園、入学祝いに、親が子どもの成長記録を残す
チーム創立
● クラブチームや学校のチームで、創立○周年記念など
○周年記念誌
引退・卒業記念誌
優勝記念誌
の節目の
● 引退する監督やコーチに贈る
● 卒業していく先輩に贈る
● 大会に優勝した記念
● 運営している大会の歴史を
創刊号
1932 年(昭和 7年)11月18日、長崎県長崎市生まれ。
[えぐち・ふじえ]
1957年世界選手権ストックホルム大会で女子シングルスを含め三冠王。
1954 年世界選手権ウェンブレー大会に初出場、
世界選手権では 6 個の金メダルを獲得し、
全日本選手権は 2 度優勝を飾る。
3 2
平成 7 年
50 歳
大阪卓球協会会長に就任
自 分 で 考 え て 自 分 で 実 行 し て、
幸いだったのは
コーチがいなかったこと。
それで結果が悪かったら
自分の責任ですやん
打 球の直 前、クッと左肩が前に
出ると同 時 にスパッとラケット を
振り上げる。スマッシュの時には、
さらにその右 腕が大きくしなるよ
年 ス トック ホ ル ム
種 目 で 優 勝 す る な ど、
年代の「 卓球ニッポン 」を作り上
大 会では
枝。その 後、
て、団 体 優 勝を果たした江口冨士
学
人 姉 妹の末っ子で、小
歳の時に両親ととも
年までを長崎で過ごし、小学
冨 士枝は
長 崎 に 出 て 理 髪 店 を 営 ん でい た。
江口 冨 士 枝 は 長 崎 県 長 崎 市 で 生
ま れ た。 両 親 は 佐 賀 県 生 ま れ で、
げた主人公とも言える。
年の春、
していた。
いたほど繁盛
くの従業員が
200 名 近
は、 一 時 は
善 美 容 院」
し て い た「 丸
に大 阪に 移った。父・善 作 が 経 営
うに後方から前方へ振られていく。
グは男子並みの豪快さだ。
ミスター卓 球・荻 村 伊 智 朗は江
口冨士枝を自著でこう評した。
フットワークは 華 麗 だが、スイン
技巧 派ではなく 力 派というか、本
〝 クロス強 打が得 点源で、男 子 級
格的な攻 撃型と言えよう。江口の
の圧倒的なスピードを持っていた。
明日卒 業 式という日の晩、昭 和
卒 業 式 を や る か ら と 大 阪 に 戻 り、
年経って、
た。姉たちは軍 事工場に学徒動 員
されていた。疎開して
言 われていたのに、発 疹 チフスに
れて、親にも 会 え ないし、廊 下に
かか り ガリガリになった。隔 離 さ
は死体が並んでいるし、『 私もああ
な るの か な 』と 思いな が ら 病 院 の
空襲があった。
きの彼女はじっとしていられない。
死まで覚 悟した江口の入院は
カ月に及んだが、もともと運動 好
ベッドで横になっていた 」
年( 1945 年 ) 月 日に大阪大
く さんいた。大 阪の町は 全部やら
痕が残る中、運 動 部が 他になかっ
中学 年の 月、江口は自分の
意思で卓 球 部を選んだ。戦 争の爪
れ、夜 空に火が舞 うのを初めて見
「 全部焼けて、もちろん卒業式は
でき ないし、亡 く なった 友 人 も た
卓 球 台で、打 ち合 うのはほとんど
た。釘が出ているよう な 手 作 りの
球 部 長 の 斎 藤 幸 夫 先 生 が 熱 心 で、
の場 合は音 楽 室の教 室だった。卓
光景は忘れら
た。学 校の校 庭に命からがら逃げ
れない 」
んでいるあの
て助 かったけ ど、死 体 が 累々と 並
その年に江口は都市対抗戦とも
言 えるマッカーサー元 帥 杯に大 阪
を教わった。
ケットの持 ち 方やスイングの基 本
コー チ に 来 ていた 西 村 博 義 にラ
終戦は船
場中の 年
生の夏に迎え
た。戦争も終
のジュニア 代 表 として 出 場 し、そ
わり、学校に
通い始めてい
当 時、
番目の姉・和
たある朝、江
枝が卓球に
る卓 球 場 だったが、彼 女は高 校の
あって、会 社 帰 りの人が 卓 球 をや
台 く らい
「 それまでは太っていて白ブタと
通っていた。卓 球 台 が
物 足 り な い の で、 上 六 卓 球 場 に
ない卓 球 部 だった。学 校 だけでは
東船場高に進んだ江口だったが、
コーチ もいない、顧 問の先 生 もい
た。
断 の 結 果、「 即 隔 離 」と 言 わ れ た。
だ。
フスは 致 死 率 が 高い病 気 だったの
発 し、死にかけ た。当 時、発 疹チ
発 疹 チフスだった。江口は 高 熱 を
院で医 師 として勤 務 していた。診
われた。姉は阿 倍野にある鉄 道病
年 間 学 童疎開し
人間というのは抑えられた気持ちが
あるほうがいいんですわ。
レールを引かれた上を歩くほうが
幸せに見えるかもしれないけど、
本当は抑えつけられたほうが強くなる
あがったらアカンと
思いながら試合をしていた。
あれだけ練習したんだから
負けたらしゃあないと
高校を出て、江口は難 波の高 島
屋( デパート )にあった実家が経営
高島屋の卓球部に所属した彼女は、
す る 美 容 室 で 働 く こ と に なった。
こへ卓 球 台 を 出して、仕 事でクタ
と家は農 業で、当 時、学 校に行き
父は実 業 家ではあったが、も とも
なる時が来ると考えていた。また、
た くて も 行 け ず に 勉 強 した くて も
「 医者なんて無理 」と江口は思い
なが ら も、卓 球への強い思いを 捨
育を受けさせようとしていた。
思いを子 どもに託して、最 高の教
で き な かった。 そのた めに、その
鉄 夫コーチに出 会い、見よう 見 ま
昭和 年( 1952 年 )に大阪薬
科 大に入 学 した江口。強いチーム
ではな かった ものの、大 学 に も 卓
練習だった。
しく、ずっと立ち 仕 事 をした後の
夏休みの合宿では好きなだけ卓
球 ができ たし、トレーニング も 厳
れることになる。
ねの卓 球から、理論的な卓 球に触
球 部 はあった。そこで江口は河 村
良 くて、お客さんから次々指 名が
手 が 大 き く て 力 が 強 い た め、
シャンプー とマッサ ー ジの評 判 が
会で成績を残せずに高校時代は終
わる。
入り、食 事 する時間 もないほど忙
か っ た。 あ が り 症 だ っ た た め だ。
言う。
自 分の力 を発 揮できないまま、大
思 い な が ら 試 合 が 終 わって い た。
いつも「 なんで入らへんのやろ 」と
インターハイに出ても 活 躍できな
合格した。
には大阪 薬 科 大学の医 科コースに
クタになった後に男 子 社 員 と練習
てられずに受験勉強を始め、翌春
ましたね 」
たかを反 省し、解 決方 法を探して
百 貨 店の卓 球 大 会に出ていた。店
高校時 代は大阪では有 名だった
が 全 国 的 に は 無 名 の 選 手 だった。
男 子のボールに打 ち 負けないよ
うに動 き、強 く 振る江口。教 える
をしていた。
練 習 が 終 わってからここで男 子に
が 終 わってから 食 堂を片 付 け、そ
混 じって 練 習 をした。 受 付のおっ
人 もいない中で 自 己 流ではあった
足りないからしんにょうをつける。
ると 思って 大 学 に 入ったが、医 科
ち 込んだ。思い切って 卓 球 ができ
で、江口はがむしゃらに 卓 球に打
コースのために思 う よ うに練 習は
年の昭 和
年
● 1954 年ウェンブレー大会で女子チームと荻村伊智朗。右端から田中良子、江口、荻村、渡辺
妃生子、後藤英子、後藤鉀二団長、長谷川喜代太郎監督
前 まで合 宿で自 分 を追い込んでい
空港に着 く。日本からまるまる
日間かかった。飛 行 機から降 り た
た江口にとってはそれさえも 休 養
時 に 体 がフラフラしていたが、直
球 だけでな く 人 間 的 に も 素 晴 らし
「 卓 球 界 で 尊 敬 す る 方 は 多いけ
れども、荻 村さんと藤井さんは卓
ている。
に思えた。
子が続いて降りたら、花 束 をもら
大 勢いた。男 子がま ず 降 りて、女
飛 行 機から降りると、そこには
待ち構 えていた地元の新聞 記 者が
現役引退後も藤井と親交を深め、
卓 球 の 普 及の 面 で 江 口 は 荻 村 を サ
ポートした。
かったと思っています 」
た。
い、女子 だけ 並んで写 真 を撮 られ
年 当時は羽田空港からプロペ
ラ 機に乗 り、南回りでイギリスに
ぐそばまで見送りの人たちが来た。
飛 ぶルー ト だった。タラップの す
よ、 負 け て 帰 る な よ 」と 声 が か か
振 り な が ら、 口 々 に「 勝 って こい
た。
「 日本から卓球の選手団がやっ
荻 村伊智朗に朝刊を買いに行かせ
大 会 の 日 前 に 到 着 し、 翌 朝、
後 藤 鉀二団長が通訳を兼ねていた
みんなが小さな日の丸の旗 を打ち
る。
女 子の
名 」としか
名の名 前と写 真が載って
てきた 」という見出しの下には日本
いたが、「 他 に 男 子 は
書いていない。男 子 選 手の名 前 も
写真もない。
決勝まで進み、専 修大の渡辺妃生
で 行 わ れ た 全 日 本 選 手 権 大 会 では
( 1953 年 ) 月、奈良県の天理
年間
敗れ、準 優 勝。高 校 時 代、全国 的
子にゲームオール − のスコアで
に無 名だった江口冨士枝は
き、恐るべき選手に成長していた。
でもないチーム環 境の中で牙 を磨
の社 会人生活を経て、卓 球の名門
最大の応援者になっていた。
最 初 は 卓 球 に 反 対 し ていた 父
だった が、いつの 間 に か 冨 士 枝の
手を叩いていた 」
ちの応 援の後にひとりパチパチと
援の人 も 来ていたのに、その人 た
「 あの時はお父さんが観に来てく
れはったんです わ。大 阪 からも 応
落としていく苛酷な選考合宿を経
女子も男子も代 表 候補選 手で
リーグ 戦 を 行い、一人二人 と 振 り
人の日 本
て、江口は 1954 年の世 界 選 手
権ウェンブレー大 会の
代表に入った。
当時の日本卓球協会には資金が
なく、世界選 手 権の日本代 表にな
頭 募 金する選 手 もいれば、大学の
荻村伊智朗のように卓球仲間が街
ると負担金の 万円が課せられた。
を辞 退した人もいた。当 時の貨 幣
たが、お金を工面できなくて代 表
江口は父が負担 金を工面してくれ
は考えられないような時代だった。
OB 会が金を工面 するなど、今で
なったけ ど、こればか り はしょう
がない 」( 江口 )
。
価値は今の
分の
程 度 とも 言 わ
れ、今の時代なら 800 万円相当
素質は頑固なところかな。
私は不器用なんですわ。
だから人の何倍も
努力せなあきまへん
「 今は国際大会や大きな海外での
試合も多いけど、昔は世界選 手権
抵ではなかった。
帰ってこれない 」という重圧も並大
日本代 表になることは大変な名
誉ではあるが、その分、「 負けては
になる。
だ け だった。 だ か ら こそ、そ こへ
ランド )
、 シ ド( ハン ガ リ ー)が い
子にはリーチ、バーグマン( イング
当 時の世 界の潮 流はヨーロッパ
のシェークのカットマンだった。男
の思い入れや大会の重みが違った 」
連 覇の 女
年の
敗
あまり優勝の実
しているために
勝リーグで
優勝したが、決
い、女子団体は
らとともに戦
江口は渡辺妃
生子、田中良子
もしれない。
目していたのか
よりも女子に注
の新聞社は男子
たが、イギリス
スイッチしてい
替わり、若手に
間に全員が入れ
選手団は
レー大会。日本
年 のウェンブ
そして迎えた
う に上っていたのを 江口は目 撃 し
精も根も尽き果て、階段を這 うよ
選 手は休 ませてくれない。藤井が
荻村伊智朗、富田芳雄という代表
基 男 が 練 習 相 手 を 務 め てい た が、
大会 前の合宿では、男子は貴重
なシェークのカットマンだった藤井
た。
ガリー)などの名手がひしめいてい
妹( イングランド )
、コチアン( ハン
王ロゼアヌ( ルーマニア )
、ロー 姉
て、女子には世界大会
感はないと言う。
勝で田中良子さんに負けました 」
いんで す よ。シングルスでは 準 決
『 試合前に練習すんなと
言うんですか。
そんなわけいきません 』と
口答えしてました
年 前の 1952 年のボンベイ
大 会で日本は世 界デビューを果た
「 トーナメントじゃないし、全勝
じゃないから優 勝という 印 象はな
し、女 子 団 体、男 子 シングルスの
種目でタイト
和・林 忠 明、女 子ダブルスの西 村
登美江・楢原静と
本の人たちに勇気を与えた。
ホルダー旋風 」を吹かせ、戦後の日
ルを奪い、世界に 「 日本のペン
翌年のブカレスト大会( ルーマニ
ア )は渡航許可が下りずに不参加。
カットマンは日本にはいなかった。
る。 完 敗 だ っ た。 あ ん な に 切 る
んのボールがネットに何 本 もかか
「 トップで渡辺妃生子さんが負け
た。カット 打 ちのう まい妃 生子 さ
ないと江口は言う。
イギリスでは団 体 戦のエリオッ
ト( スコットランド )戦が忘れられ
か 」と怒った。
「 後藤団長には日本
佐 藤 博 治、男 子ダブルスの藤 井 則
での 合 宿の時 か ら 大 変 お 世 話 に
「 そ れ だ け か ?」と 後 藤 団 長。
「 団 長 と 監 督 の 名 前 も 出 て な いの
終 点のロンドン郊 外のヒースロー
その飛 行 機で、サ イ ゴン、ベイ
ル ー ト、 ロ ー マ で 給 油 し な が ら、
フットワーク練習は、
疲れた時にこそやらなあかん。
練習で疲れるのは当たり前ですわ。
そこからが勝負
1967
(写真なし)
裏面にコルクを貼った
檜単板ラケット
中学三年から現役引退まで
このラケットが私のプレーを
支えてくれた
江口さんって
素顔を探る Q&A。
江口冨士枝さんの
本当はどんな人?
アちゃん」 とみんなから呼ばれてた。なんとなく
一番印象に残っている試合は?
せっけん
1950 年 代、 世 界 を 席 巻 し、「 卓
球ニッポン 」を築いた先人たち。女子
役引退後は裏方として日本卓球界を支
けん気でニッポンの卓球を牽引し、現
けんいん
獲得した江口冨士枝。猛烈な練習と負
の中で輝きを放ち、 個の金メダルを
せっけん
1950 年 代、 世 界 を 席 巻 し、「 卓 球
せっけん
江口の狂おしいほどの卓球に懸けた
情熱の源は何だったのだろう。
は裏方として日本卓球界を支えた。
ニッポンの卓球を牽引し、現役引退後
けんいん
江口冨士枝。猛烈な練習と負けん気で
きを放ち、 個の金メダルを獲得した
ン 」を築いた先人たち。女子の中で輝
1950 年世界を席巻し、「 卓球ニッポ
江口の狂おしいほどの卓球に懸けた
情熱の源は何だったのだろう。
えた。
だった。少しバウンドが高くなったところを狙い打っ
中で輝きを放ち、 個の金メダルを獲
けんいん
得した江口冨士枝。猛烈な練習と負け
引退後は裏方として日本卓球界を支え
ん気でニッポンの卓球を牽引し、現役
せっけん
江口の狂おしいほどの卓球に懸けた
情熱の源は何だったのだろう。
1950 年 代、 世 界 を 席 巻 し、「 卓 球
得した江口冨士枝。猛烈な練習と負け
中で輝きを放ち、 個の金メダルを獲
ニッポン 」を築いた先人たち。女子の
もっともっと技術を磨きたい気持ちですね。
けんいん
The Change End
現代で活躍できるペン技術を新たに開発したいわ。
とくに日本式ペンでね。
中で輝きを放ち、 個の金メダルを獲
ニッポン 」を築いた先人たち。女子の
1950 年 代、 世 界 を 席 巻 し、「 卓 球
せっけん
江口の狂おしいほどの卓球に懸けた
情熱の源は何だったのだろう。
た。
引退後は裏方として日本卓球界を支え
ん気でニッポンの卓球を牽引し、現役
卓球界のレジェンド・江口冨士枝さん
編 集 後 記
楽しいですね。レディース卓球の仲間と、時には
ニッポン 」を築いた先人たち。女子の
た。
身は、今、
「 幸せ」を感じています。好きな卓球を続
一 答
●カンカン、コンコンという音が好き。あの音を聞
けんいん
得した江口冨士枝。猛烈な練習と負け
せっけん
江口の狂おしいほどの卓球に懸けた
情熱の源は何だったのだろう。
た。
引退後は裏方として日本卓球界を支え
ん気でニッポンの卓球を牽引し、現役
1950 年 代、 世 界 を 席 巻 し、「 卓 球
中で輝きを放ち、 個の金メダルを獲
ニッポン 」を築いた先人たち。女子の
けんいん
得した江口冨士枝。猛烈な練習と負け
江口の狂おしいほどの卓球に懸けた
情熱の源は。
( 大塚眞理子 )
た。
引退後は裏方として日本卓球界を支え
ん気でニッポンの卓球を牽引し、現役
14
卓球王国プラス
15 Fujie Eguchi
ちゃんが「 アンタは熱心に毎日来る
勝。それは江口 自 身 にとって初め
「 運がいいとか、運が悪いと言う
け ど、それはその人 次 第 だ。運 と
は 命 がけでやるもので、それでも
い う 字 を よ く 見 る と、『 軍( い く
さ)
』に『 しんにょう 』をつける。軍
父の答えはこうだった。
「 大学に
行って もいい。その 代 わ り、医 科
師の免許を持った美容 師が必要に
あんなに切るカットマンは
日本にはいなかった。
あの選手と次にやるのかと
ないと 」
習の激しさは倍 加していくことに
望感はさらに高まり、集中 力と練
時 間 だった。その 分、卓 球への 渇
が、その
分 も す ごく 大 切 な 練 習
実 習 も あ るので
分しか練 習できない日もあった
でき な かった。
江 口 は、 大 学
c 鍛えられた脚力によるフットワークと
男まさりのフォアハンド強打で世界の頂
点に立った江口
2014
1965-1978
13 12
●やっぱり荻村伊智朗さんかしら。アグレッシブな
●それは絶対大阪です! 国内外、いろいろなとこ
かったけど、1957 年の世界戦ストックホルム大会の
団体でようやく勝てた時は、本当にうれしかった。
国内では、私が世界で戦っていた頃は、大川とみ
(写真 3 点まで)
平成 27 年 10月21日発行 第 1 巻第 1 号 通巻 1 号 発行所/株式会社卓球王国 〒151-0072 東京都渋谷区幡ヶ谷 1-1-1 1 03-5365-1771
裏表紙 16
●フォーマットデザインに
あてはめます
15 14
※ 16 ページの構成は、上記のフォーマットに沿った形になります。掲載できる写真の点
数は、この基本デザインで紹介している点数までとなります。上記以外はすべてオプショ
ン扱いになりますので、予めご了承ください。
編
江口冨 士 枝
まけてくれたことを覚えている。
が、振 り 返ればそれが 良かったと
しかった。その練 習の 成 果 も あっ
ての全国タイトルだった。
持 ちが次 第に強 くなり、その思い
大学だけだ 」
。父は、これからは医
相談することを決めた。
学生選手権( シングルス )でも優勝
その頃、父に言われた言 葉を江
口は今でも忘れない。
まっていった。
「 もっと思い切って
き や ね ん な 」と 卓 球への 思いが 高
は 鬱 積 していった。 そ して、父へ
行 けへん。父の店で 美 容 師になる
するほど力をつけていく。
思ったら恐怖心が襲ってきた
時 間の 限 ら れ た 大 学の 練 習の 中
姿とは明らかに違う。時代 背 景が
人間を強くし、不 遇な環境が人間
を育てるのかもしれない。
もするけど、私の中では、生まれ変わってもペンで
また、孫と過ごす時間がとても多いのですが、孫
て、何とか勝てました。
●人によって幸せの尺度は違うと思いますが、私自
●1954 年の世界選手権ウェンブレー大会。団体戦
現状について話したり、あるいはどういう食べ物が
からまけといてやるわ 」と使用料を
て
芽が出ない冨士枝を跡継ぎにする
く ね ん ?」と 聞 か れ る と、「 どこ も
ち に「 卒 業 し た ら、 ど この 大 学 行
「 あの大会はいつものようにやっ
ていただけ なんで す わ。あ がった
ねん 」と答えていた。
人 並みの努 力 をしても運は向いて
せやから常に 自 分のどこが 悪かっ
やっていたから自分だけで考えた。
球に反 対 だったし、隠れて卓 球 を
で答 えを 見つけていく。父親 が 卓
好 き な 卓 球 をや り たい 」とい う 気
べく、美容室の見習いにした。
年のインカレ( 大学対抗 )で優
やっているうちに「 自分は卓球が好
百貨店大会はレベルが低かった。
いっ た ん は 諦 め た 卓 球 だっ た が、
高校 年の実力テストでは校内
で一番 を 取ったこと も あ る。 友 だ
大 学 からはいくつかスカウトの
話はあったよ う だが、父は 卓 球で
次にそれを生かしていく。
コーチがいるとコーチに 責 任 転
嫁 してしま う。悩んだ時、壁にぶ
ら 誰のせいでも ない、自 分の責 任
実 行 して、それで結 果 が 悪かった
「 幸 い だっ た の は コ ー チ が い な
かったこと。自 分で 考 えて 自 分で
ですやん。悪いところを反省して、
つかった時 も 自 分 を 見 直 し、自 分
に何かを付け足して初めて運は向
こない。 命 が けの軍 を して、さ ら
いてくるんだ 」
練習したんだから負けたらしゃあ
ながら試 合 をしていた。あれだけ
らアカン、あがったらアカンと思い
年 生の秋には全日本
江口は練習の時には卓球台を
台 並べてフットワ ーク をやってい
た。そして
「 人間というのは抑えられた気持
ちが あるほ う がいい。レールを 引
なる。
かれた上を歩くほうが幸せに見え
るかもしれないけ ど、本 当は抑 え
つけられたほうが強くなる。
私は高校時代は父に反対されな
がらも 隠れるように卓 球 をやって
いたし、高 島 屋にいる時 も 鬱々と
きる環 境ではなかったけ ど、練 習
していた。大 学でも 卓 球 だけ をで
の時は集 中して思い切 りボールを
打てた 」
工夫し、集 中 することで 分の
練習は何 時間 分の練習になる。今
親 も 応 援し、名 門 校で育っていく
どきの選手のようにすべてが整い、
そ うしたとも言 えるし、逆境は悪
いことだけではない。逆 境こそが
d 鍛えられた脚力による
フットワークと男まさりの
フォアハンド強打で世界
の頂点に立った江口
p.16 ●そうねえ。一度はシェーク裏裏でやってみたい気
6
6
体力と練習熱心さは数多い日本代
チャンピオンでも ある西 山 恵 之 助
の 合 同 練 習 で、 全 日 本 ダ ブ ル ス
表 の 中 で も 一 流 で、 休 み 時 間 に
番
フットワーク 練 習 をしていたこと
病院に行って、診てもらおう 」と言
目の姉に伝 えると、「 今から一緒に
美 容 師 をしていた姉 だったが、父
呼びに行ってこい 」と言われ、小学
生の冨士枝が呼びに行 く 役 目だっ
江口は滋賀県に
たのだ。 太平洋戦争に突入し、軍靴の音
が聞こえる頃、小 学 年 生だった
か らフットワークの基 本 を 教 わっ
夢 中 に なっていた。その頃、卓 球
に「 また和枝がおらんな。冨士枝、
口は体の怠さを感じ、それを
堀にあった松竹座の地下にあった。
は数少ない娯 楽で、卓 球 場は道頓
術・技術 』〈 タマス社刊 〉より )
11 10
編集後記(あとがき)
く切れているカットで試合前に恐怖心を覚えるほど
今、一番強く感じていること、
思っていることを教えてください
10
「ちっちゃい 」のほうがか可愛らしいやん。そこで
今、一番楽しい時間とは?
9
彼女は「ちっちゃいカアちゃん」、私は「おっきいカ
説、経済の本なんかも読みますよ。
のエリオット戦は今でも鮮明に覚えています。すご
ボケ防止にいいのよ、とか( 笑 )
。いわゆる女子会で
内大会で勝ったり負けたりしてた。体の大きさから、
んでいます。ミステリーも読むし、啓発本や歴史小
3
ルールについて熱く語り合ったり、現在の卓球界の
6
だったけど、しいて挙げるなら、伊藤和子さん。国
たジャンルではなく、いろいろなジャンルの本を読
ちょっぴり嫉妬もあったのかも( 笑 )
。
●卓球仲間と会っておしゃべりする時間がとっても
6
もっともライバルと思っていた選手は?
何より、大阪の活気があって元気いっぱいなところ
など、強い選手がいっぱいた。どの選手もライバル
●もともと本を読むのは好きでしたが、最近は偏っ
●海外ではルーマニアのロゼアヌ選手かな。ロゼア
が好きです。生まれたのは長崎ですが、故郷と言え
2
ろに行きましたが、大阪に戻ってくるとほっとする。
さん、渡辺妃生子さん、伊藤和子(旧姓・山泉 )さん
現在の趣味はなんですか?
(卓球以外)
8
ヌのカットはすごく打ちにくかった。なかなか勝てな
ば 7 歳から住んでいる大阪。
スタイルは憧れの的。今でいうイケメンだったし。
心が落ち着く場所と聞かれたら?
7
一 問
●カンカン、コンコンという音が好き。あの音を聞
1
裏表紙
●卓球王国のスタッフが取材した
感想を第三者として記します
く合っていると思う。
一番好きな卓球選手は?
くと気持ちが高揚します。テンポの良さも好きです。
12
卓球王国プラス
13 Fujie Eguchi
10
卓球王国プラス
11 Fujie Eguchi
p.15 (写真 1 点)
くと気持ちが高揚します。テンポの良さも私にすご
1
卓球のどこに魅力を感じていますか?
6
卓球のどこに魅力を感じていますか?
5
1965
1965
b 鍛えられた脚力によるフットワー
クと男まさりのフォアハンド強打で
世界の頂点に立った江口
c 鍛えられた脚力によるフットワークと
男まさりのフォアハンド強打で世界の頂
点に立った江口
d 鍛えられた脚力に
よるフットワークと男
まさりのフォアハン
ド強打で世界の頂点
に立った江口
生まれ変わったら
どんな戦型になりたい?
けてこられて、今は裏方の仕事で、現役時代に支え
STAFF
虫ニャンコ 〟のニックネームがあっ
本。 年後のウェンブレー大会( イ
1965
1
一問一答
た江口
の将来を考えると、現在の日本の在り方には疑問を
野中陽子
目でタイトルを 奪い、世 界の卓 球
界に衝 撃のデビューを果 たした日
c 鍛えられた脚力によるフットワークと男まさりの
フォアハンド強打で世界の頂点に立った江口
写 真 で 蘇 る
あ の 日、 あ の 時。
b 鍛えられた脚
力によるフット
ワークと男まさ
りのフォアハン
ド強打で世界の
頂点に立った江
口
d 鍛えられた脚力によるフットワークと男まさりのフォア
ハンド強打で世界の頂点に立った江口ワークと男まさりの
フォアハンド強打で世界の頂点に立った江口
4
てもらった恩返しが少しずつでも出来ている。本当
大塚眞理子
た 〟(
『 世 界の選 手に 見る 卓 球の戦
辺 妃生子とともにチームの柱とし
E g u c h i
p.14 フッ
脚力による
アハ
c 鍛えられた
まさりのフォ
に立っ
トワークと男
世界の頂点
ンド強打で
1965
1965
4
a 鍛 えら れ
た脚力による
フットワーク
と男まさりの
フォアハンド
強打で 世界
の頂点に立っ
た江口
2014
に有り難いです。
渡辺友
1952 年 に 世 界 選 手 権 ボンベ
イ大会に初出場して 種目中 種
E g u c h i
構成します
6
27
9 8
団体の場合はその団体の歴史
7 6
●現在のあなたの素顔を
浮き彫りにします
d 鍛えられた脚力によるフットワー
クと男まさりのフォアハンド強打で
世界の頂点に立った江口
支えてくれる友人がいたから 今の私がある
かけがえのない親友たち
2
11
80
1965
b 鍛 えられた 脚
力 に よ る フ ット
ワークと男まさり
のフォアハンド強
打 で 世 界 の頂 点
に立った江口ワー
クと 男 ま さ り の
フォアハンド強打
で 世 界 の 頂 点に
1965
54
せっけん
書き表します
8
卓球王国プラス
9 Fujie Eguchi
6
卓球王国プラス
7 Fujie Eguchi
10
●鍛えられた脚力によるフットワークと男まさりのフォアハンド強打で世界の頂点に立っ
感じることが多いです。安倍首相には、もっと国民
永丘邦弘
E g u c h i
フォトアルバム
2
1
3
4
3
i
h
c
u
g
E
e
i
m
u
F
29
4
6
6
4
世界選手権ウェンブレー大会の日本代表に
初めて選ばれる( 女子団体で優勝 )
1995 年
p.12 〜 13(写真12点まで) ●お手持ちのお気に入り写真で
2
54
21 歳
■
江口 冨士枝
は語り草である。感激屋で、〝 泣き
Story
F u j i e
昭和29 年
長女出産
1
30
1954 年
長男出産
30 歳
27
30
■
冨田芳雄さんと結婚
28 歳
昭和38 年
の声を聞いて! と言いたいですね。
デザインフォーマッ
ト
■
表紙写真撮影
■
表紙ヘア&メイク
■
取材
■
ングランド )で、日本女子の中で渡
●鍛えられた脚力によるフットワークと男まさりのフォアハンド強打で世界の頂点に立った江口
2
全日本選手権女子シングルスで準優勝
世界選手権ドルトムント大会に出場し、
女子団体で優勝。
この大会を最後に現役引退
27 歳
昭和36 年
1963 年
年表
1
20 歳
26 歳
昭和35 年
1961 年
■
ストーリー
2
8
昭和28 年
昭和34 年
1960 年
■
p.6 〜 11 (写真 5 点まで) ●卓球王国のスタッフが取材して
30
28
2
1953 年
1959 年
■
(生い立ち・歴史)
Story
F u j i e
江口冨士枝の足跡
p.4 〜 5 (写真 2 点まで) ●個人の場合はその人の生い立ち、 10
■
■
1950 年代、世界を席巻し、
「 卓球ニッポン」を築いた先人たち。
女子の中で輝きを放ち、6 個の金メダルを獲得した江口冨士枝。
けんいん
猛烈な練習と負けん気でニッポンの卓球を牽引し、
現役引退後は裏方として日本卓球界を支えた。
インタビュー・文 = 今野昇
interview & text by Noboru Konno
江口の狂おしいほどの
写真( p165 )= 渡辺友
photograph by Tomo Watanabe
卓球に懸けた情熱の源は何だったのだろう。
3
20
大阪薬科大学の医科コースに合格
には全日本学生選手権のシングルスで優勝
世界選手権ストックホルム大会に出場し、
女子団体、シングルス、混合ダブルスの
3 種目で優勝
卓 球と私
2
19 歳
24 歳
1
23
1
2
昭和27 年
昭和32 年
3
1952 年
1957 年
50
2
1
5
7
4
難波の高島屋で実家が経営する美容室に就職
■
■
4
卓球王国プラス
5 Fujie Eguchi
(写真 1 点)
18 歳
23 歳
(写真 1 点)
4
大阪市に移り、大阪□立□□小学校に入学
世界選手権ユトレヒト大会でも
日本代表として出場
昭和31 年
目次
6
7
11月18日、長崎県長崎市で生まれる
歳
22 歳
1956 年
57
1
2
歳
7
できごと
昭和30 年
■
●雑誌にはつきもの
Story
F u j i e
0
昭和14 年
人物紹介
昭和 7 年
1939 年
年号
大阪市東船場高校に入学
15 歳
昭和26 年
傘寿を迎える
中学 2 年で卓球部に入部
マッカーサー元帥杯に大阪のジュニア代表として
出場
15 歳
昭和23 年
1951 年
日本卓球協会レディース委員会の委員長に就任
14 歳
昭和22 年
1948 年
■
55 歳
昭和21 年
1947 年
■
80 歳
1946 年
■
平成12 年
■
平成25 年
小学校 6 年の時に滋賀県に学童疎開する
2 月23日、大阪大空襲に遭う
大阪市立船場中学校に入学
夏に終戦( 世界第二次大戦 )を迎える
2000 年
12 歳
13 歳
2013 年
昭和19 年
昭和20 年
■
できごと
1932 年
■
西暦
上六卓球場に通うようになる
1944 年
1944 年
■
■
■
年齢
■
年齢
1955 年
西暦
p.3 5 4
●簡単なプロフィールを
掲載します
F u j i e
世界選手権東京大会に出場
( 女子団体・シングルス3 位、女子ダブルス準優勝 )
年号
■
表紙
7 歳で大阪に移り、東船場高から大阪薬科大学に進む。
p.2 E g u c h i
History
2
卓球王国プラス
3 Fujie Eguchi
●デザインは 2 パターン用意
1・2 どちらかを選んでいただく
i
h
c
u
g
E
e
i
j
u
14
(写真 1 点)
15
編集後記
F
12
一問一答
江口 冨士枝
写真で蘇るあの日、あの時
Q&A
※表紙の説明は
次ページにあります
もくじ
江口冨士枝の足跡
出来上がりイメージ
特 集卓 球と私
江口冨士枝
●卓球王国訪問時に撮影した写真
またはお気に入りのお手持ち写真
6
Photo Album
2
1
p.1
4
卓球と私
Story
S
T
N
E
T
N
O
C
〈
『卓球王国プラス』の基本デザイン〉
World Table Tennis
85
1 表紙
1 表紙
A タイプ〈16 ページ〉
1
VOL.
パターン
パターン
江口冨士枝
2 月23日、大阪大空襲に遭う
大阪市立船場中学校に入学
夏に終戦( 世界第二次大戦 )を迎える
■
1946 年
昭和21 年
14 歳
中学 2 年で卓球部に入部
マッカーサー元帥杯に大阪のジュニア代表として
出場
歳
11月18日、長崎県長崎市で生まれる
7
歳
初めて選ばれる( 女子団体で優勝 )
江口冨士枝の足跡
全日本選手権女子シングルスで準優勝
21 歳
世界選手権ウェンブレー大会の日本代表に
■
1955 年
昭和30 年
22 歳
■
1956 年
昭和31 年
23 歳
■
1957 年
昭和32 年
24 歳
3 Fujie Eguchi
3 2
Story
E g u c h i
けんいん
自 分 で 考 え て 自 分 で 実 行 し て、
幸いだったのは
コーチがいなかったこと。
それで結果が悪かったら
自分の責任ですやん
打 球の直 前、クッと左肩が前に
出ると同 時 にスパッとラケット を
振り上げる。スマッシュの時には、
率が高い病気だったのだ。
「 それまでは太っていて白ブタと
言 われていたのに、発 疹 チフスに
で、 全 日 本 ダ ブ
ルス チ ャン ピ オ
年 ス トック ホ ル ム
種 目 で 優 勝 す る な ど、
枝。その 後、
年代の「 卓球ニッポン 」を作り上
大 会では
げた主人公とも言える。
人 姉 妹の末っ子で、小
歳の時に両親ととも
年までを長崎で過ごし、小学
年の春、
球は数少ない娯 楽で、卓 球 場は道
繁盛していた。
頓 堀にあった松 竹 座の地下にあっ
父 に「 ま た 和 枝 が お ら ん な。 冨 士
た。美容師をしていた姉だったが、
小学生の冨士枝が呼びに行く役目
年 間 学 童疎開し
年経って、
明日卒 業 式という日の晩、昭 和
卒 業 式 を や る か ら と 大 阪 に 戻 り、
年( 1945 年 ) 月 日に大阪大
言う。
が、振 り 返ればそれが 良かったと
ち に「 卒 業 し た ら、 ど この 大 学 行
高校 年の実力テストでは校内
で一番 を 取ったこと も あ る。 友 だ
べく、美容室の見習いにした。
芽が出ない冨士枝を跡継ぎにする
大 学 からはいくつかスカウトの
話はあったよ う だが、父は卓 球で
わる。
実 行 して、それで結 果 が 悪かった
ら 誰のせいでも ない、自 分の責 任
「 幸 い だっ た の は コ ー チ が い な
かったこと。自 分で考 えて 自 分で
行 けへん。父の店で 美 容 師になる
くねん ?」と聞かれる。
が 終 わってから食 堂を片 付 け、そ
百 貨 店の卓 球 大 会に出ていた。店
高島屋の卓球部に所属した彼女は、
す る 美 容 室 で 働 く こ と に なった。
高校を出て、江口は難 波の高 島
屋( デパート )にあった実家が経営
あがったらアカンと
思いながら試合をしていた。
あれだけ練習したんだから
負けたらしゃあないと
ねん 」と答えていた。
こへ卓 球 台 を 出して、仕 事でクタ
対 だったし、隠 れて 卓 球 をやって
父親が 卓 球に反
を見つけていく。
し、 自 分 で 答 え
時も 自分を見 直
壁 に ぶつ かっ た
う。 悩 ん だ 時、
転嫁してしま
コー チ がい る
とコー チ に 責 任
次にそれを生かしていく。
ですやん。悪いところを反省して、
をしていた。
クタになった後に男子 社 員と練習
を教わった。
トワ ー クの 基 本
恵 之 助 か ら フッ
ンで も あ る 西 山
を反省し、解決方 法を探してまし
良 くて、お客さんから次々指 名が
自 分の力 を発 揮できないまま、大
百貨店大会はレベルが低かった。
練習だった。
しく、ずっと立ち 仕 事 をした後の
入り、食 事 する時間もないほど忙
手 が 大 き く て 力 が 強 い た め、
シャンプー とマッサージの評 判 が
思 い な が ら 試 合 が 終 わって い た。
インターハイに出ても 活 躍できな
か っ た。 あ が り 症 だ っ た た め だ。
高校時代は大阪では有 名だった
が 全 国 的 に は 無 名 の 選 手 だった。
いつも「 なんで入らへんのやろ 」と
練 習が 終 わってからここで男 子に
からまけといてやるわ 」と使用料を
c 鍛えられた脚力によるフットワークと
男まさりのフォアハンド強打で世界の頂
点に立った江口
1967
裏面にコルクを貼った
檜単板ラケット
中学三年から現役引退まで
このラケットが私のプレーを
支えてくれた
ストーリー
12
卓球王国プラス
て、団 体 優 勝を果たした江口冨士
学
冨 士枝は
長 崎 に 出 て 理 髪 店 を 営 ん でい た。
江口 冨 士 枝 は 長 崎 県 長 崎 市 で 生
ま れ た。 両 親 は 佐 賀 県 生 ま れ で、
していた「 丸善美容院 」は、一時は
当時、 番目の姉・和枝が卓 球
に 夢 中 に なっていた。その 頃、卓
200 名 近 くの従 業 員がいたほど
表 の 中 で も 一 流 で、 休 み 時 間 に
体力と練習熱心さは数多い日本代
格的な攻 撃型と言えよう。江口の
技巧 派ではなく 力 派というか、本
に大 阪に 移った。父・善 作 が 経 営
うに後方から前方へ振られていく。
さらにその右 腕が大きくしなるよ
ミスター卓 球・荻 村 伊 智 朗は江
口冨士枝を自著でこう評した。
グは男子並みの豪快さだ。
の圧倒的なスピードを持っていた。
フットワークは 華 麗 だが、スイン
〝 クロス強 打が得 点源で、男 子 級
だったのだ。 枝、呼びに行ってこい 」と言われ、
太平洋戦争に突入し、軍靴の音
が聞こえる頃、小 学 年 生だった
江口は滋賀県に
虫ニャンコ 〟のニックネームがあっ
1952 年 に 世 界 選 手 権 ボンベ
イ大会に初出場して 種目中 種
術・技術 』〈 タマス社刊 〉より )
た 〟(
『 世 界の選 手に 見る 卓 球の戦
は語り草である。感激屋で、〝 泣き
フットワーク 練 習 をしていたこと
た。姉たちは軍 事工場に学徒動 員
されていた。疎開して
本。 年後のウェンブレー大会( イ
目でタイトルを 奪い、世 界の卓 球
界に衝 撃のデビューを果 たした日
ングランド )で、日本女子の中で渡
会で成績を残せずに高校時代は終
と し て 出 場 し、
の ジュニア 代 表
あがったらアカンと
思いながら試合をしていた。
あれだけ練習したんだから
負けたらしゃあないと
姉 は 阿 倍 野 に あ る 鉄 道 病 院で 医 師
たね 」
から常に 自 分のどこが 悪かったか
いたから 自 分 だけで考 えた。せや
混 じって 練 習 をした。 受 付のおっ
あって、会 社 帰 りの人が 卓 球 をや
台 く らい
ちゃんが「 アンタは熱心に毎日来る
る卓 球 場 だったが、彼 女は高 校の
痕が残る中、運 動 部が他になかっ
通っていた。卓 球 台 が
中学 年の 月、江口は自分の
意思で卓 球 部を選んだ。戦 争の爪
きの彼女はじっとしていられない。
物 足 り な い の で、 上 六 卓 球 場 に
ない卓 球 部 だった。学 校 だけでは
東船場高に進んだ江口だったが、
コーチ もいない、顧 問の先 生 もい
かかり ガリガリになった。隔 離 さ
その合同練習
として勤務していた。診断の結果、
かけ た。当 時、発 疹チフスは 致 死
だった。江口は 高 熱 を 発 し、死に
「 即隔離 」と言われた。発疹チフス
人 もいない中で 自 己 流ではあった
空襲があった。
コー チ に 来 ていた 西 村 博 義 にラ
辺 妃生子とともにチームの柱とし
れ、夜 空に火が舞 うのを初めて見
を教わった。
ケットの持 ち 方やスイングの基 本
男子のボールに打ち 負けないよ
うに動 き、強 く 振る江口。教 える
た。学 校の校 庭に命からがら逃げ
ん で い る あ の 光 景 は 忘 れ ら れ な。
終戦は船場中の 年生の夏に迎
えた。戦 争 も 終わり、学 校に通い
始めていたある朝、江口は 体の怠
番目の姉に伝
えると、「 今から一緒に病 院に行っ
さを感じ、それを
て、 診 て も ら お う 」と 言 わ れ た。
その年に江口は都市対抗戦とも
言えるマッカーサー元帥杯に大阪
て助かったけ ど、死 体 が累々と並
まけてくれたことを覚えている。
写真( p165 )= 渡辺友
photograph by Tomo Watanabe
卓 球 台で、打 ち合 うのはほとんど
江口の狂おしいほどの
球 部 長 の 斎 藤 幸 夫 先 生 が 熱 心 で、
6 個の金メダルを獲得した江口冨士枝。
の場 合は音 楽 室の教 室だった。卓
卓球に懸けた情熱の源は何だったのだろう。
くさんいた。大 阪の町は全部やら
現役引退後は裏方として日本卓球界を支えた。
「 全部焼けて、もちろん卒業式は
できないし、亡く なった 友 人 も た
猛烈な練習と負けん気でニッポンの卓球を牽引し、
な るのか な 』と 思いな が ら 病 院 の
れて、親にも 会 えないし、廊 下に
卓球王国プラスの
名)を大きくしたデ
ロゴを大きくした
ザインです
デザインです
特 集卓 球と私
World Table Tennis
85
せっけん
5 4
2014
1965-1978
1965
7 6
フォトアルバム
裏表紙 8
平成 27 年 10月21日発行 第 1 巻第 1 号 通巻 1 号 発行所/株式会社卓球王国 〒151-0072 東京都渋谷区幡ヶ谷 1-1-1 1 03-5365-1771
江口冨士枝
裏表紙
表紙のデザイン
パターン
2
パターン
1
(写真 3 点まで)
●フォーマットデザインに
あてはめます
p.8 ※ 8 ページの構成は、右記のフォー
マットに沿った形になります。掲載で
きる写真の点数は、この基本デザイン
で紹介している点数までとなります。
右記以外はすべてオプション扱いにな
りますので、予めご了承ください。
●お手持ちのお気に入り写真で
構成します
p.6 〜 7(写真 12 点まで) ●卓球王国のスタッフが取材して
書き表します
13 Fujie Eguchi
3
個人名(または団体
1
1950 年代、世界を席巻し、
た。釘が出ているよう な 手 作 りの
1965
編
江口冨 士 枝
写 真 で 蘇 る
あ の 日、 あ の 時。
b 鍛えられた脚
力によるフット
ワークと男まさ
りのフォアハン
ド強打で世界の
頂点に立った江
口
d 鍛えられた脚力によるフットワークと男まさりのフォア
ハンド強打で世界の頂点に立った江口ワークと男まさりの
フォアハンド強打で世界の頂点に立った江口
50
1
2
←『パターン 2 』は、
VOL.
20
c 鍛えられた脚力によるフットワークと
男まさりのフォアハンド強打で世界の頂
点に立った江口
d 鍛えられた脚力に
よるフットワークと男
まさりのフォアハン
ド強打で世界の頂点
に立った江口
4
←『パターン 1』は、
創刊号
「 卓球ニッポン」を築いた先人たち。
は死体が並んでいるし、『 私もああ
た江口
23
a 鍛 えら れ
た脚力による
フットワーク
と男まさりの
フォアハンド
強打で 世界
の頂点に立っ
た江口
1965
b 鍛えられた脚力によるフットワー
クと男まさりのフォアハンド強打で
世界の頂点に立った江口
2014
d 鍛えられた脚力によるフットワー
クと男まさりのフォアハンド強打で
世界の頂点に立った江口
支えてくれる友人がいたから 今の私がある
かけがえのない親友たち
6
1
7
p.4 〜 5(写真 2 点まで) フッ
脚力による
アハ
c 鍛えられた
まさりのフォ
に立っ
トワークと男
世界の頂点
ンド強打で
1965
c 鍛えられた脚力によるフットワークと男まさりの
フォアハンド強打で世界の頂点に立った江口
年表(生い立ち・歴史)
d 鍛えられた脚力による
フットワークと男まさりの
フォアハンド強打で世界
の頂点に立った江口
1965
江口 冨士枝
●個人の場合はその人の生い立ち、
団体の場合はその団体の歴史
57
1
2
4
卓球王国プラス
5 Fujie Eguchi
5
7
4
3
i
h
c
u
g
E
e
i
p.3 (写真なし)
2
●簡単なプロフィールと
雑誌にはつきものの目次で構成
15
大阪薬科大学の医科コースに合格
には全日本学生選手権のシングルスで優勝
20 歳
昭和29 年
m
14
世界選手権ユトレヒト大会でも
日本代表として出場
難波の高島屋で実家が経営する美容室に就職
19 歳
昭和28 年
1954 年
u
F
12
一問一答
Q&A
写真で蘇るあの日、あの時
Photo Album
6
15 歳
18 歳
昭和27 年
1953 年
■
1965
b 鍛 えられた 脚
力 に よ る フ ット
ワークと男まさり
のフォアハンド強
打 で 世 界 の頂 点
に立った江口ワー
クと 男 ま さ り の
フォアハンド強打
で 世 界 の 頂 点に
1965
1
2
4
卓球と私
昭和23 年
昭和26 年
1952 年
■
江口冨士枝の足跡
1948 年
1951 年
■
インタビュー・文 = 今野昇
interview & text by Noboru Konno
10
0
女子の中で輝きを放ち、
3
ベッドで横になっていた 」
死まで覚 悟した江口の入院は
カ月に及んだが、もともと運動 好
8
大阪市東船場高校に入学
■
[えぐち・ふじえ]
13 歳
卓 球と私
2
もくじ
■
i
h
c
u
g
E
e
i
j
u
F
12 歳
昭和20 年
p.2 (写真 1 点)
人物紹介&目次
F u j i e
江口 冨士枝
昭和19 年
1944 年
1932 年(昭和 7年)11月18日、長崎県長崎市生まれ。
7 歳で大阪に移り、東船場高から大阪薬科大学に進む。
昭和14 年
1944 年
■
1954 年世界選手権ウェンブレー大会に初出場、
1957年世界選手権ストックホルム大会で女子シングルスを含め三冠王。
昭和 7 年
1939 年
■
編集後記
世界選手権東京大会に出場
( 女子団体・シングルス3 位、女子ダブルス準優勝 )
表紙
小学校 6 年の時に滋賀県に学童疎開する
1932 年
■
できごと
Story
●デザインは 2 パターン用意
1・2 どちらかを選んでください
(写真 1 点)
世界選手権では 6 個の金メダルを獲得し、
全日本選手権は 2 度優勝を飾る。
上六卓球場に通うようになる
15 歳
昭和22 年
1947 年
■
大阪市に移り、大阪□立□□小学校に入学
■
年齢
年号
西暦
※表紙の説明は
下記をご覧ください
F u j i e
〈
『卓球王国プラス』の基本デザイン〉
特 集卓 球と私
創刊号
p.1
E g u c h i
History
B タイプ〈8 ページ〉
2
1
●卓球王国訪問時に撮影した写真
またはお気に入りのお手持ち写真
World Table Tennis
85
1 表紙
1 表紙
出来上がりイメージ
1
VOL.
パターン
パターン
ご利用料金とお申し込みの流れ
A
〈16 ページ 〉
タイプ
主な流れ
❶資料請求
電話か FAX かメールにてご請求ください
詳細は、この後にあります
⇦
❷資料&申込用紙送付
⇦
卓球王国からお申し込み者に送付します
⇦
❸正式申し込み
⇦
❹取材日等打ち合わせ
⇦
❺卓球王 国にて取材
⇦
❻電話にて追加取材&確認
⇦
❼校正
❽完成
※❺〜❽までは、通常 2 〜
3 カ月が目安となりますが、
予約状況等により異なりま
すので、申し込み時に相談
させていただきます
B
〈 8 ページ 〉
タイプ
基本料金に
含まれるもの
●取材&表紙撮影
(卓球王国にてお受け致します/ 1 回)
※地方の方で、卓球王国にお越しになれない
場合は、電話取材と資料や写真の送付でも
お受けできます
※表紙の写真は、お手持ちのお気に入りの
写真を使用することもできます
●電話取材
(確認含む/ 2 回)
●校正紙出力 1 回
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(宛先:卓球王国プラス資料請求係)
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(編集部・大塚まで)