記号と規則、あるいは変数と微分法

記号と規則、あるいは変数と微分法
力学についての非科学的考察
1
目次
序
3
Ⅰ. 規則と記号
1.
考察の対象
5
2.
規則とその解釈
7
3.
規則が適用される対象
9
4.
数式とそれを構成する要素
11
5.
存在しない対象を表わす記号
15
Ⅱ. 見えない記号と導変数
6.
不在を指示する記述と見えない記号
17
7.
変数の条件式と導変数
19
8.
理論に従う微分法と導関数
21
9.
代数と定数
23
Ⅲ. 函数と導函数
10. 合成関数と函数および偏微分商
25
11. 微分律に従う微分法と導函数
27
12. 架空の導函数と偏微分仮説
29
Ⅳ. Lagrange の式
13. 架空の微分としての変分
32
14. 変数の条件式が成立しない変数
38
15. 自由な変数と解放された変数
40
16. 理解不可能な微分法
43
Ⅴ. Hamilton の式
17. 定数の条件式が成立しない定数
45
18. 理解不可能な函数
47
19. Hamiltonian を活用した微分法
49
20. Hamilton の式がもたらす理解
51
21. もうひとつの自由な変数としての独立変数
52
Ⅵ. Hamilton-Yacobi の式
22. 正準変換
56
23. 共役な関係がもたらす理解
58
24. Hamiltonian の消滅
59
25. 無限小変換
60
26. Hamilton 定数と見えない変数
62
2
Ⅶ. Poisson 括弧と Jacobi の式
27. Poisson 括弧と変数計算
66
28. Poisson 積を前提とする交換式と結合式
69
29. 分解された Jacobi の式
70
30. 数を用いて定義される定義不可能な記号
71
31. Poisson 括弧と交換可能な記号
73
Ⅷ. 差分の定義式と変数の条件式
32. 差分の定義式と変数の条件式(交換式)
76
33. 微分記号と変数の条件式
78
34. 記号の微分法と変数の条件式
80
35. 単純化された変数の条件
83
36. 変数の科学的条件式と非科学的条件式
85
Ⅸ. 量子論における二つの基本的な式
37. 函数の条件式
89
38. 固有値を表示する式
91
39. 記述された数
93
40. 論理的には無意義な、科学的には有意義な式
94
Ⅹ. 非論理的必然性と実在する矛盾
41. 交換式が成立しない記号
98
42. 論理的不可能性と観念的矛盾
99
43. 定数の哲学的条件式
102
44. 変数の哲学的条件式
105
45. 実在する矛盾
108
Ⅺ. 記号と意味
46. 最初に記述される記号と最初に成立する式
113
47. 意味としての数と言語としての “ 0 ”
115
48. 名と名指される対象
117
引用文献一覧
121
3
序
科学は存在することが不確実な対象をも考察の対象とする。ただしある物質が存在すると
いう仮説のもとで科学者がまずなすべきことは、その仮説を実証することである。そして実
証する手段のない仮説はもはや科学的仮説ではない。
......
私は記号を科学的でない方法で考察する。というのも記号は科学的考察の対象にはなり得
ない、――少なくとも私にはそう思われるからである。記号が存在することは確実である。
しかしその意味についてはそうではない。記号には意味が有るという仮説は科学的仮説では
ない。意味と記号についての直接的な、そして一般的な考察は本書の最後の章で行われる。
私の考察の大部分は、意味の無い記号、すなわち数学的記号の考察に費やされる。
本書の副題となっている「力学についての非科学的考察」について説明しよう。まず力学
という語を、私は「物理学の基礎にある数学」と定義する。すなわち私にとって力学は物理
学ではなく数学の範疇に属する。そして数学としての力学(運動学1)とは現実的で常識的な
概念、すなわち「時間」という絶対者を前提とする、そしてそれのみを前提とする数学であ
る。
本書では数式についての物理学的観点からの説明は一切行わない。その説明は力学を物理
学の範疇に属するものとして書かれた教科書、すなわち物理学者が著した力学の教科書に委
ねる。したがって本書は、読者が既に解析学(微分法)を応用して展開される物理学の理論
の基礎的部分(あるいは数学的側面と言ってもいい)を理解していると想定して書かれてい
る。また本書に登場する数式(Lagrange の式や Hamilton の式)は純数に数学的方法(変分
法)によって導き出すことも可能である。だが、そのためには積分しなければならない。し
かし積分法は私の考察の対象ではない。したがって本書ではそれらの式についての数学的観
点からの説明もなされない。
私はウィトゲンシュタインの(主として『哲学探究』において明らかにされた)思想から
強い影響を受けていることを認めるが、ただこの考察においてその思想がどの程度、正確に
反映されているかについては私には判らない。
私は物理学の教科書の中に「すでに公然と横たわっている」数式を考察の対象とした。た
だし私はウィトゲンシュタインと同様に「自然現象の諸事実」にはまったく興味がない。私
が興味をもつのは、それらの数式が自然現象を数学的表現形式で記述したものであると(物
理学的観点から)理解している人々は、それらを「何らかの意味で理解していない」という
1「運動学とは、幾何学が 3 次元の空間の中の図形の性質の学問であるのに、時間の要素を付け加えたもので、
大ざっぱにいえば、時間空間 4 次元の幾何学といってもよい。」
伏見康治『現代物理学を学ぶための古典力学』(岩波書店)p1
4
事実である2。そして私は本書において、人々が理解していないもの、それは誰にも理解する
ことのできないものであることを明らかにする。したがって本書を読むことによって読者が
新しいことを学ぶことは一切ないと断言する。
私の考察の仕方は非科学的である。しかし非論理的であるわけではない。むしろ論理的で
あることに拘りすぎた結果、非科学的になったと言える。例えば私は微分法のみを用いて
Lagrange の式を導き出すことは(物理学的解釈を加えることによって可能となるにしても)
論理的には不可能であることを明らかにする。科学的理論はもちろん論理的に展開されねば
ならない。しかし科学的理論にとって論理的であることは手段であって、その目的は自然現
象を説明することである。その目的を達成するには論理的であることに拘りすぎてはならな
い。科学においては論理的でない存在(例えば偏微分商)であっても、それが科学的理論の
目的を実現するのに役に立つならば、それを活用すべきである。
ウィトゲンシュタインもまた自身の「考察が科学的なものであってはならない」と戒め、
その戒めを守るために「どのような種類の理論も立ててはならない」、また「仮説のようなも
のが許されてはならない」
、さらには「あらゆる説明が捨てられ」るべきであると主張する3。
しかし私はある理論(導変数の理論)を提唱し、またいくつかの仮説を提起し、そしていく
つかの数式について長々と説明する。しかしその理論は(科学的な理論としては)展開され
ず、また仮説は悉く撤回され、さらに私の説明によって読者は何事かを理解するのではなく、
理解していないこと、理解不可能なものがあることに気付くだけである。
ウィトゲンシュタインは『哲学探究』を著すに際して「自分の思想は、それを自然の傾向
...
にさからってむりやり一つの方向へ向けようとしたとたん、かたわになってしまうであろう
こと、に気がついた」4と告白している。
これに対して私の考察は初めからひとつの方向性が決定されている。それを決定したのは
過去の物理学者たちである。私の前には古典的解析力学から量子論的力学へと続く一本のレ
ールが敷かれており、私の考察はその上を走る列車である、――ただし途中(ⅦとⅧ)で脱
線することはあるが。本書はいわば「捏造された力学史」である。
2 「それは自然現象の諸事実に対する興味から生まれるのでもなければ、因果連関を把握する必要から生まれ
るものでもない。経験的なものすべての基礎ないし本質を理解しようとする努力から生まれるのである。そのた
.....
めに新しい事実を探し出すべきなのではなくて、むしろ、探究に際してれわれが新しいことを一切学ぼうとしな
いということが、われわれの探究にとって本質的なことなのである。われわれは、自分たちの眼前にすでに公然
..
..
と横たわっているものを理解しようとする。なぜなら、それをわれわれは、何らかの意味で理解していないよう
に思われるからである。」『哲学探究(ウィトゲンシュタイン全集 8)』(大修館書店)p89
【引用者注】本書の引用文で頁のみが表示されている場合、それはすべて上記の書物からの引用である。
3 「われわれの考察が科学的なものであってはならない、ということは本当のことであった。
(中略)だから、
われわれはどのような種類の理論も立ててはならない。われわれの考察においては仮説のようなものが許されて
..
はならない。あらゆる説明が捨てられ、記述だけがその代わりになされるのでなくてはならない。かかる記述は、
みずからの光明、すなわち目的を哲学的な諸問題から受けとるのであ。(中略)哲学とは、われわれの言語とい
う手段を介して、われわれの悟性をまどわしているものに挑む戦いである。」p99
4「しかし、大切なことは、その書物の中で、思想が一つの主題から他の主題へと、自然な間断のない経過を
たどって進行していくことであるように、わたしには思われた。(中略)わたくしは、自分にはそのようなこと
...
が成就できそうもないこと、すなわち(中略)自分の思想は、それを自然の傾向にさからってむりやり一つの方
向へ向けようとしたとたん、かたわになってしまうであろうこと、に気がついた」p9
5
Ⅰ. 規則と記号
1.
考察の対象
私は少なくとも二度、物理学の教科書を開いた。最初はそこに書かれていることを読み、
........
..
その数学的内容を理解するために。そして二度目はそこで生起している現象を子細に観察す
るために。私は物理学者が自然現象を観察するように、物理学の教科書の中で起こっている
現象――記号の発生と消滅、その分離と結合、その分裂と融合、等々の現象――を観察し、
その現象についてのいくつかの仮説を立てる。
「序」で述べた通り本書に登場する式、例えば Lagrange 方程式は物理学的観点を排除して、
純粋に数学的手法(変分法)で導き出すことも可能なのである。確かに数学的観点からそれ
らの式が成立することは理解できる。しかし物理学的観点から把握しないと、それらの式が
有する意義(それらの式が何の役に立つのか)は理解できない。物理学的な、あるいは現実
的な存在を前提することによってはじめて、力学に登場する数式はその意義が理解される(そ
して読者はすでにその意義を理解していると想定されている)。だが私の考察はそのような物
理的現実を前提としない。しかし私もまたある現実を前提としてそれらの式を把握する。そ
..
の現実的なもの、それは特殊な人々(力学に携わる人々)の行動、数学的実践である5。私は
力学を「数学的記号を用いるゲーム」として把握する。
ウィトゲンシュタインは普通の人々の社会生活総体(そこでは言語は必要不可欠である)
を「言語ゲーム」6として把握した(その際、肝心のゲームという概念は曖昧にせざるをえな
い7)。ゲームと呼ばれているものには様々な形態があり、そこには(例えばサッカーとラグ
...
ビーのように)共通する特性が見える場合もあるが、(例えばサッカーとポーカーのように)
それが見えない場合もある。人々の社会生活の総体をひとつのゲーム、
「言語ゲーム」という
概念で把握しようとするとき、ウィトゲンシュタインはゲームという概念を説明するに際し
.....
て「いろいろなゲームを記述してみせ、その記述に付け加えて『こうしたもの、およびこれ
.....
に似たものを、ひとは〈ゲーム〉と呼んでいるのだ』と言うことができる」が、しかしそう
したところでゲームとゲームでないものの境界が明確になるわけではないと述べている8。し
5
「数学はもちろん、あるいみで一つの学問なのであるが、――しかしまた、一つの行動でもある。」p453
6
「わたくしはまた、言語と言語の織り込まれた諸活動との総体をも言語ゲームと呼ぶだろう。」p20
...
..
「『言語ゲーム』ということばは、ここでは、言語を話すということが、一つの活動ないし生活様式の一部で
あることを、はっきりさせるのでなければならない。」p32
7 「<ゲーム>という概念は輪郭のぼやけた概念であると言うことができる。――『だが、ぼやけた概念など、
そもそも概念なのか。』――ピンボケの写真はそもそも人間の映像なのか。そのうえ、ピンボケの映像をはっき
りした映像でおきかえることが、いつも都合のいいことなのか。ピンボケのものこそ、まさにしばしばわれわれ
の必要としているものではないのか。」p73
8 「それならば、ゲームという概念はどのように限界づけられるているのか。何がいまだにゲームであり、何
..
がもはやゲームでないのか。きみにその境界線が引けるか。引けはしない。だが、きみにはそのどれかを引くこ
とはできる。なぜなら、まだどんな境界線も引かれていないのだから。」p71
6
かしまたウィトゲンシュタインは言う、――特別な目的のためになら両者の間に境界線を引
......
くことは可能であると9。そして私には特別な目的がある。それは微分法の規則について考察
することである。
......
そこでまず私はゲームを明確なルールに従ってなされる活動に限定する。明確なルールの
ないゲームも確かにある。暗黙の了解、あるいは習慣などがルールの代用品として機能し、
成立するゲームもある。そのルールが明確でないもの、その代表的なものに文章を構成する
際に従うべきルール、すなわち文法がある。しかし文法など理解していなくとも、文を構成
すること、話すことや書くことに何の支障もない。
次にそのゲームを構成する要素を記述という形態で存在する物に限定する。力学――自然
現象を文章および数式で記述するという活動――には数学(特に重要な役割を演じるのは微
....
分法である)の規則が適用される。自然的存在には自然法則が適用されるように、人工的存
.
在、すなわち数学的記号には数学の規則が適用される。数学的記号とは数学という活動のた
めに意識的に創出された言語的記号であるということができる。
日常生活で、すなわち言語ゲーム(言語的記号ゲーム)で主として用いられる言語は(書
かれた言語ではなく)話される言語である。そこで例えば「石板五枚」という文(言語的記
号によって構成された対象)は、それがどのような口調で発せられたかによって「石板を五
枚持ってこい」という命令文にもなるし、
「石板が五枚ある」という報告文にもなる10。その
とき問題となるのは話された文においては、その文を発した者の声の調子や表情までもがそ
の文を構成する要素(言語的記号)になっている可能性がある。つまり話された言語におい
ては言語的記号とは何かという基本的な点において、すでに曖昧なのである。
さらに、そこでは石板という物もまた言語ゲームを構成する要素である。すなわち人々の
生活一般をゲームだとした場合、そのゲームを成立させるには、ありとあらゆる物が必要と
なるということである。これが、人が普通にゲームと呼んでいるもの(例えば将棋は将棋盤
と将棋の駒さえあれば成立する)と言語ゲームの決定的な相違であるように思われる(だた
しこの点に関してウィトゲンシュタインは何も言及していない)。
これに対して力学というゲ
.
ームを行うには紙とペンさえあれば十分である。ただし、それらの物は規則が適用される対
.......
象ではない。数学的活動は言語ゲームと異なり、すべて(普通は)記述という行為に限定さ
れる。しかも数学的記号とは何かについて明確に答えることができる。
9 「われわれは、他人に対してだけ、ゲームとは何であるかを精確に言えないのだろうか。――しかし、これ
は無知ではない。われわれが境界を知らないのは、境界線など引かれていないからだ。すでに述べたように、わ
れわれは――特別な目的のために――境界線を引くことができる。だが、そうすることによって、はじめて概念
が使用可能になるのか。断じてそうではない! その特別な目的のためになら、そうであるにしても。」p72
10 「B が A の問いに対して、つみあげてある石板や台石の数量を報告するとか、どこそこの場所においてあ
る建材の色や形報告するとかいった、言語ゲームを考えよ。――すると、ある報告は『石板五枚』といったもの
でありえよう。そのとき、
『石板五枚』という報告ないし陳述と、
『石板五枚!』という命令とのちがいは何なので
あろうか。――それは、こうした語の発音が言語ゲームの中で果たす役割なのだ。」p29
7
2.
規則とその解釈
文章が文法と呼ばれる規則に従って構成されるように、数式もまたある規則に従って構成
.
される。力学には明確なルールがある。その際、私が「明確なルール」と呼んでいるのは規
....
則の解釈のことである。
規則について考えるとき重要なのは、規則そのものと、その解釈を区別することである。
その区別についてウィトゲンシュタインは次のように語る。「〔規則の〕解釈ではなく、応用
の場合場合に応じ、われわれが『規則に従う』と呼び、
『規則に背く』と呼ぶことがらのうち
におのずから現れてくるような、規則の把握〔のしかた〕が存在する」そして「規則に従う
それぞれの行動は解釈である、と言いたくなる傾向が生ずる。しかし、規則のある表現を別
のある表現でおきかえたもののみを『解釈』と呼ぶべきであろう」と11。
例えばサッカー選手のサッカーの試合における行動はサッカーの規則を表現しているとい
うことは、ある意味、妥当であろう。実際、サッカーの試合を何度も観戦することによって
...
そのルールを理解することができるのであるから。したがって規則の最初の表現は「規則に
従うそれぞれの行動」であると理解することは不当ではないと思われる。そうでなければ、
それを「別のある表現でおきかえ」ることが不可能となるからである(ただしそれは、サッ
カーというゲームに先行するゲームがない場合の話である)。
ところがサッカー選手にはサッカーの規則を表現する意図はない。ただたんに規則に従っ
ている(サッカーをしている)だけである。彼らの意図はサッカーの試合に勝つことにある。
したがってサッカーの規則を表現しようという明確な意図をもってなされる表現、例えば「サ
ッカーのルール」と題された一連の文章によってなされる表現とは区別されるべきである。
そして後者を(サッカーの)規則の解釈と呼ぶ。
ではウィトゲンシュタインの言う、規則は「いかなる行動のしかたも決定できない」とい
う主張はどのように理解されるべきか。
「サッカーのルール」によって、すなわち(規則その
ものによってではなく)規則の解釈によってサッカー選手の行動は決定されている。そして
当然のことながら「サッカーのルール」ではラグビー選手の行動は決定されない。それに対
する常識的な反論はサッカーとラグビーは異なる規則に従って行われるゲームであるからで
ある、というものであろう。しかし規則と規則の解釈を区別する観点から、この常識的反論
に対して次のように言いたい。そもそもサッカーに先行してフットボールというゲームがあ
り、
「サッカーのルール」は「フットボールのルール」という規則の表現をサッカー流に表現
(解釈)し直したものであり、また「ラグビーのルール」はそれをラグビー流に表現(解釈)
11
「われわれのパラドックスは、ある規則がいかなる行動のしかたも決定できないであろうということ、な
ぜなら、どのような行動のしかたもその規則と一致させることができるから、ということであった。その答は、
どのような行動のしかたも規則と一致させることができるなら、矛盾させることもできる、ということであった。
それゆえ、ここには、一致も矛盾も存在しないであろう。
ここに誤解があるということは、われわれがこのような思考過程の中で解釈に次ぐ解釈を行っているという事
実のうちに、すでに示されている。あたかもそれぞれの解釈が、その背後にあるもう一つの解釈に思い至るまで、
われわれを少なくとも一瞬の間安心させてくれるかのように。言いかえれば、このことによって、われわれは、
〔規則の〕解釈ではなく、応用の場合場合に応じ、われわれが『規則に従う』と呼び、『規則に背く』と呼ぶこ
とがらのうちにおのずから現れてくるような、規則の把握〔のしかた〕が存在することを示すのである。
それゆえ、規則に従うそれぞれの行動は解釈である、と言いたくなる傾向が生ずる。しかし、規則のある表現
を別のある表現でおきかえたもののみを『解釈』と呼ぶべきであろう。」p162
8
し直したものである。したがって(規則そのものではなく)規則の解釈によってある行動(例
えばボールを手で持って走ること)が規則に反するとされたり、あるいは、そうでないとさ
れたりするのである。
また次のように言うことも可能である。サッカーの試合中にある選手が突然、ボールを手
...
に持って走り出した。驚いた相手側の選手は思わず、その選手に体当たりをしてその行為を
阻止した。この二人の選手の行為は確かにサッカーのルールには従っていない。そして彼ら
の行為がラグビーのルールに従ったものだという主張は明らかに不当である(なぜならその
ようなルールはまだ確立していないのであるから)。それでもそこで彼らは、そのルールが確
.....
立する前に(後に「ラグビー」と呼ばれる)ゲームを行っていたのだ、したがって(サッカ
ーのルールには従っていないが)規則には従っていたという主張は不当であろうか 12。この
事例ではラグビーのルールとはサッカーのルールを解釈し直したものだと考えられているの
である。フットボールのルールはサッカーのルールとして解釈し直され、さらにサッカーの
ルールはラグビーのルールとして解釈し直される、――これがウィトゲンシュタインの言う
「思考過程の中で解釈に次ぐ解釈を行っているという事実」の実例になっているかどうかは
定かではないが。
いずれにせよサッカーに先行するゲームとしてフットボールがあり、そしてそのルールが
明確に表現されているならば、それもまた、ある規則の解釈(表現)である。とすれば規則
の解釈とは区別される規則そのものとはどのようなものなのか。ここで「われわれが『規則
に従う』と呼び、
『規則に背く』と呼ぶことがらのうちにおのずから現れてくるような、規則
の把握〔のしかた〕」について考えてみる。例えばサッカーではボールに手を触れることは原
則、禁じられている。しかし誰かが蹴ったボールが偶々ある選手の手に当たった場合は、そ
の選手が「規則に背いた」とされることはない(反則を取られることはない)。その行為がそ
の選手の意志によるものではないからである。
「規則に背く」という行為の背後には、その行
為を行う〈わたし〉の明確な意志がある。これに対して「規則に従う」行為については、そ
の行為を行う意志は必要とされない。人は盲目的に規則に従う。人は規則に従うとき、規則
については何も考えていない。考えられているのは別のことである。例えば将棋をする人は
(将棋の)規則に従って駒を動かす。そのとき選択をしない 13。ただし棋士は当然、最善手
を選択する。彼らが考えることは、どうすれば対局相手に勝つことができるかである。そう
すると規則とは何か単純なもの、人に為すべきことを為すように強制する外的な力のような
抽象的なものと考えられる。そのような単純な規則はもはや解釈することは不可能である。
そのとき次のように言いたくなる、――物が自然法則に従うように、人は規則に従う、と。
ある規則に従うのに、その規則を理解する必要はない14。ある規則に従うのに必要なのは、
〈わ
たし〉が〈わたし〉の内に、規則に従うことができる主体をつくりだすこと、すなわち〈わ
12
「でも、われわれがゲームをするとき――〈やりながら規則をでっち上げる〉ような場合もあるのではな
いか。また、やりながら――規則を変えてしまう場合もあるのではないか。」p84
13 「規則に従っているとき、わたくしは選択をしない。
....
わたくしは規則に盲目的に従っているのだ。」p171
14 「わたくしは命令を、それに従って行為できる前に、理解していなくてはならないか。――たしかに! さも
....
なければ、あなたは自分が何をしたらいいのか分からないであろう。――だが、知ることから行うことへと、ふ
たたび飛躍があるのだ! ――」p278
9
たし〉が、規則に習熟するように自分自身を訓練することである。ここであえて〈わたし〉
という主体を持ち出したのは、その訓練が動物に対する調教のようなものではないというこ
とをはっきりさせるためである。また逆に、ある規則に完璧に従うことができるようになっ
たからといって、その規則が完全に理解されたわけではない。規則を理解するには考える必
要がある。その思考の産物として〈わたし〉なりの規則の解釈が出来上がる。規則に従うと
いうことは実践であり、規則の解釈は思考の産物である。そして規則を解釈するに際して、
重要なのは、その解釈が恣意的なものであってはならないということである。規則の解釈は
誰もが、それを当然のこととして受け入れるものでなければならない。
3.
規則が適用される対象
規則を解釈するにはまずそれを、ある限定された特定の規則として把握する必要がある。
そして普通に規則と呼ばれているものはすべて特定の規則である。それは複雑で具体的であ
り、したがってゲームは多様である。それはゲームを構成する要素、すなわち規則が適用さ
れる対象が多様であるからである。規則が適用される対象とは、あるゲームを成立させるの
に必要不可欠な要素のことである。例えばサッカーの規則が適用される対象はサッカーボー
ル、サッカーグラウンド、サッカーのゴール、等々である。規則の解釈だけでなく、これら
の要素によっても、そのゲームは(サッカーとして)特定される15。そして規則の解釈と規
則が適用される対象は相互に影響を及ぼし合う。サッカーのボールは完全な球形であるが、
ラグビーのそれは、そうではないのも、それぞれのルールと関係している。
では数学において規則が適用される対象は何か。それは例えば紙とペンではない。数学で
必要とされるのは(やはり物ではあるが、しかし)物を超えたもの、数学的記述、例えば数
学的記号である。ここで重要な問題が提起される。それは、物はいかにして記号になるか、
あるいは記号とは何であるか、という根本的問題である。だがこの問は最後に検討すること
にして、まずは数学的記号という限定された記号について、その概念を明確にすることにす
る。ただしそれは次の節の課題である。
サッカーと将棋を比較すると、どちらも定められた領域内である対象(サッカーの場合は
ボール、将棋の場合は駒)を動かすゲームであるという共通点が見える。しかし両者の間に
は決定的な違いがある。サッカーボールは記号であるようには見えないが、将棋の駒はまさ
に記号であると考えられる点である。サッカーにおいてはボールはたんなる物として存在し
ており、したがってその動きを最終的に決定するのは自然法則である。もちろん自然法則に
先行して選手の判断や技術によってその動きは決定されるのあり、したがって選手の判断に
よって定められた領域(タッチラインとゴールラインによって規定される領域)の外に蹴り
出すこともできる(そのときルールに従って試合は中断するが、ゲームは続行している)
。し
かし将棋においては将棋盤の外に将棋の駒を動かすことなど、そもそも考えられない。それ
15 ある特定のゲームではその規則が適用される対象は限定される。しかし、ありとあらゆる物が必要とされ
る言語ゲームにおいては、それが限定されない。そのようなゲームの規則を解釈することは不可能であるように
思われる。あるいは様々な恣意的解釈が可能であるように思える。
10
ぞれの駒の動かし方は予めルールによって決定されている。そしてこれが肝心な点であるが、
それは、あたかも物理的に将棋盤の外に動かすことの不可能な存在であるかのように、そこ
に存在している。人は将棋をするとき、それを自由に、言い換えれば恣意的に動かし得るも
....
...
のであることを忘れている。ある将棋の駒はその駒に固有の動き方のシンボルとしてある位
..
置に存在しているのである。その結果、人はその駒がそれに固有の動き方しかできないよう
に、それ以外の動き方ができないように語る16。
したがってシンボルとしての将棋の駒は、その位置もまた物理的に規定される必要はない。
すなわち将棋盤という物理的存在の上のどこかである必要はない。将棋のルールが確立した
時点で「目隠し将棋」が可能となる。
「目隠し将棋」においては将棋盤も将棋の駒も用いずに、
対局者が、どの駒をどこに移動するかを相手に声で伝えることで成立する。そこでは「フ」
という発音が「歩」という文字が彫られた駒の代わりをする。この点で将棋の駒は言語
的記号に似ている17。似てはいるが、しかし違いもある。
ここで将棋盤の代わりに算盤を考えよう。算盤とは算盤を用いてなされるゲーム、すなわ
ち珠算の規則が適用される対象である。将棋と珠算はまったく違ったゲームのように見える
が、しかし共通点を見出すことも可能である。将棋が将棋の駒を動かすゲームであるのに対
して、珠算は算盤の珠を動かすゲームである。将棋は対局者のいずれか一方が投了したとき
に終了する。その場合、普通は盤上の将棋の駒の配置は「詰んでいる」と呼ばれる状態にあ
る。では珠算はどの時点で終了するのか。
算盤の珠を動かした結果、それがある状態にあるという事態によって珠算は完了する。し
..
かし、そこで計算が完了するわけではない。確かに算盤の珠は珠算の規則に従って動かされ
るが、しかしそれは計算の規則ではない。算盤の珠を動かし終えたときの、その算盤の状態
から計算の結果を読み取ることのできる人に対してのみ、それは計算の結果を示していると
言えるだけである、――ちょうど暗号が、それを解読することのできる人に対してのみ何か
を示しているように。珠算が終わったとき(実際の計算はまだ終わっていない)の算盤の状
態そのものは計算の結果であるとは言えない。というのもひとつの文章を暗号化するのに
様々な方法があるように、計算の物質的手段は様々な構造をもつことが可能であり、したが
って人がそれを操作し終えたときの、その状態はどのような状態であってもいい。極論すれ
ば人は自分が使いやすいように自分だけの私的算盤を作ることができる。この私的算盤を使
って「計算」を終えたとき、その「計算結果」を知っているのは〈わたし〉だけである。
珠算の終了が計算の終了でないことは「目隠し将棋」と同じことが珠算について可能であ
ることを考えれば明らかとなる。算盤に熟練した人は算盤を用いずに、それを頭の中に思い
16 「活動のしかたのシンボルとしての器械。器械は(中略)その活動のしかたをすでにみずからのうちに備
えているように見える。(中略)われわれは、これこれの部分がこのようにしか運動できないかのように、それ
以外のことは何一つできないかのように、語る。これはどういうことか――我々は、そうすると、それらが曲が
ったり、こわれたり、熔けたりする可能性を忘れているのか。その通り。われわれは、多くの場合、そうしたこ
とを全く考えていない。われわれはある器械ない器械の映像を、一定の活動のシンボルとして使う。」p156
17 「われわれは、言語については、チェスゲームの駒について語るように語っているのであって、その際そ
のためのゲームの規則は述べるけれども、その物理的諸性質を記述してはいないのである。
『語とはそもそも何であるか』という問いは、『将棋の駒とは何であるか』という問いに似ている。」p99
11
浮かべ、そして頭の中で算盤の珠を動かすことによって珠算を行うことができる。そしてこ
の珠算が終わったとき、その人は「わたしはその計算の結果を知っている」と言えるだけで、
その状態(その人の脳の状態)そのものが計算の結果であるとは言えないことは明らかであ
ろう。計算が終わるのは、人が算盤の状態を(誰もがそれを計算の結果であると認める仕方
で)記述し、あるいは読みあげたときである。計算は計算の結果の一致によって特徴付けら
れる18。計算の結果が一致するのは当然であり、それは計算の結果はなぜ一致するのかとい
う問が成立しないということである。もしその結果に一致がないとすればその前提、すなわ
ち「計算」と呼ばれる行為自体が成り立たないであろう。
算盤は計算の規則の解釈に基づいて作られた道具である。算盤とは計算の規則の合理的解
...
釈を物質化したものである。この点から規則の合理的解釈は機械的であると指摘することが
できる。
最も原始的な計算は数えることである。幼児にとって数えるということは、普通は「イチ、
ニ、サン、… 」と発音することである(後には頭の中で数えることができるようになるので
あるが)。だが、ここでは人は発音の代わりに記述という仕方で数えるものとする。
数えるという原始的計算によって再生産される基本的数値、すなわち数字(自然数)の原
料となる数字は 1 と記述される。最初に記述される数字を 1 と記述すること、その次の数字
..
を 2 と記述することは、たんなる習慣である。だが 9 の次の数字を 10 と記述することは、
..
そうではい。後者の場合は規則に従ってそのように記述されるのである。数字の再生産を際
限なく繰り返すには、習慣ではなく規則が必要となる。ただし習慣と規則の間に明確な境界
線があると仮定した場合にのみ、そのように言えるのであるが。人は 9 の次の数字を 10 と
.......
記述するのと同じようにして 1 の次の数字を 2 と記述すると言うこともできる。
4.
数式とそれを構成する要素
ここでは数学の規則が適用される対象を分析する。その対象は一言で言えば数式である。
数式とは構成された対象である。数式を構築するのに絶対に必要不可欠な素材がある。それ
は等号である。等号によって二つの理論的な場、左辺と右辺が設定される。そして両辺に数
学的記述を配置したもの、それが数式(式)である。式の両辺に存在する記述を数学的対象
(あるいはたんに「対象」)と呼ぶ。式についての基本的命題がある。それは二つの対象 A
および B についての命題、すなわち
A = B ならば
B=A
..
「『一致』という語と『規則』という語とは、お互いに同類であり、いとこ同士なのである。わたくしが誰
かにその一方の語の使いかたを教えているとき、かれはそれとともにもう一方の語の使いかたも学んでいる。」
p172
「『それだから、あなたは、何が正しく、何が誤っているかを、人間の一致が決定すると言って稲のだな。』―
.....
..
―正しかったり、誤ったりするのは人間の言っていることだ。そして、言語において人間は一致するのだ。それ
は意見の一致ではなく、生活様式の一致なのである。」p176
18
12
という命題である。この命題に意義があるのは両辺に異なる対象が配置されているからであ
る。それを無意義にする「式」、すなわち両辺に同じ対象が配置されている場合、例えば
χ=χ
.....
と記述されている場合、その記述は式ではない。その記述は(式を記述する際の)規則に従
.......
って記述されていない。その根拠として、そのような「式」を誰も記述しないという事実が
挙げられる。しかしまったく同じ対象、例えば記号 χ と記号 χ の間にこそ、「等しさ」と呼
ばれる概念の範型があるのではないか19、――確かに「あるものはそれ自身に等しい」とい
う文章は成立するかもしれない。しかし式 A = B は「A は B に等しい」という文を数学的言
語に翻訳したものではない。数式という表現形式は言語による表現形式に依存していない。
χ = χ は成立するかという問は無意義である。問うならば、次のように問うべきである、す
なわち式
χ−χ=0
は成立するか、と。そして私はその問に対して奇妙な答を用意している。だが等号について
のこれ以上の考察は本稿の最後に行うことにする。
式の両辺に存在する(数学的)対象を構成する一部分を(数学的)要素と呼ぶ。すなわち
対象は要素に分解される。対象を完全に分解するとき、それはもはや分解することの不可能
な要素に、すなわち基本的要素に分解される。またひとつの基本的要素だけで構成される対
象を単純な対象と呼ぶ。単純な対象とそれを構成する基本的要素は見かけ上は区別されない。
そしてある式は見られることによって、その式が表現すべきことのすべてを表現する。ある
......
式について語られることはその式が表現していることではない。
.......
数学的対象を構成する基本的要素はまず(数学的)記号と記号でないものに分類される。
さらに記号でないものは数値、象徴的記述、符号に分類される。
数値は習慣あるいは規則に従ってある特定の仕方で記述され、記述されることによってそ
の使用法が決定される。一桁の自然数はもちろん、二桁以上の自然数、あるいは少数と呼ば
れる数値もまた基本的要素である。例えば数値 10 は数値 1 と数値 0 によって構成されてい
るのではない。したがって数値 0 が存在しない場合でも、数字 10 は存在し得る。しかし(数
.........
値によって構成される)分数は数値ではない。それは基本的要素ではないから、分母として
存在する数値と分子として存在する数値、および両者を分離 · 結合する符号「―」によって
構成される対象であるからである。
数値が規則(習慣)に従って記述されるのに対して記号は自由に、言い換えれば恣意的に
記述することができる。定義された記号はその定義に従って使用され、まだ定義されていな
い記号はその規定に従って使用される。例えば微分方程式の中で未知の変数であると規定さ
れた記号はその規定に従って使用され、そしてそのように使用されることによって、その記
号の(特定の関数による)定義が導き出される。
私は構成された対象なのか基本的要素なのかを厳格に識別する。例えば( a × a と同じ意
19
「同一性については、あるものがそれ自体と同一であることの裡に、誤ることのない範型があるように見
..
える。(中略)すると、二つのものは、それらが一つであるもののようであるときに同じなのか。とすれば、そ
..
の一つのものがわたくしに示しているものを、どのようにして二つのものの場合に適用すべきなのであろうか。」
p169
13
........
義をもつ)要素 a2 は基本的要素ではなく、記号 a と符号(正確に言えば符号化された数値)
2 によって構成された対象である。これに対して記号 a に添え字を付けた記述 a1 、a2 等々は
基本的要素である。a1 という記述は二つの記述 a と 1 が(結合ではなく)融合して出来上が
ったひとつの記号である。
対象を構成する、もうひとつの基本的要素である象徴的記述については、実際にそれが登
場したときに説明することにしよう。
対象を構成するには数値や記号といった要素以外に符号が必要とされる。例えば計算の対
象を左辺に、その結果を右辺に記述した式
1+1=2
について言えば「+」という記述が符号に相当する。ここでは符号は要素と要素、上記の式
で言えば数値 1 と数値 1 を分離 · 結合するという役割を果たしている。
計算の対象 1 + 1 を計算するということは、その計算の対象の中に存在する「1」という記
述の数(かず)を数えることである、という解釈が可能である。この解釈によれば「1」と
いう記述は数えられるべき対象として、(何らかの数学的意義を有する存在としてではなく)
.....
たんなる物として存在していることになる。そして「+」という記述は二つの物を物理的に
分離するために、すなわち「11」という記述と区別するために存在する物である。その場合
「+」という記述は物理的に分離するためだけに存在する物であり、分離された物は結合し
ない。以上の解釈は計算する主体に重点を置いた解釈である。言い換えれば規則に従ってい
るのは人であるという観点からなされた解釈である。
これに対して計算の規則が適用される対象、すなわち計算の対象に重点を置いた解釈も可
能である。それは、その計算の対象の中に存在する二つの数字 1 が「+」という(物ではな
く)符号によって分離されると同時に、非物理的に結合し、その結合の効果として計算の結
....
果である 2 が発生するという解釈である。この解釈においては、もはや 1 を「最初に記述さ
れる数字」と呼ぶことも、2 を「その次の数字」と呼ぶことも相応しくない。数えるという
実践によって数字が生産されるのではなく、数字は計算の対象から「自然」に発生すると解
釈すべきである。それは規則に従っているのは対象であるという観点からなされた解釈であ
る。
では規則に従うのは人か、それとも対象かなのか? ――この問題に照明を当てるために、
規則と自然法則を比較してよう。自然法則は様々な現象となって現れるが、巨大な惑星の運
動も微小な電子の運動も共に同じ法則、ひとつの法則に従っている、――少なくとも物理学
者はそう考えている。同じことが規則についても言えるのではないか。規則は、それをどの
ような対象に適用するかによってある特定の規則として把握され、解釈されるのであって、
その対象から規則を分離して把握するとき、規則は単純なものとして把握される。
自然法則に従う物はその法則が適用される対象である、――そう考えるとき、神の存在を
想定するならば、神が自然法則に従って物を動かしていると表現することができる。だが現
代の科学者は言うであろう、――神など想定する必要はない、と。それならば私はこう言い
たい、――人など想定する必要はない、規則が適用される対象が規則に従っているのだ、と。
......
例えばある計算の対象が存在しているとき、すでに規則に従って、その計算の結果も(どこ
14
......
....
かに)現存している、ただそれは見えないだけである。人の役割はそれを見えるようにする
ことである。
だが自然法則と規則の間には決定的な違いがある。前者は人類が誕生する以前から自然現
象を支配していたが、後者は人が創り出したものである。そして規則が適用される対象もま
た人の手による創造物である。そのとき人は(ある特定の)規則に従うように(ある特定の)
対象を創り出す、――そう考えるならば、規則に従っているのは(規則が適用される)対象
であると考えることができる。
符号は要素と要素を結合させるだけでなく、符号が要素と結合する、あるいはより適切な
言い方をすれば符号が要素に寄生する場合もある。例えば – a においては符号「 – 」は記号 a
に寄生している。先に見た記述 a2 においても数字 2 は符号化された上で記号 a に寄生してい
る。記号もまた符号となる場合がある。例えば関数 et における t は(本来は記号であるが)
符号化されて代数 e に寄生している。私にとってこの符号と記号の結合という現象は非常に
興味あるものであり、この考察はこの現象に着目することから生まれた。
数式はまず計算式と定義式に分類される。計算式とは言うまでもなく計算の対象とその結
果を等号で結び付ける式である。定義式とは定義される記号とそれを定義する対象を等号で
結び付ける式である。定義式という形式で記号を定義する対象を数学的定義と呼ぶ(以下、
たんに「定義」という場合、すべて数学的定義を指す)。単純な対象は数学的定義にはなり得
ない。それは、あるひとつの記号 β が他の記号 α の定義として式の中に存在することはない
という意味である。言い換えれば単純な式 α = β は定義式ではないということである。
数学的記号に意味は無い。それゆえ(言語的記号と違って)自由に(恣意的に)記述する
ことが可能となる。言語的記号はその意味を意味する。これに対して数学的記号は(定義式
の中に存在する)数学的定義を表す。定義が存在する記号に意味は無い。しかし数学的記号
のすべてに数学的定義が存在するわけではない。定義式によって定義されていない記号につ
いては、その数学的定義を求めることがひとつの課題となる。代数方程式の中に存在する代
数、微分方程式の中に存在する変数などがその例である。しかし例外的に数学的定義の存在
しない数学的記号が存在する。そのような記号(定義式によって定義することの不可能な記
号)は文によって規定するしかない。
「α は A を表す」あるいは「α は A である」という文の
中に存在する A を α の言語的定義と呼ぶ。数学的定義の存在しない記号の実例として記号 ε
が存在する。その記号には数学的観点と力学的観点から異なる言語的定義が与えられる。前
者によればその言語的定義は「任意の正の数値」であり、後者によればそれは「無限小」で
ある。すなわち数学者は「ε は任意の正の数値を表す」と語り、物理学者は「ε は無限小であ
る」と語る。記号 ε は数学的定義が存在しないことにのみ意義のある記号(代数)として特
徴づけられる。そしてその言語的定義は私にとっては、どうでもいい存在である。
計算式、定義式のいずれにも分類されない式を等式と呼ぶ。二つの記号を等置する(定義
式ではない)式
15
α=β
は等式である。二つの記号は同一の対象を表している、正確に言うならば記号 α の言語的定
義は「記号 β の言語的定義」であり、同時に記号 β の言語的定義は「記号 α の言語的定義」
である。したがって上記の等式は、その等式を構成する二つの記号のうちのいずれかひとつ
......
は不必要な記号であることを表現している。不必要な記号は存在すべきではない、言い換え
..
れば消滅すべきである。単純な等式が必然的に成立している場合には、いずれの記号が消滅
するかは決定されている。私は最後に等号を考察する際にもう一度この等式、数式の中で最
も単純な形態を考察することにする。
5.
存在しない対象を表わす記号
「最初に記述される数字 1 の次の数字は 2 である」という文は「2 の前の数字は 1 である」
と言い換えることができる。そして「1 の前の数字は存在しない」という文は「存在しない
数字の次の数字は 1 である」と言い換えることができる。
存在しない数字が存在しないのは、それが記述されないからである。ところが「存在しな
い数字の次の数字は 1 である」という文において、私は「存在しない数字」という言語を記
述した。言語的記号は数学的記号ではないが、しかし記号の一種であろう。そこで記述され
ない数字は存在しない、この自明の主張については、まったく別のことが考えられる。それ
は存在しない数字を表わす記号が存在するということである。数学的記号はその記号の数学
的定義を表わすのであるから、その記号が存在しない数字を表わすということは、その記号
を定義する数字が存在しないということ、つまりその記号を(定義式によって)定義するこ
とが不可能であるということである。その記号には数学的定義は存在しない。しかし言語的
定義は存在する。
「存在しない数字」という言葉がそれである。
存在しない数字は数字(自然数)としては存在しないだけであり、数値(整数)としては
存在する。その数値が 0 と記述されるとき、定義不可能な記号もまた 0 と記述される。もし
それ以外の仕方で、例えば ε と記述するならば、その記号は存在しない数字、しかし存在す
る数値で ε = 0 と定義されてしまうからである。
0 という記述は記号であると同時に数値でもある唯一の要素である。したがって 0 という
記述が式の中に存在するとき、それは記号であるか、それとも数値であるかを判別しなけれ
ばならない。
数値 0 が存在するとき、定義不可能な記号 0 はもはや存在しない数字を表すことはない。
存在しない数字は数値として存在するからである。記号 0 が表わす対象は、存在しない数字
から存在しない対象一般に拡大される。記号 0 の言語的定義は「存在しない対象」である。
当然のことながら記号 0 によって表わされる(存在しない)対象は数学的対象である。すな
わちその記号は式の中に存在することによって、ある数学的対象の不在を表わす。言い換え
れば記号 0 が存在しない対象を表すためには式の中に存在しなければならない。そしてその
記号が表わす対象が何であるかを理解しなければならない。
16
記号 ε に与えられ二つの言語的定義のうち「無限小」よりは「任意の正の数値」の方が厳
密であると言われる。すなわち微分法の理論はその記号ともうひとつの記号 δ を用いる論法
(いわゆる「ε-δ 論法」
)によって「無限小」という概念を用いることなく、その理論を展開
できるようになった。しかし力学は「無限小」という曖昧な概念を許容する包容力を持つ。
力学は論理的な厳密さよりも現実的(物理学的)な有用性を優先する数学、すなわち物理学
に貢献することを目的とする数学である。
記号 ε が積極的に否定する定義式がある。それは数値 0 をその定義とする
ε=0
という定義式である。その場合、数学においては ε > 0 と規定される。しかし私は不等式を
数学的表現形式とは認めない。不等式は言語に依存する表現であって、 ε > 0 という記述は
「ε は 0 より大きい」という文を暗号化した暗号文にすぎない。等号を用いて記述される数
式のみが純数に数学的表現である。
17
Ⅱ. 見えない記号と導変数
6.
不在を指示する記述と見えない記号
定義式 ε = 0 は等号を用いて間接的に否定される。まずその式を記述しないことによって
消極的に否定される。
さらにその式は数学的に否定される、すなわち定義式
dђ = 0
を記述する(肯定する)ことによって、そして等式 ε = dђ を記述しないことによって消極的
に否定される(この消極的否定は二つの記号がいずれも必要な記号であることを暗示してい
..
る)。記述される式は dђ と記述されるひとつの記号を数値 0 によって定義する式である。
この定義式には特別な意義がある。その意義はⅥ-26 で明らかとなる。
......
ひとつの記号 dђ は二つに分裂する。すなわちその記号から非数学的符号 d と記号 ђ が発
.......
生する。そして符号 d は非数学的要素と結合する。そのとき定義式 ε = 0 は非数学的に否定
...
される。すなわち私は
d = ̇
と記述する。この記述は式ではない。その記述の左辺には符号 d という記述しか存在しない
ように見える。しかしその記述の右辺には二つの基本的要素が存在する。ひとつは符号 d で
......
あり、そして、もうひとつは記述されない、したがって見えない記号である。見えない記号
.......
がそこに存在する、――これが最初の、そして基本的な仮説である。上記の記述の左辺には
符号 d と見えない記号の結合体が存在する、言い換えればそこには符号 d が寄生する見えな
い記号が存在する。ちなみに dђ は符号 d と記号 ђ の結合体ではない(それはひとつの記号
である)。
見えない記号には(言語的定義ではなく)名が与えられる。その名は数である。私は見え
ない記号を「数」と呼ぶ。非数学的符号 d が結合する対象は、非数学的要素である数以外に
存在しない。言い換えれば符号 d が記述された記号と結合することはない。私はこの結合を
原始的結合と呼び、その結合体を原始的結合体と呼ぶ。
上記の(式でない)記述の右辺には「·」という記述が存在するように見える。だが右辺
....
には何も存在しない。その記述は右辺の上に存在しているのである。右辺の上という場所は
数学的な場所ではない。したがってそこに存在する記述も数学的な存在ではない。その記述
は自分自身の下に、すなわち右辺に何も存在していないことを示している。右辺に何も存在
しないことは、右辺に何も記述しないことによって示される、――普通はそうである。だが
見えない記号、すなわち数が存在するという事情の下ではそうではない。右辺における不在
は右辺以外の場所に存在する記述によって積極的に指示する必要がある。右辺の上には不在
を指示する記述「·」が存在する。
上記の式でない記述は、符号 d と数の原始的結合体と等号で結び付くようなものは存在し
ないと主張している。では原始的結合体は記号を定義することもできないのか。その通りで
18
ある。数学的記号を定義する対象は数学的対象でなければならない。だが原始的結合体は数
学的対象ではない。符号 d と数の結合は数学的ではない。だから私は(定義式を記述する代
..
わりに)次のように語るしかない、――記号 ε は原始的結合体を表している、と。そのよう
に語ることによって定義式 ε = 0 が有する内容は否定される。
定義式 ε = 0 を数学的に否定する方法はもうひとつある。その式は定義式
dt = 0
を否定し、そして ε = dt を肯定することによっても否定することは可能である。だが私はこ
の可能性を否定する。肯定される式は二つの記号を等置する等式であり、その式を記述すれ
ば、やはり ε と dt の二つの記号のうちいずれか一方を必要のない記号として捨て去らねばな
らなくなる。確かに無限小変換(Ⅵ-25)においては、ε の代わりに dt が用いられる。だが
そうすることは論理的ではない。論理的でないという理由により等式 ε = dt を肯定しない。
ただし私は ε の代わりに Δ を用いるのであるが、そうすることもまた論理的でない(Ⅶ-30)。
記号 dt はある分数の分母という地位にあることによって式 dt=0 を否定する。そのときそ
の分数の分子となるのは原始的結合体である。そのような分数と等号で結び付くものも、や
はり存在しない。そのような事情を、私は
d
= ṫ
dt
と記述する。そのとき右辺の上に存在する(不在を指示する)記述は右辺に記号 t が存在し
ないことを示す。それは言い換えれば右辺にその記号以外の何かが存在する可能性を示す。
その「何か」とは右辺に存在しているように見えるものである。しかしこの可能性は可能性
に留まる。その記述の左辺に見えない記号が存在する限り、その可能性が実現することはな
い。
式であることの可能な上記の記述には、しかし記述上の不備がある。左辺の分数の分子が
原始的結合体であるならば、分母もそうでなければならない。すなわち符号 d と記号 t の結
....
合体でなければならない。実際、t という記号がどこかに存在することは右辺の記述によっ
て示唆されているのであるから。
どこかに存在する記号 t は等式
dt
= ṫ
dt
の中に存在する。その等式が記述されたとき、右辺に何かが存在する可能性は現実となる。
もちろん右辺に存在するのは記号 t ではない。不在を指示する記述「·」は符号に転化し、
そしてその符号は記号 t と結合する。すなわち右辺に存在するのは、符号と記号の結合体と
しての ṫ である。このようにして符号 d と数の非数学的結合に代わって、符号「·」と記号
t の数学的結合が実現する。その符号(以下、微分符号と呼ぶ)は記号に寄生することによ
って(右辺の上ではなく)右辺に存在することになる。したがって結合体 ṫ は数学的対象で
....
ある。だがその下に何も存在しないことを示す記述と、その記述によってその下に存在しな
.....
..
いとされる記号が結合するということは不合理ではないのか、そのような結合体は矛盾では
19
.....
ないのか!? ――確かに矛盾であると考えられる。しかしそれは微分符号の由来について、私
が説明を行うことによって創り出された観念的矛盾である20。
微分符号と記号 t を結合させる式は、それに先行して記述された「式」の分子に存在する
....
数、すなわち見えない記号を見える記号 t で置き換えたものではない。言い換えればそれは
...
符号 d と記号 t の結合体ではない。そうではなくその分子に存在する原始的結合体をひとつ
...
の記号 dt で置き換えたものである。したがって数が消滅し、記号 t が発生するのではない。
言い換えれば数が(t と)記述されたわけではない。消滅するのは符号 d だけである。数は
....
依然としてどこかに存在する、――ここではそう言っておくことにする。
7.
変数の条件式と導変数
記号 t に関する式からはただちに等式
ṫ = 1
.....
が出てくる。そのような記号 t を独立変数と呼ぶ。独立変数とは数学的定義が存在しない変
数である。独立変数は物理学的観点から言語的定義が与えられる、――独立変数は時間を表
す、と。独立変数とは「時間」という日本語の記号を t という「数学語」の記号に翻訳した
..
ものである(ただしもし数学語という言語が存在するならば、の話であるが)。言語的記号
である「時間」には意味がある。「時間」という記号は日本語の文の中で使用されることに
よってその意味が保存される。これに対して t という記号は数式の中で使用されることによ
ってその意味を失う。だから物理学では常識的な「時間」の意味に囚われることなく、独立
変数を、すなわち時間という「存在」を扱うことができる21。ただし私の考察ではⅢ章以降
においては記号 t は使用されない。したがってその意味が失われることはない。その意味は
....
どこかに存在する、――ここではそう言っておくことにする。ただしその意味は「時間」と
.....
いう言語に固有の意味ではない22。
人は、もし時の流れが止まったら一切の変化は起こらないであろうと考える。それは言い
換えれば、そして結果的にではあるが、時間をあらゆる変化の究極の原因であると看做すこ
とになる。独立変数を時間という概念に対応させた結果、独立変数は関数を構成する唯一の
変数という特権的地位を独占する。言い換えれば独立変数はこの特権によって他の多様な変
数を従属せしめる絶対的支配者となる。しかし純粋に数学的な観点からすれば、独立変数の
地位は相対的なものに過ぎない。たとえば 𝑥 = et と定義された変数 𝑥 は関数 log 𝑥 の中では
独立変数として振る舞い、変数 t の定義となる。
変数とは何であるか? それに対する常識的な答は関数によって定義される記号であるとい
うものであろう。記号はその数学的定義が関数であるとき、変数となる、――しかし私の考
20
Ⅹ-42 では微分符号について別の説明がなされる。その説明において導変数は存在しないとされる。それで
も矛盾は「存在」する。
21 特殊相対性理論が時間の常識的概念を変更したことはよく知られている(脚注 35 参照)
。
22 「固有の意味」についてはⅪ-48 を参照されたい。
20
察ではこの規定はほとんど役に立たない。したがってそれとは違った規定を与えなければな
らない。ある記号は記号 t と同じようにして、すなわち記号は微分符号と結合することによ
って変数となる。その場合、独立変数についての式
dt
= ṫ
dt
の左辺の分子に位置する記号 dt を記号 dα で、そして右辺に位置する記号 t を記号 α で置き
換えた式、すなわち
dα
= α̇
dt
という式が微分符号と記号の結合を実現させ、その結果、記号 α は変数となる。微分符号と
記号の結合を実現する上記の式を変数の条件式と呼ぶことにする。変数とは変数の条件式を
......
成立させる記号である。これが「変数とは何であるか?」という問に対するとりあえずの答で
ある。しかし変数の条件式は任意の記号について成立するように思える。つまり任意の記号
は変数になることが可能である、したがって変数の条件式は記号に対して何の条件も課して
いない、そのように思える。確かにその通りである。しかし逆に考えてみると、仮に変数の
条件式が成立しない記号があるとすれば、その記号は普通の記号と違う特別な存在であると
考えられることになる。そのような特別な記号の実例として、すでに見えない記号、すなわ
ち数が存在している。数について仮に変数の条件式が成立するとすれば、それは次のように
記述されるであろう。
d
= ̇
dt
しかしそのような式は成立しない。そのような式を成立させる記号 d は存在しない。もしそ
のような記号が存在するとすれば、それは符号 d が記号に転化した結果である。しかしその
ような現象は起こりえない。記号が符号に転化することはあっても、その逆はありえない。
...............
そして私が注目するのは(数と同じように)変数の条件式を成立させない変数である。
α̇ と記述すれば記号 α は微分符号と結合しているように見える。しかしそのような外観と
は区別される内的結合がなければ、そもそも記号と微分符号の結合ということを問題にする
意味がない。通常、物理学の教科書でそのようになされているように α̇ という記述をひと
つの記号として把握すれば済む問題である。
微分符号と記号の内的結合を生成する対象が変数の条件式の左辺に存在する分数、すなわ
ち微分商である。微分商はその分母に常に記号 dt、すなわち独立変数の微分が存在する。そ
のとき微分商の分子は一般の変数 α の微分 dα が発生する土壌である。まず変数に先行して、
その微分 dα が発生し、その結果として記号 α と微分符号の結合が実現する。したがって(そ
の微分が dα である)変数は α と記述しなければならない。したがって次のように言うこと
ができる、――変数とは自由に記述することの許されない特殊な記号である。
私は変数と微分符号の結合体 α̇ を変数 α の導変数と呼ぶことにする。導変数という概念
は科学的ではない。強いて言うならば、それは哲学的概念である。また変数 α と微分符号と
21
の結合を実現する微分商を α-微分商と呼ぶ。
8.
理論に従う微分法と導関数
ここではまず基本的要素のうち、説明を保留しておいた象徴的記述について説明しよう。
象徴的記述は数学の理論を抽象的、一般的に展開するために必要不可欠な要素である。象徴
的記述とは、それが象徴する対象が何であるかを視覚によって把握できるように記述される
一種の象形文字である。象徴的記述それ自体は基本的要素であるが、しかし基本的要素であ
る記号と違って、あるいは基本的要素である数値と同様に、定義として存在することが可能
である。逆に象徴的記述に定義は存在しない。象徴的記述は構成された対象を表すのではな
く、象徴するのである。それは、それ自体が構成された対象として扱われるべき存在である。
記号の定義は記号とは別個に存在する。定義式において(記号が左辺に存在する場合)定義
は右辺に存在する。これに対して象徴的記述が象徴する対象はそこに、その象徴的記述が存
在する、まさにその場所に存在すると考えなければならない。この点については象徴的記述
として偏微分商が登場するとき(Ⅲ-10)に実例を挙げて詳しく説明することにする。
象徴的記述の具体例を挙げよう。例えば関数は独立変数を必須の要素として、そして変数
としては独立変数だけで構成される対象である。そのような対象を象徴する象徴的記述が
A(t) という記述である。またその関数を微分することによって得られる関数、すなわち関数
A(t) の導関数は A′ (t) という記述によって象徴される。
私は「関数 A(t) を微分すると関数 A′ (t) になる」という文を暗号化して
d ; A(t) → A′ (t)
と記述する。上記の記述、すなわち暗号文はそれ自体に意義があるわけではなく、それを解
読して通常の文にしたときに意義が生ずる。しかしこの解読は非常に容易なので、その記述
自体に意義があるかのように錯覚してしまう。 この錯覚は別に非難されるべきものではない。
非難されるべきは物理学の教科書でしばしば目にする記述
d
A(t) = A′ (t)
dt
である。そこでは等号が濫用されている。上記の「式もどき」は式という表現形式を文とい
う表現形式に従属させるという誤りを犯している。等号は濫用されるべきではないという主
張、すなわち式(数学的表現形式)と文(言語的表現形式)という二つの独立した表現形式
の間に明確な境界線を引くべきであるという主張は論理的に正しい。しかし無益である。逆
にその境界線を曖昧にしておくことは有益である。そして科学が無益な「正しさ」を追及す
ることよりも、有益な「誤り」を犯すのは当然である。
力学において重要な役割を演じる規則は微分法の規則である。そして関数は最初に微分法
の規則が適用される対象である。関数を微分する際の規則は合理的に解釈され、数学におい
........
て理論として体系化される。この体系化された理論を私は導関数の理論と呼ぶ。導関数の理
22
論は微分法の規則の合理的な、そして科学的な解釈である。
......
関数は導関数の理論に従って、すなわち(微分法の)規則の解釈に従って微分される。関
数の微分法を私は理論に従う微分法と呼ぶ。導関数の理論は導関数に普遍的規定を与える。
すなわち導関数 A′ (t) が
A(t + Δt) − A(t)
Δt
..
という分数に由来すると規定する。今、記号 Δα を
Δα = A(t + Δt) − A(t)
と定義する。そのとき
Δα
= A′ (t)
Δt
......
という式は導関数の理論に照らせば正しくなない。そしてこの正しくない式を前提とする命
題の結論となるのは、やはり正しくない式
Δα dα
=
Δt
dt
である。ここであえて正しくない式を提起したのは、変数の微分 dα という存在が分数とい
う形式と不可分の関係にあるということを強調したいからである。すなわち変数 α が微分符
号の「下」に発生するように、その微分 dα は独立変数の微分の「上」に、すなわち独立変
数の微分を分母とする分数の分子として発生する、というのが私の主張である。言い換えれ
.
ば微分商に先行してまず変数の微分が存在し、それが微分商という対象を構成するのではな
.
いということである。
変数が微分符号との結合を解消して、それ自体として存在するのは、その定義が存在する
ときである。定義式
α = A(t)
は一方では変数を微分符号から解放し、他方ではそれを関数に従属させる。そのとき微分 dα
は関数 A(t) の導関数と独立変数の微分の積によって定義される、すなわち
dα = A′ (t)dt
と定義される。この定義式によって変数の条件式は次の命題と等価となる。
A-a1【関数で定義された変数についての命題】
α = A(t) ならば
α̇ = A′ (t)
...
導関数の理論は関数に焦点を当てた微分法の数学的で具体的な理論である。これに対して
...
私は変数に焦点を当てた言語的で抽象的な理論として導変数の理論なるものを提唱する。導
変数の理論は導変数が記号と微分符号の結合体であるという説明から出発する。導変数の理
論においては式よりも式についての説明が重要な役割を果たすという意味で、その理論は言
語的である。
...........
導変数の理論では導関数とは微分商という抽象的存在を理論的に具体化した存在として位
23
置付けられる。逆に言えば微分商とは導関数という具体的対象を理論的に抽象化した存在で
ある。導変数の理論においては導関数は抽象的対象として、微分商として存在する。したが
..
って導変数の理論においては命題 A-a1 は次のような形で提起される。すなわち記号 α が特定
...
の関数を表すならば
α̇ =
dα
dt
である。なお独立変数については、その変数の条件式から次の命題が得られる。
A-a2【独立変数についての命題】
記号 t が独立変数ならば
ṫ = 1
この命題から次のように言うことができる、――独立変数の数学的定義を微分すれば 1 が
得られる、と。独立変数の定義は独立変数のみで構成される単純な関数 t であり、したがっ
てその定義式は
t=t
である、――それが数学者の主張である。しかし数学者は(そして誰もが)そのような「式」
を記述しない。私はこの事実を根拠に、その記述は式ではないと主張する。したがって独立
変数には数学的定義は存在しない。したがってまた存在しない対象を微分した結果、最初に
記述される数学的要素が、すなわち数字 1 が記述される。別の言い方をすれば最初の数字が
記述されるとき、すでに微分がなされていたことになる。
9.
代数と定数
記号 c に言語的定義として「数値」という語が存在するとき、あるいは数学的定義として
特定の数値が存在するとき、その記号を代数という。代数は変数になることの不可能な記号
である。また代数に数学的定義を与えることは常に可能である。ただし、ただひとつの例外
が存在する。記号 ε である。それは数学的定義を与えることの不可能な唯一の代数である。
この特殊な代数はこの考察において重要な役割を演じる。
導変数の理論には代数と似て非なる記号が存在する。それは定数である。定数とは関数に
従属することのない変数である。しかし導変数の理論はさらに次のように主張する、――定
数とは独立変数と同様、数学的定義が存在しない特殊な変数である、と。定数を代数で「定
義」する式 ђ = c は定義式ではなく、記号 ђ と記号 c を等置する等式である。したがって代
数は定数の数学的定義ではない。もし定数に数学的定義が存在するとすれば、それは特定の
数値である。しかしそれは無意義な定義である。
導関数の理論においては代数と定数の区別は明確ではないが、導変数の理論では両者の区
別は明確である、――まだその理論が展開されていない時点ではそのように主張することが
できる。定数は変数であり、したがってそれには微分が存在するが、代数には微分は存在し
ない。この明確な区別は、しかし微分という記号がその役割を終えたとき、曖昧になる。導
24
変数の理論は定数と代数を混同することから始まり、そしてこの出発点に到達したとき、私
の考察は終わる。
定数は特殊な変数である。定数については変数の条件式は特殊な形をとる。この考察にお
いて最初に登場した式
dђ = 0
..
は定数 ђ の微分の定義式である(その定義として存在する 0 は数値である)。したがって定
数 ђ を変数と規定する等式
dђ
=0
dt
は特殊な変数の条件式、定数の条件式となる。この定数の条件式は定数 ђ に導変数が存在し
ないことを示している。微分 dђ の分子に独立変数の微分を置くとき、その定義である数値 0
..
は記号に転化する。定数の条件式の右辺に存在する 0 は(存在しない対象を表す)記号であ
る。記号 0 は定数の条件式の中に存在することによって、定数 ђ の(存在しない)導変数を
表す。定義の不在という点では定数と独立変数は共通点があるが、導変数の不在という点に
おいて定数は独立変数とは区別される。ただし ђ という定数は特殊な定数である。後に見る
ように、その定数には定義が存在するからである。ただし本来、存在しないはずの定数の定
義が発生した時点で、その定義は消滅することが運命付けられている。
定数 ђ の(存在しない)導変数が記号 0 で表されるということは、記号 ђ が微分符号と結
.....
合可能であることを意味する。すなわちその結合体は数学的対象である。ただその結合が実
現したとき、結合体は消滅する、――そのように解釈されるべきである。したがってその結
合体を記述しない(それを記号 0 で表す)限りにおいて、それは数学的対象である。代数と
区別される定数とは特異な存在である。あるいは次のように言う方が正しいかもしれない、
――定数を代数と区別することによって、定数は特異な存在となる、と。
見えない記号には(代数と同様)微分は存在しない。したがって導変数も存在しない。そ
......
もそも数は微分符号と結合することは不可能である。したがってそれが記号 0 によって表わ
されることもない。数は、もしそれが変数になることが可能であると仮定したとしても、記
述された記号と同じ仕方では変数になることは不可能である。
数と定数には導変数が存在しないという共通点がある。後に明らかになるように、定数と
....
は記述された数である、――ただしそれは間違って記述されているのであるが。
25
Ⅲ. 函数と導函数
10.
合成関数と函数および偏微分商
合成関数とは独立変数以外の変数で構成される対象である。ただし合成関数を構成する変
数はひとつでなければならない。その限りにおいて合成関数は導関数の理論に従って微分す
ることが可能である。
変数 α で構成される合成関数 P(α) については
d ; P(α) → P′ (α)α̇
したがって合成関数 P(α) によって定義される変数 ρ の微分は次のように定義されることに
なる。
dρ = P′ (α)α̇ dt
したがって合成関数については以下の命題が成立する。
B-a【合成関数についての命題】
ρ = P(α) ならば
dρ
= P′ (α)α̇
dt
合成関数は理論に従って微分されるという意味において関数である。しかしまた次のよう
.....
な解釈も可能である、――合成関数とは特殊な多変数関数である、すなわちただひとつの変
数で構成される「多変数」関数である。
私は関数と多変数関数を異質な対象として把握する。両者は共に微分法の規則が適用され
る対象であるが、一般に多変数関数を導関数の理論に従って微分することは論理的に不可能
であるからである。そこで以後、多変数関数のことを函数と呼び、理論に従って微分される
対象である関数と明確に区別する。
函数とは(合成関数とは異なり)複数の変数で構成される対象である。ただし独立変数は
函数を構成する要素にはなりえない。もし独立変数を函数を構成する要素として承認すると
変数の定義式 α = A(t) から得られる対象 α − A(t) も函数と認めねばならない。だがそのとき
その函数は理論に従って微分することが可能である。函数を、理論に従って微分することが
不可能な対象であると規定するには、函数を構成する要素から独立変数を除外する必要があ
る。ただし上記で述べたことは函数を構成する要素から独立変数を除外するための形式的な
理由であって、実質的な理由は別にある。その別の理由は特殊な函数、すなわち Lagrangian
が登場したときに明らかにしよう。
...
函数はまず理論的でない仕方で「微分」される。函数を微分するには、まずそれを偏微分
しなければならない。函数 W(α , β) を α で偏微分するということは、一方では従属変数 α
を独立変数と看做し、他方ではそれ以外の従属変数 β を代数と看做し、そうすることによっ
26
てその函数を独立変数 α によって構成された関数と看做し、この「関数」を理論に従って「微
分」することである。そのようにして得られる「導関数」が函数 W(α , β) の変数 α について
の偏微分商である。その函数を変数 β について偏微分する場合も同様である。
その函数を変数 α および β について偏微分したときの偏微分商(以下、α-偏微分商および
β-偏微分商と略す)はそれぞれ
∂W
∂α
∂W
∂β
という記述によって象徴される。偏微分「商」は商(分数)に見えるように記述された象徴
的記述であって、商(分数)ではない。象徴的記述が基本的要素である(構成された対象で
ない)という意味は(実際に分数である微分商と違って) ∂W、 ∂α、 ∂β という記述に相当
する記号は存在しないということである。
偏微分商は函数であるから、それもまた偏微分する対象となる。α-偏微分商を β で偏微分
したときの偏微分商を象徴する記述は
∂ ∂W
( )
∂β ∂α
である。偏微分商を偏微分するとき、次の式が成立する。
∂ ∂W
∂ ∂W
( )=
( )
∂β ∂α
∂α ∂β
ここで二つの基本的要素、すなわち記号と象徴的記述の違いについて実例を挙げて説明し
ておこう。Ⅵで論じることになる Hamilton-Yacobi の偏微分方程式であるが、その式は物理
学の教科書では、通常
H (ξ1 , ξ2 , … ,
∂S ∂S
∂S
,
,…,t )+
=0
∂ξ1 ∂ξ2
∂t
と記述される。それは記号と象徴的記述が区別されていない結果である(そして両者を混同
......
することは有益である)。象徴的記述とは、それが象徴する対象そのものである。その「対
象そのもの」は方程式を解き、その解であるひとつの函数を存在せしめ、そしてそれを偏微
分したときにはじめて存在する対象なのであり、したがってそれが方程式の中に存在するこ
とはありえない。だから私の場合、Hamilton-Yacobi の偏微分方程式を次のように記述する。
すなわち
H(ξ1 , ξ2 , … , η1 , η2 , … , t ) + Ϧ = 0
と記述する。そして次のように捕捉する、―― η1 , η2 , … および Ϧ はそれぞれ、その方程式
....
の解である函数を変数 ξ1 , ξ2 , … および独立変数 t で偏微分したときの偏微分商を表す記号
である(この補足説明が必要ないという点で記号と象徴的記述を混同することは有益である)。
そしてある対象を表す記号はその対象そのものが、すなわちその偏微分方程式の解である函
数 S(ξ1 , ξ2 , … , t ) が存在するとき、その函数を用いて定義される。例えば記号 Ϧ は
Ϧ=
∂S
∂t
27
と定義される。したがって対象そのものである象徴的記述が定義されることはありえない。
なぜならその定義が存在するならば、象徴的記述は必要ないから、その定義そのものを記述
すればいいからである。
象徴的記述について定義式は成立しないが、等式は成立する。例えば等式
∂S
=0
∂t
....
は、まずその函数の t-偏微分商が存在する――したがってその函数は変数 t を含んでいる―
―ことを示している。そしてその存在する t-偏微分商が 0 に等置されているのである。これ
に対して「その函数の t-偏微分商」という言語的定義が与えられた記号 Ϧ について等式
Ϧ=0
が成立する場合は、t-偏微分商が存在しないこと、すなわちその函数が変数 t を含んでいな
いことを意味する。私はこのように(病的な神経質さで)記号と象徴的記述を厳密に区別す
る。
偏微分という行為は理論に従う微分法を機械的に、そしてその理論を無視して強引に函数
に適用した、たんなる記号操作である。したがって偏微分商そのものは、函数を微分するこ
とによって得られる函数ではない。しかし偏微分商はその函数を微分することによって得ら
.....
れる函数を構成する要素となる有益な存在である23。そうでなければ誰も偏微分などしない
であろう。
11.
微分律に従う微分法と導函数
数学的定義として関数が存在する記号はその定義の存在によって変数となるのではない。
定義式とは別に変数の条件式を成立させることによって変数となるのである。したがってそ
のような変数については数学的定義が存在する必要はない。「変数 α は特定の関数を表す」
と語るだけで、すなわち「特定の関数」という言語的定義が存在するだけで十分である。さ
らに函数を構成する変数には数学的定義が存在しないことが必要となる。もし函数 W(α , β)
を構成する変数 α、β に数学的定義として関数 A(t)、B(t) が存在するならば、それらの定義
(関数)を函数に代入し、そうすることによって函数を関数 W(A(t), B(t)) に還元した上で
微分することができる。しかしそのような方法で函数を微分するなら、そもそも微分の対象
として、あえて函数を考察することが無意味となる。したがって函数を考察するに際して、
函数を構成する変数については「特定の関数」という言語的定義だけしか存在しないことを
前提とする。
これに対して数学的定義として函数が存在する記号は、その定義の存在によって、すなわ
ち定義式によって定義されることによって変数になると仮定する。そのような変数を形式的
変数と呼び、変数の条件式を成立させる変数、すなわち実質的変数と区別する。したがって
23 「偏微分商の定義は全く機械的で、計算上の手段にすぎないが、それらを適当に利用すれば、応用上有効
である。」高木貞治『解析概論 改訂第 3 版 軽装版』(岩波書店)p55
28
形式的変数については変数の条件式は成立しない。それは形式的変数が微分符号と結合する
ことは不可能であることを意味する。
定義式 w = W(α , β) によって定義された形式的変数 w にもその微分が存在する。函数で定
義された変数の微分は次のように定義される。すなわち
dw =
∂W
∂W
dα +
dβ
∂α
∂β
この定義式に出会ったとき、次のような疑問を抱くの当然である、――と私は思うのである
.....
が。形式的変数の微分 dw は実質的変数の微分 dα や dβ と同じように定義されているか? ―
―この疑問は次のような形に書き換えることができる、すなわち暗号文
d ; W(α , β) →
∂W
∂W
α̇ +
β̇
∂α
∂β
で示される微分行為は関数を微分するときと同じようになされているか? ――だが導関数の
理論はこの問の前に沈黙する。そこにはその理論の濫用の産物とも言うべき非論理的存在、
......
すなわち偏微分商が存在するからである。理論が沈黙するとき、微分の規則の論理的でない
解釈が理論の代弁をする、――そのようにして微分するということは、合成関数に適用され
る(理論に従う)微分法を函数に適用することである、と。この解釈に納得できない者は別
の解釈をすればいい。そもそもその解釈は函数を微分する際に、人を(規則に従っていると)
安心させるためにあるにすぎないのであるから。私は微分法の規則の論理的でない解釈を微
分律と呼ぶ。
微分律と導関数の理論は共に理解可能であるという点で共通している。違いは、導関数の
理論は理論であるから正しく理解しなければならないが、微分律はその必要がないという点
である。微分律は正しいか、間違っているかを議論する対象ではないのであるから。微分律
の正当性は、函数を微分する際、誰もがそれに従って微分するという点に求められる。微分
律に従って函数を微分すること、
「それは意見の一致ではなく、数学的生活様式の一致なので
ある」。この函数一般の微分法を微分律に従う微分法と呼び、函数を微分することによって得
られる函数を導函数と呼ぶ。導函数を構成する要素は偏微分商と導変数である。
実質的変数 α および β については変数の条件式が成立する(ただし形式的変数 w について
はその式は成立しない)から、微分 dw の定義式から、ただちに次の命題が出てくる。
B-b1【函数についての命題】
w = W(α , β) ならば
dw ∂W
∂W
=
α̇ +
β̇
dt
∂α
∂β
この命題は函数を微分する場合に適用される規則の解釈である。したがってその式が成立す
ることは(論理的必然ではないが)当然である。
函数 H(ξ , η) について式
29
∂H
∂H
dξ +
dη = 0
∂ξ
∂η
が成立するならば、その函数は定数の定義となることが可能である。さらに上記の式を記号
dt を用いて二つの式に分割せよという課題が提起されたとき、それを
dξ =
∂H
dt
∂η
dη = −
∂H
dt
∂ξ
という式に分割することが自然であると思われる。しかしその分割はただ可能であるにすぎ
ず、ひとつの式を二つの式に分割する必然性はない。しかし物理学者はそこにある種の必然
性を創り出す。そうすることによって二つの式を物理学的に有意義なものにする。
微分律に従う微分法と理論に従う微分法は等価であるという主張を肯定する函数、すなわ
ち導関数の理論に従って微分可能な函数の具体例はいくらでも存在する。最も単純な例をひ
とつ挙げるならば、その函数が二つの変数の積 αβ である場合である。変数 α、β の定義がそ
れぞれ関数 A(t)、B(t) であるとする。この二つの関数の積を理論に従って微分すれば
d ; A(t)B(t) → A′ (t)B(t) + A(t)B ′ (t)
となる。他方で函数 αβ の α-偏微分商、β-微分商は、それぞれ β、α であるから、その函数を
微分律に従って微分すれば
d ; αβ → βα̇ + αβ̇
となる。このように函数 αβ については理論に従う微分法と微分律に従う微分法が等価であ
ることが実証される。だが数学にとって必要なのは実証ではなく、証明である。理論に従う
微分法が適用される函数の具体例をどれだけ列挙したとしても、そのことによって函数一般
は理論に従って微分することが可能であるということを証明したことにはならない。
12.
架空の導函数と偏微分仮説
導関数の理論に対応して導函数の理論なるものがあると想定してみよう。この架空の理論
に従って函数 X(ξ1 , ξ2 ) を微分するとき、そこから得られる架空の導函数の形について想定さ
れるのは、その導函数が、その函数を構成する変数、およびそれらの導変数で構成されると
いうこと、それだけである。すなわち函数 X(ξ1 , ξ2 ) を架空の理論に従って微分した結果は、
次のような暗号文で象徴的に示されるだけである。
d ; X(ξ1 , ξ2 ) → X ′ (ξ1 , ξ2 , ξ̇1 , ξ̇2 )
この微分法を架空の微分法と呼ぶ。架空の微分法から得られた架空の導函数は導関数につい
ての提起された命題 A-a1 と同様の命題を成立させる、すなわち 𝑥 = X(ξ1 , ξ2 ) ならば
𝑥̇ = X ′ (ξ1 , ξ2 , ξ̇1 , ξ̇2 )
という命題が成立すると想定する。導函数の理論(架空の理論)においては関数と函数は区
別されない。別の言い方をすれば、架空の理論においては、函数で定義された変数、すなわ
ち形式的変数は架空の実質的変数となる。
この架空の導函数の存在を前提として偏微分についての三つの仮説を提案しよう。ただし
30
この仮説は数学者や物理学者が提起した仮説であって、私が提起するものではない。したが
ってまた私の考察の本筋にとってはどうでもいい仮説である。まず最初の仮説は、導函数の
理論は微分律に従う微分法を否定するものではないという前提を根拠とする。すなわち微分
律に従う微分法から得られる導函数(現実の導関数)と架空の理論に従って得られる導函数
(架空の導函数)は等しいことを前提とする。この前提によって架空の導函数を導入しても
不合理な事態は生じないはずである。架空の導函数は矛盾ではない。しかし矛盾でないから
といって架空の存在を肯定することから混乱を招く恐れがある。もちろん無用の混乱は避け
るべきである。しかし有益な混乱は積極的に活用すべきである。
現実の導函数と架空の導函数が等しいとき、すなわち次の等式が成立するとき
∂X
∂X
ξ̇1 +
ξ̇ = X ′ (ξ1 , ξ2 , ξ̇1 , ξ̇2 )
∂ξ1
∂ξ2 2
左辺の現実の導函数を ξ̇1 で偏微分したときの偏微分商は
∂X
∂ξ1
である。したがってその導函数に等しい右辺の架空の導函数の ξ̇1 -偏微分商もそれに等しい
ものでなければならない。つまり等式
∂X
∂X ′
=
∂ξ1 ∂ξ̇1
が成り立つことになる。この等式が最初の仮説(偏微分仮説 A)である。
私はⅡ-8 で「非難されるべき」と指摘した記述法を、一時的にではあるが、そして不本意
であるが、採用することにする。すなわち等号を濫用し、本来(暗号)文であるものを式で
あるかのように記述する。例えば
d ; X(ξ1 , ξ2 ) →
∂X
∂X
ξ̇1 +
ξ̇
∂ξ1
∂ξ2 2
という暗号文を、あたかも式であるように
d
dt
[ X(ξ1 , ξ2 )] =
∂X
∂X
ξ̇1 +
ξ̇
∂ξ1
∂ξ2 2
と記述する。そのような記述は私に言わせれば「式もどき」である。
偏微分についての第二の仮説について述べよう。ξ1 -偏微分商を(微分律に従う微分法で)
微分すれば、次のようになる。
d ∂X
∂ ∂X
∂ ∂X
(
) ξ̇1 +
(
) ξ̇
[
]=
∂ξ1 ∂ξ1
∂ξ2 ∂ξ1 2
dt ∂ξ1
=
∂ ∂X
∂ ∂X
(
) ξ̇1 +
(
) ξ̇
∂ξ1 ∂ξ1
∂ξ1 ∂ξ2 2
=
∂ ∂X
∂X
(
ξ̇1 +
ξ̇ )
∂ξ1 ∂ξ1
∂ξ2 2
31
ここまでは仮説ではない24。仮説として提出されるのはやはり
∂X
∂X
ξ̇1 +
ξ̇ = X ′ (ξ1 , ξ2 , ξ̇1 , ξ̇2 )
∂ξ1
∂ξ2 2
を前提として得られる結論、すなわち式
d ∂X
∂X ′
[
]=
∂ξ1
dt ∂ξ1
が成立するという説である。これが第二の仮説(偏微分仮説 B)である。
偏微分仮説 A と B は、それらが証明されていないという問題以前に、それらは架空の存在
(架空の導函数)を前提とした説という問題がある。したがって仮説というよりも「架説」
と称した方が妥当かもしれない。しかし最後の仮説は正真正銘の仮説、証明されていない(証
明できない)説である25。複数の変数𝑥1 , 𝑥2 , …で構成される函数
K(𝑥1 , 𝑥2 , … )
...
を、その函数を構成する変数でない変数で偏微分するとき、その偏微分商はどのような形を
とるか、――この問が有効であるのは、その函数を構成する変数の定義が(関数ではなく)
やはり函数である場合である。複数の変数 𝑥1 , 𝑥2 , … はすべて二つの変数 ξ1 , ξ2 で定義されて
いる、すなわち
𝑥1 = X1 (ξ1 , ξ2 )
𝑥2 = X 2 (ξ1 , ξ2 )
⁞
と定義されているとしよう。その場合、変数を二つにしたのは、それが最小の複数であるか
ら、したがって記述を最も簡略化できるからであり、他意はない。
第三の仮説(偏微分仮説 C)は架空の導函数の存在を前提としない。その場合、架空の存
在となるのは、函数を構成する変数の定義として存在する函数である。函数を構成する変数
は実質的変数でなければならない、すなわちその定義は(函数ではなく)関数でなければな
らないからである。そして偏微分仮説 C とは次のようなものである。すなわち形式的変数で
構成される函数 K(𝑥1 , 𝑥2 , … ) を、それを構成する変数ではない(しかしそれらの変数を定義
している函数を構成する変数のひとつである)ξ1 で偏微分すると、その偏微分商は
∂K ∂X 𝑖
∑
∂𝑥𝑖 ∂ξ1
𝑖
となる。もちろん同様のことは ξ2 についても言える。
以上、偏微分についての三つの仮説は次の節Ⅳ-13 の議論を理解するために必要な準備で
あり、したがってここで提出された仮説はその節で述べることに関する限りにおいて効力を
有するものであり、本考察の全体にとっては、どうでもいい問題である。
24
実際、Ⅵ-22 で、この説を活用する。
物理学観点からは、それらが仮説とされることはない。しかし数学的には論理的存在ではない偏微分につ
いてのそれらの説は数学的に証明することの不可能な説、したがって仮説である。
25
32
Ⅳ. Lagrange の式
13.
架空の微分としての変分
この節で述べることは、本考察全体にとっては非本質的な事柄である。物理学の教科書に
登場する Lagrange 方程式と私が提起する Lagrange の式の違いを明確にすること、および
Lagrange の式を論理的に導き出すことが不可能であることを明らかにすること、この二つが
この節の主たる目的である。
現実の世界において時間が存在しないという状況を作り出すことは不可能である。時間は
初めから存在していないからである。しかし理論においてその状況を作り出すことは容易で
ある。時間を表す記号 t の存在を否定すればいい。独立変数が存在しないとき存在する変数
は(関数ではなく)函数を表す。したがって函数を構成する変数の定義が存在するとすれば、
それもまた(架空の)函数である。、したがってまた函数を構成する変数もまた(実質的変数
ではなく)形式的変数である。そのときそれらの変数が変化するとすれば、それは架空の変
化(物理学的に言えば仮想変位)である。そこで微分とは異なる「微分」、独立変数の微分が
存在しないという前提で定義される「微分」を想定し、これを変分と呼ぶことにする。
ここで少しだけ物理学の話をしよう。𝒇 は力を表すベクトル記号とし、𝒚 は運動量を表す
ベクトル記号であとする。そのとき等式
𝒚̇ = 𝒇
は運動学の出発点となる式である。この等式を前提とするとき
(𝒚̇ − 𝒇) · δ𝒙 = 0
は δ𝒙 が何であれ成立する26。言い換えればその式から矛盾が生じる余地はない。そこでδ𝒙 が
架空の変化であると考える。
ベクトル 𝒇 の成分 𝑓1 , 𝑓2 , … がある函数
κ = K(𝑥1 , 𝑥2 , … )
を用いて
𝑓1 =
∂K
∂𝑥1
𝑓2 =
∂K
∂𝑥2
⁞
と定義されるとする。ただし変数 𝑥1 , 𝑥2 , … はベクトル 𝒙 の成分である。それらの変数は空間
内における質点の位置を表す。以上をもって話は物理学から離れる。
そして数学的な話は、まずそれらの変数の変分を定義することから始まる。函数を構成す
る複数の変数 𝑥1 , 𝑥2 , … の定義もまた(関数ではなく)函数である。それらの変数は二つの
26 「この方程式はしばしば D’Alembert の原理と呼ばれる。
」
ゴールドスタイン『新版 古典力学(上)』(吉岡書店)p23
33
変数 ξ1 , ξ2 によって構成される(架空の)函数で定義される。したがってそれらの変数の変
分は、例えば変数 𝑥1 の変分は二つの記号 δξ1 , δξ2 を用いて
δ𝑥1 =
∂X1
∂X1
δξ1 +
δξ
∂ξ1
∂ξ2 2
と定義される。変数 κ の変分も同様に定義されるので、その変分については式
δκ = 𝒇 · δ𝒙
が成立する。
変分の定義式を見ると、変分は微分とまったく同じ仕方で定義されるように見える。しか
し違いがある。形式的変数の微分は、その定義(函数)を構成する実質的変数の微分を用い
て定義されるが、変数形式的変数 𝑥1 の変分の定義はそうではない。その定義の中に存在す
......
る二つの記号 δξ1 , δξ2 は変分ではない。変数 ξ1 , ξ2 には――独立変数に定義が存在しない
ように――定義が存在しない。したがって最初、二つの変数は架空の独立変数と位置付けら
れる。この位置付けによって二つの変数は、最初は唯一の独立変数 t の存在を否定する存在
となる。二つの変数に定義が存在しないため、二つの記号 δξ1 , δξ2 には、まだいかなる定義
も(したがって変分としての定義も)与えられておらず、ただ 0 ではないという否定的な規
定が与えられているだけである。それらの記号に定義を与えることによって、それらは変分
とは正反対の存在、独立変数の存在を肯定する存在となる。
変数 𝑥1 , 𝑥2 , … の変分――それらは架空の存在である――を数学的に存在せしめるのは、
それらの変分の定義の中に存在する記号 δξ1 , δξ2 以外の存在、すなわち変数 𝑥1 , 𝑥2 , … を定義
する函数の偏微分商である。ただし偏微分することは架空の行為ではない。したがって架空
の存在とされるのはそれらの変数を定義する函数 X1 (ξ1 , ξ2 ) 、X 2 (ξ1 , ξ2 ) 等々である。そして
架空の函数は架空の微分法で微分される。
架空の函数で定義される限りにおいて変数 𝑥1 , 𝑥2 , … もまた架空の存在である。それらの架
空の変数に対してベクトル 𝒚 の成分である変数 𝑦1 , 𝑦2 , … には定義が存在しない。その意味で
それらの変数は架空の存在ではない。架空の存在とされるのは、それらの変数の導変数であ
る。独立変数が、したがって関数が、したがってまた導関数が存在しないときに存在する導
変数は架空の存在である。ただし独立変数が存在するという状況の下でも、やはり変数
𝑦1 , 𝑦2 , … の導変数は架空の存在とされるのであるが。
等式
𝒚̇ · δ𝒙 = ∑ 𝑦̇ 𝑖 δ𝑥𝑖
の右辺の対象は架空の導変数 𝑦̇1 , 𝑦̇ 2 , … を係数とする変分 δ𝑥1 , δ𝑥2 , … についての線型結合に
なっているが、それらの変分にそれぞれの定義を代入すれば
∂X 𝑖
∂X 𝑖
𝒚̇ · δ𝒙 = ∑ 𝑦̇ 𝑖 (
δξ1 +
δξ )
∂ξ1
∂ξ2 2
𝑖
= (∑ 𝑦̇ 𝑖
𝑖
∂X 𝑖
∂X 𝑖
) δξ1 + (∑ 𝑦̇ 𝑖
) δξ2
∂ξ1
∂ξ2
𝑖
となり、二つの(変分でない)記号 δξ1 と δξ2 についての線型結合という形に書き換える
34
ことができる。同様にして
𝒇 · δ𝒙 = Q1 δξ1 + Q 2 δξ2
と記述することができる。ただし Q1 は
Q1 = ∑
𝑖
∂K ∂X 𝑖
∂𝑥𝑖 ∂ξ1
と定義される記号である(偏微分仮説 C)。Q 2 も同じようにして定義される。
𝒚̇ · δ𝒙 の式において δξ1 の係数となっている総和について、その各項は次のように書き換
えることができる。
𝑦̇ 𝑖
∂X 𝑖
d
∂X 𝑖
d ∂X 𝑖
= [ 𝑦𝑖
] − 𝑦𝑖 [ ]
∂ξ1 dt
∂ξ1
dt ∂ξ1
さらにこの式の右辺は偏微分仮説 A および B によって、次のように書き換えられる。
𝑦̇ 𝑖
∂X 𝑖
d
∂X 𝑖′
∂X 𝑖′
= [ 𝑦𝑖
] − 𝑦𝑖
∂ξ1 dt
∂ξ1
∂ξ̇1
ここで等式
∑ 𝑦𝑖 X 𝑖′ (ξ1 , ξ2 , ξ̇1 , ξ̇2 ) = T( ξ1 , ξ2 , ξ̇1 , ξ̇2 )
を成立させる函数 T( ξ1 , ξ2 , ξ̇1 , ξ̇2 ) が存在すると仮定する。その函数には変数 𝑦1 , 𝑦2 , … は含ま
れない。しかしそれらの変数にはいかなる定義も与えられていないのであるから、この等式
が成立することは論理的に不可能である。逆に言えばそれらの変数に適当な定義を与えれば
――その場合、その定義は変数 ξ1 , ξ2 およびそれらの導変数によって構成される函数でなけ
ればならないのであるが――その式が成立することは論理的に可能である。しかしそのよう
な定義を与えることは、次の作業を行うに当たって不都合なのである。函数 T( ξ1 , ξ2 , ξ̇1 , ξ̇2 )
は論理的に存在することの不可能な存在、すなわち矛盾である。
「次の作業」とは上記の等式の両辺の函数を導変数 ξ̇1 および変数 ξ1 で偏微分することであ
る。そうすれば等式
∑ 𝑦𝑖
𝑖
∂X 𝑖′ ∂T
=
∂ξ̇1 ∂ξ̇1
∑ 𝑦𝑖
𝑖
∂X 𝑖′ ∂T
=
∂ξ1 ∂ξ1
得られる。そしてその二つの等式を得るには、二つの偏微分において変数 𝑦1 , 𝑦2 , … は代数の
ごとき存在でなければならない。そのためには、それらの変数を変数 ξ1 , ξ2 およびそれらの
...
導変数によって定義しないことが必要となる。しかし理論に矛盾が存在してはならない。そ
こで矛盾である函数の存在を隠蔽する必要がある。
上記の二つの式によって変分 δξ1 の係数は次のようになる。
∑ 𝑦̇ 𝑖
𝑖
∂X 𝑖
d ∂T
∂T
= [
]−
∂ξ1 dt ∂ξ̇1
∂ξ1
変数 ξ1 について言えることはすべて変数 ξ2 についても言える。したがって式
𝒚̇ · δ𝒙 = (
d ∂T
∂T
d ∂T
∂T
[
]−
]−
) δξ1 + ( [
) δξ2
∂ξ1
∂ξ2
dt ∂ξ̇1
dt ∂ξ̇2
が成立し、したがってまた式
35
(𝒚̇ − 𝒇) · δ𝒙 = (
d ∂T
∂T
d ∂T
∂T
[
]−
− Q1 ) δξ1 + ( [
]−
− Q 2 ) δξ2
̇
̇
∂ξ1
∂ξ2
dt ∂ξ1
dt ∂ξ2
が成立する。
次に二つの函数の和
T( ξ1 , ξ2 , ξ̇1 , ξ̇2 ) + K(𝑥1 , 𝑥2 , … )
を計算する。そのために変数 𝑥1 , 𝑥2 , … にその定義を代入する。その計算の結果
L( ξ1 , ξ2 , ξ̇1 , ξ̇2 )
は変数 ξ1 , ξ2 およびそれらの導変数のみによって構成される函数である。この函数を変数 ξ1
で偏微分すれば、次の等式が成立する。
∂L
∂T
=
+ Q1
∂ξ1 ∂ξ1
なぜなら Q1 の定義は函数 K(𝑥1 , 𝑥2 , … ) を変数 ξ1 で偏微分したときの偏微分商であるからで
ある。またその函数を導変数 ξ̇1 で偏微分すれば等式
∂L
∂T
=
∂ξ̇1 ∂ξ̇1
が成立する。変数 𝑥1 , 𝑥2 , … の定義に導変数 ξ̇1 は含まれていないからである。
こうして最初の等式 (𝒚̇ − 𝒇) · δ𝒙 = 0 は最終的には
(
d ∂L
∂L
d ∂L
∂L
[
]−
]−
) δξ1 + ( [
) δξ2 = 0
∂ξ1
∂ξ2
dt ∂ξ̇1
dt ∂ξ̇2
という形に落ち着く。ここで(変分として)定義されていない記号 δξ1 を(変分ではないと)
定義する、すなわち次のように定義する(記号 δξ2 も同様に定義される)。
δξ1 = ξ1 − A1 (t)
.....
.....
ただし ξ1 は特定の関数27 A1 (t) に等しくない関数を表す記号である。したがって ξ1 は、それ
を定義する関数を必然性をもって特定することの不可能な、言い換えれば A1 (t) 以外の関数
ならば、どのような関数でも定義することの可能な変数である。それは特定の変数に従属し
ない従属変数である。したがって記号 δξ1 もまた(関数 A1 (t) とは無関係な)任意の関数を表
す。そのような二つの記号 δξ1 , δξ2 について上記の式が成立するのは次の二つの等式
d ∂L
∂L
[
]−
=0
∂ξ1
dt ∂ξ̇1
∂L
∂L
]−
=0
∂ξ2
dt ∂ξ̇2
d
[
が成立するときに限られる。これらの式は物理学の教科書では Lagrange 方程式と呼ばれ、そ
れらは式 𝒚̇ − 𝒇 = 0 が表現する内容を異なる表現形式で表現する式として位置付けられる。
そして Lagrange 方程式の中には矛盾である函数 T( ξ1 , ξ2 , ξ̇1 , ξ̇2 ) は現れない。
私はまず、この「式もどき」を正統な式として提示しよう。そのためには新たに二つの変
....
数を導入する必要がある。それらの変数は定義されていない変数 𝑦1 , 𝑦2 , … と同じ立場に立つ
変数であり、その二つの変数 η1 , η2 には次のように定義される。
27
この関数を特定することは可能である。それは微分方程式としての Lagrange 方程式の解であるからである。
36
η1 =
∂L
∂ξ̇1
η2 =
∂L
∂ξ̇2
上記の定義式で定義される変数は物理学の教科書では一般化運動量と呼ばれる。しかし「一
般化運動量」という言葉は、もはやそれらの変数の言語的定義にはなり得ない。普通の運動
量については、運動量とは質量と速度の積であるという説明が可能であるが、「一般化運動
量」とは何かという問に対する答は、その数学的定義によって定義される量であるという無
意義な答しか存在しないからである。後に見るように変数 𝑦1 , 𝑦2 , … もこの二つの変数と同じ
仕方で定義され、そうすることによってそれらの変数に数学的定義が存在しないことが明ら
かとなる。
変数 η1 , η2 の定義式を前提とすれば、
「式もどき」は正当な式として、すなわち定義された
変数の微分 dη1 , dη2 の定義式として
dη1 =
∂L
dt
∂ξ1
∂L
dη2 =
dt
∂ξ2
...
という形で記述することができる。私はこの定義式を Lagrange の式と呼ぶことにする。なお
変数 ξ1 , ξ2 とそれらの導変数で構成されている特殊な函数 L( ξ1 , ξ2 , ξ̇1 , ξ̇2 ) は Lagrangian と
呼ばれる。
複数の変数 𝑥1 , 𝑥2 , … が二つの変数 ξ1 , ξ2 によって構成される架空の函数による定義から解
放されるとき、複数の変数 𝑥1 , 𝑥2 , … は二つの変数 ξ1 , ξ2 と同様、特定の関数に従属しない従
属変数となる。そのとき変数 κ の定義である函数 K(𝑥1 , 𝑥2 , … ) は無意義な存在となる。しか
しその函数による定義から解放されたとき、ひとつの変数 κ は複数の変数 𝑦1 , 𝑦2 , … と同様、
定義の存在しない変数となり、これまでとは異なる意義を獲得する。
かつて Lagrangian L( ξ1 , ξ2 , ξ̇1 , ξ̇2 ) を計算結果とする計算の対象
T( ξ1 , ξ2 , ξ̇1 , ξ̇2 ) + K(𝑥1 , 𝑥2 , … )
には矛盾とされる函数が存在している。Lagrange の式が成立したとき、Lagrangian 以外の一
切の函数は必要なくなる。その対象は変数 𝑥1 , 𝑥2 , … の導変数と変数 κ を用いて
∑ 𝑦𝑖 𝑥̇ 𝑖 + κ
と記述される。その対象の中には矛盾は存在しない。その代わりその対象が Lagrangian に等
置されることもない。それは三つ以上の変数 𝑥1 , 𝑥2 , … と二つの変数 ξ1 , ξ2 が異なる空間に属
しているからである。すなわち変数 𝑥1 , 𝑥2 , … が存在する空間は現実的、具体的な空間であり、
それらの変数は現実に対応するひとつ以上の式
F(𝑥1 , 𝑥2 , … ) = 0
37
によって関係付けられ、それらの式によって拘束されている28。これに対して変数 ξ1 , ξ2 が
存在する空間は理論的、抽象的な空間29(物理学者はそのような空間を「配置空間」と呼ぶ)
であり、そこでは変数 ξ1 , ξ2 を拘束するのは Lagrange の式だけである。しかもこの拘束に
よって、それらの変数が定義されることはないという意味で、それらの変数は自由である。
もし変数 𝑥1 , 𝑥2 , … が自由であると考えるならば、言い換えればそれらの変数についての拘
束の条件式を無視するならば、それらの変数とそれらの導変数によって構成される一般的
Lagrangian が存在し、そして等式
∑ 𝑦𝑖 𝑥̇ 𝑖 + κ = R(𝑥1 , 𝑥2 , … , 𝑥̇ 1 , 𝑥̇ 2 , … )
が成立する。その等式の右辺に存在する函数が一般的 Lagrangian である。そしてその左辺に
存在する函数もまた Lagrangian であると規定される。そのような特殊な Lagrangian を私は
本源的 Lagrangian と呼ぶことにする。
一般的 Lagrangian とは複数の変数とそれらの導変数で構成される函数である。しかし本源
的 Lagrangian は変数 𝑥1 , 𝑥2 , … は含まず、それらの導変数のみで構成されている。それはまた
本源的 Lagrangian を構成する記号 𝑦1 , 𝑦2 , … および κ がまだ変数でないことを意味する。本源
的 Lagrangian はそれらの記号を単純な方法で変数にする。それらの記号が変数となるのは―
―例えば記号 𝑦1 が変数となるのは――その Lagrangian を導変数 𝑥̇ 1 で偏微分したときの偏微
分商によって「定義」されるときである。そしてその偏微分商とは 𝑦1 である。したがって本
源的 Lagrangian に依拠して変数 𝑦1 , 𝑦2 , … の定義式が記述されることはない。それらの変数に
は数学的定義は存在しない。しかし言語的定義は存在する。その定義とは「𝑦1 だけで構成さ
れる単純な函数(または単純な合成関数)30」である。
したがってまた独立変数についての命題 A-a2 の前提が「記号 t が独立変数ならば」という
文であったように、本源的 Lagrangian に依拠して記述される Lagrange の式の前提となるの
も「記号 𝑦1 , 𝑦2 , … が数学的定義の存在しない変数ならば」という文である。そしてその前提
に対応する結論は Lagrange の式
d𝑦1 = 0
d𝑦2 = 0
⁞
である。この命題は次の一文で記述することができる、――「記号 𝑦1 , 𝑦2 , … が数学的定義
の存在しない変数ならば、それらの変数は定数である」。すなわち定数とは数学的定義が存
在しない変数であるという規定を与えるのは本源的 Lagrangian である。ただしこの規定には
例外が存在する。そのひとつが独立変数である。独立変数は定義が存在しないにもかかわら
ず、定数でない唯一の変数である。もうひとつの例外は変数 ђ である。その変数は定数であ
るのもかかわらず数学的定義が存在する唯一の変数である。
28
「その拘束はホロノミック(holonomic)であるといわれる。」『新版 古典力学(上)』p15
私は空間という語を物理学で用いられるのとは違った仕方で用いる。私の場合、空間の中に存在するのは
変数である。
30 単純な対象が単純な函数であるか、それとも単純な合成関数であるかは、ここではまだどうでもいい問題
であるが、後に ξ に同じ言語的定義が与えられる場合はそうではない。
29
38
導変数の理論によれば定数には導変数は存在しない。したがって定数 𝑦1 , 𝑦2 , … の導変数
は架空の存在である。しかし 𝑦̇1 , 𝑦̇ 2 , … と記述される記号が存在することは可能である。そし
てそれぞれ記号について「 𝑦1 , 𝑦2 , … の導変数」という言語的定義を与えることも可能であ
る。その場合それらの記号はすべて 0 で定義されることになる。したがって本来の出発点と
なるべき式は 𝒇 · δ𝒙 = 0 である。したがってまた出発点においてすでに
δκ = 0
..
と記述されるべきであった。その式は(定義式ではなく)記号 δκ と記号 0 を等置する等式
である。その等式によって記号 δκ は必要のない記号となる。そして定義の存在しない変数 κ
の微分の定義式
dκ = 0
..
が肯定される。そのときその微分を定義している 0 は数値である。この定数が定義の存在す
る唯一の定数 ђ の原料となる。
独立変数が存在しないという架空の状況の下で微分の存在が否定され、架空の存在である
変分が肯定される。この変分の存在が否定されたとき成立するのが Lagrange の式である。し
かし変数 𝑥1 , 𝑥2 , … を架空の函数から解放した今、論理的に存在することの不可能な函数
T( ξ1 , ξ2 , ξ̇1 , ξ̇2 ) は現実に存在しないことになる。したがって矛盾は存在しない。と同時に
Lagrange の式を論理的に導き出すことが不可能となってしまった。Lagrange の式には矛盾が
...
ないだけでなく、それが成立する論理的根拠もない。
もちろん科学的観点からすれば Lagrange 方程式には科学的根拠がある。Lagrange 方程式
とは数学的観点からすれば変数 ξ1 , ξ2 についての微分方程式であり、微分方程式とは、その
変数 ξ1 , ξ2 の数学的定義はいかなる関数であるか、という問である。すなわちその式の成立
の根拠はそれらの変数を定義する関数に求められる。
また Lagrange 方程式は物理学的観点からすれば運動方程式である。それは架空の存在との
対比において真正とされる訳ではない。物理学の教科書では現実の空間の中で起きている物
理学的変化(運動)を前提としている。その場合、Lagrangian は現実的な物理的対象に対応
する真正な数学的対象でなければならない 31 。その限りにおいて運動方程式として の
Lagrange 方程式は現実の運動を数学的に真正に表現した記述であり、したがって Lagrange
方程式の成立の根拠は Lagrangian に求められる。
私はそれらとは違った観点から、その式の成立の根拠を提示する。架空の存在である変分
......
..
を否定する Lagrange の式とは、まさに微分の定義式なのである。しかもその定義式には論理
.
.....
的根拠はないが、それとは異なる根拠がある。微分という存在を否定する変分を否定するこ
..
と、すなわち微分という存在の否定の否定は、たんに微分という存在を肯定することに留ま
..............
らない。それはさらに進んで微分するという行為を肯定する。Lagrange の式にはある現実が
対応している。数学における(理論ではなく)実践である。自由に、しかし恣意的ではない
方法で実践された微分(という行為)、この実践が Lagrange の式の根拠である。
31
一般に Lagrangian は運動エネルギーとポテンシャルエネルギーの差として位置付けられる。
39
14.
変数の条件式が成立しない変数
一般に Lagrangian とは複数の変数とそれらの導変数で構成される函数である、――前節で
はそのように述べた。これは導変数の理論からすれば誤りである。正しく言えば次のように
なる、――一般に Lagrangian とは変数 ξ および
ξ̇ =
dξ
dt
と定義される記号 ξ̇ で構成される対象である。上記の式は ξ̇ と記述される記号、すなわち見
かけ上は結合体である導変数と区別のつかない、ひとつの記号の定義式であって、変数の条
件式ではない。そして見掛け上区別がないから、記号 ξ̇ と導変数 ξ̇ とを等号で結び付けるこ
とはできない。したがって上記の式で記号 ξ̇ を定義した以上、導変数 ξ̇ と ξ‐微分商を等号で
結び付けることはできない。ということは ξ については変数の条件式が成立しないことにな
る。そしてその記号について変数の条件式が成立しないことには意義がある(その意義につ
いてはⅥ-25 で明らかにする)。
では記号 ξ̇ はどのようにして変数となるのか。それは変数の条件式が成立しない記号 ξ と
同じ方法によって変数となる。理論的に変数になれない記号が変数になる方法は実践的であ
る。すなわちそれらの記号は人がそれを変数として扱うことによって、具体的に言えばそれ
らの記号で Lagrangian を偏微分することによって変数となる。そして変数となった記号 ξ̇ が
存在する限り変数 ξ は微分符号と結合することは不可能である。
それらの記号が変数となったとき、函数についての命題 B-b1 を Lagrangian に適用するこ
とによって、次の命題が得られる。
B-b2【Lagrangian についての命題】
λ = L(ξ , ξ̇) ならば
dλ ∂L
∂L dξ̇
=
ξ̇ +
dt ∂ξ
∂ξ̇ dt
導変数 ξ̇ とは異なる変数が導変数と同じように記述されるのは、そのように記述すること
によって変数 ξ̇ に当然の言語的定義を与えることができるからである。記号 ξ̇ は記号 ξ が表
わす関数の導関数を表す、――変数 ξ̇ はそのように規定される。そのような変数を括弧つき
で「導変数」と呼ぶことにする。微分符号と記号の結合体としての真正な導変数は記号であ
り、また変数である「導変数」を原料として創り出される。
Lagrange の式について論じる限りにおいては、Lagrangian は(複数ではなく)ひとつの変
数 ξ とその「導変数」 ξ̇ で構成されるだけで十分である。ただ Lagrange の式から Hamilton
の式に移行するに際しては、それでは不具合が生じる。その不具合がどのようなものである
かについては、それが発生した時点で説明することにする。そして Lagrangian が Hamiltonian
に発展することは必然であるという点からは Lagrangian は必然的に複数の変数とそれらの
「導変数」で構成される函数でなければならない。しかしここでは記述を簡略化するために
Lagrangian は、ひとつの変数とその「導変数」、あるいは二つの変数 ξ と ξ̇ で構成されるもの
40
とする。
物理学の教科書においては Lagrangian には、当然その数学的な形式から生じる内容とは別
に物理学的な内容が与えられる。しかし私が関心を持つのは、その数学的形式とその形式か
ら生じる内容だけである。私が一般的 Lagrangian に要求することは三つだけである。ひとつ
はそれが変数とその「導変数」によって構成される函数であること、もうひとつはそれが「導
変数」だけで構成される Lagrangian、すなわち本源的 Lagrangian に等しいことである。そし
て最後に――ここが物理学の教科書と決定的に異なる点であるが――独立変数を Lagrangian
を構成する要素から排除することである。その理由は次の節の最後で述べることにする。
15.
自由な変数と解放された変数
Lagrangian を構成する変数 ξ に対応する変数として η が存在するように、Lagrangian を構
........
成することのないひとつの変数(したがって Lagrangian を記述する場合に記述されることの
....
ない変数)、すなわち独立変数 t に対応するひとつの変数 Ϧ が存在する。この変数は本源的
Lagrangian の中にのみ存在する。変数 ξ の「導変数」と記号 η で構成される本源的 Lagrangian
の本来の形は
ηξ̇ + Ϧṫ
である。しかし独立変数の「導変数」 ṫ については等式 ṫ = 1 が成立するから、本源的
Lagrangian の通常の形は ηξ̇ + Ϧ である。
すでに述べたように私は一般的 Lagrangian について等式
ηξ̇ + Ϧ = L(ξ , ξ̇)
が成立することを要求する。そして記号 η については一般的 Lagrangian の偏微分商という函
数によって定義される、すなわち
η=
∂L
∂ξ̇
と定義されることによって変数になる。したがってその変数は形式的変数、すなわち微分符
号と結合することの不可能な変数となる。ただし記号 Ϧ については数学的定義は与えられな
い。その記号に数学的定義は存在しない。それは定義することの不可能な記号であり、その
不可能性によってその記号は特殊な変数、定数となる。
先の等式の両辺を微分すれば
ξ̇dη + ηdξ̇ + dϦ =
∂L
∂L
dξ + dξ̇
∂ξ
∂ξ̇
となる。この式は変数 η の定義式によって
dϦ =
∂L
dξ − ξ̇dη
∂ξ
と簡略化され、したがって等式
dϦ = (
∂L
dt − dη ) ξ̇
∂ξ
41
が成立する。記号 ξ̇ に与えられている言語的定義は「記号 ξ が表わす関数の導関数」であっ
..
た。では記号 ξ に与えられている言語的定義は何であるか。それは「任意の関数」である。
したがって記号 ξ̇ は任意の関数の導関数を表している、ということはその記号の言語的定義
もまた「任意の関数」で十分である。任意の関数を表す変数 ξ を特定の関数で定義すること
は(論理的には可能であるが)無意義である。そして人は現実において、ただたんに可能で
......
あるという理由で無意義な行為を行うことはない。現実において数学的定義が存在しない変
......
数 ξ を、私は自由な変数と呼ぶことにする。これに対して理論において数学的定義が存在し
ない変数 η を(定義から)解放された変数と呼ぶことにする。その場合の理論とは(導関数
の理論ではなく)導変数の理論である。導変数の理論によれば、その変数を定義することは
不可能である。その理由はⅤ-17 で明らかにする。
しかし解放された変数には現実においては(導変数の理論からすれば論理的でない)数学
的定義が存在する。そして変数 ξ̇ は任意の(導)関数を表す。そのとき上記の式が成立する
のは次の二つの式が成立する場合である。
dϦ = 0
dη =
∂L
dt
∂ξ
自由な変数が(現実において)特定の関数で定義されないという事態は、人は関数を微分し
ないという現実をもたらす。現実において微分という行為の対象となるのは関数ではない。
人が関数を微分しないとき、理論に従う微分法は理論的(その場合の理論とは言うまでもな
く導関数の理論である)には有効であっても、現実においては無効となる。
関数が微分の対象でないとき、関数でないものが微分の対象となる。そしてその微分はす
でに実践されている。変数 ξ が自由な変数であるという現実を前提として、ひとつの命題が
得られる。その命題は以下のとおりである。
∂L
∂ξ̇
ηξ̇ + Ϧ = L(ξ , ξ̇)
η=
dϦ = 0
dη =
ならば
∂L
dt
∂ξ
この命題には不合理な点が存在する。本源的 Lagrangian とそれに等しい一般的 Lagrangian
が解放された変数 η の微分に与える定義が異なるという点である。前者が η の微分に与える
定義は dη = 0 である。そこで一般的 Lagrangian もまた、それと同じ定義を与えているとい
うように辻褄を合わせるなら等式
∂L
=0
∂ξ
を成立させるしかないが、そうすると今度はその式が変数 ξ についての微分方程式になり、
その結果、変数 ξ は特定の関数で定義されることになり、それが自由な変数であるという前
提と辻褄が合わなくなる。したがって ξ が自由な変数であるということは dη = 0 でないこと
を意味する。
そこで私はこのひとつの命題の前提となる二つの式を分離する。そうすることによってそ
42
の命題を二つに、抽象的命題と具体的命題に分割する。そうすればこの不合理な事態の収束
を図ることができる。まず抽象的命題を提起するに際して、定数 Ϧ に代わる定数として新た
に特殊な定数 ђ を導入する。この二つの定数は Ϧ + ђ = 0 という関係にあるが、この関係が
問題になるのは ђ が Hamiltonian によって定義された後、その定義から解放されるときであ
る。
現時点では ђ は新たに定義式
ђ = ηξ̇ − λ
で定義された変数である。なお記号 λ には数学的定義は存在せず、「一般的 Lagrangian」と
いう抽象的な言語的定義が存在するだけである。
分割された一方の命題は抽象的である。それは新たに導入された変数 ђ の微分についての
命題であり、そこでは Lagrangian は抽象的に存在している。すなわちそれは、それを表す記
号 λ として存在する。
C1【定数 ђ の微分についての命題】
ђ = ηξ̇ − λ ならば
dђ = 0
この命題の結論は変数 ђ を定数と規定している。しかしその前提はその定数の定義式であ
る。したがってそれは数学的定義が存在する唯一の定数である。ただしその定義は――変数
η に与えられる定義がそうであるように――仮の定義であって、真の定義ではない。
分割されたもう一方の命題、具体的命題は変数 η の微分についての命題であり、そこでは
一般的 Lagrangian(の偏微分商)が具体的に存在する。
C2【変数 η の微分についての命題】
η=
∂L
∂ξ̇
ならば
dη =
∂L
dt
∂ξ
上記の二つの命題は、各々がそれぞれ相互に独立した命題として提起される限り、その前
...
提から結論に到達する理論的道筋も、したがってそれぞれの命題が有する理論的意義も理解
...
することはできない。実際それらの命題に理論的意義はないのであるから。したがってまた
その二つの命題はいずれも(不合理であると)理解されることはない。
本源的 Lagrangian は独立変数の「導変数」 ṫ を含んでいるが、一般的 Lagrangian について
は、それがその導変数を含んでいるとも、いないとも言えない。その結果、定数 Ϧ を定義す
ることはできなかった。それは定数であるから定義することは不可能である。ではなぜ独立
変数を含む Lagrangian の存在は考えられないのか? もしそのような Lagrangian L(ξ , t , ξ̇) を
想定すると、定義されない変数 Ϧ の微分が
43
dϦ =
∂L
dt
∂t
と定義されるという事態が生じることになる。定義されない変数の微分が定義される、――
そのような不合理な事態は Lagrangian が統治する空間(配置空間)では起こってはならない
ことである32。したがって独立変数を、Lagrangian を構成する要素から排除することは正当
な措置であった。
16.
理解不可能な微分法
定数 ђ についての命題 C1 の前提である式 ђ = ηξ̇ − λ を
λ = ηξ̇ − ђ
と書き換えて、変数 λ の微分を定義するとき、その命題の結論 dђ = 0 により、それは
dλ = ξ̇dη + ηdξ̇
と定義されることになる。この微分の定義は理論に従ってなされている。
次に変数 η についての命題 C2 の前提である η の定義式と、その結論である dη の定義式を
用いれば、上記式は
dλ = ξ̇
∂L
∂L
dt + dξ̇
∂ξ
∂ξ̇
と書き換えられる。したがって Lagrangian についての命題 B-b2 の結論
dλ ∂L
∂L dξ̇
=
ξ̇ +
dt ∂ξ
∂ξ̇ dt
が得られる。つまり Lagrangian についての命題の前提を定義式 λ = L(ξ , ξ̇) ではなく、定義式
λ = ηξ̇ − ђ に置き換えると、命題 C1 と命題 C2 によって Lagrangian についての命題 B-b2 の
結論に辿り着くことができるのである。
ところで命題 B-b2 の命題の前提と結論を結び付けているものは、微分律に従う微分法であ
る。だが λ = ηξ̇ − ђ を前提とするとき、同じ結論に到達するのに微分律に従う必要はない。
そこでは一見、理論に従って結論に達したように見えるが、もちろんそうではない。
変数 η の微分についての命題 C2 が有する内容は、まさに函数の微分法である。すなわち
その命題の背後にあるのは次の暗号文である。
d;
∂L
∂L
→
∂ξ
∂ξ̇
そこではある函数が微分されている。だがそれは微分律に従って微分されてはいない。では
この微分において具体的に何がなされたのか? ――Lagrangian が ξ について偏微分されたの
である。だが問われているのは微分法の規則を適用する対象、すなわち微分する対象に対し
て何がなされたのか、である。微分の対象となっている函数は Lagrangian そのものではなく、
それを ξ̇ で偏微分したときの偏微分商である。なぜ Lagrangian を ξ で偏微分することが、微
分の対象である Lagrangian の ξ̇-偏微分商を微分することになるのか、私には(したがって誰
32
その不合理な事態は配置空間が進化した空間、すなわち位相空間で起こる。
44
にも)理解できない。こうしてかつて「不合理だ」と理解された事態が「理解できない」と
いう事態に転化する。
私がここで為したことは、函数の微分法を(微分律という)規則の解釈に従う微分法とは
違った仕方で、理解不可能な形で提示することである。それは言い換えれば函数の微分法を
(その規則の解釈ではなく)微分法の規則そのものに従う実践として、いかなる解釈も加え
ずに純粋で真正な形で提示したということである。この数学における実践こそが、私が前提
とする現実である。現実において理論に従う微分法が無効となるとき、人はそのようにして
(どのようにしたのかは理解できないが)函数を微分するという現実(実践)がある。これ
...
が物理学的現実とは無関係な数学的現実であり、Lagrange の式が成立する実践的根拠である。
私はこの現実的な微分法を理解不可能な微分法と呼ぶ。
理解不可能な微分法の規則が適用される対象は Lagrangian の ξ̇-偏微分商という特殊な函数
である。その特殊性は Lagrangian そのものに由来する。Lagrangian は変数 ξ とその「導変数」
によって構成される。そしてこの「導変数」で偏微分するという実践には、そうすることに
よって「導変数」を変数にするという意義がある。その結果、理解不可能な微分法を適用す
る対象が創り出された。ところで私は先に次のように述べた、――Lagrange の式を論じる限
りにおいては Lagrangian はひとつの変数とその「導変数」で構成されていてもいい、と。そ
の場合、ひとつの変数 ξ を特定の関数で定義すれば、その Lagrangian は関数に還元されるこ
とになるはずである、――そう、まさに合成関数がそうであるように!
Lagrangian は不完全な函数である。Lagrangian が不完全である故にその ξ̇-偏微分商を微分
するという行為が理解できないのである。逆に言えば微分する対象が完全な函数である場合
..
..
には微分するという行為は理解可能となる。しかしそのときあるひとつの存在が理解不可能
な対象として現れる。
私は理解不可能な形で、純粋な形で微分法を提示した。そのとき取り除かれた「不純物」
.........
が定数 ђ の微分についての命題 C1 である。その命題にはもうひとつの微分法を理解するため
の鍵が含まれている。
45
Ⅴ. Hamilton の式
17.
定数の条件式が成立しない定数
.....
導変数の理論によれば真正な導変数は、すなわち記号と微分符号の結合体は変数でない。
導変数には微分が存在しないからである(もし dξ̇ という記号が存在するならば ξ̇ もまた記号
である)。変数でない数値や代数が函数を構成する要素となることが可能であるように、変数
.....
でない導変数が函数を構成する要素となることは可能である。不可能なのはその函数を導変
.........
...
数で偏微分することである。ちなみにある函数をその函数を構成する変数でない変数で偏微
..
分することは可能である。ただしその偏微分商は存在しない。その場合、その(存在しない)
偏微分商は記号 0 で表される。しかしある函数をその函数を構成する導変数で偏微分するこ
とは不可能なので、その「偏微分商」が記号 0 で表されることはない。
導変数の理論によれば記号 η には数学的定義は存在しない。そしてその定義は言語によっ
て「存在しない」と語るしかない。その記号が記号 0 に等置されることはない。その結果、
形式的変数と規定された変数 η は実質的変数となる。すなわち記号 η は Ϧ と同様、定義が存
在しないことによって特殊な変数となる。定義から解放された変数 η は定数である。しかし
定数 η については――自由な変数について変数の条件式が成立しないように――定数の条件
式
dη
=0
dt
.....
が成立しない。後に明らかになるようにその微分の定義が dη = 0 でないからである。定数の
条件式が成立しない記号 η は――記号 ђ のように微分符号と結合することによって、その結
合体(導変数)が消滅するのではなく――そもそも数がそうであるように、微分符号と結合
することの不可能なのである。解放された変数は実質的変数となっても、微分符号と結合し
ない。その変数は定義のみならず、微分符号からも解放されている、――その変数に微分符
号が寄生することはないという意味で。記号 η には数学的定義のみならず、言語的定義も存
在しない。ただ「解放された変数」という名称が存在するだけである。その変数は導変数の
理論における基本的な変数である。
解放された変数の数学的定義は、その変数の非本質的側面を規定するにすぎない。その変
..
数の本質を規定するのは(定義ではなく)自由な変数 ξ との関係である。その関係において
従来の定義を有する変数 η とその定義から解放された変数 η は自己同一性を有している。こ
の関係は「共役」という言葉で形容される。共役な関係にある変数は ξ と η だけではない。
共役な関係にある変数はもう一対、存在している。それは独立変数 t と定数 Ϧ である33。以
後、自由な変数と解放された変数の総称として、すなわち共役な関係にある変数の名称とし
33
「Hamilton 形式への共変的なアプローチにおいては、時間は空間座標と同じように扱わねばならない。す
なわち、時間は対応する共役運動量をもつ正準変数の1つとして考えなければならない。このような位相空間の
次元の拡張の基礎づけは、実際には非相対論的な力学においても行うことができる。」
ゴールドスタイン『新版 古典力学(下)』(吉岡書店) p530
46
て「正準変数」という語を使用する。
記号 ξ が微分符号と結合するには、すなわち導変数 ξ̇ が発生するには、まず導変数でない
記号 ξ̇ が消滅しなければならない。命題 C1 の前提であった定義式 ђ = ηξ̇ − λ はここでは変
数 λ の定義式に書き換えられる。さらに新たな記号 χ を導入することによって、その変数は
λ = ηχ − ђ
と定義される。それが変数 λ の数学的定義である。と同時にかつての変数 λ の言語的定義で
ある「Lagrangian」は「変数 ξ で構成されるある特定の函数」に変更される。変数 ξ の導変
数が、その函数を構成する要素である可能性は否定されないが、しかし導変数はまだ存在し
......
ない。また導変数が存在するとしても、それはその函数を構成する変数ではない。
変数 λ の定義式は定数 ђ の定義式における記号 ξ̇ を χ で置き換えた結果にすぎない。した
がって新たな記号 χ については、この置き換えによって自動的に二つの記号について等式
χ = ξ̇
が成立しているように見える。だがそれは私が記述を簡略化したことから来る誤解である。
本来、自由な変数 ξ は複数存在するのであり、変数 λ の本来の定義式は
λ = ∑ η𝑖 χ 𝑖 − ђ
である。したがって複数の記号 ξ̇𝑖 を χ𝑖 で置き換えるとき、成立しなければならない式は
∑ η𝑖 χ𝑖 = ∑ η𝑖 ξ̇𝑖
である。上記の式から、直ちに χ𝑖 = ξ̇𝑖 という式が導き出されることはない。自由な変数が複
数存在するという前提の下では、χ𝑖 = ξ̇𝑖 が成り立っているか否かは、記号 χ𝑖 を導入した時点
では明らかではない。そして後に述べるように、その等式が成立するとき、Hamilton の式は
無意義となる。したがって自由な変数は複数、存在しなければならない。そして自由な変数
が自由でなくなったとき、はじめて記号 χ𝑖 が導変数 ξ̇ に等しいことが明らかとなる。
命題 C1 の前提の形が変更されたならば、それに対応してその結論の形も変更しておくべき
であろう。命題 C1 の前提が変数 λ の定義式 λ = ηχ − ђ に書き換えられたとき、その変数の
微分は
dλ = χdη + ηdχ − dђ
と定義されるから、等式
dλ = ηdχ + χdη
が成立すれば、命題 C1 の結論 dђ = 0 に到達することができる。したがって考察の対象とな
る命題は次のような形に置き換えることができる。
C0 【定数 ђ についての内容のない命題】
λ = ηχ − ђ ならば
dλ = ηdχ + χdη
47
この命題は、ただ ђ が微分 dλ の定義において無視し得る存在である、すなわちその微分
.....
が数値 0 で定義される定数であることしか主張していない。それは命題の形式であり、した
がってその内容はそこにはない。実際、定数 ђ を函数で定義しない限り、この命題、すなわ
ち「命題の形式」は無意義である。「命題の形式」に対応する内容は定数 ђ を定義する函数
から生じる。そしてその内容は命題という形式をとることはない。
18.
理解不可能な函数
命題 C1 に含まれる「理解の鍵」とは定数 ђ のことである。その命題と等価な命題 C0 の考
察はまず定数 ђ を函数で定義することから始まる。その変数は(本来は複数の)対を為す正
準変数 ξ と η で構成される函数によって定義される、すなわち
ђ = H(ξ , η)
と定義される。この函数は Hamiltonian と呼ばれる。Hamiltonian がその定数の真の数学的定
義である。数学的定義が存在する唯一の定数である ђ を以後 Hamilton 定数と呼ぶことにする。
Hamilton 定数が Hamiltonian で定義されるということは、それに負号を付けた函数が定数 Ϧ
を定義する函数であると考えられる34。しかし定義が存在するのは Hamilton 定数だけである。
.
定数 Ϧ には定義は存在しない。とすれば定数 ђ が Hamiltonian で定義されるということも理
.....
解しがたいことである。
Hamiltonian を命題 C0 の前提 λ = ηχ − ђ に代入すれば、その式は
λ = ηχ − H(ξ , η)
となり、変数 λ の微分は
dλ = χdη + ηdχ −
∂H
∂H
dξ −
dη
∂ξ
∂η
と定義される。記号 χ もその微分が存在するから変数である。その記号は
χ=
∂H
∂η
と定義されることによって形式的変数となる。この定義によって微分 dλ の定義式から微分
dη が一旦、姿を消す。その結果、dλ の定義式は次のように単純化される。
dλ = ηdχ −
∂H
dξ
∂ξ
ここでまず自由な変数 ξ の微分の定義式
dξ =
∂H
dt
∂η
を導入する。この定義式を前提とすることによって等式
dξ = χ dt
34 「時間”座標”に共役な運動量は、通常のハミルトニアンに負号をつけたものである。
」
『新版 古典力学(下)』p531
48
が成立する。しかしこの時点ではまだ記号 ξ と微分符号の結合体、すなわち ξ の導変数と変
数 χ の間に等式 χ = ξ̇ が成立しているとは言えない。自由な変数については変数の条件式は
成立しないからである。
等式 dξ = χ dt により dλ の定義式は
dλ = ηdχ −
∂H
χdt
∂ξ
と書き換えられる。ここで解放された変数 η の微分を
dη = −
∂H
dt
∂ξ
と定義すれば、dλ の定義式に微分 dη が復活し、その定義式は
dλ = ηdχ − χ
∂H
dt
∂ξ
= ηdχ + χdη
となる。このようにして命題 C0 の「結論」に到達する。
命題 C0 の考察において、定数 ђ を定義する函数として Hamiltonian が導入されている。し
かし Hamiltonian と Lagrangian は現段階ではまだ理論的に無関係な存在である。なぜならそ
の考察において変数 λ には言語的定義「変数 ξ で構成されるある特定の函数」が存在するだ
けで、数学的定義として函数 L(ξ , ξ̇) が存在するわけではないからである。さらに自由な変数
も解放された変数も数学的定義を有していない。つまり命題の形式に登場する変数のうち、
数学的定義を有するのは使い捨てられる変数 χ とその結論には現れない定数 ђ だけである。
命題 C0 にはまったく内容がない。命題 C1 には、それに対応する命題 C2 がある、しかし命題
C0 にはそれに対応する命題はない。その命題は命題の形式であり、それに対応するのはその
形式の内容である。その内容とは正準変数の微分の定義式である。
Hamiltonian H(ξ , η) を構成する正準変数の微分は次のように定義される。
dξ =
∂H
dt
∂η
dη = −
∂H
dt
∂ξ
この対を為す定義式を Hamilton の式35と呼ぶ。現時点では Hamilton の式と Lagrange の式は
まだ関連付けられていない。変数 ξ と η が正準変数であるということ、すなわち対を為す変
数が共役な関係にあるということは、その微分が Hamilton の式で定義されるということであ
る。したがって共役な関係にあるために必要とされる条件は Hamiltonian を構成する変数で
..
あることである。ここに至って読者は「共役な関係」という語についてのひとつの知識を手
に入れた。
Hamilton の式は(Lagrange の式と違って)命題という形式の中には納まらない。Hamilton
の式にはそれを結論とするような前提がない。すなわち定義されている微分の前提となるべ
き変数の定義式がない。そして Hamilton の式によって正準変数の微分が定義されるのは、自
由な変数が数学的定義から自由であり、解放された変数が文字通り、いかなる定義からも解
35
物理学の教科書では「正準方程式」と呼ばれることが多い。
49
放されている限りにおいてである。後に自由な変数にはこれまでとは異なる言語的定義が与
えられ、その結果、その変数は自由でなくなる。また解放された変数は数学的定義によって
拘束される。そのときもはや Hamilton の式は成立しない。また Hamilton の式は解放された
変数――それは定数である――の微分の定義が dη = 0 でないことを主張している。
変数の数学的定義が存在しないのに、その変数の微分の数学的定義が存在するという事態
は理解しがたいことである、――この主張には私も同意する。しかし配置空間では起こりえ
ないことが、Hamiltonian が統治する空間(位相空間)では起こるのである。正準変数の微
分が Hamilton の式によって定義される根拠は Hamiltonian に求めるべきできる。ただし、い
くら求めても納得のいく答は得られない。Hamiltonian は理解不可能な対象であるからであ
る。それは理解すべき対象ではなく、微分するための道具として活用すべき対象である。
だが物理学の教科書はこう語る、――正準方程式は Lagrange 方程式から必然的に導き出さ
...........
れたものである、と。もちろん物理学者にとっては、それは必然でなければならない。そし
.....
て彼らはそれが必然であることを理解している。それはまた Hamiltonian をそのように解釈
しているという現実がある、ということに他ならない。
19.
Hamiltonian を活用した微分法
命題 C2 の背後には理解不可能な微分法があるように、「命題の形式」C0 の背後には
d ; H(ξ , η) → 0
という暗号文で示される微分法がある。そこでは微分は独特な方法でなされている。ちょう
ど珠算が独特な方法でなされる計算であるように。そして珠算という観点から観れば、算盤
はその規則が適用される対象である。上記の暗号文においても Hamiltonian はその微分法が
適用される対象となっている。しかし計算という観点から見れば、算盤は本来、普遍的な計
算を行うための特殊な道具として存在している。
Hamiltonian によって定義される定数の微分は微分律に従う微分法によれば
dђ =
∂H
∂H
dξ +
dη
∂ξ
∂η
と定義される。この定義式は Hamilton の式を用いて
dђ ∂H ∂H ∂H ∂H
=
−
dt
∂ξ ∂η ∂ξ ∂η
と書き換えることができる。したがって「命題の形式」C0 の背後にある微分法は
d ; H(ξ , η) →
∂H ∂H ∂H ∂H
−
∂ξ ∂η ∂ξ ∂η
であると解釈できる。そしてさらに上記の暗号文で示される微分法は、ある普遍的な微分法
を Hamiltonian という特殊な函数に適用した特殊な事例である。その普遍的微分法は正準変
数で構成された函数ならば、どのような形の関数にでも適用できる。その微分法は普遍的に
は次の暗号文で示される。
d ; Z(ξ , η) →
∂Z ∂H ∂H ∂Z
−
∂ξ ∂η ∂ξ ∂η
50
私はこの普遍的な微分法を Hamiltonian を活用した微分法と呼ぶことにする。Hamiltonian を
活用した微分法においては Hamiltonian は微分するための道具として存在する。
算盤は計算の規則の解釈に基づいて作られた道具であり、その解釈が合理的であるため、
言い換えれば機械的であるため、その解釈は算盤という形で物質化することができたのであ
......
る。これに対して Hamiltonian は理解不可能な微分法の規則の、したがって合理的でない解
釈を対象化することによって創り出された。
物理学の教科書によれば Hamiltonian を創り出す手順は次の通りである。まず解放された
変数の定義式
∂L
∂ξ̇
η=
を「導変数」ξ̇ の定義式
ξ̇ = P(ξ , η)
に書き換える。そしてその定義 P(ξ , η) を
ηξ̇ − L(ξ , ξ̇)
に代入することによって Hamiltonian が得られる。だがなぜ、そのような回りくどいことを
するのか不可解である。「導変数」ξ̇ の定義式を ξ について成立する Hamilton の式とし、そ
の定義を Lagrange の式に代入して得られる式を η について成立する Hamilton の式とする方
が単純ではないのか(単純であるということは合理的であるということである)。そうすれ
ば、そもそも Hamiltonian なる函数は必要ないことになる。Hamilton の式が有意義であるの
は等式
P(ξ , η) =
...
が成立しないからである。それはまた記号 χ を
χ=
∂H
∂η
∂H
∂η
...
と定義した時点で、その記号と「導変数」である記号について等式 χ = ξ̇ が成立しないこと
を宣言するものである。その結果、真正な導変数について等式 χ = ξ̇ が成立する可能性が生
まれる。
Hamiltonian は――珠算を行うのに算盤が必要であるように――微分を行うために必要と
される。ただし算盤なしに計算を行うことは、いつでも可能である。そこでもし微分するた
......
めに Hamiltonian が必要不可欠であるとすれば、それは微分法そのものに決定的な変質が起
...
こっていることを意味するであろう。私は Lagrange の式を提起した時点で、そこでは現実的
には関数の微分法が、したがってまた導関数の理論が無効になっていると述べた。現時点で
は事態はより深刻になっている。導関数の理論は理論的にも無効になっている。そのことは
Hamiltonian を活用した微分法が関数には適用できないことからも明らかである。もはや関
数は微分法の規則を適用する対象ではない。
いずれにせよ微分するための道具としての Hamiltonian は同時に理解不可能な対象である。
一般にある道具がどのような構造をしているかを調べれば、その道具が、なぜそのように機
51
能するのかも理解できるはずである。しかし Hamiltonian の具体的構造を決定するのは数学
ではなく、物理学である36。これに対して数学が Hamiltonian に要求することはただひとつ、
Hamilton の式を成立させることである。すなわち定義されていない変数の微分を定義するこ
とである。この不合理な要求に応える Hamiltonian なる函数を理解することなど到底、不可
能である。
20.
Hamilton の式がもたらす理解
Lagrange の式が Hamilton の式に転化するとき(ただし現時点では二つの式はまだ無関係
..
である)、理解不可能な対象は「微分する」という数学的行為から Hamiltonian という数学的
..
存在に転化する。Hamiltonian が理解不可能な存在であるということは、それを正しく理解
することが不可能であるということであり、正しく理解することが不可能ならば、それにつ
いての誤った理解もまたあり得ない。Hamiltonian に対する理解が区別されるとすれば、そ
れは正しいか間違っているかではなく、有益か無益か、である 37。そしてそれに対する物理
学的理解は科学的観点から見れば、有益であり、私の非科学的「理解」は科学的観点から見
るとき、無益である。
Hamiltonian は(物ではないので)機械ではないが、しかし機械的に使用し、正準変数に
よって構成された函数(これを仮に「正準函数」と呼ぶ)を微分することができる。そして
その直接の成果である対象そのもの、すなわち
∂Z ∂H ∂H ∂Z
−
∂ξ ∂η ∂ξ ∂η
という対象から直ちに、それが正準函数 Z(ξ , η) の導函数であることを見て取ることはできな
い。実際、珠算の結果(算盤を動かし終えたときの算盤の状態)が直ちに計算の結果でない
ように、上記の対象が導函数であるとはいえない。それが微分の結果、すなわち導函数とな
るのは、その対象を Hamilton の式を用いて
∂Z dξ ∂Z dη
+
∂ξ dt ∂η dt
と書き換えたときである。函数の微分法の規則の基本的解釈である微分律に納得している人
ならば誰もが、それを導函数として承認するであろう。Hamilton の式は、したがって正準変
.
数の共役な関係は、Hamiltonian を活用して微分することが微分律に従って微分するのと同
........
じことをしているのだという理解をもたらす。
しかし理解不可能な微分法については、まだいかなる理解も得られない。その理解が発生
するには Hamiltonian が消滅しなければならない。そして Hamiltonian が消滅することは、
それが(定義の存在しない)定数 ђ の定義として発生した時点で運命付けられている。
Lagrange の式を結論とする命題 C2 には、それに対応する命題 C1 がある。この二つの命題
36
一般に Hamiltonian は与えられた系の全エネルギーに対応するが、そうでない場合もある。
「それは何の役に立つかという問は徹頭徹尾、本質的な問である。」これに類することをウィトゲンシュタ
インは述べていると記憶しているが、その文章がどの書物で語られているかは確認できない。
37
52
は本来ひとつの命題、二つ式を前提とし、二つの式を結論とする、ひとつの命題である。他
方で Hamilton の式そのものは、命題の結論という形で提示することの不可能な式である。た
だ Hamilton の式をその内容とする形式は別に命題として提示されている。その命題 C0 は特
殊な変数 λ の定義式を前提とする命題である。この特殊な命題はその内容を保存したまま、
より普遍的な形式に拡張することができる。すなわち特殊な命題の前提である変数 λ の定義
式を、正準函数一般で定義される変数の定義式 ζ = Z(ξ , η) に普遍化するのである。そうする
ことによって Hamilton の式を、その命題自身のうちに包摂する普遍的命題が提起される。そ
の命題とは以下の通りである。
C【正準函数で定義された変数の微分についての命題】
ζ = Z(ξ , η) ならば
dζ =
∂Z
∂Z
dξ + dη
∂ξ
∂η
この命題の背後には Hamiltonian を利用した微分法があり、したがってその命題の内容と
は Hamilton の式である、――だがそれはひとつの解釈にすきない。もうひとつの単純な解釈
が可能である、――その背後にあるのは微分律に従う微分法であるという解釈が。しかし単
..
純な解釈は導関数の理論を前提とする解釈(微分律に従う微分法は合成関数に適用される微
分法を函数に適用したものであるという解釈)である。これに対して、その命題の背後には
..
Hamiltonian を活用した微分法があるという解釈は偏微分という実践を前提とする解釈であ
る。導関数の理論を前提とする限り、偏微分という実践は「函数を関数と看做して微分する」
という非論理的行為として把握するしかない。しかしその前提を排除するならば、たんに規
則に従う実践として把握することができる。また偏微分商という存在は導関数の理論に依拠
する限り非論理的存在であると理解するしかない。しかし導関数の理論を排除するならば、
偏微分商は新たな理論の中で論理的存在として位置付けることの可能性が見えてきたのであ
る。ただしあくまで可能性が見えたにすぎないのであるが。
21.
もうひとつの自由な変数としての独立変数
これまで自由な変数 ξ に与えられた言語的定義は「任意の関数」であった。導関数の理論
が無効となった今、関数という概念は無意味となる。したがってこの言語的定義を変更する
必要がある。新たな言語的定義はⅣ-13 で本源的 Lagrangian が変数 𝑦1 , 𝑦2 , … に与えたのと同
..
じような定義である。すなわちその言語的定義とは「変数 ξ のみで構成される単純な函数」
である。その言語的定義はその変数を拘束するものではないように思える。しかしその言語
的定義によってその変数は自由を奪われる。
..
導関数の理論が無効となった今、単純な函数を単純な合成関数であると解釈することは無
意義である。変数 𝑦1 , 𝑦2 , … についてはどちらの解釈を採ろうとも問題ではなかったが、変数
ξ の言語的定義については、それは「単純な函数 ξ」でなければならない。もしそれを単純な
合成関数であると解釈するならば、それは(導関数の)理論に従って微分され、その導関数
53
は微分符号と記号 ξ のみで構成される対象、すなわち導変数 ξ̇ のみで構成される「単純な」
対象(導変数は変数でないから、ひとつの導変数で構成される対象はもはや函数ではない)
である。これに対して単純な対象 ξ を函数として把握する場合、それには Hamiltonian を活
用して微分される。その結果は次の暗号文で示される。
d; ξ→ 1∙
∂H ∂H
−
∙0
∂η ∂ξ
すなわち
d; ξ →
∂H
∂η
単純な函数の導函数は複雑であり、その形は微分の対象ではなく、微分するための道具であ
る Hamiltonian によって決定される。そして自由な変数については、独立変数についての命
題 A-a2 と同じような命題、すなわち次の命題が成立する。
A-b【自由な変数についての命題】
記号 ξ が単純な函数 ξ を表すならば
ξ̇ =
∂H
∂η
このようにして自由な変数 ξ の導変数は Hamiltonian の η-偏微分商という数学的定義に拘束
される。その結果、自由な変数はもはや自由ではない。
この命題の結論において、ようやく記号と微分符号の結合体としての導変数が現れる。そ
してこの時点ではじめて記号 χ と真正な導変数は等式
χ = ξ̇
を成立させる。しかし自由な変数については変数の条件式は成立しない。したがって等式
dξ ∂H
=
dt ∂η
が成立してはならない。すなわち自由を奪われた「自由な」変数についてはもはや Hamilton
の式は成立しない。しかし、それなら上記の式において、すなわち Hamilton の式が成立して
いる時点で、すでに ξ‐微分商がその数学的定義において拘束されている。それでも自由な
変数は自由であるのはなぜか。Hamilton の式は正準変数の微分の定義式としては有意義であ
る。しかしそれを等式に書き換えるとき、それは無意義となる。もはや導関数の理論が無効
...
となっている状況の下では導関数を抽象化した存在としての微分商は無意義なのである。そ
してそれは微分そのものが無意義となる前兆である。
命題 A-b の結論において記号 ξ と微分符号の結合を実現する Hamiltonian の η-偏微分商は
......
ある抽象的対象を具体化したものである。だが、その「ある抽象的対象」は ξ-微分商ではな
.
い。先回りして言えば、その抽象的対象とは Poisson 括弧 [ ξ , ђ ] である。したがって変数の
条件式は命題 A-b の結論となる式は抽象的には
ξ̇ = [ ξ , ђ ]
54
という新たな形をとる。ただしそのためには変数 ξ と定数 ђ がひとつの空間の中に共存しな
ければならない。
自由な変数については変数の条件式が成立しないことに意義がある。その意義について物
理学の教科書では次のように語られる、――Lagrange 方程式を変分法に依拠して導き出す場
合、積分の対象は Lagrangian であるが、正準方程式を導き出そうとする場合は、そうしない
でまず
ξ̇ =
dξ
dt
という関係を「当然のこととは考えず」に、ある条件が成立した場合に成立する式と考え、
変分法における積分の対象として
L(ξ , ξ̇) − η (ξ̇ −
dξ
)
dt
を採用するのである38。これが物理学的に正準方程式を導き出すためのひとつの方法である。
私は自由な変数について変数の条件式が成立しないことの意義について、それとはまった
く違った説明を用意しているが、それは無限小変換(Ⅵ-25)の考察において明らかにするこ
とにしよう。
...
Hamilton の式が成立しないときの Hamiltonian は Hamilton 定数の定義ではない。Hamilton
定数は ђ + Ϧ = 0 の中にその定義を持ち込むことによって、すなわち
H(ξ , η) + Ϧ = 0
という式を成立させることによって、その定義から解放される。そして Hamilton 定数の定義
...
ではない Hamiltonian とは、したがって Hamilton の式が成立しないときの Hamiltonian とは
上記の左辺に存在する函数 H(ξ , η) + Ϧ である。そして定義不可能な記号、すなわち定数 Ϧ
が付加された新たな Hamiltonian はもはや変数の定義となることはない。
関数という概念が無効となるとき、独立変数は唯一絶対的な変数である根拠を失う。その
ときその変数は、もうひとつの自由な変数となる。そして記号 t には他の自由な変数と同じ
言語的定義が与えられる。その記号は単純な函数 t を表す。そしてその変数、もうひとつの
自由な変数に対応するもうひとつの解放された変数が、新たな Hamiltonian の中に存在する
定数 Ϧ である。この新たな Hamiltonian を活用して単純な函数 t を微分すれば、その「導函
数」は 1 である。したがってもうひとつの自由な変数の導変数については等式
ṫ = 1
が成立する。これは変数 t が独立変数であるときにすでに成立していた式である。しかしそ
の式を結論とする命題の前提は「t が独立変数ならば」ではなく「t が定数 Ϧ に共役な変数な
らば」である。
函数 H(ξ , η) + Ϧ が新たな Hamiltonian であると解釈する目的は、まさに上記の式を成立さ
せることにある。しかし Hamilton の式が成立しないときに Hamiltonian が存在するという事
38
伏見康治『現代物理学を学ぶための古典力学』(岩波書店)p191 参照
55
態によって、一時的ではあるが二つの科学、すなわち物理学と数学の間に軋轢が生じる。物
理学的観点からすれば変数 t の言語的定義は依然として「時間」であり、それは他の自由な
変数が表わす物理的対象とは異質な単位をもつ量である。例えば特殊相対性理論では三次元
空間に第四の座標軸として時間を導入し、四次元空間を形成するのであるが、その場合、第
四の変数は 𝑥4 = 𝑖ct (c は光の速度)と定義され、単位は他の変数 𝑥1 、𝑥2 、𝑥3 と同じに設定
される。しかもその変数だけは虚数であり、他の変数と異質であることが主張されている 39。
そして何よりも時間を第四の変数として空間の中に組み入れることを要請したのは物理学で
ある40。これに対して独立変数を、もうひとつの自由な変数として位相空間に持ち込むこと
は数学の側からの要請であり、そのような要請は物理学にとっては迷惑千万な話である。こ
うして(物理学の基礎をなす)数学としての力学は崩壊の危機に直面する。この危機は
Hamiltonian の消滅によって回避される。Hamiltonian の消滅は共役な関係の解消を意味する
からである。
39 ict を第 4 の位置座標とする 4 次元空間に対応する Lagrangian を創るとき、
純粋に数学的理由によってそれ
は「奇妙な産物」となる。『新版 古典力学(上)』p432 参照
40 「有名な Michelson および Morley の実験によって、光の速度はすべての方向に対して常に一定であり(中
略)光源の一様な相対運動には無関係であるということが示された。」『新版 古典力学(上)』p363
「一様に運動している系の間の新しい関係、すなわち Lorentz 変換は、すべての一様に運動する系において光
の速さを一定に保つようになっていなければならない。Einstein は、そのような変換は、時間と同時性について
の通常の概念を変更を要求するものであることを示した。」『新版 古典力学(上)』p364
56
Ⅵ. Hamilton-Yacobi の式
22.
正準変換
これからは必要な場合には煩雑さを厭うことなく、複数の変数を記述する。その場合、
Hamiltonian を活用した微分法は次の暗号文で示される。
∂Z ∂H ∂H ∂Z
d ; Z(ξ1 , ξ2 , … , η1 , η2 , … ) → ∑ (
−
)
∂ξ𝑖 ∂η𝑖 ∂ξ𝑖 ∂η𝑖
ここでは物理学の教科書における正準変換一般がどのように論じられているかを概観する。
ただし私は一般の正準変換について論じるつもりはない。私が関心を寄せるのは二つの特殊
な正準変換である。
一般に正準変換とは正準変数を正準変数に変換する変数変換である。つまり変換された変
数についても Hamilton の式を成立せしめる変換である。したがって(共役な関係にある)独
立変数と定数 Ϧ は一般の正準変換の対象ではない。そして私が関心をもつのはこの二つの変
数をも変換の対象とする変換である。変換後の正準変数で構成される Hamiltonian は当然、
変換前のそれとは違った形をとることになる。すなわち正準変換は Hamiltonian の形を変え
る変換でもある。
正準変換は「変換の母函数」と呼ばれる函数によって実現する。ここでは正準変換の母函
数が変換前の自由な変数と変換後の解放された変数で構成される場合を考える。その場合、
例えば解放された変数 η1 , η2 , … が ′η1 , ′η2 , … に変換されるならば、その変換の母函数は
T(ξ1 , ξ2 , … , ′η1 , ′η2 , … )
という形をとる。そのとき変換前の定数 η1 , η2 , … は変換の母函数の偏微分商によって
η1 =
∂T
∂ξ1
η2 =
∂T
∂ξ2
⁞
と定義される。それらの変数は定数ではなく、形式的変数である。この定義式は変換後の変
数 ′η1 , ′η2 , … を、変換前の変数 ξ1 , ξ2 , … と η1 , η2 , … を用いて定義する式(変換式)に書き換え
ることができる。
自由な変数 ξ1 , ξ2 , … が ′ξ1 , ′ξ2 , … に変換されるとすれば、変換後の自由な変数は次のように
定義される。
ξ1 =
∂T
∂ ′η1
ξ2 =
∂T
∂ ′ η2
′
′
57
⁞
この定義式は変換後の変数 ′ξ1 , ′ξ2 , … を変換前の変数 ξ1 , ξ2 , … と変換後の変数 ′η1 , ′η2 , … を用
いて定義する式であるが、変換後の変数 ′η1 , ′η2 , … は既に変換式に書き換えられているのであ
るから、上記の定義式も変換式に書き換えることができる。
そして変換の母函数が独立変数を含んでいない場合に限り、変換前の Hamiltonian と変換
後のそれは等号で結び付く。すなわち等式
H(ξ1 , ξ2 , … , η1 , η2 , … ) = ′H( ′ξ1 , ′ξ2 , … , ′η1 , ′η2 , … )
が成立する。右辺に存在しているのは変換後の正準変数で構成される形を変えた Hamiltonian
である。
最初に考える特殊な正準変換は変数変換を目的としない変換である。その場合、変数変換
はある目的のための手段である。この変換の母函数は
W(ξ1 , ξ2 , … ) − Ƕt
という形をとる。ただし Ƕ は代数である。特殊な正準変換の母函数は Hamilton の主函数と
呼ばれる。Hamilton の主函数が自由な変数で構成される函数と一次関数の和という形をとる
のは Hamiltonian が変数 t を含んでいないという事情による。
Hamilton の主函数は Hamilton の式が成立しないときに Hamiltonian について提起される
式
H(ξ1 , ξ2 , … , η1 , η2 , … ) + Ϧ = 0
を偏微分方程式(Hamilton-Yacobi の偏微分方程式)として把握することから産まれる。すな
わち例えば変数 η1 に「Hamilton の主函数の ξ1 -偏微分商」という言語的定義を与えるのであ
る。その結果、その偏微分方程式を解くことによって、実際に Hamilton の主函数が得られれ
ば、定数 η1 , η2 , … には数学的定義が与えられる。すなわち解放された変数は次のような定義
に拘束され、定数でなくなる。
η1 =
∂W
∂ξ1
η2 =
∂W
∂ξ2
⁞
また「Hamilton の主函数の t-偏微分商」という言語的定義が与えられた定数 Ϧ は他の解放さ
れた変数と同様にして
Ϧ = −Ƕ
..
と定義される。こうして共役な関係にある一方の記号が他方の記号を用いて定義される。そ
れは共役な関係の定義でもある。ただ Ϧ の定義の中には、それに共役な変数、すなわち独立
変数は現れない。定数 Ϧ と独立変数の関係だけは定義されない。
Hamilton の主函数が変換の母函数として特殊なのは、それが変換後の解放された変数を含
んでいないという点である。ちなみに物理学の教科書では、ある解釈によってそれらの変数
58
はその函数に含まれることになる。すなわち偏微分方程式を解く際に発生する積分定数を変
換後の解放された変数と解釈するのである。物理学的解釈では、変換前の解放された変数は
Hamilton の主函数を母函数とする変換によって、定数に変換されることになる。しかし物理
学の教科書においても、この正準変換は変数変換それ自体が目的ではない。その目的は微分
方程式としての正準方程式を解く、具体的に言えば変換前の正準変数 ξ1 , ξ2 , … を関数で定義
することにある。その目的を達成するためには、当然のこととして、その特殊な変換の母函
数、すなわち Hamilton の主函数は独立変数を含んでいなければならない。しかし私の目的の
ためには、それは独立変数を含んでいてはならない。
変換の母函数が変換後の変数 ′η1 , ′η2 , … を含んでいない場合、変換後の変数 ′ξ1 , ′ξ2 , … はす
べて記号 0 で「定義」されるという解釈も可能である。その解釈に従えば、その変換は自由
な変数を消滅させる変換である。そのとき同時に定数でないとされた記号 η1 , η2 , … の定義も
消滅し、それらの記号は再び定数として復活するはずである。
23.
共役な関係がもたらす理解
Hamilton の式を提起する出発点となった式 λ = ηχ − ђ は Hamilton の式が成立した後には
まったく違った役割を演じることになる。Hamilton の式を提起する上では変数 λ の数学的定
義が Lagrangian であることはまったく考慮する必要がなかった。Hamilton の式が成立した
後には、その数学的定義を考慮する必要がある。
問題の式は Lagrangian と Hamiltonian を次のような等式で結び付ける。
L(ξ1 , ξ2 , … ) = ∑ η𝑖 ξ̇𝑖 − H(ξ1 , ξ2 , … , η1 , η2 , … )
なお上記の式において Lagrangian を象徴する記述から ξ̇1 , ξ̇2 , … という記述を取り除いたの
は、それらの導変数は依然 Lagrangian を構成する要素であるが、しかし Lagrangian を構成
......
する変数ではないからである。
そして Hamilton の式が成立しないとき、Hamilton の主函数が次の式を成立させる。
H (ξ1 , ξ2 , … ,
∂W ∂W
,
,…) = Ƕ
∂ξ1 ∂ξ2
したがって次の式が成立していることになる。
L(ξ1 , ξ2 , … ) = ∑
∂W
ξ̇ − Ƕ
∂ξ𝑖 𝑖
Hamilton の主函数 W(ξ1 , ξ2 , … ) − Ƕt の導函数は Lagrangian に等しい。この事実は理解不可
能な微分法について、ひとつの理解をもたらす。
かつて解放された変数を定義していた対象、そして現時点では存在しない対象
∂L
∂ξ̇1
に対してなされたことを、ここで解放された変数の新たな定義(共役な関係の定義)に対し
て行ってみよう。例えば変数 η1 の新たな定義
59
∂W
∂ξ1
を理解不可能な方法で微分してみよう。理解不可能な方法で微分するということは(微分の
対象そのものではなく)Lagrangian を ξ1 で偏微分することである。そこで Lagrangian に等
しい対象である Hamilton の主函数の導函数
∑
∂W
ξ̇ − Ƕ
∂ξ𝑖 𝑖
を ξ1 で偏微分してみよう。この ξ1 -偏微分商は
∂ ∂W
∑
(
) ξ̇
∂ξ1 ∂ξ𝑖 𝑖
𝑖
という記述で象徴されるが、ここで偏微分する変数の順序を交換すれば、それは
∂ ∂W
∑
(
) ξ̇
∂ξ𝑖 ∂ξ1 𝑖
𝑖
と記述することの可能な対象である。こうして変数 η1 の新たな定義に対して実行された理解
不可能な微分法は次の暗号文で示すことができる。
∂W
∂ ∂W
d;
→ ∑
(
) ξ̇
∂ξ1
∂ξ𝑖 ∂ξ1 𝑖
𝑖
そしてこの暗号文が示しているのは、微分の対象が微分律に従って微分されているというこ
とに他ならない。こうして解放された変数の定義は、したがって共役な関係の定義は、理解
不可能な微分法についての理解をもたらす、――理解不可能な微分法に従って微分するとい
.........
うことは、微分律に従って微分するのと同じことをしているのだ、という理解を。
そのとき同時に Hamiltonian を活用した微分法と理解不可能な微分法とが等価であること
が理解される。そして理解不可能な微分法に対する理解が発生するとき、理解不可能な存在
.....
である Hamiltonian が消滅し、定義された共役な関係は解消する。
理解不可能な微分法と Hamiltonian を活用した微分法は、いずれも微分律に従う微分法に
還元される。そこで最初に提起された問が最後に残る問となるように思われる。理論に従う
微分法と微分律に従う微分法は等価であるのか?――だがこの問はもはや無意義である。なぜ
なら理論に従う微分法の理論、すなわち導関数の理論は現実的にも理論的にも無効になって
いるからである。函数を規則に従って微分するとき、その問は消滅する。
24.
Hamiltonian の消滅
Hamilton の主函数が解放された変数に数学的定義を与えるとき、式
H (ξ1 , ξ2 , … ,
∂W ∂W
,
,…) = Ƕ
∂ξ1 ∂ξ2
....
が成立することはすでに述べた。これに対して解放された変数に数学的定義を与えない特殊
な Hamilton の主函数が存在する。そのとき式
H(ξ1 , ξ2 , … , η1 , η2 , … ) = ђ
60
が成立する。私はこの式を Hamilton-Yacobi の式と呼ぶ。Hamilton 定数はかつて Hamiltonian
を数学的定義としたが、今やその定義から解放されたている。Hamilton-Yacobi の式は定義式
ではなく、等式である。だが Hamilton 定数にはいかなる数学的定義も存在しない。したがっ
て Hamilton-Yacobi の式について、それが成立する根拠を理解することは不可能である。あ
るいはそれを理解することが不可能であることを理解しなければならない。したがってまた
次のように言うことができる、――Hamilton-Yacobi の式を成立させる根拠は Hamiltonian に
あると理解しなければならない、と。
特殊な Hamilton の主函数が例外的に「定義」を与える変数が存在する。それは、定数 ђ
がその定義から解放されたとき、新たに Hamiltonian を構成する要素となったもうひとつの
解放された変数、すなわち独立変数に共役な定数 Ϧ である。それは
Ϧ=0
と「定義」される。ただしその場合の 0 はある特殊な Hamilton の主函数の t-偏微分商を表す
記号である。したがってその特殊な Hamilton の主函数は変数 t を含んでいない。記号 0 で記
号 Ϧ を「定義」する式は定義式ではなく、等式である。そしてこの等式によって Ϧ という記
号は必要のない記号とされる。その結果、Hamiltonian は従来の形に戻る。記号 Ϧ が必要の
ない記号とされとき、それに代わる記号として ђ が必要とされる。そしてその時点ではまだ
Hamiltonian は消滅しない。
Hamilton-Yacobi の式とは変換前の Hamiltonian と変換後のそれを等置する式である。特殊
な Hamilton の主函数を母函数とする変換によって Hamiltonian はまず単純な函数に、すなわ
ち Hamilton 定数のみで構成される函数 ђ に変換される。この単純な Hamiltonian についても
また、単純な Hamilton-Yacobi の式
ђ=0
が成立する。Hamiltonian が消滅するのは単純な Hamiltonian が数値 0 に変換されるときであ
り、そしてその変換の母函数は存在しない。
Hamilton-Yacobi の式が成立するとき、その背後では特殊な正準変換、解放された変数に定
義を与えない変換が実現している。ではその特殊な正準変換の母函数となる特殊な Hamilton
の主函数はどのような形をしているか。だがそれを知るためにもうひとつの特殊な正準変換、
すなわち無限小変換について考察が必要となる。
25.
無限小変換
一般的に無限小変換の母函数は次のような形をしている。
∑ ′η𝑖 ξ𝑖 + εG(ξ1 , ξ2 , … , ′η1 , ′η2 , … )
なお ε は「無限小」という言語的定義を有する、そして数学的定義の存在しない唯一の代数
である。ここでも記述を簡略化するために変数の添え字を省略して、無限小変換の母函数が
一対の正準変数のみで構成されているかのように、それを
′ηξ + εG(ξ , ′η)
61
と記述する。
この母函数は変換された変数 ′η の変換前の変数 η を
η = ′η + ε
∂G
∂ξ
と定義し、また変数 ξ の変換後の変数 ′ξ を
′ξ = ξ + ε
∂G
∂′η
..........
と定義する。ここで新たな記号 Δξ および Δη を導入する。私は次章で暴挙ともいえる非論理
...
.......
的方法によって、これらの記号を創り出すのであるが、ここではそれらの記号は単純に次の
ように定義される。
Δξ = ′ξ − ξ
Δη = ′η − η
これらの記号を用いれば、上記の二つの変換式は
Δξ = ε
∂G
∂′η
Δη = −ε
∂G
∂ξ
と書き換えられる。
............
さてここで物理学の教科書は「無限小」という概念を利用して暴挙ともいえる非論理的方
.
法でその式を書き換える。変換された変数 ′η を変換前の変数 η で置き換えるのである。そ
のとき自由な変数についての変換式は次のように記述されることになる。
Δξ = ε
∂G
∂η
その場合、変数 η で偏微分されているのは変数 ξ および η で構成される函数 G(ξ , η) である。
そしてその函数の代わりに Hamiltonian H(ξ , η) を用いるとき、「無限小」という概念に物理
学的要素を加えることができる。Hamiltonian を時間の変化を生成する「存在」であると解
釈するのである。そうすれば記号 ε の言語的定義である「無限小」は「無限小の時間の変化」
となり、そのような言語的定義を有する記号は dt となる。すなわち変換式は(数学的論理で
はなく)物理学的な解釈によって
Δξ = dt
∂H
∂η
と記述されることになる。この式はさらに Hamilton の式が成立しなくなったとき
Δξ = ξ̇dt
と書き換えることができ、さらに ξ について変数の条件式が成立すると仮定すると最終的に
等式
Δξ = dξ
が得られる。この等式の意味するところは単純である。それは Δξ が必要のない記号であると
いうことである。Hamiltonian を用いた無限小変換の変換式は、Hamilton の式が成立しなく
なる前にすでに記述されていた。Hamilton の式
dξ =
∂H
dt
∂η
62
がそれである。無限小変換は非論理的な変換である。
...
ここで自由な変数について変数の条件式が成立しないことが何の役に立つかが明らかとな
る。それは Δξ という記号の必要性を、その記号が微分 dξ とは違った意義を有する記号であ
ることを認識するのに役に立つ。そしてその記号はなぜ必要かという問と、なぜ自由な変数
について変数の条件式が成立しないかという問は密接に関係していることが理解される。自
由な変数は、解放された変数と違って微分符号と結合することが可能である。それでも変数
..................
の条件式が成立しないのは、その結合が微分商によって実現しているのではないからである。
記号 ξ と微分符号の結合を実現しているもの、それは(量子論的に解釈された)Poisson 括弧
[ ξ , ђ ] である。
26.
Hamilton 定数と見えない変数
特殊な正準変換である無限小変換の母函数
∑ η𝑖 ξ𝑖 + εH(ξ1 , ξ2 , … , η1 , η2 , … )
に依拠して変換を行えば、正準方程式が成立する、――物理学の教科書はそう教える。さら
に物理学の教科書によれば、正準方程式と Hamilton-Yacobi の偏微分方程式は等価であると
される41。この説を援用するならば、Hamilton の式と Hamilton-Yacobi の式もまた等価であ
ることになる。私の解釈によれば Hamilton-Yacobi の式は Hamilton の式が成立しないときに
成立する「Hamilton の式」である。したがって Hamilton-Yacobi の式を構成する変数はまだ
正準変数である。そのとき共役な関係は Hamilton-Yacobi の式によって規定される。それは
........
共役な関係が定義不可能な関係となることを意味する。
さて Hamilton-Yacobi の式が成立するとき、言い換えれば Hamilton の式が成立しないとき、
上記の無限小変換の母函数は単純な形で記述することができる、すなわち無限小変換の母函
数は
∑ η𝑖 ξ𝑖 + εђ
となる。この母函数において εђ は何の役割も演じていない。それは「無限小」という言語的
定義を有する記号 ε がここではもはや必要のない記号であることを意味する。Hamilton 定数
ђ を構成要素とするその函数はもはや無限小変換の母函数ではない。そしてそれが解放され
た変数を定義しない特殊な Hamilton の主函数である。特殊な Hamilton の主函数によって実
現する特殊な変換は正準変数を変換するという点では正準変換であるが、それを正準変数に
変換しないという点では正準変換ではない。
その「正準変換」では変換前の変数 η𝑖 は特殊な Hamilton の主函数の ξ𝑖 -偏微分商で「定義」
される。したがってその定義は数学的定義ではない。またその変数に与えられる言語的定義
は自由な変数に与えられたそれと同じものではない。すなわち「単純な函数 η𝑖 」ではない。
41 「したがって、Hamilton-Yacobi の方程式を解けば、同時に力学の問題の解が得られる。数学的に言えば、
2n 個の連立 1 階微分方程式である正準方程式と、1 階偏微分方程式である Hamilton-Yacobi の方程式が等価であ
ることが確立されたことになる。」『新版 古典力学(下)』p640
63
.....
変換前の解放された変数 η𝑖 に与えられる言語的定義は「変数でない記号 η𝑖 」である。解放さ
れた変数は特殊な Hamilton の主函数によって変数でない記号に変換される。特殊な「正準変
換」は解放された変数をたんなる記号に初期化する変換である。
したがって特殊な Hamilton の主函数には変換後の(変数でない)記号 η𝑖 が含まれている。
しかしその記号は変数でないので、それで特殊な Hamilton の主函数を偏微分することはでき
ない。したがって自由な変数が変換されることはない。ただしもし記号 η𝑖 が変数ならば特殊
な Hamilton の主函数が自由な変数に与えるであろう「定義」が、すでに自由な変数には与え
られている。
記号 η𝑖 は変数ではなく、記号 ђ は定数であるから、特殊な Hamilton の主函数の導函数は
∑ η𝑖 ξ̇𝑖
である。特殊な Hamilton の主函数の導函数は特殊な Lagrangian、すなわち本源的 Lagrangian
であり、さらに言えばそれは特殊な本源的 Lagrangian である、すなわち Ϧ = 0 である場合の
本源的 Lagrangian である。本源的 Lagrangian にとって η𝑖 はまだ変数である必要はなく、た
んなる記号であればよい。否、その記号は数学的定義を与えることの不可能な記号でなけれ
ばならない。だが私は最初の出発点(Lagrange の式)に回帰したわけではない。記号 η𝑖 が従
来と同じ方法で再び変数になることは不可能である。導変数 ξ̇ で本源的 Lagrangian を偏微分
することは不可能だからである。
特殊な Hamilton の主函数を母函数とする特殊な「正準変換」は自由な変数を保存する恒等
変換である。しかし自由な変数はもはや正準変数ではない。その変数には共役な関係にある
変数、解放された変数が存在しないからである。
函数を論じるようになってから、独立変数そのものはいかなる式の中にも現れることはな
かった。さらにⅣ-15 で独立変数を Lagrangian 構成する要素から排除することの正当性を述
べた。そして Hamilton の式が成立しなくなったとき、変数 t は(もうひとつの)自由な変数
として姿を現した。科学的解釈によればその現象は一時的なものにすぎない。その直後、特
殊な Hamilton の主函数によって解放された変数が変数であるという規定から解放され、たん
...
なる記号(以後、解放された記号と呼ぶ)になる。そのとき共役な関係はすべて解消され、
したがって変数 t も定数 Ϧ との共役な関係を解消し、もうひとつの自由な変数という規定か
ら解放される。その結果、その変数は再び独立変数として復活する。他方で解放された記号
は無視しうる存在と看做され、正準変数の存在に依拠する位相空間の枠組みは崩壊する。そ
のとき空間には自由な変数と独立変数のみが存在すると看做される。そのように把握された
空間を科学的空間と呼ぶ。科学的空間では独立変数は函数を構成する要素となる。
単純な Hamilton-Yacobi の式 ђ = 0 が成立するならば、単純な Hamiltonian である函数 ђ に
ついて Hamilton の式が成立することはない。本来 Hamilton の式は、共役な関係にある一対
の変数が一対の式を成立させるとき、はじめて成立するのである。言い換えればどちらか一
方の変数だけが「Hamilton の式」を成立させたとしても、Hamilton の式が成立したとは言え
ない。単純な Hamilton-Yacobi の式が成立するとき、Hamilton 定数についての「Hamilton の
64
式」だけは成立する。それは本考察において最初に記述された式
dђ = 0
である。Hamilton 定数には共役な変数が存在するが、しかしその変数については Hamilton
の式を含め、いかなる式も成立しない。
dђ = 0 という式はかつて定義式 ε = 0 を否定する式として記述された。だがいまや「無限
小」という言語的定義を有するその記号は役割を終えた。もはや定義式 ε = 0 を否定する必
要はない。ただ記号 ε は否定する必要のない式を積極的に肯定するために存在している。問
題は否定する必要のない式 ε = 0 をいかにして肯定するかである。それは次の章の課題であ
る。
Hamilton 定数に共役な変数については Hamilton の式は成立しないという事態は次のよう
に解釈される、――それは Hamilton 定数に共役な変数を記述することが不可能であるからだ、
と。定数 Ϧ に共役な変数は――t と記述された、したがって――見える独立変数であった。
これに対して Hamilton 定数に共役な変数とは、記述されない、したがって見えない独立変数
である。見えない記号、すなわち数が変数になるとき、それは独立変数となる。だが数は普
通の仕方では、すなわち従来の形の変数の条件式を成立させるという仕方では変数になるこ
とは不可能である。
科学的空間の中に存在する変数(独立変数と自由な変数)は普通の変数である。これに対
して解放された記号 η が再び何らかの仕方で変数になるとすれば、それは普通の変数ではな
い。もはやその記号は普通の方法では、すなわち函数(Lagrangian の ξ̇ –偏微分商)で定義さ
れるという仕方では変数になれないのだから。では記号をこれまでとは違った仕方で変数に
する方法はあるのか?――この問に対して私は次の仮説を提出しよう、――すべての記号はあ
るひとつの記号、すなわち数と同じ方法で変数となる。
しかし数が変数になることは可能なのか?――そこで私は数を変数にする「実験」を試みる。
その「実験」は微分 dξ に代わる記号として Δξ という記号を創り出すことから始まる。今ま
での流れからすればその記号は Poisson 括弧弧 [ ξ , ђ ] を用いて
Δξ = ε[ ξ , ђ ]
と定義されると予想される。しかしその定義式には欠陥がある。その定義式の中に存在する
記号 ε は「無限小」という言語的定義を有する代数である。しかし「無限小」という語は「時
間」と違って物理学的概念ではない。さらに言えば論理的概念ではない。無限小変換は論理
的ではない。もちろん数学はそのような非論理的概念を認めない。微分に代わる記号を創り
出すには、まず記号 ε に代わる記号を創り出し、それに言語的定義を与えることが必要であ
る。
記号 ђ もまた Hamilton 定数という規定から解放されて、したがって単純な Hamilton
-Yacobi の式 ђ = 0 (その式は数値 0 が記号 ђ を定義する式でもある)から解放される。それ
...
でも ђ はやはり特殊な記号である。その記号は積極的に ђ = 0 でないことをアピールする。
..
別の言い方をすれば数値 0 から解放された現在の記号 ђ は数値 0 によって定義されていたと
65
..
いう過去を保存している(この過去は将来、その記号が記号 0 に等置されることを予言して
いる)。記号 ђ もまたその定義から解放されても、過去の ђ と同一性を有する記号である。
私はその特殊な記号を以後 Hamilton 記号と呼ぶことにする。Hamilton 記号もまた変数であ
ることから解放された記号 η 同様、変数になるべき記号である。それは ђ が代数ではないこ
とを意味する。記号 ђ が代数でないという規定は重要である(その重要性はⅦ-30 で明らか
となる)。
見えない記号を変数にするためにはその記号と Hamilton 記号 ђ が依然として共役な関係
にあることが必要とされる。しかしその関係はもはや理解不可能な関係である。理解不可能
な存在であった Hamiltonian が消滅した後に理解不可能となるのは(存在ではなく)、ある存
..
在と他の存在の間にあるもの、すなわち関係である。たから私は共役な関係について理解し
ようとはしない。私が試みること、それはこの理解できない関係を活用し、再び理解不可能
な存在を創り出すことである。
もし解放された記号が再び変数として復活するとしても、それが科学的空間の中に存在す
ることはない。その記号はまず、その存在が無視される科学的空間から脱出しなければなら
ない。科学的空間の外部に広がる空間を非科学的空間と呼ぶことにしよう。事態がそのよう
に進展するならば、位相空間の崩壊はその空間の分裂、科学的空間と非科学的空間への分裂
として把握することができる。その場合、普通の変数 ξ と独立変数 t は位相空間の正統な後
継者である科学的空間に属し、普通でない変数 η と見えない独立変数、および見えない独立
変数に共役な変数である Hamilton 定数 ђ は位相空間の異端の後継者である非科学的空間に
属すると予想される。
66
Ⅶ. Poisson 括弧と Jacobi の式
27.
Poisson 括弧と変数計算
この章で論じることは数を変数にする「実験」に必要な準備作業である。
まず最初に Poisson 括弧について基本的な事柄を確認しよう。二つの変数 u と v を結合す
る Poisson 括弧 [ u , v ] は力学の教科書では次のような命題を成立させる対象である。すな
わち
u = U(ξ1 , ξ2 , … , η1 , η2 , … ),
v = V(ξ1 , ξ2 , … , η1 , η2 , … )
ならば
[ u , v ] = ∑(
∂U ∂V ∂V ∂U
−
)
∂ξ𝑖 ∂η𝑖 ∂ξ𝑖 ∂η𝑖
この命題が示していること、それは第一に独立変数 t を含む正準函数について次の命題が成
立するということである。すなわち ψ = Ψ(ξ1 , ξ2 , … , t , η1 , η2 , … ) ならば
ψ̇ = [ ψ , ђ ] +
𝜕Ψ
∂t
ただし ђ は Hamiltonian によって定義されているとする。そして第二に Poisson 括弧につい
ての命題が示していること、それは自由な変数と解放された変数のいずれか一方を無視する
ならば、その命題は何の役にも立たないということである。
Poisson 括弧は私にとっては計算の対象、すなわち計算の規則が適用される対象である。
これまで変数の計算も数値を計算する際の規則の解釈、すなわち計算の規則の数値計算的解
釈(以後たんに「数値計算」と略す)に従ってなされてきた。そしてその解釈のひとつとし
て式
ab = ba
が成立するとされてきた。しかし変数を計算する場合、その解釈は変更されねばならない。
上記式の記号 a、b は代数である。数値計算――例えば式 a(b + c) = ab + ac ――に用いら
れる記号はすべて代数である。すなわち変数になることの不可能な記号である。しかし計算
の規則の変数計算的解釈(以後たんに「変数計算」と略す)は当然のことながら原則として
変数になることの可能な記号(代数ではない記号)である。ただし変数計算的解釈は代数に
も適用されるので、その解釈となる式には代数も登場する。
まず代数が Poisson 括弧の中に存在する例外的な場合についてであるが、代数 c と任意の
対象(を表す記号)χ によって構成される Poisson 括弧について式
[c, χ]=0
が成立する。
また二つの記号 α、β によって構成される Poisson 括弧については次の式が成立する。
[ α , β ] = −[ β , α ]
したがって任意の対象 χ について式 [ χ , χ ] = 0 が成立する。
67
さらに記号 α、β の和および積については以下の式が成立する。
[α+β, γ]=[α, γ]+[β, γ]
[ αβ , γ ] = α[ β , γ ] + [ α , γ ]β
記号の積についての式(以下、「積の分解式」という)は特別な意味を持っている。すでに
述べたように変数計算では従来の数値計算にはない、新たな規則の解釈が追加される。
分数は次のような性質を有する。すなわち
α β αβ
· =
=1
β α βα
この式は αβ = βα と書き換えることができる。つまり分数という概念は積について αβ = βα
という式が成立する(交換法則、あるいは交換律に従う)ことを前提しているのである(な
お、これ以後、積が交換律に従う場合を「交換可能」という)。変数が交換律に従わない(交
換不可能である)ということは変数計算においては、もはや一般に分数という結合形式は機
能しないことを意味する。したがって分数
A(t + Δt) − A(t)
Δt
を出発点とする導関数の理論は、その出発点において無効となる。
そこで計算の対象としての(言い換えれば量子論的立場から解釈された)Poisson 括弧が
決定的な役割を演じる。というのは Poisson 括弧が二つの変数の異なる積の差 αβ − βα を規
定するからである。積の交換不可能性を前提として二つの積 α1 α2 とβ1 β2 で構成される
Poisson 括弧 [ α1 α2 , β1 β2 ] を計算する場合、そこには二通りの計算方法がある。ひとつは
積 α1 α2 を分解することから始めるやり方
[ α1 α2 , β1 β2 ] = α1 [ α2 , β1 β2 ] + [ α1 , β1 β2 ]α2
であり、もうひとつは積 β1 β2 を分解することから始めるやり方
[ α1 α2 , β1 β2 ] = β1 [ α1 α2 , β2 ] + [ α1 α2 , β1 ]β2
である。二つの計算結果は異なる形をしている。だが同じ計算の対象から得られる計算結果
は一致しなければならない。そこで両者の最終的計算結果を等置すれば、ひとつの等式
[ α1 , β1 ](α2 β2 − β2 α2 ) = (α1 β1 − β1 α1 )[ α2 , β2 ]
が得られる。このひとつの式から α1 β1 − β1 α1 および α2 β2 − β2 α2 が無規定であるという前提
の下で論理的必然性に従って導き出される二つの式は [ α1 , β1 ] = 0 および [ α2 , β2 ] = 0 で
ある。そしてこの結論は(論理的ではあるが)無意義である。しかしまた上記のひとつの式
を次の二つの式に分割することは論理的に(必然ではないが)可能であり、また自然であり、
そして何よりも有意義である。分割された二つの式
α1 β1 − β1 α1 = γ[ α1 , β1 ]
α2 β2 − β2 α2 = γ[ α2 , β2 ]
はひとつの内容を共有している。ただしその場合 γ と Poisson 括弧の積は交換可能でなけれ
ばならない。
代数 c については [ c , χ ] = 0 が成立する。上記の式によればこの式は
cχ = χc
68
を意味する、すなわち代数が任意の対象と(したがって Poisson 括弧とも)交換可能である
ことを意味している。したがって二つの積 αβ と βα の差は Poisson 括弧と代数 ℎ を用いて
αβ − βα = ℎ[ α , β ]
と規定されると考える。この式を交換式と呼ぶことにする。
交換式を得るのに必要なのは積が交換律に従わないという前提と積の分解式だけである。
その前提は αβ − βα に等しい 0 以外の数学的対象を要求する。[ α1 α2 , β1 β2 ] の分解式がこの
要求に応える。ひとつの式を二つに分割することは(必然ではないが)必要であり、そうす
ることによって αβ − βα に等しい最も単純な数学的対象積である Poisson 括弧 [ α , β ] が得
られる。交換式は変数の積が交換律に従わないという数値計算よりも拡大され、より普遍的
となった計算の規則の単純な、したがって合理的な解釈になっている。規則の解釈は恣意的
であってはならない。それは誰もが当然のこととして受け入れるものでなければならない。
交換式の成立は論理的に必然ではないが、当然である。
数値計算は特殊な変数計算である。すなわちそれは ℎ = 0 である場合の変数計算である。
一般化された「数値」計算、すなわち変数計算は ℎ = 0 でない場合でも通用する計算の解釈
である。
積が交換可能である場合、αβ = 0 かつ α = 0 でないならば β = 0 という命題が成立した。
しかしそうでない場合は、βα = ℎ[ β , α ] という式が成立すると言えるだけである。ただし記
号 α に逆元が存在するならば、 β = 0 と結論付けることが可能である。積が交換可能である
場合、0 以外のあらゆる数値、および 0 に等しくないあらゆる記号に逆元が存在した。その
場合の記号 α の逆元とは α を分母とし、1 を分子とする分数(構成された対象)である。し
かし積が交換律に従わないという前提があるとき、そのような形で逆元が存在する記号は代
数に限られる。それ以外の記号については、逆元とは式
αα
̃=1
を成立させるような記号(基本的要素) α
̃ であると規定されるだけである(その場合、積が
結合律に従うならば α とその逆元 α
̃ は交換可能である)。一般に記号に逆元が存在すると想
定した場合、前提となる式 αβ = 0 から導き出されるのは、α と β が共に逆元を有することは
.....
ありえないという結論である。しかしこの結論は一般に記号には逆元が存在しないと想定し
た場合にも「導き出す」ことができる。しかもその「結論」には前提となる式は必要ない。
私は一般に(代数以外の)記号には逆元が存在しないと想定すべきであると考える。そうす
ることによって逆元を有する記号を特殊な記号として位置付けることができるからである。
積が交換可能である場合、任意の対象 χ に対して式 οχ = 0 を成立させる記号 ο が 0 を表し
ていた。積が交換可能でない場合は式
χοχ = 0
を成立させる記号 ο が 0 を表すことになる。それは一般に記号には逆元が存在しないという
想定の下で β = 0 という結論に至る前提は「 αβ = 0 かつ βα = 0 かつ α = 0 でない」でなけれ
ばならない。すなわち α と β は交換可能でなければならない。
変数計算において Jacobi の式
69
[[α, β], γ]+[[β, γ], α]+[[γ, α], β] = 0
は特筆すべきものである。本来の Poisson 括弧の定義から Jacobi の式が成立することを確認
することはなかなか難儀なことであるが、交換式を前提とするならば、それは容易に確認で
きる。ただしその場合、積は結合律に従う、すなわち
(αβ)γ = α(βγ)
が成立することが、もうひとつの前提として必要になる。だから、このもうひとつの前提が
ないところで、すなわち積は結合律にも従わないという前提の下で Jacobi の式が成立すると
すれば、そこから導き出される結論は不合理なものになるであろうことが予想される。
数を変数にするためには、まず数の所在を明らかにする必要がある。すなわちどこかに存
在するはずの数を捕獲し、数はここに存在すると断言できる状況を創り出さねばならない。
そして数を捕獲するための道具となるのが Poisson 括弧である。そのために、どうでもいい
と思われる事柄について、あえて説明しておかねばならない。それは、そもそも α と β を結
合する Poisson 括弧はなぜ括弧を用いて記述する必要があるのか、言い換えればその結合を、
例えば α^β と記述してはならないのか、についてである。もちろんそのように記述してはい
けないというわけではない。その場合、α と β の和および積と γ の Poisson 括弧については、
それぞれ次のような式が成立する。
(α + β)^γ = α^γ + β^γ
(αβ)^γ = α(β^γ) + (α^γ)β
このようにその結合を、括弧を用いないで記述した場合、一般の括弧 ( ) の乱用を招く結果
になるだけある。はじめからその結合を Poisson 括弧という特殊な括弧の中に納めておいた
..............
方が合理的であることは明らかである。そして数学において記述が合理化されることは必然
である。
28.
Poisson 積を前提とする交換式と結合式
私は α と β によって構成される Poisson 括弧 [ α , β ] を指して α と β の Poisson 積と呼ぶこ
とにする。そうする理由は[ α , β ] を(通常の積とは違った仕方で為される)積であるとの仮
説に依拠して考察を進めることにある。ここで Poisson 積と通常の積の関係に関してひとつ
の命題を提起する。それは [ α , β ] = [ β , α ] ならば αβ = βα であるという命題である。この
命題は、α と β の Poisson 積が交換可能なら両者の通常の積も交換可能であると表現するこ
とができる。そしてそのような命題の背後には次のような式があると考えられる。
αβ − βα =
ℎ
([ α , β ] − [ β , α ])
2
交換式の前提となっているのはこの式である、――そう解釈しても不合理ではない。その式
は
αβ − βα = ℎ[ α , β ]
70
という形に単純化されるのであるから。そして ℎ という代数については話を進める過程で、
.................
この章の議論に関する限りにおいては、それが何の役割も演じていないことが理解されるで
あろう。そこで初めからそれを無視するために ℎ = 1 と定義する、すなわち交換式は
αβ − βα = [ α , β ]
と記述されると仮定して話を進めることにする。
通常の積は交換律たけでなく、結合律にも従わない、――その仮説の根拠もまた交換律の
場合と同様 Poisson 積に求めることができる。通常の積 (αβ)γ に対応する Poisson 積、すなわ
ち [ α , β ] と γ の Poisson 積については、その結合関係があらかじめ与えられている。一般に
Poisson 積 [ [ α , β ] , γ ] が結合律に従わないこと、すなわち等式 [ [ α , β ] , γ ] = [ α , [ β , γ ] ]
が成立しないことは Jacobi の式から明らかである。というのも Jacobi の式を変形すれば、
Poisson 積の結合関係を規定する次の式が得られる。
[[α, β], γ]−[α, [β, γ]] =[β, [γ, α]]
そこで私は Poisson 積が結合律に従うならば、通常の積もまた結合律に従うと考え、Poisson
積と通常の積を強引に次の式によって関係付ける。
(αβ)γ − α(βγ) = ε([ [ α , β ] , γ ] − [ α , [ β , γ ] ])
もし ε = 0 ならば、二つの積の関係は断ち切られ、通常の積は結合律に従うという結論に落
ち着く。そして(後に明らかとなるように)それが正しい結論である。
ここで [ β , [ γ , α ] ] に対応する記号を次のように定義する。
Δαβγ = (αβ)γ − α(βγ)
この記号を用いれば、上記の等式は単純に
Δαβγ = ε[ β , [ γ , α ] ]
と記述することができる。この等式は交換式に対応する、通常の積と Poisson 積の結合関係
を規定する式である。私はこの式を結合式と呼ぶことにする42。結合式における代数 ε は無
視できない存在である。すなわち ε = 1 ではない。その代数は特定の数値で定義することの
不可能な唯一の代数である。その代数は、それが不必要とされる状況が到来するまでは無視
してはならない。
29.
分解された Jacobi の式
記号 Δαβγ と同じようにして定義される記号は他にも存在する。記号 Δβγα および Δγαβ は
それらがそのように記述されているだけで、どのように定義されているか了解されるであろ
う。それらの記号については、結合式
Δβγα = ε[ γ , [ α , β ] ]
Δγαβ = ε[ α , [ β , γ ] ]
が成立する。
42 交換式は量子論の教科書に登場する正統な式であるが、結合式は、少なくとも私はどこでも見たことのな
い異端の式である。
71
それらの記号を用いれば、Jacobi の式は
Δαβγ + Δβγα + Δγαβ = 0
と記述することができる。ただしその場合 ε = 0 でない限りにおいて、という前提が必要と
なる。しかし、もはやその前提は必要ない。そして結合式を前提としなくとも Jacobi の式は
交換式だけを用いて分解することができる。まず Jacobi の式を構成する三つの Poisson 積を
分解する、例えば次のように計算する。
[ [ α , β ] , γ ] = (αβ − βα)γ − γ(αβ − βα)
= (αβ)γ − (βα)γ − γ(αβ) + γ(βα)
他の二つの Poisson 積についても同様の計算を行い、それぞれの計算結果を Jacobi の式に代
入し、整理すれば、次の式が得られる。
Δαβγ + Δβγα + Δγαβ = Δγβα + Δβαγ + Δαγβ
上記の式を分解された Jacobi の式と呼ぶことにする。この式は交換式だけから導き出される
ものであり、結合式は一切関与していない。したがって結合式が成立しない場合でも、分解
された Jacobi の式は成立する。分解された Jacobi の式の中に新たに登場した三つの記号は以
下の結合式を成立させ、したがって従来の記号と以下の関係にある。
Δγβα = ε[ β , [ α , γ ] ] = −Δαβγ
Δβαγ = ε[ α , [ γ , β ] ] = −Δγαβ
Δαγβ = ε[ γ , [ β , α ] ] = −Δβγα
分解された Jacobi の式は
(Δαβγ − Δαγβ) + (Δβγα − Δβαγ) + (Δγαβ − Δγβα) = 0
という形に書き換えることができる。その式の中の三つの括弧の中のそれぞれの差は結合式
によって
Δαβγ − Δαγβ = Δαβγ + Δβγα = ε[ β , [ γ , α ] ] + ε[ γ , [ α , β ] ] = ε[ α , [ γ , β ] ]
Δβγα − Δβαγ = Δβγα + Δγαβ = ε[ γ , [ α , β ] ] + ε[ α , [ β , γ ] ] = ε[ β , [ α , γ ] ]
Δγαβ − Δγβα = Δγαβ + 𝛥𝛼𝛽𝛾 = ε[ α , [ β , γ ] ] + ε[ β , [ γ , α ] ] = ε[ γ , [ β , α ] ]
という式を成立させる。したがって分解された Jacobi の式は
𝜀([ [ α , β ] , γ ] + [ [ β , γ ] , α ] + [ [ γ , α ] , β ]) = 0
と書き換えることができ、ふたたび本来の姿に戻ることが可能である。ただしそのためには
ε = 0 でないという条件が必要となる。言い換えれば ε = 0 ならば、分解された Jacobi の式
と本来の Jacobi の式は無関係となる。
分解された Jacobi の式は
(Δβγα − Δγβα) + (Δγαβ − Δαγβ) + (Δαβγ − Δβαγ) = 0
という形に書き換えることもできる。同じくその式の中の最初の括弧の中の差は
Δβγα − Δγβα = Δβγα + Δαβγ = ε[ γ , [ α , β ] ] + ε[ β , [ γ , α ] ] = ε[ α , [ γ , β ] ]
という式を成立させる。したがって等式
Δαβγ − Δαγβ = Δβγα − Δγβα
が成立する。その式は結合式を根拠としている。もちろんその式は ε = 0 であっても成立す
るが、成立する式はそのままでは無意義である。
72
30.
数を用いて定義される定義不可能な記号
これまで Δαβγ を含む計 6 個の記号について結合式を記述した。それらはすべて定義の存
在する記号であった。7 番目の記号もそれまでの記号と同じように定義されていると考える。
そのように考えなければならないのは、その定義式を記述することができないからである。
....
しかし結合式を記述することは可能である。その記号 Δ は三つの異なる数を用いて他の記号
と同じように定義されていると考える。したがってその記号についての結合式は
Δ = ε[ , [ , ] ]
と記述される。そしてこの結合式を記号 Δ の定義式とする。その定義式から等式 Δ = 0 が
導き出されないようにするには、まず右辺の Poisson 括弧の中に存在する Poisson 括弧につ
いて式 [ , ] = 0 が否定されねばならない。すなわちその Poisson 括弧を構成する二つの数
は異なる記号である。数が区別を有することは不可能ではない。不可能なのはその区別を見
ることである。
等式 Δ = 0 を否定するには式 [ , ] = 0 を否定するだけでは不十分であり、さらにその
Poisson 括弧が代数に等置されることがないという条件が必要となる。そこでそれを代数で
ないものに等置する。代数でないものとは ђ = 0 でないことを主張する Hamilton 記号である。
ここで ђ が代数でないという規定が活きてくる。
[ , ]=ђ
という等式を肯定するとき、記号 Δ の定義式は
Δ = ε[ , ђ ]
と書き換えられる。しかし ђ が代数でないという規定だけでも、まだ [ , ђ ] = 0 を否定する
のに十分ではない。数と ђ の交換可能性をも否定しなければならない。そこで ђ と交換可能
な記号が存在することを承認しよう。そしてその記号が数であることを否定する。
通常の積が結合律に従わないという主張は次のように言い換えることができる。すなわち
Poisson 括弧と交換可能な記号は存在しない、厳密に言えば、記号 χ が
[χ, [α, β]] =0
という式を成立させるのは、その記号が χ = c[ α , β ] と定義される場合のみである。それは
そのような記号については Poisson 積 [ α , [ χ , β ] ] が結合律に従う、したがってまたそれら
の通常の積も交換律に従うことを意味する(その場合、積 αχ と β の積は α と積 χβ の積と区
別する必要はなく、それらの積は括弧を用いずに αχβ と記述することができる)。ここで私
はひとつの例外を認めることを要求する。その例外とは記号 Δ である。その記号は任意の
...
Poisson 括弧と交換可能な唯一の記号である。したがって記号 α と積 Δβ の積は α(Δβ) と記述
する必要はなく、単に αΔβ と記述することができる。
任意の Poisson 括弧と交換可能な記号 Δ は Poisson 括弧 [ , ] とも交換可能であり、した
がってまた式
[Δ, ђ]=0
73
が成立する。記号 ђ の他にそのような式を成立させる記号は Δ だけである、ということは数
についても式 [ , ђ ] = 0 が成立する可能性は否定される。その否定の根拠は記号 Δ が任意の
...
Poisson 括弧と交換可能な唯一の記号である、という点にある。
しかしそうすると式 [ Δ , ђ ] = 0 に Δ の定義を代入すれば式
[ ε[ , ђ ] , ђ ] = 0
が成立する。ε は代数であるから、その式はさらに ε[ [ , ђ ] , ђ ] = 0 と書き換えることがで
きる。そのとき ε = 0 を認めないとすれば、 [ [ , ђ ] , ђ ] = 0 の成立を認めなければならな
い。そのとき記号 Δ の定義が [ , ђ ] であることが暴露される。その場合、結合式において
代数 ε は無視しうる存在となる、それは ε = 1 と定義されるべき記号となる。だが記号 ε は
無視すべき存在ではなく、もはや存在すべきでない記号なのである。
私は等式 ε = 0 の成立を認める。と同時に数の定義式における ε を――物理学者が ε を dt
で置き換えたように―― Δ = 0 でない Δ で置き換える。したがってその置き換えは論理的に
は不可能である。その結果、それは定義式ではなくなる。その記号には数学的定義は存在し
ない。そして [ , ђ ] で定義されるべき記号は別に存在する。
定義不可能な記号 Δ については定義式に代わって等式
Δ = Δ[ , ђ ]
が成立することになる。しかしその式は Δ については何も規定していない。その式が規定す
るのは数と Hamilton 記号の関係である。したがってその等式はもはや結合式とは無関係であ
る。したがってまたその式を成立させている Hamilton 記号 ђ は Poisson 括弧 [ , ] とは無
関係である。
31.
Poisson 括弧と交換可能な記号
等式 ε = 0 の成立を認めるということは、記号の積が結合律に従うことを認めるというこ
とである。そもそもそれが結合律に従わないという仮説が生まれた背景には Poisson 積とい
う概念がある。すなわち [ α , β ] が通常の積とは違った仕方で為される積であるという仮説
である。私はこの仮説を放棄し、これからは [ α , β ] のことを(α と β を結合する)Poisson
括弧と呼ぶ(あるいは α と β の Poisson 結合体という場合もある)。したがってまた「通常の
積」という言い方も廃棄し、以後は単に積という。
記号が結合律に従うならば、三つの記号 α、β、γ の積は (αβ)γ と α(βγ) に区別することな
く、単に αβγ と記述することができる。記号の積が結合律に従うならば、記号 Δαβγ 等々の
記号の定義はすべて 0 である。しかし
Δαβγ = 0
と記述される式は定義式ではない。ここで私はとんでもない(非論理的との非難を浴びせる
気もなくなる)仮説を提唱する。その仮説によればその式の Δαβγ という記述はひとつの記
号ではない。記号が結合律に従うとき、すなわち三つの記号 α、β、γ の積が括弧を用いずに,
たんに αβγ と記述されるとき、ひとつの記号 Δαβγ は四つの記号、特殊な記号 Δ と一般の記
号 α、β、γ に分裂し、同時にそれらは数学的に結合する、――そのような仮説の提唱はまさ
74
に暴挙と呼ぶべきである。それは仮説というよりは妄想に近い。そして私の妄想によれば
Δαβγ は記号 Δ、α、β、γ によって構成された対象、すなわちそれら四つの記号の積である。
そのとき式 Δαβγ = 0 を肯定しながら、 Δ = 0 を否定するために、記号 α、β、γ の中の少な
くともひとつの定義が 0 でなければならない(仮に γ = 0 であるとしておく)。そうすれば
従来は結合式を根拠として成立した等式
Δαβγ − Δαγβ = Δβγα − Δγβα
が今は γ = 0 を根拠として成立する。そのような式にはいかなる内容もない。しかし形式は
ある。そしてその形式は新たな記号を創り出すのに役に立つ。その等式は次のように記述す
ることが可能である。
Δα(βγ − γβ) = Δ(βγ − γβ)α
したがって Poisson 括弧を用いれば
Δα[ β , γ ] = Δ[ β , γ ]α
と記述することができる。さらに記号 Δ が Poisson 括弧と交換可能であるから、その式は
Δα[ β , γ ] = [ β , γ ]Δα
と書き換えることができる。
...
私は記号 Δ について「その記号は任意の Poisson 括弧と交換可能な唯一の記号である」と
述べた後に、さらに次のように述べた、――「したがって記号 α と積 Δβ の積は α(Δβ) と記
述する必要はなく、たんに αΔβ と記述することができる」。ここでは、この陳述を次のよう
..
に訂正する、――「記号 α と記号 Δβ の積は αΔβ と記述される」と。ここで二度目の妄想と
もいうべき仮説を提起する。ひとつの記号 Δαβγ が四つの記号に分裂することが可能なら、
二つの記号がひとつに融合することもまた可能であろう。そこで次のような仮説を立てる、
...
――記号 Δ が左から記号 α に接触するとき、両者は(積として)結合するのではなく、融合
.
してひとつの記号となる。式 Δα[ β , γ ] = [ β , γ ]Δα の中に存在するのは Δα と記述されるひ
.....
とつの記号である、と。その式は、記号 Δα が記号 Δ と同様、Poisson 括弧と交換可能な特殊
な記号であることを示している。そしてこの交換可能性は記号 Δα の特殊性に由来すると解
釈する。したがって等式 Δα[ β , γ ] = [ β , γ ]Δα が成立する根拠は γ = 0 ではない。こうして
γ は定義 0 から解放される。
...
記号 Δ はもはや Poisson 括弧と交換可能な唯一の記号ではない。そのような記号は無数に
存在する。そのような記号 Δα を α の差分と呼ぶ。微分と差分の違いは次の点にある。すな
..
わち微分は符号 d の存在を前提として発生し、そして記号 dα の発生によって符号 d は消滅
..
する。これに対して差分は記号 Δ の存在を前提として発生するが、記号 Δα が発生しても、
記号 Δ が消滅することはない。記号 Δ は記号 Δα と共存する。したがってまた記号 α とも共
存し、両者の積も存在する。その場合、Δ を左から α に直接に接触させるのではなく、「×」
という符号を介して結合させねばならない。すなわちその積は Δ × α と記述しなければなら
ない。
差分の発生は変数の受胎告知でもある。胎児はやがて変数となって産まれるはずである。
では変数(の胎児)とは何であるか? ――差分はこの問に暫定的な答えを与えてくれる。変
数とは差分と呼ばれる自己に固有の特殊な記号を有する記号であり、差分の特殊性とは、
75
Poisson 括弧との交換可能性である。
記号 Δ もまたある変数の差分として存在する。そしてその変数の差分は他の変数のそれと
.....
.............
同じように記述されている。言い換えればその変数は記述されていない。こうしてその記号
に新たな規定が与えられる。すなわち記号 Δ とは見えない変数の差分である。これがその記
号に与えられる最終の規定である。dt という記号が独立変数 t の存在を予言したように、差
分 Δ は見えない変数の存在を予言する。ただし予言が常に的中するとは限らない。見えない
記号、すなわち数もまた(胎児としての)変数となる。
76
Ⅷ. 差分の定義式と変数の条件式
32.
差分の定義式と変数の条件式(交換式)
変数には微分に代わる記号として差分が存在する、――とりあえず、そう言っておくこと
にする。特殊な記号である差分の存在によって分解された Jacobi の式
Δαβγ + Δβγα + Δγαβ = Δγβα + Δβαγ + Δαγβ
は、その式の各項、例えば Δαβγ が α の差分 Δα と β、γ の積であるとの解釈の下で提示され
る。式 ε = 0 が肯定された今、その式は本来の Jacobi の式とは無関係であり、したがってそ
の式は成立するとも、しないとも言えない。この式の γ もまた定義式 γ = 0 から解放されて
いる。
新たな解釈に従って分解された Jacobi の式は
Δα(βγ − γβ) + Δβ(γα − αγ) + Δγ(αβ − βα) = 0
という形に書き換えられる。そのような式には内容はない。しかし形式はあり、そしてその
形式は差分の定義式を導き出すのに役に立つ。
Poisson 括弧を用いれば、無内容な「Jacobi の式」は
Δα[ β , γ ] + Δβ[ γ , α ] + Δγ[ α , β ] = 0
と記述される。その式の中の三つの変数のうちのひとつ γ は、一旦は式 γ = 0 を成立さなけ
ればならないが、後にその式から解放される記号である。無内容な「Jacobi の式」はそのよ
うな特殊な経歴を持つ記号が存在する場合に役に立つ。そしてそのような記号は存在する。
それは言うまでもなく Hamilton 記号である。無内容な「Jacobi の式」は Hamilton 記号と任
意の二つの記号について
Δα[ β , ђ ] + Δβ[ ђ , α ] = 0
ならば
Δђ[ α , β ] = 0
という命題を提起する。この命題の前提となっている式は差分が Poisson 括弧と交換可能で
あることから
Δα[ β , ђ ] = [ α , ђ ]Δβ
と書き換えられる。またその結論となる式は Δђ と [ α , β ] が交換可能であり、 [ α , β ] = 0
ではないから
Δђ = 0
である。この命題の前提と結論を結び付けているものは、今のところ無内容な「Jacobi の式」
である。したがってその命題は成立するとも、しないとも言えない。そしてその式はその命
題を提起した時点でその役割を終える。そこでまず課題となるのは、この無内容な「Jacobi
の式」に代わる命題を成立させることである。そのためにはその命題の前提に内容を注入し
なければならない。その内容とはまだ数学的内容のない数学的記号にそれを与える式、すな
77
わち、まだ定義の存在しない記号の定義である。そしてまだ定義の存在しない記号とは差分
である。
無内容な「Jacobi の式」が提起する命題の前提となる式
Δα[ β , ђ ] = [ α , ђ ]Δβ
を次の二つの式に分割することは(必然ではないが)可能であり、また自然である。
Δα = [ α , ђ ]χ
Δβ = [ β , ђ ]χ
ただしその場合、χ は Poisson 括弧と交換可能でなければならない。そのような条件を満た
すのものとして変数の差分が存在する。変数一般の微分が独立変数の微分を用いて定義され
たように、変数一般の差分はあるひとつの変数の差分を用いて定義されるのが自然である。
そのときその「あるひとつの変数」は特殊な存在となる。その変数の差分だけは定義不可能
となるからである。そのような特殊な変数として見えない変数が存在する(もっともまだそ
の変数の所在は確認されていないが)。一般の変数 φ の差分 Δφ は見えない変数の差分 Δ を
用いて
Δφ = [ φ , ђ ]Δ
と定義することにする。見えない変数が独立変数として存在していると考えるならば、この
定義は微分に代わる記号としての差分に相応しいものである。
この差分の定義を Hamilton 記号に適用するとき、その差分 Δђ は
Δђ = [ ђ , ђ ]Δ
と定義されるが、その際 [ ђ , ђ ] = 0 であるから、定義式
Δђ = 0
が導き出される。こうして無内容な「Jacobi の式」に依拠して提起された命題は成立する。
またその式によって Hamilton 記号は、もしそれが変数ならば、特殊な変数として特徴付けら
れる。
差分の定義式をもうひとつの特殊な記号、すなわち数に適用すれば、それは定義式にはな
らないが、等式
Δ = Δ[ , ђ ]
が成立するはずである。そして Δ と [ , ђ ] は交換可能であるから、式
[ , ђ]=1
が成立するはずである。この式は記述された独立変数 t についての式 ṫ = 1 に対応していると
解釈することができる。さらに記号 t が微分符号と直接に結合することによって変数になっ
たように、見えない記号は Hamilton 記号と結合する――この結合は Poisson 括弧によって媒
介された結合である――ことによって独立変数となると解釈することができる。しかしその
ように解釈するならば、数と Hamilton 記号の Poisson 結合体 [ , ђ ] そのものが(見えない
独立変数の)導変数であると理解しなければならない。その場合、変数 φ の導変数は [ φ , ђ ]
である(今後そのような Poisson 括弧を「ђ- Poisson 結合体」と呼ぶ)。ではその導変数はど
のような式の中に存在するか。それは変数の条件式はどのような形式をとるかという問であ
り、その答は最初に与えられていた。交換式
78
φђ − ђφ = [ φ , ђ ]
が変数の条件式である43。
以上は式 Δ = Δ[ , ђ ] を肯定する立場からの見解である。言い換えれば数の捕獲「実験」
に成功したとの判断に基づく見解である。しかし数は見えないのであるから、その判断にお
いては慎重でなければならない。私はその式が成立することを、差分の定義式が提起される
前にすでに予言した。しかしそれ以前に成立していた式
[Δ, ђ]=0
を肯定する立場からは別の見解が得られる。ただしその式は Δ が定義不可能であるという前
提の下で、したがってその記号が Poisson 括弧と交換可能であるという前提がないところで、
したがってまた ђ は Poisson 括弧 [ , ] とは無関係であるとの前提の下で肯定される。その
場合、一般の差分は
Δφ = Δ[ φ , ђ ]
と定義されるものとする。ただし見えない変数については等式 Δ = Δ[ , ђ ] は成立しないと
考える、――否、それは成立しない式ではなく、式ではない記述であると考える。その理由
は、 [ , ђ ] という記述が数と ђ の Poisson 結合体ではないから、そこに数は存在しないと判
断するからである。
従来の記号 Δφ の定義においては Δ は Poisson 括弧と交換可能であるから、それを [ φ , ђ ]
の左右どちらから掛けてもよかったが、新たな定義においては ђ-Poisson 結合体の左から Δ
を掛けるものとする。この規約によって記号 Δφ について等式
[ Δ × φ , ђ ] = Δφ
が成立するからである。こうして記号 Δφ の製造方法が示される。Δ と φ の積を Poisson 括
弧によって Hamilton 記号と結合することによって、二つの記号 Δ と φ は融合する。しかし
記号 Δ は見えない記号と融合することはない。Δ を製造することは不可能である。
式 Δ = Δ[ , ђ ] を肯定する立場と否定する立場、その両方の立場は次のような仮説の下で
両立しうる、――数は Poisson 括弧 [ , ђ ] の中で自然に発生し、そしてそこで自然に消滅す
る。
33.
微分記号と変数の条件式
見えない変数の原料である数が人の手によるものでないように、見えない変数の差分 Δ も
また自然に発生する、――そのような仮説に基づいて、その発生のメカニズムを観察してみ
よう。まず見えない変数の差分が存在しないという状態を人為的に創り出す。そのために記
号 Δ と微分符号を結合させることを試みる。すなわち Δ[ , ђ ] = Δ と記述する代わりに
Δ[ , ђ ] = Δ̇
と記述する。もちろん微分符号と差分 Δ が結合することはない。これは予想されたことであ
る。その「実験」の意義は微分符号をそれに先行する存在、すなわち不在を指示する記述に
..
初期化することにある。したがって上記の記述は式ではなく、それは右辺に差分という特殊
43
この式には重要な記号が欠落している。Ⅷ-36 参照
79
...........
...
な規定を与えられた記号 Δ が存在しないことを示している。不在を指示する記述は記号 Δ 以
....
外の何かが右辺に存在する可能性を示唆しているものの、まだ左辺に Δ が無規定な普通の記
.
号として存在している限り、この可能性が実現することはない。
上記の(式でない)記述は差分 Δ の不在を主張している一方で、その記述の左辺にはまだ
記号 Δ が存在している。そして Poisson 括弧 [ , ђ ] の中に数はまだ存在しない。ただし数の
不在が不在を指示する記述によって示されることはない。なぜならそこはこれから数が発生
する場所だからである。
今や Δ は見えない変数の差分という規定を喪失した、たんなる記号にすぎない。そしてそ
の記号を人為的に消滅させることによって数が自然に発生する。そのとき
[ , ђ]= ̇
と記述される。Δ の消滅に伴って発生する数は最初、右辺に発生する。すなわち不在を指示
する記述の下で発生する。しかしそこに数が存在することはない。そこで発生した数は不在
を指示する記述と融合し、その記述は記号となる。そのようにして不在を指示する記述の下
で発生した数はそこで消滅する。その結果、記号 ˙ は――右辺の上ではなく――まさに右辺
に存在する。式でない記述 Δ[ , ђ ] = Δ̇ から記号 Δ を消し去るとき、その記述は [ , ђ ] = ̇
となり、その右辺には記号 ˙ が存在する。その記号は、記号 0 がそうであるように、自由に
記述できないという意味で特殊な記号である。私はこの特殊な記号を微分記号と呼ぶ。
不在を指示する記述と数が融合し、微分記号となると同時に、今度は Poisson 括弧 [ , ђ ] の
中で数が発生し、そこに存在する。数がそこに存在することはすでに仮説として述べられて
いるが、この説にさらに次のような主張が付け加えられる、――数がそこ以外の場所に存在
.....
することはない。 [ , ђ ] という記述、そこには明確に空白がある。そしてこの明確な空白が
数の唯一の居場所となる。ちなみに Poisson 括弧が括弧という形式で記述されることが偶然
ではないことはⅦ-27 で述べた通りである。数は括弧で囲われることによって、その居場所
が明確になる。そして本当にそこに数は存在するのかという疑問は無意義である。疑うこと
に意義があるのはその真偽を確かめる方法がある場合に限られる。
数は Poisson 括弧 [ , ђ ] の中に空白を見出すことによって、その存在が確認できる。読者
がそこに空白を見るとき、数を見ているのである。数の存在しうる場所が Poisson 括弧と
Hamilton 記号によって作り出されたひとつの空白、すなわち [ , ђ ] という記述の中に見出
される空白だけに限定されるならば、それ以外の場所に空白があるとしても、そこには何も
存在しない。今や数の存在は特殊な空白、すなわち [ , ђ ] という記述の中に存在する空白に
よって示される。そしてそれ以外の空白はそこに何も存在しないことを示す。そうなるとも
はや、あえて存在しないことを指示する必要はなく、不在を指示する記述は不要となる。そ
して不要な記述は現に存在しない。それは今や微分記号として存在する。
次に微分記号についての仮説を提起する。微分記号は不安定な存在であり、それを放置し
ておくと自然に二つの記号に分裂し、そして二つの記号は直接に結合する。二つの記号はま
だ積として結合しているのではない。二つの記号の一方が見えない変数の差分である。そし
̃ と記述される。すなわち上記の式
てもう一方の記号はその差分の逆元であり、その逆元は Δ
は放置しておくと自然に
80
̃Δ
[ , ђ]=Δ
という(式でない)記述に転化する。微分記号の分裂と同時に、そこに存在していた数は自
然に消滅する。微分記号が不安定なのは数の存在が不安定であるからである。
上記の(式でない)記述は放置しておけばさらに自然に式
[ , ђ]=1
に転化する。そこに再び数が発生すると同時に Δ とその逆元は積という形式で結合する。し
̃Δ = 1 が成立する。差分 Δ もまた微分記号と同様に不安定な存在である。そし
たがって式 Δ
て両者の存在の不安定性は数という存在が発生と消滅を繰り返すことに起因すると考えられ
る。しかし上記の式の中に存在する数は安定した存在であり、もはや消滅することはない。
.......
差分 Δ を安定させるには数の発生を抑制するしかない。そのためにはそこに記述するしか
ない。そこに何かを記述すれば、例えば φ と記述すれば、すなわち [ φ , ђ ] と記述すれば式
̃Δφ = [ φ , ђ ]
Δ
が成立する。そのとき左辺では Δ は φ と融合し記号 Δφ となり、そしてその記号は積という
̃ と結合する。その式は差分 Δφ の定義式 Δφ = Δ[ φ , ђ ] を差分 Δ の逆元を用い
形式で記号 Δ
て等式に書き換えた式であり、それはまた差分 Δφ を用いて記述された変数の条件式である。
そこではやはり φ の ђ-Poisson 結合体が導変数として存在している。その式と独立変数につ
いての式 [ , ђ ] = 1 は両立しない。そこに φ と記述した時点で数は永遠に消滅するからであ
る。そこに記述した時点で、その記述がそこに存在することが確実になると同時に、記述さ
れていない記号、すなわち数がどこにも存在しないことも確実となる。なぜなら数はそこに
しか存在しないのであるから。こうして数が変数になることによって(解放された)記号は
変数になるという仮説は否定される。記号が変数になるとき、数は消滅する。したがって独
立変数は、すなわち Δ をその差分とするような変数は存在しない。差分 Δ は見えない変数の
差分ではなく、存在しない変数の差分と規定される。
逆に言えば他の変数が一切存在しないときにのみ、見えない独立変数だけが存在する。そ
してその導変数について式 [ , ђ ] = 1 が成立する。そしてその唯一存在する変数には差分は
(すでに消滅していて)存在しない。
しかし数が永遠に消滅し、したがって差分 Δ は存在しない変数の差分であるという主張は
ひとつの仮説にすぎない。私はまだ数が変数になることによって記号は変数になるという仮
説に拘る。そこで差分 Δ を安定化させる方法を微分記号に適用することができないかを試し
てみる。そうすれば、すなわち式 [ , ђ ] = ̇ のそこ(数が存在るとされる場所)に φ と記
述すれば式
[ φ , ђ ] = φ̇
が成立するという仮説を提起する。では φ̇ という記述はいかなる存在であるか。その答を導
き出すにはまず微分記号がいかなる記号であるかを考えなければならない。
34.
記号の微分法と変数の条件式
これまでは変数計算はその規則の解釈に従ってなされてきたが、式 [ , ђ ] = ̇ は規則の
81
解釈にはなっていない。そこでは変数計算が実践されたのである。すなわちその式は規則に
従って記述されたのである。ただし規則に従ったのは私だけであるが(ウィトゲンシュタイ
ンは言う、――「ひとは規則に《私的に》従うことはできない」と44)。微分記号がその計算
結果となる変数計算は、最も基本的な、したがって最も単純な計算であり、その規則を解釈
することはもはや不可能である。したがってまたその計算の結果は解釈することの不可能な
........
規則に従って創り出された、理解不可能な対象である。微分記号は見えない変数と Hamilton
定数との関係、すなわち共役な関係が対象化された存在である。
しかし理解不可能な記号とは奇妙な存在である。一般に記号が理解不可能なのは当然であ
る。それは本来、理解すべき対象ではないからである。記号はそれが何を表しているかを知
るべき対象であり、定義式を見れば、何も考えなくとも、それが何を表しているかを知るこ
とができる。ただしひとつだけ例外がある。存在しない対象を表す記号である。その記号に
ついては、それが何を表しているか、言い換えればその記号が存在する場所に存在しない対
象は何であるかを考え、理解しなければならない。微分記号が理解不可能であるということ
は、それが存在しない対象を表す記号であることを意味する。
式 ђ = 0 を単純な Hamilton-Yacobi の式と解釈すれば 0 は数値である。しかしその式はたん
に Hamilton 記号と記号 0 を等置する式と解釈することもできる。そのとき記号 ђ を必要と
するならば、記号 0 を放棄しなければならない。そこでその記号に代わって微分記号が存在
しない対象を表す。そして何を表しているかを理解しなければならない記号が理解不可能で
あるならば、その記号が表わす(存在しない)対象をどのように理解しようとも誤りではな
い(もちろん正しいわけでもないが)。そこで私は微分記号が表わす対象、すなわち存在しな
い対象は見えない変数の導変数であると理解する。その理解について問題となるのは、それ
が正しいか否かではなく、その理解が有益であるか否かである。
数は不在を指示する記述と(結合ではなく)融合し、その結果そこで消滅する。ただし消
滅するのは、そこ(不在を指示する記述の下)で発生した数であって、融合体である微分記
号とそこ以外の場所で発生した数は消滅しない。逆にこの融合の効果として微分記号は安定
した存在となる。したがってその記号が分裂し、差分 Δ が発生するという現象は抑制される。
では、その融合の効果として数はそこ以外の場所、すなわち Poisson 括弧 [ , ђ ] の中に確実
に存在することになるのか? ――この問は結局、次の問に還元される。私は Poisson 括弧に
よって数を捕獲するという「実験」に本当に成功したのか?
..
数に適用された規則を記号 φ に適用すればどうなるかは明らかである、否、明らかでなけ
......
ればならない。その計算は同じようにして計算される。そのとき式
[ φ , ђ ] = φ̇
の右辺に存在する φ̇ は変数 φ の導変数であると解釈される。なぜなら φ̇ という記述は見
えない変数の(存在しない)導変数と同じように存在しているからである。これまでは導変
数は ђ-Poisson 結合体であるとされてきたが、ここではそれが見慣れた形で復活する。ある
.....
「それゆえ、
《規則に従う》ということは一つの実践である。そして、規則に従っていると信じていること
は、規則に従っていることではない。だから、ひとは規則に《私的に》従うことはできない。さもなければ、規
則に従っていると信じていることが、規則に従っていることと同じになってしまうだろうから。」p163
44
82
記号はその記号に固有の導変数が存在することによって変数となる。したがって上記の式は
変数の条件式である。私はそのように解釈された変数計算を「記号の微分法」と呼ぶ。
記号の微分法によって微分された記号、すなわち導変数は従来と同じように見えるが、し
かし同じではない。φ̇ という記述は基本的要素である。すなわちもはや要素に分解すること
の不可能な要素である。したがって導変数は――かつての差分 Δφ が記号 Δ と記号 φ の結合
体でないように――微分記号と記号 φ の結合体ではないということである。それは、両者が
(結合ではなく)融合することによって生まれたひとつの記号である。記号と記号が結合す
るには符号によって媒介されねばならない。積 αβ は α × β という符号による結合において符
号の記述が省略された結果にすぎない。符号と記号は直接結合するが、記号と記号が符号を
媒介せずに直接に結合することは式の中では起こりえない。
これまで微分の対象となってきたのは関数または函数である。それらは一般に構成された
対象である。ここではそうでない対象、基本的要素である記号が微分の対象となる。記号の
微分法は次の暗号文で示される。
d ; φ → φ̇
記号の微分法が可能となるのは、最初になされた変数計算の結果(理解不可能な記号)を理
解した結果である。数、すなわち見えない記号もまた微分の対象である。見えない記号は
Poisson 括弧によってその居場所を与えられる。さらに計算式 [ , ђ ] = ̇ における Poisson
括弧によって見えない記号はそこに幽閉される。すなわちそこ以外の場所に存在することが
不可能となる。そうなることによって見えない記号は見えない変数となる。だが見えない変
数は特殊な変数である。その変数には導変数は存在しない。しかしそれが存在しないことに
よって、それ以外の変数に導変数が存在することになる。この(正しいとも間違っていると
もいえない)理解から記号の微分法が生まれた。そこで問題となるのは、微分記号の存在を
前提とする記号の微分法なるものが有益であるか否かである。
計算の対象 [ φ , ђ ] の計算結果は、すなわち φ の導変数は φ̇ と記述しなければならない。
しかしそのような強制が働くということは φ̇ が記号であるという事実に反するのではない
か。そのとき人は言うであろう、――(導変数は)別にそのように記述しなければならない
わけではない、ただそのように記述することが習慣であるから、そのように記述しているに
すぎない、と。だが私は言いたい、――人は解釈することの不可能な規則に出会うとき、そ
の規則を「習慣」と呼ぶのではないか?45
45 「
『しかし、わたくしがこの情勢でどうしたらいいのか、規則はどのようにしてわたくしに教えることがで
きるのか。わたくしが何をしようと、それは何らかの解釈を通じて規則に合致している。』――いや、そう言う
べきではない。むしろ、それぞれの解釈は、解釈されることと共々に、空中にひっかかっていて、後者を支える
のに役立ちえない、ということなのだ。解釈だけでは意味が決まらないのである。
『そうすると、わたくしが何をしようと、それは規則に合致しているのか。』――わたくしは尋ねたい、規則
の表現――たとえば道しるべ――はわたくしの行動とどういう関わりがあるのか、どのような種類の結合がそこ
で成り立っているのか、と。――おそらく、わたくしはこの記号に一定のしかたで反応するよう訓練されている
から、こんどもそのように反応する、ということであろう。
しかし、それでは、あなたは単に因果的連関を述べたにすぎず、われわれがいま道しるべに従っているような
ことがどのように生じてきたのかを説明しただけであって、記号に従うというこのことがそもそも何によって成
り立っているのかを説明していない。いや、そうではない。わたくしがまたさらに暗示したいのは、ひとはある
恒常的な慣用、ある習慣のあるときに限って道しるべに従う、ということなのである。」p160
83
35.
単純化された変数の条件
記号の微分法によって記号を変数にすることに成功したかのように見える。しかしそこに
は「落とし穴」が用意されている。記号の微分法の意義は微分された記号、すなわち導変数
が変数である点にある。これまで導変数は変数ではないとされてきた。したがって導変数の
導変数は考えられなかった。しかし導変数が変数ならば、その変数には導変数が存在するは
ずである。導変数 φ̇ の導変数、それは Poisson 括弧
[[φ, ђ], ђ]
から得られるはずである。そして Jacobi の式はその答を用意している。Jacobi の式は Poisson
括弧を微分すれば、どのような結果が得られるかを明らかにするからである。すなわち Jacobi
の式は Hamilton 記号を用いて、次のように書くことができる。
[[α, β], ђ]=[[α, ђ], β]+[α, [β, ђ]]
だがこの式によれば問題となっている計算の対象から導き出されるのは、その計算の対象自
身であることがわかる。つまり変数計算の規則に従って記述される記号 φ̇ の導変数は、その
記号の ђ-Poisson 結合体 [ φ̇ , ђ ] である。したがってまた φ の導変数を規則に従って記述す
るならば、それは [ φ , ђ ] と記述すべきであるということになる。 φ̇ と記述される記号は私
の思考の産物にすぎない。こうして微分記号が数の(存在しない)導変数を表しているとい
う理解が無益であることが明らかとなった。
「計算」式 [ , ђ ] = ̇ を記述するのは、すなわち、そのような「計算」を行うのは私だ
けであり、それは私だけが従う「規則」であった 46。微分記号の存在を前提とする記号の微
分法は否定された。しかし記号の微分法には微分記号を前提としない別の方法がある。記号
は依然として微分する対象である、――ただ微分された記号が存在しないだけである。式
....
[ , ђ ] = ̇ は計算式としては誤りである、――この主張は Poisson 括弧によって数そのも
.
のを捕獲するという「実験」が成功していないことを意味する。数がそこに存在するか否か
は依然として不確実である。そしてまた、数がそこに存在するならば、その式が等式として
成立することは可能である。ただし可能ではあるとしても、もはやその式は無意義である。
微分記号はある記号 𝗛 と等式
𝗛= ̇
を成立させる、――とりあえずそう考える。そのとき微分記号は無意義な存在となる。もし
その等式が成立するとしても、その式には微分記号を無意義な存在にするという以外の意義
..
はない。しかしその記述にはそれ以外の意義がある。ここで初めて登場する記号 𝗛 は、しか
し、すでにその存在が予定されていた。私はⅦ-30 において次のように述べた、「そのとき
ε = 0 を認めないとすれば、 [ [ , ђ ] , ђ ] = 0 の成立を認めなければならない。そのとき記号
Δ の定義が [ , ђ ] であることが暴露される」さらに続けて「それ( Δ = Δ[ , ђ ] )は定義
式ではなくなる。その記号には数学的定義は存在しない。そして [ , ђ ] で定義されるべき
46
「たった一度だけ、たった一人の人間がある規則に従っていた、などということはありえない。」p161
84
記号は別に存在する」。以上の文章は次のように訂正される、―― ε = 0 を認めるとすれば、
[ [ , ђ ] , ђ ] = 0 の成立を認める必要はない。そのとき記号 𝗛 の定義が [ , ђ ] であることは
隠蔽される。その記号には数学的定義は存在しない。[ , ђ ] で定義されるべき記号 𝗛 が実際
にそれを数学的定義とすることはない。
私は数を変数にしようとして、代数 ε に代わる記号として Δ を導入することを試みた。す
なわち微分に代わる存在として差分という概念を導入しようと試みた。しかし差分 Δ は自然
に発生することなどありえない。それは変分と同様、架空の記号である。自然に発生する記
号は別に存在していた。式 [ Δ , ђ ] = 0 の代わりに式
[𝗛, ђ]=0
を記述すべきであった。代数 ε が数値 0 によって定義されたとき、その記号に代わる記号は
Δ ではなく 𝗛 である。ε は代数であり、 𝗛 はそうではないという相違はあるが、しかしまた
両者には共通点もある。両者は共に変数になることの不可能な記号である。
しかし差分という架空の存在を想定したことは無意義ではなかった、――かつて変分とい
う架空の存在を想定することがそうであったように。記号 𝗛 が有する意義は 𝗛 = ̇ という
(式ではなく)記述に出会うことによって、はじめて理解されるのであるから。
差分を架空の存在と認めた以上、これまで差分について提起された仮説はすべて撤回され
る。その代わりに新たな仮説、記号 𝗛 についての仮説を提起する。その記号は――かつて記
号 ε が定義式 ε = 0 を否定したように――定義式
𝗛=[ , ђ]
を否定する、――そこに数は存在しない、Poisson 括弧 [ , ђ ] の中の空白に見える場所は事
実として空白であると主張することによって、その「定義」が数学的対象であることを否定
し、そうすることによってその定義式を否定する。記号 𝗛 は数を Poisson 括弧 [ , ђ ] から
解放する。これが新たな仮説である。したがってその記号は等式 𝗛 = ̇ をも否定する。ただ
し記号 𝗛 はその等式が成立しないと主張するのではない。その記述が式ではないと主張する
のである。
Hamilton 記号を含む Jacobi の式
[[α, β], ђ]=[[α, ђ], β]+[α, [β, ђ]]
はひとつの啓示を与えてくれる。Poisson 括弧 [ α , β ] の微分の結果を積 αβ の微分の結果
d ; αβ → α̇ β + αβ̇
と比較するとき、Poisson 括弧による二つの変数の結合はやはり何らかの意味で積なのだと
考えたくなる。そこで
[ φ , ђ ] = φχ
となるような対象 χ が存在すると仮定する。もちろんその対象は ђ ではない。この仮定に従
えば、次の二つの式が成り立つことになる。
[ [ φ , ђ ] , ђ ] = [ φχ , ђ ]
[ [ φ , ђ ] , ђ ] = [ φ , ђ ]χ
ひとつ目の式は次のように分解される。
85
[ φχ , ђ ] = φ[ χ , ђ ] + [ φ , ђ ]χ
したがって二つ目の式が成立するのは、対象 χ が式 [ χ , ђ ] = 0 を成立させるときである。
そのような対象として記号 𝗛 が存在する。したがって記号 𝗛 を用いれば、等式
φ𝗛 = [ φ , ђ ]
が成立する。この等式が ђ-Poisson 結合体 [ φ , ђ ] を導変数とする新たな変数の条件式である。
差分を用いて記述された変数の条件式の左辺に存在したのは差分 Δ の逆元と φ の差分 Δφ
の積であった。新たな変数の条件式ではそれが変数 φ と記号 𝗛 の積になっている。それは変
数の条件式の最も単純化された形態である。
その変数の条件式を Hamilton 記号に適用すれば、[ ђ , ђ ] = 0 である。しかしそれを特殊
な定数の条件式、すなわち定数の条件式と認めることはできない。Hamilton 記号が定数にな
るとすれば式
ђ𝗛 = 0
が成立することになる。ところが二つの記号は交換可能であるから、Hamilton 記号が定数に
..
なるとき、その定数、すなわち定義の存在しない記号が数値 0 で定義されることになる。位
相空間ではその定義式は等式と解釈され、単純な Hamilton-Yacobi の式としての意義が有っ
た。しかし今や位相空間は崩壊している。数値 0 で定義された記号 ђ はもはや Hamilton 記
号ではない。
Hamilton 記号と同じく、単純化された変数の条件式が成立しない記号がもうひとつ存在す
る。それは数である。数の導変数 [ , ђ ] は記号 𝗛 によってその存在が否定されている。数
を独立変数にすることが(解放された)記号を変数にするための方法であるとの仮説の下で
「実験」を行ってきたが、今やその仮説を放棄するときがきた。独立変数は(t と記述され)
科学的空間に属すべき変数であり、何らかの方法で解放された記号が変数となるにしても、
それらの変数は科学的空間に属することはない。したがってそれらの変数に対して独立変数
が(見えない変数として)存在すると考えることが誤りであった。それらの変数に対して存
在する唯一の変数は独立変数ではなく、変数となった Hamilton 記号 ђ、すなわち Hamilton
定数である。
36.
変数の科学的条件式と非科学的条件式
記号 𝗛 によって Poisson 括弧 [ , ђ ] から解放された数はどこにでも存在することが可能
である。そのとき等式
𝗛= ̇
が成立することは不可能である。どこにでも存在することの可能な数が存在する場所はすで
に記号 𝗛 によって決定されている。数は上記の(式ではない)記述のそこに、記号 𝗛 の左に
存在する。上記の記述の左辺に存在するのは数と記号の積である。そのことを明確にするた
めに上記の記述を
×𝗛= ̇
86
と書き改める。その記述の右辺には何も存在しない。ただその上には不在を指示する記述が
存在する。数が記号 𝗛 と積という形で結合するのは必然である。そしてその積に等しいもの
が存在することは不可能である。ただしその必然性と不可能性は論理的なそれではない。
..
上記の式でない記述は、かつて符号 d と見えない記号の結合を表現した記述
d = ̇
..
を、見えない記号と記号 𝗛 との結合に置き換えたものに他ならない。そしてこの置き換えは
事態を少なからず進展させる。符号と記号の直接的結合は無規定であるが、記号と記号の、
符号「× 」によって媒介された結合は積という形式で規定されている。したがって事態はた
だ最初の出発点に単純に回帰したわけではない。
新たな記述 × 𝗛 = ̇ は定義式 ε = 0 を非数学的に否定する従来の記述 d = ̇ とは別の、
もうひとつの出発点である。そして新たな記述が(やはり非数学的に)否定する定義式は
ℎ = 1 である。従来の記述は
d
= ṫ
dt
という記述に転化した。積が交換律に従わないことを前提とする新たな記述は
×𝗛
= ̇
ℎ
という記述に転化する。左辺の分数の分子には符号 d と数の直接的結合体に代わって、数と
記号 𝗛 の積が存在する。そしてその分母には記号 dt に代わって記号 ℎ が存在する。記号 dt
が分母に存在する意義は dt = 0 を否定することにあった。これに対して記号 ℎ が分母に存在
する意義はまず ℎ = 1 を否定することにある。その記号については ℎ = 0 でないことは、す
........
でに現実の世界で実証されている。その記号が分母に存在する意義はもうひとつある。積が
交換律に従わないという前提で分母に存在しうる記号は、任意の対象と交換可能な記号、す
なわち代数である。記号 ℎ は自分が代数であることをアピールするために分母に存在してい
る。
分母に記述された記号 dt は記号 t の存在を予言した。その予言は(右辺の上に存在する)
....
不在を指示する記述の下に t と記述することによって、そこには記号 t は存在しないという
形で示された。しかし記号 ℎ はいかなる予言もしない。したがって書き改められた記述にお
いて不在を指示する記述の下には何も記述されない。そしてそこに何も記述されていないと
..
いうことは数の実在を予言している。すなわち(上記の記述の中に存在するとされる)数が
.........
実はそこには存在しないことを予言している。
従来の記述は符号 d と数の結合体を記号 dt に置き換えることによって式に転化した。そし
てその置き換えは符号 d の消滅を意味した。新たな記述は見えない記号を見える記号で(例
えば φ で)置き換えることから始まる。そのとき消滅するのは見えない記号である、――た
...
だしそう言えるのは見えない記号が、そこに存在していたと仮定したときの話であるが。そ
して数が消滅したとしても(あるいは、はじめからそこには数が存在しなかったとしても)
数は実在する。
読者は後に数の幻影を見ることになる。ただし数がどのように見えるかを予言することは
87
できない。数はその逆元が記述されたとき、その幻の姿を現す。その場合、数がどのように
記述されるかは、数の逆元がどのように記述されるかによって決定される。
左辺の分子の見えない記号が存在すると考えられる場所に、例えば φ と記述することによ
........
って、見えない記号がそこに存在しないことは確実となる。そのとき不在を指示する記述は
微分符号に転化し、記号 φ と結合する。その結果、式
φ×𝗛
= φ̇
ℎ
が成立する。その式においては符号「×」は省略することができる。また左辺をそのように、
つまり分数という形式で記述する必要はない。独立変数の微分を分母とし、ある変数の微分
を分子とする分数、すなわち微分商の場合、それはある関数を理論的に抽象化した存在とし
ての意義があった。しかし代数 ℎ を分母とする分数には、そのような――そしてどのような
――意義もない。したがって分数という形式にこだわる必要はない。記述されているのは式
であるから、記号 ℎ を右辺に持ってくることが可能であり、またそうすべきである。その式
φ𝗛 = ℎφ̇
は変数の条件式である。すなわち結合体 φ̇ は導変数である。ただしその式には「非科学的」
という形容詞が付く。
これに対して変数の科学的条件式は
φ𝗛 − 𝗛φ = ℎ[ φ , 𝗛 ]
と記述される。Ⅷ-32 で指摘した「欠落している重要な記号」とは代数 ℎ である。ただし
[ φ , 𝗛 ] が導変数であるという主張は科学的ではない。そもそも「導変数」という語は私が
勝手に創り出したものであり、科学的用語ではない。したがって上記の式が変数の条件式で
あるという主張も科学的には無意義である47。
交換式において代数 ℎ は絶対に無視できない存在である。なぜなら、そもそも交換式とは
その代数に数学的基礎を与えるために用意されたものであるからである。例えば物理学にお
いても重要な役割を演じる円周率 π を定義する数値は、数学の理論によって決定されるので
あり、はじめから数学によってその基礎が与えられている。円周率は様々な円の円周と直径
を測定した結果、得られたものではない。しかし物理学(量子論)において重要な役割を演
じる代数 ℎ を定義する数値(その数値は「プランク定数」と呼ばれる)はまさに測定から得
られたのであり、数学という土壌から発生したものではない 48。したがってまたその数値が
特定された結果、必要となった代数 ℎ は本来、数学にとっては必要のない存在である。実際
Ⅶにおける議論ではそれは無視しうる存在だったのである。だから代数 ℎ を無視して( ℎ = 1
47
しかし哲学的には有意義である。ただし「導変数」という語は、導変数は存在しないと言明するために必
要とされるだけである。哲学的には記号を微分して得られるのは存在ではなく、関係である。
48「実験の示している所では、
(中略)すべての物質粒子は波の性質を持っていて、適当な条件の下でこれを
目につくようにすることができる。これこそは古典力学がだめになるきわめて著しいしかも一般性をもった例で
ある――だめになるとは単にその運動の法則が不正確だというのではなくて、原子についての現象を書き表わす
のに古典力学の概念を用いるのが適当でないということなのである。」
ディラック『量子力学 原書第 4 版』(岩波書店)p3
「粒子の波長に関係する効果(中略)が発見されたときになって初めて(中略)h に物理的な現実性が与えら
れるようになったのである。ここで、h はいうまでもなく、有名な Planck の定数である。」
『新版 古典力学(下)』p706
88
と定義して)交換式を記述したのである。そしてそれは仕方のないことであった。それが無
視できない存在であると、すなわち 1 とは違った数値で定義されるべき記号であると信じる
に足る理論的根拠はないのであるから49。
交換式は代数 ℎ を必要としない。しかし代数 ℎ は交換式を必要とする。
49
「Hamilton がもう少し先に進んでいたならば、彼が Schrödinger 方程式を発見したであろうといわれてい
るが、しかしそうではない。彼にとっては、この飛躍をするに足るだけの実験的な根拠がなかったのである。
(中
略)言い換えれば、Hamilton にとっては h の値が少しでも零と違っていてよいと信ずべき何の理由もなかったの
である。」『新版 古典力学(下)』p706
89
Ⅸ. 量子論における二つの基本的な式
37.
函数の条件式
位相空間の正統な後継者である科学的空間では解放された記号 η の存在は無視され、変数
ξ および独立変数 t のみが函数を構成する要素となる。ある物理学者は言う、「量子力学では
正準な座標と運動量との存在しない体系もある」と。また彼は次のようにも言う、
「量子力学
での P.B.〔Poisson 括弧のこと――引用者注〕は純粋に代数的な概念」である、と50。この「純
......
粋に代数的な概念」としての Poisson 括弧について交換式が成立する。そして科学的空間で
.
は ℎ は特定の数値を数学的定義とする代数である。
科学的空間には従来の Hamilton 記号 ђ の存在も無視される。その代わりに記号 𝗛 が存在
する。その記号が表わす対象は消滅した、したがって存在しない Hamiltonian である。これ
からは記号 𝗛 を Hamilton 記号と呼ぶことにする。Hamilton 記号は定義不可能な記号である
が、しかし定数ではない。定数とは定義不可能な記号であるという規定は科学的ではない。
否、そもそも記号 𝗛 が定義不可能であるという主張が科学的ではない。
科学的空間では記号は函数で定義されることによって変数となる。とすると記号が変数に
なるということについて特別な意味はないように思われる。しかし変数になることには特別
な意味が有る、――とすれば特別な意味を与えられるのは変数ではなく、記号を定義する函
数である。その場合の函数は従来の函数とは異なる。函数は、本来は複数存在する変数 ξ と
ひとつの独立変数 t によって構成される。この独立変数が函数に特別な意味を与える。
独立変数 t をその構成要素のひとつとする函数 Ψ(ξ , t) で記号 ψ を定義するとき、変数 ψ
について次のような命題が成立する。
B【独立変数を含む函数についての命題】
ψ = Ψ(ξ , t) ならば
ψ̇ = [ ψ , 𝗛 ] +
𝜕Ψ
∂t
この命題の結論となっている式は記号 ψ̇ の定義式である。その記号が導変数と呼ばれること
はない。その代わりに言語的定義が与えられる。その言語的定義とは「ψ を定義する函数の
導函数」である。
命題 B を(函数ではなく)関数で定義された記号 ω に適用すると、その結論は
ω̇ = [ ω , 𝗛 ] + ω̇
50
「量子力学での P.B.〔Poisson 括弧のこと―引用者注〕は純粋に代数的な概念であり、従って、ある一組の
正準な座標と運動量とに関連させねば定義できない古典論の P.B.よりもこの方がむしろもっと基本的な概念であ
る。この理由から正準な座標と運動量とは量子力学では古典力学の場合ほどの重要さをもっていない。事実、量
子力学では正準な座標と運動量との存在しない体系もあるが、しかしその場合でも P.B.に意味を与えることがで
きるのである。」ディラック『量子力学 原書第 4 版』(岩波書店)p118
90
となる、すなわち [ ω , 𝗛 ] = 0 となる。関数で定義された変数は Hamilton 記号と交換可能で
ある。これは Hamilton 記号との関係においては関数で定義された変数と定数とが区別されな
いことを意味する。
変数 ψ と Hamilton 記号は交換式
ψ𝗛 − 𝗛ψ = ℎ[ ψ , 𝗛 ]
を成立させる。まずこの式を
ψ𝗛 = ℎ[ ψ , 𝗛 ] + 𝗛Ψ(ξ , t)
と書き換える。次に命題 B の結論となっている式の両辺に ℎ を掛ければ
ℎψ̇ = ℎ[ ψ , 𝗛 ] + ℎ
𝜕Ψ
∂t
となる。そのとき微分符号と記号の(非科学的)結合体である導変数 ψ̇ について変数の(非
科学的)条件式
ψ𝗛 = ℎψ̇
が成立する。しかし成立するその式に科学的価値はない。 ψ̇ という記述が微分符号と記号の
結合体であるか、それともひとつの記号であるかということは科学的にはどうでもいいこと
.........
である。価値があるのはその式によって成立する式、変数を定義する函数についての式
ℎ
𝜕Ψ
= 𝗛Ψ(ξ , t)
∂t
である51。私はこの式を函数の条件式と呼ぶ。函数の条件式を成立させる函数で定義された
記号が変数になる、ということは、それが変数の条件式と同じ役割を果たしていることを意
味する。函数の条件式の理論的意義については数学的観点からではなく、物理学的観点から
語られるべきである。したがって私はその理論的意義については何も語らない 52。
..
..
函数で定義された変数について式 ψ𝗛 = ℎψ̇ が成立することに科学的価値はないが、関数で
定義された変数 ω について式
ωǶ = ℎω̇
が成立することには科学的意義がある。ただし Ƕ は代数であり、任意の対象と交換可能であ
る。その代数は実践的には(実験に基づく関係としては)式 Ƕ = ℎν によって代数 ℎ と関係
付けられる。上記の式はこの関係の理論的的表現である。定義不可能な記号 𝗛 と定義可能な
代数 Ƕ について等式 Ƕ = 𝗛 が成立することはないが、しかしそれに類似した式は成立する。
上記の式には ω を定義する関数を特定するという意義がある。その関数はその導関数が
Ƕ
ω
ℎ
という形をしているような関数である。
変数 ψo の定義は独立変数を含まない函数であるとする。すると函数 ψo ω を独立変数で偏
51
その等式はその内容は措くとして、形式だけは量子論でいう Schrödinger 方程式に相当する。
ただ一言だけ付言すると私の議論では、その函数を特に複素函数であると考える理由はないので、函数の
条件式には虚数単位は現れない。
52
91
微分したときの偏微分商は
Ƕ
ψ ω
ℎ o
となり、したがってその函数の条件式は
Ƕψo ω = 𝗛ψo ω
という形で成立する。変数 ω は Hamilton 記号と交換可能である。したがってもしその変数
が変数 ψo と交換可能なら式
Ƕψo = 𝗛ψo
が成立する53。しかし変数 ω と変数 ψo が交換可能であると考える根拠はどこにもない。し
たがって上記の式が成立する論理的根拠はない。しかし科学的根拠はある。
38.
固有値を表示する式
変数 ψo が独立変数を含まない函数で定義されているとき、函数の条件式は変数 ψo を用い
て
0 = 𝗛ψo
と記述される。右辺の 0 は記号であり、それは変数 ψo を定義する函数を独立変数で偏微分
したときの(存在しない)偏微分商を表している。しかし関数を微分することが不可能なら
ば函数を独立変数で偏微分することも不可能であり、上記の等式における記号 0 が表わす対
象は考えられない。したがってその 0 は記号ではなく、数値であると考える。そしてその等
式は変数 ψo が特殊な変数である場合に、すなわちその変数は代数 Ƕ の定義を数値 0 とする
ような変数である場合に成立すると考える。そうすると一般の変数 ψ の場合に成立するのは
等式
Ƕψ = 𝗛ψ
であると考えられる。
任意の変数についてその式が成立すると考えるならば、函数の条件式 Ƕψo ω = 𝗛ψo ω にお
ける変数 ω は何の意義も有していないことになる。したがってその定義、すなわち関数は無
視しうる存在となる。したがってまたその導関数はどのような形をしていてもよい。まず無
..
視しうる存在として扱われるのは――代数 ℎ ではなく――関数である。その結果として代数
ℎ と数値 Ƕ の関係も無視される。すなわち代数 Ƕ は代数 ℎ とは無関係な存在として上記の
式の中に存在している。
式 Ƕψ = 𝗛ψ を前提として特殊な函数の条件式が成立することは可能であるが、しかし無
意義である。その式は函数の条件式とは無関係であると考えるべきである。そうすると変数
ψ の定義が(独立変数を含まない)函数であると考える必要もない。変数 ψ の定義を考えな
い場合、その変数の個性は、その変数に固有の数値(固有値)Ƕ によって(定義されるので
.....
はなく)表示されると解釈することができる。そこで私は上記の等式を固有値を表示する式
と呼ぶ。式 Ƕψ = 𝗛ψ が有意義であるためには、式 Ƕ = 𝗛 が成立してはならない。そしてそ
53
その式は Schrödinger 方程式を「Heisenberg の表示」と呼ばれる形式で記述した式に相当する。
92
の式が成立しないとき、「 𝗛 は Ƕ である」という文が成立する54。
さらに変数の固有値 Ƕ とは Hamilton 記号が表わしている対象、すなわち(存在しない)
Hamiltonian の値であるという解釈も可能である。位相空間における Hamiltonian は函数であ
る。それが消滅するということは特定の函数の形が消滅するということである。Hamiltonian
の形とは、それの質であり、この質が消滅するとき、はじめて Hamiltonian は純粋な量とし
て存在することができると解釈することは不当ではない 55。不当でない解釈は科学的な解釈
である。これに対して非科学的な解釈は固有値を表示する式には、いかなる内容もないとい
うものである。ただその式が、 形式だけがある。そしてその形式は交換式 ψ𝗛 − 𝗛ψ =
ℎ[ ψ , 𝗛 ] を書き換えるのに役に立つ。その式は固有値を表示する式および変数の非科学的条
件式 ψ𝗛 = ℎψ̇ を用いて
ℎψ̇ − Ƕψ = ℎ[ ψ , 𝗛 ]
と書き換えることができる(その式の中に存在する ψ̇ は結合体である)。
さらに代数 Ƕ と量子論に固有の代数 ℎ との関係を破壊する。そのとき記号 ω の定義を無
視して(存在しないと考えて)記号 ω̇ を定義する。すなわち記号 ω を定数であると考えて記
号 ω̇ を
ω̇ = 0
と定義する(定義されている ω̇ はひとつの記号である)。後に見るように、その定義が存在
しない記号 η について、それと同じ式が成立するのである56。その定義によって代数 Ƕ と代
数 ℎ を関係付ける式 ωǶ = ℎω̇ は破壊され、その残骸として定義式 Ƕ = 0 が残される。その
とき ψ̇ について式
ψ̇ = [ ψ , 𝗛 ]
が成立する。そのとき成立する式は記号 ψ̇ の定義式である。すなわちその式はその前提に
ψ𝗛 = ℎψ̇ があることを否定し、その式が(したがってまた微分符号と記号の結合体としての
導変数も)もはや必要でないことを宣言する。そのとき記号 ψ̇ の定義式には別の前提が必要
となる。その前提とは記号 ψ の新たな定義式である。というのも定義が存在しない記号 ω に
ついても、上記の式は成立するが、しかし同時に定義されていない記号については式
[ ω , 𝗛 ] = 0 が成立するのである。したがって上記の式について ψ̇ = 0 でないとするには、
その定義が必要なのである。そして変数を定義するには解放された記号の存在を無視するこ
とはできない。これから無視されるのは位相空間から移行してきた変数 ξ と独立変数、すな
わちかつて変数の定義とされた函数を構成する要素である。そしてそれらの変数は実際に固
有値を表示する式を論じるようになってから、すでに無視されていた。変数の新たな定義は
函数ではない。
非科学的空間においては独立変数は無視されるのではなく、事実として存在しない。それ
は独立変数の存在を不可能にする、独立変数の発生を抑制するような何かが実在しているこ
54
Ⅺ-48 参照
「ハミルトン関数 H は数値的には全エネルギーに等しいわけである。しかしハミルトン関数を問題にする
ときはそれを正準運動量でかき表したときの関数形を問題にしているのであって、物理量としてとりあつかって
いるのではないことに注意しなければならない」『現代物理学を学ぶための古典力学』p194
56 Ⅹ-43 参照
55
93
とを意味する。しかしそのような言明は科学的ではない。独立変数の発生を抑制するという
ことはどういうことか? 誰かが t と記述し、その記述に独立変数という名と「時間」という
言語的定義を与えるだけでいいのではないか?
定義の存在しない記号、(定義から)解放された記号については式
[η, 𝗛]=0
が成立する。その式を成立させることによって解放された記号は変数となる、――ここでは
取りあえず、そう言っておくことにする。その記号は、すでに科学的空間の外部に存在して
いるが、しかしまだ非科学的空間は形成されていない。Hamilton 記号 𝗛 の存在がその形成を
阻害している。
上記の式は特殊な変数の条件式、すなわち定数の条件式である。定義の存在しない記号 η
は定数である。上記の定数の条件式についてはもはや科学的と形容することはできないが、
しかしまだ非科学的と形容することもできない。
記号 ђ についても式 [ ђ , 𝗛 ] = 0 が成立する。そしてその記号は特殊な定数となる。そこで
その定数を他の一般の定数から区別するために、また Hamilton 記号からも区別するために
Hamilton 定数と呼ぶことにする。
39.
記述された数
変数 ψ の定義は科学的空間におけるそれ(函数)とは、まったく異なる。しかしその定義
が非科学的であるわけではない。変数に新たな定義を与えるために新たな記号 𝗧 を導入する。
その記号には逆元 𝗧̃ が存在する。普通、記号 α に逆元 β が存在するならば、β にも逆元が存
在する。それは α である。したがってある記号とその逆元は対等な関係にある。しかし記号
.
𝗧 とその逆元 𝗧̃ はそうではない。まず最初に記述されるのはその逆元である。その逆元が間
...
....
違って 𝗧̃ と記述されたため、その記号もまた間違って( 𝗧 と)記述されたのである。その逆
元が正しく記述されたならば、その記号は記述されない。「その記号」、すなわち逆元を有す
.........
る記号 𝗧 とは間違って記述された数である。それは数の幻影である。私はその記号を数記号
と呼ぶ。数記号とその逆元は交換可能であり
𝗧̃𝗧 = 1
という関係で結び付いている。
数記号 𝗧 も記号 η と同様に定義不可能である。しかし数記号は特殊な記号である。数記号
の特殊性は代数以外で逆元を有する記号は数記号だけであるという規定に由来する。
任意のふたつの記号を Poisson 括弧で結合させると交換式が成立するという前提がある限
り、ある記号 ψ を
ψ = 𝗧̃η𝗧
と定義することは無意義である。なぜかと言うと、その記号を任意の対象 χ と Poisson 括弧
で結合させるとき、その Poisson 括弧は
94
[ ψ , χ ] = 𝗧̃η[ 𝗧 , χ ] + 𝗧̃[ η , χ ]𝗧 + [ 𝗧̃ , χ ]η𝗧
と分解され、さらにそれは交換式によって次のように解体されるのであるが、
ℎ[ ψ , χ ] = 𝗧̃η(𝗧χ − χ𝗧) + 𝗧̃(ηχ − χη)𝗧 + (𝗧̃χ − χ𝗧̃)η𝗧
= 𝗧̃η𝗧χ − 𝗧̃ηχ𝗧 + 𝗧̃ηχ𝗧 − 𝗧̃χη𝗧 + 𝗧̃χη𝗧 − χ𝗧̃η𝗧
そのとき右辺に残るのは 𝗧̃η𝗧χ と χ𝗧̃η𝗧 だけであるからである。それは、すなわち交換式
ℎ[ ψ , χ ] = ψχ − χψ
が成立することを意味する。しかしその結論はすでにその前提に、すなわち任意のふたつの
記号を Poisson 括弧で結合させると交換式が成立するという前提に含まれている。したがっ
て記号 ψ をそのように定義し、それを Poisson 括弧の中に持ち込むとき、それは定義されて
いないのと同然の状態に置かれることになる。ということは定義不可能な Hamilton 定数を同
じように定義する、
ђ = 𝗧̃𝗛𝗧
と定義することは不可能ではないように考えられる。それが Poisson 括弧の中に持ち込まれ
ることは、その記号の宿命であるから。
Hamilton 定数については定数の条件式 [ ђ , 𝗛 ] = 0 が成立する。この式の中にその定数の
定義を持ち込めば式
[ 𝗧̃𝗛𝗧 , 𝗛 ] = 0
が成立し、その式は次のように分解することができる。
[ 𝗧̃ , 𝗛 ]𝗛𝗧 = −𝗧̃𝗛[ 𝗧 , 𝗛 ]
ここでこのひとつの式を二つの式
ℎ[ 𝗧 , 𝗛 ] = 𝗛𝗧
ℎ[ 𝗧̃ , 𝗛 ] = −𝗧̃𝗛
に分割する。この分割は可能であるにすぎず、必然ではない。のみならず分割された式は一
見すると不合理に見える式を導き出す。例えば左側の式が成立すれば、その式と交換式から
式 𝗧𝗛 − 𝗛𝗧 = 𝗛𝗧 が成立し、したがって式 𝗧𝗛 = 2𝗛𝗧 が、したがってまた式 𝗛 = 2𝗧̃𝗛𝗧 が、す
なわち式 𝗛 = 2ђ が式成立することになる。
40.
論理的には無意義な、科学的には有意義な式
ひとつの式の二つの式への分割は可能であるにすぎず、必然ではないと述べた。別の言い
...
方をすると、その分割は恣意的であり、必要性がないと言える。必要でない式からは必要で
...
ない式が導き出される。
ここでは量子論の教科書に倣って物理学的な方法で科学的に有意義な式を導き出そう。そ
のためには若干の回り道をしなければならない。それはまず定義式 ψ = 𝗧̃η𝗧 を等式に書き換
えることから始まる。書き換えられた等式
𝗧ψ = η𝗧
の両辺に存在する対象を、Poisson 括弧を用いて Hamilton 記号と結合させる。そうすること
によって成立する等式
[ 𝗧ψ , 𝗛 ] = [ η𝗧 , 𝗛 ]
95
は記号 ψ̇ の定義式 ψ̇ = [ ψ , 𝗛 ] 、および定数の条件式 [ η , 𝗛 ] = 0 によって
𝗧ψ̇ + [ 𝗧 , 𝗛 ]ψ = η[ 𝗧 , 𝗛 ]
と書き換えることができる。さらにその式は
ℎψ̇ = 𝗧̃ηℎ[ 𝗧 , 𝗛 ] − 𝗧̃ℎ[ 𝗧 , 𝗛 ]ψ
と書き換えられる。
変数 ψ の定義式を等式に書き換えた意図は分割された式の一方の式だけを用いて、すなわ
ち ℎ[ 𝗧 , 𝗛 ] = 𝗛𝗧という式だけを利用して、さらなる書き換えを実行することにある。上記の
式は
ℎψ̇ = 𝗧̃η𝗛𝗧 − 𝗧̃𝗛𝗧ψ
と書き換えられる。そして η と 𝗛 の間に 𝗧𝗧̃ を挿入する。すなわちその式をさらに
ℎψ̇ = 𝗧̃η𝗧𝗧̃𝗛𝗧 − 𝗧̃𝗛𝗧ψ
と書き換える。そうすれば二つの記号 ψ と ђ の定義を活かすことができる。その式は記号 ψ
と Hamilton 定数を用いて単純に
ℎψ̇ = ψђ − ђψ
と記述することができる57。このようにして Hamilton 定数は Poisson 括弧の外に持ち出され
る。その式は論理的には無意義であるが、しかし科学的には有意義である。それが論理的に
無意義なのは、Hamilton 定数に定義が存在するからである。
この等式は Poisson 括弧を用いれば
ψ̇ = [ ψ , ђ ]
と記述することができる。すなわち量子論に固有の代数 ℎ を用いずに記述することができる。
その代数はその式を導き出す過程では無視できない存在であったが、最終的な結論となる式
においてはその姿を隠す。こうして一見すると量子論的力学と古典的力学の調和が保たれる
ように見える。
ここでなされたことは、命題 B の結論を訂正すると共に、それに対応する前提、記号 ψ を
変数にするための新たな定義を創り出すことである。こうしてひとつの命題が函数の条件式
とは異なる形式で、すなわち物理学的ではない形式で提起される。
A-c【変数についての命題】
ψ = 𝗧̃η𝗧 ならば
ψ̇ = [ ψ , ђ ]
この命題は現時点では無意義な命題である。さらに言えばその命題の結論となっている式
......
は論理的には必要のない式である。それと同じ式がすでに成立しているからである。それと
同じ式とは記号 ψ に対応する記号 ψ̇ の定義式 ψ̇ = [ ψ , 𝗛 ] である。その定義式において記号
ψ と 𝗛 はまだ定義されていなかった。ψ の定義式を前提として成立する命題 A-c の結論の式
においては記号 ψ と ђ にはそれぞれ同じような定義が与えられている、すなわち定義されて
いのと同然の定義が与えられている。
命題 B では記号 ψ は函数で定義されていた。だから記号 ψ̇ には「ψ を定義する函数の導函
57
その式は Heisenberg 方程式に相当する。
96
数」という言語的定義を与えることができた。しかし命題 A-c における ψ の定義はもはや微
分の対象ではない。したがって記号 ψ̇ には言語的定義は存在しない。ただ論理的に必要のな
い数学的定義が存在するだけである。
論理的に無意義な式が科学的に有意義であるのは、物理学がその式を導き出す過程でその
時々に応じて科学的内容を注ぎ込むからである。例えば物理学(量子論)の教科書では式
ℎ[ 𝗧 , 𝗛 ] = 𝗛𝗧 は
ℎ
d𝗧
= 𝗛𝗧
dt
と記述されている。私から言わせれば、その式は論理的ではない。交換律が成立しないとい
う前提の下で記号 dt が分母に位置するためには、それは代数でなければならないが、しかし
dt は代数ではない。その式は論理的でないが、しかし物理学的内容がある。
数記号が関数で義されていると考えるとき、函数 𝗧ψo ( ψo は独立変数を含まない函数を
表す)について成立する函数の条件式は(微分商が有効であると考えるならば)
ℎ
d𝗧
ψ = 𝗛𝗧ψo
dt o
である。そこで関数を無視する代わりに、独立変数を含まない函数を無視するならば、先の
式が得られる(論理的に導き出されるわけではない)。
命題 A-c の結論の式が記号 ψ̇ の定義式 ψ̇ = [ ψ , 𝗛 ] と同じ式であることを明らかにしよう。
そのためには [ ψ , 𝗛 ] に直接 ψ の定義を代入すればいい。そうすれば単純な計算によって機
械的に [ ψ , ђ ] が出てくるのである。その手順は以下の通りである。まず [ η , 𝗛 ] = 0 である
から、[ 𝗧̃η𝗧 , 𝗛 ] は二つの Poisson 括弧に分解される。すなわち
[ ψ , 𝗛 ] = [ 𝗧̃η𝗧 , 𝗛 ]
= 𝗧̃η[ 𝗧 , 𝗛 ] + [ 𝗧̃ , 𝗛 ]η𝗧
ここで分割された二つの式 ℎ[ 𝗧 , 𝗛 ] = 𝗛𝗧 および式 ℎ[ 𝗧̃ , 𝗛 ] = −𝗧̃𝗛 を利用すれば
ℎ[ ψ , 𝗛 ] = 𝗧̃η𝗛𝗧 − 𝗧̃𝗛η𝗧 = 𝗧̃η𝗧𝗧̃𝗛𝗧 − 𝗧̃𝗛𝗧𝗧̃η𝗧
= ψђ − ђψ = ℎ[ ψ , ђ ]
このようにして式 [ ψ , 𝗛 ] = [ ψ , ђ ] が導き出される。しかし、そうするとその式は Hamilton
記号と Hamilton 定数を関係付ける式 2ђ = 𝗛 と対立し、二つの式は両立しないように思える。
しかし実はその式は両立するのである。命題 A-c の結論の式の前提となっているのは定義式
ψ̇ = [ ψ , 𝗛 ] だけではない。もうひとつ定数の条件式 [ η , 𝗛 ] = 0 が前提となっている。ここ
では、定数の条件式の内容が命題 A-c の結論の式 ψ̇ = [ ψ , ђ ] に保存されていることを明らか
にしよう。そのためには [ ψ , ђ ] の中に存在する ψ と ђ 両方にそれぞれの定義を代入すれば
いい。まず Hamilton 定数にその定義を代入し、計算すれば
[ ψ , ђ ] = [ ψ , 𝗧̃𝗛𝗧 ] = 𝗧̃𝗛[ ψ , 𝗧 ] + 𝗧̃[ ψ , 𝗛 ]𝗧 + [ ψ , 𝗧̃ ]𝗛𝗧
となる。次にその式の中にある [ ψ , 𝗧 ] と [ ψ , 𝗧̃ ] の中の ψ にその定義を代入する。
[ ψ , 𝗧 ] = [ 𝗧̃η𝗧 , 𝗧 ] = 𝗧̃ [ η , 𝗧 ]𝗧 + [ 𝗧̃ , 𝗧 ]η𝗧
97
[ ψ , 𝗧̃ ] = [ 𝗧̃η𝗧 , 𝗧̃ ] = 𝗧̃ [ η , 𝗧̃ ]𝗧 + 𝗧̃η[ 𝗧 , 𝗧̃ ]
......
ここで数記号 𝗧 とその逆元は交換可能であるから、通常の交換式に従えば
[ 𝗧̃ , 𝗧 ] = [ 𝗧 , 𝗧̃ ] = 0
となるはずである。そうであれば上記二式は
[ ψ , 𝗧 ] = 𝗧̃ [ η , 𝗧 ]𝗧
[ ψ , 𝗧̃ ] = 𝗧̃ [ η , 𝗧̃ ]𝗧
となる。したがって [ ψ , ђ ] は以下のようになる。
[ ψ , ђ ] = 𝗧̃𝗛𝗧̃ [ η , 𝗧 ]𝗧 + 𝗧̃[ ψ , 𝗛 ]𝗧 + 𝗧̃ [ η , 𝗧̃ ]𝗧𝗛𝗧
この式を、交換式を用いて解体すれば
ℎ[ ψ , ђ ] = 𝗧̃𝗛𝗧̃ (η𝗧 − 𝗧η)𝗧 + 𝗧̃ (η𝗧̃ − 𝗧̃η)𝗧𝗛𝗧 + 𝗧̃ψ𝗛𝗧 − 𝗧̃𝗛ψ𝗧
= 𝗧̃𝗛𝗧̃ η𝗧𝗧 − 𝗧̃𝗛𝗧̃𝗧η𝗧 + 𝗧̃ η𝗧̃𝗧𝗛𝗧 − 𝗧̃𝗧̃η𝗧𝗛𝗧 + 𝗧̃ψ𝗛𝗧 − 𝗧̃𝗛ψ𝗧
= 𝗧̃𝗛ψ𝗧 − 𝗧̃(𝗛η − η𝗛)𝗧 − 𝗧̃ψ𝗛𝗧 + 𝗧̃ψ𝗛𝗧 − 𝗧̃𝗛ψ𝗧
となる。そしてその右辺の対象において ψ を含む項はすべて互いに相殺するから、等式
[ ψ , ђ ] = 𝗧̃[ η , 𝗛 ]𝗧
が成立する。そして定数の条件式 [ η , 𝗛 ] = 0 によって定数でない変数 ψ についても定数の
条件式
[ψ, ђ]=0
が導き出されることになる。これは定数でないとされる変数 ψ に定義されていないのと同然
の定義が与えられている、すなわちその変数が定数であるのと同然の状態に置かれているこ
との帰結である。こうして式 [ ψ , 𝗛 ] = [ ψ , ђ ] と式 2ђ = 𝗛 は両立するのである。したがっ
てそこに矛盾は無いが、意義もない。任意の記号について交換式が成立するという前提があ
る限り、命題 A-c は無意義である。別の言い方をするならば、その命題に意義を与えるには
交換式を成立させない例外的な記号が存在しなければならない。
98
Ⅹ. 非論理的必然性と実在する矛盾
41.
交換式が成立しない記号
交換式が成立しない一組の記号が存在する。それは数記号とその逆元である。数記号は逆
元を有するという意味で特殊な記号であり、そのような特殊な記号には一般の記号に適用さ
れる規則、すなわち記号については交換式が成立するという規則は適用されないという特例
を設けるべきである。数記号とその逆元によって構成される Poisson 括弧について成立する
のは交換式ではなく、次のような等式
[ 𝗧 , 𝗧̃ ] = 𝜊
である。ただし ο は 0 と 1 以外の数値で定義可能な代数である。この等式を前提とするとき
ψ にその定義を代入して得られる式は次のように修正される。
[ ψ , 𝗧 ] = 𝗧̃ [ η , 𝗧 ]𝗧 − 𝜊η𝗧
[ ψ , 𝗧̃ ] = 𝗧̃ [ η , 𝗧̃ ]𝗧 + 𝜊𝗧̃η
この修正によって先の計算で [ ψ , ђ ] の計算結果に、先の計算では消え去ったすべての項の
他に次の二つの項が残されることになる。
[ ψ , ђ ] = 𝗧̃𝗛𝗧̃(−𝜊η𝗧)𝗧 + 𝗧̃𝜊𝗧̃η𝗧𝗛𝗧
そしてこの式の右辺は以下の通り整理される。
[ ψ , ђ ] = 𝜊𝗧̃(𝗧̃η𝗧𝗛 − 𝗛𝗧̃η𝗧)𝗧
= 𝜊𝗧̃(ψ𝗛 − 𝗛ψ)𝗧
= 𝜊ℎ𝗧̃[ ψ , 𝗛 ]𝗧
ここで 𝜊ℎ = 1 であるとする、すなわち ο は ℎ の逆元であるとする。この関係が跳躍点となり
.....
新たな関係が生まれる。すなわち
[ ψ , ђ ] = 𝗧̃[ ψ , 𝗛 ]𝗧
という式が成立する。この式は 𝜊ℎ = 1 を前提として成立する式である。そのとき ℎ の性質は
変質する。 ℎ はそれを定義する特定の数値の存在しない代数になる。それはまたその代数が
現実的で物理学的な存在から、理論的で数学的存在へと変質することを意味する。と同時に
その代数は姿を隠し、それに代わる代数として代数 ο が表舞台で活躍する。これからは代数
ℎ の代わりに、その逆元 𝜊 を用いて交換式を記述する。すなわち交換式は
[ α , β ] = 𝜊(αβ − βα)
と記述される。
定義されていない定数についても定義された変数と同様に式
[ η , ђ ] = 𝗧̃[ η , 𝗛 ]𝗧
....
が成立すると、根拠なく仮定する(以下、仮定 A という)。そう考えると定数の条件式
[ η , 𝗛 ] = 0 によって
[η, ђ]=0
99
が成立する。これからはこの式を定数の条件式として位置付ける。ただし定数でない変数に
ついて成立する式が定数についても成立するとするならば、定数について成立する式が定数
でない変数についても成立することになる。
𝗧̃[ η , 𝗛 ]𝗧 = 𝜊(𝗧̃η𝗛𝗧 − 𝗧̃𝗛η𝗧)
= 𝜊(𝗧̃η𝗧𝗧̃𝗛𝗧 − 𝗧̃𝗛𝗧𝗧̃η𝗧)
= 𝜊(ψђ − ђψ)
=[ψ, ђ]
こうして、仮定 A は定数でない変数についても、やはり式 [ ψ , ђ ] = 0 が成立するという従
来と同じ結果をもたらす。仮定 A は変数に関する仮定としては機能していない。
式 [ η , ђ ] = 𝗧̃[ η , 𝗛 ]𝗧 から導き出される式
ηђ − ђη = 𝗧̃η𝗧ђ − ђ𝗧̃η𝗧
は次のように書き換えることができる。
(η − 𝗧̃η𝗧)ђ = ђ(η − 𝗧̃η𝗧)
この式は次のことを意味している。すなわち χ = η − 𝗧̃η𝗧 と定義される記号 χ は Hamilton 定
数と交換可能である。これは、さらに次のように言い換えることができる。すなわち定数 η
について等式 𝗧η − η𝗧 = 𝗧χ が成立するならば、同じことであるが等式
[ 𝗧 , η ] = 𝜊𝗧χ
が成立するならば、記号 χ は Hamilton 定数と交換可能である。そこで Hamilton 定数はそれ
自身と交換可能であるから、[ 𝗧 , α ] = 𝜊𝗧ђ という式を成立させるような定数 α が存在するこ
とになる。しかし α は定数であるから、そのような定数が存在するとしても、それを定義す
ることは不可能であり、そのような定数が存在するという主張は無意義であるように思える。
しかし唯一、定義された定数が存在する。それは Hamilton 定数である。
Hamilton 定数について式 [ 𝗧 , ђ ] = 𝜊𝗧ђ が成立すると仮定(以下、仮定 B という)した場
合、その式に Hamilton 定数の定義 𝗧̃𝗛𝗧 を代入すると
[ 𝗧 , 𝗧̃𝗛𝗧 ] = 𝜊𝗧𝗧̃𝗛𝗧
𝗧̃[ 𝗧 , 𝗛 ]𝗧 + [ 𝗧 , 𝗧̃ ]𝗛𝗧 = 𝜊𝗛𝗧
となる。したがって式
[𝗧, 𝗛]=0
が得られる。この式によって数記号と Hamilton 記号は交換可能となり、Hamilton 定数の定
義式は等式
ђ=𝗛
に転化する。この等式が成立することによって Hamilton 記号は消滅し、新たに Hamilton 定
数が定数の条件式 [ η , ђ ] = 0 を成立させる。こうして仮定 B を導入することによって、仮定
A を前提とせずに、式 [ η , ђ ] = 0 は定数の新たな条件式となる。しかし仮定 B は仮定 A を根
拠として提起されている。そして仮定 A には根拠がない。そこで課題は仮定 B の根拠を見出
すことである。
仮定 B には、すなわち式 [ 𝗧 , ђ ] = 𝜊𝗧ђ が成立するという主張には根拠はないが、逆にその
式が成立しないと考えるべき理由がある。その理由とは、もしその式が成立するならば
100
Hamilton 定数は ђ = ђ − 𝗧̃ђ𝗧 という式を成立させる、つまり Hamilton 定数について等式
ђ = 0 が成立することになり、その定数が無意義な存在となってしまうことにある。確かに
ђ = ђ − 𝗧̃ђ𝗧 は成立するならば、論理的必然性に従い ђ = 0 が成立する。言い換えれはそれが
成立しないならば、そこには矛盾が発生する。
42.
論理的不可能性と観念的矛盾
科学的空間に属すべき Hamilton 記号 𝗛 の消滅は非科学的空間の完成を意味する。非科学
的空間は複数の定数 η とひとつの Hamilton 定数 ђ を基本的変数として形成される。
数記号が Hamilton 記号と交換可能であることによって、Hamilton 定数の定義は存在しな
くなり、その定義式は等式 ђ = 𝗛 に転化した。同じことが変数の定義式 ψ = 𝗧̃η𝗧 について起
.....
きてはならない。したがって数記号については次の条件が必要となる。すなわち定義不可能
...
な記号で数記号と交換可能な記号は数記号それ自身とその逆元の他には存在しない。
ところがこの条件を設定することによって、あるひとつの記号が数記号と交換不可能にな
る。その記号は 0 である。それもまた定義不可能な記号であるからである。この不可能性が
仮定 B の根拠となる。ただし記号 0 が数記号と交換しない場合でも、数記号と記号 0 につい
ては 𝗧 × 0 = 0 は(したがって 𝗧̃ × 0 = 0 も)成立すると仮定する。したがって記号 0 が数記
号と交換しないという場合、式 0 × 𝗧 = 0 が成立しないことになる。
記号とその逆元、そして Hamilton 定数 ђ について Jacobi の式
[ [ 𝗧̃ , 𝗧 ] , ђ ] + [ [ 𝗧 , ђ ] , 𝗧̃ ] + [ [ ђ , 𝗧̃ ] , 𝗧 ] = 0
が成立する。この式の中に存在する二つの Poisson 括弧 [ 𝗧 , ђ ] および [ 𝗧̃ , ђ ] をそれぞれ記
号 α および β で表す。そして [ [ 𝗧̃ , 𝗧 ] , ђ ] = [ 𝜊 , ђ ] = 0 であるから、上記の式は
[ α , 𝗧̃ ] = [ β , 𝗧 ]
と記述される。交換式を用いて両辺を
α𝗧̃ + 𝗧β = 𝗧̃α + β𝗧
と解体し、その両辺の対象にその両側から数記号を掛けることによって、上記の式は次のよ
うな形に整理される。
𝗧(α + 𝗧β𝗧) = (α + 𝗧β𝗧)𝗧
そうすると式
α + 𝗧β𝗧 = 0
が成立するならば、数記号と記号 0 は交換可能である。その式は( 𝗧̃ × 0 = 0 は成立するか
ら) 𝗧̃α + β𝗧 = 0 と書き換えることができる。書き換えられた式の α および β にそれぞれの
定義を代入すれば、式
𝗧̃[ 𝗧 , ђ ] + [ 𝗧̃ , ђ ]𝗧 = 0
が得られる。その式は式 [ 𝗧̃𝗧 , ђ ] = 0 から導き出される式である。したがって記号 0 と数記
号が交換不可能であるということは、最終的には式 [ 𝗧̃𝗧 , ђ ] = 0 が成立しないことを意味す
101
る。しかし 𝗧̃𝗧 = 1 であるから、その式は当然に成立するはずである。そこでその式が成立し
ない理由を考える。まず式
[1, ђ]=0
は成立しないと考える。その式が成立しないと考える理由として Poisson 括弧の中に数値を
持ち込むことはできないという点が挙げられる。すなわち [ 1 , ђ ] なる記述は数学的に無意義
であり、その記述についてはいかなる式も成立しない。では式 [ 𝗧̃𝗧 , ђ ] = 0 が成立しない理
由は何であるか。
Poisson 括弧 [ 𝗧̃𝗧 , ђ ] は [ 1 , ђ ] と異なり数学的対象であり、したがって交換式 [ 𝗧̃𝗧 , ђ ] =
𝜊(𝗧̃𝗧ђ − ђ𝗧̃𝗧) = 𝜊(ђ − ђ) は当然、成立する。その場合、成立しないのは式
ђ−ђ=0
である。そのように考えると ђ = ђ − 𝗧̃ђ𝗧 は成立するが ђ = 0 は成立しないという事態が可
能となる。しかし式 ђ − ђ = 0 が成立しないという事態は論理的には不可能である。その式
.....
は ђ と ђ が等しくないことを表現していると考えられる。そのように(不合理な存在である
.....
と)考えられる ђ は矛盾である。ただしそれは観念的矛盾である。
そのとき記号 ђ を矛盾でないと考えることも可能である。式 [ 𝗧̃𝗧 , ђ ] = 𝜊(ђ − ђ) が成立す
ると考えるのである。そうすれば ђ は矛盾であると考える必要はない。そして矛盾でないと
考えられる式は無意義である。この無意義な式が仮定 B の根拠となる。その式を
𝗧̃[ 𝗧 , ђ ] + [ 𝗧̃ , ђ ]𝗧 = 𝜊(ђ − ђ)
と記述するとき、その式を二つの式に分割する可能性が見えてくる。数記号とその逆元につ
いて一対の式
𝗧̃[ 𝗧 , ђ ] = 𝜊ђ
[ 𝗧̃ , ђ ]𝗧 = −𝜊ђ
が成立することは可能であり、また可能であるにすぎない。その分割に必然性はないが、し
かし必要性はある。そして左側の式に左から 𝗧 を、また右側の式には右から 𝗧̃ をそれぞれ掛
けることによって、一対の式は
[ 𝗧 , ђ ] = 𝜊𝗧ђ
[ 𝗧̃ , ђ ] = −𝜊ђ𝗧̃
となる。仮定 B はひとつの無意義な式を一対の式に分割することから得られる。無意義な式
を論理的に可能であるにすぎない分割を実行することによって得られた一対の式は、やはり
無意義であるはずである。
記号 𝗧 と ђ については当然、交換式が成立する。そのとき式 [ 𝗧 , ђ ] = 𝜊𝗧ђ が成立するとい
うことは式 ђ𝗧 = 0 が成立していることを意味する。同様に 𝗧̃ については𝗧̃ђ = 0 である。する
と ђ𝗧𝗧̃ђ = 0 、すなわち ђђ = 0 でなければならい。そこから論理的に導き出される式は ђ = 0
である。そう考えるなら上記の一対の式は無意義である。しかし式 ђђ = 0 における ђ と ђ
が異なる記号であると考えれば話は別である。その場合、ђ = 0 の前提となるのは「 ђђ = 0 か
つ ђ = 0 でない」である。そして前提において否定される ђ = 0 は記号 ђ と記号 0 を等置す
る等式であり、結論において肯定される ђ = 0 は記号 ђ を数値 0 で定義する定義式である。
そして前提において等式が否定されるのは当然である。一対の式が提起された時点では、ま
だ記号 0 は存在していないからである。結論として定義式 ђ = 0 が成立するのは、その前提
として ђђ = 0 が成立する限りにおいてであり、その前提が成立するのは 𝗧̃ђ = 0 が成立する
102
限りにおいてである。 ђђ = 0 という前提は数記号の逆元 𝗧̃ の消滅によって成立しなくなる。
そのとき記号 0 が発生する。
ひとつの式を分割することから生まれた一対の(二つの)式は同じ内容、ひとつの内容を
共有する。ひとつの式を分割した結果として成立した一対の式が有意義であるとき、それら
の式が再び、あるひとつの式として成立すること必然である。そのとき数値 0 は記号に転化
する。ただしそのひとつの式を論理的に導き出すことは不可能である。そのひとつの式には
矛盾が存在するからである。
記号 φ を φ = 𝗧̃η𝗧 と定義する。定義された記号 φ と ђ で構成される Poisson 括弧は次のよ
うに分解される。
[ φ , ђ ] = [ 𝗧̃η𝗧 , ђ ]
= 𝗧̃η[ 𝗧 , ђ ] + 𝗧̃[ η , ђ ]𝗧 + [ 𝗧̃ , ђ ]η𝗧
一対の式 [ 𝗧 , ђ ] = 𝜊𝗧ђ 、[ 𝗧̃ , ђ ] = −𝜊ђ𝗧̃ を用いて、その式を
[ φ , ђ ] = 𝜊𝗧̃η𝗧ђ − 𝜊ђ𝗧̃η𝗧 + 𝗧̃[ η , ђ ]𝗧
= 𝜊(φђ − ђφ) + 𝗧̃[ η , ђ ]𝗧
と書き換える。すると記号 0 が存在しないときには次の命題が成立することが理解される。
すなわち
[η, ђ]=0
ならば(その式の右辺に存在する 0 は数値である)
[ φ , ђ ] = 𝜊(φђ − ђφ)
である。もし [ η , ђ ] = 0 における 0 が記号ならば上記の命題は成立しない。記号 0 について
は式 𝗧̃0𝗧 = 0 は成立しないからである。
ひとつの無意義な式を一対の式に分割するとき、分割された式は有意義となる。この分割
は論理的には可能である。しかし論理的に可能であるにすぎない分割によって意義を創り出
すことは不可能である。その意味で、なされた分割は不可能である。ただしその不可能性は
論理的不可能性ではない。そして二つの式は分割される前の式、ひとつの式へと必然的に回
帰する。ただしその回帰の必然性は論理的必然性ではない。またその回帰は無意義な式への
単純な復帰ではない。必然的に成立するひとつの式は分割によって生じた意義を保存してい
る。すなわちひとつの式には矛盾が存在する。そして読者はそのひとつの式と同じ姿をした
式をすでに見ている。
43.
定数の哲学的条件式
記号はいかにして変数になるか? ――まずその問が提起される記号は解放された記号、す
なわち定義不可能な記号 η であり、その記号は非科学的空間の中に存在する。非科学的空間
.....
には独立変数が存在しない代わりに観念的矛盾が存在する。その意味で非科学的空間は――
科学的空間が物理学的であったのに対し――哲学的である58。その哲学は数学の基礎をなす。
58
「矛盾を(中略)解決することは、哲学の仕事ではない。しかし、
(中略)矛盾が解決される前の状態を展
103
記号はいかにして変数になるか? ――その問の答は従来と同じく、変数の条件式を成立さ
......
せることによって、である。そしてその答は私の恣意的な思考の産物である。最後に提示さ
れる変数の条件式は「哲学的」と形容される。この節ではまず特殊な変数、すなわち定数の
条件式を考察する。
Hamilton 記号 𝗛 が変数になることの不可能な記号であるのに対して、記号 ђ はそうではな
い。その記号は変数(Hamilton 定数)になることが可能である。Poisson 括弧 [ η , ђ ] はある
..
..
記号を定義する。その記号は習慣に従って η̇ と記述される。その記号の定義式
η̇ = [ η , ђ ]
の中に存在する記号 ђ は現時点ではまだ数記号の逆元が存在するため、数値 0 によって定義
されていることになる。したがって式 [ η , ђ ] = 0 が成立するのは必然である。この数値を上
記の定義式の ђ に代入する。すなわち数値 0 を Poisson 括弧の中に持ち込む。だが Poisson
括弧の中に数値は存在することはできないはずである。ところが数値 0 だけはその例外であ
る。それは記号に転化することの可能な数値であるからである。数値 0 を Poisson 括弧の中
に持ち込むことによって、その数値は記号に転化する。
数値 0 の記号への転化が Poisson 括弧の中で起こることによって、間違って記述された数
...
の逆元 𝗧̃ は消滅する。なぜなら今や正しく記述された数の逆元がそこに存在するからである。
そして記号 η と記号 0 は Poisson 括弧によって結合する。その結合の効果として記号 η と記
....
号 0 の Poisson 結合体は消滅する。そのとき記述されるのが記号 η̇ についての等式
η̇ = 0
である。数値 0 の記号への転化が目に見える形で実現するのは Poisson 括弧の外においてで
ある。その等式の右辺の 0 は記号である。その記号は記号 η と記号 0 の Poisson 結合体を表
している。そしてその結合体は存在しない。それを [ η , 0 ] と記述することは物理的には可
能であるが、その記述はもはや数学的対象ではない。そこでは数の逆元が正しく(0 と)記
述されているにもかかわらず、数が(間違って)記述されている。したがってそれを( [ η , 0 ]
と)記述しない限りにおいて、その(存在しない)結合体は数学的対象である。それは、数
学を行う者は数の逆元の正しい姿を見ることがないことを意味する。数の逆元は記号 0 であ
る、――数学はそのような主張を決して認めない。
記号 η̇ はそのように記述することを強制されるという意味で特殊な記号である。もちろん
その記号は、それを定義する Poisson 括弧の中に存在する記号が η と記述されたならば、と
..
いう前提の下で η̇ と記述することを強制されるのである。それを強制するのは習慣という「力」
である。記号 η̇ はそのような習慣がある(正確に言えば、過去にあった)ことを示すために、
そしてただそのためだけに定義された。だが等式 η̇ = 0 は習慣に従って記述された記号 η̇ を
必要のない記号とする。今やそのような習慣ない、――その等式はそのように主張する。
記号 η と記号 0 の Poisson 結合体の次に消滅するのは、過去の習慣に従って記述された η̇ で
ある。この消滅の過程は次のように説明される。まず記号 η̇ からは微分符号「 ∙ 」が発生す
る、すなわち、その記号が微分符号と記号 η に分離する。分離された記号 η はまだ定数では
望できるようにすることは、哲学の仕事である。」p104
104
ない。その記号には定義が存在する。ただその定義が無視されているのである。したがって
その記号は微分符号と結合することが可能である。そしてその結合が実現したならば、その
結合体の外観は従来の記号 η̇ とまったく同じはずである。だが実際はそうではない。その結
合の効果として、微分符号と記号の結合体は消滅するからである。消滅するのは記号ではな
く、結合体である。しかしそのとき同時に定数でない記号 η と微分符号も消滅する。記号 η
.....
は Poisson 括弧の外で消滅する。そして Poisson 括弧の中では新たな記号 η が変数となって
発生する。そのとき次の式が成立する。
[η, ђ]=0
新たに発生した変数は定義の存在しない変数、すなわち定数であり、成立する式は定数の条
件式である。その式の右辺に存在する記号 0 は旧い記号 η と微分符号の結合体、すなわち定
数でない η の導変数を表している。そしてその導変数は存在しない。だが導変数が存在しな
いのは η だけではない。記号 η は定数として復活するが、微分符号が復活することはない。
したがって微分符号と結合するのは消滅した記号 η が最初で最後である。微分符号は旧い記
号 η を消滅させるために、ただそのためだけに発生した。微分符号が存在しないならば、も
はやいかなる変数にも導変数は存在しない。
定数の条件式の中に存在する記号 ђ もまた――定義式 η̇ = [ η , ђ ] の中に存在する記号 η と
定数の条件式の中に存在する記号 η が異なる記号であるように59――記号 η̇ の定義式の中に
存在する記号 ђ とは異なる記号である。その記号は数の逆元の消滅によって数値 0 による定
義から解放される。その結果、その記号は特殊な定数、Hamilton 定数となる。Hamilton 定数
の特殊性については後述する。
...
定数 η と Hamilton 定数については――数記号とその逆元について交換式が成立しないよ
.........
うに――交換式が成立しない。
不可能性には必然性が対応する。 ђ = 0 ではないとき、式 [ η , ђ ] = 0 が成立することは当
..
然ではない。その式が成立するのは必然である。記述 0 が Poisson 括弧の外部において記号
として記述されたとき、数の逆元は既に存在するが、しかしまだ(数の逆元として)記述さ
れてはない。その式は数の逆元 𝗧̃ が記述されないときに、したがって数が 𝗧 と記述されない
とき成立する必然の式である。そのとき数は新たに η と記述される。
...
数の逆元が記述されないということは、それが正しく記述されていないことを意味する。
その意味で新たな数記号 η はかつての数記号 𝗧 と同様、間違って記述されている。それでも
定数 η は数の性質を 𝗧 よりも正確に反映していると言える点がある。まず第一に数には区別
があることはすでに述べた通りである。そして定数は複数存在する。定数は本来、区別を有
する記号として η1 , η2 , … と記述されるべきである。第二に数はある場所にしか存在しない存
在である可能性を指摘した。数そのものについては、この可能性は否定されたが、記述され
た数、すなわち定数 η についてはその可能性が実証された。定数は Poisson 括弧の中で発生
するだけでなく、その発生した場所にしか存在しない。すなわち Poisson 括弧 [ η , ђ ] の、ま
59 同様に Lagrange の式の前提として定義されている η とその定義から解放されて Hamilton の式の中に存在
する η は異なる記号である、と言うこともできる。
105
さに η が存在する場所にのみ存在しうる。私は数そのものの捕獲には失敗したが、記述され
た数の捕獲には成功したことになる。そして定数と Hamilton 定数について交換式が成立しな
いのは、定数が、すなわち記述された数 η が Poisson 括弧に幽閉されているため、その外部
に存在することが不可能であるためである。ただし定数(間違って記述された数)は数の性
質を反映していない点もある。定数には逆元が存在しないが、数には逆元が存在する。
数の逆元が 0 と記述されるならば、従来の式 [ 𝗧̃ , ђ ] = −𝜊ђ𝗧̃ は [ 0 , ђ ] = 0 と記述されるこ
と、そして数記号が η と記述されるなら式 [ 𝗧 , ђ ] = 𝜊𝗧ђ は [ η , ђ ] = 𝜊ηђ と記述されるこ
と、それは論理的必然である。しかし記号 0 が Poisson 括弧の中に存在すること、そして新
たな数記号 η が Poisson 括弧の外に存在することは不可能である。この不可能性は論理的で
.....
はない。したがって一対の式の代わりにひとつの式(定数は複数、存在するから、正確に言
うならば、ひとつの内容を共有する複数の式と言うべきである)
[η, ђ]=0
が記述されることは必然である。この必然性は論理的必然性ではない。ただしその式の中に
存在するは記号 η が η = 0 と定義されていると考えるならば、その式は矛盾ではない。言い
....
換えればそのように考えないとき、η は矛盾である。さらに言い換えるならば、定数にはい
かなる定義も存在しないと考えるとき、η は観念的矛盾である。したがって定数の条件式を
論理的に導き出すことはできない。定数の条件式は考える前にすでに記述されていたのであ
る。
定数の条件式には代数 ο は現れない。そこで次の節で変数の条件式を論じる際にも、その
代数の存在を無視する。そのためにその代数を 𝜊 = 1 と定義する。そうすれば代数 ο と ℎ の
両方が無視しうる存在となる。
44.
変数の哲学的条件式
この節では、まず変数の条件式を論理的に導き出すことを試みる。その目的は、そうする
ことが不可能であることを明らかにすることである。また一般の変数の条件式は、特殊な変
数である定数の条件式を前提としないで導き出されねばならない。そのために数の逆元が存
在しなくとも、単一の数記号 𝗧 は存在することが可能であると仮定する。したがって η は数
記号ではなく、消滅する以前のたんなる記号である。したがってまたその記号については定
数の条件式は成立せず、また Poisson 括弧の外部に存在することも可能である。数の逆元が
存在しないという環境の下では、変数 φ は φ = 𝗧̃η𝗧 と定義されるのではなく、等式 𝗧φ = η𝗧
を成立させると仮定する。
Hamilton 定数は数記号 𝗧 および(数記号でない)記号 η に対しては交換式を成立させると
仮定する。この仮定は変数 φ については、交換式の成立は、まだ当然ではないことを意味す
る。また記号 𝗧 と Hamilton 定数が交換式を成立させるから、式 [ 𝗧 , ђ ] = 𝗧ђ は ђ𝗧 = 0 を意
味する。
最初の仮定によって次の等式が成立する。
[ 𝗧φ , ђ ] = [ η𝗧 , ђ ]
106
その式は
𝗧[ φ , ђ ] + [ 𝗧 , ђ ]φ = η[ 𝗧 , ђ ] + [ η , ђ ]𝗧
と分解される。その式の中に存在する [ η , ђ ]𝗧 については、記号 η と Hamilton 定数について
交換式が成立するから式
[ η , ђ ]𝗧 = ηђ𝗧 − ђη𝗧
が成立する。そして ђ𝗧 = 0 および 𝗧φ = η𝗧 から式
[ η , ђ ]𝗧 = −ђη𝗧 = −ђ𝗧φ = 0
が導き出される。したがって解体された式は
𝗧[ φ , ђ ] = η[ 𝗧 , ђ ] − [ 𝗧 , ђ ]φ
と書き換えることができる。 [ 𝗧 , ђ ] = 𝗧ђ により、上記の式はさらに次のように書き換えら
れる。
𝗧[ φ , ђ ] = η𝗧ђ − 𝗧ђφ
この式は仮定 𝗧φ = η𝗧 によって最終的に
𝗧[ φ , ђ ] = 𝗧(φђ − ђφ)
と書き換えられる。
もし数記号に逆元が存在するならば、その式から論理的に等式
[ φ , ђ ] = φђ − ђφ
を導き出すことができる。言い換えれば数記号に逆元が存在しないという前提がある限り、
その式を論理的に導き出すことはできない。ちょうど函数の条件式 Ƕψo ω = 𝗛ψo ω から固有
値を表示する式 Ƕψo = 𝗛ψo を論理的に導き出すことはできないように。そしてまた固有値
を表示する式が成立するならば、函数の条件式における変数 ω は何の意義も有していないの
と同様に、論理的に導き出すことのできない式 [ φ , ђ ] = φђ − ђφ が成立するならば、数記
号 𝗧 は何の意義も有していないことになる。そして論理的に導き出すことのできない式が成
立するのは当然である。交換式の成立が当然でないという前提の下で当然に成立する「交換
式」、この当然の式が定数でない変数の条件式である(それは交換式ではない)。変数の条
件式もまた論理的に導き出すことのできない式である。
変数の条件式は数の逆元が存在しないという前提の下で存在する単一の数記号 𝗧 を無意義
にする。その記号は無視しうる存在である。それは複数の数記号、すなわち定数が無視でき
ない存在であることを意味する。定数の条件式の中に存在する定数 η は自身の導変数の不在
だけではなく、微分符号の不在をも主張する。その結果、定数でない変数にも導変数が存在
しないことになる。微分符号と記号の直接的な、したがって無規定な結合は実現しない。結
合は別の形で実現する。それは等号によって媒介された結合、すなわち変数の条件式の左辺
と右辺の結合である。
導変数は存在しない、――導変数の理論はこの認識から出発する。そのとき創り出される
..
もの、それは存在と存在の間にあるもの、すなわち関係である。変数の条件式の中に存在す
る変数と Hamilton 定数の間には関係がある。
かつて Poisson 括弧 [ φ , ђ ] を ђ-Poisson 結合体と呼び、それを φ の導変数と位置付けたこ
107
とがあった。しかし「結合体」という呼び方は存在を連想させるため、もはやその呼び名に
..
相応しくない。今や [ φ , ђ ] は(φ の)導変数という存在ではなく、(φ を)微分するという
..
行為に対応する記述である
そのように把握するとき、積の分解式
[ αβ , ђ ] = α [ β , ђ ] + [ α , ђ ]β
は画期的な式となる。その式は暗号文
d ; αβ → α [ β , ђ ] + [ α , ђ ]β
と同じ意義をもつ式である。ということは上記の暗号文が不完全であることを意味する。そ
こではまだ微分は完了していない。α および β を微分するという行為はまだなされていない
からである。そしてその暗号文を完成させることは不可能である。式
α [ β , ђ ] + [ α , ђ ]β = αβђ − ђαβ
が成立するからといって、その暗号文を
d ; αβ → αβђ − ђαβ
..
と記述することは適切ではない。対象 αβ を微分すれば。対象 αβђ − ђαβ という存在が得ら
れるわけではない。その対象を微分することによって得られるのは
[ αβ , ђ ] = αβђ − ђαβ
..
という関係である。記号を微分するという行為が創り出すのは対象(存在)ではなく、関係
である。Poisson 括弧 [ α , ђ ] は変数 α と Hamilton 定数の関係を創り出す。
交換式は二つの積 αβ と βα が異なることを前提として提起された。その式は異なる積の差
αβ − βα が自分自身に等しい数学的対象を要求したことから産まれた。しかし φ と Hamilton
定数は別のことを要求する。両者が交換律に従わないということは前提されていない。した
がって交換式は要求されていない。前提されているのは、ひとつの記号 φ を微分するという
行為である。すなわち Poisson 括弧 [ φ , ђ ] である。そして要求されているのはその Poisson
括弧に等しい数学的対象である。数記号 η がそこに存際するとき、定数の条件式 [ η , ђ ] = 0
..
の成立は必然となり、変数の条件式
[ φ , ђ ] = φђ − ђφ
..
の成立は当然となる。そしてこの当然の式は特殊な変数計算、すなわち記号の微分法の解釈
になっている。記号 φ を微分したとき得られる成果は、その記号と Hamilton 定数の関係で
ある。そしてその関係は変数の条件式によって表現される。その表現から変数と Hamilton
定数が交換不可能であるという解釈が生まれるのも当然である。もし両者が交換可能なら変
数の条件式と定数のそれは区別がないことになるからである。
.....
変数の条件式は(私が「記号の微分法」と呼ぶ)規則の解釈になっている。これに対して
定数の条件式 [ η , ђ ] = 0 はそうではない。前者には矛盾は存在しないが、後者にはそれが存
......
在する。それは定数の条件式が(記号の微分法という)規則に従って記述されているからで
ある。そしてその規則に従うには、それを η̇ と記述する習慣が否定されねばならない。なぜ
なら記号を微分するとき、微分された記号は、すなわち導変数は存在しないからである。
私はかつて、定数の条件式を間違って
[ , ђ]= ̇
108
と記述した。しかしそれは完全な誤りというわけではなかった。その誤りは数を(η と)記
......
述し、微分記号を、すなわち存在しない対象を表す記号を習慣に従って 0 と記述すれば正さ
れるのであるから。
誰もが記述する――ただし何も考えずに記述する――式 [ η , ђ ] = 0 が成立しないという
ことはありえない。したがって定数の条件式が成立することは必然である。と同時にその式
を論理的に導き出すことは不可能である。その式の成立の必然性は非論理的必然性である。
したがってその式の成立が必然であると理解されることはない。と同時にその式の中に矛盾
が存在すると理解されることもない。なぜなら規則そのものに従って記述された定数の条件
式は、その規則の解釈である変数の条件式に従って理解されるからである。すなわち定数 η
は Hamilton 定数と交換可能であるから、式 [ η , ђ ] = 0 が成立すると理解される。そして定
数と Hamilton 定数はなぜ交換可能かという問は無意義となる。定数は任意の対象と交換可能
であると理解されるから、すなわち定数は代数であると理解されるからである。定数は変数
ではないと理解される。
.....
....
規則の解釈として記述された式と、その解釈に従って理解された式は――それは規則その
..
ものに従って記述された式である――次の命題を成立させる。
A【変数についての命題】
記号 φ が変数ならば、そして記号 η が変数でないならば
[ φ , ђ ] = φђ − ђφ
[η, ђ]=0
この命題を記述することを以て、導変数の理論はまったく展開されないまま完結する。導
変数の理論は科学的理論ではない。強いて言うならばそれは哲学的理論である。そして、も
し導変数の理論(記号の微分法の理論)が科学的理論として展開されることがあるなら、そ
の理論は命題 A から始まるであろう。なぜならその命題は論理的に導き出すことの不可能な
ものであるから、したがって公理として承認するしかないからである。記号の微分法が科学
的理論として確立されること、それはありえないことではない。しかしもちろん、ありそう
なことではない60。
物理学は測定という自然法則に従う実践から得られた数値 ℎ に理論的地位を与えるために
交換式を必要とした。哲学は記号の微分法という規則に従う実践から得られた関係に理論的
地位を与えるために変数の条件式を必要とする。
45.
実在する矛盾
Hamilton 定数は Poisson 括弧の外に存在することが可能であり、したがってそれは数記号
ではない。それは定数 η とは異質な「定数」である。Hamilton 定数は変数である。そこでそ
の定数は変数であり、かつ変数でないと考える。すなわち変数の条件式と定数の条件式が同
時に成立する唯一の存在である。そうすると [ ђ , ђ ] = 0 かつ [ ђ , ђ ] = ђђ − ђђ である。した
60 「この作品には、その貧弱さとこの時代の暗鬱さのうちにあって、いくつかの頭脳に光を投げかけること
が運命づけられているということ、このことはありえないことではない。しかし、もちろん、ありそうなことで
はない。」p11
109
がって
ђђ − ђђ = 0
である。すなわち式
ђ(ђ − ђ) = 0
が成立する。そのとき記号 ђ が観念的矛盾であるならば、すなわち ђ − ђ = 0 ではないとす
るならば等式
ђ=0
が成立する。不合理な前提から論理的に導き出される結論は不合理でなければならない。そ
のとき ђ は Hamilton 定数であることを止める。それは定数でも、変数でもない、たんなる
記号である。さらに言えば、それは必要のない記号である。ђ に代わって必要とされる記号
は 0 である。そして記号 0 が不合理であると考えられる存在、観念的矛盾として把握される
ことになる。
ここで定数および変数の条件式について考察する際に考えなかったことについて考えるこ
とにしよう。それは Hamilton 定数 ђ の由来である。その定数に先行して Hamilton 記号が存
在し、両者については等式 ђ = 𝗛 が成立すした。そしてその理由は Hamilton 記号 𝗛 と数記
号 𝗧 が交換可能だからであった。だとすれば Hamilton 記号に等置される Hamilton 定数もま
たその数記号と交換可能なはずである。しかし定義不可能な記号で数記号と交換可能な記号
は数記号それ自身とその逆元の他には存在しないはずである。等式 ђ = 𝗛 が成立する時点で
Hamilton 定数も定義不可能な記号である。したがって数記号と交換可能な記号 ђ は数の逆元
である。数の逆元を ђ と記述するとき、それはまだ正しく記述されてはいない。しかしそれ
を正しく記述する過程の出口に立ったことになる。なぜなら ђ は記号 0 で置き換えるべき記
号であるからである。
数の逆元を ђ と記述するとき、一対の式の左側の式 [ 𝗧 , ђ ] = 𝗧ђ は(もし数を 𝗧 と記述す
るならば)次のように記述されることになる。
[𝗧, ђ]=1
しかしその式は記述すべきでない式である。記号 ђ の代わりに記号 0 を記述すべきであるか
らである。そのとき記号 0 は Poisson 括弧の中に持ち込まれ、数の逆元が正しく記述される
ことになる。すなわち数の逆元は 0 と記述される。しかし記号 0 は数の逆元が記述されない
とき、すでに記述されていた。すなわち定数の条件式の右辺に存在していた。しかしそれは
数の逆元として存在してはいなかった。それが数の逆元が存在すべき位置に存在していない
からである。定数の条件式においては記号 0 は Poisson 括弧の外に存在している。またその
式が成立するのは Poisson 括弧 [ η , 0 ] を記述しないときである。数の逆元は Poisson 括弧の
中にしか存在しない。
数の逆元が 0 と記述されるとき、次の式が成立すると考えられる。
[ , 0]=𝜊
そこでは数の逆元が正しく 0 と記述されている。そのとき数は記述されない。数の逆元が本
来の姿で現れるとき、数もまた本来の姿で「現れる」、すなわち数はその姿を現さない。そ
のとき数値 1 はもはや存在しない、あるいはまだ存在しない。数の逆元を正しく記述するた
110
めには、もはや、あるいはまだ、数値が記述されていないという環境が必要である。なぜな
ら数値とは正しく記述された数であるからである。そのとき数は数値としてのみ存在する。
とすれば変数でない数記号 η に定義が存在しないのは当然である。数が間違って(η と)記
述されているとき、数が正しく記述されることは、すなわち数値が記述されることはありえ
ない。しかし代数であると解釈される η の数学的定義は数値以外ではありえない。
...
..
数値 1 はもはや記述されない存在としては記号 0 によって表わされ、まだ記述されていな
..
い存在としては記号 ο によって表わされる。すなわち二つの記号は同一の記述を表している。
そして、その記述は習慣(規則)に従って記述しなければならない。記号 ο はまだ定義され
ていないが、それが定義されることは必然である。これに対して記号 0 を定義することは不
可能である。
̃ であると
数の逆元が記号 0 であるという主張は今や無意味である。記号 𝗧 の逆元は記号 𝐓
いう主張には意味がある。その場合、記号 𝗧 の「逆元」とは何かと問われたとき、すなわち
̃ 𝗧 = 1 を成立させる記号 𝐓
̃ であると答えるこ
「逆元」という語の意味を問われたとき、式 𝐓
とができるからである。しかし数の逆元が記号 0 であるとき成立する式は(ただし、それが
式であると考える場合において) [ , 0 ] = 𝜊 である。記号 0 が数の逆元として存在するため
には、そこに存在しなければならないからである。と同時にそこに数の逆元 0 が存在する
..........
Poisson 括弧はもはや Poisson 括弧として機能していない。なぜならそこに数は存在しないか
らである。そこには何も存在しない、そこは空白である。したがって Poisson 括弧の中にし
か存在しない数の逆元 0 は Poisson 括弧の中にも存在しない。数の逆元としての記号 0 はど
こにも存在しない。
実はこの節の考察においては、本来考える必要のないことを考えている。それは等式 ђ = 𝗛
が成立する理由である。そもそも、その式は成立しないのであるから、その式が成立する理
由はない。そしてその式が成立しないのは Hamilton 定数と定数 η を基本的要素として形成
される空間(非科学的空間)の中に Hamilton 記号 𝗛 は存在しないからである。それは科学
的空間に属すべき記号である。また科学的空間も、非科学的空間も、ともに式を成立させる
という意味では数学的空間である。そして数は数学的空間の中には存在しない。それでも
[ , 0 ] = 𝜊 という記述には意義がある、――ただしその記述が式ではない場合において、で
あるが。その記述には、そこに数が存在しないことを示すという意義がある。
例えば万年筆で紙に記述された記号は紙に染み込んだインクとして物理的に存在している。
したがってそれが存在する場所は特定される。しかし数は物理的存在ではない。 それは
[ , 0 ] = 𝜊 という記述(この記述は物理的に存在する)の Poisson 括弧の左側という物理的
な場に存在することはない。数は、それはどこに存在するかという問が無意義となるような
「存在」である。そのような「存在」は科学的には存在しないとされる。しかし非科学的に
..
は数は実在する、――私はそう主張する。あるいは私は、どこに存在するかについては、ま
ったく語ることができないが、それでも「存在する」ような存在の仕方を「実在する」と言
う。数は存在しない、しかし実在する、――これが数を捕獲するという「実験」の失敗から
得られた結論である。
111
数は実在する矛盾である。そして実在する矛盾は見ることも、理解することも不可能な対
象である。したがって数はどこに存在するかは明らかではないが、それでも存在する、――
..
数に与えられるこの解釈は誤りではない。もちろん正しいわけでもない。ただ矛盾を解釈す
るとき、それは観念的矛盾となる。私が、数は実在すると主張するとき、数は観念的矛盾と
なる。ただそれは観念的矛盾の中でも最も原始的で抽象的な矛盾である。
数学の理論には矛盾は存在しないように見える。確かに記述される数式の中には矛盾は存
在しない。しかし矛盾は見えないだけである。そして数学の基礎には矛盾が実在する。ただ
し数学の基礎にあるのは、もはや数学ではないが。
記述 [ , 0 ] = 𝜊 が式でないならば、数学的空間で最後に成立する式は等式 ђ = 0 である。
..
ということは数の逆元が正しく記述される前提は Hamilton 定数の消滅である(そのとき非数
....
学的空間において Hamilton 記号 𝗛 が復活する)。しかし数の逆元が正しく記述されることは
ない。Hamilton 定数の消滅は数の逆元を正しく記述する前提ではなく、数そのものを正しく
記述する前提である。数学的空間で最後に成立する式の次に成立する式、したがって数学的
空間で最初に成立する式は定義式
𝜊=1
である。最初に記述される数字 1 は正しく記述された最初の数である。
人はそうしなければならないから、そうするのである。そして人はそうしなければならな
いと考える前に、すでにそうしていたのである。
自由な実践はある実在を創り出す。そしてその実践が数学的活動であるとき、その実在は
「数」と呼ばれ、またその実践が言語的活動である場合は「意味」と呼ばれる。さらにその
実践が経済活動である場合、それは「価値」と呼ばれる 61。そしてその実在が、すなわち存
在するとも、存在しないとも言えないものが思考の対象となるとき、それに与えられる名は
「矛盾」である。
61 「わが商品所有者たちは、困りはてて、ファウストのように考える。始に行いありき。したがって彼らは、
彼らが考える前にすでに行っていたのである。」マルクス『資本論 第一巻』(岩波書店)p114
「ひとは、肝心なのは語ではなくて、その意味である、と言い、その際、意味なるものを、語とは違ったもの
であるとは考えるにしても、語と同種の事柄であるかのように考えてしまう。こちらに語、こちらに意味。お金
と、それによって買うことのできる牝牛。(しかし、他方では、金とその効用。)」p103
112
Ⅺ. 記号と意味
46.
最初に記述される記号と最初に成立する式
これからの議論は物理学とは無縁であるが、しかし数学とは完全に無縁というわけではな
い。しかしまた物理学を無視して力学を論じたように、私は数学を無視して「数学」を論じ
る。これから論じられるのは数学の基礎にある「言語学」である。
最初に記述される数字 1 もまたある規則に従って記述される。その場合、その規則を適用
........
する対象が存在していなければならない。その対象を構成する要素として最初に記述される
..
記号 0 が存在する。一般に数学的記号に要求されること、それは他の数学的記号との区別を
示すことである。したがって最初に記述される記号――それは数学的記号であるからどのよ
うに記述しようと自由である、問題はそれをどのように記述するかではなく、記述すること
である――が示す区別は記述されていない記号、したがって見えない記号、すなわち数との
区別である。最初にひとつの記号が(0 と)記述されるとき、同時にもうひとつの記号(数)
........
が発生し、そして両者は符号を媒介せずに結合する。ちょうど α と β の積が符号を媒介せず
に結合するように。だが積 αβ は α × β という記述における符号「×」を省略した記述にすぎ
ない。積 αβ を結合する符号は存在する、ただ記述されないだけである。しかし実在する(ど
こにも存在しない)数とそこに存在する記号を媒介する符号は存在しない。したがって数と
......
記号 0 の結合体もまた、どこにも存在しない。その結合体は記述されない限りにおいて数学
的対象なのであるから。この記述されない結合体が最初に規則が適用される対象である、―
―そのような仮定の上に立って最初に記述される数字がどのようにして記述されるかを考え
る。
...
数は何も表さない唯一の記号である。したがってその記号と区別される記号 0 は何かを表
している。そのときその記号が存在しない対象を表すことは必然である。数学的記号が表わ
すのは数学的対象である。そして記号 0 が記述された時点では数学的対象として存在する対
象はただひとつ、記述されない結合体だけである。だが記号は自分自身がその中に含まれて
いる対象を表すことはない。記号 0 はそれ以外の数学的対象を表す。しかしそれ以外に数学
的対象は存在しない。したがってその記号は存在しない(そして存在することの可能な)数
学的対象を表す。その場合の記号 0 が表わしている対象、存在しない対象とは何であるか? ―
―記述されない結合体は、つまり何も記述されていないという状態は、そのような問を提起
する。この問に対して人は考えない。彼は考える前に行う。そこに 0 とは異なる形をした何
かを記述する。それが答である。そしてそれは(基本的要素ではあるが)記号ではない。記
..
号が記号を表すことはない。それを記述するという行為には記号 0 を記述しないという意義
がある。
...........
その「何か」は(例えばそれを 1 と記述するならば、それ以後)そのように記述すること
......
が強制されるという点で記号とは区別される。だが最初にそれを記述する者は(そのように
113
記述すべきものを)どのように記述すべきかを知らない。もちろん最初にそれを記述する者
は、それをどのように記述しようとも自由である。しかしまた〈わたし〉には自分が最初に
それを記述する者であることを知る術がない。だから〈わたし〉は途方に暮れるであろう。
.......
そのとき人は必然に服従する。この「必然」は論理的必然ではない。人は規則に導かれるこ
とによって 1 と記述する。
人は何も考えずに、〈わたし〉と言いうる力とは別の「力」、すなわち規則に強制されて、
そのように記述したのである。それが 1 と記述されたこと、それは偶然である。しかしそれ
.....
がどのように記述されたとしても、それが記述された後では、そのように記述されることは
必然である(以上の文章については誰も納得しないであろう62)
。この必然性は論理的必然性
とは正反対のもの、必然であると考えることの不可能な必然である。人は規則に従うとき、
規則だけに拘束されている。言い換えれば他の一切の(恣意的な)思考から解放されている。
そして考える主体が〈わたし〉である限り、
〈わたし〉の思考に恣意的な要素が紛れ込むこと
は避けられない(この考察もまた恣意的な思考の産物である)。その意味で規則に従うとき、
........
人は自由である。その自由は実践における自由である。この自由な実践は〈わたし〉の恣意
..
的な思考に基づいてなされる行為とは正反対のものである。たとえば「任意の正の数値」と
いう言語的定義を有する代数 ε とは論理的に存在することの可能な、そして可能であるにす
ぎない存在である。それは〈わたし〉の恣意的な思考の産物に他ならない。代数 ε の存在に
よって、すなわち ε-δ 論法によって導関数の理論が「無限小」という言語によって説明され
ていたときと比べて、論理的により厳密なものとなったと言われる。だが、そこで問題とな
るのが導関数の理論の「目的」である 63。もしその目的が導関数というものを判り易く説明
することにあるのだとすれば、その理論が厳密になることによって、その理論の目的から遠
ざかったことになる。
ではその「1」は何を記述したものなのか? ――その答は「記述不可能なもの」である。す
なわち記述されたのは数である。数が記述されるとき、定義式
𝜊=1
........
が記述される。それが最初に成立する式である。したがって最初に記述される記号 0 は式の
中に存在することはない。記号 ο には数学的定義である数字 1 の他に「記述されない結合体」
という言語的定義が与えることが可能である。記述されない結合体はひとつの記号として記
述される。
.......
1 を記述したのと同じようにして人は 1 の次に 2 を、2 の次に 3 を記述し、その結果、定
義式
𝜊1 = 2
𝜊2 = 3
...
「しかし、いま以下のことに心を留めよ。わたくしがみずから導かれているあいだは、すべてが全く単純
.....
で、特別なことは何も認められない。しかし、その後、わたくしがあのとき何が起こったかを自問すれば、それ
......
が何か記述不可能なことであったように思える。そのあとではどのような記述もわたくしを満足させない。」p144
63 「
『不正確』ということは、もともと非難さるべきこと、『正確』ということは称賛さるべきことである。
そして、このことは、不正確なものはもっと正確なものほど完全にその目的を達成しない、だからそこでわれわ
れが何を『目的』と呼ぶかが問題となる。」p89
62
114
等々が記述される。そして最初の符号「+」が誕生したとき、それらの左辺に存在する記号
の一般的定義が与えられる。それらの記号は数字 𝑛 を用いて
𝜊𝑛 = 𝑛 + 1
と定義される。ただ記号 ο だけにはこの普遍的定義は適用されない。 𝜊 = 𝑛 + 1 という式を
成立させる数字 𝑛 は存在しないと考えられるからである。その「存在しないと考えられる」
対象が記号 0 で表されることもない。その代わり式 𝜊 = 𝑛 + 1 を前提として記号 𝑛 の定義式
が成立する。その定義式は
𝑛=0
..
..
である。その記号を定義している 0 は数値である。数字を記述するという行為には 0 を記号
........
として記述しないという意義がある。そして 0 は数学の歴史の中で長らく数値としてのみ存
........
在していた。最初に記述された記号が最初に完全な数学的記号として式の中にその姿を現す
のは定数の条件式
dђ
=0
dt
においてである。
以上が捏造された数学史、数学の「創世記」である。この神話には納得できない点がある。
それは数学における最も原始的な存在であると思われる数字に先行して(数学的)記号 0 が
存在するという点である。これは数、すなわち見えない記号が数学的記号であると解釈した
......
たことから生ずる「誤解」である。数はそもそも記号ではないとする解釈からは別の「誤解」
が生まれる。
47.
意味としての数と言語としての “ 0 ”
記号とは意味を有する物(記述)である。そして(記号である)物をいくら科学的に解析
しても、その物の中から意味を抽出することはできない。意味はその物の中には存在しない
からである。では意味はどこに存在するのか、――意味とはそのような問を無意義にするよ
うな「存在」である。それでも記号には意味が有る。すなわち意味は実在する。
とすれば次のように考えたくなる、――すなわち(矛盾である)数とは(定義することの
不可能な)記号 0 の意味である、と。私は数は何も表さない唯一の記号であると言った。だ
がここではその主張を訂正する。最初に記述された記号 0 は数学において使用される記号の
うちで唯一、その意味が実在する記号である。ということは、それは数学的記号である前に
言語的記号(以下「言語」という)として存在していたことになる。記号 0 が言語として存
在していたとするならば、その記号が数字に先行して存在するという事態も納得できる。そ
..
して記号 0 を数学的記号として把握するならば、それは数である。しかし記号 0 を言語とし
..
て把握するならば、それは意味である。
「式」の中に 0 という言語が現れるとすれば、
χ−χ=0
115
という記述の中に現れる。この記述は、右辺に存在する記号 0 が完全な言語的記号である、
.....
すなわち数学的記号でないという意味で式ではない。したがってその記述が他の式に書き換
えられることもない。すなわち χ = χ という式が記述されることはない。
日常的に使用される言語ならば誰でもその意味を理解している、しかし記号 0 はその意味
が理解不可能であるという点で特殊な言語である、――そう考えたくなる。しかし、よくよ
く考えると人は本当に言語の意味を理解しているのか、理解していると思い込んでいるにす
ぎないのではないのかという疑問が浮上する。その疑問の根拠として言語を使用するとき、
例えば日常生活において話すとき、人はその言葉の意味をいちいち頭に思い浮かべることな
どないという点が挙げられる。したがってその意味を理解していないのと同然の状態で人は
言語を使用している、すなわち人は、ただたんに規則に従って言語を使用しているだけなの
ではないか。
..
最初に成立する等式はまだ言語 0 が現れない式、まだ定義されていない二つの記号を根拠
..
なく等置する等式、すなわち単純な等式
α=β
である。しかしこの等式の両辺に存在する記号 α と β は不完全な数学的記号である。記号 α
に意味が無いのは、記号 β に意味が有るからである、――記号 α はそう主張する。そして記
号 β もまた同様の主張を行う。二つの記号はお互いに意味を相手に押し付けることによって
自分は意味の無い記号、数学的記号となろうとする。しかしどちらの記号も意味を持つこと
はない。したがって α、β のいずれかが数学的記号であり、かついずれかが言語的記号であ
るという不確実な状態が維持される。
α、β のいずれもが数学的記号になることは可能である。そのためには上記の式を意味を有
する記号 0 が現れる式
α−β=0
に書き換えるればよい。そのとき α と β はいずれも完全な数学的記号となる。と同時に両者
..
は無意義な存在となる。意味の無い記号には定義が存在しなければならない。α と β は区別
......
.....
を有する記号であるから、それぞれには異なる定義が与えられねばならない。しかしそうす
ることは不可能である。したがって両者は定義することの可能な、しかし定義の存在しない
数学的記号となる、すなわち無意義な記号となる。
そして 0 は意味を有するという点で言語的記号であると同時に、式の中に存在するという
点で数学的記号となる、すなわち不完全な数学的記号となる。その記号 0 には意味が有り、
かつ意味が無い。その記号は矛盾である。すなわちその記号は(意味を持つのではなく)そ
れ自体が意味である。しかし式の中には矛盾は存在しない。そして 0 は記号でなくなること
によって、矛盾ではなくなる。0 は数値になることによって意味ではなくなり、完全な数学
的要素となる。
......
ではなぜ二つの異なる記述を等号によって結び付けるとき意味が生まれるのか。それは人
が α = β という記述を見て、何事かを理解するからである。例えば α と β は同一の対象を表
..........
す記号であると理解する。この理解は人の観念の中に取り込まれる。しかしその式は完全に
は理解されていない。そして理解されていないこと、それは理解することの不可能な対象で
116
......
ある。それが実在する矛盾である。単純な等式に矛盾が存在する、――そのように理解する
ことは不可能である。
数学では χ = χ と記述することが禁忌となる、――いや、
「禁忌となる」という表現は誤解
を招くであろう。そこにはただ人はそのような仕方で等号を使用することはないという事実
があるだけである。もし仮にそのような式を見たとして、人は何かを理解するであろうか。
その記述が無意義であるという事実は等号が数学において果たす役割を暗示する。
定義式や計算式もまた人が理解しようとしない式である。人は定義式を見て、その定義を
..
..
知り、また計算式を見て、その計算結果を知るにすぎない。したがってそこには矛盾は無い。
その点では定義式と計算式は等式 α = β とは異質な式である。それならば両者に等号を用い
ることは不当ではないのか? ――もちろんそんなことはない。矛盾の無い式は無意義ではな
い。定義式と計算式が有意義であるという事実が、等号が数学において果たす役割を顕示す
る。定義式 α = 1 は「α は 1 を表す」という文に対応し、計算式 1 + 2 = 3 は「1 と 2 を足す
と 3 になる」という文に対応する。しかし定義式と計算式は、それぞれの式が対応する文が
.....
語ること以上のことを語っている。あらゆる式は χ = χ という式が成立しないことをも語っ
ている。ただしその式が成立しないという理解は「誤解」である。その式が成立するか否か
を論じることは無意義である。ただその式が成立することは無益であり、成立しないことは
有益である。その式が成立しないことによって記号 0 は定義不可能な記号となるのであるか
ら(もし式 0 = 0 が成立するなら、それは記号 0 を数値 0 で定義する定義式である)。
48.
名と名指される対象
数学的記号には意味は無い、意味に代わるものとして定義が存在する。しかし記号 0 の他
にも本来的に定義が存在しない数学的記号が存在する。それは数値 0 による定義から解放さ
れた記号 ђ、すなわち非科学的空間に存在する Hamilton 定数である。記号 Ϧ と t の関係、す
なわち共役な関係は記号 t が存在しないところでは、言い換えれば記号 ђ が存在するところ
では、その記号と数の関係であった。そしてそれは数学的関係であった。しかし数は数学的
記号ではないと解釈すれば、それは意味である。その意味と「共役な関係」にある数学的記
号が存在する、――そう考えると記号 ђ について新たな解釈が可能となる。まずひとつの記
号 ђ について最後に等式 ђ = 0 が成立するが、その前提となっているのは式 ђ − ђ = 0 が成立
しないという不合理な事態である。たたしその式を否定する根拠は 0 が言語的記号であるか
らというものである。この否定の根拠はもはや数学の範疇を逸脱している。
したがってその結論である等式 ђ = 0 が成立する根拠にも非数学的要素が含まれているは
ずである。 ђ = 0 は式であるから等置されている ђ と 0 は共に数学的記号である。すなわち
意味の無い記号である。だが記号 ђ はかつての言語的記号 0 の意味と「共役な関係」にあり、
そして等式 ђ = 0 が成立する(そのとき記号 ђ は消滅する)非数学的根拠は等式 ђ = 𝗛 が成
...
立しないことに求められる、――そう解釈すると記号 𝗛 に新たな照明を当てることができる。
その記号は数学的記号 ђ の消滅によって再び発生する、――ただし数学記号としてではなく、
言語的記号として。式 ђ = 𝗛 が成立しないのは記号 𝗛 が言語的記号であるからである。した
117
がってその記号と関係するのは数ではなく、意味である。そしてその関係はもはや数学的関
......
係ではない。記号 𝗛 と意味の関係は単純に述べることができる、――記号 𝗛 は意味を持って
..
いる、と。ただし単純に述べることができるからといって記号と意味の関係が単純に理解さ
れる訳ではない。私はその関係について何も理解していない。
まず存在するのは 𝗛 というひとつの記述である。そして、ひとつの、言い換えれば区別さ
..
..
れない記述 𝗛 は記号 𝗛 と同一性を有している。したがって、まだいかなる区別もないところ
...............
にある同一性はすでに区別を含んでいる。ひとつの記述 𝗛 はひとつの記号とひとつの意味に
区別される64。ひとつの数学的記号 ђ との関係においては(複数の)記号 η は記述された数
と位置付けられた。言語的記号 𝗛 との関係においては、そのような(複数の)記号はまだ存
在しない。有るのは意味である。ただしその意味は理解不可能である。その意味は実在する
からである。
意味を持つ記号は唯ひとつしか存在せず、したがって意味は区別されていない。そのとき
意味に区別が発生することは必然である。そして意味を区別するためには文という形式が成
立しなければならない。式 ђ − ђ = 0 が成立しないという事態を、それは式ではないと解釈
するとき、その帰結は(式 ђ = 0 が成立する、ではなく)文
0∈𝗛
が成立する、である。それは架空の言語で記述された文の形式である。そして(式と違って)
その文が成立するからと言って文「𝗛 ∈ 0 」が成立することはない。
それは最も単純な文の形式である。単純な文における「∈」は二つの言語的記号を結合す
..
る言語的符号である。上記の架空の言語による文を日本語に翻訳すれば「0 はそれである」
となる。日本語には符号「∈」を直接に置き換えることの可能な単語は存在しないが、英語
にはそれが存在する。それは be 動詞である。
《主語/be 動詞/補語》という構造を有する英文において、主語および補語がひとつの言語
で構成されるならば、主語となるのは名詞であり、補語となるのは名詞および形容詞(ある
いは副詞も補語になることが可能であるという解釈もある)であるが、私はそれを名詞のみ
に限定する。そうすれば英文「It is red」は日本語文「それは赤である」にのみ対応し、
「そ
れは赤い」には対応しない。言語的符号「∈」が結び付ける二つの言語的記号とは、言語に
おける最も基本的な要素、すなわち名である。
名の機能は名指すことにある。したがって名がこの機能を発揮することによって名指され
る対象、すなわち名の意味が生じる。しかしまず名が与えられるのは存在する物である。こ
の存在する物を名の意味と区別するために「名の担い手」と呼ぶ。名の担い手は(名の意味
.....
と違って)物理的存在であり、したがって人は名の担い手である物を手に取って「これが蜜
....
柑である」と言う。あるいは名の担い手が遠くに存在する物であれば、その物を指さして「あ
れが月である」と言う。人が「名指す」場合、人は名を発音するだけでなく、その物を「手
64 「同一性は否定的なものであるが、しかし抽象的な、空虚な無ではなく有およびその諸規定の否定である。
したがって同一性は同時に関係であり、しかも否定的な自己関係、言いかえれば、自分自身から自己を区別する
ものである。」ヘーゲル『小論理学(下)』岩波文庫 p23
118
に取る」あるいは「指さす」という行動をとる。そのような大人の行動よって、子供は物の
....
名を教えられる。同時に名指すということから生じる名と名の担い手の関係を体験すること
ができる。そこには神秘的な要素は少しもない65。しかし名にとって名の担い手(物)は本
質的な存在ではない。
人は名の担い手が存在しない場合でも、その「対象」に名を与える。例えば「時間」ある
いは「空間」といった名である。その場合「それは時間である」あるいは「それは空間であ
る」と発音することだけが可能である。そしてその文の中の《それ》こそが(人が普通に「名」
と呼んでいる記号とは区別されるべき)
「本来的な名」66である。この「本来的な名」には―
―私はそれを普遍名と呼ぶ――にはその名に固有の名指される対象、すなわちその名に固有
の意味は無い。ただ普遍名は普遍的な、したがってひとつの意味を持つだけである。
普遍名《それ》に対して、例えば「蜜柑」や「時間」などのように固有の意味を有する名
を固有名と呼ぶことにする。
「0 ∈ 𝗛 」
(0 はそれである)という文は文の形式であって、完成された文ではない。すな
わちその文は何も表現していない。意味を持つ言語的記号 0 はその意味を 𝗛 に譲渡すること
によって数学的空間へ帰還し、数値として活躍する。言い換えれば言語的記号 0 は言語的空
間において消滅する。と同時に無数の言語的記号 Ƕ1 , Ƕ2 , 等々が発生する。新たに発生する
記号はすべて固有名であり、それらは
𝗛 ∈ Ƕ1
𝗛 ∈ Ƕ2
等々の文によって普遍名 𝗛 と関係する67。同一性に含まれる区別は同一性から分離され、形
式的な区別となる。形式的区別とは固有名 Ƕ1 , Ƕ2 , … 相互のの区別である。同一性に含まれ
る区別はひとつの記述 𝗛 をひとつの言語的記号 𝗛 とひとつの意味という異質なものに区別
...
した。新たに発生する区別は等質な区別、言語的記号相互の区別である。固有名とは表示さ
....
れた意味である。
固有名 Ƕ は文 𝗛 ∈ Ƕ において普遍名 𝗛 と関係する。そうすることによって、固有名は普
遍名の意味と関係する。その結果まず、名の担い手が存在する固有名について、物理的存在
(物)である名の担い手と物理的存在でない普遍名の意味とが取り違えられる。別の言い方
をすれば普遍名の意味と固有名の担い手が同じ対象であると把握される。この取り違えによ
って「名指される対象」なるものが発生する。名指される対象とは固有名によって区別され
65 「このことは、名ざすことを一つの、いわば神秘的な出来事として把握することに関係している。名ざす
ということは、一つの語と一つの対象との奇妙な結合であるように見える。――かくして、哲学者が、名と名ざ
されるものとの関係そのものを取り出そうとして、眼前のある対象を凝視しつつ、なんべんもある名をくり返し、
あるいはまた『これ』という語をくり返すとき、ある奇妙な結合が実際に生じてくる。なぜなら、哲学的な諸問
題は、言語が仕事を休んでいるときに発生するからである。」p46
66 「そして奇妙なことに、
『これ』ということばについては、かつてそれこそ本来的な名であると言われたの
である。それゆえ、われわれがそれ以外に『名』と称しているものは、すべて不精確で近似的な意味においてだ
け、名であるのだ、と。」p45
67 「われわれは、たとえば直示的定義において、一つのものを指示しながら『これ』という語を発音する。
しかも、『これ』という語と名とがまた、しばしば文章の関係で同じ位置にくる。けれども、名にとって特徴的
なのは、まさにそれが直示的な『それが N である』(あるいは『それを〈N〉という』)によって説明されるとい
うことである。」p46
119
た意味、固有名に固有の意味である68。
次に、固有名「蜜柑」に名の担い手が存在するように、名の担い手の存在しない固有名「時
間」にもそれに対応するもの、すなわち名指される対象が存在すると把握される。こうして
「時間」が名指す対象もまた何らかの仕方で「存在」すると把握されることになる。二つの
相反する文「時間は存在する」と「時間は存在しない」のいずれもが(異なる意義を有する)
有意義な文である。
最後にあらゆる固有名はひとつの意味を同じ仕方で区別する。したがってあらゆる固有名
は対等な存在である。そうなると固有名には固有の意味が存在すれば十分であり、名の担い
手は余計な存在となる。固有名「時間」に名の担い手が存在しないように、固有名「蜜柑」
にも名の担い手は存在しないと把握される。その結果、
「蜜柑」が名指す対象は、今まさに手
..
に取ることのできるこの蜜柑だけではなく、抽象的で一般的な存在としての蜜柑となる。固
..
有名「蜜柑」が名指す対象、それは蜜柑という概念である。固有名の意味は実在はしないが、
しかし実在性を有する。そしてそれに実在性を与えるのは、実在する意味、すなわち普遍名
の意味である。
固有名にその名の担い手が存在するか否かは、固有名にとって本質的な問題ではない。ま
たそれを本質的な問題と考えるならば、それは困難な問題となる。例えば「それは赤である」
という文における「赤」という固有名にはその担い手は存在するかという問題が生じる。ま
ず確実に言えることは固有名「赤」に担い手が存在するとしても、それは赤い物ではないと
いうことである。
「それは赤である」という場合の《それ》は「その色」という語で置き換え
ることができる。すなわち固有名「赤」に対応する概念の上位には固有名「色」に対応する
概念が有る。では固有名「色」には名の担い手は存在するか。しかし「色」に対応する概念
......
にもその上位概念がある。こうして上位概念を辿って行けば最上位に位置するひとつの概念
に到達する。もしそのひとつの概念に対応する固有名があるとすれば、それは二つあること
になる。そのふたつの固有名とは「存在」と「無」である。だが人は「それは存在する」あ
るいは「それは無い」と言うことはあっても、「それは存在である」「それは無である」とは
普通は言わない。だが普通でないところでは、そのように語られることがある。普通でない
仕方で語るのは哲学者である69。哲学者は固有名を捏造する。
「色」という固有名に担い手は存在するかという問は、次のような問に還元される。すな
わち色は存在であるか? ――その問に対する答は「色は存在であり、かつ色は無である」と
いうものである。あるいはこの答に満足できないならば、次のように答えることもできる、
..
――「色はそれである」と。最上位に位置するひとつの「概念」、究極の「概念」とは、もは
や概念ではなく、ひとつの実在する意味である。そしてその意味を持っているのは固有名で
68
「重要なのは、ひとが『意味』という語によってこの語に〈対応する〉ものを指し示すのであれば、この
語は語法に反して用いられている、ということを確認しておくことである。それは名の意味と名の担い手とを混
同することなのである。N.N 氏が死ぬとき、その名の担い手が死ぬのであって、その意味が死ぬとは言わない。」
p48
..
69 「哲学者たちが語――『知識』
『存在』
『対象』
『自我』
『命題』
『名』など――を用いて、ものの本質を把握
しようとしているとき、ひとは常に次のように問わなくてはならない。いったいこの語は、その元のふるさとで
ある言語の中で、実際いつもそのように使われているのかているのか、と。――」p101
120
はなく、普遍名である。
固有名は私的に生産することはできない。固有名は社会的存在である。その限りにおいて
それには――感覚的にして超感覚的な70――固有の意味が有る。そしてあらゆる固有名とそ
れぞれの固有の意味の関係は同一である。この同一性が形式的区別、すなわち固有名相互の
区別に対応する形式的同一性である。この関係の同一性はそれがひとつの関係に由来する点
にある。そのひとつの関係とは普遍名と実在する意味の関係である。この関係は――固有名
とその名の担い手の関係とは違って――神秘的である。
神秘的なもの、理解できないことについては考えることを一切、拒否すること、それが科
学的態度というものであろう。数学において微分律は証明できないが、そのような事柄につ
いては考えることを拒否すること、それは真理であるか、などというくだらない(科学的観
点からは価値のない)疑いを抱かないことが科学的態度なのである。誰もが微分律に従って
微分しているのだから、そうすることが当然なのであり、またそうしなければ科学者として
生活できない、――ちょうど言語ゲームに参加しなければ、普通の人間として生活できない
ように。
しかしまた生活のあらゆる局面において常に科学的態度を貫くことが、人として模範とす
べき態度かどうか、それはまた別の問題である。というのも人間とは、あるときは本能に従
い、またあるときは〈わたし〉の考え(動機)によって行動する自然的存在(特殊な生物)
であるが71、それと同時に超自然的な存在でもあるからである。人は規則という超自然的「法
則」を創り出し、それに服従する72、すなわち自由に実践する主体でもあるからである。そ
して人の本質を自由に実践する主体として把握するとき、人はもはや科学的考察の対象では
ない。そして「社会」という概念を抽象的に把握する場合、――例えば「資本主義」という
普遍的規定から社会を考察する場合、それを構成している要素としての人の本質は、そのよ
うに把握されるべきである73。
70
「この Quidproquo〔とりちがえ〕によって、労働生産物は商品となり、感覚的にして超感覚的な、または
社会的な物となるのである。」『資本論 第一巻』p95
71 人間の身体が科学(医学·生理学)の対象であるように、考える主体としての〈わたし〉もまた科学、すな
わち特殊な医学(精神医学)や心理学の対象である。
72 「個々の動機は、すべて間違いである。どんな動機によってもたらされたものたものでないエネルギーだ
けが、ただひとつよいものである。神への服従とは、――つまり、神とは、わたしたちが想像したり、理解した
りできるすべてのものをはみ出す存在なのだから、――無への服従である。こんなことは、不可能であり、必然
的でもある、――別な言い方をすれば、超自然的である。」『重力と恩寵』p163
73 マルクスの『資本論』は資本主義社会を科学的に考察しようとした点で誤りを犯していると考えられる。
この点については別の機会に論じることにする。
121
引用文献一覧
伏見康治『現代物理学を学ぶための古典力学』(岩波書店)
ウィトゲンシュタイン『哲学探究(ウィトゲンシュタイン全集 8)』(大修館書店)
高木貞治『解析概論 改訂第 3 版 軽装版』(岩波書店)
ゴールドスタイン『新版 古典力学(上)』(吉岡書店)
ゴールドスタイン『新版 古典力学(下)』(吉岡書店)
ディラック『量子力学 原書第 4 版』(岩波書店)
シモーヌ · ヴェイユ『重力と恩寵』(ちくま学芸文庫)
マルクス『資本論 第一巻』(岩波書店)
ヘーゲル『小論理学(下)』
(岩波文庫)
122