霊降臨後 第15主日 礼拝説教 (2015年9月6日) 飯川雅孝 牧師 聖書 ヨハネの黙示録2章1-7節 説教 『信仰の覚醒』 (説教) 9月の季節の変わり目を境に多くの教会では信仰を奮い起こすため振起日と定めております。 本日はヨハネの黙示録からローマの迫害が始まった頃の状況、今後一層激しくなる警告を学びます。 「黙 示」という言葉は、世の支配者、ローマ皇帝がクリスチャンたちを自分を神としないからという理由で迫 害しているが、その意味を当事者だけに神が伝えることを言います。ヨハネを通じてキリスト者に神はロ ーマの支配者が解らない象徴的な言葉やまぼろしを通して、 現在起こっている迫害の意味や将来起こるも っと激しい迫害が来るべきことの意味を伝える。しかし、最後には神を信ずる者が勝利するから、現在の 苦しみに耐えなさい。そういう神のみ心の言葉です。ローマ帝国の迫害を描いた小説に、ノーベル文学賞 に輝き、映画にもなった『クオ・ヴァデイス』という作品があります。ペトロがローマでの迫害の最中、 カタコンベという地下の墓所で周りのキリスト者から「あなたは重要な人です。ここにいては危ない。逃 げてください。 」と言われてそこから去ります。しかし、アッピア街道の途上で、向こうからやって来る 復活のイエスに会います。彼は聞きます。 Domine, quo vadis?(ドミネ、クォヴァディス) (主よ、どこへ行かれるのですか?) それに対するイエスの回答は強烈です。 「お前が私の民であるキリスト教徒を見捨てるので、私は再び ローマへ行き、再び十字架にかかろう」と。ペトロはその言葉を聞き、戻って殉教の中で死にます。 ヨハネ黙示録ではロ-マ帝国に対置してキリストが置かれ、ローマは「獣」 、 「バビロン:古代にイスラ エルを滅ぼした国の都」 、 「悪魔」 、 「サタン」と呼ばれるのに対して、キリストは「ユダ族の獅子」 、 「ダビ デのひこばえ」 、 「子羊」 、 「今も、昔も、将来もおられる方」 、 「死んだことはあるが、あるが生き返った者」 と呼ばれ、ローマ帝国とキリスト教が戦う世界を幻想的に描き、最終的にはキリストが勝利することを伝 えております。 「ハルマゲドン」という言葉を聞いた方もおられると思いますが、ここでは、天使のラッ パによってもたらされる世界の最後を伝える。金の鉢の中身をユーフラテスに注ぐと川の水がかれ、日の 出る方、つまり神の敵の国から来る王たちの道ができる。この時、悪霊たちが出現し、 「ハルマゲドン」 という場所に王たちを集めます。これはイスラエルの古戦場の「メギドの山」という意味でここで、決定 的な世界の終末、大バビロン、ローマの滅亡がもたらされます。 さて、今読んだ聖書箇所の激しさに驚きます。著者のヨハネはパトモスという島に島流しにされ、これ までのユダヤ戦争によってローマ軍がどれだけユダヤ人を迫害して来たかを身に沁みていた。 パレスチナ から逃げて来てここで復活のイエスに出会います。その前の1章では復活の主の幻影に会います。 「その 頭、その髪の毛は、白い羊毛に似て、雪のように白く、目はまるで燃え盛る炎、足は炉で精錬されたしん ちゅうのように輝き、声は大水のとどろきのようであった。 」と。ヨハネはその場に打倒されます。追い 詰められた限界状況の中で救い主からの言葉は妥協のない激しさを持っています。 キリストはヨハネに当 時小アジアで活動的であった教会に今日のエフェソへの教会に宛てた手紙から初めて7つの教会宛に、天 使を通じて彼の語ったことを伝えるように命じます。 エフェソの教会が迫害の中にあっても信仰的に努力 し、教会の中に忍び込むキリスト教と自称するが、悪い影響を与える者たちに抵抗するのを評価していま す。彼らに負ければ教会はサタンに取り込まれます。戦いには相当エネルギーを消耗したでしょう。しか し、彼らの現在の状況について叱咤激励します。 「あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの 愛から離れてしまった。キリストに初めて出会った体験は誰も深いものです。しかし、次第に信仰の輝き 1 は細くなる。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。 」と。そ の後には厳しい言葉が投げかけられます。 “もし悔い改めなければ、あなたを私の言葉を伝える教会では ない。 」と。この言葉は信仰生活を送る者にはむしろ信仰を掻き立てる愛の言葉になることを知らなけれ ばなりません。だから、 「だが、あなたには取り柄もある。ニコライ派の者たちの行いを憎んでいること だ。 」と。それは歩んで来た信仰の方向が間違っていないことを言っています。それはその後に来る迫害 のものすごさを予感しています。そして、よく聞きなさい、迫害に耐え忍ぶ者には、 「神の楽園にある命 の木の実を食べさせよう。 」これは裏切ることのない神の約束です。これを次の2章10節ではスミルナ の教会宛には「あなたがたは、十日の間苦しめられるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、 あなたに命の冠を授けよう。 」と徹底した言葉が続きます。 歴史上の事実として、ヨハネが預言したようにキリスト者への迫害はますます強まり、紀元180年に はカルタゴでキリストを主と信ずる者には死刑が宣告されました。 わたしはキリスト者の壮絶な殉教に言 葉を失いました。 「聖なるスキッリウム人の殉教」 : 12人の捉えられたキリスト教徒たちが西暦180年の7月17日、 ローマの総督サトゥルニヌスに 連れ出されます。総督は言います。 「お前たちは、正気に戻りさえすれば、我らの主なる皇帝の寛大な処 置に与ることができるのだぞ。 」 スペラトゥスが言った。 「私たちは悪事を犯したことはありません。不正な行為に加わったこともあり ません。呪いの言葉を口にしたこともありません。むしろ私たちの真実な皇帝である神を敬っております から、ひどい取り扱いを受けても、感謝してきました。 」 総督サトゥルニヌスとクリスチャンの代表者との間には皇帝讃美歌かキリストに従うことのどちら が重要かのやり取りがあります。総督は「皇帝の神であることを誓え。 」と言います。クリスチャンの代 表者たちは自分たちがローマの法律に従う良き市民であること、 皇帝には皇帝にふさわしい栄誉を捧げて いることを訴え、しかし「恐るべき方は神のみです。 」と主張します。総督は処刑に先だって「三十日の 余裕を与えよう。その間にじっくり考えよ。 」と言います。キリスト者たち全員が「私はキリスト教徒で す。 」と唱和します。 総督サトゥルニヌスは、書き板から判決を読み上げた。 「スペラトゥス、ナルトザ ルス、キッティヌス、ドナタ、ウェスィテア、セクンダ他数名の者はキリスト教徒の習慣に従って生活し ている旨告白した。彼らは、ローマ人の風習に立ち戻る機会を与えられたにもかかわらず、頑迷にその立 場を変えなかったので、斬首刑に処す。 」キリスト者たちは全員が言います。 「私たちは神に感謝します。 」 「今日、私たちは殉教者として天国にいることになるでしょう。私たちは神に感謝します。 」 そして直 ちに、彼らはキリストの名の故に首をはねられた。とあります。 わたしたちはこの裁判記録を読んで、どう受け止めたらいいのでしょう。真実にキリストに従って生き て来た彼らはこの世の権力より神が上にとあることを証言したという事実であります。 神の上にあること を主張しようとすればそれは全てサタンであります。 このカルタゴでの殉教者たちは 「死に至るまで忠実」 でありました。彼らには主の言葉が語り掛けられています。21章には、わたしたちはこの世において、 人生を真摯に生きた方々を伝えます。そこには、神に従う謙虚さとこの世を批判する勇気を共に持ち合わ せた姿勢です。そこには神の約束があります。 「神は自ら人と共にいて、その神となり、 彼らの目の涙を ことごとくぬぐい取ってくださる。 もはや死はなく、 もはや悲しみも嘆きも労苦もない。 もはや死はなく、 もはや悲しみも嘆きも労苦もない。 」そのような日を待ち望んで信仰生活を守りたいそう思います。 2
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