そうした俳人としての活動 を基に書かれたのが「日本文 ける。 句集』が「読売文学賞」を受 その後も俳人としての活動 は続き、昭和三十六年に編纂 るまで続いた。 昭和十二年に碧梧桐が死去す 伝った。 『海紅』への寄稿は、 句誌『海紅』の編集なども手 と共に句作を行う。碧梧桐の 二 十 歳 で 上 京 し、 碧 梧 桐、 なかつか いっぺきろう お お す が おつじ 中 塚 一 碧 楼、 大 須 賀 乙 字 ら を模したコー ります。また瀧井孝作の書斎 者の資料を収蔵、展示してお (ウィキペディアより抜粋) * * * 高山市図書館内の「近代文 学館」には、郷土出身の文学 作全句集』 『山桜』 の菜』 『海ほほづき』 『瀧井孝 『折柴句集』 『浮寝鳥』 『雪間 ・主な句集 終わる。 井孝作の死去により、未完に ぞれの旅を生きている。 心に深く残った。人はそれ 白夜と続く言葉は、人々の 島。知床、ハマナス、国後、 ◇会場 高山市図書館「煥章 館」一階生涯学習ホール 三月十四日(土) ・十五日(日) 高山市文化協会では、郷土 の文化を支えてきた文学者の ◇入場無料 せっさい 経歴と功績を紹介し、今後の 文学の発展に寄与する目的 で、毎年二回の「近代文学館 企画展」を開催しています。 『おりしば』であった かわひがし [俳人 折柴] 瀧井孝作は、丁稚奉公をし ながら近所の青年に俳句を が、 碧梧桐の勧めで 『せ へきごとう た。今回の第三部では、瀧井 っさい』と読ませるよ に た ず さ わ っ た『 小 沢 碧 堂 ち寄りくださ い。 催 事のお知らせ (一社) 高山市文化協会加盟団体 文化協会後援 光ミュージアム開館十五周年 記念 特別展『桜 さくら サ ク ラ ~ 大 観、 玉 堂、 松 園、 清方、加山又造他~』 ◇日時 六月九日(火)まで 開催中 ◇会場 光ミュージアム ◇料金 入館料が必要 【記事訂正のお知らせ】 前号の角竹氏の紹介文冒頭 の「 一 八 五 五 年 生 ま れ 」 は、 「一八八五年生まれ」の間違 いでした。お詫びして訂正し ます。 だ先だ。 〈ガンモンモ筆〉 春まだ浅い知床に、ハマ ナスの花が咲くのはまだま でなくてはならないのだ。 モメの言葉は、 「かもめを」 すると、カラスを見送るカ れるなと訴えている。だと 地元の娘。村の娘が私を忘 んは森繁で、白いカモメは ロケが終わって東京に帰 って行く気紛れなカラスさ 味が全く違ってくる。 と。 「 よ 」 と「 を 」 で は 意 もめよ」は「かもめを」だ 歌の終わりに「忘れちゃ いやだよ 気まぐれカラス さん 私を泣かすな 白い か も め よ 」 と あ る が、 「か たという。 に、唯一つだけ注文を付け 吹き込んだ。森繁はその歌 加藤登紀子が、後日この 曲を歌い直してレコードに 後島は、還らぬ北方領土の クの海の向こうに見える国 みごとに演じた。オホーツ クの老人の哀愁を、森繁は に一人猫と暮らすオホーツ きるもの」で、厳寒の番屋 使われた映画「地の涯に生 はて 森 繁 久 彌 の「 知 床 旅 情 」 は名曲だと思う。この曲が 「岡目一目」 学 ん だ。 十 五 歳 の 時 に 河 東 孝作の俳人「折柴」としての う に 改 め た ) と し た。 仲間』は、昭和五十九年の瀧 碧梧桐に俳句を認められ、句 ナーもありま 第 回 高山市近代文学館企画展 昨年より「瀧井孝作 没後 三十年展」と題し、高山市名 学大賞」を受けた『俳人仲間』 す。ぜひお立 瀧井孝作 没後三十年展 誉市民である瀧井孝作の文学 誌への投稿を始める。その際 である。続編である『続俳人 経歴を、その作品を通して紹 十八歳の時に高山を飛 び出し大阪へ行き、特 許事務所に勤めながら 俳句活動を続けた。 かいこう 者としての生涯について、二 号 を「 折 柴 」 (読みは当初は 第三部 介します。 ◇日時 三月十四日(土)~ 十 五 日( 日 ) 午 前 十 時 ~ 午 後五時(最終日午後四時まで) お ざ わ へきどう 回に分けて紹介してきまし 22
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