162 - 高山市文化協会

そうした俳人としての活動
を基に書かれたのが「日本文
ける。
句集』が「読売文学賞」を受
その後も俳人としての活動
は続き、昭和三十六年に編纂
るまで続いた。
昭和十二年に碧梧桐が死去す
伝った。
『海紅』への寄稿は、
句誌『海紅』の編集なども手
と共に句作を行う。碧梧桐の
二 十 歳 で 上 京 し、 碧 梧 桐、
なかつか いっぺきろう
お お す が おつじ
中 塚 一 碧 楼、 大 須 賀 乙 字 ら
を模したコー
ります。また瀧井孝作の書斎
者の資料を収蔵、展示してお
(ウィキペディアより抜粋)
* * *
高山市図書館内の「近代文
学館」には、郷土出身の文学
作全句集』
『山桜』
の菜』
『海ほほづき』
『瀧井孝
『折柴句集』
『浮寝鳥』
『雪間
・主な句集
終わる。
井孝作の死去により、未完に
ぞれの旅を生きている。
心に深く残った。人はそれ
白夜と続く言葉は、人々の
島。知床、ハマナス、国後、
◇会場 高山市図書館「煥章
館」一階生涯学習ホール
三月十四日(土)
・十五日(日)
高山市文化協会では、郷土
の文化を支えてきた文学者の
◇入場無料
せっさい
経歴と功績を紹介し、今後の
文学の発展に寄与する目的
で、毎年二回の「近代文学館
企画展」を開催しています。
『おりしば』であった
かわひがし
[俳人 折柴]
瀧井孝作は、丁稚奉公をし
ながら近所の青年に俳句を
が、
碧梧桐の勧めで
『せ
へきごとう
た。今回の第三部では、瀧井
っさい』と読ませるよ
に た ず さ わ っ た『 小 沢 碧 堂
ち寄りくださ
い。
催
事のお知らせ
(一社)
高山市文化協会加盟団体
文化協会後援
光ミュージアム開館十五周年
記念 特別展『桜 さくら
サ ク ラ ~ 大 観、 玉 堂、 松 園、
清方、加山又造他~』
◇日時 六月九日(火)まで
開催中
◇会場 光ミュージアム
◇料金 入館料が必要
【記事訂正のお知らせ】
前号の角竹氏の紹介文冒頭
の「 一 八 五 五 年 生 ま れ 」 は、
「一八八五年生まれ」の間違
いでした。お詫びして訂正し
ます。
だ先だ。
〈ガンモンモ筆〉
春まだ浅い知床に、ハマ
ナスの花が咲くのはまだま
でなくてはならないのだ。
モメの言葉は、
「かもめを」
すると、カラスを見送るカ
れるなと訴えている。だと
地元の娘。村の娘が私を忘
んは森繁で、白いカモメは
ロケが終わって東京に帰
って行く気紛れなカラスさ
味が全く違ってくる。
と。
「 よ 」 と「 を 」 で は 意
もめよ」は「かもめを」だ
歌の終わりに「忘れちゃ
いやだよ 気まぐれカラス
さん 私を泣かすな 白い
か も め よ 」 と あ る が、
「か
たという。
に、唯一つだけ注文を付け
吹き込んだ。森繁はその歌
加藤登紀子が、後日この
曲を歌い直してレコードに
後島は、還らぬ北方領土の
クの海の向こうに見える国
みごとに演じた。オホーツ
クの老人の哀愁を、森繁は
に一人猫と暮らすオホーツ
きるもの」で、厳寒の番屋
使われた映画「地の涯に生
はて
森 繁 久 彌 の「 知 床 旅 情 」
は名曲だと思う。この曲が
「岡目一目」
学 ん だ。 十 五 歳 の 時 に 河 東
孝作の俳人「折柴」としての
う に 改 め た ) と し た。
仲間』は、昭和五十九年の瀧
碧梧桐に俳句を認められ、句
ナーもありま
第 回 高山市近代文学館企画展
昨年より「瀧井孝作 没後
三十年展」と題し、高山市名
学大賞」を受けた『俳人仲間』
す。ぜひお立
瀧井孝作 没後三十年展
誉市民である瀧井孝作の文学
誌への投稿を始める。その際
である。続編である『続俳人
経歴を、その作品を通して紹
十八歳の時に高山を飛
び出し大阪へ行き、特
許事務所に勤めながら
俳句活動を続けた。
かいこう
者としての生涯について、二
号 を「 折 柴 」
(読みは当初は
第三部
介します。
◇日時 三月十四日(土)~
十 五 日( 日 ) 午 前 十 時 ~ 午
後五時(最終日午後四時まで)
お ざ わ へきどう
回に分けて紹介してきまし
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