リーフレット黒野城(pdfファイル.1.59MB)

 か とう さえもんのじょう さだやす 加藤左衛門尉貞泰公
代官屋敷門
新道
栄町
黒野
公園
黒野
西公園
溝東
屋敷跡
ハイショップ
ふじた
黒野フード
町屋敷
200
二ノ丸跡
薬師堂
岐阜西
郵便局
岐北 南町
接骨院
野々村
新聞店
古町
久世
櫓跡
黒野城跡
櫓跡
加藤主馬助
屋敷跡
松月庵
村前
工業
折立
井ノ上
平成
平成医療 医療
専門学院 短大
平野 総合病院
貴久家
貴久家 P
今も伝わる大字黒野の小字名(こあざな)
お城があった頃又は江戸時代の施設、地名など
施設
・黒野城跡公園・トイレ
黒野城跡
TEL 058(265)4141
岐阜駅
加藤外記
光貞
室大橋清兵衛女
表紙俳句 松尾芭蕉・神山寸木の連句碑より(三ツ又)
十雨(美濃派獅子門三九世・國島二郎)
発行「黒野城と加藤貞泰公研究会」第 2 版 2014.11
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メールアドレス [email protected]
後援 / 黒野地区自治会連合会・黒野まちづくり協議会
金華橋
21
忠節橋
長良川
鏡島大橋
史跡についてのお問合せ
岐阜市教育委員会 社会教育課
〒500-8720 岐阜市神田町 1-11
マーサ
大縄場大橋
板屋川
一柳右近嫡男 光泰養子
光吉
加藤信濃守光吉室
間島彦太郎室
女子
女子 細川玄番頭源興昌政室
加藤泰興 大洲藩主
加藤直泰 新谷藩主
竹中丹後守重門室︵半兵衛嫡男︶
冷泉中納言室
加藤信濃
女子
女子
女子
女子
加藤貞泰
近江国磯野村生まれ
作十郎、光長
従五位下左衛門尉
左近太夫将監
室小出吉政女
加藤平内
光直、遠江守
室本田因幡守俊政女
旗本加藤氏初代
加藤主馬助
光尚
室加藤信濃光吉女
桜
( 井︶室加藤図書光定女
加藤伝左衛門
芭蕉
句碑
じゅう う
黒野小
岐
伊自 阜環状線
良川
・二ノ丸資料館(私設)
見学ご希望の方は旧黒野接
骨院関谷まで
大学病院
岐阜大
ほり
・車が通れない狭道です。徒歩、自転車で散策しましょう。
・黒野城跡に駐車場はありません。下記のご厚意により見学者に限り駐車場
が利用できます。
P1 約 5 台 全日利用可 二ノ丸資料館(私設)
P2 約 20 台 土・日・祝日利用可 平成医療専門学院駐車場
但し駐車禁止の場合もある。自己責任で駐車願います。
戦国時代、十六年間存在した黒野城
十五歳の加藤貞泰は、豊臣秀吉の命にて甲斐の国から四万石で
一柳右近室
女子
加藤光泰
加藤光泰
加藤景泰
美濃国生まれ
権兵衛尉
美濃国多芸郡生まれ
作内、景教、遠江守
室一柳藤兵衛女
甲斐二四万石国主
文禄二年朝鮮にて没
加藤図書
光定、初平兵衛光政
室野々村主水正雅親女
加藤平左衛門
加藤氏と姻戚関係の主な一族
一柳氏・竹中氏
黒野城に在城
駐車場
国替えになり城完成して二年、天下分け目の関ヶ原合戦では
徳川に味方する。生涯で最も長く居住し善政を行った黒野城主
・JR 東海道線「岐阜駅」下車
路線バス ( 岐阜バス ) 御望野線 ( 約 30 分 )「黒野城跡前」下車・徒歩約5分
加藤氏一族
め もん
うし がえる
じゃ
蛇の目紋
牛蛙の掛合ひ鳴きや城の壕 十雨
《ご案内 》
どこまでも武蔵野の月影涼し 寸木
みずあいにたり
水相似たり三またの夏 芭蕉
交通のご案内
神明跡
釈迦堂
東町
400m
エンジニア (天神坊) 勝
寺
古町
大門
二ノ丸
加藤平内屋敷跡
資料館
(貞泰の弟)
城南公園
(株)KVK
馬場跡
妙見堂 黒野城跡前バス停
300
幌町
搦手
土塁跡
トウメイ 転深坊跡 超
黒野城跡
100
土塁跡
三ツ又にて連句
町裏
0
二ノ丸
あそか苑
よしや
黒野別院跡
専長寺 明善寺
観音堂
楽市制令
西町
医院
通筋
下之町
コマツヤ
西町
信濃
家中屋敷
加藤図書
屋敷跡
野々村 広小路跡
庄屋の門
土塀
西下之町 光順寺
下鵜飼
外堀跡 東木戸
外堀跡
西木戸の堀跡 円満寺
多賀神社
戸川新聞店
惣門口
上之町
西村歯科
馬頭観音
多賀町
家老 加藤信濃 宮大門跡
黒野
会館
多賀
神社
古市場
三角屋
西木戸
仲之町
溝西
N
熊野神社
テニスコート
加藤貞泰は、天正8年(1580)、
加藤光泰(1537∼1593)
の嫡男として
近江国磯野村(滋賀県)に生まれる。
父光泰(甲斐国主24万石・山梨県)
が文禄の役、朝鮮にて死去し5ヶ月
後の文禄3年(1594)、15歳で家督を
相続し、美濃国黒野4万石に封じら
れ黒野城を築く。
(1580∼1623) 慶長5年
(1600)、関ヶ原合戦の前
加藤貞泰公肖像画 おお ず そうけいいんぞう
哨戦では始め西軍に属し犬山城に加
大洲曹渓院蔵
勢していたが、貞泰はかねてから石田
三成への宿意があり徳川家康に味方した。
また貞泰は、弟平内を家康
の小山陣所に人質として送り、忠誠を誓う。
本戦では共に先陣として働き、 関ヶ原合戦の勝利により、貞泰は本
領を安堵された。平内は濃州大野郡など3641石を拝領した。
じょうどのつつみ
貞泰は城下町を整えると共に、治水事業(尉殿堤)を行い、領内の生
産性を高めたが、慶長15年(1610)2万石を加増され、伯耆国米子(鳥
取県)6万石に封じられた。黒野城は、わずか16年の短期間で終わる。
その後、元和3年(1617)、大坂の陣
(冬、夏)
の功績により伊予国大洲
(愛媛県)
6万石へ封じられた。元和9年(1623)、江戸において44歳で
死去した。大洲藩の加藤氏は、明治維新まで250年続いた。
黒野小
くろ の じょうあと
ぎ ふ し し せき
黒野城跡 (岐阜市史跡)
岐阜市北西部の黒野地区にある市史跡「黒野城跡」。現在は公園として
親しまれており、春は満開の桜を楽しめます。ここでは、豊臣秀吉が天
下を統一した安土桃山時代末期から江戸時代初期にかけての 16 年間、黒
野城を中心に城下町が整備され、加藤貞泰公の善政が行われていました。
黒野城の本丸跡は約 110m四方の方形で、土塁の高さは約5m、外側は
幅約 15mの堀に囲まれています。 南西には枡形虎口(ますがたこぐち /
城の出入口)があり、現在の標柱附近には石垣に囲まれた城門と橋、北西
隅と南東隅には土塁が外に張り出し、櫓(やぐら)台があったと推測され
ます。出入口南側の公園・橋・土塁は昭和時代に造成されました。
平成 25 年度から発掘調査が行われ、平成 26 年度に黒野城跡で初めて
「石垣」を確認。織豊時代特徴の城構造が明らかになってきています。
小牧長久手・関ヶ原合戦図
屏風の黒野城
6曲1隻の屏風より部分
岐阜市歴史博物館蔵
昭和 23 年 (1948) の本丸跡
黒野城址標柱と案内板
北西櫓跡
北
古城跡・城藪と呼んでいた
国土地理院(米軍撮影の部分)
堀に囲まれた土塁
城郭の
規模
枡形虎口
城郭規模は東西約 1000m、南北約 800m。 本丸を中心に三重の堀と土塁に
囲まれ、外堀は防御に適した凹凸形状。要所には神社や寺院が配置されていた。
郭内は二ノ丸、広小路、役所、道場、蔵屋敷など城の施設と家臣196家の
屋敷などが並び、各屋敷には家臣、家来やその家族などが住んでいた。
南西側には、15 町名の町屋敷が整然と配置されていたと推定される。
楽市の制令
本丸跡
じ
当町中の地子︵年貢︶
し ねん ぐ
おわ
並びに諸役、五ヶ年
の間、これを免じ訖
んぬ。なお楽市たる
わずら
煩い無く申し付くべ
の上は、
これ又、
その
よっ くだん
ごと
検地帳
き者なり
土塁の桜が満開
仍て件の如し
升形虎口内側で石
垣土台部分を発掘
正月日 左衛門尉 ︵花押︶
新発見の石垣列
慶長十五年
南東櫓跡
黒野
年老中
加藤貞泰は、 城下町繁栄
のため、 慶長 15 年 (1610)
正月、「楽市」の免許を町
に出した。 また町人に対し
て、 土地の年貢と諸役を向
こう 5 年間免除し自由に
商売ができるようにした。
しかし、米子に転封のため、
わずか半年の実施であった。
城門
本丸跡
楽市の
城下町
︵長良崇福寺蔵︶
雨期や大雨で水を湛える
慶長 14 年 (1609)加藤左衛門尉知行
濃州方縣郡黒野村 御縄打水帳
家中屋敷・町屋敷・水田・畑の土地台帳で加藤平内、信濃、図書など家臣
196 名の屋敷、15 町名の町屋敷、黒野村水田、畑の奥行・幅・面積と地主名。
本丸虎口の門と木橋
古図より部分[玉木和廣(英治)氏蔵]
本丸北東側の土塁と堀
黒野城下家中屋敷・町屋敷の推定図
[ 古図と慶長検地帳から再現 ]
玉木和廣 ( 英治 ) 氏蔵