レジュメ - GACCOH

2015/05/31
GACCOH 教養講座
「知らなかったよ!ハンス・ヨーナス」
第一回 ヨーナスと人生
ナビゲーター・戸谷洋志
1. はじめに
本日はご来場頂き、誠にありがとうございます。今回は、
「ヨーナスと人生」と題し、
著名な人物や歴史的事件と関連させつつ、ヨーナスの生涯を紹介したいと思います。この
講座では、いまお手持ちのレジュメに即し、適宜口頭で補足する形で、お話させていただ
きます。もしかしたら、こうした読み上げの形でのプレゼンテーションにはあまり馴染み
がない方もいらっしゃるかも知れません。しかし、哲学研究の領野ではこうした形式が今
でも一般的です。というのも、特に哲学の議論というのは、テクストの解釈や抽象的な推
論が中心的な方法論になるため、どうしても口頭やパワーポイントでは説明不足になるか
らです。また、こうした形で文章化しておけば、後で講座の内容を振り返っていただくと
きに有用です。なにより、私がこの講座に寄せている思いは、まだ知られていないにも関
わらず、これからますます再評価されてゆくべきヨーナスの思想を紹介することに尽きま
す。ヨーナスに関しては、まだ日本語で書かれた解説書や入門書が存在しません。現代思
想におけるヨーナスの重要性や、その哲学が特に日本の昨今の状況を考えるのにいかに適
したものであるかを顧みれば、これは日本の社会にとって大きな知的損失です。ですか
ら、このような形でレジュメを残すことは、後年、日本におけるヨーナスの受容を検討す
る際に何らかの重要性をもつのではないかと愚考しております。そのため、こうした形で
レジュメをお配りすることが、最善の発表形式であると確信しています。1
1
以下、引用をする際に、邦訳が存在する場合には原則としてそこから引用をしていま
す。
1
2. 現代思想のなかのヨーナス
皆様の中には、既にヨーナスという哲学者をよく知っている方もいるかも知れません。
あるいは、
『責任という原理』だけは読んだことがある、という方もいるでしょう。しか
し、ここでは講座の趣旨から、まったく知られていないということを前提にお話させて頂
きます。
ヨーナスという哲学者は、1903 年にドイツで生まれたユダヤ人の哲学者であり、1993
年にニューヨークで死去しました。つまり彼は、二十世紀の始まりと終わりを生きた、と
いうことになります。
現代思想を、ここで仮に、第二次世界大戦以降の思想として定義することにしましょ
う。現代思想の中でヨーナスはどのような位置にあるのでしょうか。一般的に、日本にお
いて「現代思想」という言葉でまず念頭に置かれているのは、フランスを中心としたポス
トモダン思想ですが、ドイツ系の哲学の潮流としては、フランクフルト学派の哲学も知ら
れています。他方、英米圏では分析哲学・言語哲学の伝統があり、今日においても非常に
大きな影響力をもっているといえるでしょう。さらに、科学認識論、カルチャルスタディ
ーズの思想もまた、現代思想において無視することのできない勢力です。
いま挙げたいずれの勢力にも、ヨーナスは属しません。強いて言えば、どこにも属さな
いという意味で、政治哲学者のハンナ・アーレントと似た立場にある、と評することがで
きるかも知れません。では、彼が現代思想において注目に値しないかと問われれば、もち
ろんそんなことはありません。
現代思想における彼の最大の業績は『責任という原理』
(1979 年)です。この本は、
様々な具体例を挙げながら科学技術の危険性を指摘し、これに対応するべき新しい倫理を
考察したものです。その中でヨーナスが訴えるのは、遠い未来の世代、つまりまだ生まれ
、、、、
ていない人々に対する責任の必要性です。このヨーナスの責任原理の哲学は、今日の未来
倫理2の先駆的な試みになりました。
『責任という原理』は、特にドイツにおいて圧倒的な影響力をもっています。まず、こ
の本はドイツ国内だけで 20 万部の売り上げを記録し、とにかく売れました。日本にニュ
ー・アカデミズムのブームを巻き起こした浅田彰の『構造と力』の売り上げは当時 15 万
部であったといわれていますから、その購買数の多さは特筆すべきものです。こうした数
字を見るだけでも、
『責任という原理』が「戦後もっともよく読まれた倫理学の書籍」3と
遠い未来の世代に対する責任の倫理学は、ドイツでは「未来倫理 Zukunftsethik」と呼
称されることが多いのですが、これに対して日本ではしばしば「世代間倫理」という名称
が用いられます。この名称を普及させたのは、ヘーゲルの研究者で、環境倫理学を日本に
紹介したことでも知られる加藤尚武です。しかし、
「世代間倫理」という名称は、私見で
は大きな問題を抱えています。これについては第二回でお話する予定です。
3 Werner M. “Hans Jonas’Prinzip Verantwortung”, hrsg.v. Düwell, M. /Steigleder, K.
Bioethik: Eine Einführung, Suhrkamp, 2003, S. 41-56, S. 41
2
2
呼ばれたとしても、いささかの不思議もありません。
『責任という原理』は、アカデミズムの世界だけではなく、多くの市民の手に渡り、知
識階層の人々を啓蒙していきました。ドイツは今日では環境先進国として知られ、自然保
護に対する高い意識をもつとされていますが、そうした意識の基盤を形成したもの一つが
ヨーナスの哲学であったとしても4、やはり疑問の余地はないでしょう。
ヨーナスの哲学が影響を与えたのはドイツ国内だけに限りません。
「持続可能な社会」
という標語が発案されたことで知られる、1992 年リオデジャネイロで開催された「環境と
開発に関する国際連合会議」は、ヨーナスの思想の衝撃がなければ不可能であったと言わ
れています5。
もちろん、アカデミズムの世界でも、ヨーナスの存在感は際立っていました。ヨーナス
の責任原理の哲学は、哲学の議論のなかに初めて環境倫理・生命倫理の問題圏を導入し、
また倫理学の議論において「責任」という概念の重要性を決定的なものとした6、と評価さ
れています。
もう少し違った角度からヨーナスの哲学を切り取ることもできます。
20 世紀において最大の影響力をもった哲学者を一人選ぶとすれば、多くの人はマルティ
ン・ハイデガー(1889-1976)の名を挙げるのではないでしょうか。彼の主著『存在と時間』
は様々な点でドイツ哲学的な色彩を帯びた大著です7。しかし、これは後でまた言及するこ
とになりますが、ハイデガーはナチスに加担し、世界中から非難の的になります。戦後の
ドイツの哲学者たちが直面したのは、いかにしてハイデガー的哲学から距離を取るか、あ
るいはこれを克服するか、という課題でした。そのため、ドイツではもはやドイツ的哲学
が育まれなくなっていきます。その傾向をもっとも如実に表しているのが、フランクフル
ト学派第 3 世代と呼ばれる討議倫理の哲学者たちです。彼らは、アメリカにおいて大きな
影響力をもつ言語哲学、発達心理学、科学認識論を積極的に受容していきました。これ
は、アメリカの民主主義の伝統を、ヨーロッパの中で孤立したドイツの思想へと接続しよ
Hösle V. Eine kurze Geschichte der deutschen Philosophie, C.H.Beck, 2013, S. 302
Müller W. Hans Jonas; Philosoph der Verantwortung, WBG, 2008, S. 9
6 Hirsch-Hadorn G. Umwelt, Natur und Moral: Eine Kritik an Hans Jonas, Vittorio
Hösle und Georg Picht, Karl Alber, S. 55-56
7 ヘスレに拠れば、伝統的なドイツ哲学の特徴として挙げられるのは「宗教性すなわち世
界の根源をテーマとすること」
、
「現実性のアプリオリな解明」、「カント的な非幸福主
義」
、
「形式主義」
、
「歴史への関心」です。ハイデガーの『存在と時間』はこれらを踏襲す
るという意味でドイツ哲学的であり、特にその特徴として挙げられるべきなのは、デカル
ト・カント的な「時間性と主観性に関する超越論的な反省」
、ディルタイ的な哲学の「歴
史性への架橋」
、
「現存在の時間性の死への先鋭化」
、「存在への問の発問」です。ただし、
そのうちには倫理学に相当するものがないという点は、留意される必要があります。
Hösle, V. “Hans Jonas' Stellung in der Geschichte der deutschen Philosophie”, hrsg. v.
Wiese, C./Jacobson, E. Weiterwohnlichkeit der Welt. Zur Aktualität von Hans Jonas,
Philo Fine Arts, 2003, S. 41-43
4
5
3
うとするアプローチに他なりません8。その背後には、ドイツ的哲学がもっていた独断的性
格に対する反省と、これを超えたグローバルな価値多元主義の必要性への鋭い意識が垣間
見えます。
そうした中で、ヨーナスは唯一、ドイツ的哲学を継承している哲学者であると評価され
ています。というのも『責任という原理』は、単に最先端のテクノロジーを批評した本で
はなく、そもそも人類は何者であるのか、何故存続するべきなのか、という根源的な問い
へと突入してゆく本であるからです。そこでは、カントやヘーゲルにも似た、ともすれば
時代錯誤な形而上学的な議論が展開されており、民主主義の問題は脇へと追いやられてい
ます。そうした点から、ヨーナスは「最後のドイツ哲学者」9と呼ばれることがあります―
―もっとも、この評価は彼の人生を顧みればまったくの皮肉であると言わざるをえませ
ん。
現代思想におけるヨーナスのポジションは、さしあたり以上のように素描されるでしょ
う。ヨーナスは紛れもなく 20 世紀の思想を語る上で無視することができない哲学者で
す。彼の重要性を決定的なものとするのは、責任原理の思想に他なりません。では、彼は
何故、この思想を主題とするに至ったのでしょうか。これを、今回の講座の主たるテーマ
に据えることにしましょう。ここには 20 世紀という時代が彼に課した幾つもの数奇な運
命が映し出されることになります。
8
9
ibid., S. 40
ibid., S. 52
4
3. ヨーナスの生涯
まずはヨーナスの生涯を簡単な年表で見ていきましょう。
1903 年
ドイツ・メンヒェングラードバッハで生まれる。母は高名なラビの娘で
あり、父は紡績工場の社長。
1921 年
エトムント・フッサール(1859-1938)の名声に惹かれ、フライブルグ大
学へ入学。このとき、当時私講師であったハイデガーに出会い、魅了
される。
1921―23 年
ベルリン大学へ移籍。
1924―28 年
マールブルグ大学へ移籍。ハイデガー及び神学者のルドルフ・カー
ル・ブルトマン(1884-1976)に学び、論文「グノーシスの概念」で博士
号を取得。
1933 年
ドイツからロンドンへ亡命。
1934 年
ロンドンで処女作『グノーシスと古代の精神』を刊行。
1940―45 年
イスラエルへ移住。ユダヤ人旅団の一員としてイギリス陸軍の兵士に
なる。
1948―49 年
イスラエル陸軍の兵士になる。
1949 年
軍役を終了し、イスラエルを離れ、カナダのマクギル大学モントリオー
ルで研究員に着任し、アカデミックなキャリアを再開する。
1955 年
ニューヨークのニュースクール・フォア・ソーシャルリサーチ校の教授
を務める。
1979 年
『責任という原理』刊行
1993 年
ニューヨークで死去
ある人の人生を知ろうとするとき、年表を用いることはごく皮相的な理解しかもたらし
ません。それでも、この年表から一つ、どう考えても異様なことが読み取れるはずです。
ヨーナスは、博士号を取得し、処女作を公刊した直後に、イスラエルの地で兵役に服し、
イギリス陸軍の砲兵として活動することになります。言うまでもなく、戦地に図書館はあ
りません。彼の研究はストップすることを余儀なくされます。それも、30 代の半ばとい
う、研究者としてもっとも脂の乗った時期に、です。もちろん、当時既に気鋭の哲学研究
者として知られ、それどころか亡命知識人としていち早くドイツを去った彼に、兵役の義
務などあるはずがありません。つまり彼は自ら望んで戦地に赴いたのです。
彼を戦地へと駆り立てたのは一体何だったのでしょうか。そして、戦争の体験は彼の思
想にどのような影響を与えたのでしょうか。まずは、この点からヨーナスの人生を紐解い
ていきたいと思います。
5
4. ヨーナスとユダヤ教、そしてアウシュヴィッツ強制収容所
1903 年、ヨーナスはライン川の畔にあるメンヒェングラードバッハという町で生まれま
した。その町は、古都ケルンの近隣に位置し、当時のドイツにあってかなり大きな工業都
市でした。ヨーナスの父は紡績工場の社長で、母は高名なラビの娘であり、そこは厳格な
ユダヤ教の家庭でした。家には父の書斎があり、そこにはゲーテ、シラー、カント、ショ
ーペンハウアーなどの古典が並んでおり、少年ヨーナスはその書斎を自分の部屋のように
使い、本に親しみながら成長することになります。
しかし、ヨーナスが住んでいた町の住人は、そのほとんどがプロテスタントでした。ユ
ダヤ教徒の家庭はごく僅かでしかなく、少年ヨーナスはそのせいで幾度も自分がマイノリ
ティであることを思い知らされます。自分は人と違う、自分は普通ではない、そうした疎
外された意識とともに育ったヨーナスは、15 歳の頃、父の書斎に置かれていたユダヤ教に
関する本を読んだことによって、一つの思想に魅了されます。シオニズムです。
シオニズムとは、パレスチナの地に失われたユダヤ人の国家を建国しようという思想で
す。大学生になり、哲学を専攻したヨーナスの胸からも、シオニズムへの情熱が失われる
ことはありませんでした。
1921 年、エトムント・フッサールの名声に惹かれてフライブルグ大学に入学、そこで出
会った私講師ハイデガーに魅了され、1924 年、ハイデガーが教授に着任したマールブルグ
大学へ移籍します。ハイデガーと神学者のルドルフ・ブルトマンのもとで哲学を学んだヨ
ーナスは、1928 年、グノーシス主義の研究で博士号を取得します。
1933 年、ヨーナスはロンドンへ亡命、翌年にはパレスチナにわたり、同地で自警団を結
成します。彼の亡命の理由は、ナチスの迫害を逃れるためである以上に、シオニズムの理
想を実現させ、ナチスとの文字通りの徹底抗戦を行うためでした。ここに、他の亡命知識
人からヨーナスを区別する大きな特異性があります。
自警団での任務を終えたヨーナスは、イギリス陸軍に入隊し、砲兵として従軍すること
になります。彼の任務がどのような内容であったかは不明ですが、恐らく前線に出ること
はなかったでしょう。しかし、彼は戦地で夥しい数の死体を目の当たりにし、肉体の破壊
という現象に身近に接することになります。この体験が、後の「生命の哲学」へと発展し
ていくのですが、それについて第二回の講座でお話する予定です。
ヨーナスが従軍している 1942 年、ドイツに残っていた母が、アウシュヴィッツ強制収
容所へと連行され、同地で殺害されます。アウシュヴィッツ強制収容所というのは、現在
のポーランドに建設された施設で、そこへと連行されたユダヤ人は強制労働を強いられ、
あるいは到着後すぐに殺害されました。冬になれば重たい雪が降り、凍結した土の道を、
収容された人々は裸足で歩くことを強いられました。凍傷になって歩くことができなくな
れば、ガス室へと送られて殺害され、すぐ隣にある焼却炉で遺体は焼かれ、灰は穴に捨て
られました。
6
ヨーナスが母の死を知るのは、3 年後の 1945 年でした。その報せは、彼に決して癒え
ることのない悲嘆を与えました。それを機に、彼の中で何かが変わります。イスラエル建
国の野望への熱は、だんだんと冷えていきます。しかし、当時のヨーナスには、ホロコー
ストの出来事を正しく主題化することはできなかったようです。彼がアウシュヴィッツに
ついて語れるようになるのは、ずっと後のことです。
ヨーナスは 1984 年に、
「アウシュヴィッツ以降の神の概念について」と題された講演を
行っています。彼はこの講演の中で、アウシュヴィッツ強制収容所によるユダヤ人の大量
殺害は、現代社会におけるユダヤ教への信仰を根底から震撼させるものであった、と語り
ます。何故なら、ナチスによるホロコーストの対象となったのは、ユダヤ教徒としてのユ
ダヤ人ではなく、生物学的な人種としてのユダヤ人であったからです。もし、ユダヤ教徒
として殺害されるなら、それは殉教であり、救いの余地があり、言い換えるならその死に
意味をもたせることができます。しかし、とヨーナスは言います。
アウシュヴィッツという名をもつ出来事からは、もはや、こうしたことのどれも〔殉
教による意味づけ〕がぬけおちています。〔……中略……〕アウシュヴィッツがあず
かり知っているのは無だけであり、その無は未成年の子どもたちすらむさぼり、飲み
込みました。アウシュヴィッツがさしだしたものは、ただ無へとむかう機会だけでし
、、、
た。そこで死んだひとたちは信仰のために死んだわけではありませんでした(エホバ
、、
の証人もそうです)
。このひとたちが殺されたのは、その信仰ゆえでもなければ、こ
、、、
のひとたちが人格であるがゆえにもっていたなんらかの意志の傾向のためにでもあり
ませんでした。10
この言葉は、母の訃報を耳にしたときにヨーナスを襲ったであろう、底のない虚無感に
染め抜かれています。繰り返しになりますが、彼の母はラビの娘でした。そうした由緒正
、、、、、、、 、、、、、、、、、、 、、、、、、、、、、、、
しきユダヤ教徒が、信仰と関係なく、ただ人種だけを根拠に、まるで物のように殺害され
、
たのです。
第二次大戦以降、かつてシオニストであった彼は一転して、ユダヤ教の限界を繰り返し
指摘するようになります。母の死は、彼をずっと支えてきたものを折ってしまったのでし
ょう。しかし、それは彼に新しい思索の火種を与えることになります。ヨーナスは、著書
『無と永遠の間』
(1963 年)の補論の中で、次のように述べています。
私は、永遠への参与について、
「不死性」への参与について語りました。
(私の母のよ
うに)殺された人々が、こうした参与に与るためには、次ように考えることが必要で
10
ハンス・ヨーナス『アウシュヴィッツ以降の神』品川哲彦訳、法政大学出版局、2009、
7‐8 頁
7
す。すなわち、殺された者たちを苦しめ続けた不正行為は、超越的なものの錯乱とし
て、いま現に存在するすべてのものの上に、影を投げかけているのです。そしてこの
不正行為は、私たちに向かって、今生きている者たちに向かって、これを修復する努
力を要求しています。この高次の義務は私たちにこそあり、私たちは殺された者たち
のために、神性と未来の世界とに対して義務を負っているのです。そんな負担を引き
受けることのなかった世代よりも、はるかに重い義務です。しかし、それによって殺
された人々の苦しみは有意味な出来事になるわけではありません。その義務を引き受
けることのうちに、残された人々に対するいかなる慰めもありません。犯罪は、償い
を要求することによっても、それどころかもしかしたら償いをさせることによって
も、決して有意味なことにはならないのですから。11
ヨーナスは、アウシュヴィッツという「影」から、未来の世界に対する「義務」の必要
性を指摘しています。ここでは、ナチスを犯罪者として糾弾する態度よりも、加害者や被
害者という立場を超え、アウシュヴィッツ的な事態を二度と引き起こさないことこそが、
人類に課せられた義務であると考えています。ヨーナスにとって、アウシュヴィッツとい
う出来事は、単にナチスの錯乱というだけで説明できるものではなく、人類そのものの錯
乱として考えることを迫るものだったのです。
、、、、、、、 、、、、、、、
シオニズムから、未来への責任へ。この転回は不可避であり、不可逆でした。以降、い
かにして人類の存続を守るか、未来に起こりうるアウシュヴィッツ的破局を回避するか
が、ヨーナスの主たる関心となっていきます。
しかし、ヨーナスには考えなければならないことがありました。それは、一体何故、人
類はアウシュヴィッツを引き起こしてしまったのか、ということです。その背景にあるの
は、どのような世界観、存在論だったのでしょうか。それを解く鍵を握っていたのは、ヨ
ーナスのあまりにも近くにいる人物でした。ハイデガーです。
Jonas H. Zwischen Nichts und Ewigkeit. Zur Lehre vom Menschen, Vandenhoeck &
Ruprecht, 1987, S. 72
11
8
5.ヨーナスとハイデガー、そしてグノーシス主義
ヨーナスとハイデガーの関係を考えるために、少し時間を遡りましょう。
ヨーナスは 1924 年、マールブルグ大学へ入学し、そこでブルトマンとハイデガーのゼ
ミに出席し、両者の指導のもとで博士論文を執筆しています。
ヨーナスの博士論文「グノーシスの概念」は、グノーシス主義の神話を実存論的分析論
によって解釈する「脱神話化」を方法論として採用しています。この実存論的分析論は、
ハイデガーが主著『存在と時間』の中で用いた方法論であり、ヨーナスは弟子らしく師匠
の技を盗んで自らのものとしたわけです。
「脱神話化」の思想について簡単に説明しましょう。ヨーナスに拠れば、神話というも
のは、それが形成された時代、文化、共同体に生きる人々の人生観、不安、気分によって
形成されています。そうした実存が結晶した物語こそが神話です。そうだとすれば、神話
を実存分析によって解釈することで、当時の人々の実存を浮き彫りにすることができる、
と考えることができます。これが「脱神話化」、すなわち「神話」を解体し、その核心に
秘められた過去の実存を明確化させる方法論です。論文「グノーシスの概念」は、グノー
シス主義における神話を脱神話化することで、そこで用いられる概念を実存論的に解釈す
る試みである、と表現することができるでしょう。
グノーシス主義の神話とはどのようなものでしょうか。これを説明するのは容易ではあ
りません。というのも、グノーシス主義の定義については今日でも様々な見解の対立があ
るからです。とはいえ、さしあたり次のように概略することは許されると思います。
グノーシス主義とは、キリスト教の起源とほぼ同時期に地中海世界東方に発生し、2~3
世紀に地中海世界全域および中東にまで拡大した宗教運動です。グノーシス主義の思想
は、人間の霊魂を創った高貴な神と、世界を創った劣った神とを区別する世界観に基づ
く、霊魂と肉体(世界)の二元論、を共通の特徴としています。この思想に従えば、人間
の霊魂にとって世界は本来自分が属するべき場所ではなく、従って敵対的な場所であり、
異郷である、ということになります。ここにグノーシス主義の思想の大きな特徴がありま
す。というのも、ユダヤ教やキリスト教において、世界は人間にとって故郷として考えら
れているからです。
グノーシス主義の神話において、人間は高貴な神によって創造された存在であるにも関
わらず、自分の意志に反して、劣った世界へと投げ入れられている、という実感を人はも
っています。そうである以上、人間はこの世界に対して責任を負うことはないし、この
“世界がどれほど荒廃したとしても関係がありません。ヨーナスは、この”自分の意志に反
して、劣った世界へと投げ入れられている”という神話を一つの実存的な「気分」として解
釈することで、古代の異教を包んでいたニヒリズムを明らかにしようとします。それが彼
の博士論文の主題でした。
9
ヨーナスが亡命をした 1933 年、ハイデガーはフライブルグ大学の学長に就任し、そこ
でナチスを擁護する学長就任演説を行います。この出来事がいかにヨーナスを驚愕させた
かは想像に難くありません。当時、ハイデガーは既に時代を代表する哲学者としての地位
を固めていました。それどころか、ヨーナスは自身の博士論文で、ハイデガーの方法論を
丸ごと採用するほど、彼の哲学的天才を信頼していたはずです。そのハイデガーが、あろ
うことか自分を含むユダヤ人を迫害せんとするナチスに加担したわけですから、その衝撃
は強烈であったはずです。
この学長演説を期に、ヨーナスはハイデガーと決別し、至る所でハイデガーへの深い憤
怒を表明していきます。それは晩年まで変わることがありませんでした。
何故、ハイデガーはナチスに加担してしまったのか? この問いに対して、ヨーナスは
自身のグノーシス研究を踏まえ、次のような大胆な解釈を提示します。すなわち、それは
ハイデガーの哲学がグノーシス主義的なニヒリズムに染まっているからである、というも
のです。いうまでもなく、ここでは解釈の反転が起こっています。博士論文においては、
グノーシス主義をハイデガー的なものとして解釈していたヨーナスは、ハイデガーによる
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
ナチス擁護を目の当たりにしてからは、ハイデガーをグノーシス主義的なものとして解釈
していくのです。
ヨーナスのグノーシス解釈において鍵になるのは、人間が自分の意志に反して世界へと
投げ込まれているために、世界が異郷でしかなく、人間は世界に対して責任を負わない、
というニヒリズムでした。ヨーナスはこの気分をハイデガーの「被投性 Geworfenheit」
という概念に即して解釈しました。しかし、後年ヨーナスは次のように見解を変えます。
周知のように、ハイデガーの『存在と時間』において「被投性」は現存在とその自己
経験の根本性格である。私の知るかぎり、この用語は元来グノーシス主義的である。
この用語はマンダ教〔東ヨルダンに現われた、現存するグノーシスの一派〕の文献に
も見られる。すなわち、生命は世界のなかへ、光は闇のなかへ、魂は肉体のなかへ投
げ入れられている、というのである。この用語が表しているのは、私に加えられた暴
力、私を問答無用に私が現在いる場所に置き、現在そうである私にする暴力であり、
また私が作ったわけでもなく、私が従うべき法とは別の法をもつ世界に、私を見いだ
すという受動性である。12
つまり、
「被投性」という概念こそがグノーシス主義に由来する概念である、とヨーナ
スは指摘するのです。そうだとすれば、ハイデガーの哲学は世界を前にしての「受動性」
に貫かれており、
「人間と存在全体の断絶」13というニヒリズムをグノーシス主義と共有し
12
ハンス・ヨーナス『生命の哲学――有機体と自由』細見和之・吉本陵訳、法政大学出版
局、2008、403 頁
13 前掲書、410 頁
10
ている、と考えることができます。ヨーナスはこのニヒリズムを、
『存在と時間』におけ
る倫理の欠落を理由づけるものとして解釈しています。
ハイデガーのナチスへの加担は、結局のところ、ハイデガーの哲学がグノーシス的であ
るがために、倫理に関する根底的なニヒリズムによってもたらされたものである、とヨー
ナスは指摘します。つまり、それはハイデガーの個人的な信条によるものではなく、彼の
、、、、、、、、、
哲学がもたらした必然的な帰結として現れたものでした。だからこそ罪が深い、とヨーナ
スは考え、ハイデガーをして容赦なく「哲学の敗北」14と断罪しています。
同時に、こうしたハイデガーの哲学への反省は、彼に新しい課題を突き付けるものにな
りました。つまり、アウシュヴィッツを許し正当化したのが、ハイデガーの哲学に浸透し
ていた倫理的ニヒリズムであるとしたら、二度とアウシュヴィッツ的事件を起こさないた
めには、まずこの倫理的ニヒリズムを克服する必要があります。言い換えるなら、この世
界を異郷ではなく、故郷として捉えることを可能にするような、新しい倫理学を構築する
ことが必要になります。これもまた、『責任という原理』における基本的な態度の一つで
あると言えるでしょう。
Jonas, H. Erkenntnis und Verantwortung: Gespräch mit Ingo Hermann in der Reihe
»Zeugen des Jahrhunderts«, Lamuv, 1991, S. 68
14
11
6.ヨーナスとアーレント、そして誕生性
もう一人、ヨーナスと関わりの深い人物を紹介します。政治哲学者のアーレントです。
ヨーナスとアーレントは、1924 年、マールブルグ大学のブルトマンのゼミで知り合いま
す。当時、ヨーナスは 21 歳、アーレントは 18 歳です。そのゼミで、ヨーナスとアーレン
トは唯一の非キリスト教徒であり、二人はすぐに互いを意識するようになります。重たい
話が続くのも気が滅入りますから、少し二人の青春時代についてお話しましょう。
アーレントはかなり変わった少女だったようです。ゼミへの出席を請うためにブルトマ
ン教授の研究室を訪れた彼女は、教授に面と向かって「しかし、一つはじめからはっきり
させておきたいことがあります。私は反ユダヤ的言動を許しません」と言い放ちました。
そうしたユダヤ人としてのアイデンティティはヨーナスとよく似ており、二人が意気投合
するのにも頷けるような気がします。
はじめ、二人は何度かレストランで昼食をとりました。何回目かの昼食で、アーレント
はヨーナスに対してある「協定」を結ぶことを提案します。
「あなたがまだ食べているあいだに、私がたばこを吸い始めてもいい、っていう特権
を認めてほしいの」15
ヨーナスは食べるのが遅く、それなのにアーレントはかなりの早食いだったため、昼食
のときはいつもアーレントが待たされる格好になっていたようです。また、彼女はヘビー
スモーカーでもありました。アーレントが提案した協定にヨーナスは同意し、この協定は
生涯にわたって二人の間で守られることになります。
それから二人は急速に仲良くなりました。毎日一緒に授業に出席して、一緒に昼食を食
べました。当時、ヨーナスは仲間の間では女好きで知られていて、一方でアーレントは学
内でも評判の美人でした。そのため、二人が恋愛関係にあるという噂が広がってしまった
そうです。ヨーナスの父親までもが二人が恋仲にあると勘違いし、アーレントの素性を詮
索するにいたったそうです。二人はよくその話題で笑っていましたが、恋愛関係を結ぶこ
とはありませんでした。もちろん、ヨーナスにその気がなかったわけではないようです
が、ある出来事がきっかけで、ヨーナスはアーレントに対して親友であり続けようと決意
することになります。
ある冬の日、アーレントは風邪を引いて寝込んでしまいました。ヨーナスが看病をしに
彼女の部屋を訪れます。その時には二人はすでに互いの部屋を行き来する仲になっていま
した。しかし、その日は少し様子が違っていたようです。ヨーナスは、その日に起こった
15
ハンス・ヨナス『ハンス・ヨナス「回想記」
』盛永審一郎・木下喬・馬渕浩二・山本達
訳、東信堂、2010 年、85 頁
12
出来事を、次のように述懐しています。
彼女はベッドに横たわっていなければならず、私はしばらく彼女の話し相手になって
いた。そして私が彼女のベッドに座ったとき、互いに愛情をもち性を異にする人間の
あいだでほぼ不可避的なことが起こった。ハンナは美しかったし、私もいとわしくは
なかった。こうしてわれわれはキスし、私は彼女をつかのま抱いた。16
しかし二人はそれ以上何もしませんでした。彼は立ち上がり、別れを告げて去ろうとし
ます。すると、アーレントは彼を呼び止め、次のように言いました。
「ハンス、もういちど戻って、座って。だめなの、あなたに話さなければならないこ
とがあるの」17
その時ヨーナスは、アーレントの口から、彼女とハイデガーが不倫の関係にあることを
告げられます。それを聞いたヨーナスは、以降、アーレントに対して異性愛の気持ちを寄
せるのをやめます18。彼から見えたアーレントは傷つきやすく、不安定でした。ヨーナス
は、自分が彼女を親友として支えなければならない、と考えたのかも知れません。ヨーナ
スはその冬の日の出来事を「私のまったく内密な生涯の思い出」19といい、懐かしく思っ
ていたようです。
二人の友情は第二次大戦後も変わりませんでした。1955 年、ヨーナスがニュースクー
ル・フォア・ソーシャルリサーチ校の教授に就任したとき、そこでは既にアーレントも教
鞭をふるっており、二人は同僚となります。このあたりの様子は、映画『ハンナ・アーレ
ント』で詳細に描かれていました。アイヒマン裁判をめぐって二人は一時見解を違わせま
すが、ほどなくして和解します。1975 年、アーレントが死去すると、ヨーナスは親友とし
て彼女の葬儀の代表弔辞を務めました。
ヨーナスとアーレントの交友関係は、主にヨーナスの側から語られるのみであるため、
どこまで客観的なものとして信頼されうるか議論されています。しかし、少なくともヨー
ナスにとって、アーレントの存在とその活躍が、自らの哲学的思索の大きな励みになって
いたことは、疑う余地のないことです。
16
17
18
19
前掲書、88 頁
同上
同上
同上
13
さて、哲学の中身からヨーナスとアーレントの関係を考えてみましょう。ヨーナスはア
ーレントの哲学から非常に大きな影響を受けました。彼は、彼女の業績のなかでもっとも
重要なものとして『人間の条件』(1958 年)を挙げ、特に「誕生性 Natality」の概念を高
く評価しています。
「誕生性」という概念によって、ハンナ・アーレントは新しい言葉を作りだしただけ
でなく、人間をめぐる哲学的な学説に新しいカテゴリーを導入した。20 P.30
アーレントが、可死性ではなく「誕生性」こそ、形而上学的な思想から区別されるも
のとしての政治的な思想における中心的なカテゴリーでありうると断言するとき、彼
女は極めて意識的に革新的なことを言っているのである。21
ヨーナスが『人間の条件』をいつ読んだのかは分かりません。しかし、少なくとも彼は
自らの主著『責任という原理』の中で、
「誕生性」概念にアレンジを加えて次のように述
べています。
死ななければならないことは、生まれてくることと結びついている。死すべきこと
は、ハンナ・アーレントの用語を使えば、「誕生性」という絶えざる源泉の裏側にす
ぎない。22
われわれが死すべきことは、若者の初々しさ、直接さ、そして熱意の中にある永遠の
新たなる約束を、われわれにしてくれる。それとともに、他者性それ自体がたえず流
れ込んでくる。この他者性の流入の代わりになるものは、経験が伸びてその蓄積が増
大してゆくことの中には見つけられない。経験が蓄積しても、世界を初めて新しい目
で見るという類例ない特権を取り返してはくれない。23
ヨーナスは「誕生性」の対局に老いと死を洞察します。もし人が老い、死ぬことがなけ
れば、新しい人間が誕生することもありません。そうだとしたら、科学技術によって人間
を不老不死にすることは、この世界に「新しい目」が到来することを妨げることになりま
す。ヨーナスはこうした立場から、ただ生物として延命することだけに終始するような、
Jonas H. “Acting, Knowing, Thinking: Gleanings from Hannah Arendt's
Philosophical Work”, Social Research, Vol. 44, No. 1, Hannah Arendt (SPRING 1977),
pp. 25-43, p.30
21 ibid., p. 30
22 ハンス・ヨナス『責任という原理――科学技術文明のための倫理学の試み――』加藤尚
武監訳、東信堂、2000、34 頁
23 前掲書、34 頁
20
14
医療技術の見境のない発達に対して批判的な態度を示し続けました。こうしたヨーナスの
見解はしばしば保守的であると批判されますが、その背後には、新たに誕生してくる未来
の人々によって、世界が予想もしない形で変わっていくことへの彼の希望がありました。
そしてその希望を彼に確信させたのは、間違いなくアーレントの哲学であったはずです。
15
7.ヨーナスと科学技術文明、そしてチェルノブイリ原発事故
アーレントと共にニュースクール・フォア・ソーシャルリサーチ校で教授を務める傍
ら、ヨーナスはアメリカにおける生命倫理研究の拠点であるヘイスティング・センターに
立ち上げからフェローとして参加します。当時、生命倫理はまだ始まったばかりの分野で
あり、いわば最先端であると同時に極めて実験的な試みでした。そこでヨーナスは様々な
論文を活発に発表していきます。脳死判定、臓器移植、ヒトクローン技術、遺伝子診断技
術など、今日でも議論が続く問題が網羅的に扱われました。
言うまでもなく、医療は人の病を治癒する技術であり、人の苦痛を和らげようとする技
術です。そうである以上、医療は原則的に善意に根差した技術であるといえるでしょう。
医療に携わる人が願うのは、人の不幸を減少させることであって、その逆ではないからで
す。しかし、生命倫理においては、それだけでは済まない様々な問題が噴出します。たと
えば、臓器移植を促すために人の死の定義を書き換え、かつては生きているものと見なさ
れていた状態を「脳死」と定義することは、ごく控えめに言って恐ろしいことです――少
なくとも、恐ろしいと感じる人が多数派を占めておかしくない事態です。では、一体何
故、善意に根差しているはずの医療において、こうした恐ろしい事態が引き起こされるの
でしょうか。
これに対するヨーナスの解答はこうです。医療であれ、なんであれ、科学技術は本質的
、、、、、、、、、、、、、、、、
に没価値的であるからだ、つまり、善いものでも悪いものでもないからだ、と。脳死判定
を下す人も、臓器移植手術に携わる人も、善意に根差して行為しているのかも知れませ
ん。しかし、そうした善意とはまったく別に、臓器移植の技術そのものはどんどん進歩し
ていくのであり、その進歩そのものは善意によって推進されているのではありません。こ
こに、科学技術文明がもつ最大の危険性がある、とヨーナスは洞察します。
どういうことでしょうか。ヨーナスは、科学技術の進歩がもつ没価値性を、次のように
説明しています。
科学は、その固有の理論的な目的のために、より精錬されより物理的に頑健な科学技
術を自らの道具として必要とする。科学自身がこの道具を生産するのであり、つまり
技術を注文する。科学が技術の助けを借りて得るものは,実践の領野における新しい
始まりの出発点になる。そしてまさにこの出発点が、つまり世界に働きかける科学技
術が,その経験によって再び科学に対してより大きな実験室を提供し、科学への新し
い問の温床を提供する――等々。ここには、そうした無限の円環運動が描かれる。24
Jonas, H. Technik, Medizin und Ethik: Praxis des Prinzips Verantwortung, Insel,
1985, S. 27
24
16
ヨーナスは、科学技術を科学との「円環運動」によって発展するものとして捉えていま
す。天文学をはじめとする近代科学は、人間の肉眼では確認できないものを、技術的な装
置によって可視化させることによって成立しました。科学の営みにテクノロジーは不可欠
のものとなり、科学が進歩するには、より大規模で、より高性能な装置が必要です。そし
て、そうしたテクノロジーによって科学が発展し、新しい知見が得られれば、今度はその
知見がテクノロジーに応用され、より高度な実験装置を作成することが可能になります。
これが、科学と科学技術の「円環運動」です。
そうだとすれば、科学技術の発展は、善意によって促されるものではなく、科学の発展
に随伴する形で、いわば自動的に進行してゆくものです。では、その発展は最終的には何
、、、、、、、、、、、
を目的にしているのでしょうか?何も目的にしていません。何故なら、科学の進歩は原理
的に無限であり、これと随伴する科学技術もまた、無限の進歩をすることが可能であるか
らです。従って科学技術の発達は本質的に無目的であり、無目的であるにも関わらず、人
間には止めることのできないものなのです。
ヨーナスは、科学技術がもつこうした無目的性に、グノーシス主義のニヒリズムの――
あるいはハイデガー的なニヒリズムの――変奏を見て取ります。先ほど述べました通り、
グノーシス主義的なニヒリズムとは、人間はこの世界に対していかなる責任も負わず、世
界は人間にとって異郷でしかない、という実存的な気分を意味するものでした。世界に対
して人間が責任を引き受けないということは、人間によって世界が蹂躙され、荒廃されて
しまうという事態を正当化することになります。世界がどうなろうが、そこは人間にとっ
て異郷でしかなく、どうでもよいことだからです。
科学技術は無目的に進歩するのであり、とにかく進歩しなければならないから、進歩す
るのです。科学技術の評価の尺度となるのは、それが過去の技術よりもいかに進歩した
か、改善されたか、効率化されたか、という観点だけであり、その技術がそもそも善いも
のか悪いものかは問題になりません。その現実を如実に示しているのが、兵器のテクノロ
ジーです。
原子爆弾の発明がもたらす破壊力の増大を嘆くことはできる。しかしその嘆きはまさ
に、原爆が技術的には「より良い」ものであり、その意味で残念ながら原爆の発明は
進歩であるという事実に対する嘆きなのである。25
もちろん、核兵器の製造を理論上可能にした量子物理学の研究者たちは、自らの研究に
よって兵器が造られたらよいなどと思っていなかったはずだし、むしろ、その研究が人々
の生活を豊かにするだろうと考えていたかも知れません。つまり、善意をもって研究に取
り組んでいたのかも知れません。しかし、そうした善意とは無関係に、核を利用する技術
25
ハンス・ヨナス『藤尚武監訳『責任という原理――科学技術文明のための倫理学の試み
――』加藤尚武監訳、東信堂、2000、286 頁
17
は進歩していき、結果として悲惨なテクノロジーをもたらすことになりました。
、、、、、、、、、、、、、、、、、、 、、、、、、、、、、、、 、、、、、、、
当事者が善意をもっているにも関わらず、科学技術が自動的に発達し、悲惨な事態に陥
、
る。ヨーナスが科学技術文明の最大の問題として考えていたのは、いたるところで何度も
繰り返されるそうした光景です。生命倫理においても、原子力の問題において、その本質
はこうした科学技術文明がもつ性格そのものに由来します。
そうであるとしたら、つまり、科学技術文明によってもたらされる様々な問題が、人間
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
の善意と無関係に引き起こされるなら、私たちがいま善意をもって用いているテクノロジ
、、 、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
ーが、後世になって恐ろしい破局を引き起こす可能性があります。つまり、私たちにとっ
て平和だと認識されている技術、人々の役に立つと信じられている技術、幸福をもたらす
と考えらえている技術が、遠い未来には、人々に苦痛を強い、最悪の場合には人類の絶滅
をもたらすかも知れません――それが誇張でないことは、環境問題を顧みればご理解頂け
ると思います。だからこそ、ヨーナスは次のように語っています。
実際に科学技術に関して私を怯えさせたのは、原子力ではなく、まったく普通の、平
和的な、利益、享楽、快適性、生活を美しくすること、あるいは負担の軽減へと向け
られた近代技術の使用から、まったく作為的ではないにも関わらず不可避の副作用に
よって明らかになるものだった。26
こうしたヨーナスの態度、つまり、いま危険だとみなされていることではなく、むしろ
平和だとみなされているテクノロジーをあえて危険視する態度は、1986 年に発生したチェ
ルノブイリ原発事故に対する彼の応答に如実に現われています。当時の哲学者たちの多く
は、この事態を重く受け止め、テクノロジーが浸透した現代社会の問題として批判しまし
た。しかし、その最中で、ヨーナスはある講演で大胆にも次のように語っています。
チェルノブイリや森林破壊は、抽象的な見通しによるどんな勧告よりも、はるかに重
要な勧告に値する。
〔しかし〕これらよりももっと酷いことや、急に驚愕すべき事態
が続くことになるだろう。そうした勧告が必要であるということは、人々にとって耳
に快く響くことではないが、しかし、私にとっては、私の控えめな希望の一部であ
る。27
ここでヨーナスは、チェルノブイリ原発事故よりも「もっと酷いこと」が起こるだろう
と予言しています。もちろん彼はここで、だからチェルノブイリ原発事故が比較的に重要
視されるべき出来事ではない、と言いたいわけではありません。むしろ、この出来事は
Jonas, H. Erkenntnis und Verantwortung: Gespräch mit Ingo Hermann in der Reihe
»Zeugen des Jahrhunderts«, Lamuv, 1991, S. 108
27 Jonas H. Wissenschaft als persönliches Erlebnis, Vandenhock&Ruprecht, 1987, S. 45
26
18
「重要な勧告」なのであって、私たちがかつて人類を幸福にすると信じていたテクノロジ
ーが、後になって人類を深刻に脅かすことになった、という科学技術文明の危険性を例証
するものなのです。そうである以上、私たちはいま問題のないものとしているテクノロジ
ーに対しても疑いの目を向けるべきであり、そこにヨーナスの主張の核心があります。
さて、ここにヨーナスの『責任という原理』の基本的な問題設定が整いました。私たち
にはもはや、科学技術文明において、安全性への信頼や、他者を幸福にしたいという善意
を素朴には信じているだけでは、テクノロジーによる破局を回避することができません。
そうである以上、私たちは科学技術文明に対応した新しい倫理を構築する必要がありま
す。ヨーナスは、その倫理を「責任」という概念によって説明しようとします。その新し
い倫理によって説明されるべき理論は途方もないものです。ヨーナスは次のように論じて
います。
遠く、未来の、そして地球規模の次元が、私たちの日常的な、世界中で実行されてい
る決断の中へ流入してくるということが、倫理的には新しい観点なのであり、そうし
た観点を私たちに背負わせたのは技術なのだ。こうした新しい事柄によって呼び出さ
れる格別の倫理的なカテゴリーは、責任である。28
では、その「責任」はどのように説明されるのでしょうか。これについては、第二回
「ヨーナスと哲学」の中で、改めて考えていきたいと思います。
Jonas H. Technik, Medizin und Ethik: Praxis des Prinzips Verantwortung,
Insel,1985, S. 45-6
28
19
8.結びにかえて――晩年のヨーナス
ヨーナスが主著『責任という原理』を公刊したのは、彼が 76 歳の時です。もちろ
ん、それ以前から彼は哲学者として知られてはいましたが、大器晩成型であったことは事
実でしょう。ヨーナスはその後、商業的な雑誌への寄稿やテレビ出演が増え、社会的にも
その名を広めていきます。それはちょうど、ある時期のマイケル・サンデルや、最近でい
えばトマ・ピケティに似た扱いだったのかも知れません。もっとも、彼が世間に受容され
た背景には、彼の哲学が革新的であったことに加えて、彼がホロコーストによって母を失
った悲劇のユダヤ人であったということが大きく影響しており、その生い立ちそのものが
人々の関心を集めていたのかも知れません29。
ヨーナスは 1993 年の 2 月に亡くなりますが、その前月まで、哲学に関する講演を行っ
ています。彼は死の間際まで哲学の営みをやめませんでした。
彼の人生を振り返るとき、そこに何か波紋の中心のようなものがあるとしたら、それは
きっとホロコーストによる母の死でしょう。きっと彼の人生は、母の死の以前と以降に、
はっきりと分かれることになると思います。しかし、では彼がホロコーストの呪縛に囚わ
れ、悲嘆に暮れた哲学者であったかといえば、そんなことはありません。私はヨーナスほ
ど軽妙で快活な哲学者を他に知りません。その両者が同居しながらも緊張と調和をみせて
いる点にこそ、ヨーナスの魅力があるのだと思います。最後に、そうした彼の個性をよく
示している言葉を引用して、今日の私からの話の結びにかえたいと思います。それは、彼
が夫人に対して語ったとされる言葉です。
僕の母を亡くしたことと、どのユダヤ人もホロコーストで受けた仕打ちを別にすれ
ば、僕の人生や世界との関係に何か悲劇的な要素を見つけようとするとなると、大捜
索をしなければならないよ。もちろん世界に恐ろしいことも起きるけれど、世界は僕
にとってけっして敵対的な場所じゃなかった。30
Hösle, V. “Hans Jonas' Stellung in der Geschichte der deutschen Philosophie”,
hrsg. v. Wiese, C./Jacobson, E. Weiterwohnlichkeit der Welt. Zur Aktualität von Hans
Jonas, Philo Fine Arts, 2003, S. 34-52. S. 34
30 ハンス・ヨナス『ハンス・ヨナス「回想記」
』盛永審一郎・木下喬・馬渕浩二・山本達
訳、東信堂、2010 年、146 頁
29
20