板垣死すとも 自由は死せず 板垣死すとも 自由は死せず

板垣死すとも
自由は死せず
自由民権運動の先頭に立った板垣退助
▲板垣君遭難の図
こ
板垣退助岐阜遭難事件
「 国 賊、板 垣 」
35
ぐ
そく くみ うち
竹内流の小具足組打(注1)が反射的に受身として出て、
あて
み
右ひじで刺客の腹に当身をくらわした。
ひる
刺 客は一 瞬 怯んだが 、最 初の一 撃で致 命 傷を与
えられなかったと思い、態 勢を取り直して再び 板 垣に
物 陰 から短 刀を抜 いて、一 人 の 刺 客 が 飛 び 出し
襲いかかり再 度 心 臓目掛けて短 刀を突き刺そうとし
てきた。その男は左 手で板 垣の右 腕を抑え突 進し左
た。このとき、板 垣は刺 客 の 手 首をつかもうとしたが
胸に突き刺した。
刺 客の動きが 早く右 手の甲をつかんでしまったため
だい かつ
板 垣 は「 何をするか 」と大 喝したが 既に刺されて
再 度 胸を刺された。そのとき、板 垣は胸に刺さった短
いた。一 瞬のけ反ったが、若いころから修 練している
刀を抜かんがため、刺 客の力に負けないよう、両 手の
つか
親 指と人 差 指で刃の部 分を掴み短 刀を抜いた。その
後 格 闘となり両 手にかなり深 手の裂 傷を負い大 量の
出 血をした。この受身術である小 具 足 組 打を刺 客に
くらわしていなければ 、短 刀は一 度目で退 助 の 心 臓
に達していただろう。達していたとすれば 間 違いなく
即死であったにちがいない。
板 垣は、本 来 政 治 家ではなく軍 人であり戊 辰 戦 争
において大 垣 藩 、長 州 藩 、土 佐 藩 、薩 摩 藩 等々が 所
属 する東 山 道 鎮 撫 隊( 注 2 )の 筆 頭 参 謀 であった 。会
津を短 期 に 降 伏させ た のも板 垣 の 作 戦 が 有 効 で
あったゆえ、
というほどの 優 秀な筆 頭 作 戦 参 謀であ
た
る。知 略に長けた軍 人 魂 板 垣のDNAがとっさに自ら
を救ったと言えよう。
この事 件は岐 阜 金 華 山 麓の神 道 中 教 院( 注 3 )にお
いて2 時 間 程の演 説をし終え、宿 泊 先 玉 井 屋( 今 小
町 )に 帰 ろうとして 玄 関 から門 へ 向 かう庭 先 で 起
こった。1 8 8 2 年( 明 治 1 5 年 )4月6日午 後 6 時 半 頃で
▲板垣退助の肖像画
板 垣 は 遭 難 当 時 の 洋 服 のままで 横 たわっていた 。
岐 阜の医 者にいままで施した治 療 状 況を聴き、早 速
あった。
通 常 は自由 党 の 随 員らが 5 、6 名 護 衛にあたるの
洋 服をハサミで切り取り胸 部を診 察した。
だが 、この日、板 垣 は 風 邪ぎみで 一 人 中 座した 。党
「 閣 下 、傷は肺 臓まで達しておりません。脈 拍は正
員 が 護 衛を申し出たが 他 の 人 が 演 説 中だったため
常で発 熱もないので経 過は良 好であります 」と診 断
板 垣 は 謝 絶し、一 人 で 宿 泊 先に戻ろうとしたところ
結 果を本 人に告 知した。
を狙 われ た 。玄 関まで 見 送っていた自由 党 員 内 藤
魯一
えり
は、はだしで 駆 けつけ、刺 客 の 襟をつかん
(注4)
で 右 脇 腹を突き、背 負 投 げ で 仰 向 けに 大 地 に引き
倒した 。つ づ いて 随 員 の 竹 内 綱
や 後 藤 秀 一ら
(注5)
が 内 藤 斉 市とともに刺 客を取り押さえた。
まさに瞬 時
の出 来 事であった。
板 垣は「わざわざ 名 古 屋 から駆け付けてくれてあ
りがとう。感 謝 する。」
「 閣 下は強 運の持ち主ですな。」といって治 療をは
じめた。
後 藤は新 式の消 毒 器などを使 用して患 部に手 当
を施した。後 藤の診 断 結 果
左 胸 、右 胸 各 1 か 所 刺
され 、右 手に2 か 所 、左 手に2 か 所( かなり深 手 )、左
この事 件は東 京の自由 党 本 部 や中 央 政 府にも即
頬に1 か 所
計 7 か 所の傷を負っていた。出 血もひど
時に連 絡された。当時、
この東 海 地 区 随 一の名 医で
く重 傷 ではあるが 命に別 条 はないとのことであった 。
あった愛 知 県 立 病 院 長の後 藤 新 平
が 友 人であ
これも、土 佐 藩 の 上 士 の 家に生まれ 、武 道 、学 問を
る内 藤 魯 一の要 請を受け、診 察に向おうとした。
しか
厳しく仕 込まれ たお 蔭 であろうか 。それとも武 田 信
し、愛 知 県 令( 現 在の知 事 職 )国 貞 直 人は管 轄 外と
玄の武士団24将のナンバー2の板垣信方(注7)の末 裔
して後 藤の岐 阜 行に許 可を与えなかった。が後 藤 新
の血であろうか 。彼の防 御はとっさに出たものと考え
平は処 罰 覚 悟で翌 早 朝 、人 力 車で名 古 屋を出 発し
られる。
(注6)
正 午 前に岐 阜 玉 井 屋に着いた。
いた がき のぶ かた
まつ えい
その 後 、天 皇 の 勅 使 の 見 舞 い、中 央 政 府 の 見 舞
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板垣死すとも自由は死せず
自由民権運動の先頭に立った板垣退助
▲板垣退助が刺された短刀
▲岐阜公園に建つ板垣退助の銅像
▲「板垣退助遭難の地」説明書
いが下 向 することになった。
相 原 七 郎 兵 衛である。相 原 尚 褧は、愛 知 県 横 須 賀
岐 阜 遭 難 事 件は自由 党にとっても、日本の政 界に
村 の 小 学 校 の 校 長 であった 。年 は 弱 冠 2 7 歳 。大 変
とっても衝 撃 的な事 件であった。このとき、一 番 慌て
優 秀で将 来の教 育 界を背 負う人 物として、前 途を嘱
たのは4 代目愛 知 県 令の国 貞 直 人と3 代目岐 阜 県 令
望されていた。
小 崎 利 準である。勅 使 が 下 向し天 皇の御 手 許 金 が
か
し
下 賜され、政 府 からも公 式に見 舞いが 来ると聞いて、
ぜ自由 民 権 運 動 のリーダーであった 板 垣 退 助を襲
いままで非 協 力 的であった両 人は慌てて各 警 察 署
撃 するような凶 行を引き起こしたのか 、
まったく理 解
長を伴って駆けつけ丁 重に、丁 重に見 舞ったそうで
できなかったであろう。相 原は平 素 、東 京日日新 聞を
ある。人 間という生き物は今も昔もゲンキンであること
愛 読していた 。1 8 7 2 年( 明 治 5 年 )に創 刊された 東
においては変わらぬものらしい。実におもしろい。
京日日新 聞 は 、そ の 当 時 の 主 筆 は 福 地 源 一 郎 で
あい
はら
なお
ぶみ
刺客 相原尚褧という人物
この刺 客の名は、相 原 尚 褧 。愛 知 県 士 族 。東 区 添
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当 時 、誰もが 教 育 界 のポープとみていた 彼 が 、な
あった 。彼 の 社 説 は、わ かりや すく書 か れていたが
政 府 擁 護よりであった。東 京日日新 聞は自由 党 員 か
ら「 政 府 の 御 用 新 聞 」と批 判され てい た の である。
福 地の考えは斬 新 的 改 革を目指 す 政 府を支 持 する
地 町 生 。母 親 違いではあるが四男・三 女の兄 弟がい
という、保 守 主 義 色の強いものであった。相 原尚褧は、
る。父 親は尾 張 藩 士で納 戸 役 百 五 十 石を扶 持 する
この保 守 主 義に傾 倒していった。
自由 党は、国 有 地 払 下げの汚 職 、財 閥と癒 着 する
現 政 府に真 向 から対 決し、憲 法 の 早 期 制 定 、国 民
特 別に構 成された「 重 罪 裁 判 所 」が 行うことになっ
ていた。
参 加の早 期 国 会 開 設を主 張し四民 平 等を早 急に実
相 原は、重 罪 裁 判 所にて死 刑に処 するところ板 垣
現 す べきと主 張していたが、この意 見は一 紙しか 読
の嘆 願 書もあり罪 が 減じられ 終身 徒 刑として結 審し
んでいなかった相 原には届かなかったようである。東
た。そして、相 原には北 海 道 中 央 の 空 知 、旭 川あた
京ではなく田 舎 の 横 須 賀 村に住んでいた相 原には、
りでの過 酷な強 制 開 拓 労 働が待っていた。
そら
ち
情報不足は否めず視野が狭かったことは誠に残念で
空 知 の 監 獄まで 鎖 で 繋 が れ 6 名 ず つ 一 連とし歩
ある。彼はこの凶 行に及 ぶ 前に、両 親 宛ての遺 書を
かされ 、食 亊も粗 末なものであった 。函 館に上 陸し、
懐に入れていた。そこには、次のように書かれていた。
そこから「 松 前 丸 」に乗 せられ 小 樽 港に着き、小 樽
「 今 般 小 子 儀 勤 王 の 志 止 み 難くして、国 賊 板 垣
から札 幌まで汽 車で出た。そこから延々と空 知の監
退 助を誅 す 。然 れども上 は 国 の 大 典を犯し、下 は
獄まで歩かされたのである。推 測ではあるが、5 0キロ
御 二 方を孝 養 すること能わざるを思えば 、不 幸の罪
メートル以 上はあるだろう。相 原は「 道は細く屈 曲し、
じつに 謝 するに 辞 なし 。小 子 の 如き度 々ご 苦 労 相
山あり谷あり野 草は深くして腰のあたりまで埋まるば
掛くる者 誠に有るも無きに勝るべし。涕 泣 頓 首
かりなり。」と書いている。
こころざし や
ちゅう
がた
しか
あた
ごと
あい
てい きゅう とん しゅ
」
(注8)
( 抜 粋 ※ 板 垣 遭 難 前 後 史 談 原 文 )と書 か れ て おり、
空 知 の 監 獄は囚 人 の中でも重 罪 犯 が 集 められる
ひら
この 文 章 からも自分 の 死をもって国 家 のため 板 垣と
獄 舎 であった 。開 拓 のため 原 野を切り拓く強 制 労
いう国 賊を殺 そうと思 い 込 んでいたことがよく理 解
働 が 続 いた 。
2年 程 過ぎた 頃 、看 守 に 呼 ば れ て 相
できる。
原 は 以 前 教 師 であったことに 鑑 み 、囚 人 の 善 導 の
板 垣 退 助に対して検 事 局は、つぎのような打 診を
ため 粗 末な部 屋 で 学 問を教える立 場となり強 制 労
している。
「 閣 下 、刑 事 事 件なので 刑 罰 は 免 れない
働も楽 にしてもらった 。また 、あるとき監 獄 内 にある
のです が 、相 原を告 訴なされます か 」との 質 問に板
工 場より出 火したことがあった 。彼 は 看 守と共に消
垣 は、
「 告 訴をする考えはない 。彼 の 選んだ 行 為 は
火 に 際 立った 働きをし、相 原 は 監 獄 でも模 範 囚 で
許されないが、私 恨 があって凶 行におよんだ訳では
あった。
ない。できれば 赦 免してやってほしい」と答えた。
1 8 8 9 年( 明 治 2 2 年 )に 模 範 囚ということで 憲 法
板 垣はこれ 以 降も、数 度にわたり裁 判 所に相 原の
発 布 の 恩 赦 に 授 かり、仮 出 獄 が 許され た 。彼 は 横
赦 免の嘆 願 書を提 出している。板 垣の度 量の大きさ
浜 に 着き、あくる日板 垣 退 助 が 東 京 に 上 京してい
を物 語るエピソードである。
るとの 情 報 を 聞 い た 。板 垣 は 相 原 の 名 をはっきり
覚 えて い た 。相 原 は 謝 罪 の た め 板 垣 に 面 会 を 求
その後の相原尚褧
当 時 は 岐 阜 、高 山 に「 始 審 裁 判 所 」が 置 か れ 、
めた 。書 生 は 一 旦 は 断った が 、相 原 の 切 なる願 い
を請う姿 勢 にうた れ 先 生 にお 伺 い することを了 承
した 。
岐 阜 、大 垣 、御 嵩 、高 山に「 治 安 裁 判 所 」、その 上
板 垣 は「 せっかく訪 ねてきた の だ から会 おう」と
部に名 古 屋に「 名 古 屋 控 訴 院 」があり最 上 部 機 関
部 屋 へ 案 内させ た 。相 原 は て い ね い に 挨 拶して 、
として「 大 審 院 」があった。また、皇 室に対 する犯 罪
先 年 の 無 礼を詫 び た 。相 原 の 性 格も温 厚になって
ならび に 国 事 犯 に つ い て は 、一 審 か つ 結 審まで
いた。板 垣は笑 顔で、
「 高 等 法 院 」が 裁 いていた 。とくに、重 大 な 犯 罪 に
ついては、
「 始 審 裁 判 所 」で初 審 が 行われ 、公 判は
板 垣「 久しぶりであった 。北 海 道にいると聞 いてい
たが 」
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板垣死すとも自由は死せず
自由民権運動の先頭に立った板垣退助
相 原「 憲 法 発 布 の 恩 赦によって仮 出 獄 の 恩 赦に浴
しました」
板 垣「よかった。それはよかったな」
板垣は「板垣死すとも自由は死せず」
と刺された時本当に言ったのか
とうれしそうであった。
あい はら なお ぶみ
相 原「 獄におりますあいだ、捕えられて入 獄してきた
刺 客 相 原 尚 褧を内 藤 魯 一 が 投 げ 飛ばし、後 藤 秀
自由 党の方々といろいろお話をさせていただき
一がこれを組み伏 せ 本 多 、藤 吉らがありあわせの荒
ました。わたしが 考えていた事と自由 党 の 主 張
縄で縛り上げた。
がまったく違うということも理 解できました。先 生
板 垣を抱きかかえていた大 野 斉 市は、余りに出 血
には大 変申し訳ないことをしたものだと後 悔 い
が 甚 だし い の で 総 理 は 到 底 助 からぬものと感じ 、
たしました。獄 中からご 活 躍を心 から応 援して
おりました」
「 先 生 、先 生しっかりしてください」と叫びながら思わ
ず 落 涙した。すると板 垣は大 野をはじめ周 囲の者を
板 垣「 君 の 行 為 は 憂 国 の 志 から出 たものだ 。あの
見ながら静 かに言った。
「 嘆くことはない 。私は死ん
時も私 は 裁 判 所 に 君 の 処 罰を軽くなるよう嘆
でも自由は滅びないのだ」
『自由 党 総 理 板 垣 君 遭 難
願 書をよく出したものだ 。今 は 何 の 恨 みもない 。
採 録 』に書 いてあるゆえ、これ が 最も真 実を伝えて
君 の 国を見る視 野 がもう少し 広く、か つ 情 報
いるように思われる。
があればあんな過 激な行 動 は 取らなかっただ
他にも説 がある。
「 吾 死 するとも自由は死 せん」政
ろうと考えている。残 念 でならない 。今 後も国
府 密 偵の上申書 。
「 我 今 汝 が 手に死 することあらん
のため 世 のため 君 の 志をもって尽くしてくれた
とも自由は永 世 不 滅なるべきぞ 」岐 阜 県 警 務 部 長の
まえ」
証言。
相 原は涙 が出て止まらなかった。板 垣の前でひざま
づき声をあげて号 泣した。
あくる朝 、全 国の新 聞 記 者 が 岐 阜に取 材にやって
きた。このとき、内 藤 魯 一 が自由 党を代 表して取 材に
その後 、相 原は郷 里に帰ったが、凶 悪な前 科 者と
応じて「 総 理が死んでも、自由は亡くならない」という
して郷 里 の 人々は受け入 れてくれなかった。耐え切
ような内 容のことを言っている。そこで、新 聞 社 が 見
れず徒 刑の歳月を過ごした北 海 道の開 拓に行こうと
出しに「 板 垣 死 すとも自由は死 せ ず 」とインパクトの
思い立った。
しかし、青 函 連 絡 船の甲板に一 人たた
ある表 題を一 面に使ったのが 全 国に広まったと思わ
ず み 、海をじっと見 つめている相 原 の 姿 は目撃され
れる。
しかし、板 垣 退 助 の 回 顧 録にはそのような言
ているが、その後 、忽 然と姿は消えた。未だに自殺な
葉は言っていないと書いてある。
こつ ぜん
の か 他 殺 なの か( 黒 幕 説 あり)はっきりしていない 。
4 0 歳ぐらいの 壮 年 の 貴 重な憂 国 の 士を失った事は
無 念でならない。
板垣退助の生涯
1 8 3 7 年 5 月2 1日生まれ 。土 佐 藩 上 士( 馬 回 格・
300石)
という上 級 武 士 の 家に生まれる。屋 敷 は 下
中 島 町 で 城まで 歩 いて1 0 分 程 度 の 場 所に1 0 0 0 坪
程 度 の 敷 地を与えられていた 。先 祖 は 武 田 信 玄 の
2 4 将 のナンバー2 の 板 垣 信 方 。武 田 氏 が 織 田 信 長
に滅 ぼされてから、信 方( 上 田 原 の 戦 いで 戦 死 )の
いぬい
孫 が、甲斐 源 氏の乾 家を相 続 。乾 家は当時 掛 川 5 万
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石 城 主 山 内 一 豊に仕えた。山 内 一 豊は関ヶ原 の 合
り土 佐 藩 の 正 規 軍として出 陣した 。以 前より薩 摩 の
戦で功 績をあげ、土 佐( 幕 府 届出: 2 4 万 7 千 石であっ
筆 頭 家 老 小 松 帯 刀 、西 郷 隆 盛と薩 土 同 盟の密 約を
たが 、幕 末 の 記 録 では 4 9 万 4 千 石 あったとされる)
結んでいたので、朝 廷の新 政 府 軍として長 州 軍とと
長 宗 我 部 氏 の 遺 領 一 国を与えられた。土 佐 藩には
もに幕 府 軍と戦った 。板 垣 退 助 は 東 山 道 鎮 撫 隊 の
独 特 の 階 級 制 度 があり、一 豊 が 掛 川の 城 主 時 代よ
筆頭参謀に天皇より命じられ進軍した。大垣藩1250名
りの家 臣を上 士とし、長 宗 我 部の遺 臣は下 士とされ
の隊 士も板 垣の配 下に組み入れられた。
た。国 政は上 士が独占し下 士は武 士 扱いをされず日
ふ
ち
不 敗で東 山 道( 今 の中 山 道 )を進 軍し、甲州に差
頃は農 業 等( 扶 持はほぼなし)で生 計を立てていた。
し掛かった。当時 幕 府 側であった甲州では乾 退 助が
下 士 は 前 方より上 士 が 歩 いてきたら必 ず 道を開 け
甲州で『 神 』扱いされている武田武 士の板 垣 信 方 末
会 釈し通り過ぎるまで会 釈し続けなければならない
裔と聞 いて、戦わ ずして数 千 名 の 諸 士 が 新 政 府 側
ほどの身分 差 別があった。
に寝 返った 。それは 彼らの 先 祖 が 武 田 家 の 家 臣 で
幕 末 山 内 容 堂 の 家 老として 活 躍した 後 藤 象 二
あったからにほかならない。このとき岩 倉 具 視より請
郎 は 竹 馬 の 友 である。ちなみに坂 本 龍 馬 は 親 の 代 、
われて乾 退 助 から、本 来 の 血 筋 の 名 跡 である板 垣
両 親 の 実 家 が 商 人で富 豪であったので、金で下 士
退 助に改 名したのである。彼の参 謀としての作 戦 行
の 株を買って 下 級 武 士 の 仲 間 入りをした 。下 士と
動は緻 密で、少 人 数で敵の大 軍を次々と降 伏させて
なった坂 本 家は歴 代 藩 主 の 墓 地 の 警 護をしていた。
いった。
龍 馬 は 両 親 の 実 家 の 援 助 で 上 士 並 の 裕 福 さで
育った 。後に、長 州 の 桂 小 五 郎( 後 の 木 戸 孝 允 )に
その後の戊 辰 戦 争、特に会 津 戦 争については、前
号 1 5 8 号をお読みいただきたい。
乾 退 助( 姓を復してのちに板 垣 )のことを上 士 であ
りながら下 士 に 大 変 寛 大なよい 人 柄 であると述 べ
ている。
時は過ぎて明 治 4 年、新 政 府においては木 戸 孝 允、
西 郷 隆 盛、大 久 保 利 通 等とともに参 議に就 任した。
1 8 6 1 年( 文 久 元 年 )板 垣 は 江 戸 留 守 居 役 兼 軍
その 後 、1 8 7 3 年( 明 治 6 年 )書 契 問 題( 注 9 )に端を
備 奉 行を仰 せ つけられた。1 8 6 7 年( 慶 応3年 )オラ
発 する度 重なる朝 鮮 国の無 礼に世 論 が 怒りで沸 騰
ンダ式 騎 兵 術を学 ぶ 。退 助 は 下 士とも気さくに付き
していた。西 郷 隆 盛は、朝 鮮の非 礼の真 意を確かめ
合っており、武 市 半 平 太 が 尊 王 攘 夷を掲 げて土 佐
ようと単 独で朝 鮮に乗り込む事を主 張した。それでも
勤 王 党を組 織した 時も、仲 間 入りを武 市 から誘 わ
朝 鮮の非 礼 が 改められなかった場 合は世 論の支 持
れ ている。しかしながら後 に 勤 王 党 は 下 士 中 心 の
のもと武 力 行 使を含 む『 征 韓 論 』を主 張した 。朝 鮮
集 団 であったことと、当 時 土 佐 藩 の 権 力 者 である
は清 の 属 国になっており、清 の 力を背 景に日本を軽
前 藩 主 の 山 内 容 堂 が 公 武 合 体を考 えてい たこと
視していた。そのような状 況の中、岩 倉 具 視、大 久 保
等 の 事 情もあり、藩 の 弾 圧を受 け 武 市 は 捕えられ
利 通などが外 遊から帰ってきた。このような経 緯も知
斬 首された。
らず 外 遊 派 岩 倉 具 視 、大 久 保 利 通 、木 戸 孝 允らは
退 助 は 土 佐 藩 の 上 士としては 珍しく幕 府を武 力
『 征韓論 』に反対した。彼らは日本が清国や朝鮮から
討 伐 する考えを内々持っていた。党 首を失った土 佐
「 国 辱 」されていることに気 づくべきであった。彼らは
勤 王 党 の 諸 士 は 、お の ずと板 垣 のもとに 集まって
いった。
西 洋カブレしていたのであろう。
これに憤 慨して 西 郷 隆 盛 、板 垣 退 助 、後 藤 象 二
1 8 6 8 年( 慶 応 4 年 )、鳥 羽・伏 見の戦いが勃 発した。
郎 、江 藤 新 平 、副 島 種 臣 の 5 名 は 参 議を辞 任した 。
板 垣は、土 佐 勤 王 党の流れをくむ迅 衝 隊 総 督とな
1 8 7 1 年 から1 8 7 3 年まで岩 倉 具 視 や 大 久 保 利 通は、
40
板垣死すとも自由は死せず
自由民権運動の先頭に立った板垣退助
岩 倉 欧 米 使 節として外 遊に出 かけ、留 守 政 府には
改 革 は せ ぬよう言っておいたのにもか かわらず 、学
制 改 革 、徴 兵 令 、地 租 改 正 、陸 軍 省 の 創 設 、グレゴ
リオ暦 の 実 施 等 の 大 改 革を見 事 成し遂 げ た 。外 遊
派 は、留 守 政 府を預 かっていた 西 郷 隆 盛らの 行 動
力におそらく内 心 恐 れを感じ『 征 韓 論 』に感 情 的に
反 対した部 分もあったのではないかと推 察 する。
外 遊 派としては自分 の 権 力の回 復にとらわれ 、大
義として内 政 の 立て直しを主 張した 。彼らのいう政
策も一 理あるのだが 国の大 義ではなく、自分の権 力
の 復 活 が『 征 韓 論 』に反 対した動 機になっていると
ころに問 題 があった。その証 拠に大 久 保らは2年 後
に内 政 改 革と言 いながら、
「 国 辱 」した 台 湾に戦 争
▲自由民権運動の主な活動家
を仕 掛けているではないか 、まさに矛 盾した行 動で
板 垣は1 8 7 4 年( 明 治 7 年 )、民 撰 議 員 設 立 建白書
ある。この 頃 から大 久 保 利 通 の 独 裁 政 治 が 進んで
を左 院に建 白した。板 垣 退 助 の自由 民 権 運 動は国
いくのである。
会 開 設と憲 法 制 定が目的であった。
その 後 、独 裁 政 治に反 発した士 族 が 各 地で反 乱
を起こした。
板 垣 退 助は今でいう政 党に近いものとして「 立 志
社 」を1 8 7 4 年に高 知に設 立 。その後 愛 国 公 党 ― 愛
国 社 ― 国 会 期 成 同 盟 ―自由 党 ― 立 憲自由 党 ― 憲
● 主な大きな反 乱
政 党 ― 立 憲 政 友 会と、それぞれ総 理として活 躍した。
【 1 8 7 4 年( 明 治 7 年 )】
1 9 0 4 年( 明 治 3 7 年 )引退した。
( 4 3・4 4 頁 参 照 )
・佐賀の乱(元参議で下野した江藤新平が中心)
その後 機 関 誌「 友 愛 」を創 刊したりして、最 後まで
【 1 8 7 6 年( 明 治 9 年 )】
庶 民 派 の 政 治 家として 圧 倒 的 な 支 持を得 てい た 。
・神 風 連 の 乱( 秋 月藩 の 士 族 宮 崎 車 之 助 等
亡くなった 後も5 0 銭 紙 幣に印 刷され 、また 1 0 0 円 紙
4 0 0 名によって起された)
幣 の 表 面も飾った 。1 9 1 9 年( 大 正 8 年 )死 去 。享 年
・萩の乱(山口県士族、元参議前原一誠が中心)
【 1 8 7 7 年( 明 治 1 0 年 )】
しゅ かい
82歳。
墓 所は2ヵ所にある。
・西南戦争(元参議西郷隆盛を首魁とする薩摩
士族)
1.
板垣山……山全 体が乾 氏( 土 佐 藩では乾と名 乗っ
ていた。前 述 参 照 )専 用の先 祖 累 代の
西 南 戦 争をもって士 族 反 乱は無くなった。
墓 地となっている。初 代・正 信から退 助
しかし、独 裁 政 治と批 判され た 大 久 保 利 通も明
までの10代の墓石が整然と並んでいる。
治 1 1 年 紀 尾 井 坂で石 川 県 士 族に暗 殺されてしまう
41
(高知市内)
のである。板 垣 退 助 は、力でもって政 府に対 抗して
2.品川神社…明 治 以 降に亡くなった一 族の墓 石があ
も力で 抑え込まれることになるので 、平 民に訴え全
る。墓 石のとなりに元 首 相 佐 藤 栄 作 氏
国 の 民を動 かして 政 府 に 強 力な 圧 力をか けようと
の 筆による『 板 垣 死 すとも自由は 死 せ
考えた。
ず 』の石 碑がある。
(東京)
板 垣は日本 の 民 主 主 義 発 展に大きな功 績を残し
た 。性 格 は 無 欲 で 正 義 感 が 強 い 。私 財を投じて 民
権 運 動を推 進した 。亡くなった 頃 は 、資 産 はあまり
な かった そうで ある。した た かさが 無 い 政 治 家 で
あった。
(注1)小具足組打…防御武術の一つ。古来より脇差・短刀を用いた格
ひじ
闘術。肘を曲げ相手のみぞおちを肘で打突する
護身術。柳生新陰流にも同種の小脇差居相とい
う術で伝わっている。
(注2)東山道(中山道)鎮撫隊…戊辰戦争では、
ほかに北陸道鎮撫隊、
東海道鎮撫隊があった。
(注3)神道中教院…政府が明治5年に神道の総本山として神道大教
院を設けた。明治7年頃には、大教院の下部組織
として中教院・小教院合計280か所存在した。岐
阜中教院もその一つであった。
(注4)内藤魯一……福島県出身。福島藩家老の子息。愛知県の民権
結社「交親社」
を組織した。板垣とともに自由民権
運動の推進者として活躍。板垣の岐阜遭難の際、
刺客相原を取り押さえた。
(注5)竹内 綱……土 佐 藩 士 。首 相を務めた吉 田 茂は5男。麻生
太郎とは外曾孫。土佐藩家老山内氏の家臣。宿
毛生。
自由党土佐派を率いた。
自由党の多数化
▲板垣邸跡地の碑
工作に貢献している。
(注6)後藤新平……当初医師。その後官僚となり台湾総督府民民政
長官をへて、満鉄初代総裁、逓信大臣、内務大
臣、外務大臣となった。拓殖大学の第3代目学長。
正二位勲一等伯爵。
(注7)板垣信方……武田信虎、武田信玄の二代に仕えている。武田軍
団を最強騎馬軍団に仕立て上げた。
(注8)涕泣頓首……頭を大地に押し付け、涙を流して泣くこと。
(注9)書契問題……天皇の皇という字は、清の皇帝しか使えないはず
であり、清国に対し非礼である。その属国である
朝鮮に対しても非礼にあたる、
として日本国を正
式な国として認めないと朝鮮から抗議を受けた事
件。天皇は日本国王と名乗れと言ってきた。
(注10)
中島信行……土佐出身。海援隊に参加。維新後は神奈川県令。
自由党結党時に副総理に就任。初代衆議院議
長を勤めた。
▲板垣山にある板垣
(乾家)
退助の墓。隣は妻の墓
参考図書
・
「板垣遭難前後史談 明治民権史話」 建部恒二著 鴻村維一商店
・
「無形 板垣退助」 平尾道雄著 高知新聞社
・
「板垣退助 自由民権の夢と敗北」 榛葉英治著 新潮社
・
「板垣退助 孤雲さりて」上・下2巻 三好 徹著 学陽書房
・
「自由民権運動の系譜」 稲田雅洋著 吉川弘文館
42
板垣死すとも自由は死せず
自由民権運動の先頭に立った板垣退助
(明治7)
1874
政党変遷図
立志社
(明治7)
1874
愛国公党
板垣退助
(明治8)
1875
愛国社
板垣退助
(明治13)
1880
国会期成同盟
板垣退助
(明治15)
1882
(明治15)
1882
(明治14)
1881
立憲帝政党
立憲改進党
自由党
福地源一郎
大隈重信
板垣退助
大同団結運動
大同協和会
愛国公党
大同倶楽部
(明治23)
1890
立憲自由党
板垣退助
(明治25)
1892
(明治29)
1896
国民協会
進歩党
西郷従道
(明治24)
1891
(明治24)
1891
自由党
自由倶楽部
大隈重信
(明治31)
1898
憲政党
大隈重信・板垣退助
(明治32)
1899
(明治31)
1898
帝国党
憲政本党
大隈重信
出所:自由民権運動記念館冊子掲載資料に筆者加筆にて作成
43
(明治33)
1900
立憲政友会
伊藤博文
・立志社の創設
そして、集会・結社の自由を規制する集会条例を制定し
1874年(明治7年)板垣退助が創設。主に士族授産と民
て、
自由民権運動を展開する勢力に対して一層の弾圧と
会活動に尽力した。1877年(明治10年)
ごろから、
本格的
圧迫を繰り返してきた。
自由民権運動を展開し、
運動の先駆けの役割をはたした。
・自由党の結党
1880年(明治13年)
に集会条例の規制を受け親睦団体
1881年(明治14年)、第3回国会期成同盟大会で自由党
となり、
15年解散した。
結党が決まった。総理(党首)
は板垣退助、
副総理に中島
信行(注10)が選ばれた。
自由党は政府高官の官有物払下げにからむ汚職事件、
財閥と結託して私服をこやす腐敗した政府閣僚の行為
を非として民衆に問うたので民衆の抗議行動が高まった。
政府は民衆の抗議に対して、
やむなく1881年に国会開設
の詔を発布し、
そして1890年(明治23年)国会を開設す
▲立志社跡の碑
▲立志社の建物の写真
・愛国公党の創設
ると発表せざるを得ない事態に追い込まれた。
・立憲自由党
1874年(明治7年)
の征韓論の権力闘争に敗れ、西郷隆
1890年(明治23年)
自由党、愛国公党、大同倶楽部が
盛、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣ら5参
合流して立憲自由党が結党された。第1回帝国議会では
議は政府の閣僚を辞任した。板垣は東京銀座の副島種
自由党と立憲改進党の野党が171議席(全体300議席)
臣邸に同志を集め、
『 民撰議院(国会)設立建白書』
を左
獲得第一党となった。
しかし、山県有朋内閣と予算をめ
院に提出した。帝国議会と憲法制定の運動の先駆けに
ぐって対立。
また、
内部の土佐派は賛成にまわり自由倶楽
なった。
しかし、
建白書は時機尚早として政府が却下した。
部をつくって一時内部分裂をした。
しかし、星亨の仲裁で
江藤新平は佐賀に帰り佐賀の乱を起した。板垣も高知に
分裂は避けられた。
帰郷し自然消滅となった。
・愛国社
・憲政党
1898年(明治31年)板垣の自由党と大隈重信の進歩党
1875年(明治8年)
、
板垣退助は旧愛国公党や全国の政
が合併して生まれる。
治結社に再結集を呼びかけ創設。板垣が参議に復帰し
反政府のみを目的とする自由党と旧進歩党との路線や政
たうえに、
西南戦争が勃発。西郷軍に参加したものが多く
策・人事をめぐり内部対立が絶えなかった。
自然消滅した。西南戦争で西郷軍が敗北したのちは、武
自由党系と進歩党系の対立は収まらず解党に至った。
力による政府打倒から言論と大衆組織による運動に転換
・立憲政友会
すべく、1879年(明治12年)
に再興し全国的な国会開設
1900年(明治33年)結党。所属議員が数代にわたって政
運動の中心となった結社である。
士族中心であった。
権をになった。初代総裁は伊藤博文。政権の中枢を長く
・国会期成同盟
1880年(明治13年)、愛国社以外の政治結社代表を含
む114名が集まり、
約8万7千人の国会開設請願の署名を
集めた。
ここに国会期成同盟が発足した。総理に板垣退
担い1940年(昭和15年)、大政翼賛会へ合流した。今の
自由民主党の前身にあたる。
※文中の写真は全て筆者撮影
助が就任。各地の政治結社との連絡のため常備委員を
設置し、国会開設請願書を天皇に提出することを決めた。
しかし、
政府はこの請願権を認めず却下した。
(2015.9.14)
OKB総研 特命研究員 三矢 昭夫
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