赤羽研三『〈冒険〉としての小説 ロマネスクをめぐって』 中山眞彦

書評 赤羽研三『〈冒険〉としての小説 ロマネスクをめぐって』
(水声社、2015 年)
中山眞彦
夢の書物
「夢の」は評者 (中山) の言である。こういう書物をいつか書いてみたいと夢見たこと
があった。どうしたら書けるだろうかと、思案をめぐらしたものの、その企ての途方もな
さの前に立ち止まって、一歩を踏み出す手掛かりがついに見つからなかった。
この夢の書物を赤羽研三が物した。熱い拍手を送る。羨望も禁じえない。
それは次のような書物である。小説論がそのまま一編の小説になる。小説というものは
どのように書き出されるかという考察が、その書物の書き出しである。書き出された小説
はどのように進展し、どのような展開を生むかを一般理論として考察することが、その書
物の具体的な記述を前へ前へと延ばしてゆく。ブラトン流に一言でいえば、イデアとして
の小説を書き上げること。これは文学理論を研究する者の夢であり、究極の文学理論書で
あると言えよう。
以下 12 の章を順に追う形で、文学についての理論的考察によってイデアの域にまで蒸
留された、小説 (ロマン) の有り様を見てゆきたい。なおこの書評文の大部分は著書の文
章を書き写しているが、いちいち引用符号をつけるのは省く。重要な文言だけをかぎ括弧
で強調する。
☆ ☆ ☆
「思いがけないもの」「冒険」「ロマネスク」
「第 1 章 ロマネスク」からは基本用語をピックアップする。本書では上の三つの語を
ほぼ同義語として用いる。あえて違いを云々すれば、語を用いる角度が異なる。
「思いがけ
ない (もの・こと)」は読者の感想である。これを主題化すれば「冒険」になる。さらにこ
れを文学理論の立場から論じるなら「ロマネスク」である。
文学理論と言ってもしゃちほこばることはない。「ロマネスク」は「ロマン (小説)」の
形容詞形であって、
「小説的、いかにも小説らしい」の意味だ。要は「小説的」という型に
何をはめ込むかである。赤羽はそこに「冒険」を入れた。その成行きを見てゆきたい。
さっそく第 1 章で、小説はその本性からして「未完結」でつねに「生成途上」にある (p.
29) と述べる。とはすなわち、いわゆる冒険小説のすべてが必ずしも本書で言う「冒険 =
ロマネスク (小説的)」には相当しないことを意味する。危険を顧みず幾多の困難を乗り越
えて、目的に向って一直線に進む冒険談は、意外に思う向きがあるかもしれぬが、本書で
はむしろ小説の正道を外れたものと見なされる。
書評『<冒険>としての小説 ロマネスクをめぐって』
「冒険」についてさらに言い添えるなら、「冒険」という語は三つの意味で用いられる、
との説明がある (p. 91)。これを敷衍すれば、冒険の書すなわち小説には三つの局面、三つ
の進展の段階があると言うことができるだろう。
一番目は、何か起こりそうだという期待としての冒険。言い換えれば小説は何か起こり
そうだという気配を漂わせる書き出しでもって始まる。
二番目は、実際に遭遇する冒険。書き出しの期待に応えて出来事が発生する。それは「思
いがけない」出来事でなければならない。
そして三番目は、生の紆余曲折、生の浮沈の全体を指す冒険である。これが小説の大部
分のページを占める。繰り返すがそこには、いわゆる冒険小説的な冒険はかならずしも存
在しない。
以上を、小説の物語の進展を段階づけるものとして、一番目を「起」、二番目を「承」、
三番目を「転」と見なそう。これは小説一般の構成であると同時に、小説の小説としての
本著書の書き順でもある。すると「結」に当たる四番目がないことに気づく。赤羽の小説
論の独自な着眼点のひとつがここにあることは、読み進むにつれて納得がゆくであろう。
独自な着眼といえば、まさに本書の独創というべき一対の概念の組合わせがある。すな
わち「リアル」と「アクチュアル」。これは「思いがけなさ」
「冒険」
「ロマネスク」に密接
する位置にあるが、これらのさらなる同義語ではなく、これらをテクスト上で組立てる要
素である。後に第七章がそれを詳述する。
☆ ☆ ☆
「起」を準備するもの (第 3 章「語りと読み手の冒険」)
冒険はそれを語ることによってはじめて冒険として認識される。逆に言えば、サルトル
『嘔吐』の有名な文言のとおり、
「ごく平凡な出来事が冒険になるためには、それを物語り
始めることが必要であり、またそれだけで十分である」(p. 54)。
ただし語り口というものがある。書き手の意識のなかには読み手が想定されていて、そ
の読み手に向って言葉を書き連ねるが、その際、自分の小説の先行きを知らず、未知なも
のに向って書き進める (p. 68) といった口調をとるのが、小説の書き出しの工夫のこらし
どころであろう。
いっぽう読者は、これから読む作品が、自分とは関係のない単なる作り話 (フィクショ
ン) ではなく、忘却されて無意識のものとなっている、自分に関わる切実な何かの現れで
あることを期待する (p. 78)。書き手と読み手両者の意向がこうして接点を持つとき、小説
を読むという営為が開始される。
☆ ☆ ☆
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書評『<冒険>としての小説 ロマネスクをめぐって』
「起」(第 4 章 物語の発生と進行)
小説を読むという営為を支えるものは、未知なもの、とはいえかって知っていたはずの
ものと遭遇することへの期待である。
小説の文章の無価値性の例としてよく引かれる「侯爵夫人は五時に家を出た」は、たし
かに現実世界では直ぐに忘れられてしまう些細な出来事にすぎないが、小説の巻頭に置か
れると意味を持つ。その意味とは、この後どうなるかという関心を呼び起こすことである
(p. 84)。小説の第一ページをめくる読者はすでに、何か思いがけない出来事が起きるはず
だという期待と予感を抱いている (p. 95)。
この期待と予感のなかで読者は主人公と共に、未来に向って開かれた「いま」を生きる (p.
87)。ただし未来において何が待ち受けているかは分からず、自分自身何を期待しているの
かもよくは知らない (p. 96)。
この状態のなかでこそ「冒険」が発生する。
☆ ☆ ☆
「承」(第 6 章 因果性と「思いがけなさ」)
出来事の因果的な連鎖が断ち切られたとき、思いがけなさが生まれ、それが読み手にと
って冒険として感じられる (pp. 112 – 113)。
この問題に関連して、フォースターの例の「ストーリー / プロット」理論を批判的に組
み替える。赤羽の思索がその強靭さを遺憾なく発揮する件である。
フォースターにおいて、
・ストーリーは出来事を時間軸上で直線的に進行させる。これに対して、
・プロットは過去に遡るなど、出来事の配置、構成に関わる創作技法の総体のことであ
る。
多くの論者はこの程度の解説ですませるが、赤羽はこれを換骨奪胎する。すなわち、
・ ストーリーでは時間上の連鎖が因果的連鎖となる。一方、
・ ブロットはこの連鎖を切断し、物語を別な方向に向けたり、思いがけない事態を生
じさせたりする (p. 123)。冒険の本体の出現である。
このようなプロットは「ディスクールの (ある種の) 組織化」によって構築される (p.
126)。
☆ ☆ ☆
「承 (続き)」(第7章 リアルとアクチュアル)
上記の「ディスクールの組織化」を論じるのがこの第7章。赤羽の「冒険としての小説」
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書評『<冒険>としての小説 ロマネスクをめぐって』
論の核心がここにある。
要は「現実」がどのように現われるかである。世界の現われ方をどのように受けとめる
かに違いがある。
・ アクチュアルは対処することが可能な現実である。ゆえにアクチュアルのなかでは、
人は今後どうするかという関心、気がかりを生きる (p. 139)。 これに対し、
・ リアルとしての現実は、主体の意志では動かしようがない。主体の願望とか欲望と
か、要するに主体の対処の仕方によって価値づけられることのない、「もの」そのも
のとしての現実である。(p. 141)
冒険とはアクチュアルな世界からリアルな世界へと移行することである。その時、日常
の論理はもはや機能しない。(p. 145)
日常的な自己が消えようとする瞬間である、と言うことができる (p. 148)
ところがこの瞬間に引き続いて一つの反動が起きる。リアルに触れた人は、アクチュア
ル面において受動的な状態になる (p. 147) が、また同時にある能動性が生まれる (p. 151)。
赤羽が出している例では、ポーの作品で、大渦に巻き込まれる男が「この渦の深さを測
ってみたい」という (とんでもない) 望みを抱く (p. 151)。
また、赤羽が直接の例としているのではないが、ドルジェル伯爵夫人が青年フランソワ
の母に向って、秘めた恋を告白する。さらにこのモデルとして、クレーヴの奥方の有名な
告白がある。
☆ ☆ ☆
「転」(第7章 リアルとアクチュアル 〔後半〕)
上記の能動性をバネにして、小説の人物はリアルのなかに止まらず、日常のアクチュア
ルな世界に戻る (p. 154)。
ただしリアルを離れ、リアルに背を向けて戻って来るのではなく、リアルを背負い込み、
これにつきまとわれた恰好で日常に戻るのである。
以後の人物が置かれる状況は、リアルとアクチュアルの絶えざる交替である (p. 155)。
両者が交替しながら進む物語の全体をロマネスクと呼ぶ (p. 155)。小説の大部分はこれ
によって占められる。
リアルを取り込むことで日常の生が新たな意味を帯び、「倫理の問題」が発生する (p.
154)
ここで「倫理」は教条的なものではない。デュラス『愛人』の少女に例をとるなら、ど
ちらの選択が好ましいのかはその時点ではわからない刻々を生きることである (p. 159)。
言い換えれば、様々な力がせめぎあう「関係性」のなかに身を置いていることを自覚す
る (p. 161)。
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小説の人物が身を置く場では日常の合理的流れが切断されている。通念に沿った「真実
らしさ」の破れ目から「真実」が現われる (p. 163)。
これが赤羽の言うアクチュアルとリアルの絶えざる反復であろう。小説の大部分のペー
ジはこの様を記述することに割かれている。
☆ ☆ ☆
「転 (続き)」(第8章 状況の流動性と主体の変容)
アクチュアルとリアルの接触により、物語が思いがけない屈曲を見せる (p. 167)。それ
が小説の転である。
転はまた、新しい状況が生じ新しい決断が下される局面、状況と決断がめまぐるしく交
替する局面である (p. 180)。
転の局面では、人物は一つの性格に固定されるのではなく、変容してゆく。人物が類型
化されず、固定化されず、変化の可能性を充分に持っているのが小説の特徴であり (p. 186)、
とりわけ近代小説の特徴である。
これまで触れないできた第2章「冒険の様々なかたち」にここで立ち戻ろう。この章で
はバフチンとルカーチの小説論を紹介しつつ、ギリシャ小説に始まり、騎士道物語を経る
西欧の小説史を概観していた。眼目は、小説のなかで人物と世界が変容するようになるの
は近代に入ってからだ (p. 47) ということである。
「神の去った世界の叙事詩」である (近
代) 小説には「いかなる目標も道もあたえられていない」 (ルカーチの言。p. 53)。カフカ
の 『城』に代表されるような、終わりのない彷徨が今日の小説の基本的なかたちである (p.
54)。
ここで赤羽の論旨に沿ったジャンル論を構想することもできるだろう。
小説はアクチュアルとリアルの間を往還しながら、絶えず思いがけない方向に進む。こ
れに対し、葛藤の解決に向けて一直線に進むのが悲劇である (p. 184; p. 198)。また、リア
ルの出現にはたしかに超日常的なものがあるが、しかし小説はこれを詩的な瞬間として特
権化することはない (p. 191; p. 195)。
☆ ☆ ☆
「結 (?)」(第 9 章 小説の締めくくり方)
冒険には三つの局面があると赤羽は述べていた (「おわりに」で反復、p. 345)。本書評
はそれらを、1. 起、2, 承、 3. 転 と読み替えてきたが、さて 4. 結 に相当するものがな
い。 冒険としての小説には結論はないのである。ただ終わりのない「転」、すなわちアク
チュアルとリアルの絶え間ない交替がある。
もっとも、胸のすくような結末を誇る小説もあるが、それは一回限りのアクチュアルと
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書評『<冒険>としての小説 ロマネスクをめぐって』
リアルの交替を語る短編小説 (ヌーヴェル) だ。言い換えれば、一つの冒険に終わりはあ
っても、生という冒険には終わりはない (p. 192)。長編小説 (ロマン) は一事件としての
冒険ではなく、一つの人生としての冒険を描こうとする。ロマンが描く人生は、つねに未
完のままで、先の見えないなかを進むのである。読み手はそのつどの「いま」に身を置き
続ける (p. 201)。 上記の意味でのロマンが近代小説の特徴であることは、第2章に触れながら述べたとお
りである。さてこの第 9 章は近代小説を代表する作品として『感情教育』を取り上げる。
行動の指針となるべき普遍的価値を見出せない主人公の彷徨の青春を物語る小説だ。
ロマンにも最後のページはある。そこに感動的な場面を盛り上げて全篇を締め括ること
は、その気になれば容易であろう。しかし『感情教育』はあくまでもロマンの論理と倫理
に忠実であった。二人の老友が青春を回顧して語り合う最後の場面で、生は永遠を保証す
るような詩的な瞬間へと昇華するのではなく、開かれたまま続いていくものとして提示さ
れている (p. 240)。
このように、小説の小説としての赤羽の書は、近代文学の本質をほぼ余すことなく捉え
ている。
☆ ☆ ☆
第10章 冒険小説における冒険とその不可能性 —— コンラッド『ロード・ジム』
本質を捉えたと確信するからこそ、さらに具体を追求したいという気持が動く。ペンを
執る者の習性というべきか。プルーストをはじめ幾人もの作家の例があるように、ロマン
に擱筆はない。小説の小説もまた然りである。
まずは、いわゆる冒険小説の代表作について、世間一般の評価を引っくり返してみせる。
第一部の失敗談こそがロマネスクであり、第二部の成功話はそうではない。第一部で、海
難というリアルのなかに投げ込まれた主人公が瞬時に決断を下すその度に見られる内心の
振幅をつぶさに追うことが、ロマネスクの読みの醍醐味である (p. 255)。
これに対して第二部の主人公の振舞いは、表面的にはなるほど冒険風であるが、悲劇的
結末に向って一直線に進むという点で、冒険談ではあってもロマネスクではない (p. 280) 。
第11章 恋愛における冒険 —— ラディゲ『ドルジェル伯の舞踏会』
ここでも「冒険」の通念が引っくり返される。愛の情熱が一途に進む劇的な冒険ではな
く、微細であるとはいえ様々な出来事の到来に伴い、思いがけない事態が発生する、その
一瞬一瞬が冒険なのだ。(p. 288)
この作品は一般に心理小説と呼ばれるが、
「心理」なるものは実は、思いや感情ではなく、
相手との関係において刻々にどう対処するかという力動的な関係性である (p. 313)。一寸
先は闇だという、まさしくロマネスクな関係性だ。
この関係性が組立てられる基盤にこそ、リアルが潜んでいると言うべきであろう。いわ
ゆる恋の三角関係をなす三人物の間の「闇に潜むざわめき」(p. 296)と赤羽は記す。ところ
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書評『<冒険>としての小説 ロマネスクをめぐって』
が「リアル」の語が実はこの章には出てこないのである。いや一度、人物たちのぶつかり
リアル
合いに現われる「生の実相」という文言がある (p. 320)。本書全体を通じてただ一回、
「リ
アル」がルビの位置に後退している。加えて「実相」という本意 ( ? ) を提示するかのよ
うでもある。ならば「アクチュアル」は仮相にほかならないのか。そもそも、アクチュア
ルな力動が張りつめたこのロマンについて語りながら、肝心の「アクチュアル」が出てこ
ないのはなぜか。
第12章 新たな冒険の可能性 —— カミュ『異邦人』
前二章の非日常的物語とは逆の、きわめて日常的な話が、通念に反して冒険となるよう
な、ひじょうに斬新な試み (p. 323) をこの作品に読み取る。
第一部での主人公ムルソーのアクチュアルへの無関心に注目する。いわゆる心理や感情
というものがまったくない (p. 326)、意味や価値を殺ぎ落とした世界であり、ムルソーは
瞬間的な「いま」だけを生きている。つまり世界のリアルな側面だけで日常生活を構築し
ようとしている (p. 329)。
これが冒険と感じられるのは、意味と方向づけを持たないムルソーの行動が、その度に
因果関係を外れて、一瞬ごとに無に転じるからである (サルトルの解説を援用)。そのため
に、まったくありふれた日常の出来事が思いがけないものとして現われてくる (p. 335)。
この点を積極的に評価するところに赤羽の作品解釈の独自性がある。
アクチュアルを伴わないリアルにおいて倫理の問題は発生しない。リアルは善悪の彼岸
にある (p. 341)。
しかしムルソーは否応無しにアクチュアルの世界 (意味と方向を持つ世界) に巻き込ま
れる。この後の第二部について赤羽の評価は消極的である。そこにはもはやロマネスクの
思いがけない展開は見られない (p. 342)。
☆ ☆ ☆
座右の書 (おわりに)
本書の要点 (ロマネスクな展開と冒険、リアルとアクチュアルの交替、など) を簡明に
まとめたあと、
「フィクションの世界から現実世界への回帰」に言及する。読書体験と現実
世界での生活の関係、いわゆる読書の影響のことである。
ここでフロイトの「痕跡」という概念が紹介される (p. 352)。本人も意識しないうちに
心に何らかのかたちで残存し続けるものを言う。小説は実生活の単純な行動モデルを示し
て終わるようなものではない。
実はフロイトの名と精神分析学の用語は他にも本書でいくつか出ていた。ジュネットと
物語論の諸概念、等々についても同様である。この書評文は主な論点を追うことに終始し
たが、読者が自分で人名と用語の索引をこしらえれば本書は、小説の本質に関わる精密で
かつ力強い論述と合わせて、文学の重要事項を集めた一種の文学事典にもなり、ますます、
小説愛好者の座右の書となるであろう。
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