ノ ず y / 〒ノ {ノ L ノ ノ ︹y ノ_ノ 1' U ゞ',(ノ、」 ノ ノ j メ 会員の広場 ノ 1 、、 、 8月15日,平和への道、 ジ ι ノ "ノ 口 七ノ JJ 才 陣頁むから、是非、承知してもらいたいJ 帝国憲法では、後継内閣の首班は天皇が命じる ことになっていた。 <長崎市>山田内科医院山田久 岡田元首相の女婿の迫水久常を組閣参謀として、 月1日に、米軍は日本本士の沖縄に遂に上陸作戦 陸相に阿南惟幾、海相に米内光政、外相に東郷茂 徳と主要閣僚が決まり、迫水が内閣書記官長(現 在の官房長官)となり、 4月7日に鈴木内閣は成 を開始した。統隈女18万人、これを迎え撃っ日本 立した。 軍は7万5000人。兵力においても装備でも劣勢 日本陸軍の参謀本部は、この沖縄における戦闘 その数日後に、敵国であるアメリカのルーズベ ルト大統領が脳出血のために、 4月Ⅱ日に63才 で急逝したのである。 を本士決戦のための時問稼ぎに過ぎないと考えて いた様だ。彼我の戦力差からみても当然の事であ 鈴木首相は、日本放送協会の北米向けの短波放 送で、「ここに、私は深甚なる弔意をアメリカ国 る。 民に申し上げます。今次の大戦において、アメリ 力が優勢であるのは、ルーズベルト大統領の指導 力が卓越していたからです。 この偉大な大統領を今日失ったのですから、ア メリカ国民にとっては、非常な悲しみでありま しょう。 」またニューヨーク・タイムズも、 この日本国首相のコメントを報じた。おりから、 アメリカに亡命中のドイッノ\作家、トーマス・マ ンは祖国ドイツへのラジオ放送で次の様に述べた。 太平洋戦争最後の年、昭和 20年(1945年) 4 であった。 当時の内閣総理大臣は、陸軍大将の小磯国昭で あった。この重大な危機に際して何ら有効な政策 も実施できぬまま、 4月5日統活辛職した。 この日、午後5時より宮中表拝謁の間で重臣会 議が開かれた。重臣とは総理大臣経験者をさす。 重臣会議には、その他に内大臣の木戸幸一と海軍 大将で枢密院議長の鈴木貫太郎が加わった。会議 は隙包くまで戦う以外に途はない」という基本原 則を確認することで始まった。 そのためには、陸海いずれかの軍人宰相が必要 であると議論が進められた。平沼元首相は、「ま ず軍人であること。国民の信頼の厚い鈴木大将に お引き受け願いたい」近衛、若槻の両元首相も「同 感である」と述べた。驚いたのは鈴木である。「と んでもないお話だ。軍人が政治に干与する事が国 を滅ぼすもとだと、私は老えている。世界の歴史 を見ても口ーマの滅亡、ロマノフ王朝の没落もま た然りである。それ故に、自分は政治に出ること は自分の主義上からもできない」 平沼元首相は更に続けた。「今日は国内が戦場 「ドイツ国民諸君。日本の鈴木貫太郎首相が、 ルーズベルト大続領を偉大な指導者とよび、アメ り力国民に対して、その死をいたみ、深甚なる弔 意を表した事を、どう思いますか」更に続けた。 「日本には今なお.騎士道が存在し、死に対する畏 敬の念と偉大なものに対する憧憬の念がみられ る。 英首相のチャーチルも、鈴木の"弔意"には 深い感銘をうけた。 が必要である。この際、鈴木閣下のご出馬をお願 一方、 7月16日からべルリンの西方ポッダム において、連合国の首脳会談が始まった。 その情報は逐一、日本にも伝わった。アメリカ、 イギリス、中国の対日共同宣言が発表された。 8 月8日にソ連も対日参戦をしたため、 4国からの いしたい」 ポツダム宣言となった。 になろうとしている時である。政治の一層の強化 この重臣会議は午後8時に終り、タ食となった。 午後10時を過ぎ、深夜ではあったが昭和天皇 は、鈴木大将を宮中御学問所によんだ。 この夜は米軍の空襲もなく、静かな夜であった。 暗幕をはった皇居宮殿の一室は、暗い電燈が天皇 と鈴木を映していた。天皇は一言も云わず、この 老臣をじっと見つめた。 鈴木は、「この一事だけは拝辞のお許しを願い ます」といった。 天皇は、「そう申すと思っていた。しかし、こ の重大な事局を担当する人は、もうぃないのだ」 80 その内容は、軍国主義勢力の駆逐、カイロ宣言 の履行と武装解除、戦争犯罪人の処罰、日本国主 権の及ぶ領士の範囲、基本的人権の確立、民主的 政府の樹立等である。 新大続領のトルーマンは、無条件降伏を軍隊だ けに限定させる事を明らかにした。将兵は家族の 待っ故郷へ、職場へ復帰する事であり、無,駄な苦 しみから解放されるであろうと声明を発表した。 続いて、日本向けの短波放送で、アメリカ国務 省は、無条件降伏は戦闘行動の終了と武装解除を 意味する軍事用語であると説明した。 長崎県医師会報第823号平成26年8月 ノ ゴノ゛ノ / iι {,丁 ノ、J ノ ノ ノ 、1 / J 会員の広場 J▲ノ 所で、今次の大戦前に、東京にいたアメリカの 駐日大使であったグルーは、この時、国務次官と なってぃた。そのグルーの手に、日本の情報局や 同盟通信社などにより、ワシントンに対して問い ノ ノ ゛ー,ノ "ゞ "ノ イ j 決すると云うのが、首相の方針であった。 鈴木首相は、午後10時過ぎに皇居へ参内し天 皇にいった。「御前で最高戦争指導会議を開催す ることをお許し下さい」 天皇は快諾した。 合わせが発信された。 東アジア全域で戦闘中の数百万の誇り高い日本 軍力那牟伏するであろうか。予想されるクーデター を防ぎ、和平をもたらす唯一の権威の象徴は、天 8月9日午後Ⅱ時過ぎに、ポツダム宣言堂諾 をめぐる御前会議が地下防空壕で聞かれた。 皇以外にはありえないと考えていた。その天皇制 廃止を意味するような無条件降伏では、戦争を終 15坪の狭い部屋は、鳥、詰まる様な暑さであっ た。最高戦争指導会議の構成員は鈴木首相と東郷 外務大臣、米内海軍大臣と阿南陸軍大臣、豊田軍 らせることは出来ない。 令部総長と梅津参謀総長の6名であった。 一方、昭和天皇を中心として、皇居の地下壕の 会議室で6月22日に、天皇みずから召集した、 議論を尽すこと2時間に及んだが、 3対3のま ま議決することができない状態であった。しかも 異例の最高戦争指導会議が行われた。 事態は一刻の猶予もできないのである。 この時はじめて「戦争終結」の言葉を、天皇み ずから口にした。 天皇としての国家大権によって和平へ転換しよ うというのである。 鈴木総理は、「お言葉を拝しまして恐れ多いこ とです。内閣としては、戦争完遂につとめると共 に、外交的な方法をとる事も必要と考えておりま す」 また阿南陸相は、「陛下が終戦の決意を遊ぱさ れるのは、極秘にしなければならない」と云った。 鈴木首相が、ゆっくり立ち上がって、一礼する と、天皇に向って「会議の状況は、お聞きの通り でございます。はなはだ異例で畏れ多いことであ りますが、お上の思し召しのほどをお示し願いと う存じます」天皇は、しずかに語り出した。「私 の意見を言おう。空襲は激化し、これ以上国民を 塗炭の苦しみに陥れ文化を破壊し、世界人類の不 幸を招く事は欲しない。勿論、忠、勇なる軍隊の武 装解除、戦争犯罪人の処罰など情において忍び難 迫水書記官長には、首相の終戦の大業に向っての いものがある。しかし、今日は忍び難きを忍ぱね ばならぬと思う」かくて 8月14日に戦争終結の 意気込みが手にとるようにわかった。 大詔が渙発され、わが国は平和で民生的な国家に この日、米軍は沖縄戦の終了と占領を正式に表 再生した。 かくて、昭和天皇自身による戦争終結の大詔が 明した。 8月9日午後、内閣の閣議と同時に最高戦争指 導会議を御前会議として、一挙に聖断として事を 録音され、 8月15日正午に放送されており、こ の日を終戦の日と定めている。 改夙郎 、゛ 終戦の詔書 マイクを通して国民に訴える鈴木首相 長崎県医師会報 顧.雌ケ X,鳥ケ:イ●弓掌?・嬰ラ;剛鷺 ゛ 、、 阪木 阪内ξ 廣光,太 ナ%1 式 登場シせ^,琴^・・復テξトフ知ス三蜘^ XX XX 松氷会 琴 ,翻・ 宅 而皇 師゛ 、、、 阿仁 j ー'、 1叉島旨 ' 海軍大百 司糸大 . 、 昭和二十与八月1θ ^ 第823号平成26年8月 81
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