日本セトロジー研究 ( J a p a nCe t o l o g y )( 1 5 ) :5 9 ( 2 0 0 5 ) 佐渡の江戸時代文書に見られる大型海生動物の記録 本間義治 I)・三浦啓作 21 1 )新潟大学大学院医歯学総合研究科細胞機能講座顕微解剖学分野 干9 5 18 5 1 0 新潟市旭町通 17 5 7 )干9 5 2 1 5 4 7 新潟県佐渡市相川江戸沢町3 2 Ar e v i s i o no ft h er e c o r d so fl a r g emarineanimalsfoundi nt h eo l ddocumentso f Edop e r i o do fSadoI s l a n d n dK e i s a k uMiura2l Y o s h i h a r uHonma1l a ] ) D i v i s i o no fM i c r o s c o p i cAnatomyandB i o i m a g i n g ,D e p a r t m e n to fC e l l u l α rF u n c t i o n ,N i i g αt aU n i v e r s i t y αd u a t eS c h o o lo fM e d i c a lαndD e n t a lS c i e n c e s ,A s a h i m a c h i1 7 5 7 ,N i i g a t a9 5 1 8 5 1 0 ,J i αpan Gr 2 ) A i k a w a E d o z α wacho3 , SadoC i t y ,N i i g a t aP r e f i 邑c t u r e9 5 2 1 5 4 7 ,J a p a n 0 0 5)は年のみで月日は 進めているが、佐渡史学会( 2 最近、佐渡史学会(山本仁会長)が、『佐渡江戸時 代史年表』( 2 0 0 5)を刊行した。 この中には、以前から 旧暦のまま付記してあり、そのままでは現在の記録と 本聞が興味と関心を持ち 続けてきた大型動物の寄り現象 議論照合できないので、内田 ( 1 9 7 5)により新暦月日 や捕護などの記録も載せられている。本間 ( 1 9 9 0a、 ) を加えた。 本間・北見 ( 1 9 8 1 )、本間ら ( 1 9 8 3)が参照した古記録 佐渡江戸時代の文書に見られる海生動物の記録 は、主として『佐渡年代記』その他に拠ったので、今回 の『年表』に用いられている『佐渡国略記』のみは目を Cetaceans 通さなかったに等しい。 一方、長いこと『佐渡相川の歴 寛永十二 (鯨類) ( 1 6 3 5∼ 1 6 3 6 )2月 6日∼翌年 2月 6日 、 2匁 2分。 (風・中) 鯨売代銀 7 史 』 ( 1 9 7 1∼2 0 0 2)の編纂に携わり完成させた三浦は、 この年表の編纂協力者として参加した。そこで、両名が 寛永十七 ( 1 6 4 0∼ 1 6 4 1 )2月2 2日∼翌年 2月 9目 、 寄鯨売代銀2 1 7匁 8分。(風・中) 協力して佐渡島の江戸時代に限り、大型動物のいわば特 異現象の記録を見直してみた。しかし、両名とも退職し 寛永十九 ( 1 6 4 2∼ 1 6 4 3 ) 1月3 1日∼翌年 2月1 8日 、 寄り売代銀6 2 9匁 6分。(風 ・ 中 ) て久しいので出典がさだかでないものも存在するが、一 応掲載して大方のご教示を仰ぐことにする。 寛永 本間 (1990a)、本間・北見 ( 1 9 8 1)および本間ら 二十 ( 1 6 4 3∼1 6 4 4 ) 2月1 9日∼翌年 2月 7目 、 寄鯨代銀 3 71 匁 3分。 (風・中) ( 1 9 8 3)を纏めるにあたり、資料の蒐集や新暦(太陽暦) 正保 三 ( 1 6 4 6∼ 1 6 4 7 ) 2月1 6日∼翌年 2月 4日 、 寄鯨代銀 2 0匁 4分。(風・中) 年月日への転換などに協力頂いた佐渡相川在住の北見健 彦氏に心から謝意を表する。 −寛文元 ( 1 6 6 1 ) 正月 5日= 2月 4日、相川羽田 上・中・下 3巻(風)天正十七 浜へ長さ 6尋ばかりの小鯨が生きながら高波に打ち ( 1 5 8 9)以前∼寛延三 ( 1 7 5 0)、延享三 ( 1 7 6 3)完 上げられる(前々より金銀山の吉兆と申し伝える)。 出典凡例:佐渡風土記 成;佐渡年代記 1 9巻2 2冊(年)慶長六∼嘉永田 ( 1 6 ( 年 3 ・名 6) 0 1∼ 1 8 5 1);佐渡国略記 3 4巻(略)寛永十二∼天保 七 ( 1 6 3 5∼ 1 8 3 6);佐渡名勝志 8巻(名)∼延享元 ( 1 74 4);撮要年代記 上 ・下巻(撮)元文三 ( 1 74 0 ) 完成;島根のすさみ(島)天保十一∼十三 ( 1 8 4 0∼ −寛 文 十 一 1 8 4 1);佐渡志 3巻のみ(志)天明∼寛政? ( 1 7 8 1∼ 1 8 0 0 ) −延宝七 冠頭の ・印は本間 ( 1 99 0a)と佐渡史学会( 2 0 0 5)の −元禄四 ( 1 6 7 1 ) 8月= 9月 3日∼ 1 0月 2日、亀 脇村の浜に鯨寄る 。 ( 西三川村誌・名 6) −寛 文 十二 ( 1 6 7 2)正月 2日= l月3 1日、相川羽田 浜へ鯨上がる。(丈尺詳ならず)(年 3 ・略記) ( 1 6 7 9 ) 4月= 5月1 0日∼ 6月 8日、大 泊村へ鯨寄る。(略記・年 4) ( 1 6 9 1 ) 4月2 1日= 5月1 8日、小田村へ 両者に掲載しである項目 。 鯨が寄り、翌 2 2日中目川大間浜へ引き回し、翌 2 3日荻 O印は本間 (1990a)に無いもの。 原奉行以下鯨見物、 2 5日鯨を切り分け小田村近在 5 無印は佐渡史学会( 2 0 0 5)に無いもの。 ヶ村へ下さり、掛り役人なと‘ へも分ける。(略記 ・ 本間 ( 1 9 9 0a)は月日まですべて新暦に直して推察を 年 5 ・名 6 ・撮上) 5- 本間義治・三浦啓作 0享保 四 ( 1 7 1 9 ) 2月 1 0日= 3月3 1日、海府へ鯨 日= 1 7 9 0年 3月2 1日)戸地村(相川町)へ鯨、流れ寄 が寄り、漁師共相川羽田浜へ引き回す。(略記) ・享保 十 六 る。長 6問 3尺あり(掛軸の図では 6間 l尺のヒゲ ( 1 7 3 1 ) 7月 6日= 8月 8日、巳刻より クジラ、 5 2 1貫 2 8 1文で売れる)。(年 1 1・本問、 1 9 9 0 達者村澗の 口へ長さ 2丈 2∼ 3尺の 青い魚が寄り、 3 1本の内 翌 7日午刻 までに漁師が釣り 上げ,魚数 1 b) 文化 十 1 14 本を代銀 7貫で相川小六町又十郎が買い取り、 同1 0日船にて相川へ運び、残りは村中に配分する。 ( 1 8 1 3)関村(相川町)へ流鯨有之.(年 1 4) ・文 政 四 ( 1 8 2 1 ) 4月2 4日= 5月2 5日,沖合に死 4 3年以前 巳年(貞享五∼元禄元= 1 68 8?)にも達者 鯨あり、大浦村漁師が見付けて届け出、競り入札の 0 0本寄せたという 。 (略記) 村に同じ魚が 1 結果、金 5 0両で大浦村が落札。 (略記・年 1 5 ) ・享保 十 七 ( 1 7 3 2 ) 4月 1 3日= 5月 7日、小川村へ −文政七 長 さ 6問 2尺の死鯨が上がる。(略・撮下・名 6) ・享保 十七 ( 1 7 3 2 )1 1 月 9日= 1 2月2 5日には大倉村 へ長さ 7間半の鯨が上がり、近村の者が盗んで魚屋 ・略記) ・文政七 に売った。(略記 ・撮下・名 6) 元文元 ( 1 7 3 6 ) 9月初日= 1 0月3 1日、大浦(相 三 −文 政 九 引き寄せる。(年) 文政九 0 分の上、 同 5日御広聞にて競 り入札があり、代銭 7 貫文余で河原田の薬屋市郎兵衛が買い請ける。(略 ( 1 8 2 6 ) 3月晦日= 5月 5日、羽丹村(旧 両津市羽二生)へ鯨寄る。(年 1 6 ) ・天 保 二 記 ・風下) ・宝暦 元 ( 1 8 2 6 ) 2月 1 6日= 3月2 4日、稲鯨村の 漁師が沖合で長さ 6丈程の流鯨を拾い、村方磯辺へ ( 1 7 5 0 )1 2月 3日= 1 2月3 1日、鹿伏村 ど ろの海へ長さ 7∼ 8聞の死鯨が寄せ、御目付役が見 ( 1 8 2 4 ) 3月 7日= 4月 6日、矢柄村磯 辺へ鯨が流れ寄る。(年 1 5 ) 川町)へ鯨流寄る。(佐渡名勝志 6) −寛延 ( 1 8 2 4 ) 2月 7日= 3月 7日、高波にて 相J i lー町目浜へ長さ 2間ほどの鯨が打ち寄せる。( 年 ( 18 31 ) 9月2 2日= 1 0月2 7日、赤泊湊の 2里ほど沖合に長さ 4丈余の流鯨があり、漁師が赤 ( 1 7 5 2 )1 2月2 0日= 2月 4日、達者村へ 死鯨寄せ、相川柴町の海岸まで引き回し、大間御番 7 ) 泊御番所下への引付けを願い出る。(年 1 ・天 保 九 ( 1 8 3 8 ) 2月= 2月2 4日∼ 3月2 5日、稲 所にて売買、油をとり雑蔵へ納める。(略記・金泉 鯨村漁師が沖合で長さ 9尋ほどの流鯨を拾い、村方 郷土史) へ引き付ける。(年 1 9 ) −宝暦 三 ( 1 7 5 3 ) 4月2 9日= 5月3 1日、姫津村の −天 保 十 一 ( 1 8 4 0 ) 2月∼ 3月= 3月 3日∼ 5月 l 漁船が千本村沖にて死鯨を見付け、役所へ注進の 日、鷲崎村弥次右衛門が沖漁に出て流鯨を拾い取 上、姫津村にて競り売りがおこなわれる 。(略記) I O分 l運上)。 り、役所へ届け出て入札払いとなる ( 明和元 ( 1 7 6 4)甲申年= 2月 2日、北秋村、鯨 流れ寄る。(?) ・明和 二 9 ) ( 年1 天保十二 ( 1 7 6 5 )1 2月 2日= l月 1 2日、下相川 へ 死鯨が寄せ、代銭 2 0貫 3 0 0文で村方が買い請け、内 1 0 島辺鯨の潮をみる。(島) 天保十二 分の 1 (2貫 2 9文)を上納する。(長 1 3尋)(年 1 0・ 略記)(この頃、突鯨・寄鯨の運上金が定められ、 ( 1 8 4 1 ) 3月2 4日= 5月 1 5日、相川一里 ( 1 8 4 1 ) 4月 1 0日= 5月3 1日、相川横島 付近より沖へ向鯨潮ふき。(島) ・天 保 十 四 ( 1 8 4 3 )1 l 月1 2日= 1 8 4 4年 l月 1日、大 突鯨は落札金高の 2 0分の l、寄鯨は落札金高の 3分 浦村字どろへ長さ l丈ほどの鯨が流れ寄り、村人が の 2、流鯨は落札金高の 1 0分の l、翌年改正され寄 拾って届け出る(競り入札にて払い、 鯨は 3分の lとなる) 1 ) 取り立てる)。(年 2 −明和五 ( 1 7 6 8 ) 1月 2日= 2月 5日、大須村へ −弘化元 l害j l の運上を ( 1 8 4 4 ) 3月= 4月 1 8日∼ 5月 1 6日、鷲 3尋余りの鯨が寄せ、代銭 9 5貫 3 0 0文で新町村 長さ 1 崎村源左衛門が沖合で長さ 2丈 6尺・胴廻り 1丈余 0・略記) 小兵衛が買い請ける。(年 1 の流鯨を拾い、村方へ引き来り、村々へ入札の触れ ・安永 四 ( 1 7 7 5 ) 3月 6日= 4月 5日、橘村へ死 鯨が流れ寄り、 8 0貫文余で相川柴町清五郎が買い取 1 ) を出す。(年 2 ・弘化 0・略記) る 。 ( 年1 天明七 ( 1 7 8 7 ) 5月 6日= 6月2 1日、小木湊外 1 ) の澗へ長さ 9間程之鯨流寄る。(年 l 寛政 二 二 ( 1 8 4 5 ) 4月 1 4日= 5月 1 9日、黒姫村久 右衛門が沖合より流鯨を引き来り、競り入札とな る。(年 2 1 ) −弘化四 ( 1 7 9 0 ) (掛軸では寛政二年戊年二月六 ( 1 8 4 7 ) 3月= 4月 1 4日∼ 5月 1 4日、両 尾村・黒姫村・小木町から流鯨の報告在り、 6- 3ヶ所 佐渡の江戸時代文書に見 られる大型海生動物の記録 へ届け、皮は奉行が江戸へ持参する。(年 l l・略記) 分の代銀 6 9 4貫文余にて相川板町利左衛門ほか l人 O天 明 二 が落札。(年 2 2 ) ・弘化四 り海瀬というものが上がる 。 (略記) ( 1 8 4 7 )1 0月 1日= ll 月 8日、小川村清 右衛門ほか 5人が流鯨を村へ引き付け、同村方三郎 O天 明 八 覧に成る。(略記) ( 1 8 4 8 ) 4月= 5月 3日∼ 5月3 1日、沢 崎村沖に流鯨あり、同村漁師が引き来り、競り入札 −寛政四 ( 1 8 4 8 ) ? 石花(相川町)へ鯨寄る。 が内々に相川塩屋町文蔵を召し連れ御役所の鉄砲を ( 年2 2 ) ・嘉永 二 持参して外海府願村に出向き、 二度にわたって大小 のトド 4頭を相川に引き回し、皮を剥ぎ、 6月に 2 ( 1 8 4 9 ) 3月2 2日= 4月1 4日、大浦村沖 枚を江戸に送る。(年 1 2・略記) 合に流鯨あり。(年 2 2 ) −嘉永 二 ( 1 8 4 9 ) 3月2 9日= 4月2 1日には石名村 O文 政 四 でも流鯨あり 。 ( 年2 2 ) 万延元 ( 1 7 9 0 ) 5月= 6月 1 9日∼ 7月 1 8日、江 戸表よりトドの皮が入用との達しがあり、役人 2人 となる。(年2 2 ) −嘉永元 ( 1 7 8 8 ) 5月陣日= 7月 3日、相川大間 浜へ海獣が上がり、御役所へ持参、奉行・組頭が御 が1 3貫文余にて落札する。(年 2 2 ) ・嘉永元 ( 1 7 8 2 ) 6月 4日= 7月 1 3日、大浦村よ ( 1 8 2 1 ) 5月晦日= 6月四日、相川下戸 浜町伊之右衛門船が、昨夜烏賊漁に出て、沖合で長 ひん さ 1丈ほどの雄積 l匹を拾い取り、下戸浜へ引き上 ( 1 8 6 0 ) 2月 9日= 3月1 9日、片野尾(旧 両津市)沖合で流鯨を拾う。 2 0間余(下顎骨を卒塔 げて届け出る。(略記) 婆に)。(本間ら、 1 9 9 2 ) 天保九 ( 1 8 3 8)戊 ll月= 1 2月 1 9日 ( 11 月 3日解 あ しか 剖)、佐渡(場所?)、海瀬、 5貫 7 5 0匁。(出典不明) PinnipedsandA r t i o d a c t y l a n s O寛 文 四 天保十二 (鰭脚類・偶蹄類) 浜通り、海獣打殺す。 ( 年2 0・島ーオットというな ( 1 6 6 4 ) 7月 1 8日= 9月 8日、馬首村で あしか れば海瀬なるべし)(本問、 1 9 8 6a、 b) トドを捕る。(略記) 0享保 三 ( 1 7 1 8 ) 3月 5日= 4月 5日、湊上町松 右衛門の猟船が夷湊川尻沖で怪しき魚(形は牛馬の T u r t l e s 如く、顔験は鼠の様にして口に嶺あり、海瀬という) 種が不明のもの を見付け、陸へ上げて打殺し、皮を剥いで代銀 1 5匁 三 (海亀類) ・享保十四 に売る。(略記) ・享保 ( 1 8 4 1 ) 1月 1 5日= 2月 6日、相川町西 ( 1 7 2 9 )1 2月2 9日= 2月 1 6日、大浦村で 漁師が亀を二つ釣り上げる 。 (略記・名) ( 1 7 1 8 ) 3月2 3日= 4月2 3日、稲鯨村の O寛 保 元 ( 1 7 4 1 ) 1月 2日= 2月 1 7目、姫津村で 漁師が長さ 8尺余の惣身黒毛の牛のような魚(海艦) 漁師が大亀を釣り上げ、翌日奉行所へ差し出す。(略 を釣り上げて相川羽田浜へ引き回す。(略記・撮下 記 ) 0宝 暦 四 ・名) −元文 二 ( 1 7 3 7 ) 2月 9日= 3月 9日、内海府に 明和八 て漁師がオ ッ トセイを取り、相川小六町平兵衛に売 り払い、後日井戸奉行が代銭4 0 0文にて買い上げる。 ( 1 7 7 1)正月 1 9日= 3月 7目、鹿伏村(旧 相川町) (略記・撮下・名 6) O明和 六 ( 1 7 5 4 ) 2月1 2日= 3月 3日、鹿伏村の 浜へ大きな亀が打ち上げられる。(略記) 明和八 ( 1 7 6 9 )1 1 月2 3日= 1 2月1 9日 、 戸地村へ ( 1 7 7 1 ) 2月2 1日= 4月 5日、大浦村(旧 相川町) 海達という魚が上がり、地方役所へ差 し上げ、銭 2 0 0 文久四 ( 1 8 6 4)正月初日= 3月 3日、佐渡島戸 地に亀塚建立。(本問、 1 9 9 0c) 文下される。相川小六町又十郎方にて料理し、奉行 に差 し上げ、皮は奉行が江戸へ持参する。(略記) O安永 三 ( 1 7 7 4 )1 1 月 9日=1 2月l l日 、 二見村に て漁師が海達という魚を釣り上げ、御役所へ差 し上 種が推定できるもの オサガメ げる。(略記) O安 永 六 貞 観 十二 ( 1 7 7 7 ) 1月 1 5日= 2月2 2日、鹿伏村へ 佐渡より寄亀一ツを奉り其の形、鳥鳴赤甲黒質な り。(三代実録、志) 野猪の死骸が打ち上げられる 。 (略記) ・安永六 (8 7 0)庚寅年陰暦 2月2 9日= 4月 9日、 ( 1 7 7 7 ) 2月2 7日= 4月 1 7日、赤泊村の 貞享二 ( 1 6 8 5)乙丑正月 1 6日= 2月1 9日、相川 漁師又助が長さ 2尺 7寸 5分の海豹という魚をとっ 千畳敷と言う岩の上へ、長 7尺余の亀揚がる。(年 て御番所へ差し出し,翌日御番所より相川の奉行所 4、略記) - 7- 本間義治・三浦啓作 寛保元 ( 1 7 4 1 ) 辛酉年正月 2日= 2月 1 7日、姫 尺の異魚(万歳)が打揚がる。(年・略記) 津村(旧金泉村)漁人大亀を釣上る。(名下) 延享 四 享保 えびす 八 ( 1 747 ) 3月 1 3日= 4月2 2日、北秋村 刀魚)という魚を獲りはじめた。(佐渡四民風俗・ 略 記 享 保 7年の項) (旧金泉村)。(名下) 元文 三 タイマイ ( 1 7 3 8 ) 2月1 9日= 4月 8日、達者村で 漁師が鮫 ll 本釣り上げる。大は 8尺余もある。(略 享保 十 七 ( 1 7 3 2)壬子年正月 1 9日ニ 2月 1 4日、鹿 記 ) 伏村(相川町)の漁人亀を釣り上げ、奉行所へ差上 宝 暦 十二 げ、銭 3 0 0文下される。(名下、略記) 天明 七 ( 1 7 8 7)丁未年 1 1 月1 8日= 1 2月2 7日、下 天野奉行にご覧に入れ、酒を下される。(略記) 宝暦十三 図に写し −−献せし処一一 金 一両被下。(年 1 7 ) 天明 八 ( 1 7 8 8)申年正月= l∼ 2月、久保田佐 安永四 へまんぼうという魚が上がる。(略記) Cephalopods ( 1 8 0 2)辛酉年 1 2月= l月 5日∼ 2月 5 寛延元 日。相川下戸浜町喜太郎…珍敷亀を拾い取り…献上 ( 1 7 4 8 )1 0月1 3日= l1 月 2日 、 五十里村 を鉄砲撃ちらが見付けて撃ち殺し、奉行所へ差 し上 ( 1 8 2 8 )1 2月 1 5日(または 1 6日 ) = 1月 げ、相川海士町茂左衛門方にて干し烏賊にする。(略 3 1日(または 2月 2日)、相川浜(または下戸浜 ) 記 ) において珍敷亀拾い揚がる。(年) 文政十二 (頭足類) の浜に長さ 3尺余 ・幅 2尺の大烏賊が上がったもの 先例の通金一両可被下旨…。(年) 文政十 ( 1 7 7 5 ) 4月2 3日= 5月2 2日、下相川村 C l7 9 1 ) 辛亥年、相川浜へ恥瑠亀が流れ 寄る−江戸表へ上がる。(年) 享和 元 ( 1 7 6 3 ) 3月1 2日= 4月2 4日、夷町にて マンボウ上がる 。 (略記) 渡守に献上。(年 1 7 ) 三 ( 1 7 6 2 ) 6月1 8日= 8月 8日、西浜にて マンボウが釣り上げられ、相川下戸町魚屋弥兵衛が 戸町(相川町)の金五郎 .. . .· I1~唱にも可有之哉と絵 寛政 ( 1 7 2 3)この年より能登パンジョウ(秋 んま 考察とまとめ ( 1 8 2 8∼2 9)己丑年 1 2月 1 8日= l月2 2日 、 木村亀兵衛…米郷村浜 前報(本間・北見、 1 9 8 1;本問、 1 9 9 0a)でも指摘し ( 旧 二見村)において珍敷亀一つ拾い取、同日米郷 た通り、著者らが江戸時代の大型動物漂着記録などに関 二見浦(旧相川町)目付役 村百姓寿助同所にて、同一拾い揚がる。(年 1 7・本 する記録を拾い出した出典には、いずれにも種の判定が 問 、 1 9 8 6 ) 確実にできるような記述は見られない。イルカ類は魚と 天保五 ( 1 8 3 4)巳年 1 2月1 0日= l月1 0日、相川 下戸浜に而、珍敷亀を拾い取る。(年) 安政元 別も出来ない が 、 l件だけ掛軸に画(ヒゲクジラでミン ( 1 8 5 4)寅正月朔日= l月2 9日、橘村(旧 二見村)甚兵衛。(出典不明) 安政元 扱われているし(享保 1 6)、ハクジラとヒゲクジラの区 ク?)が残されている(本問、 1 9 9 0c)。鰭脚類につい ても同様に種の判別は出来難いが、写生図の残されてい ( 1 8 5 4)正月 3日= l月3 1日、相川羽田 る場合は画よりアザラシの一種(アゴヒゲアザラシ?) らしいことが窺える(本問、 1 9 8 6a、 b)。亀類の場合 町喜多助。(出典不明) は、体や甲の大きさの数値でオサガメ、奉行所よりの金 ・銀子の下賜高の大きいものはタ イマイとして纏めた アカウミガメ 文 政 十三 ( 1 8 3 0)寅年正月 1 5日= 2月 8日、亀脇 村浜(旧羽茂町)で小木町村の甚吉子亀を拾う。石 が、絵図が残されていたので貴重な稚アカウミガメの記 録と紹介されたものもある(本問、 1 9 8 6c。 ) 井文海 ( 1 8 0 4∼ 1 8 4 9)佐渡奉行所より写生仰せつか ところで、旧暦の年月のみで日にちの付されていない る。稚アカウミガメ、甲長 1 3 .7 c m (本問、 1 9 8 6c) 場合を新暦に直すと、 2ヶ月にわたる場合が普通であ る。 このような場合はどちらの月により多くの日数が含 F i s h e s まれるかによって、漂着月を決めた。このようにして作 (魚類) 貞享二 ( 1 6 8 5 ) 1月 6日= 2月 1 0日、下相川の 業してみると、鯨類は 5月の 1 0件が最も多く、 3 ・4 ・ 浜へ鮫数多く打揚げ、皮を剥ぎ取り武器に用いて相 5の 3ヶ月( 2 1件)で全件数( 3 6件)の 5 8 .3%を占める。 応の品という。(年 ・略記) 鰭脚類は全体で 1 3件と少ないが、なかでも 1 2・4 ・7月 2月 9日= 3月 1 3日、下相川の 小田の本という所に長さ 4尺 5寸・幅 3尺・厚さ l がそれぞれ 3件で多い。しかし、 9月の漂着例や旧 5月 すなわち新暦の 6∼ 7月にトドをし止めたという記録に -8 佐渡の江戸時代文書に見ら れる大型海生動物の記録 本間義治. (1986c)佐渡島の絵図師石井文海(江戸末 は、得心がいかない。海亀類は 1∼ 4月のみに記録があ 期)の写生図珍敷亀をめぐって.両生日~虫類研究会誌, り、こ とに l月( 5件)と 2月( 7件)に集中して全体 の70.6%を占めている。このような鯨類と亀類の漂着傾 ( 3 3 ) . 1 9 -2 3 . 向は、明治以降、現在に至るまでの漂着傾向(本問、 1990 a)と、ほぽー同様であ った。 本間義治. (1990a)新潟・佐渡沿岸における大型海産 動物の漂着記録再調.新潟大学理学部附属佐渡臨海実 験所特別報告, 5:ト 3 9 . 次に、安永六年一月十五日 (1777年 2月2 2日)に 旧相 本間義治 川町鹿伏海岸へ野猪の死体がうち上がったという記事が (1990b)佐渡島戸地村に残された寄り鯨の 古記録.鯨研通信, ( 3 8 0 ) ' 1 3 15. ある。ニホンイノシシはもちろん現在佐渡にも越後にも 本間義治ー(1990c)佐渡島戸地海岸にある亀の墓.(付) 生息分布していないので、北陸ないし以西の地より 出水 などの際に押し流されてきた個体であろう 。ニホンイノ 新潟∼佐渡沿岸における海産開虫類の漂着採捕記録追 シシもニホンシカも、積雪 6 0 c r n以上の地(福井県から新 加両生問虫類研究会誌,( 3 9 ) ,5 -1 0 . 潟県)には分布しないといわれており、現在の太平洋側 本間義治・北見健彦. (1981) 新潟・佐渡近海における の北限地帯は仙台市らしい。最近の暖冬小雪により、本 海産晴乳類の分布と往時の記録. 日本生物地理学会会 報 , 36:93 1 0 1 . 県西部へもイノシシの侵入がみられ、少雪の2004年 l∼ 2月には、柏崎地方で 3頭も射止められたという情報が 本間義治・北見健彦・水沢六郎. ( 1 98 3)漂着記録など ある(箕輪、 2005)。実は本県にも近世(江戸時代)に よりみた新潟・佐渡近海における頭足類. 日本生物地 理学会会報, 3 8( 3 ) '2 3-2 9 . つくられたイノシシ侵入防止のための猪垣跡が存在する ことが知られている(矢ケ崎、1 9 92 、1 993) 。Watanobee t 本間義治・箕輪一博 ・ 青 柳 彰. (1992)新潟県内にお ける鯨の墓一追加と補訂新潟県生物教育研究会誌, a . l ( 2 0 0 4)によれば、佐渡島に産する縄文時代のイノシ シ骨のミトコンドリア DNA は 、 北海道や本州の産出骨 ( 2 7 ) ' 1 13 1 21 . が現生のものと類似しているのに反し、現生とは異なり 箕輪一博. (2005)相崎地方で注目すべき崎乳類の目撃 単系統である。そして、この絶滅佐渡個体群は、佐渡が ならびに捕獲記録.柏崎博物館館報, ( 1 9 ) '6 7 7 4 . 本州と隔離された年代とほぼ 一致し、現在より 2000年前 佐渡史学会. (2005)佐渡江戸時代史年表. 379頁,第一 まで生存していたと推測されるという。 印刷所(新潟 )ー いずれにせよ、佐渡島沿岸における江戸時代の大型動 内田正雄. (1975)日本暦日原典. 560頁,雄山閣(東京). 物の寄り現象も、現代の傾向と同じ季節(候)にみられ 矢ケ崎孝雄 ( I9 9 2)北陸における猪害防除の研究(ー) . たことを、改めて指摘して本稿をくくりたい。 日本海域研究所報告, ( 2 4 ) '8 31 18 . 矢ケ崎孝雄 (1993)北陸における猪害防除の研究(二) . 文 献 日本海域研究所報告, ( 2 5 ) ' 185-195 . 本間義治. (1986a)佐渡島の絵図師石井文海(江戸末 Watanobe,T . ,l s higuro,N . ,Nakano, M. , Matsui, A . , 期)の写生図腿納瞬に似たる海獣の動物学的考証 新 Hongo,H . ,andYamazaki,K .( 2 0 0 4 )P r e h i s t o r i cSado 潟県生物教育研究会誌,( 2 1 ) '6 5 6 8 . I s l a n dp o p u l a t i o n s ofS u ss c r o t adistinguished from 本間義治. (1986b)石井文海(江戸末期)の動物写生 comtemporary Japanese wild boar by ancient 図一新潟の水族誌( 20).蒲原,( 7 1 ) '2 8-41 . m i t o c h o n d r i a lDNA.Z o o ! .S c i . ,2 1(2 ) ,219 2 2 8 . 9
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