– 今回の展示では、主に江戸時代から明治初頭にかけての収蔵品の中から 「貿易」に関わるものを展示し、長崎の歴史を紹介しています。 南蛮貿易と鎖国政策 日本とヨーロッパの国々との南蛮貿易は戦国時代後半から始まり、スペイン・ポルト ガル・イギリス・オランダなどの南蛮船が日本に来航していました。江戸時代になると、 スペインやポルトガルの宣教師が布教するキリスト教に対して警戒を強化していた徳川 幕府は、禁教令を皮切りに鎖国政策を進めていきます。その後スペインとは国交を断絶、 ポルトガルは来航を禁止、イギリスは業績不振で日本から撤退していたため、ヨーロッ パのなかで唯一オランダだけが日本との貿易を続けることになります。 江戸時代の対外貿易 江戸幕府は日本人の海外渡航や、5 年以上海外居留した 日本人の帰国も禁止したため、東南アジアにあった日本人 貿易商人の拠点である日本人町も姿を消します。そのた め、江戸時代に対外に開かれた窓口は松前・薩摩・対馬・ 長崎の4つのみで、「四口」と呼ばれていました。松前藩 はアイヌと、薩摩藩は琉球と、対馬藩は朝鮮と、それぞれ 貿易の独占権を幕府から公認されます。長崎は唯一幕府が 直轄し、中国やオランダと貿易を行いました。 オランダとの貿易 出島は幕府の政策により長崎の有力町人 25 名の出資によって作られた人工の島で、 およそ 2 年をかけて 1636(寛永 13)年に完成しました。最初の住人はポルトガル人 でしたが、1639(寛永 16)年にポルトガルの来航が禁止されると、平戸からオランダ 商館が移転します。その後、開国するまでの約 200 年間に世界と日本を繋ぐ窓口として 大切な役割を担っていきます。 オ ラ ン ダ わた “阿蘭陀渡り”のプリントウェア 19世紀初頭、ヨーロッパでは銅版画の技術 を使って同じ文様の陶器を大量に生産できるよ うになります。それらはプリントウェアと呼ば れ、オランダの商館員は日用品として出島に持 ち込みました。西洋趣味の大名や豪商にとって、 海外の風景や人物がプリントされた陶器は憧れ の品だったようで、商館員による個人貿易での 商品として扱われ“阿蘭陀渡り”と呼ばれまし た。出島と長崎市内で同じ文様のプリントウェ アが見つかっています。 プリントウェア【Aurorea】(直径:45cm) オランダ・P.Regout 窯/1855-70 年/万才 町遺跡 長崎奉行所跡 フリューゲルグラス の装飾ステム(柄)部 の一部。出島でも同系 統のものが出土して いる。オランダ/18 世紀/長崎奉行所(立 山役所)跡出土。 レーマー杯のステム (柄)部の一部。粒のよ うな突起は装飾と実 用(すべり止め)を兼 ねている。オランダ/ 18 世紀/長崎奉行所 (立山役所)跡出土。 【左上】長崎歴史文化博物館に復元展示され ている長崎奉行所<立山役所>の石垣と階段。 下側の茶色味を帯びた石材が発掘調査で出土 したもの。 【左下】 『長崎奉行所(立山役所)跡・炉粕町 遺跡』2004 長崎県文化財調査報告書第 177 集 P10 第 8 図階段・石垣実測図 より 幕府は出島の監視・管理を長崎奉行所に任していました。オランダ商館長は度々、奉 えっけん 行ら高級役人と謁見しました。そんな長崎奉行所跡からはヨーロッパの品々が出土して います。フリューゲルグラスなど当時としては珍しいものも多く、もしかしたらオラン ダ商館長の奉行所への贈り物であったかもしれません。 注文で作られた磁器 出島のオランダ商館には、本国のアムステルダムにある「連合オランダ東インド会社 (Vereenigde Oostindische Compagnie、以下 VOC)」の本社やアジアの一大拠点で あるバタビア(現在のインドネシア・ジャカルタ)から、商品の注文書が送られてきま す。VOC はヨーロッパやアジアで販売するための商品を注文するため、中には「アルバ だ こ レロ形壺」や「唾壺」など、当時の日本では見慣れない形の器もありました。 連合オランダ東インド会社の社章 (ロゴマーク)が描きこまれた皿。 社章の周りは日本的な花鳥図で飾 る。「VOC」銘入染付皿/肥前/19 世紀/長崎奉行所跡 軟膏など薬壺として注文された小 型の容器。幾何学文様はヨーロッ パ製のアルバレロ壺の文様を写し ている。アルバレロ形壺/肥前/ 17-18 世紀末/岩原目付屋敷跡 唾壺(だこ)はツバを吐き入れる ための壺で、食事や喫煙の際にそ うした習慣があったヨーロッパで 需要があった。染付唾壺/肥前/ 18 世紀/万才町遺跡 東南アジアの中継貿易 オランダの植民地であったバタビア(現在のインドネシアの首都ジャカルタ)は、ヨー ロッパや近隣諸国の貿易品が集まる一大貿易拠点でした。インドネシアやタイ、ベトナム などの東南アジアの 17 世紀以降の遺跡から肥前や唐津のやきものが、日本でもアジアや 中東のやきものが出土しています。流通の担い手はオランダ・中国の貿易船でした。 庶民の雑器として大量に生産され、 タイやインドネシアなどへ輸出さ れていた磁器碗。染付雲竜見込荒磯 文碗/肥前/17 世紀/栄町遺跡 胴部や内側、見込み部分に鉄絵で花 模様が押された陶器碗。絵印花文碗 /ベトナム北部/18-19 世紀/岩原 目付屋敷跡 呉須(青色の顔料)で絵付けされ た中東の陶器皿の破片。染付皿(口 縁部)/中東/17 世紀初頭/岩原 目付屋敷跡 な が さ き ぼ う え き せ ん 貿易取引専用のお金 長崎貿易銭 かんえいつうほう ちゅうぞう 1636(寛永 13)年より「寛永通寶」の本格的な 鋳 造 が ふきゅう 始まり普及するようになると、幕府は国内で流通する銭貨を統 えいらくつうほう みんせん 一するため、それまで使用されていた「永楽通寶」などの明銭 そうせん や、古くから使用されていた宋銭などの古銭の国内通用を禁止 し、1668(寛文 8)年には「寛永通寶」の輸出を禁止します。 この幕府の方針によって、長崎ではオランダや中国との貿易取 長崎貿易銭「元豊通宝」 長崎/17世紀/岩原目付屋敷跡 引のために古銭の需要が高まります。しかし、次第に古銭だけ まかな では 賄 えなくなった長崎奉行所は貿易取引専用の銭貨の鋳造 めい を幕府に上申し、「寛永通寶」の銘を使わないことを条件に許 可され、1659(万治2)年 7 月 14 日より長崎中島の銭座で 宋銭の銭銘を用いた銭貨の鋳造が始まりました。これが げんぽうつうほう 「元豊通寶」を初めとする「長崎貿易銭」です。また、この時 期に中国国内では銭貨が不足し、オランダ商人の手によって長 崎貿易銭が商品として輸出されています。 長崎貿易銭のモデルになった 北宋銭の「元豊通宝」。中国・ 北宋/1078 年/桜町遺跡 唐人屋敷と中国貿易 中国との貿易は古くから行われていましたが、1635(寛永 12)年、徳川幕府の鎖国 政策によって貿易港が長崎に限定されます。来航した唐人(中国人)たちは長崎の町中に 宿をとっていましたが、貿易の制限に伴い密貿易が増加したため、対策として新たに土地 を造成し唐人を集めて居住させました。これが唐人屋敷で、1689(元禄 2)年におよそ 1年かけて完成しました。面積は出島(約 3,969 坪)の 2 倍以上(約 9,432 坪)で、 周囲を塀で囲み、その外側に水堀や空堀が巡らせ、番所を設けて無用の出入りは制限され ましたが、制約もあらゆる面でオランダ人よりも緩和されていたようです。年間の貿易額 は幕府よって制限されていますが、その規模はオランダと比べると約2倍もありました。 中国の陶磁器は優品から粗製品まで、様々なものが日本へ輸入されました。そのため、日 本と中国・東南アジアとの貿易の輸出入の担い手は主に中国の貿易船でした。 けいとくちんよう ぎこうよう ~景 徳 鎮 窯 ~ ~宜興窯~ 中国の江西省にある中国最大の窯の一つで、明時 代に官窯が設けられ染付けの技術が発展した窯。 上質な製品が多く作られている。 江蘇省にある朱泥を用いた急須が有名な窯で、 この急須で淹れた煎茶は味が良いといわれる。長 崎では中国から入ってきた煎茶文化がいち早く定 着した。 青花釉裏紅大皿/18 世紀/万才町遺跡 とっかよう 朱泥急須/18 世紀後期/万才町遺跡 ~徳化窯~ 華南三彩 福建省にある明時代より続く窯。色絵・青磁・白 磁などが製作された。写真の藍彩小碗は長崎市内 の町屋跡や東京の屋敷跡でも出土している。 中国の南部で焼かれた陶器で、緑釉を基本に黄 釉や褐釉を用いて彩色されます。 青花杯/17-18 世紀/長崎奉行所跡 華南三彩壺/17 末-18 世紀/玖島城跡 ヨーロッパのシノワズリブームと中国・日本の磁器貿易 17 世紀後半から 18 世紀にかけて、ヨーロッパ諸国では「シノワズリ」と呼ばれる 中国趣味のブームが上流階級で起こります。宮殿や別荘の部屋を中国磁器の皿や壺で飾 りたてることは一種のステータスでした。また、当時のヨーロッパでは硬い磁器の生産 は成功していませんでした。中国が明から清へと変わる混乱のなかで、中国やオランダ の商人は磁器の入手が困難になります。そこで目をつけたのが日本の肥前磁器でした。 当時の肥前磁器は中国ほどの質ではありませんでしたが、注文に応えるため技術を磨き 磁器を生産していきます。中国が清へと変わり情勢が 落ち着くと磁器の供給が再開したため、肥前の窯は輸 出競争を強いられることとなります。結局、供給量で は勝てず輸出磁器の生産は下火になりますが、日本の 磁器生産の技術を上げる結果となりました。展示して ふ よ う で いる皿の文様は「芙蓉手」と呼ばれるもので、ヨーロ ッパで好まれた貿易陶磁器の代表的な文様様式です。 芙蓉手染付皿/肥前/18-19 世紀 /炉粕町遺跡 朝鮮と対馬の貿易 朝鮮半島とも古くから交流・交易を行っていました。 豊臣政権による文禄・慶長の役(朝鮮出兵)により朝鮮 との国交が一度断絶しますが、室町時代頃から朝鮮と貿 易を行い外交でも重要な役割を担っていた対馬の宗氏の 尽力によって国交が回復し、その功績が認められ徳川幕 府によって宗氏は朝鮮との貿易の独占権が認められまし た。また朝鮮の釜山に日本人居留地「倭館」が新設され、 以後、明治になるまで交流・通商の舞台となりました。 焼成前の皿の表面を彫りこみ、その溝 に白や黒の土を入れ込む象嵌技法で 装飾されている。象嵌青磁皿/朝鮮半 島/17-18 世紀/今屋敷家老屋敷跡 わびちゃ 高麗茶碗と侘茶の流行 安土桃山時代、朝鮮半島の釜で焼かれた庶民の日常雑 器は、日本の侘茶の茶人たちによって茶碗として取り入 れられました。侘茶の大流行により高麗茶碗を茶人だけ でなく大名や豪商が競って求め、高値で取引されるよう になります。このことは豊臣政権の朝鮮出兵により朝鮮 の陶工たちが強制的に日本に連れてこられる事態に繋が ります。江戸時代に入り釜山に倭館が出来ると、館内に 窯を作り、茶碗を焼かせるようになります。それから 18 世紀に入り倭館が閉鎖したあとは拠点を対馬に移し、高 朝鮮半島では酒などの液体を入れる 壺であるが、日本では茶道の花入れ として使用されることもあった。俵 型壺/朝鮮半島/16-17 世紀/今屋 敷家老屋敷跡 麗系の茶陶を制作していきます。 貿易によって花開いた幻のやきもの 亀山焼 1807(文化4)年、長崎の町人によって開窯した当 みずがめ 初は、オランダ船用の水甕を焼いていました。のちに長 崎奉行所の指導のもと経営方針を転換して波佐見焼や長 与焼の陶工を招き、上質な陶石や貿易によって中国から ご す 取り寄せた良質な呉須や陶土を用いて高級陶磁器を製作 し評判となります。しかし財政難から 1865(慶応元) 年わずか 50 年ほどで廃業してしまいました。その跡地 に坂本龍馬たちが開いたのが、日本で最初の商社「亀山 社中」です。 中国から取り寄せた蘇州土を用 いて焼かれた筆立。長崎/19 世 紀/万才町遺跡 み か わ ち 薄さでヨーロッパを魅了した 三川内焼 当初より洗練された技巧が海外でも高く評価されていましたが、幕末頃になると、 らんかくで “卵殻手”と呼ばれる非常に軽く、光が透けるほど薄い磁器が作れるようになりました。 シノワズリブームが下火になり、軽くより洗練された絵柄が好まれるようになっていた ヨーロッパでは“egg shell”と呼ばれて人気を博しました。 左は反射光、右は透過光で撮 影。縁や高台内が光で透けてい るのがわかる。一番薄いところ で約 0.9mm程である。殻手色 絵碗(蓋)/19 世紀/万才町遺 跡 幕末-明治の貿易商 久富蔵春亭 ひさとみ よ じ へ え 「蔵春亭」は 1841(天保 12)年に富商・久富与次兵衛が佐賀藩より海外貿易を許 可され与えられた屋号です。1853(嘉永 6)年、長崎の町には長崎支店を設立して本 格的に海外との貿易を開始します。幕末期の輸出向け磁器はこれまでとは異なり、金彩 し だ と朱色で描き出した羊歯文を中心に色鮮やかな色絵を施し、日本的な花鳥図や着物の人 物や武者を描くなど、海外の需要を意識したものになっています。 【左】色絵染付角瓶/19 世紀/万才町遺跡、 【右】色絵染付蓋物 /19 世紀/万才町遺跡 色絵染付壺/19 世紀/万才町遺跡 世界のコンテナ陶器 貿易港である長崎からは貿易品を入れて輸送するための陶器や、航海に必要な水を入 れて置くための大型の容器も出土します。 安平壺/中国/17-18 世紀/炉粕 町遺跡 黒い付着物の正体 焼締釉頸壺/ベトナム/18-19 世 紀/炉粕町遺跡 黒釉壺(胴部片)/ミャンマー/ 18-19 世紀/岩原目付屋敷跡 —輸入された意外なモノ— 炉粕町遺跡から出土したタイ産焼締四耳壺の内側には、黒いモノが付着していました。こ れを分析すると、「漆」であることがわかりました。漆が採取できる樹木は東南アジアや東 アジアに分布し、東南アジア産の漆にはチチオール、中国・韓国・日本産の漆にはウルシオ ールというそれぞれ特徴的な成分が含まれます。展示品に付着している漆からはチチオール が検出されたため、東南アジア産の漆であることがわかりました。江戸時代は漆の需要が高 まっていた時期で、オランダやイギリスの商館長の日記には東南アジアから日本へ漆を輸入 していたことが記されています。この壺はそのことを裏付ける貴重な資料です。 黒い付着物が漆の部分。 表 裏
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