平成27年度 教育研究所だより第10号

教育研究所だより
活 動 の 啓 発 ニ ュ ー ス
№ 1 0
平 成 2 7 年 ( 2 0 1 5 年 ) 5 月 1 1 日
明
石
市
教
育
研
究
所
「ふるさと明石の史跡と文化財の研究」
教育研究紀要第18号D
昭和49年度
この研究報告書は、「開発という美名の陰に、はかなく消えていく明石の史跡。(中略)昨今は一年一昔
といえるほど変貌した土地もある。今日も明石のどこかで、道路や工場の建築、住宅地造成等の各種開発事
業の進展に伴い、史跡・文化財が破壊されていく。P1『ふるさと明石の史跡と文化財の研究より』」その開
発ブーム真っ只中の昭和49年度にまとめられたものである。明石市を例に挙げると、明舞団地(昭和42
年入居開始)の開発工事やそれに伴う国鉄朝霧駅の開業(昭43)山陽新幹線西明石駅の開業(昭47)の
ように都市開発環境整備に躍起となっていた時代、また、高度経済成長の時代に書かれたものである。この
報告書が書かれてから40年が経過するが、その年月の間にも調査対象となった地域は大きく変貌してい
る。今回は、その中から「1朝霧校区の変遷」の一部を紹介する。(※明朝体「黒文字」の文が本文より引用した部分)
(ア)大蔵谷清水
○地名―朝霧川の東の台地、水は人々の生活に欠かすことの出来ないものであるがこの辺の台地に
は、あちこちに清冷な水のわき出る泉があったのでこの名がついた。(残念ながらこの地名からして
平成25・26年に地名変更となり無くなった。現在は、「朝霧東町・朝霧南町」という町名である。)
○旗山(畑山)―処刑場や貝層のあたりの坂をもっと登りつめると、明石海峡を一望に見わたすことの出
来る高台に出る。そこから東の方、目の下に見下ろしたところに非常に広い山が切りくずされ、青土を掘り
だして大きな谷が出来ている。この高台が“旗山”(旗ふり山)といわれるところである。旗山というの
は、古代から使われていたのろし台のことで、時代によって栄え、すたれた事はあるが、通信の発達しない
以前の信号所であったのである。この朝霧の旗山は、江戸時代から明治のはじめ、大阪の堂島の米相場を神
戸の鉢伏山の旗ふり山からうけて、魚住の金ケ崎の方に伝えていったのであって、畳一枚位の大きさの旗を
ふっていたようである。この場所は、丁度出張った高台で遠いところからでもよく見えただろうし、格好の
信号所であったことだろう。(この辺りは平成25年頃までは雑木林が鬱蒼とした丘であったが、現在は住
宅地に造成され、明石海峡大橋を目の前に望みJR朝霧駅に歩いて5分以内で行ける便利な住宅街となってい
る。)
旗山付近から明石海峡大橋を望む
(オ)山の神
○
聖天神社
朝霧小学校の西、朝霧病院の裏山を登っていくと、山を切りくずして広い造成地ができているが、その西
はしに一角だけ残された高台がある。その高台の南はしに二本の石の柱が立っている。遠いところから見る
と二本の柱であるが、近くに行ってみると鳥居であって、上の横にわたした石も落ちてしまっている。上り
口もないので、切りくずした崖をよじのぼっていくと、すすきやきりん草に覆われた道があり、くもの巣を
はらいながら入っていくと、二基の石どうろうもある。鳥居には、「昭和13年8月吉祥日」という文字もあ
り、手洗い場、稲荷の祠あって、雑木林の奥に等身大より大きな石の
地蔵尊が草におおわれて立っている。(近年の開発により聖天さんの
周辺も宅地となり、神社は朝霧台の中心辺りに位置していた。平成27
年4月某日に久しぶりに訪れたところ、いくら探しても聖天神社が見つ
からなかった。近所の住民に尋ねたところ、神社は取り壊され、その
後に住宅が建っているとのことだった。※以前は写真の公園の南側に
朝霧台公園より南を望む 聖天神社があったのだが・・・。)