駅前は、『文化のあかし』をともすところ 大房 裕和(上田市) 長野には、あしかけ約20年通勤した。 生来の内向的な性格も手伝い、読書がほとんど唯一の愉しみである。書物を扱うこと に心からの喜びを感じさせる書店を選んでは、専ら立ち読み、時に岩波文庫や中公 新書を選びとり、一晩で読み上げた。長野駅の善光寺口には長谷川書店、東口には 松崎書店、休日には自然に足が向いてしまう善光寺の近くには、由緒を感じさせる金 華堂書店があった。 お気に入りは、松崎書店。夜遅く、帰宅途中に、一日の心の渇きと身体の疲れを癒 してくれる、一杯の酒ならず、只、本のみを求めて、電車の時間を気にしながら、たと え十分でも、そこに居るのが愉しみだった。私以外は、一人も客がいない時も度々で あったが、高価な、みすず書房の人文系の本や、新潮社などの文芸書も、書棚に、自 然に揃えられていて、読み耽り、最終電車になりそうなこともあった。何度も、気にな りながらも、購入し損ない、夢の中でその喪失感に浸った本もある。それからは、自分 がしっかり眼をつけたので他の人の眼も醒させたのだと思う様になった。本屋は、無 くなったものをとうしての、まだ見ぬ人との出逢いの場となった。 駅周辺には、そこならではに育まれた『文化のあかし(:あかりの意味、祖母から聞 いた方言)』があり、その灯火を携えて、汽車に乗って家路に向かうことを、どんなに か愉しみに、生きる励みとしてきた人たちが居たことだろう。 駅は人生の行き交うところである。新しいことの起点や、大切なことを思い出させて くれる場所である。私は、これからも、長野駅に降り立った時には、 なかよく、がんばりすぎず、のうのうとした気持ちで読める人生という自分だけの書物 を求めに街にでることだろう。
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