一 「あはしまのあはぬ」 型の序詞にっいて

万葉の葦・荻そのほか
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万葉の葦・荻そのほか
一「あはしまのあはぬ」型の序詞について一
菅 野
宏
1 「葦のうれ」の歌
石川女郎,大伴宿弥田主に贈る歌一首
即ち佐保大納言大伴卿の第二子,母を巨勢朝臣といふ
みやびをとわれは聞けるを屋戸借さずわれを還せりおそのみやびをq26)
大伴田主・字を仲郎といふ。容姿佳艶にして風流秀絶なり。見る人聞く者歎息せさることな
し。時に石川女郎といふものあり。自ら双栖の感をなして,恒に独守の難きを悲しぶ。意に
書を寄せむと欲ひて未だ良信にあはず。ここに方便を作して賎しき婬に似せて己れ禍子を提
げて寝の側に到りて唖音踏足して戸を叩き諮ひて日はく,東隣の貧女将に火を取らむとして
来れりといへり。ここに仲郎暗き裏に雪隠の形を識らず。慮外に拘接の計に堪へず,念ひの
ままに火をとり,路に就きて帰り去りぬ。明けて後,女郎すでに自媒の悦づべきを恥じ,ま
た心の契の果さざるを恨む。因りてこの歌を作りて諺戯を贈る。
大伴宿称田主,報へ贈る歌一首
みやびをにわれはありけり屋戸借さず還ししわれそみやびをにはある(1留)
同じ石川女郎,さらに大伴田主中郎に贈る歌一首
わが聞きし 耳爾好似 葦若末乃 足痛 わが背 つとめたぶべし(1羽)
これは,大伴田主なる美男子と石川女郎というあやしく艶なる女との,遊仙窟風の歌物語と見るべき
であろう。贈答のはじめの二首についてはさして問題はないが.しめくくりの石川女郎の歌には,いく
つかの問題があり,古来あまたの解釈がある。
まず,r葦若木」のr末」は,古写本に多くr未」とあるが,これは集中よく見られるr若末」 (ウ
レ)の字面のあやまりという説がある。よるべきものと思われる。真淵,宣長以来のこの考え方は,解
釈上の主流というべきものであろう。
一方,宣長はべつに,古葉略類聚紗によって,r葦若生」の字面の考え方をとり,アシノウレノとは
ちがったアシカピノという訓も考えた。この一古写本にのみある「葦若生」の字面によらずとも,「葦
若末」の字面でも十分アシカピノとよみ得る,こういうのが・注釈の意見である。口訳,私注もアシカ
ピノとよむ説であるが,注釈はこれに賛成して,
私注にも「アシカピでなくアシノウレであろうというのは,余りに字面になづみ過ぎる。葦牙,
葦若末は同語をあらはすものと見るべきだ,枕詞であるから伝来ある語を用いたと見るのが穏当
だ」とある。このr枕詞であるから云々」の語は私の深く同感するところであり,私はこの語の
枕詞としての二つの特質について次に小見を述べる。
こういつて,枕詞の性質について詳しくのべていられる。それを要約すると以下のとおりである。rふ
かみるのふかめて思へど」rむらとりのむらたち行かば」rあしほやまあしかるとがも」などの枕詞で
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は,一語による単純な構成でその語頭の音をくりかえして接続する形である。これに対して,rあしの
根のねもころ思ひて」「玉の小琴のことなくは」「小松がうれのうれむぞ」などの場合.「しののめの
しのひてぬれば」などを例外として,「あしの根」「小松がうれ」のように「の,が」を介する二語的
なものは,あとの語頭の音をもってつぎにくりかえす,これが第一の性質だというのである。したがっ
て,アシカピ,のほうが,アシノウレノのよみ方よりも枕詞の同音繰返しの原則にあうというのであ
る。第二の性質というのは.六音の枕詞は,集中に極めて少く,殊に時代が新しい,第三期以後のもの
である。したがってアシノウレノと訓めば,当時としては異例のことになる。こういうふうに説かれる
のである。
rの・が」を介さない枕詞にもr青旗の木旗の山」(1鋤などのように例外があり,rの・が」を介
する枕詞にもrつがの木のいやつぎつぎ」のように,論者のいうとおり例外があるとすれば,もうすこ
し考えなおす余地があるように.わたくしには思われる。
古事記に見えるアシカピノという語は,その説話の場所にふさわしくなかなか魅力的である。しか
し,枕詞としての使用は,もし葦若末をアヒカピノとよむとした場合にのみ存在しうるのであって,記
紀万葉集中ほかに用例はないはずである。アシカピノが枕詞かどうかは,疑問であるといわねばならな
い。同様に,アシノウレノと訓む場合も,枕詞であるかどうかは疑問である。アシノウレノについて,
枕詞的用法は他に見あたらないからである。とすれば,枕詞的観点からの.アシノウレ・アシカピの二
つの訓み方の優劣ということはどうもありえないことになると思われる。沢潟博士の注釈の説にあらわ
れる「あしほやまあしかる」の接続は実は,枕詞ではなく序詞である。<筑波嶺にそがひに見ゆるあし
ほ山>という句に含まれているものなら,まさしく序詞である。序詞であるものを枕詞として論じられ
ているのはほかにもあるようである。
ところで序詞の同音繰返し形式なら,型をたてるとすれば,それは,自由ないろいろの型が存在する
ので,アシカピノ・アシノウレノのどちらがいいか,にわかには決定できない。たとえば,「……はな
かつみかつても」(訂5)r・…・・ありそ松あをまつ」(2751)のように,「の・が」を介さないで,語中語尾
の音をくりかえすのもあれば,r……すぎむらのおもひすぐ」(422)のように,語頭の音をくり返すの
もあり,また,「の・が」を介するものでは,r……うのはなのうき」(1g瞼「……かづの木のあをか
づさねも」(襯)のように,さいしょの語の音をくりかえすのもある。序詞的観点からは,アシカビ・
アシノウレどちらでも可能である。しかも序詞の場合,字余りのものは第二期以前にはない,というこ
ともなりたたない。「いつもの花のいつもいつも来ませ」(491・「滝のうへの三船の山にみる雲のつねに
あらむと」(趾2)r玉くしげおほふを安みあけていなば」(g3)などなど,万葉集中古い方に属するであ
ろうし,その例は決して少なくはないのである。沢潟博士のよみ方の根拠は明らかなものではない。
アシカピノ・アシノウレノの両者の訓み方の優劣はもっと別の観点から,歌全体を総合して決定され
なければならないと思う。アシカビは古事記のr天地初発之時」に象徴的に使用されたように,アシの
ツノぐむありさまをさす語である。なかなかうつくしい力にあふれたイメージではある。しかし,歌一
首の中では調和しない語ではなかろうか。
rわが聞きし耳爾好似 あしの若末の」というはじめの句に問題の焦点をうつせば,ここでは・第二
句r耳爾好似」の訓み方が簡単ではない。諸説を整理すれば,およそつぎの四つにわかれるようであ
る。
(1)わが聞きし耳によく似る一(全注釈・古典大系・塙万葉)
(2)わが聞きし耳によく似ば, (口訳)
(3)わが聞きし耳によく似つ。 (私注)
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(4)わが聞きし耳によく似て,(注釈)
注釈では,(2)のrよく似ば」という仮定形のよみ方は,「わが聞きし」という現実の事態,歌の事実と
してありえない’代匠記のr聞二似パト云ハ少叶ハズヤ」というところが正しい,とされている。当然
のことと思われる。そこで,(1)の訓み方ということになるが,この句につづくアシ若末との関係では,
これを終止形によむことは,それまでをなにか不十分な実感のうすいものにする。この点は,(3)説とて
も同じことになる。(3)説のrよく似つ」のツの訓添えが集中極めて乏しくて考えられないこともあって
結局rアシ若末」につづく連体形と見なさなければならなくなる。しかしrアシ若木」なる枕詞を中に
はさんだ連体形は,r耳によく似る足ひく」なのか,r耳によく似るわが背」なのかあいまいで,調べ
もぎごちなくおちつかない。要するに(1×3)の説と変りない欠陥を有する.それで,(1×2×3)の諸説は否定
される。そして,
窓ごとに月おしてりてあしひきのあらし吹く夜は君をしぞ思ふ㎝g)
久かたの都をおきて草枕旅ゆく君をいっとか待たむ(鋤2)
のように,枕詞を介して,二句四句つながる型の歌と同じであって,rわが聞きし耳によく似て一足
ひくわが背」と解すべきものという考え方が示されてくる。うわさに「聞いた通りで,足を患っていら
っしゃるあなた」という説明になっているのである。
「耳によく似て足ひく」という連結の考え方はしかし,r似る」で結ばれる二つのことが体言と用言
とであってやはり終止の訓み方,仮定の訓み方と大差がないのではないだろうか,また,「足ひくわが
背」とr耳によく似て」の連結と考えれば,r足ひくわが背」は叙述を完結する役目をする一方で,rつ
とめたぶべし」に対して呼格にもなるので,二重の役目をすることになり,rよく似て」の文脈はねじ
れそれてしまうことになる。
古代人は,耳のような語でたとえうわさ話のような抽象的な観念をあらわしていても,一方ではつ
ねに,具体的な即物的な感覚を捨象してはいなかったように思えてならない。r君が目を欲る」ときは,
rあう」というような抽象観念だけでなく,同時に感性的な相手の目を現実に欲していたと思われる。
「耳」も同様で,相貌的な知覚をとり除いては考えられない。r似る」という語の使い方も,同じよう
に感覚的具体性を含むと思われる。 r耳にきき目に見る」(41㏄)「音のみにききて目に見ぬ」(4伽)と
いうような明確な世界のなかで,「噂によく似て足をひいているあなた」というのは,いかにももって
まわった異質のいい方で’この歌物語の男女の行動や機智にはふさわしくない。
「似る」という語は,恐らくもっと即物的に用いられたであろう。現代語でも「評判ニヨク似ティ
ル」といったいい方はないと思う。AがB二似ルというときは,AもBも相おおうような具体的なこと
で,ABのどちらかが蔽いきれないひろい意味を指示している使い方はなかったとおもう。
梅咲きたりと告げやらば来ちふに似たりちりぬともよし(1011;
わぎも児が家の垣つのさゆり花ゆりといへるは否ちふに似る(1503)
のような用例でさえも,r梅咲きたりと告げやる」「来ちふ」の二つ,rゆり」 (後)「いな」の二つ
をなんのゆるぎもなく結びつけて指示しているのである。また,ほかの多くのr似る」は,つぎに示す
ように実にもっと具体的な二つの相似の関係を指示している。
なが父に似ては鳴かずなが母に似ては鳴かず(1755)
蓮葉にたまれる水の玉に似たる(募8肋
ほほがしはあたかも似るか青き蓋(42脇
酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似む(三44}
さてふしぎでおもしろいことに・草や花がひとのすがたに似ているという歌がある。
妹に似る草と見しょりわが標めし野への山吹たれか手折りし(4,g7.
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めづらしとわが念ふ君は秋山のはつ黄葉に似てこそありけれ(15拠)
君に似る草と見しょり わが標めし野山の浅茅人な刈りそねq脚)
この草葉とひとのおもかげの結びつきの古代的幻想を,大伴田主・石川女郎の歌物語の問題句をとく鍵
にしたい,そういう誘惑にわたしはとても堪えられない。
問題の句rわが聞きし耳爾好似葦若末の足ひくわが背」のr葦若末」までを,序詞とすれば,さいご
の「あし若末」を同音でくり返して「あしひく」につづくものであるとすることができる。こういう同
音くり返し形式の序詞は集中150をこえる。
妹待つとみかさの山の山菅のやまずや恋ひむ命死なずはち3066)
わが門のいつもと柳いつもいつも母がこひすすなりましつしも(4386)
たまきはるわが山の上に立つかすみ立つとも居ともきみがまにまに1『1912)
わぎも児にまたもあふみの安の河安寝もねずに恋ひわたるかも(鋤わ
わが宿の君まつの樹に降る雪のゆきすぎがてぬ妹が家のあたり(訓23)
ところで同音くり返し形式の序詞もいろいろの型があるが・恐らくrあしの若末のあしひく」とよんで’
「の」でつなげていく型になると思う。しかもこの型は,さらに二つに下位分類をなしうる。
波間より雲居に見ゆる粟島のあは訟ものゆゑ我によする子らr31肛)
水底に生ふる玉藻の生ひ出でずよしこの頃はかくてかよはむ(留78)
神奈備の神より板にする杉の思ひもすぎず恋のしげきに(1773)
これらはr・…・・ナノニ……シナイ」(rあふ島なのにあひもしない……」r生ひ出る玉藻なりに生ひ
出もしない」rより板にするすぎなのに思ひすぎもしない」の型,つまりr…AのnonA」でつづく型
と見られる。一方
明日よりはいなみの河のいでていなば留まれるわれは恋ひつつやあらむ(3198)
白鳥の飛羽山松のまちつつぞ吾が恋ひわたるこの月ごろを(5関)
たたみけめ牟良自が磯の離り磯の母を離れて行くがかなしさ(43駆)
このような例は,「……AのA」でつづく型で,すなおなつづき方であろう。序詞の連結のしかたは,
おおかたこの二つのどれかに帰するように思われる。
序詞は,明確で具体的なイメージをもち,主想部である抽象観念につづけたり,同音でくり返したり
していく発想上のレトリヅクと考えられるが,問題の句にも実はそういう具体性が指摘されると思う。
わたくしにはおおくの古代語の研究者たちは,古代人をとりまいた自然をよくは感じないのではない
かと思われることがしばしばある。たとえば,古典文学大系万葉集の注では,
葦のうれの一葦のうれのようになよなよとした。ウレは植物の成長する先端〔大意〕私の聞
いていた噂そっくりの,葦のうれのようにひょろつく足の病のあるあなた’しっかりなさいま
せ
といったふうに説明しているが,葦のうれが「なよなよ」とし,ひいてrひょろつく」にまで発展して
いるのは,多少ユーモラスでもある。早春つののようにつき出してくる葦の芽は決して塗よなよしてい
ないし,葦のウれも同様でなよなよしてはいない。わりと直線的にすっきりとした姿態である。また古
代語「ウレ」は,「ホ」とはやはり区別して理解すべきであろうが,実はこのアシノウレ,アシカピ(ア
シノ芽)の具体的なすがたこそがこの歌物語の中核になるかとわたしは思う。
「あし」は,万葉集中かなりの用例が存する。rあしがきの」「あしがちる」「あしのねの」などの
枕詞にもなっている。いうまでもなく禾本科の植物であり,PhragmiteslongivalvisStend、という
学名であるが,多く水辺に生える。茎は敷物や簾を作るに用い,根は薬用にし,嫩芽は食用にする。開
墾のときは,その根がひどく邪まになったと思われる。rあし」はrすすき」よりもずっと大きく高く
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なり,その葉もまたずっとひろい。あし笛などにもして,よく手を切るrすすき」よりは親しい植物で
あろう。この葉の幅のひろさが,他の禾本科植物とちがうところで,もしその「若末」が耳に似るとす
れば,熊笹やあしや荻のほかには,ふつう考えられないところである。あしの芽は角ぐんで突きでてく
るが,あしのうれの葉はまるまってひらぎかけたとき耳のように巻く。あしの穂とあしのうれとを区別
しなければならないのは,穂は耳のようにならないが,うれは,耳のようになるという点からである。
万葉語のr耳」が,うわさ,評判などの抽象的な意味だけでなく,具体的,感覚的,即物的なもので
あるならば,「耳によく似る」と「あしのうれ」とはもっとも連結可能な句であって,rあしかび」の
方は排除されるはずである。またrわが聞きし耳爾好似」を,いろいろの無理をしてrよく似ば」rよ
く似つ」rよく似て」などとよむことは不要であるる。「わが聞きし耳によく似るあしのうれのあしひ
く」というふうに順次にかかっていく序詞と理解し,r耳によく似る」の連体形の連結のあい手をすぐ
つづく「あしのうれ」に求めれば,「連体形を可とする」という説は,その障害となるすべてを消滅す
るのである。しかも,「この『ニル』は……連体として,下の『吾勢』に対しての限定をなす格たるな
り,その意はわがかねて噂に聞きし所の如くにあるわが兄というなり,」(講義)ともちがって,「耳
に似るあしのうれ」と直接つづくわけである。また,「アシの若葉のような足の病気」(全注釈)とい
ったなぞめいた奇妙な解釈でもないわけである。少年の日,あしの葉をもてあそんだ記憶のあるひとに
は,抵抗なく理解されるはずのイメージである。
以上のように,万葉の自然について,もっと即物的,具体的に考えると,難解に見た句「わが聞きし
耳によく似るあしのうれ」は実は,何のなぞめいたこともない解釈になるが一方で・rわたしがきいて
いた(耳にしていた)ことにそっくりのあしのうれのようなお方」といった抽象的思考の文脈もそこに
かさなってくると考えられる。すでにさきに引用しておいたように,黄葉・山吹のすがたに妹を感じ,
浅茅の原に君を認めた古代風の発想がここにも生きているわけである。rあしのうれ」はすっくとした
貴公子,風流士のイメージでもあって,現代風のr考える葦」r風にそよぐ葦」ではなさそうである。
この第二の文脈があってこそ,大伴田主にはたらきかけて,rみやびをに吾はありけり屋戸借さず還し
し吾そみやびをにはある」と返歌された石川女郎の卒直でもたもたしていない応答になるであろう。
rなるほど聞いていたとおりの貴公子ぶりですわ。」ということがrわが聞きし耳によく似るあしのう
れ」の即物性の背景になっているわけである。しかも石川女郎は・ここでも単に田主にやられているわけ
ではなく,あくまでも積極的に攻勢に出てあげあしをとっているので,それは,rあしのうれのあしひく
わが背」にすぐにあらわれてくる。これもすでに説いたように,序詞の連結形式のr……AのnonA」
のうけていなす型,「……あしのうれだけれども,それなのに,あしのうれじやないそれどころか,あ
しひくお方でしたわ」ご返歌ではなるほど評判のように風流士だけれど,それなのに,風流士らしくも
なく足をわずらっていらっしゃるあなた,どうぞお大事に,という文脈となっていると考えられる。
序詞の語音の諧調から考え,足病之(アシヒキ1262)の枕詞の字面からもおしてrあしのうれのあし
ひく」とよんで,足痛をアシヒクとすることはいうまでもない。序詞に一音だけくり返す用例がない
わけではないが,圧倒的に多くの例は、「うのはなのうきこと」(1501)rいちしのはなのいちしろく」
(%80)rあしびの花のあしからぬ」(1926)「いつものはなのいつもいつも」 491、rあさらの衣あさらか
に」〔2970rふるの高はし高高に」(2g吻r小島の浜ひさぎひさしく」(2753一などのように頭韻的音楽を
問答におけると同様たのしんでいるので,やはり「……あしのうれのあしひく」とよむのがもっともい
いと考えられる。
土屋交明の私注は,そのよみ方において承服できないところがあること・以上に説いたとおりである
けれども,それにもかかわらず三首の贈答全体の文脈において,いい線をいっているように思える。注
釈は石川女郎のやりかえしをみとめていない。私注の説のほうが三首の連絡が論理としても心理として
もとおるように工夫されている。おしいことは,ありふれたわれわれのまわりの自然のひとつ一あし
の風物一と,万葉の自然とを直結しなかったことである。そう思えてならない。
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1 「ささら荻」の歌
妹なろがっかふ河津のささら荻あしとひとこと語り寄らしも(鈎46)
万葉集東歌のなかの一首である。この歌もまたその字面の平明さにもかかわらず,古来説のよるべき
ものを見ない。すべて決定的なところがない。諸説のうち特異なものは,折口信夫の口訳万葉集にある
ものであろう。
いとしいひとが神を呼び寄せて誓ひを立てる川の渡り場の,小さな荻をたてての占いには・ど
うやら,今夜逢ふのは悪い,との只一言のお告げを,語り寄せるやうに見える。 (口訳万葉
全集5)
荻を立てての占いというような場面の想定は折口民俗学独自の発想と考えられる。(こういう解釈は,
注釈の沢潟博士の考え方にも微妙に影響して,ひとことr比登其等」をr一言」とする解釈に賛成する
結果になっているように思える。)しかし,荻に依るうらないの事実は,想像による推定の段階を出な
いものであって,実証性はない。したがってこういう考え方は,他の信ずべき解釈がないうちは,その
可能性をたもつが,他にすこしでも明証のある考え方が示されれば,その効力はなくなるであろう。
折口の解釈に対して,多くの説は,この歌の三句まで(r妹なろがっかふ河津のささら荻」)を序詞
とする点では,かなり一致している。しかしこの序詞が「あし」とどういう役割で連結するかについて
は,まちまちであって,さまざまの考え方がある。
あの子が行きついている河津のさらさら鳴るオギ,それをあしと他の人が語っているようだ。
ササラはr佐佐羅能小野」(4釦)(左佐良榎壮子」{g83)r神楽良能小野」(38胸などと使はれて
いる語と同語とすれば,天上の地名であるが,それでは通じない。神楽声浪をササナミと読む
によれば,ササは音声で,アシの葉ずれの音であろうか,うは赤ら嬢子などのうに同じであろ
う。以上三句,序詞で,ヲギとアシとの関係から,次の句を引き起していると解せられる。
(全注釈 新版10)
この全注釈の解釈は,「他人の中言を気にしている。上三句も地方の生活が描かれて」いるように考え
られているが,肝心の序詞とrあし」との続きは,rすこしむずかしいが,よくわかればかえって趣が
あるのだろう」という説明があるだけで,読者にはすこしもったわってこない一方的なものである。
ささら荻一小さい荻,荻は葦に似ている。ここまでアシ(葦)を導く序。〔大意〕(妹が使
う川辺の物洗い場に生えているささら荻に似たアシ)アシ(悪し,よくない)と人々が集まつ
て私のことを噂しているらしいよ。 (古典文学大系注)
この説では,rささら荻に似た葦」とまず考えられ,つぎにr悪し」に転じていくことになるが,万葉
集中多数の(800首ほど)序詞のなかでも,この古典文学大系式の連結のしかたは絶無ではないかと思
われる。もしあるとするなら解釈のまだつかない問題句であって,それをよりどころにして,「ささら
荻に似たあし」そのr悪し」といった転調を説明することは許されないであろう。
注釈の説になると,その解釈は精細を極めているように見うけられる。まず,r妹なろがっかふ河津
の」の「河津」は,集中にある二例によって,舟着場であり,女たちには洗濯場にもなっていたところ
だとされる。rさを舟え行きてはてむ河津」ご2091)r久方の天の川津」(2070)の示すとおりだという。
しかし一方にr青柳のはらろ可波刀」(354g)rわぎへの里の加波門には鮎子さばしる」(85g)などカ・・
ドの用例もあって,東国方言としてもカハヅ,カハドには共通のところがあり,要するに水をつかう場
所であったと考えたい。「妹なろがっかふ」といえば,やはり具体的には,いまも地方にあるように
r川辺の物洗場」をもここではさしていると見たい,新考,全注釈のようにr妹が小舟に樟さして近づ
く船着場」というのは,海女がおり,海ちかいところであればありそうなことだが,しかし,男が舟を
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あやつって海女が水にもぐることなども考えあわせて,少々考えすぎている情景になると思われる。
r妹なろがっかふ河津」は’河津が舟着場の意味があっても,この場合は船をあまり考えない方がいい
と思う。
問題は・注釈のr荻と葦とはべつだが・ささら荻は葦のことを云ったのではないか」という説であ
る。そうだとすると,序詞のさいごの語と同じ意味のものを,再びくり返していく連結形式ということ
になる。この点古典文学大系の頭注の説に類似するが,実は,すでにのべたとおり,そのような序想と
主想の連結は万葉集中全く見られない現象なのである。序詞は,レトリックとしても印象鮮明であるこ
とをその生命とするが,その印象性と主想への機能的結びつきは,大衆性をおびて説明可能であり理解
が容易であるはずである。かりに注釈のような序詞のつづき方があるとして注釈の解釈を聞くと,いろ
いろと説を引用してつぎのような考え方になっている。
上三句の解は松岡氏が大いに力を入れられた解釈であるが,これは前に述べたやうに「あし」
にかかる序と見てよく,第四句をr不吉と一言」といふ解釈をこそ採るべきではないかと私は
思ふのである。私注にも「悪しと他人の噂が語り告げてくれればよいのに」と訳し,「明瞭を
欠く一首であるが,或る処女を,忘れ兼ねてみる男の心持を歌って居るのであらう。どうして
も忘れられないが’忘れる為には・世間の噂でも彼女はよくない女だと伝へてくれればよい。
さうして貰いたいといふのであらう」と云はれてるるが,「寄らし」を「寄るにふさわしい,
寄りたい」と見ることはどうであらう。全注釈には・r動詞語り寄るから転成した形容詞カタ
リヨラシに助詞モの接続したもの,語り寄る状態であるをいふ,他人が悪しと語り寄ってゐ
るもようであるの意」とあるが,r寄らし」の解釈としてはその方が当ってみるやうである
が,r他人が悪しと語り寄ってみるもやうである」では何のことともわからない。私はこのrあ
し」は恋する二人にとってよくない事,都合のわるいこと,即ちけふ逢はうとしてるる時にさ
しっかへの出来た事をいふのではないかと思ふのである。rあしと一言」といふのは,rけふ
はさしつかへだといふ一言でもいひよりたい」といふのではないかと考へるのである。従って
「語り寄らし」は自分が相手に云ひよりたいといふ意味にとりたいところである。松岡氏は神
宣にしたからr寄らし」の「し」を敬語とされたのであるが,みづからの事としてはr寄らし」
のrし」の解にこまる。ではどうするかといふに・これは「語り寄らましも」のマ(麻・末)
の字が落ちたか,省略したかと見るべきではなからうか,rまし」て67)の仮設の助動詞であれ
ば,語り寄らうものよとなって落ちつくと思ふ,マが落ちたとしてもリヨ(iy)の連続がある
から字余例にかなふ八音だから結句として認められる。「あし」の語意を恋する人の間にとつ
ての不都合と見てきたr一言」の意も生かされると思ふがどうであらう。……(注釈)
この説の要点は,「語り寄らしも」は,全注釈のように「語り寄っているもやう」ととるのが語学的に
もよく交法的にも難点がないが,しかし,それでは,「あしとひとこと語り寄らしも」が,無内容にな
って何のことかわからないので,別に考える,ということだと思われる。
さらに,よく読めば,「妹なろがっかふ」と歌いあげているので,たいていは男性の作品と感じとら
れていたはずのものが,注釈では,rあしと一言相手に告げたい」といった女性風の作品にいつのまに
か転化してしまっていることがおもしろく注目される。沢潟博士は,序詞のあらわすイメージをすべて
排除して,歌意はrあしとひとこと……」からはじまると解されているかのようである。そして,r語
り寄らまし」にふくらませ,r∼マシモ」というモのつく用法さえ考えつかれて,語法的に苦心されてい
ると見られる。精細をきわめた分析のわりには,無理が目立ちすっきりとしないというべきであろう。
さてrささら荻」の語感は「あし」(悪し)に直結するようなものであるだろうか。いまここに思い
うかぶのは更級日記の一節である。孝標の女は,武蔵野にしげる「あし・をぎ」のありさまをさびしく
荒涼たるものとして記してもいるが(たとえばr紫生ふときく野もあし荻のみ高く生ひて」などなど)
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一方で,「軒近き荻のいみじく風に吹かれて砕けまどふ」とか「秋をいかに思ひいづらむ冬深みあらし
にまどふ荻の枯葉は」とかr思いいでて人こそとはね山里のまがきの荻に秋風は吹く」などとあわれな
るものとしても記している。
その十三日の夜,月いみじく隈なうあかきに,皆人も寝たる夜中ばかりに,縁にいでいて,姉
なる人,空をつくづくと眺めて,「ただ今行方なく飛び失せなば,いかが思ふべき」と問ふ
に,なまおそろしと思へるけしきを見て,こと事にいひなして笑ひなどして聞けば,傍なる処
に・さきおふ車止りて,r荻の葉,荻の葉」と呼ばすれど,答えざなり,呼びわづらひて・笛
をいとをかしく吹き澄まして,過ぎぬなり。
笛の音のただ秋風ときこゆるになど荻の葉のそよと答へぬ
といひたれば,げにとて
荻の葉のこたふるまでも吹きよらでただに過ぎぬる笛の音ぞうき
かやうにあくるまで眺めあかいて,夜あけてぞ皆人寝ぬる
更級日記のこの場面では,荻の葉は可憐な女の身のうえをしのばせる優にやさしいなまえでさえあり,
日記の二人のいろいろの空想をかきたてたものと見られる。同様,源氏物語にも,r荻の葉」(通称
r軒端荻」)という女性が登場する。万葉の時代をはるか下った中古の時代の語感をすぐさま応用する
ことはいけないと思うが,実は集中に,すでに1章でも説いたように,草木に寄せてめづらしいひと愛
する人たちを暗にあらわすことはふづうであった。
かきつばた咲き野の菅を笠にぬひ着む日を待つに年そへにける(認18)
秋風になびく川びのにこ草のにこよかにしも思ほゆるかも(430g)
海原のねやはら小菅あまたあれば君は忘らすわれ忘るれや㈱8)
をさとなる花橘をひきよぢて折らむとすれどうらわかみこそ(3574)
このような例はあげればきりもないが.決定的なのは,「葦のうれ」のところで引用したところの「君
に似る草」(1脚)「妹に似る草」(41訂)などの古代的幻想である。r妹なろがっかふ河津のささら荻」も
このような感じ方考え方と無関係であるはずがない。
荻はあしと同じように禾本科の植物であり学名Miscanthus sa㏄harif1㎝s Bent.et Hook、であ
る。葉の幅もひろく,穂も大きい,頴に芒がないのが特徴だという。秋風が渡れば,「あし」よりもさ
やさやと鳴りわたって,万葉人は,rあしべなる荻の葉さやぎ秋風の吹き来るなべに雁鳴き渡る」(21鈎)
とうたつている。源氏物語には,rいと白く枯れたる荻を高やかにかざしてただひとかへり舞ひて入り
ぬる」(若菜下)ともしるされてあって,桜やもみちをかざすように,荻もふりかざして舞踏に興をそ
える小道具であったように見える。「荻」はその意味でも決していとわしいものではなく,あわれなる
もの,めづべきもの,うるわしきもの,うつくしいものであったということができる。
r荻」に接合しているrささら」もその源氏の記述に関係するかと思われる。rささら」は
・竹玉を間なく貫き垂れ木綿たすきかひなにかけて天なるささらの小野のななふ菅手にとりもち
て久かたの天の川原にいでたちてみそぎてましを…(420)
天なるやささらの小野に茅がや刈りかや刈りばかに鶉を立つも(銘87)
の歌では,天上にあると考えられた野をさす語であるが,それは一種の楽園というべきものであったと
思う。鶉を飛び立たせ驚かせるのは,平安な楽園に突如おこった無気味なことで,r伯物歌三首」の一
つとしてなるほど理解できる。坂上郎女の月歌三首には,また,
山の葉のささらえをとこ天の原門渡る光見らくしょしも(g83)
右一首歌或云 月別名目佐散良衣壮士也 縁此辞作此歌
というのもあって,月世界の美男子をさす語のなかに「ささら」が用いられているが,同様,楽園
に住む者にふさわしい修辞であったと見られる。「ささら」は「ささ」と同根の形式であり「神楽声」
(ササ)「楽」 (ササ)などの音楽に関係するものといえる。「山の葉のささら」(㎜と同様に・「さ
万葉の葦・荻 そのほか
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や」「さやか」もまた光のうつくしさ,音のさやけさ,さらには,清らかなるもの,心すむもの,うつ
くしきものを意味していたと思われる。
大宮人のまかりいでてあそぶこよひの月の清左(さやけさ)(塒6)
筑波嶺をさやに照らして(1葡
おく露をさやかに見よと月は照るらし(盟5)
これは月の光のうつくしさをいっていると見られるが,単に視覚にうったえるだけでなく,
山河のさやけき見つつ“鋤.
河見ればさやけく清し(㎜
よりくる波の音のさやけさ‘1励,
清き河瀬を見るがさやけさ(】7静
ひばりあがる春べとさやになりねれば鯛隙
あしがらの御坂に立ちて袖ふらば,家なる妹はさやに見もかも(44職
のように・視覚と聴覚との合一したしみじみとうっとりするような清らかな心情をあらわすように見ら
れる。r音を見る」ような感性がそこにはある。一方
新はりの今つくる道さやかにも聞きにけるかも(瓢・
古ゆさやけく負ひて来にしその名そ明解)
日のぐれにうすひの山を越ゆる日は背なのが袖もさやにふらしつ
などの歌の「さや」には,目に見えるかのようにうるわしく聞くといった趣が感じられる。総じてrさ
や」rさやか」には’視覚聴覚の一致した透徹したうつくしさがあって,その底には,心をゆりうごか
す音楽的なものを感じる。恐らく最高の美感のひとつであったのだろう。
もし・rさや」rさやか」とrささら」とが同じあるいは相似の心情をあらわすならば,rささら一」
は,耳に声を聞き一目見て心にしみとおるほどのものを語感としたと考えられる。したがってrささら
荻」は決して「悪し」とは同一化されないはずのものであったはずである。
「ささら荻」はおそらく,「妹なろがっかふ河津」のささ波と交響して風にさやぐ荻を即物的に示す
と同時に,しみじみとうつくしい女の等価物であるにちがいない。草木は,男女のいずれをも指示しう
るが,r妹なろがっかふ」と男のがわからうたうこのことばづかいには.男性ではなく,女性的なもの
を考えるほうが合理的である。r荻の葉」r軒端の荻」の呼び名などは,そう考えるに好都合の材料で
あろう。
序詞がみちびく主想部rあしとひとこと語りよらしも」のなかの「語りよらしも」は,語彙酌女法的
にもっとも無難な考え方一語り寄るらしも一を採用すべきものと思われる。「∼らしも」は,「わ
が待つ君し船出すらしも」(15鴉)r大臣楯立つらしも」(761r春野のうはぎ採みて煮らしも」(187g)r殿
のなかちし鳥狩すらしも」 翻)r馬ぞつまづく家思ふらしも」 1191)などのように豊富に見られる語
法である。また,「語る」は,単に夫婦男女の語らいのみを示すだけのものではない。
道くる人の伝言われに語らく(捌)
よろづよのかたらひ草(40膿
見るひとの語りつぎてて(4465)
世の中は常なきものと語りつぎながらへきたれ(4160}
里人も語りつぐがね(羽鴉)
いなといへど語れ語れと・237)
などの用例では,叙述して人の口から人の口につたえることをさすと見られる。r語り継ぐ」r語らふ」
に関係して,rいひつぐ」rいひよる」も存在する。とすれば,r語り寄る」の存在は不調和ではない。
また,r有るらし,有らし,なるらし・ならし」などの用例によってr寄るらし,寄らし」を類推すれ
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福島大学教育学部論第集18号
書966一τ0
ば,主想部は,r人々は人言をうるさくああだ,こうだ,わるい,まずいと言い寄り語り寄っているら
しい」ということになろうと思う。「ひとこと」はやはり 「人言の繁きこのごろ」(4謁 「この世には
人言しげし」(舅Dの評判,世間の噂ととるべきであろう。「人言」がとる動詞は,
人ごとをよしと聞かして・.460)
人ごとのよこしを聞きて(2訂1)塙万葉のよみによる
人ごとしげく聞えくるかも(2膿)
垣穂なす人ごと聞きて(713)
人目人言こちたみわがせむ(748)
などのように∼が聞コエルのように所動詞をとる場合もあり・∼ヲ聞ク・∼ヲ∼トキク・∼ヲコチタミ
スルのように他動詞をとる場合もあって∼ヲ∼トカタルというずばりの形は見当らないが・「評判をあ
あだこうだ,いいのわるいのと語り寄り言いふらす」というように同族目的語として解釈される。ざわ
ざわと騒ぐ芦のなかのあわれな荻のありさまをいいえて妙とさえ思われる。悪い悪いと垣穂のような評
判を語り寄り言いふらすというイメージである。
主想部の下句rあしと人言語り寄らしも」を以上のように解釈すれば・序想部r嫌なろがっかふ河津
のささら荻」との連結はどのようなものを契機にしていると考えることができるか’これが最後の問題
である。
すでに1章にのべたように,序詞の連結には,「一一AのnonA」型がある。この歌の場合も全く同様
この型に属する。先ず,即物的には,
1 妹なろが使う河津のあたりのささら荻なのに,それをrあし」だ「あし」だとみんながい
い寄っているようだよ。
という表層の世事的なこと(植物のなまえなどのこと)がうたわれている。一方この内部に
n 嫌なろのつかう河津のあたりのささら荻はあわれにしみじみとこのもしいものなのに・あ
れはわるい,まずい,好ましくないなどと皆が評判をいいふらしている。
さらには,それに重ねて,もっと深層に
皿 あわれにしみじみとしたいい女なのに,それを,このもしくないいやな女だと・評判をい
いふらしているようだ。
とも考えることができる。rあし」は道徳的価値判断による善悪よりも’rあしからぬ君」(1428・16
26)などによって,r好ましくない,うとましい」のように考えることが正しいと思う・序詞をふくむ
この歌の横造は,1・H』皿の総和であろうと思われる。
もしかしたら,この歌は,「ささら荻」のようにあわれな女に向って,男がなぐさめ,気にすること
はないとはげました歌と考えることもできよう。前の解釈よりも打情性がまして,その方がはるかに切
実でもある。閉鎖された古代社会の村落のなかの男女の恋愛のかなしさをこの歌は示しているというこ
とができよう。1章の飛鳥ならの都の貴族の男女の自由な,時には奔放で遊戯的でさえもあった恋愛に
対して,同じ古代の東国の村落には,このようなしめやかで切ない愛の語らいがあったと見たい。
駿河の海おしべに生ふる浜つづらいましをたのみ母にたがひぬ(瓢、
筑波嶺に背がひに見ゆるあし穂出あしかるとがもさね見えなくに(細8)
筑波嶺のをてもこのもにもりへすゑ母いもれどもたまそあひにける(繍フ
上毛野佐野の船橋とり放し親はさくれどわはさかるがへ(胆20)
乎久佐男と乎久佐受家男としほ舟のならべてみれば乎久佐勝ちめり・誕50」
あしひきの山沢人のひとさはにまなという児があやにかなしさ〔財働
鳴る瀬ろに木つの寄すなすいとのきてかなしき背ろに人さへ寄すも(3鵬,
万葉の葦 荻 そのほか
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rあしと人言を語り寄る」のは.村落の人々ばかりでなく自分の家族,ことに母を含めて理解すべきも
ののように思われる。
なおr妹なろがっかふ河津のささら荻あしと人ごと語り寄らしも」の序想と主想の連結は,発想的に
はr∼ナノニ∼」型であることを指摘したが,べつに,女法的な型をたてれば,連用格の型にも属す
る。以下同様のものを列挙しておく
住吉の粉浜のしじみあけも見ずこもりにのみや恋ひ渡りなむ(ggD
あしひきの名に負ふ山菅おし伏せて君し結ばばあはざらめやも(剛)
三島江の入江のこもをかりにこそわれをば君は思ひたりけれ(糊
薪伐る鎌倉山の木垂る木をまっと汝がいはび恋ひつつやあらむ(繍)
そのほかもっと∼ヲの格で連結していくものがあるが,このうち最後の例が,rささら荻あしとひと言
語り寄らしも」と全く同型であると思われる。
皿 あひづねの歌
陸奥国歌
あひづねの国をさ遠みあはなははしのひにせもとひも結はさね(㈱)
従来の注釈において,この歌に序詞を含むと考えているものはほとんど見あたらない。ことばどおり
即物的に理解して,構造をいくつかに分化し層化して歌作に用いられたしトリックを抽出してはいない
のである。
会津の山が人里離れたやうに,国の遠さに人々に逢はずに居る様にならば,其間の思ひ出す種
にしようから紐を結んで置いて下さい。(口訳万葉集)
会津の山のある国が遠いので逢わないならば,思い出にしょうと衣の紐を結んで下さい(全
注釈)
会津嶺のあるこの国が遠くなるので,逢わなくなったならば思ひ出すよすがにと,紐を結んで
おくれ,ね。(注釈)
この歌,「遠く離れてあわなくなってしまったとしたらせめて思い寄せるよすがにしろとく●らいいっ
て,どうか紐を結んでおくれよ」という家に残す女に対する男の男らしいがしかし哀切な歌で,特に解
釈上問題になるところはないのであろう。rしのひにせも」は,相手に対する親しげな命令または勧誘
の「む」「も」と思われる。
だがしかし,rあふ」は序想に対してよく主想部に用いられる語であって,つぎのような例歌を見る
のである。
朝影にわが身はなりぬ韓衣裾のあはずて久しくなれば(261g)
そぎ板もち葺ける板目のあはさずはいかにせむとかわが寝そめけむ(湘)
韓衣裾のうちかひあはねどもけしき心をあが思わなくに(3482)
末小薦のふの間ぢかくてあはなへば沖つ真鴨のなげきぞわがする(翻)
おそはやも汝をこそ待ため向つ峯の椎の小枝のあひはたがはじ(糊)
ことに地名をよみこんで序としたものも二首見られる。
我妹児にまたもあふみの安の河安寝も寝ずに恋ひわたるかも(31肋
波の間ゆ雲居に見ゆる粟島のあはぬものゆゑ我に寄する子ら・81硲
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こういう点から考えると,
1あひづねの国をさ遠み「齋『「_一.__
ユ ロ
H …………1あはなはO剥しのひにせもと紐結ばさね
一
の二つの層のかさなりと考えられてくる。すなわち,
1 いくらあいづ嶺でももう遠くて あうことは1ない。
H あわなくなったら せめてそのときのよすがにしろ とぐらいいって紐を結んでおくれよ,
旅立ちのわかれのために,泣くほかないか,もうものもいえなくなった妻たちに,愛のことばと行為を
要求し,逆にはげましてもいる男のすがたがここにある。
防人に立ちし朝げのかなと出に手ばなれ惜しみ泣きし児らはも(謝6)
道のへのうまらのうれに這は豆のからまる君をはかれか行かむ(襯)
あし垣のくまとに立ちてわぎもこが袖もしほほに泣きしおもはゆ(4357)
から衣裾にとりつき泣く子らをおきてそきぬやおもなしにして(蜘1)
わが妹児がしぬひにせよとつけし細いとになるともわはとかじとよ(蜘5ノ
これらの歌の中にあっても,とりわけて,その繊細な心情において,特異の位置をしめる歌であろう.
レトリックは往々にして無用の修辞,冗文と考えられるが,実は,こういう歌のうまれる根底でかなり
の役割を果たしているように思われる。
まず,これはI Hの章で説いたようなr……ナノニ……デナイ」式の序詞であって,r会津嶺という
からあうはずなのに,もういまはあえそうもない。もしそうなったら……」と幾重にも屈折していく抒
情がある。そして,
高山にたかべさ渡りたかだかにわが待つ君を待ち出でむかも(2804)
鶴が鳴きあし辺をさして飛びわたるあなたづたづしひとりさ寝れば(3626)
沼二つ通は鳥がす我が心二行くなもとなよ思はりそね‘3526)
のように,初句の語頭の音を,主想部に繰り返す同音の形式であって,音楽的にもなかなか高い調子で
ある。同音繰返し形式としても少ない例に属する。万葉集中,民謡風のものといなとをとわず,創造さ
れた詩句のいろいろのはしはしに.その即物的なイメージにもまたその深層の抒情にも,そしてまたそ
れをなりたたせるレトリックにも,まだまだいろいろのものが見出されるかもしれない。この陸奥国の
rあひづね」の歌は疑いもなく序詞をふくむ歌と見られる。 (1966−9−12)
〔追記〕
葦のうれを耳に見たてるような発想は,遠くギリシャにもあったのではないかと思われる。
フリュギアの王ミダースは音楽の神アポルローンと葦笛の名手牧羊神バーンの音楽競争の判者をつとめ
た。そしてバーンの勝ちを宣した。神は憤慨してミダースの耳をろばの耳に変じさせた。王さまは恥か
しいので頭巾をかぶって人に見られないようにする。しかし王の理髪師にはかくすわけにはゆかぬ,理
髪師は散髪の折に恭しく笑いをこらえて王の耳を見ることになる。しかしこれを他人にしゃべることが
できない。こらえきれなくなって土に穴を掘り.ここへ腹の中にあることを言いこめ,あとを土でおお
い,ようやくほっとする。穴から一むらの葦が生えてくる,そして育った。風が吹くたびにこの葦は,
床屋の吹きこめた言葉をささやいた一「ミダースの耳はろばの耳」というささやきであった。(佐々
木理 ギリシャ・一・神話)
・一マのオヴィディウスが語りつたえたこの話は,古代人の葦についての発想を考えさせておもしろ
い。万葉の「あしのうれ」の歌の参考に十分なりうると思う。
万葉の葦・荻 そのほか
鴎
The P㏄tryσf R㏄d in the Mannyδshu
HiroshiKanno
R図and the like (asi an{i qgi in Japan)are found in the Poem of Ishikawa no Iratsume
and the Folk Song of East Distrlct(nos128&3426),They are contained in the motive
verses(jokotoba).
These motive verses have not yet been㎜derstood we11.We must understaPd them with
mi▼emindandrevedthcard囲crhetoric.