「植民地主義の再発見」 - 大阪大学文学部・大学院文学研究科

Journal of History for the Public, 12 (2015), pp. 29-45 ©2015 Department of Occidental History, Osaka University. ISSN 1348-852x
Colonialism Revisited: The Notting Hill Race Riots in Jean Rhys’ ‘Let Them Call it Jazz’
Mayumi HORIUCHI
「植民地主義の再発見」
ジーン・リースの描くノッティンヒル「人種暴動」
堀内真由美
はじめに―本稿の目的
英領西インド諸島ドミニカ出身で、人生の大半をイギリスで過ごしたジーン・リース(Jean
(1)
Rhys 1890-1979)は(、1966 年刊行の Wide Sargasso Sea(以下『藻の海』と記す)で広く知られる
(2)
ようになった。
『藻の海』は(、シャーロット・ブロンテの『ジェイン・エア』に登場するジャ
マイカ育ちの英系白人「ロチェスター夫人」を主人公にしている。19 世紀前半のカリブ海を
舞台に現地生まれの「奴隷主の娘」を描いた作品は、1960 年代に独立へと向かう英領西イン
ド諸島の歴史と奴隷制の記憶を喚起させる。
『藻の海』への関心の高さとは対照的に、同時期に書かれ 62 年に発表された短編 ‘Let Them
(3)
Call it Jazz’(以下「ジャズ」と記す)が注目されることは少ない(。『藻の海』と同様、「ジャズ」
もリースの 30 年ぶりのドミニカ帰郷後に書かれたものだが、前者と異なり、ロンドンのノッ
ティンヒル地区を中心に展開する「現代」の物語である。本稿では、
「ジャズ」の主題が 1958
年に発生したノッティンヒル「人種暴動」
(以下ノッティンヒル事件と記す)だったことを当
時の資料から検証するとともに、作品を通して植民地主義の再発見を迫るリースの意図も明ら
かにしていく。
1 「植民地主義の再発見」
(4)
本稿のタイトル「植民地主義の再発見」は、
西川長夫の最後の論集から借用した(。西川は「植
民地主義の再発見」について次のように言う。
(1) 本稿では、国名として「イギリス」を、それを構成する地域名の 1 つとして「イングランド」を用いる。
(2) 本稿では次のテクストを使用。Rhys, J., Wide Sargasso Sea, Penguin Books, 1984.
(3) 本稿では次のテクストを使用。Rhys, J., ‘Let Them Call it Jazz’, in Tigers are Better-Looking, Penguin Books, 1972, pp.
44-63. 確認の限りで最新のリース評は次の論考である。しかし「ジャズ」への言及はわずか 2 行にとどまる。
Snaith, A., Modernist Voyages: Colonial Women Writers in London, 1890-1945, Cambridge Univ. Press, 2014, chap. 5, Jean Rhys, p.
139.
(4) 西川長夫『植民地主義の時代を生きて』、平凡社、2013 年。
「植民地主義の再発見」
29
…植民地と植民地主義は私にとって自明のものではなく、時間をかけて発見されるべきもの
でした。
(略)植民地を持つこと、他国の人を植民地化することが、いかにその宗主国の人
間をダメにし堕落させたか、そのことの深刻さを日本の知識人も国民も十分に理解してい
(5)
(
ないし、理解しようとしない。日本の近代史もそのことを描ききっていないと思います。
自身の生涯を「植民地」という言葉で語る西川にとって、「かなり重い気持ち」で論述しな
ければならないのが
「引揚者」
としての自分史だった。「植民地主義を隠蔽しようとする強い力」
に逆らって、それを認識していく過程を書いておく必要がある。
「かなり重い気持ち」を奮い
(6)
立たせた理由をこう記す(。
「だれにも個人的な脱植民地化の契機や道筋」があるとすれば、少
年期の植民地生活から敗戦後の引き揚げ生活を綴ることが、西川にとって、その「契機や道筋」
となった。
しかし、こうした引揚物語の意義は、
「親しい友人や研究者にもあまり理解されているとは
思えない」と西川は吐露する。実際、引揚物語は「犠牲者ナショナリズム」と「ある種のヒロ
イズム」を免れることが難しいうえに、引揚者も「複雑雑多な集団」だからだ。引揚者と命名
された瞬間に、その前後のかれらの人生をとおした、植民地主義という問題の本質が見えなく
なることを西川は危惧する。自らを鼓舞し書き続けた西川の生涯に学べば、引揚物語が「植民
地主義の再発見」の一つの手段となるには、
「犠牲者ナショナリズム」と「ある種のヒロイズム」
を乗り越え、植民地主義の歴史を隠蔽しようとする力に抗して、その本質に迫るものでなけれ
ばならない。
2 「引揚者の文学」とジーン・リース
奇しくも西川が長年在籍した大学から、
「引揚者の文学」を特集する論集が最近刊行された。
所収論文の一つ、杉浦清文によるリースと森崎和江の比較研究では、生まれ故郷に対して懐か
(7)
しいという感情だけを抱ける「本国人」とは異なる、
「植民者」としての共通点が示される(。
杉浦は、植民地朝鮮で育った森崎の作品から「凄まじいまでの自己嫌悪の感情」を汲み取る。
だが、その「感情」は、他の「引揚者」にも共通するものだったとは考えにくい。「引揚者」
と同様に「引揚物語」も多様だ。
「植民者」としての自己を認識し、自分が生み出された歴史
を遡る、過酷な「私」探しの旅を綴った森崎作品がある一方、西川が指摘する「植民者たちの
(8)
行為に対する反省的な記述」のない物語もある(。平穏な植民地での生活が一変し、
「支配下に
あった人々」に生命を脅かされる経験の後「祖国」にたどり着くといった物語は、反省的な記
(5) 西川、前掲書、231 頁。
(6) 同上、220 頁。
(7) 杉浦清文「(旧)植民地で生まれ育った植民者―ジーン・リースと森崎和江」、『言語文化研究』、立命館
大学言語文化研究所、第 24 巻第 4 号、2013 年、166 頁。
(8) 西川、前掲書、218 頁。
30
パブリック・ヒストリー
述の欠如どころか、植民地主義の隠蔽に利用される恐れもある。杉浦論文では、この点に関す
るリース作品への分析は十分に行われていないようだ。
リースは、奴隷主を曾祖父に持つ「植民者」として生まれたが、森崎や西川のような、本国
の敗戦を理由に植民地を去った「引揚者」ではない。リースは生涯の大半を戦勝国で過ごし、
故郷の独立を見ずに亡くなっている。西インド諸島の抵抗をリースが知らなかったわけではも
ちろんない。第 1 次世界大戦後の本国の困窮を契機に、1920 年代から 30 年代には自治権要求
運動が激化する。36 年に一時帰郷した際に遭遇した故郷の変化に、リースは帰属場所の喪失
を痛感する。
「変わり行く故郷」への惜別や「変えられてしまった故郷」への困惑や怒りの感
(9)
情が、それ以降に書かれた作品に表れている(。リースの物語には、それゆえ、「植民者たちの
行為に対する反省的な記述」はない。しかしその一方で、本国と本国人によるクリオールとい
う存在の忘却を、とくに『藻の海』では執拗に告発する。それは、植民地支配の副産物として
産み落とされた存在を植民地主義の歴史ごと葬ろうとする、西川の言を借りれば「隠蔽しよう
とする力」への、リースによる抵抗ではないだろうか。
3 忘却と隠蔽への危機感
1907 年に 17 歳で本国に来たリースは、編入先の名門女学校で「黒んぼのような英語を話す」
(10)
とからかわれ(、「白い西インド人」への差別感情を知る。半世紀後、1958 年に草稿段階の『藻
の海』について当時の担当編集者に宛てた手紙には、作品タイトルを「クリオール」としたい
(11)
が、イギリスでは違う意味のことばになっているため思案していると綴っている(。クリオー
ルといえば西インド諸島の白人入植者の子孫を指すことや、別のタイトル候補としていた「サ
ルガッソーの海」
の所在や海域の持つ歴史を知る人がほとんどいないことを嘆く。2 年後、
「ジャ
ズ」の主人公設定について編集者に説明する際には、
「クリオール」を、アフリカ系西インド
(12)
人またはかれらと白人との混血という「本国の理解」に合わせている(。75 年の同郷の友人に
宛てた手紙には、米軍によるグレナダ侵攻へのイギリス人の無関心さを憤るとともに、
「西イ
ンド人といえば黒いという偏見」があり、
「私が木炭ほど黒くはないことに驚いた人がここに
(13)
は大勢いる」と書く(。
本国人の忘却や無関心に対するリースの困惑や怒りを裏付ける数字がある。インド独立の
1948 年、全イギリス有権者数のうち 75%が自治領と植民地の違いを知らなかったうえに、英
領植民地の名を一つも答えられなかった割合も 51%だった。51 年には、前者の割合は 80%、
(9) 堀内真由美「英領西インド・白人クリオールの「植民地責任」―ジーン・リースと作品から」、『愛知教
育大学研究報告』、第 63 輯、73-81 頁。
(10) Angier, C., Jean Rhys: Life and Work, Little, Brown and Company, 1990, pp. 40-41.
(11) Rhys, J. (selected by Wyndham, F. & Melly, D.), Letters 1931-1966, Penguin Books, 1984, pp. 153-154.
(12) Ibid., p. 186.
(13) Paravisini-Gebert, L., ‘Jean Rhys and Phyllis Shand Allfrey: the Story of a Friendship’, in Jean Rhys Review, 9, 1998, p. 14.
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(14)
後者は 59%に達した(。当時最大の植民地の独立前後においてすら、本国有権者たちの関心が
いかに低かったかがわかる。この数字の背景には本国政府の姿勢もある。前川一郎は、帝国解
体の過程で、厳しい現実を受け止めつつも国益を追求し、世界秩序を設定する側にとどまろう
(15)
としたイギリスの姿を指摘する(。その姿勢の一例が英連邦(以下コモンウェルスと記す)と
いう形態の維持である。
コモンウェルスは、オーストラリアやカナダを含む元自治領や植民地から構成され、今日
53 の独立国と保護領などが加盟する巨大な連合体だ。激しい闘争を経て独立したインドも、
英領西インド諸島の多くも加盟している。過去の支配や奴隷貿易への謝罪と補償を求める声が
旧植民地から上がってもイギリス政府が応えようとしないのは、コモンウェルスの存在が、帝
国内の脱植民地化を「円滑に行われた」と認識させる効果を持ち、結果的に植民地問題を葬り
去ることを可能にしているとの指摘は重要だ。リースが『藻の海』と「ジャズ」完成に向けて
仕上げ作業に入った 1950 年代後半は、
故郷西インド諸島が、独立を渋る本国と駆け引きしつつ、
自治権を有する「西インド連邦」の成立を模索していた時期だった。諸島内での連邦派と反連
邦派の対立など紆余曲折を経て、西インド連邦がドミニカを含む 10 島で発足した 58 年に事件
は起きた。ノッティンヒル事件である。
4 ノッティンヒル事件と「ジャズ」をめぐる「評価」
ノッティンヒル事件は、ロンドン西部ノッティンヒル地区で 1958 年 8 月末に起きた。「ノッ
ティンガム・ノッティンヒル事件」と呼ばれるように、イングランド中部のノッティンガムで
発生した黒人と白人の間の衝突が、西インド系移民が多く住むロンドンのノッティンヒル地区
に飛び火し、2 都市にまたがる騒乱となった。背景には、白人による西インド移民への「人種
意識」がある。40 年代末、
本国の労働力不足の補充に英領西インド諸島からの移民が促された。
年々増加する「黒い肌の隣人たち」は白人から職を奪うと見なされ、本国人と異なる生活・行
動様式を維持するかれらへの反感や嫌悪が広がっていく。
本稿では
「ジャズ」
を、
本国と本国人に
「植民地主義の再発見」を迫る作品として取り上げるが、
ここで代表的評者による見解を見ておこう。リースの死後、早い段階でリースと西インドとの
関わりから作品を評したのは、セルマ・ジェームズだろう。ジェームズは 1920、30 年代の作
品と 50 年代に描かれた作品とを分かつ出来事として、西インド移民の増加とノッティンヒル
事件を挙げる。西インド移民への差別を知ることで、本国で辛酸をなめたのは自分だけではな
いとわかったリースが、初期の作品に描いてきたような孤独や寂寥感と向き合う、「新たな力」
(16)
を得たのではないかと推察する(。リースのほぼ全作品を網羅的に評したエレイン・サヴォリも、
(14) 前川一郎「イギリス植民地問題終焉論と脱植民地化」、永原陽子編『「植民地責任」論―脱植民地化の比
較史』、青木書店、2009 年、287-288 頁。
(15) 前川、前掲論文、278 頁。
(16) James, S., The Ladies and the Mammies: Jane Austen & Jean Rhys, 1983, Falling Wall Press, pp. 72-73.
32
パブリック・ヒストリー
50 年代の作品に登場する、白人女性のメンターとなりうる黒人女性の力強さを指摘する。し
かし、
「ジャズ」の主人公の「カラード女性」が白人社会に抵抗する描写を取り上げた際、サヴォ
リは、50 年代の移民女性たちは、
「人種衝突を避けようとし」
、
「否定的なステレオタイプを弱め
(17)
ようと懸命だったのではないか」と、描写の背景にあるリースの時代認識に疑問を投げかける(。
「ジャズ」とノッティンヒル事件との関連について最も明確に見解を示したのは、ポストコ
ロニアル文学研究者ピーター・ヒュームである。ヒュームは、「ジャズ」とノッティンヒル事
件との関連を言下に否定する。
「当時リースはデボン州で隠遁生活をしていたのでこの騒乱を
(18)
知らなかっただろう」というのが理由である(。ヒュームはこの見解に先立ち、76 年刊行のリー
ス短編集 Sleep It Off Lady に所収が予定されていた「インペリアル・ロード」を、編集者が「人
種主義的」だと不採用にした件に言及する。この作品には 36 年の一時帰郷の際にリースが抱
いた、白人支配層を物ともしない「人々」への嫌悪感と、かれらによって「変えられてしまっ
(19)
た故郷」への困惑が描かれている(。
ヒュームは編集者の判断を「70 年代半ばの「人種」をめぐる状況を考えれば理解できる」
としたうえで、当時のイギリス黒人市民運動の背景には、
「60 年代、70 年代のノッティンヒル、
(20)
ブリクストン事件」があったと解説する(。だが、ノッティンヒル事件は 58 年に、「ブリクス
トン事件」と呼ばれる黒人差別に起因する暴動は 70 年代ではなく 80 年代に 2 度起きた。他な
らぬ『ジーン・リース・レヴュー』に収められた、リース評論の第一人者による「黒人運動」
や「暴動」に関する「記述違い」に、リースが憤慨した「本国人の無関心」がのぞく。田舎に
隠棲していたことだけを理由に、
リースがノッティンヒル事件を「知らなかった」とするヒュー
ムには同意できない。
1958 年に起こった 2 件の西インド関連の出来事によって、リースは故郷と本国と自身との
関係を再考することになる。自治権要求運動を経て西インド連邦の一員となった故郷の現在
に、クリオールが必要とされないことは明らかだった。リースは、消えゆくクリオールという
植民地主義の歴史的産物を『藻の海』に刻み込んだ。一方、
「帝都」で発生した「人種暴動」は、
植民地主義がけっして「歴史」にはなっていないことをリースに思い知らせる。古典作品を下
敷きにした制約上『藻の海』には描き込めなかった、現在も未解決なこの問題を、リースは別
作品にして描こうとした。
(17) Savory, E., Jean Rhys, Cambridge Univ. Press, 1998, p. 213.
(18) Hulme, P., ‘Islands and Roads: Hesketh Bell, Jean Rhys, and Dominica’s Imperial Road’, Jean Rhys Review, 11, 2000, pp.
37-38.
(19) 「インペリアル・ロード」掲載不可の一件については、当時の担当編集者による回顧録を参照のこと。
Athill, D., Sket: An Editor’s Life, Grove Press, 2000, pp. 176-179.
(20) Hulme, op. cit., p. 37.
「植民地主義の再発見」
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5 作者リースによる「ジャズ」解説
(1) 「ジャズ」執筆の起点
「ジャズ」には、後述のように、ノッティンガム・ノッティンヒル事件に関する当時の新聞
報道が、主人公の経験を通して詳細に再現されている。だが、執筆のきっかけは 48 年にリー
ス自らが起こした事件だった。執筆開始から発表までの 10 年以上の歳月のなかで、作品にこ
めるべき内容を熟考し修正しつづけていった、というべきだろう。
第 1 次世界大戦直後、イギリスを離れ夫とともにヨーロッパで暮らしたが、度重なる不幸か
ら不本意な「帰国」をしたリースは、1920 年代末から旺盛な創作活動を始める。その間、公
私にわたってリースを支えた 2 度目の夫が 45 年に急死する。苦しい時期に援助してくれた亡
夫のいとこにあたる男性と 47 年に再々婚し、夫妻はロンドン南東部で暮らし始めた。しかし
夫は詐欺まがいの怪しげな儲け話に夢中になり、リースは新生活に不安を募らせていく。一時
おさまっていたアルコール依存と暴力的な言動が復活した 48 年春、近隣住民とのトラブルで
(21)
器物破損の罰金刑を受け、ロンドン郊外ホロウェイ刑務所病院に一時収監される(。
リースにとってこの事件と収監された経験は、制作中の、後に『藻の海』として出版される
作品にも影響を与えたとみられる。49 年 10 月友人に宛てた手紙には、
「半分完成している小説」
があり、それは「1780 年頃の西インドについての話」で、残りの部分もすでに頭に入ってい
(22)
ると書く一方、
「ホロウェイでの体験が自分から書く力を奪ってしまった」と報告している(。
ところが同年 12 月の、別の友人宛ての手紙には短編を執筆中だと報告し、タイトルは「ブラッ
(23)
ク・キャスル」つまり監獄だと書いている(。リースは「半分完成していた小説」を抱えながらも、
48 年の出来事を描こうとした。
『藻の海』同様に、この作品も長い年月を必要とした。雑誌発
(24)
表の 62 年までの 10 数年間に、少なくとも 6 回の修正が加えられていく(。
(2) 「ジャズ」あらすじ
主人公で語り手でもあるセリーナは、白人の父と「自分より肌の白かったカラード」の母を
持つ、西インド移民の若い女性である。父が去り母はベネズエラに出稼ぎに行ったので、故郷
に残されたセリーナは「黒い肌」の祖母に育てられる。成長し故郷を出たセリーナは、お針子
としてロンドンにやって来る。
ノッティンヒル地区に落ち着いたが、仕事探しは容易ではなかっ
た。ある日、家主から突然家賃の前払いを要求され、納得がいかないままアパートを追い出さ
れる。顔見知りの男が紹介してくれた郊外の住宅地の一室に滞在する。先行きの不安を飲酒と
歌で紛らわせるセリーナに、隣家夫婦は聞えよがしに侮蔑的な言葉を口にする。執拗に繰り返
される侮蔑の言動に耐えていたが、ある日ついに怒りを爆発させたセリーナは、隣家の窓ガラ
(21) Angier, op. cit., pp. 440-447.
(22) Rhys, Letters, pp. 55-57.
(23) Ibid., p. 66.
(24) Angier, op. cit., p. 485.
34
パブリック・ヒストリー
スを壊してしまう。
警察に連行されたセリーナは、精神観察のため刑務所病院に送られる。常時監視下の病院で
数日過ごしたある日、独房から「くぐもった女性の歌声」が聞こえてくる。「ホロウェイの歌」
と呼ばれるその歌は、収監されている女たちを励ましているという。間もなくセリーナは釈放
され、別の場所に落ち着き洋装店に職を得る。ある日「カラードの同僚」のパーティーで、男
性客の要望に応え「ホロウェイの歌」を披露する。後日、その男性は「歌をジャズ風に変えて
売却した」と、礼の手紙に 5 ポンドを同封し送ってくる。手紙を読んだセリーナは、あの歌こ
そ、大切な唯一の所持品だったと気づく。
「大切なあの歌」をジャズ風に変えられてしまった
ことは悲しいが、かれらにはジャズだと呼ばせておこうと思い直す。自分が聞いたあの歌には
変わりないのだから、と。
(3) 真意を覆い隠す「マスキング」
この作品については、前出の 1949 年の手紙から 10 年以上、少なくとも書簡をとおしてリー
スが言及することはなかった。確認できる 2 度目の言及は 60 年 4 月である。『藻の海』の編集
(25)
者に、‘They thought it was jazz’ というタイトルの短編を書いたと報告し(、翌月の手紙には、実
(26)
際に収監された過去には一切触れずに、題材がホロウェイ監獄だと説明している(。同年 6 月
には、この短編をタイプしてほしいと娘マリボンヌに書き送っている。
「これは自伝ではない
から真剣に受け取らないで」と繰り返し念を押したあと、「ここの人々」は小説のなかの「私」
をリース自身のことだと思っているので、出版社が手配したタイピストでなく、娘に託したい
(27)
希望を訴えている(。34 年刊行の Voyage in the Dark が、故郷ドミニカで「恐ろしい内容」だと
(28)
批判されたことから(、
「自伝的物語」だと世間に思われないよう注意を払ったのかもしれない。
エレイン・サヴォリはリースを評する中で、死後に未完のまま刊行された自叙伝 Smile Please
(29)
(以下「自叙伝」と記す)に言及し(、高齢と病に悩まされながら最期まで「自叙伝」完成に強
い意欲を見せたのは、
「これはリースのことだ」と悟られないよう施すマスキングの限界に直
面して、いつか誰かに真実を書かれることを阻止するために、先手を打とうとした証だろうと
(30)
説明する(。「自叙伝」もまた、マスキングで満たされていたことが、後年明らかにされていく
(31)
のだが(。
(32)
そのうえでサヴォリは、
「本当の意味での自叙伝はリースによる手紙の中にある」という(。
(25) Rhys, Letters, pp. 183-184.
(26) Ibid., p. 186.
(27) Ibid., p. 187.
(28) Paravisini-Gebert, L., Phyllis Shand Allfrey: A Caribbean Life, Rutgers Univ. Press, 1996, p. 47.
(29) Rhys, J., Smile Please: An Unfinished Autobiography, Penguin Books, 1981.
(30) Savory, op. cit., p. 181.
(31) 次の評伝のなかで「自叙伝」の記述内容も検討されている。Angier, C., Jean Rhys: Life and Work, Little, Brown
and Company, 1990.
(32) Savory, op. cit., p. 195.
「植民地主義の再発見」
35
もう一通手紙を見ておこう。完成間近の「ジャズ」の草稿が、文芸誌『ロンドン・マガジン』
(33)
から好意的に受け取られたことを編集者に報告する 61 年 3 月の手紙には(、タイトルも含め、
作品にはまだ手を入れたいと書き、さらに次のように続ける。
私はこの短編を、
黒人とカラードと白人との間の問題に関する話にもしたくはないのです。
それはとても複雑な問題ですから。そうお思いになりませんか?
「人種間の問題」をテーマにするつもりはないとの但し書きは、「ジャズ」とノッティンヒル
事件との関連を否定する効果を持つ。だが、リースの否定文は、肯定を隠すためのマスキング
だとも取れる。それを明らかにするには、リースが作品に落とし込んだと思われる、当時の事
件報道を追う必要がある。
(34)
6 事件発生と経緯―『タイムズ』記事から(
(1) ノッティンガム事件第一報
『タイムズ』の事件第一報は、58 年 8 月 25 日に掲載された。
「人種衝突で数十人が負傷―
深夜のノッティンガムで発生」
という見出しの特派員記事である。8 月 24 日土曜の深夜セント・
アンズウェル地区で、
「白人と黒人との激しい騒乱があり、警官 1 人を含む白人 8 人がカラー
ドの運転する車にはねられ病院に搬送された」。ノッティンガム市警察は追加人員を配置し警
戒にあたっていたが、ナイフやかみそりなどによる多数の負傷者が出た。なかには喉を切りつ
けられ 37 針も縫った人や、背中を刺され 12 針以上縫った人もいた。記事は、「病院に搬送さ
れたカラードはいなかった」という文で締めくくられている。事件の概要に続き目撃者の証言
も掲載されている。21 歳女性は、夫とパブを出ようとしたらいきなり黒人の男に殴られ、ま
もなく「夫がカラードの一群に殴られた」と証言している。ほかにも刺し傷を負った被害者を
自宅で保護したという近隣住民の証言などが続く。いずれも「黒人」か「カラード」が加害者
だとされている。ノッティンガム事件の第一報は、同市警察の主席警部ポプキスによるコメン
トで終わっている。
集まっていた人だかりは、ほとんどが白人で、かれらはこの地域のカラードの人たちに敵
意を持っていた。この地域だけで、少なくとも 2000 人のカラード人口がある。これ以上、
平静が乱されることのないようにすることが、我々警察の責務である。
第一報からは、同市ですでに騒乱に備えて夜の警戒態勢を強化していたことや、主席警部ポ
(33) Rhys, Letters, p. 202.
(34) 本文に日付とともに引用した記事はすべて The Times マイクロフィルム版からのものである。
36
パブリック・ヒストリー
プキスの発言にあるように、
「黒人」か「カラード」がこの夜の事件の主な加害者であったと
いう事実の背景に、
「この地域のカラードの人たちに敵意を持っていた」大勢の白人の存在が
あったことがわかる。
(2) 事件の予兆
ノッティンガムとノッティンヒルにおける「人種衝突」は、8 月 24 日の事件が発端となっ
たのではない。大規模な衝突が予想されるほどに日常化した「摩擦」があった。「カラードに
よる事件」も報じられているが、個々の小規模な事件だけが予兆ではない。同年春には、すで
に、地域社会と行政当局の「カラード」に対する姿勢は硬直化していた。
58 年 4 月 29 日に掲載された、ノッティンガムに近接する工業都市バーミンガムからの特派
員記事がある。
「カラード住民によるダンス禁止―「学校施設の不適切な使用」」という見出
しで、バーミンガム教育委員会が 4 月 28 日、
「カラード住民」のダンスの催しに際して要望の
あった、市内 5 校の会場貸出を、
「学校施設の不適切な使用を理由に拒否した」と伝えている。
決定について教育委員会施設課は、子どもたちへの影響を懸念する地元住民から催しに反対す
る請願が提出され、委員会側が受理したと説明する。記事では、参加人数が無制限なこと、ト
イレの確保もままならないこと、ダンスによって大きな騒音が出ること、校内で酒類が販売さ
れるだろうことなどの問題点を挙げる。
「これはカラー・バー(人種差別)ではない。節度あ
る行動基準を維持したいだけのことだ。
」
「もしカラードの人々が、施設使用に責任を持つ新た
な代表者で議論するつもりなら、我々も喜んで使用を再許可する用意がある」と、教育委員会
施設課責任者の発言が記事の最後に引かれている。
なにより最大の予兆は「人種的偏見」がイギリス全体を覆っていたということだ。ノッティ
ンガムでの事件のおよそ 1 か月前、7 月 24 日には「外見で差別することを罰する法制定を
―労働党が立法化を提案準備」という短い記事が掲載される。労働党幹事会が、イギリスに
おける人種差別と闘うため立法化を賛成決議した。さらに同党幹事会は作業部会に対して、実
行力のある法的提言をし、国内における啓発キャンペーンに向けて基本理念を策定するように
も指示した。記事は、同党の決定の背景に言及して、「ホテルやダンスホールほか公共の場で、
最近、人種的偏見による差別の例が報告されていることから提起された」と伝えている。
(3) 蓄積された差別、
「挑発」
、報復
このような予兆を経て発生したのがノッティンガムでの衝突だった。発生翌日には在ロンド
ン「カリブ海人福祉事務所」のスタッフが、発足間もない西インド連邦政府の代理として、調
査のためノッティンガム市に到着したと 26 日付記事は伝える。「これまでこの国では、今回の
ような規模の衝突はなかった。この事態は驚くべきことだ」とスタッフの言葉を引用し、白人
8 人が病院に搬送されるという騒乱の後、双方の感情が高ぶる中さらなる衝突の懸念が広がっ
ていると記者は書く。
「西インド人住民の訴え」という小見出しのついた最後の数段落は、ノッティンガム市社会
「植民地主義の再発見」
37
福祉諮問委員会のエリック・アイロンズによるコメントである。移民としてやってきて 14 年、
同胞の生活環境向上と地域住民の摩擦軽減に奔走してきたアイロンズは次のように語る。
我々は主席警部と面談してきた。週末に起こった事件に大きな衝撃を受けているからだ。
0 0 0 0 0 0 0
この一件は、
「挑発された事件」だと言うことができる。
(略)1949 年からこの街に住ん
でいるが、その間、個人的な誤解や摩擦はあっても人種間の調和は完全に保たれてきた。
我々は、この地域のすべての住民、カラード・白人両者に対して節度を持つよう訴える。
0 0 0 0 0 0 0 0
そして騒動や流血の事態を引き起こすような、いかなる挑発行為も警察に報告することを
求める。
(傍点は筆者)
続いてアイロンズは、事件の発端について、
「西インド人住民がパーティーからの帰宅途中で
白人男性たちによる襲撃に遭ったこと」と説明している。これを裏付けるように、翌 8 月 26
日の記事は、
「カラードの人々による報復」との見出しで、「土曜夜の衝突は、これに先立ち起
こった白人男性たちによる事件への報復だった」という地元警察の発表を報道した。
実は、アイロンズは 49 年後にも事件についての取材に応じている。2007 年 5 月 21 日付 の
(35)
BBC ニュース電子版に、
「忘れられた人種暴動」という見出しの特集記事が掲載された(。58
年のノッティンヒル事件が、イギリス史上最悪の人種暴力事件だと見なされてきた一方、それ
より数日前に起こったノッティンガム事件への注目度は低かった。前者に埋もれてしまいがち
なノッティンガム事件に関わった人々に、当時を振り返ってもらおうというのが特集の趣旨で
ある。アイロンズは改めて当時の人種間関係を語り、
「黒人男性と白人女性との関係」が白人
男性の憎悪を掻き立てたと指摘する。ノッティンガム事件の直接の引き金となった「出来事」
は 2 件報告されていた。
「西インド人男性がパブで若い白人女性と談笑したあと立ち去ろうと
したら襲撃されたこと」
と、
「白人の恋人と出かけていた西インド人男性を誰かが侮辱したこと」
だった。
「警察も民衆も誰もが、西インド人たちによるその後の報復の迅速さと激しさに衝撃
を受けたことと思う。しかし、当時、それにはそれだけの理由があったということなのだ」と
アイロンズは語る。
事件の分析は、発生から数日後には『タイムズ』紙面に登場している。58 年 8 月 27 日に掲
載された「なぜ人種衝突は起こったか」という見出しの記事だ。取材した特派員は、同市が直
面する問題と、イギリスの他の都市が抱える問題とには大きな違いはないとし、「妬み、怒り、
そして黒人によって白人が支配されるのではないかという恐怖」などが共通すると書く。とく
に記事での分析は「妬み」に焦点が当てられる。
カラードの人たちの中には、そこそこの収入を得て、小さいながらも家や自家用車を持て
(35) The ‘forgotten’ race riot, 21 May, 2007, BBC NEWS, http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_new/6675793.stm(2014 年 5 月 30
日閲覧)
38
パブリック・ヒストリー
るようになった人もいる。
かれらの楽天的な気質は、多くの白人とくに知的水準の低い人々
を苛立たせる。たとえばこれ見よがしに派手な車であったり、早朝からの大音量のラジオ
の音であったり、あるいは家々の間で仲間を呼び合う口笛や大きな声などが、白人たちに
不快感を抱かせていることに、
かれらは無頓着だった。一方では性的な嫉妬もある。カラー
ド男性が白人女性と歩いているようなときなどに、白人男性が抱く憎悪がそうである。
記事は、貧しい白人層による非白人移民への経済的、性的嫉妬が事件の背景にあると指摘する
一方、非白人移民たちが抱える怒りと不満を「故郷ではまったく自然であり、問題など引き起
こすはずもないような自分たちの行動が、ここでは誤解されること」だと解説している。
(4) ノッティンヒル事件へ
ノッティンガム事件に関しての報道や背景説明が一通り出そろった矢先、事件からちょうど
一週間後、ロンドンで大規模な暴動が発生する。ノッティンヒル事件の第一報は 58 年 9 月 1
日に掲載された。
「ロンドンで人種衝突―パトカー投石される」という大見出しのあと、「真
夜中の逮捕劇」や「武装集団」など不穏な小見出しが続く。8 月 31 日土曜の夜、ロンドン、ノッ
ティンヒルゲイトで 400 人以上が関わった暴動が起き、「カラード 4 人」を含む 18 人が逮捕さ
れたと伝える。暴動のきっかけとなった喧嘩は「10 人のカラードと 7 人の白人との間で始まっ
た」
。目撃者の証言によれば、衝突には斧やナイフなどの「武器」が使われており、「可燃性の
物体」や自転車までもが飛び交った。
ノッティンヒル事件の詳細は、
その後次々と報道される。9 月 2 日には、
「カラードの住む家々
の窓ガラスを割って」白人の一群が街を練り歩いて行ったこと、その際「かれらは一軒も白人
の家とカラードの家を間違わなかった」ことが報道された。背中をいきなり蹴られた「カラー
ド男性」や、
「黒人を捕まえろ」と叫び続ける群衆から急いで逃げた「カラード男性」と恋人
の話など、事件の詳細が明らかになるにつれ、非白人住民がターゲットになっていたことがわ
かる。
9 月 2 日の夜にも 50 人以上の逮捕者を出す事件がノッティンヒル地区を中心に発生する。
翌 3 日の「さらなる人種衝突事件」という見出しの記事では、若者が集団で気勢を上げながら
ランカスター通りに集結し、リーダーらしき若者が「黒んぼ全員を追い出せ」と書かれた横断
幕を掲げた。この騒ぎで 16 人が「侮辱的行為」で地元警察署に拘束された。同記事では、白
人たちの襲撃を恐れる「カラードの人々」の様子も伝えている。「警察はかれらに、カーテン
を閉め外出しないよう注意し」
、
「カラードの男女一組が警察に付き添われながら群衆の間を通
り抜け」
、
ポートベロー地区の「カラードのバス運転手たちは帰宅まで警察に護衛されていた」。
ノッティンヒル事件の第一報が報道された 9 月 1 日の同紙に、一通の投書が掲載されている。
投稿者はノッティンガム市在住の A. F. レアードで、前出のアイロンズとともにノッティンガ
ム市社会福祉諮問委員会に所属し、委員長を務めていた。ノッティンガム事件報道の内容に疑
問を抱く彼がとくに問題視した 8 月 28 日の記事には、リヴァプール選挙区の保守党議員 30 人
「植民地主義の再発見」
39
以上が署名を提出し、移民入国者数の制限を要求することが掲載されていた。同記事は、保守
党議員発言の一部を引きながら、この要求は「入国するや否や助けを求める何千人もの移民の
流入」への高まる不安を表していると結んでいる。このような報道に対してレアードは「節度
のない誤った言葉づかいに驚いている」と述べ、
「貧しい移民がコモンウェルスからやってき
て入国するや否や直ちに国の援助を要求するというような言説や、西インド人を外国人だと書
くことによって、一般読者に重大な誤解を与えるだけでなく、誤りとは知らずそれらが流布し
てしまう」と懸念を表明し、次のように締めくくる。
完全雇用が望めた時期には、かれらは必要な労働力として歓迎された。いまやここイギリ
スでの雇用不安に直面し、住む場所すら確保が困難ななか、故郷と異なる気候風土や「現
代的生活」にも不慣れな状況にある。私がここで指摘したような軽率な言葉づかいや不正
確な談話内容によって、かれらが誇りとする市民としての自覚を否定し、あるいは事実に
基づかない見解であらぬ騒動を誘発するようなことは、不当なことだと言わざるをえない。
結局、レアードの投書は、
「あらぬ騒動を誘発するようなこと」を止めるのに間に合わなかっ
た。新聞が伝えた事件とその背景は、
「ジャズ」ではどう描かれているだろうか。
7 「ジャズ」―リースが描いた事件
(1) 事件までの経緯―差別と侮辱と
西インド移民の若い女性セリーナ・デイヴィスは、ロンドンのノッティンヒルに部屋を借り
暮らしていた。7 月の日曜の朝、毎週欠かさず家賃を払ってきたセリーナに、家主が突然 1 カ
月分の前払いを要求する。多少の蓄えはあったものの、そのとき失職していたセリーナは「で
きない」と答え、その後部屋に入ってきた家主の妻にも断ると、妻はセリーナのスーツケース
を蹴り、出ていくよう言い放つ。
「ジャズ」冒頭のノッティンヒルでの一件からは、レアード
が投書で指摘した「住む場所すら確保が困難な」背景に、移民に部屋を貸し渋る家主の存在が
あったことを想像させる。セリーナのように不満を持ちながら、抗議することをあきらめる移
民もいただろう。ロンドンでもノッティンガムでも同胞のための相談場所があったことは記事
からわかるが、トラブルを抱えた移民がみな相談できたとは限らない。行くあてのないセリー
ナは、カフェで顔見知りになっていたシムズという男に事情を話す。シムズがアパートの一室
を提供してくれることになり、セリーナは「ヴィクトリア駅から列車で 45 分」の住宅地に向
(36)
かう(。
アパートに到着しても落ち着かないセリーナはワインを飲み歌う。
「歌えば哀しみが心から
去っていくから」だ。このあとも、不安が生じると彼女は大きな声で歌い踊る。リースが描い
(36) Rhys, J., ‘Let Them Call it Jazz’, in Tigers are Better-Looking, Penguin Books, 1972, pp. 44-45.
40
パブリック・ヒストリー
たのは、
「故郷ではまったく自然であり、問題など引き起こすはずもない」西インド人の行動
である。ところが、記事でも取り上げられていたように、それが「ここ」では問題視される。
セリーナは隣家夫婦の態度が気になっていた。妻には挨拶をしても無視され、夫は「まるで野
に放たれた獣を見るような視線」を送って来た。
「なぜここの人々はこうなのか」とセリーナ
は自問する。
「本国」に来て以来、何度もこのような態度に遭遇してきたことがうかがえる。
シムズに早くこの場所を出たいと訴えるが、もう一週間待てと指示される。仕事を探さなけ
ればと焦り始めたセリーナに、隣家夫婦はまたも「敵視し憎悪している視線」を送ってくる。
かれらの侮蔑の態度は、セリーナに、追い出されたノッティンヒルのアパートでの一件を思い
出させる。ある日、靴下のなかに入れておいた 30 ポンドがなくなっていることに気づく。家
主の妻の仕業だと思ったセリーナは警察に訴える。警官に「紛失した金の正確な額と日時」を
尋ねられたが、
「覚えていない」と言うと、訴え自体を疑われた。家主の妻は「あの女が盗ら
(37)
れるような金を持っていたはずがない」と証言する(。真面目に働き多少の蓄えがあっても、
「こ
この人々」の偏見の前には、レアードの投稿にあったように、西インド移民は「入国するや否
や国の援助を要求する人々」でしかないのだ。
さらに一週間が過ぎた頃、隣家夫婦がセリーナを警察に訴えた。その前夜、アパートの外で
妻がセリーナに話しかけてきた。
「ここに居なければいけないの?」「どこか他所に行けない
の?」との問いかけにセリーナが応答せず中に入っても、彼女はこちらを見つめていた。「あ
んたのことなんて怖がってないよと相手に分からせるように」セリーナは歌い始める。今度は
夫が「今すぐ騒ぎを止めないと警察に通報するぞ」と言ったので、セリーナは「二人とも地獄
へ堕ちろ」と返し、大声で歌い続けた。警察が来てセリーナは事情聴取される。ここで騒いで
はいけないと言う警官に、
「ほかの人がしているのとまったく同じように通りに出ていただけ」
(38)
と抗議したものの、酒を飲み騒いだとして 5 ポンドの罰金を科されてしまう(。リースは、西
インド人たちにとって「まったく自然であり、問題など引き起こすはずもない」行動が、本国
では犯罪として扱われる理不尽さを描きこんでいる。しかも「ここの人々」にとってそれは「カ
ラー・バー」ではなく、
「節度ある行動基準を維持したいだけのこと」なのだ。バーミンガム
市教育委員会が 58 年 4 月に弁明したように。
(2) 「挑発された事件」
罰金の支払いを肩代わりするからもう少し待つようにとシムズから言われたセリーナだが、
警官に監視される状況で緊張と不安が極限に達していた。睡眠剤を服用し酒も飲んだ。そして
また歌い踊った。高揚した気分で踊り続け外へ出てきたとき、隣家の妻が夫に「見て」と声を
あげる。それを聞いたセリーナは「なぜ警察を呼んで私を追い込むようなことをしたの」と責
める。妻は、この「閑静な住宅街」でいったい何をしているのと問い返す。夫がセリーナの行
(37) Ibid., p. 50.
(38) Ibid., pp. 51-52.
「植民地主義の再発見」
41
動を恥知らずだと言うと、妻も同調し、
「あの男のアパートに連れてこられるアバズレはみん
な白人だったのに」と聞えよがしにつぶやく。セリーナの怒りを感知しながら、なお執拗に侮
蔑の言葉を続ける妻に向かって、セリーナは「ひとりでに手が動いて」石を投げた。石は妻に
は当たらず、
隣家の窓ガラスが割れた。驚いてカーテンを閉めた夫婦に向かってセリーナは叫ぶ。
そうやっていつも逃げるんだね。
ここにやってきてからというもの、あんたたちは私をずっ
(39)
と追い詰めたじゃないか。私が口答えしないからって。恥知らずはあんたたちの方だよ(。
怒りをあらわにした後、セリーナは自問する。
「なぜあんなことをしたんだろう」、「いつもの
私ではなかった」と。しかし「何度も繰り返しひどい扱いを受けたなら、あんな風に爆発して
しまうときだってある」と自答する。翌朝、セリーナは警察に連行される。
警察署での事情聴取でセリーナは、
近隣住民からの「証言」を聞かされる。隣家の夫は、セリー
ナが夜ひどく騒ぎ聞くに堪えない言葉を吐き下品な踊りを踊ったと証言した。投石が当たって
いたら妻は負傷していただろうと語り、
「こちらからの挑発はなかった」と断言した。向かい
(40)
の住民も彼の証言を支持し、
「挑発行為など何もなかった」と証言した(。この場面は、事件に
至るまでの経緯で、
「挑発行為」が重要視されていた事件報道を思い起こさせる。
「カラード」
が事を起こすまでの「それだけの理由」
、
「あらぬ騒動を誘発するような」
、差別とも自覚され
ず繰り返される拒絶や黙殺や冷遇や侮蔑的言動の蓄積が、セリーナの怒りの爆発の背景に、詳
細に描き込まれる。
セリーナは、ノッティンヒルの家主の横暴、盗まれた金のこと、隣家夫婦の侮辱的態度をもっ
と訴えたかった。窓ガラスを壊したが弁償するつもりであることも説明したかった。しかし「落
ち着いた小さい声で話をしたいが、自分の声は大きいし身振りも大きい」ので、どのみちかれ
らは信じてくれないだろうとあきらめる。セリーナはホロウェイ刑務所に連行された。
(3) 「ホロウェイの歌」
「西インドの歌」
医師の問診の結果、刑務所病院の独房に収監されたセリーナが中庭を歩いていると、格子窓
の向こうから女性の歌声が聞こえてきた。
「くぐもった感じの声」で、「獄の壁を越えずっと遠
くまで飛んでいきそうに思えた」
。
「ホロウェイの歌」と呼ばれており、収監されている女性た
ちに「あきらめるな」と励ましているという。
「あの歌をトランペットの伴奏で聞いたら、こ
この壁なんてみんな崩れ去るだろう」と思うと、最悪の心身状態から劇的に回復していく。釈
放の条件として「閑静な住宅街」からの退去を命じられたセリーナは、まもなく自由の身とな
り、駅で列車を待っていた。そのとき一人の女性が「お疲れのようですが遠くから来られたの
ですか」と話しかけてきた。セリーナは「ええ、あまりに遠い道のりだったので迷子になって
(39) Ibid., pp. 54-55.
(40) Ibid., p. 56.
42
パブリック・ヒストリー
しまいました」と答えたかったが、代わりに、
「大丈夫です、暑さに参っているだけ」と答える。
二人は列車の到着までひとしきり天候の話をした。
もう、私はかれらをちっとも怖いとは思わなかった。結局のところ、かれらに何ができる
というの。私はいまや何を話せばいいかを学習し、すべてが順調に回っていくことを覚え
(41)
たのだ。(
新しく部屋を借り、大きな洋装店で服のリフォームの職を得る。「美しいカラード」の同僚
クラリスからパーティーに招かれたセリーナは、
「ホロウェイの歌」を口ずさむ。ある男性招
待客がもう一度歌ってくれと要望したので、
クラリスがピアノでジャズ風に伴奏し始めた。「そ
ういう風な歌じゃなかった」と違和感を訴えたセリーナに、招待客たちはジャズ風のアレンジ
が良いと言う。後日、手紙が届く。あの男性招待客から、歌を編曲し売却したと、5 ポンドの
礼金が同封されていた。いまや戻る場所のない自分には、
「あの歌」だけが「唯一の所持品」だっ
たのに、違うアレンジで演奏され、それすら奪われてしまったとセリーナは嘆く。だが「ホロ
ウェイの歌」は自分のために歌われたのだと気を取り直す。もしかれらが元のように演奏した
としても「壁がすぐに崩れ去ることはないだろう」と。物語の最後にセリーナは言う。
ならば、かれらにあの歌をジャズだと呼ばせておこう。間違った風に演奏させておこう。
(42)
(
どのみち私が聞いた、あの歌には変わりないのだから。
「ジャズ」には「ホロウェイの歌」の他にも、セリーナが口ずさむ「祖母が歌っていた西イ
ンドの歌」が登場する。本国に来た頃、級友から「黒んぼの歌」を歌えと迫られた経験はあっ
(43)
たものの(、リース自身に「西インドの歌」を歌う習慣があったのかはわからない。ただ、53
(44)
年 4 月の友人に宛てた手紙に「西インドの歌」をいくつか紹介しており(、「ジャズ」の雑誌掲
載翌年の 63 年には同友人に、
「西インドの歌」を披露し録音させている。実際に録音テープを
聞いた評伝作家アンジェは、
「73 歳とは思えない甘い声」で「西インドなまりがわずかだが認
(45)
められた」と書いている(。とすれば、
「西インドの歌」は本国に来てからも、リースの傍らにあっ
たと言えるだろう。
作中の「ホロウェイの歌」は「くぐもった声」(a smoky kind of voice) で歌われた。非白人が歌っ
ていたともとれる描き方だ。それはセリーナに生きる気力を与えたと同時に、本国で否定され
た「西インド的なるもの」を肯定してくれる「唯一の所持品」となった。白人社会で流行して
(41) Ibid., p. 62.
(42) Ibid., p. 63.
(43) Angier, op. cit., pp. 40-41.
(44) Rhys, Letters, pp. 107-108.
(45) Angier, op. cit., pp. 503-504.
「植民地主義の再発見」
43
いた「ジャズ」風に変えられたことで、再び「何もかも奪われた」気持ちにさせられたが、
「か
れら」の好きなようにさせておこうと思い直す。
「西インドの歌」とジャズとの違いを説明し
ても所詮「かれら」には理解できないからだ。リースは、本国白人の「異なるもの」への無理
解を「ホロウェイの歌」への反応にして描いてみせた。
おわりに―リースの問いかけ
「すべてを失い帰る場所がない」
、
「長い道のりの途中で迷子になった」というセリーナの心
境は、『藻の海』の白人クリオール、アントワネットにも見出せる。カリブ海の亡母の所領で
の新婚旅行中、
本国人の夫が
「カラードの女中」
と関係を持ったことを知ったアントワネットは、
「大好きなここを憎むべき場所にしてしまった。何もかもが私から無くなっても、まだここが
あると思っていたのに」と責める。彼女の「唯一の所持品」はクリオールの母が残した所領だっ
た。イングランドの屋敷に監禁されたアントワネットは、
「故郷から来る途中の藻の海で迷子
(46)
になったのだ」と、本国に連れて来られたことを認めない(。『ジェイン・エア』を下敷きにし
た制約上、
「迷子」のアントワネットは死を選ぶしかなかったが、1950 年代の西インド移民は
「故郷での慣習やふるまい」を犯罪視されようとも、「迷子になった」と現実逃避するわけには
いかなかった。セリーナも同様だ。いわれなき排除を経験した末に、「ここの人々」の愚かさ
を知り、
「ここの人々」との付き合い方を学んで、生きていこうとする。それは「ここに居る」
しかなかったリース自身の諦めと覚悟とも重なる。
リースは 1936 年帰郷の際、ドミニカから出した友人への手紙に「ここの暑さとゴキブリが
(47)
苦手になった」と書く(。故郷が自治権要求運動に席巻され、奴隷主の子孫である自分が、憎
悪か忘却かの対象でしかないことを再確認したリースにとって、故郷からの拒絶という衝撃を
和らげるには、
「ゴキブリ」や「暑さ」という西インドの風土を、自分から「苦手になった」
と宣言するしかなかっただろう。亡くなる 5 年前、ドミニカ在住の白人クリオールからの帰郷
の誘いにリースは返信する。
おっしゃるとおり、人は生まれた場所で死ぬべきだと私も思います。
(略)お笑いになる
かもしれませんが、すっかり島のゴキブリや虫の類が苦手になってしまいました。自分で
もおかしなことだと思いますが、もうずっと前からそうなのです。どんなに島の人々が親
(48)
(
切にしてくれても、ゴキブリに出くわすたびに退治してもらうわけにはいきませんから。
喪失感に苛まれながら故郷との決別を図ったリースだが、決別の要因となった「黒い肌の同
胞」が、本国で直面する問題に無関係を装うこともできなかった。かれらが遠路やって来て、
(46) Rhys, J., Wide Sargasso Sea, Penguin Books, 1984, p. 148.
(47) Rhys, Letters, pp. 28-29.
(48) Paravisini-Gebert, L., ‘Jean Rhys and Phyllis Shand Allfrey: the Story of a Friendship’, in Jean Rhys Review, 9, 1998, p. 12.
44
パブリック・ヒストリー
困難な目に遭う場所がなぜ「ここ」なのか。歴史的な問いが不在のまま「移民に問題あり」と
する世論に抗して、
「自分のこと」から始めた物語にペンを重ねていった。その過程で、リー
ス自身も植民地主義を再発見していっただろう。
「どこか他所へ行けないの」と本国人が発し
た問いにセリーナは答えなかった。答えるべきは誰か。リースは読者を試し続ける。
「植民地主義の再発見」
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