付 編 上宮田海防陣屋の史的背景

付 編
上宮田海防陣屋の史的背景
田邉 悟
彦根藩が三浦半島の、とりわけ南下浦(上宮田村)の海防陣屋に駐在する藩士をおいたのは弘化4
年(1847)にはじまる。
その前年の弘化3年(1846) 5 月 27 日にアメリカ合衆国のジェームズ・ビトル提督の乗ったコロ
ンブス号が浦賀に寄港した。ビトル提督はこの年、東インド艦隊司令長官として2隻の軍艦を率いて
野比村沖に停泊、浦賀奉行所をとおして江戸幕府に通商を申し入れたが受け入れられなかった。この
間、浦賀に約 10 日間停泊した。それはM・C・ペリーが来航する7年も前のことであった。
当時のコロンブス号に関する絵図は、横須賀市走水(1-7)の長塚伝三郎宅に伝えられている。
上宮田村だけに限って、ビトル提督来航以前における海防関係領主の変遷を見ると、会津藩が文化
8年(1811)
6 月からで、そして文政4年(1821) 5 月からは浦賀役知(もとは江戸幕府が重い役人に
給した役俸・役料知をいう)により、天保 14 年(1843) 6 月から川越藩により警備が行われてきた。
また、上述した彦根藩による警備は弘化4年(1847)にはじまり、嘉永6年(1853)までつづき、同年
12 月に彦根藩より萩藩に引き継がれている。萩藩の警備は安政5年(1858)までであった。
その後、熊本藩が安政6年(1859) 2 月から、佐倉藩が文久3年(1863) 6 月から警備にあたり、慶
応3年(1867) 3 月、江川太郎左衛門に引き継がれた。
したがって、江川太郎左衛門は上宮田はもとより、相州海防の最後の担当者であった。
このように、海防担当者は「村」が藩領となるので、各藩による支配のしかたにもそれぞれの違い
が見られる。 したがって、以上のような海防警備による各藩の支配は約半世紀にわたって続いた。
(以上『神奈川県史』資料編(10)
・近世(7)による。)
約 50 年におよぶ海防陣屋の経営は平穏無事なものではなく、通常の警備以外にも天災もあり、人災
もあった。
その具体的な例を見ると、「此年又安政の大震あり三年上宮田陣営の火災あり尋で八月大風雨あり
しきり
災害 荐 りに至る…中略…安政二年の震災には上宮田陣営潰家二十八棟半潰大破損十二棟門柵悉皆倒
土手石垣壊七十間」と見える。(傍点筆者による)
また、「此復旧工事は安政二年十二月概ね成就したり又其翌年正月上宮田火災は一小事なれども其
類焼の分は船倉四棟大砲小早船三隻御船倉押送船一隻船道具八隻分(錠十九挺残)器械固屋二棟其他
前段に記する所の大砲小銃数十挺なり…中略…又八月の大風雨は一大災害たり上宮田陣営破壊ハ棟塀
三十八間」
(傍点筆者)と見える。
(以上、『防長回天史』上巻・相州警護<其ニ>による。
・末松謙澄著『防長回天史』上巻・柏書房・1967)。
以上のことから具体的にわかるように、上宮田海防陣屋及びその周辺は、天災・人災などにより大
きく変化してきたことが伺える。
したがって、今回発掘調査が実施された土塁をはじめとする周囲の状況も、最初に陣屋が建設され
た時代から変化してきていることをも考慮されなければならないであろう。
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なお、山口県立の文書館に残る「相州上宮田御陣屋略図」などの史料によると(図 10)
、
総面積 9,780 坪(32,274 ㎡)、建物総坪数 1,058 坪、陣屋内外棟数 37 棟、
内訳・長屋 24 棟(60 間から 20 間)、御番所4ヶ所、土蔵4ヶ所、砲術稽古場 1 ヶ所、
弓稽古場1ヶ所、遠見御番所 1 ヶ所、鉄砲細工場1ヶ所、作業細工場 1 ヶ所、
編成・総奉行(益田右衛門之助親施)、組頭(粟屋帯刀)、番頭 300 名)
、
預地奉行(木原源右衛門)、本締役以下先鋒隊(900 名位)などと見える。
以上のことから、萩藩支配の頃には 900 人もの人達が海防警備にあたっていたことがわかる。
図 10 相州上宮田(海防)御陣屋略図(原図は山口県立文書館所蔵)
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