26-1 birumasennki 5

~白谷よもやま話~
【 第26回 ビルマ戦記 我が体験そのままに
】その5
藤城兵次 其の頃、マンダレーは敵が占領していた。我が軍の一部は王城に集結し戦ったが、何分、敵は飛行機、
戦車、大砲にて王城内を攻撃し、我が方には小銃、機関銃しかない。全部玉砕としか思えなかったが、
十日余り反攻し夜に乗じて脱出した。
敵は南下し、メークテ―ラ、タヂと重要な地点を攻撃し、トングーに近いピンマナ迄進撃してきた。
我が軍はこれに対し反攻したが、武器の格段の違いで如何ともする事が出来ない。このため戦闘部隊で
ない貨物廠、兵器廠、自動車廠の補給廠までが、業務を半減して戦闘しなければならなくなり、比較的
健康な者が戦闘に出陣する事になった。
自分は其の一人となり、貨物廠から七十名がトングー防衛隊を編成して、トングー市北方約三里の地
点で抵抗線を張った。戦車の進撃を止めるため、地雷又は戦車壕を掘り、敵が来るのを今か今かと待ち
受けた。
二十日の夕方、敵が、ピンマナを突破したニュースが入る。各駅の附近で我が軍は反攻するものの、
豆小銃ではどうする事も出来ず、退却するより致し方ない。戦闘部隊は、敵の半分も武器があれば敵を
撃退するのは安い事だが、と武器の無いのを残念がっていた。日本軍誰もが同じ思いだ。
二十一日の朝、敵の戦車部隊はトングーに進撃して来た。自分等は待ち構えてはいたものの小銃だ。
戦車に対しては何の効力も無い。犬死も同様なので、山中のジャングルへ一時身を隠す準備をした。
其の時、ゴウゴウとエンジンの音高く戦車隊が現れた。自分等は山中に飛び込み、戦車砲の目標より
逃れた。五分も経たないうち、ドドン ドドンと戦車から発砲して来た。トングーの城内らしい。
三十分、一時間と敵戦車は発砲を止めない。敵飛行機は五機にて旋回している。我が軍は、地上より
頭を出す事すら出来ない。しかし勇敢な兵隊もいて、彼等に対し何の効も無い重機関銃にて、城内より
戦車目がけ反攻していた。
六時間位続いたろうか。其の後は重機の音も全く聞こえなかった。敵弾にやられたのか、逃げたのか、
逃げるにしても昼間は地上を歩く事は不可能だ。我々はジャングルの中で夕方を待ち、山近い部落に入
った。部落民の同情で夕食を馳走になり、又、我々もこれから戦闘しなければならないことから、装具
を軽くする為に毛布又は石鹸を彼等に渡し、銃を肩に、背のうを背にして現地人と別れ、シッタン河を
渡って山に入る。
此の頃より雨期に入り、雨は度々降り出した。雨は降るが山中に家はなく、夜は携帯天幕一枚を屋根
として身体を横にしなければならない。我々は、何も知らない戦闘部隊の苦労を此れから味わうことに
なった。
トングーからモ―ケ、ケマビューに通ずる道路があり、坂は急だが自動車の往複は出来る。
此の道路は「モーケ鉱山」があることから出来たらしい。トングーからモーケまで路標が建てられ哩数
が記してある。モーケ迄九十七哩。モーケからケマピウ迄は十五哩ある。ケマピウはサルイン河の上流
で、シャム国に渡る渡河点である。サルイン河の下流がモールメンで、これから海に通じている。
我々は、三日目にモーケ街道七哩地点に出て、夜十時頃、十哩地点から西方約二哩の地点で敵の進撃
を待ち受けた。今は忠部隊の指揮下に入り、前線ばかりだ。
其の頃、敵は三哩及至四哩の所迄来ていた。我が軍は八哩から十二哩位の間に集結していて、部隊の
数も多いが、兵隊の顔色は栄養不良の様になり、歩行していてもブラリブラリしている。見るも気の毒
に思える兵隊が、半数位居るように見えた。
ビルマ戦記 その5
【 第26回 ビルマ戦記 我が体験そのままに
】その5
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三日程して、八哩迄後退し、待機の姿勢で五日居た。
此の山には、四哩から十一哩の間に軍需品が集積してあり、各倉庫には食糧、被服、薬物が山と積まれ
ていた。我々は、貨物廠であったため、空倉庫に入り雨をしのぐ事が出来た。
敵の砲弾は、七哩地点で破裂していた。我が軍の機関銃の音は、五哩の地点らしい。敵、味方は四哩
と五哩だ。山中は水の便が悪く、飯を炊くに不便をし、遠く迄行かないと水は無い。千メートルも二千
メートルも遠くに行き、飯を炊く事も少なくない。
八哩に行ったとき、飯炊きに行った兵隊が其の場で飯盒炊爨を
していて敵機に発見され、機銃掃射を受けて二名負傷して来た。
煙の出ない様に火を焚かねばならない。戦地の飯炊きは随分難しい。
配属部隊は悪い方に何時も回される。我々は六哩に行き、明日は
四哩の最前線に出よ、との命令だ。六哩迄来た時、敵の砲弾は
頭上を越している。味方の小銃の音も聞こえる近さだ。
戦闘部隊でない我々を、前線に送って働かす様な部隊は、其の
内容が知れる。明日は四哩。命の無いのは覚悟していた。
ジャングル戦とは言っても、小銃が火砲と対闘できる道理が無い。
其の夜の内に命令が変わり、二十哩地点東方約四千メートルの五二○高地を占領すべし、との命令だ。
何故変わったかと言えば、忠部隊と祭部隊が十五日位で前線の交代をしていた。今晩から忠は祭と交代
゛ し、祭が前線部隊となった。其れなら忠の配属である我々は、後方に退がるのが当たり前なのに、又、
五二○高地を占領しろ、とはどういうことかと思った。我々の部隊は又、忠の配属を解かれ、祭の配属
となった。
此の様に最後迄、忠と祭の交代する度に、我々の部隊は前線にばかり働かされた。敵はビルマにいる
日本軍の各部隊の強弱を知っていた。祭とか忠は、敵兵にナメラレている最弱の部隊だ。祭とは、大阪
編成の部隊である。
敵は日に増して進撃の度が早い。二十哩の東側方面から敵に道路を占領されては、部隊は退がるにも
退がれなくなる。其の敵の進撃を止める為に、我々に二十哩東方五二○高地を占領させたのだ。
暗い山道を、転んでは起き、転んでは起きしながら、五二○高地迄来た。敵は未だ姿を見せない。
次の山も、又其の次の山もと、峰続きの各所に友軍がいた。少しの間、此の地点なら夜も安眠できると、
ホッとした気軽い思いがした。
昼夜共警戒は厳重にしていたが、一日六時間位の勤務で後は休む事ができた。山中に草葺の屋を建て、
雨をしのぐ所は出来た。水は谷間迄行かないと無い。飯炊きも楽では無い。毎日の食事は、米と塩より
他に無い。野菜を食べたいが、草は山に無い。たまに、コンニャク草の様な草があり、其の茎を食べる
位だ。トカゲは見つけ次第食べた。
砲声は遠くで聞こえるばかり。夜は静かで鳥の鳴く声も良く聞こえる。「カンカン」とも「チンチン」
ともつかぬ鐘を叩く様な鳴き声が、夜の静けさの中で物淋しく思わせた。遠くの谷間附近から、何やら
「ヒュウヒュウ」と何物とも知れぬ声がする。其れにも余り気も留めず、朝まで寝入る事が出来た。
翌日、兵隊が一人で何か食べ物はないかと水汲みの反対側の谷間に下ったが、暫くして帰って来た。
少し青い顔をしていた様だ。「蛇がいた」と自分に伝えた。「どんな蛇か」と聞くと、「此の位」と
両手で輪を描く。太い。「見に行こう」「嫌だ」致し方がない。「オイ、誰か手榴弾を持って蛇を見に
行かないか」他の者はちょっと考えたらしい。「オイ、行かないか」と再度言った時、二人が「行こう」
と返事をした。
小銃を持ってと仕度をしていると、向こうから竹槍を一本持って二人来た。「行こう」「よし行こう」
ビルマ戦記 その5
【 第26回 ビルマ戦記 我が体験そのままに
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と六名が集まった。谷へ谷へと下り竹槍で前方を見易い様にして、一足二足と進む。
二百メートル位下がった時、「居るぞ」と小さい声で呼んだ。山と山との低い所に、太いのがとぐろ
を巻いている。谷間から約二メートル位高い所に、巨木が倒れていた。其の上に乗って見ると、真下が
蛇でよく見える。蛇は眠っている。錦蛇で斑点があり、胴の太さは、直径六、七寸位あり、大人の大腿
部以上の太さがある。長さは解らないが、太さで知るべしだ。
他の兵が、やろうかと手榴弾を見せた。止せと手で制した。音のしないよう、
上に登って帰りかけた。やろうという人、やめろという人と出来たが、結局止めにした。
夜中に「ヒュウヒュウ」と低い声のするのは、蛇の呼吸らしい。そうだとすれば、他に未だ二匹や
三匹は居る。此の蛇を殺したら他の蛇が夜中に出て来るようでは、我々がどんなにされるか知れず、
其れを恐れて止めにした。
山中はマラリヤの蚊が多く、一個小隊で五、六名熱が出て任務が出来ない。一個小隊は三十名位で、
二個分隊に分かれ、一個分隊が十五名だ。自分は分隊長をしていた。
其の内、糧末の手力搬送をしろとの命令で、小隊で十名行く事になり、自分が健康であるため、先頭
になり出発した。米の搬送区域は、十二哩及至十四哩地点の倉庫から十八哩迄運搬する事で、一人の量
は二十キログラムだ。大して重い荷物ではないが、道が長いため大変な仕事だ。飛行機の銃撃もあり、
又、砲弾の飛んで来る所だ。敵観測機は絶えず上空を旋回して我が軍の行動を見ている。観測機により、
゛ 敵の砲弾は要所要所の道路上に落下する。通行するにも危険な事甚だしいが、任務では致し方ない。
自分は、米の運搬を続行した。
五日間、昼間に運搬したが敵飛行機に見つかるため、夜間に変更した。敵は、夜も発砲を止めない。
昼間、弾着が測定してあるから、路上ばかりに落下する。今は、十哩は敵の占領地だ。
十五哩迄来ると、友軍の自動荷車十二台、牛車三十台位が移動して来た。其の時、遠くで「ポンポン」
と発砲する音がした。自分等が地面に腹這いしたのと同時に、五十メートル前方の路上で破裂し、牛車
一台、兵三名がやられた。一名は即死、二名重傷。牛車部隊は騒ぎ出したが、後の祭り。モタモタして
いれば、全部やられる。急いで移動した。
自分等は弾着の場を通らなければ仕事はできないため、二百メートル位は走る。暗い夜の道で、更に
硝煙のため路上は見にくいが、今砲弾を受けた三名は其の儘路上に転がっている。其の場を通り抜け、
十四哩へと米を取りに行く。帰りは重い米を背にしているが、其の場は走らなければならない。発砲し
てから二十分位は間がある。其の時を見て通り抜けないと、オダブツになるのは必定だ。
ビルマ戦記 その5
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自分等は二百メートル程手前で土手に隠れ、発砲するのを待った。十分位過ぎた時、遠くで「ポンポ
ン」と発砲する音が聞こえる。今に落下だと思うと「ピューン」と空気を破る音と共に「ドカンドカン」
と五、六発。さあ行こうと、米を背に歩き、硝煙の臭いがしてきた時、走ろうと五、六名が走った。
丁度、弾着の所迄来た時、「ポンポン」と発砲の音。いけないと思ったが、致し方ない。走るより弾の
方が早い。六名は路側のジャグルの中に入り、地面にぴったり腹を付け、両手で耳を覆った。何とも知
れない音と共に弾片は八方に散乱し、「プン」と音を立て耳をかすめた。
生きていた、と自分の身体を疑う位だ。米は背にある。路上に出ようとしても蔓ばかりで出られない。
ようやく路上に出て走った。
六名の者が一人の死傷もなく助かった。全く不思議な位だ。我々の出合った前の砲弾にやられたのか、
又、二名が転がっていた。歩くことが出来ないらしく、口はやられてないと見え、「お願いです。お願
いです」と呼んでいたが自分等は他人どころではない。今、自分が生か死かの境道だ。戦友なら兎も角、
他の部隊の事迄は出来ない。六名は走り続け、安全地まで来た。一往復毎が、三途の河原を渡るか渡ら
ぬかの生死の境だが、止める訳にいかず、十日余り続けた。
敵は十二哩、十四哩と近づいて食糧搬送も不可能となり、我々は五二○高地に帰って来た。小隊に
来てみれば、病人は多くなり、戦闘の出来る兵は僅かになっていた。
命令が変わり、又、四キロ程西方七○○高地を占領し、敵の陣との対立が近くなった。迫撃砲の弾が
近くに落下する。飯盒炊爨は煙に注意しなければならない。
十日位同じ様な日を過ごした後、祭の一個大隊と交代して、我々は又、西方三キロ位の
八○○高地を死守せよ、との命令を受け、此の地を出発しようと準備した時、祭の兵隊が
一個大隊も来て飯炊きを始めた。其の煙が樹木の上に流れた処を敵観測機に見られ、迫撃砲がいやと言
う程飛んで来た。背嚢を背に出発時だから不意をつかれた。自分は支度が出来なかった為、壕の中に
飛び込んだ。他の者も壕に入る者、地に伏せる者もあったが、破片の飛散の為、一名が、顔一面ゴマを
振り撒いた様になった。見つかったら最後、一刻も早く移動しないと危ない。我々は急いで山を下った。
小隊長付の天野曹長がマラリヤにかかり、八○○高地に移動できず、途中で谷間にへたばってしまっ
た。小隊の長は自分になった。其の日、山の麓に露営し、翌日八○○高地に登った。山は高く道は無い。
一時間位で峰に登った。
小隊全員で九名しかいない。兎も角壕を掘らないと間に合わず、半数で壕を掘り、半数が見張りを
していた。一名、腹痛のため岩の角で横になっていた。此の山に敵が来たなら退却するにも出来ないと
゛ 見て、悪いとは承知で、山を下った麓にて抵抗しようと考え、途中の谷間で病気になった小隊長の処に
連絡に行くとき、山の上で三発の銃声がした。変だと思い、急いで行き、帰って来た時は、一名の犠牲
者を出していた。四名にて担ぎ山を下って来た。未だ意識は明瞭だ。腹痛で岩の隅に横になった兵隊が、
後方からゴルカ兵に一発にてやられた。右腰部より左側腹部に貫通銃創にて立ち上がるとバッタリ倒れ
て「ゴルカ」と言ったらしい。他の兵が駆けつけた時は「ゴルカ」は逃げた後で、見当たらない。二発
敵方に発砲した其の銃声を、自分は聞いた訳だ。其の兵は二時間後、戦死した。
自分の独断で山の登り口迄兵隊を下げ、全部で八名が、此の陣地を守る事を中隊本部に通知したので、
小人数では危険と、病気の治った兵を五名追加してよこした。計十三名となり、少し気強い感じがした。
夕食は、昼の残りが少し有ったのでそれを食べ、土の上に横になる。十時頃から雨が降り出したが、天
幕を張る場所が無い。一寸先も見えないため、致し方なく天幕を頭上から被り、寝ることもできず夜を
明かす。
早朝、飯炊きに五、六名出て、百メートル位離れた処で火を炊き、飯盒を掛けた時、山上から敵の機
銃の掃射を受けたため飯盒を捨てて飛び込んできた。敵は三方の山に陣地を敷いたらしい。我々は包囲
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された訳だ。
暫くすると、敵兵三十名及至四十名が、軽機自動小銃にて我が陣地に近づき、バラバラと無茶苦茶に
発砲してきたが、自分等は一発も発砲せず隠れていた。敵は軽機を先頭に八○○高地に登って来た。
二十メートル位近づいた時、未だ自分等が隠れている事を知らない。三名見えて来た。敵は後から
続いて来る。もう致し方が無い。これまでだ。「撃て」我が方は一斉に発砲した。敵は不意打ちに合い、
軽機を投げ捨てて逃げたが、三十メートル位退ると我が方に全弾を投げ掛けて来た。敵味方の戦闘約三
十分、敵は退る様子が無い。小人数と見たからだ。最後と頼む手榴弾を投げた。手榴弾には敵も恐れた
か退却した。遠くから発砲するのみ。次第に発砲も消えた。しかし、追撃は小部隊では不可能だ。
其の日は食事はなく、一日、谷の窪みに入り敵の行動を見ていた。敵輸送機は食糧を投下している。
其れから見ても我々は袋の鼠だ。
朝の戦闘にて軽機一銃取ったが弾薬もなく、分解して捨て、手榴弾十発は一個小隊の兵に渡したので、
使用した手榴弾の補充は出来た。
…続く
イラワジ河
昭和19年2月上旬
バンコック(タイ国)発
昭和19年3月9日
マンダレー着
゛
昭和19年12月16日
マンダレー発
昭和20年2月21日
トングー着
●キャウセ
●ミツタ
サルウィン河
シッタン河
●ケマピー
●モーチー
●ペグー●バァン
●マルタバン
●モールメン
●ムードン
●タンビュザヤト
(タイ王国)
トングー周辺転戦
泰緬鉄道
●カーンチャナブリ
●バンボン