熊本県はアーチ式 橋のメッカと呼ばれる。 説によれば、江 時代までに

【ページ公開⽇:2009年6⽉5⽇】
・こちらのページに掲載している写真は全てイメージです。現地へ来訪される時期や、当⽇の天候等によって景観は異なります。
・掲載の事実考証(料⾦、開催期間等含む)については公開⽇時点の情報となりますのでその後、変更されている可能性があります。あらかじめご了承くださ
い。
熊本県はアーチ式⽯橋のメッカと呼ばれる。⼀説によれば、江
⼾時代までに掛けられた同⽅式の⽯橋のうち、約4割が熊本に
集中しているという。その熊本の⽯橋の特⻑を⼀⾔で表すな
ら、質実剛健。華美な装飾を廃し、必要な機能を追及したその
建築様式は、他県の橋とは⼀線を画す。なかには、装飾のみな
らず、⼿すりや欄⼲すらないものも多いという。
熊本独特のこの⽯橋建築様式には理由がある。江⼾時代、熊本
では地元住⺠に対する藩からの公的な資⾦援助がほとんどな
かった。このため、地元の惣庄屋(そうじょうや)や商⼈たち
は⾃らの財を投げ打ち、地元⺠の労⼒奉仕を募って橋を建設し
たという。少ない建設資⾦を有効に使うため、当然余分な装飾
は省かれた。この結果、熊本の⽯橋は、独⾃の機能美を持つこ
とになったのである。つまり、質実剛健と評されるその建築様
式は、貧しい村落の住⺠たちの知恵と努⼒の賜物なのである。
いまも橋を⾒つめる布⽥保之助の銅像。江⼾時代の熊本はこうした篤農家
を多く輩出した。
その熊本の⽯橋のなかでも全国的に有名なのが『通潤橋』だ。名称から想像できるように、⽔を引くために作られた橋である。
その昔、『通潤橋』が架かる⽩⽷⼤地は、⽔の便が悪く、農業⽤⽔どころか⽇々の飲み⽔にすら事⽋くほどだった。そこで⽴ち
上がったのが、この地域に隣接する⽮部郷の惣庄屋・布⽥保之助(ふたやすのすけ)である。保之助は、物⼼が付き始めた10代
の頃から、彼の住む「轟川渓⾕をはさんだ対岸に流れる笹原川から何とか⽔を引くことはできないか」と考えていた。その頃か
ら既に、渓⾕を跨ぐ巨⼤な⽔道橋を構想していたという。しかし、保之助が完成した『通潤橋』と対⾯したのは、それから40年
近く経ってからのことだった。
通潤橋には、実はモデルとなった橋が存在する。下益城郡美⾥町にある『雄⻲滝橋』
だ。『雄⻲滝橋』もまた、近隣の開⽥のために作られたアーチ型⽔路橋で、建設から
190年以上経た現在も⽔路としての機能を果たしている。橋を通る⽔路は⽯で作られ、
漏⽔を防ぐため塩を混ぜた漆喰が塗り込められている。この技術は通潤橋を建設にも採
⽤されている。
『雄⻲滝橋』の⼯事を担当したのは⼋代の⽯⼯(いしく)・岩永三五郎である。肥後の
⽯⼯には現在の⼋代市東陽町を拠点とする『種⼭⽯⼯』と、それ以前から活躍していた
『仁平⽯⼯』と呼ばれる2つのグループがあった。仁平⽯⼯のルーツは近江(滋賀県)
にあり、加藤清正が熊本城を築城する際に呼び寄せたと⾔われている。三五郎は種⼭⽯
⼯に属していたが、後に両グループの垣根を越えて⽯⼯たちの伝説的存在となったとい
う。
『雄⻲滝橋』の落成の際、当時17歳だった保之助は三五郎と直接会い、「いつか⾃分が
惣庄屋になったら必ず⽮部郷にもこの橋を架けてほしい」と約束を交わしたと伝えられ
ている。それから35年後、ようやく『通潤橋』の建設が始まった。当時、保之助は52
通潤橋の⼿本となった⽔路橋「雄⻲滝
橋」。現在も⽔路としての役割を果たして
いる。
歳。そして、保之助と三五郎との約束を果たしたのは、三五郎の甥にあたる種⼭⽯⼯の
宇市、丈⼋、甚平らだったという。遠い昔に交わされた約束が、世代を超えて受け継が
れてようやく実現されようとしていた。
橋の建設は⼀筋縄ではいかなかった。まず、保之助が考えていた
『通潤橋』は⼤きすぎた。そのままの⾼さで橋を架けたのでは規模
が⼤きすぎて、技術的にも経済的にも難しい。そこで、⾼さをある
程度低くし、さらにサイフォンの原理を応⽤して、⼀度⽔路橋まで
右:巨⼤な橋の重量を⽀え
るために、熊本城の「武者
返し」を模して組まれた橋
脚部の⽯組み。
降りた⽔を対岸の台地まで引き上げる⽅式を採⽤した。
橋を低くしたといえ、『通潤橋』は全⻑75.6m⾼さ20.2mという巨
⼤な⽯造りの橋である。これだけの建造物の⾃重を⽀えるために
は、堅牢な脚部が不可⽋だった。そこで丈⼋たちが⽬を付けたの
が、仁平⽯⼯たちが作ったと⾔われる熊本城の『武者返し』だっ
た。
『武者返し』とは、築城の名⼿と称された熊本城主・加藤清正が編
み出したと⾔われる⽯垣の建築法。種⼭⽯⼯らは、『武者返し』が
重たい天守閣を弱い地盤で⽀えるために使わざるを得なかった⽯積
み技術であることを⾒抜き、この難⼯事に採⽤した。仁平⽯⼯たち
が清正に呼ばれて肥後の地に⾜を踏み⼊れたのは、その250年前。
連綿と受け継がれてきた⽯⼯たちの技が、流派を超えて融合し、壮
⼤な⽔道橋として結晶したのだ。
それから1年と8ヶ⽉後、橋は⾒事完成した。以来150年、『通潤
橋』は現役の⽔路として近隣の⽥を潤し続けている。今ではすっか
り観光の⽬⽟として定着したダイナミックな放⽔も、保之助や丈⼋
たちが採⽤した⽅式ならではの景観だ。かつては、飲み⽔にも事⽋
く⼟地であった⽩⽷⼤地に⽔道橋を建設し、緑の⽔⽥を拓いた保之
助と⽯⼯たち。導⽔管から放たれた⽔のアーチが⻘空へと広がる⾵
景に⾔葉を失う観光客の姿を⾒て、きっと彼らも微笑んでいるに違
いない。
※通潤橋の放⽔は常時ではありません。放⽔⽇時等の詳細は公式サイトにてご確
認ください。
(取材協⼒:⼭都町役場 商⼯観光課)
下:⼀枚⼀枚の⽥に⽔をた
たえて⽥植えを待つばかり
の、通潤橋近くの棚⽥。