帝国日本における植民地人の語り方

論文要旨
帝国日本における植民地人の語り方
―1940年代「大東亜文学者大会」を中心にー
申 知瑛(津田塾大学非常勤講師、一橋大学大学院博士課程)
韓国には100万名を越える外国人労働者がいるといわれている。そのような現象と共に、「多
文化」という用語はよく使われるようになっている。しかし、外国人や他民族の集団を「分類・
統合」するための「管制多文化政策」は、むしろ彼らに対する差別と同化政策を「多文化」とい
う名前で隠蔽し、移住民の間に葛藤を増幅させる恐れもある。実際、このような文化主義的「分
類・同化」政策は長い歴史を持っているともいえる。1940年代初頭、朝鮮が植民地化されるとと
もに帝国日本下の一地方として「分類・同化」された時、帝国日本が打ち出したのがまさに「差
別なき多文化」、つまり「大東亜共栄圏」という弁明であった。名目だけの「差別なき多文化」
というのは、被植民者の内部に、直接的な暴力より複雑な葛藤と分裂をもたらした。
要するに、支配権力が「平等」の名を掲げて近づいてくるとき植民地の人々の間にはどのよう
な揺れが発生するのか、さらに、このような状況に置かれているさまざまな植民地の人々の連帯
というのはいかに可能になるのか、これがこの論文の問いである。韓国人が忘却してしまった「他
者」としての経験を歴史の中から汲み上げ、現在の韓国に存在する他者との葛藤と「抑圧」の再
生産を解決する道を模索したい。
朝鮮で他者との接触が本格的に起こった時期は、近代啓蒙期と1937年以後だと思われる。近代
啓蒙期の接触が持つ意味は、「人種展示」において明らかにあらわれている。1903年に大阪で開
催された博覧会で、日本は「学術人類館」を設置する。文明化された日本の姿を誇示するために、
東アジアの各民族を「分類・移動・展示」したのである。「学術人類館」は、朝鮮人や中国人な
どから批判を受け、廃止された。このように日本帝国主義の暴力的な差別に抵抗したという点に
おいては、植民地の人々は声をひとつにしていた。
反面、1940年代初頭、植民地政策は「差別(異化)」による方法から「分類・包摂(同化)」
による方法へと変化された。「平等」の論理を表に出して植民地を帝国日本に包摂する政策のな
かで、植民地の人々は、帝国日本に抵抗するよりは、帝国の論理を内面化していく傾向にあった。
例えば、1942年から1944年まで3次にかけて開かれた大東亜文学者大会では、植民地の文学者
たちはまるで平等な立場で大会に参加するかのように見えたが、彼らは実際は「大東亜(日本)」
を主語に、「大東亜共栄圏の文学/決戦文学」を目的語に、「決議する」を述語にした発言を日
本語で語り続けなければならなかった。あるいは、「他者」の位置から「主体」の位置へと行く
ためには、このような発言をめぐって植民地の人々が競争するしかなかった。
しかし、帝国の主語をめぐる植民地人の切迫した競合は、帝国の主語を完全に模倣することも
できなかったが、それを受動的に反復したのでもなかった。むしろ、朝鮮・台湾・中国・満洲の
文学者たちは、各々が置かれている状況にしたがって「大東亜」という主語を変形させていった。
日本の植民地であったため、朝鮮の文学者たちは「日本代表」として大東亜文学者大会に参加
している。このように「不在」であるほかなかった朝鮮人が自らの発話の位置を確保したのは、
北方地域(中国・満洲・モンゴル)と日本を繋ぐ「通路」であり文化中継地であるという揺らぐ
位置においてであった。兪鎭午の「しかるあいだ、日本代表として発言をした」という言葉は、
「通路」としての朝鮮の位置を考える時に、さまざまな響きをもたらす。大東亜における朝鮮は、
ときに「内鮮一体」という修辞によって日本人として語り、ときに「満鮮一如」という修辞で大
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東亜を語るという、幾重もの演技、修辞、通路の位置にあった。
朝鮮とおなじく「日本代表」として参加した台湾文学者たちは、「大東亜」を「50年に近い」
「五族協和の歴史」を持つ「南方への前進基地」として翻訳し、発話位置を確保する。その際、
「勝れた日本語能力」を持つ朝鮮のイメージは、台湾が追求すべき鏡として、またあるときには
ライバルとして、機能していた。
満洲代表たちは、満洲が「大東亜理念」の起源であり「五族協和」の象徴だと主張していたが、
日本の新聞記者には受け入れられなかったために、それについて不満を見せている。むしろ、満
洲代表たちは若すぎるし「決まり文句」を繰り返しているという批判を受けていた。そのような
状況から脱するために必要だったのが、ロシア人でありながら満洲代表として参加した白髪の
老人「バイコフ」のイメージであった。彼の存在は、大東亜の領域をロシアまで拡張し、その白
髪の容姿が満洲の短い歴史を隠してくれた 。
植民地人が帝国の主語を模倣・占有しようとする身振りは、各植民地の状況によって、その主
語を変形させるものになった。このような帝国の主語の獲得において生じた変形は、植民地人が
帝国日本の秩序では常に他者であること、また帝国の単一な主語は不可能であることを示してく
れる。さらに、主語を模倣しようとした試みは、帝国秩序に包摂されない「残余」を生んでいる。
「残余」の第一の形態は、完全な同化に対する欲望がむしろ帝国秩序に受け入れられないまま
残余となった場合である。朝鮮人・李光洙は帝国の主語を完璧に遂行し、日本人以上に日本人に
なろうとした。しかしこのような彼の行動は、むしろ誇張された演技のように見え、植民者を不
安にさせた。満洲代表の古丁は、満洲が「大東亜」の起源であると何度も強調したが、無視され
た。彼らが帝国の主語や「日本人」を完壁に演じれば演じるほど、彼らの行為は「植民者」と「植
民地人」の間にある位階を露わにするものとなっていった。
「残余」の第二の形態は、自らを、主語を語ることができない病者や田舎者として示す方法で
ある。代表的な例は、薬箱を持ち歩きながら、自らを体が弱い田舎者として位置づける台湾代表・
張文環である。彼の恐れ・病気は、大東亜文学者大会に参加する間、ずっと体調不良だと喘いだ
日本代表の朝鮮人・朴英熙と重なる。「病者になる」あるいは「田舎者になる」という行為から
は、帝国日本の秩序に植民地人が参加するには、「存在」としてではなく「不在」としてしかで
きないのであるということが垣間見える。
「残余」の 第三の形態は、帝国の主語を使おうとするたびに覚える「迷い」である。これは、
帝国日本の秩序を追求しようとするたびに「朝鮮」という言葉の前で迷ってしまう朝鮮人・崔載
瑞の態度に見られる。彼の迷いは、躊躇いながら歩んできた台湾文学の道を看過すれば皇民文学
も不可能だと主張する台湾代表・周金波の姿と重なる。このような迷いや躊躇いは帝国の主語を
発話する植民地の人々の口にこびりつき、帝国の主語が朝鮮や台湾の現実とずれていることを喚
起し、それを語れば語るほど、朝鮮と台湾の主体性と真摯に向き合うようになった。
「残余」の第四の形態は、大東亜文学者大会についての批判を多義的な表現の中に隠すことで
ある。兪鎭午は、大会に参加した以後「扶桑見聞記」を書いた。「扶桑」という言葉には、ユー
トピアという意味と怪物の国という意味が同時にある。張文環は、大会に参加した植民地の人々
の発話がすぐにそのまま記事化されることについて驚きと恐怖を同時に表現した。
このような「残余」が表出した瞬間は、朝鮮の李光洙と満洲の古丁が、台湾の張文環と朝鮮の
朴英熙が、朝鮮の崔載瑞と台湾の周金波が、つまり帝国日本の秩序の外で「他者の瞬間」と「他
者の瞬間」が重なっていった場面である。これは、帝国の主語を獲得しようという欲望が失敗し
たように近代の超克が直面するほかなかった内在的な矛盾が露わになった瞬間であり、「病者に
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なる、田舎者になる」という行為のように反近代への道を垣間見せた瞬間でもある。また「迷い
と躊躇い」のように自分自身が属している民族の主体性と向き合う瞬間であるとともに、「単発
的な不満表出」のように帝国日本の秩序が持つ虚構性を暴くものでもあった。
主体追求の失敗を通じて主体の形式を変形させ、主体化されない残余を通じて別の他者と共鳴
する方法。これは、支配的な権力によって抑圧される状況のなかで、他者は別の他者といかに出
会うことができるのかという問いである。
* 付記1:This work was supported by the National Research Foundation of Korea Grant funded
by the Korean Government[NRF-2010-352-B00003] また、『韓国文学研究』(韓国文学研究所、2011.6)
に掲載された論文「大東亜文学者大会という文法、その変形と残余」を修正・補足したものである。
* 付記2:報告者の日本語を修正してくださった和田圭弘さんに、心から感謝します。
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