総 括 ビールは5千~7千年の歴史を有するが、それは同時に微生物混濁との戦 いの歴史でもあったと思われる。12-13世紀にホップ(学名 Humulus Lupulus, L.)が使われるようになると、ビールの微生物耐久性は飛躍的に向上した。 にもかかわらず、ある種の微生物はビール中で生育することができ、ビー ル業者の悩みの種となっている。これらの微生物はビール混濁菌と呼ばれ 、数種の乳酸菌、数種のグラム陰性菌、および野生酵母からなる。ビール 混濁性乳酸菌にはLactobacillus属菌やPediococcus属菌が含まれ、それらは主 たるビール混濁菌である。これらの乳酸菌はビールを酸っぱくしたり、濁 らせたり、またある菌種は粘性物質を生産したり、ヂアセチルによるバタ ー様臭を発生したりして、ビール品質を著しく低下させる。ビール混濁性 グラム陰性菌においては、かつてはAcetobacter属菌やGluconobacter属菌な どの酢酸菌が有名であったが、醸造技術の進歩に伴いビール中の溶存酸素 量が激減したことにより、これらの好気性菌は姿を消した。しかし一方で 、Pectinatus属菌やMegasphaera cerevisiae菌などの偏性嫌気性グラム陰性菌 がそれらにとって代わった。これらの偏性嫌気性グラム陰性菌は、ビール を混濁させるだけでなく硫化水素等の強い腐卵臭を発生するため、乳酸菌 による汚染よりも深刻な問題を引き起こす。野生酵母は、主に酒場でのビ ール注ぎ口や配管から検出され、瓶・缶ビールからは殆ど検出されない。 野生酵母による汚染は上述のバクテリアほど深刻ではない。 ビール混濁微生物の検出および同定は、ビール品質管理にとって非常に 重要である。今日でも最も汎用されている検出・同定法は昔ながらの培養 法である。この方法では微生物を検出するまでに通常1週間からそれ以上を 必要とする。その結果、微生物検査の結果が出るまでに製品は既に出荷さ れているケースが多い(その意味では微生物検査は品質管理よりも品質保 証として行われている)。それ故に、もっと迅速にビール混濁菌を検出・ 同定する方法が待ち望まれてきた。PCR法は、非常に短時間に微生物の検 出・同定を行うことができるので、非常に有力な手法である。既知のビー ル混濁菌種それぞれに対して特異的なPCRプライマーを、16SリボゾームR NA遺伝子 (16S rDNA) 配列に基づいて設計することにより開発することが できた(第2章)。しかしながら、PCR反応はビール中のポリフェノールな どにより阻害されることがあり得るため、結果が偽陰性となる場合がある 。この問題は、16S rDNA上に存在するほぼ全ての菌種に共通する配列に対 してPCRプライマーを作製し、それを内部陽性標準として菌種特異的プラ イマーと同時に利用することにより解決することができた(第2章)。 主たるビール混濁性乳酸菌であるLactobacillus brevis菌やPediococcus damnosus菌の殆どの菌株はビール中で生育できるが、生育できない菌株も存在 する。そのため、品質保証の観点からビール混濁性株と非混濁性株の判別 が必要となる。ビール混濁性乳酸菌を混濁菌ならしめている最も決定的な 形質は、ビール中にイソα酸として存在するホップ化合物に対する耐性( ホップ耐性)である。ホップ化合物はグラム陽性菌全般の生育を阻害し、 その抗菌メカニズムについて研究がなされた。主要なイソα酸の一種、 trans-isohumuloneについて研究が進められた結果、本化合物はホップ感受 79 総 括 性のLb. brevis菌に対して、細胞内にプロトンを持ち込むのと引換えに細胞 内に存在する陽イオン(Mn2+など)を細胞外に持ち出すことにより、電気 的に中性なイオン交換を行うイオノフォアとして作用することが解明され た(Simpson, 1992)。その結果、細胞膜を隔てた電気化学的プロトン勾配 が打ち消されプロトン駆動力(proton motive force: pmf)が減少し、pmf依 存的な栄養素取り込みが減少する。そのため、細胞は生育阻害もしくは死 に至る。一方で、ホップ耐性についてもLb. brevis菌を用いて分子レベルま で研究が進められた。horAという遺伝子がホップ耐性株Lb. brevis ABBC45 が有するプラスミドpRH45から見つけられた(Samiら, 1997a)。本遺伝子 がコードするタンパク質は乳酸球菌Lactococcus lactis から見出されたATP Binding Cassette (ABC) 型多剤排出ポンプLmrA (van Veenら, 1996) と53%の 相同性を有する。Lb. brevis ABBC45株を段階的に高濃度のイソα酸に馴化 培養するとpRH45の増幅が観察された(Samiら, 1997a)。一方、pRH45を 除去するとホップ耐性は喪失し、さらにエレクトロポレーション法によりp RH45を再導入するとホップ耐性は回復した(第3章、第4章)。ナイシン誘 導性発現システムを用いてLactococcus lactis菌にHorAタンパク質を発現さ せたところ、このタンパク質はATP依存的にイソα酸を細胞膜から細胞外 に排出することによってL. lactis菌にホップ耐性を与えていることが、細胞 、反転膜小胞、精製したHorAを用いて再構成されたプロテオリポソームを 用いた一連の研究から明らかにされた(第5章)。さらにHorAに加えて、 膜結合型プロトンATPアーゼが高発現することによって、イソα酸と同時 に細胞内に侵入したプロトンの排出が促進され、ホップ耐性に寄与してい ることも見出された(第6章)。これらのATP依存的分子に十分なエネルギ ーを供給するため、ホップ耐性株は感受性株より多くのATPを生産できる (Simpson and Fernandez, 1994)。さらには、pmf依存的ホップトランスポ ーターの存在も最近示された(Suzukiら, 2002)。現在までに考えられる Lb. brevis菌のホップ耐性の分子メカニズムを図1に示した。 ホップ耐性メカニズムを解明することにより、ビール混濁性株と非混濁 性株とを迅速に判別する方法を開発することができた。horA遺伝子および その相同遺伝子を検出することができるhorA-PCR法はビール工場における 微生物管理に実用化されている(Samiら, horA陽性となる 1997b)。 Lactobacillus属の菌株の殆ど全てがビール混濁能を有していた。また、菌体 内ATPプールを測定することによりLactobacillus 属菌のビール混濁能を判別 する方法も開発されている(Okazakiら, 1995)。しかしながら、いくつか の菌株は、潜在的にはホップ耐性ながら、準阻害的濃度のホップ化合物に 曝されない限りビール中に生育できないことも観察されている(Simpson ら, 1994)。 Pectinatus属菌およびMegasphaera cerevisiae菌のビール混濁能については 殆ど研究がなされていない。これらの菌種に属する菌株は、今まで報告さ れている限り全てビール混濁能を有することから、ビール業者にとっては 菌種同定だけで十分である。しかしながら、昨今のビール香味の傾向(低 アルコール化、低苦味化)を考慮すると、今まで報告されなかったバクテ 80 総 括 リアが新たにビール混濁を引き起こす危険性も潜在している。今後、特に グラム陰性菌のビール混濁能を研究することにより、この危険性を低減さ せることができるかもしれない。 ホップ感受性株 Hop-H Hop-Mn-Hop 細胞壁 Hop-H 細胞膜 ADP H+ c ADP H+ + Hop- H+ H+ ATP Mn2+ ATP H+ Hop-Mn-Hop ADP H+ ATP Mn2+ ATP ADP Hop-Mn-Hop ATP Hop- + H+ H+ ATP ADP a Hop-H Hop-Mn-Hop Hop-H c H+ c H+ c H+ b Hop-H ホップ耐性株 Hop-H 図1.ホップ耐性メカニズム。 ホップ化合物は分子中のプロトンを細胞内に存 在する陽イオンと交換するイオノフォアとして作用する。ホップ感受性株では、 ホップ化合物(Hop-H)が細胞内に侵入すると、細胞外より高いpHためにホップ 陰イオンとプロトンに解離する。ホップ陰イオンはMn2+などの2価陽イオンと捕捉 し、細胞外に拡散する。イオノフォア作用は、ホップ-金属イオン複合体の拡散と 共に、電気的には中性な陽イオン交換を成立させる。ホップ化合物からのプロト ンの放出は細胞内pHを低下させ、その結果、細胞膜を隔てたプロトン勾配(∆pH )を打ち消し、そのためプロトン駆動力(pmf)も打ち消される。その結果、pmf 依存的な栄養素取り込みも減少する。ホップ耐性株では、ホップ化合物はHorA (a)(Sakamotoら, 2001)および、おそらくpmf依存的な別のトランスポーター (b) (Suzukiら, 2002)によって細胞膜から排出される。さらに、高発現したプロトン ATPアーゼ(c)の働きにより、ホップ化合物から放出されたプロトンが排出される (Sakamotoら, 2002)。 ホップ耐性株ではATP生産量がホップ感受性株より多い (Simpson and Fernandez, 1994)。その他に、細胞壁に存在するガラクトシルグ リセロールテイコ酸(Yasuiら, 1997)や、細胞膜の脂質組成の変化がビール混濁 性乳酸菌のホップ化合物に対するバリアー能を向上させているかもしれない。 81 82
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