科学技術博物館の歴史

博物館学雑誌第 15巻第 1-2 合併号(通巻 18号)
3-19 ページ 1990年 3 月
C 論文〕
科学技術博物館の歴史
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『司
Yuzo
1.
はじめに
橋
雄
立と
Hコ
TAKAHASHI
お乙う。 museum は,ギリシャ語のムゼイオン mouse-
科学技術博物館は今日,国民に対する技術教育の場と
i
o
n![由来し,古代においてそれは音楽・文芸・学芸を
して重要な役割を担っている。科学技術博物館は,ヨ一
つかさどるミューズ神の神殿を意味した。ムゼイオンは,
ロッパ市民社会の産物である。それは科学革命を通じて
今日の博物館よりむしろ大学に似たものであった。アレ
生まれ,産業革命後 l 乙成長したと百われる。その歴史に
キサンドリアのムゼイオンは,特に有名であった。ミュ
ー(1)ー
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s)を
ージアムの語が博物館の意味で用いられるようになった
集めたコレクションから,科学技術の発達史を示す博物
のは, 16世紀のイタリアにおいて(イタリア語で museo)
館へ,さらに科学技術の原理・現状を解説する場へと,
であっ九。
おいて,天然および人工の珍奇なモノ(
.
(
3
)
科学技術博物館は変化してきた。見学者も,特定の少数
から市民さらに一般大衆へと拡大してきた。その中で
3.
人々の科学技術博物館に対する見方も変化してきた。高
前史ー古代から中世までの科学技術博物館
の萌芽
度のテクノロジ一社会である現代において,科学技術博
科学技術博物館の萌芽は,古代ギリシャの神殿やペル
物館の変貌は速い。本稿では,科学技術博物館の起源か
ガモン王・プトレイマス朝エジプト王の宝物庫(キャピ
(
2
)
ら 1980 年代の動向までの歴史を通覧する。
ネット cabinet) に見られる。それはー,自然界や人間の
本稿で“科学技術博物館"と言う場合,その“科学"
造った工芸の世界から珍品を集めたコレクションであっ
はテクノロジーの基礎となる科学を主に意味する:すな
た。珍奇なものは,しばしば魔術的または超自然的(病
わち,自然物でなく人工物に関わることの多い物理・化
気を治すなどの力)を持つとされた。当時にあって科学
学などを意味し,自然誌等は除外して使う。ただし,科
の役割を果していた魔術は,神殿に保存されたのである。
学技術博物館の歴史においてはじめは乙の両者が分離し
中世において乙れらのコレクションを維持したのは,
ていなかったので,その段階までの記述においては“科
キリスト教会であった。ヴェネツィアのサンマルコ寺院
学"は両者を含むとして使う。
科学技術博物館は,西欧的(
は,乙の例である。コレクションには,神聖な器物のほ
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d
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l)なものであ
る。本稿では,欧米の科学技術博物館を主な対象とする。
か旅行者・巡礼・十字軍が外国から持ち帰った珍奇なも
のがはいり,世俗大衆の興味をひきつけた。
現代世界の開発途上国にとって科学技術博物館は,科学
中世最盛期になると,王侯の宝物庫が加わった。フラ
技術を国民民教えかつ近代化モデル・工業化モデルを示
ンスの Charles 5 世(在位 1364年一 1380年)の宝物庫に
す手段として重要である。開発途上国における科学技術
は,豪華にして高価な黄金細工・礼拝器物・羊皮紙の古
博物館建設はそれ自体,技術移転の例として興味深い。
文書・宝石・家具のほかに,アストロラーベ・天球儀
しかし,本稿では,開発途上国の科学技術博物館につい
てくわしく論じない。
・羅針盤などの科学器具が含まれていた。乙れらの宝
物庫から,ルネッサンスの人間中心の科学晴好・審美晴
以下 l 乙述べる科学技術博物館のうち現存のものは,特
好が準備された。ブルコーニュ公 ]ean
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y(1
3
4
0
記なき限りすべて筆者が見学したところである。
年一 1416年)のコレクションは,中世とルネサンスとの
2.
学器械が集められていて,人間の発明と自然を理解する
橋わたしであると見る乙とができる。乙乙 l 乙は時計や科
ミュージアムの由来
まず,ミュージアム museum という語について述べて
長たかはし
連絡先
干 184
乙ととの結びつきに関心があり,単なる好奇心・骨董趣
ゅうぞう
東京農工大学工学部電気工学科
小金井市中町 2
-24-16
-3-
科学技術博物館の歴史(高橋)
おり,客観的・科学的立場からは見ていない。乙の Uni.
味からの脱度が始まっていた。
versalmuseumI r.は,図書館・多国語を印刷できる印刷
4.
ルネサンス期とバロック期のキャビネットー
所・工作所がつく乙とになっていた。彼のプランは広く
科学キャビネットの出現
読まれ,約 100年後に John T
radescant(後出)が自分の
ルネサンス期 I 乙至ると,世界と人閣の発見・理解が大
コレクションのカタログを作ったときもこれに倣った。
いにすすんだ。ルネサンス期・パロック期にあらわれて
Quiccheberg の理想の museum は,
科学技術博物館の初期形態となった科学キャピネットは,
(
4
)
ルネサンスの結果でありかつ原因でもあったと見られる。
ルン公の宝物庫では十分には実現されなかった。 1560年
ミュンヘンのバイエ
頃につくられたカッセル方伯 Wilhelm 4 世のキャピネッ
地理上の発見につれてキャビネットのコレクションも豊
トは, 18世紀のはじめ U niversalmuseum と呼ぶべき内
かになり,自然界と人間の創造物の総体としての世界が
容をそなえるに至った。このキャビネットは,今日の
示されるようになった。そ乙では未だ物の珍奇さが尊重
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sLandesmuseum(へッセン州博物館)の天
され,確固たる配列系統は見られなかった。乙れらのキ
.
(
7
)
文・物理部門となっ九。
ャビネットには,絵画,貨幣,楽器,武器,自動機械,
フィレンツェでは, 1570 年頃に Cosimo
d
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i 1
.
(
8
)
時計,数学・天文学器具,工具,技術模型,動物・植物
世によってキャピネットがつくられ九。メディチ家のも
・鉱物の珍品が並べられた。身分のある人でないと,乙
とで学者・芸術家・職人は保護され, 1657年比はアカデ
れらのキャビネットにははいれなかった。
ミア・デル・チメントが設立された。このキャビネット
16 世紀後半につくられたキャピネットのうちで,ウィ
では,美術とそれ以外の博物コレクションとは分けられ
ーン,インスブルック,ドレスデン,カッセル,ベルリ
ていた。これらのうちの科学器械は 1775年に設立された
ン,プラハの領主およびフィレンツェのメディチ家によ
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l(物理・自然史
(
5
)
ってつくられたものが重要である。プラハのキャピネッ
トは神聖ローマ皇帝 Rudolf 2 世(
J
ohannesKepler の
庇護者であった)によって, 1576 年につくられた。乙乙
キャビネット)を経て, 1929年につくられた Museo
d
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Sto巾 della Scienza( フィレンツェ科学史博物館列乙ひ
きつがれている。
TychoBrahe の
バロック期のうち 1590年から 1670 年までには,私人の
使った器具が含まれていた。乙のキャビネットは三十年
所有になるキャピネットがイタリアのナポリ・ヴェロナ
l 乙は美術・時計のほか数学器具があり,
戦争( 1618年一 1648年)で破壊された。
ミラノのほかレーゲンスプルク・コペンハーゲン・ハ
16世紀 lζ は,コレクションの配列を系統立てようとす
る考えがあらわれた。バイエルン公 l 乙侍医として仕えた
フランドル生まれの Samuel
aQuiccheberg は 1565年
ーレムにつくられた。自然界からの標本のほかに科学・
技術の展示がおさめられたが,乙乙でも見る人の驚異を
さそう珍奇さが重視された。ミラノの Lodovico
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刊の著作において, Universalmuseum を着想した。そ
(1552年一 1633年)が創立した Galleria SeUala
れは理想の museum であって,万有を系統立てて示し次
を展示するだけでなく科学研究の場としても国際的に知
の五つのクラスから成るとされた。
られるようになり,外国から学者を引きつけた。
クラス都市と機械の絵・図・模型
は,モノ
乙れらフィレンツェ・ミラノ・ローマ・ボローニャ等
クラス n: 木・石・金属からつくられた工芸品。
のイタリアのバロック期のキャビネットは科学博物館の
クラス m: 動物・植物・鉱物の標本。
内実をそなえるに至った。本稿では,これらのキャピネ
クラス N: 器具と武器。すなわち,
数学器具,
.
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O
)
2)
ットを科学キャピネットと呼ぶことにする。実験室・工
4) 重いもの
作室・植物園を持つ科学キャビネットもあらわれた。ボ
1) 楽器,
3) 書画用具,
FerdinandoM
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i(1658年一 1730
を持ち上げる装置・泳いだり飛んだりす
ローニャの Luigi
るための装置,
年)がつくったキャビネットは,のちにボローニャ大学
5) 彫刻師・ろくろ師・
金細工師などの道具,
剖用具,
具,
6) 外科および解
7) 狩猟具・園芸用具,
の一部となった。
8) 玩
1683年比は,オクスフォード大学付属の Ashmolean
9) 武器, 10) 珍しい衣服, 1 1)高
Museum(アシュモレアン博物館)が開設された。乙の
い身分をあらわす衣裳。
博物館の起源は 1629 年の John Tradescant のコレクショ
クラス V: 絵画,銅板画,ゴプラン織。
ンにさかのぼる。 Ashmolean
彼のプランでは乙れらの物をあくまで人間の立場で見て
Museum
は,イギリス最
古の科学博物館と見なされており,今日は Museum
-4-
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博物館学雑誌第 15 巻第 1-2 合併号(通巻 18号)
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e(オクスフォード科学史博物館)とな
でにオクスフォードの Ashmolean
っている引乙の博物館の 1682年に建てられた建物は,科
公開されていたが, 1750年代には British Museum のコ
学博物館用につくられたものとして最初である。
レクションが公開されるようになった。
(
l
2
)
5.
純技術博物館の着想
7.
(1561 年一 1626年)は New
Bacon
A t1 antis の中で,職人の訓
練に役立つように発明品を系統立てて並べるコレクショ
は一般人民
純技術博物館の出現一フランス革命と
Conservatoire des ArtsetMetiers
パロック期の理性主義・経験主義と重商主義の精神は,
純粋の技術博物館の着想を生み出した。 Francis
Museum
フランス革命期には技術博物館の考え方は著しく進み,
大きな純技術博物館が初めて作られた。 5.節 l乙見たよう
な教育のための技術博物館という着想を実現したのは,
ンと発明家の像を展示する顕彰ギャラリーについて述べ
フランス草命の生み出した Conservatoire
た。 1648年に Renら Descartes (1596年一 1659年)は科学
Metiers であった。コレクションを大衆 l 乙公開する乙と
の技術的応用を促進するために技術博物館および乙れに
も,フランス革命後に一般化した。
併設される技術学校をつくるべきであると提案した。
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フランス草命における科学政策の傾向は,ニュートン
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d Wilhelm L
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z(1646 年一
流の抽象的数学的な世界観に反対であり,保守的・貴族
1716年)もこれと似た考えを述べた。 1650 年頃には,実
的なアカデミーに反対するものであった。記述的な力学
1671 年には,
際 l 乙物理器械と技術模型を集めたコレクションがリヨン
にあらわれた: N
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rdeServiらre のコレク
・自然誌が,乙れに対置された。乙の力学は,
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t(1713年一 1784年)に則るものである。自然誌に
ションは,時計・水車・ホイスト・巻揚げ機・戦争機械
ついては, 17世紀後半に設立された Jordin
の模型を含んでいた。
庭園)が改組されて, Museumd
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e(自
17 世紀後半には,ロンドンの Royal
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y(1660 年
創立)やパリのアカデミー( 1666年創立)のキャビネッ
トがあらわれた。乙れらは,自然誌に重点を置いていた。
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lSociety のコレクションは,
seumIL 移され,のち
Science
1781 年比 British
Muュ
duR
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i(王室
然誌博物館)となった。そ乙では植物学・動物学・農学
.化学・鉱物学・解剖学が常に実用の見地から扱われ,
また著名な学者の講義が行われて研究の場としての色彩
が強かった。
Museum(ロンドン科学
フランス革命は,技術教育の場として Ecole
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博物館)に移管された。パリ・アカデミーの場合には,
nique と Conservatoire
特許申請された機械の試験をも行っていたので,数多く
んだ。前者は,革命戦争遂行の必要によってつくられた。
の機械や模型を持っていた。パリ・アカデミーのコレク
後者は,上述の 1648年の Descartes の考えと,技術知識
ションは,一般人には公開されていなかった。
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tMètiers の二つを産
をひろめようとする百科全書派一一就中 Diderot-ーの
主張に強く影響された。 Conservatoire
6
.
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18世紀におけるキャビネットからの科学技術
Metiers は, 1794年比パリ l 乙設立され,機械・模型・工
博物館の分離
具そして工芸と手工に関する図面・本を集めた。 1806 年
18世紀の科学技術博物館は, 16世紀・ 17 世紀の骨董趣
以来,ここには技術学校が設けられた。乙の博物館のコ
味から並べられたコレクションとはちがって,科学の精
レクションは,
神に支配されるようになった。それまでのキャビネット
年)が職人の訓練用に集めた機械工具・機械モデル(乙
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eVaucanson(1709 年一 1782
は人聞から見た全世界・万有のスケッテであり,そこで
のコレクションは, 1775 年以来すでに手工職人に公開さ
は美術と自然誌のコレクションが一緒になっていた。 18
れていた)をひきついだ。さらに,パリ・アカデミーの
世紀の科学技術博物館では,乙れらは分離された。たと
機械・モデル・器具キャビネットのコレクションが加わ
えばドレスデンのキャビネットでは,科学コレクション
った。この博物館の規模は大きく,所蔵数は 1818年には
が 1728年にサイエンス・ギャラリーとして分離し,その
3, 279 ,
配列も科学的になった。 18世紀の後半には,自然誌の博
.Newton , N
.J
.Cugnot , J
.M.
cal , Chr.Huygens , 1
物館においても, Li nnらの体系 l乙従って系統立った分類
.Lavoisier
d
eMontgolfier , A.L
が行われるようになった。
ある。 Conservatoire
乙の啓蒙主義の時代には,博物館は伺人にも公開され
るべきであるという考えが強くなった。 18世紀初頭にす
1900年には 15 , 130 であった。ここには,
BI
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-
らのオリジナル器械が
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tMétiers
は,世界で最
初の大きなそして近代的な意味での技術博物館であり,
以後各国でつくられた技術博物館に手本として大きな影
-5-
科学技術博物館の歴史(高橋)
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響を及ぼした。現在乙乙は,
年以後 Gewerbemuseum (実業博物館)があらわれ,工
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tM騁iers(略称 CNAM) の M u
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馥N
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業と工芸に関する展示をした。このように 19 世紀には,
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sTechniques(略称MNT ,日本ではふつう工芸学校
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tM騁iersI l:はじまった近代的
ω
技術博物館がひろまった。
博物館と呼ぶ)と称している。
1821 年には,フランクフルト・アム・マインに Natur­
1778年にオランダのハーレムでは,裕福な織物工業者
である Pieter
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rvand
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rHu
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tによって, T
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M悶um Sen山耐rg (ゼンケンベルク自然博物館~~)
つくられた。乙れは,パリの Musee
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Museum(テイラ一博物館)がつくられた。乙乙は,本
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e(自然誌博物館 fk 匹敵する大きな自然誌博物館
・メタツレ・絵画・図面・古生物学と鉱物の標本・電磁気
であり, Se ockent氾 rgi詑 he Nat町forschende Ge田11詑 haft
学ほか物理機械器具がおさめられている。電磁気学機械
(ゼンベルク自然研究会, 1817 年に Goethe の努力によ
器具のうちでは,この博物館の館長を 1784年以来つとめ
って設立された)が開設したものである。ここでは,見
た Martinus
vanMarum
学者用のコレクションと研究用のコレクションが分かれ
のために John Cuthbertson が
作った巨大な静電まさつ発電機が特に有名である。乙の
ていた。
19世紀はまた,万国博覧会の世紀でもあった。第 1
博物館の建物は,科学博物館用に建てられたものとして
(
1
4
)
AshmoleanMuseumIL.次いで古い。建物と言いコ
ションと言い Teylers
Museum
回万国博覧会を通じて,
M騁iersI 乙次ぐ第 2
は往時のキャビネットの
(
1
5
)
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の近代的技術博物館すなわち Science
Museum(ロンドン科学博物館)が生まれた。産業革命
姿を今日 l 乙伝えている。
の勝利を認う万国産業博覧会 Exhibition
TeyersMuseum のほか,今日のオクスフォードの
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fScience やフィレンツェの
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lNations が,
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傘とガラスでつくられた Crystal P
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e(水晶宮)で行
オランダのライデンの
1851 年にロンドンで開催された。鉄
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eGe詑 hiednis d
e
rNaturweter配 happen
われた乙の博覧会は大成功を収め,以後各国で万博が開
envand
eGeneeskunde “ Museum Boerhaave" (ブ
催されるようになる。万博のにぎわいは,世界市場での
ールハーフェ国立自然科学・医学史博物館, 1928年開館)
各国工業製品の国際競争の反映であった。乙のロンドン
は,科学キャビネットに由来する科学博物館の例である。
万博の展示物をひきついで,“学芸の工業への応用を促
悶jksrrn民団n
SouthK
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ブールハーフェ博物館では,電気物理・光学・天文学・
進し,科学の進歩を説明するため l 乙"
温度測定・低温・化学・自然誌・解剖学・印刷術の展示
Museum(サウスケンジントン博物館)が 1857年比設立
により,オランダ科学の歴史と伝統を知る乙とができる。
された。乙の博物館のコレクションの重点は美術工芸品
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にあったが, 1876 年の特別借入品展示の出品物がコレク
乙れらの科学博物館は,
Métiers や以下 l 乙述べる近代的技術博物館・サイエンス
ションに加わって科学技術部門の核となった。 1883 年以
センターにくらべて,科学のうちのある分野に関心を持
後,
つ比較的少数の人々を見学者としている。
わった。乙の博物館は 1899年比 Victoria
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tMuseum(特許博物館)のコレクションも加
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Museum と改称し, 1909年にその科学技術部門が独立し
8
. 19世紀の科学技術博物館
て Science
フランス革命の思想を準備した百科全書派は,人聞が
持つ知識を分類した。乙の方向 l 乙従って 19世紀の博物館
Museuin
となった。 Science
Museum
は,
その名にサイエンスだけを称しているが,実態としては
側
技術と工業に重点を置いている。
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n(スミ
Museum(国立博物
米国では, 1857年比 Smithsonian
では,専門分野への分化が進み,科学の精神がいっそう
強く支配するようになった。見学者は特別な人ではなく
スソニアン研究機構)に National
公衆であることがふつうとなった。たとえば,ドレスデ
館)がつくられた。 Smithsonian Institution は,イギ
Smithson(1768 年一 1829年)の遺産によ
ンの自然誌キャビネットから, 1857 年に鉱物コレクショ
リス人 James
ンが分離した。乙の時代 l 乙各地につくられたポリテクニ
って設立されたものである。彼は“人知の増大と普及を
ック等の学校には,それぞれの技術教材コレクションが
目的とする Smithsonian Institution をワシントンにつく
そなえられた。パリの COI国rvatoire
d
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tM騁iers
のほか,オクスフォードの Ashmolean
Museum
も教育
のためのコレクションに傾斜した。ドイツ各地では,
1
8
5
0
るために"米国に莫大な遺産を寄贈した。これを承けて,
1846 年に Smithsonian Institution が創立され,物理学
者 Joseph Henry が初代総裁となった。
-6-
Smithsonian
博物館学雑誌第 15 巻第 1-2 合併号(通巻 18号) 3-19 ページ 1990 年 3 月
Institution の National Museum は, 1876年の米国建国
ある鋳物工場主の家民生まれた von Miller は, 1881 年
百年記念フィラデルフィア博覧会の展示物をひきついだ。
の第 l 回パリ電気博覧会を見てそこに示された電気技術
1881 年からは歴史と自然誌のほかに技術と工業もあっか
の人間生活に及ぼす影響に感銘し,翌 1882年の故郷ミュ
うようになり, G.BrownG
oode(1851 年一 1896年)ら
ンへンにおける国際電気博覧会の開催に力を尽した。そ
の努力によって技術・工業部門は充実した。 1908年から
の後彼はパイエルンの水力電気開発に従事し,また 1891
は特許申請用モデ、ルのコレクションをひきついだ。のち
年のフランクフルト・アム・マイン電気博覧会では三相
に自然誌部門と技術史部門とは分離し, 1964年には後者
交流長距離送電デモンストレーションを組織した。乙の
の National
Museumo
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yandTechnology(国立
ょう l 乙 von Miller 自身ドイツ産業革命の担い手のひとり
歴史技術博物館)が開館した。同館は現在は, N
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であった。電気博覧会見学・主催の経験を通じて彼は,
Museumo
fAmericanHis
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y(国立歴史博物館)と称
技術と工業を発展させドイツ国を富ませるには国民一般
しており,技術史を通じて米国社会の歴史を示しているい
に対する技術教育が不可欠である乙とを確信したのであ
9.
技術博物館の完成と参加型展示のはじめーー
を選択した。青少年比科学技術への進路を選ぶきっかけ
Oskar von Miller と Deutsches Museum
となる場を提供する乙との重要性を,
る。彼は博覧会・博物館の体験の中で,自らの生涯の道
vonMiller は体認
20 世紀初頭にミュンへンに出現した Deutsches Mu ・
したと思われる。 Deutsches Museum が開館後 60 年を
seum(正式には Deutsches MuseumvonMeisterwerken
経てなお世界最良の技術博物館とされているのは,創立
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rN
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fundTechnik ,科学と技術の傑作
者 von Miller 自身の人格が技術博物館・博覧会を通じて
のドイツ博物館。日本ではふつうドイツ博物館と呼ぶ〉
形成されたことと無関係ではあるまい。
位。
によって, C
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sA
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tM騁iersIL.はじ
D
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sMuseum を構想するにあたって von M
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sA
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se
tMétiers と South Ken-
まる近代的技術博物館は完成をみた。それは科学技
は,
術史博物館の完成であるとともに,参加型の展示手法の
s
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g
t
o
nM';1 seum を手本とした。しかし,国民のための
はじめでもあった。 Deutsches Museum は,国民の科学
科学技術教育の場という性格を重視した彼は,見学者の
技術教育の場として位置づけられ(乙れは Conservatoire
興味をひくような新しい展示手法.を導入した伊彼は,
d
e
sA
r
t
se
tMétiers 以来の流れにある)
,そのために新
「死んだ」機械を並べて置くだけの展示は専門技術者に
しい展示手法を導入した。見学者が参加するかたちの展
とっては有用であっても,青少年や婦人の興味をひかな
示手法によって,国民教育の場としての科学技術博物館
いと考えた。そこで Deutsches Museum では,見学者が
の使命が十分に達成されるようになったのである。
自分で動かせるモデル・中が見えるように切り開いてあ
まず,
D
e
u
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s
c
h
e
sMuseum
の沿革を見ょう。 1871 年の
る機械・多くのジオラマや説明図が置かれた。乙れらの
ドイツ帝国成立以来,ドイツでは産業革命が進行した。
ディスプレイを可能にする工作室・アトリエ・印刷所も
バイエルンの土木技術者であった Oskar v
onM
i
l
l
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r
常設された。ガイドっき見学も行われるようになった。
(1855年一 1934年)は 1880 年代に,パリの Conservatoire
d
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sA
r
t
se
tMétiers
とロンドンの South
Kensington
Museum(今日の Science Museum)を見て強い印象を
実験講義も行われた。プラネタリウム(乙れも von
M
i
l
l
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r
が発明したものである)や大規模な図書館も併設された。
“タッチ・アンド・トライ"と今日言われるような参加
p
a
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i
c
i
p
a
t
o
r
y)の展示手法は,突に von
受けた。彼は,ドイツの発展と繁栄のために大規模な技
型(
術博物館が必要であると考え,その設立を 1903 年 l 乙呼ぴ
って導入されたものである。年間ほとんど無休館である
かけた。早くも 1906 年には Deutsches Museum の仮展
乙と,勤労者のために夜まで開館した乙と,勤労者・青
示が開設された。 Deutsches Museum の
-7 ー
Miller によ
科学技術博物館の歴史(高橋)
DeutschesMuseumにならってつくられた。乙れは,
型の手法を導入するとともに,科学技術史上の重要な記
も,
念物の実物を展示する乙とに努めた。乙の博物館を“科
1923年 l 乙設立され, 1938年になって開館した。
学および技術の傑作の"
_
t
2
6
)
米国シカゴの Museum
DeutschesMuseum と名づ
o
fS
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eandI
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d
u
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r
y(科
学・工業博物館)は, J
u
l
i
u
sRosenwaldILよって設立さ
けたのは,乙の故である。
技術博物館が国民教育の場として機能するように新し
い展示手法を駆使する Deutsches
れた。彼は家族とともに 1920 年に Deutsches
Museum
の仮展示を訪れて感銘を受け,米国で同じような博物館
Museum例ラき方は,
以後の技術博物館に大きな影響を及ぼした。その後ウィ
をつくろうと考えた。 1893 年のコロンブス記念世界博覧
ーン・プラハ・ストックホルム・シカゴなどにつくられ
会民使われた建物を用いて, Museumo
f S
c
i
e
n
c
e and
た技術史博物館は,みな Deutsches Museum を手本にし
2
t
3
)
Industry は 1933年に部分開館し, 1940 年に全部開館した。
たのである。今日でも技術史博物館をつくろうとすると
技術史博物館として出発した乙の博物館は,その後,次
きには Deutsches Museum が模範とされる。次節で述べ
節で述べるタイプのサイエンスセンターへ変容し,現在
DeutschesMuseum の新
では世界で有名なサイエンスセンターのひとつとなって
る参加型の科学技術博物館も,
(拘
しい手法を学んで成立したと見ることができる。
~"\る。
オーストリア・ハンガリ一二重王国では, 1908年にプ
DeutschesMuseum の直接の影響下につくられたので
ラハに Technisches Museum(技術博物館) , 1909年
にウィーン IL
TechnischesMuseumf
u
r
l
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d
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s
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r
i
eund
はないが,米国デトロイトの隣りのディアボーンにある
Gewerbe(工業と工芸のための技術博物館)が設立され
HenryFordMuseumandG
r
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l
dV
i
l
l
a
g
e(へンリ
た。プラハは Rudolf 2 世のキャビネット以来の伝統を持
- .フォード博物館とグリーンフィールド・ヴィレッジ)
っており,
も重要な技術史博物館である。自動車王 Henry
1772年にはこの地にイエスズ会によって
MuseumMathematicum(数学博物館)が設立された。
プラハの Technisches Museum は今日は Narodni
i
c
k Muzeum(
Tech-
人民技術博物館)と称しており,世界で
ω
有数のアクティブな技術史博物館である。オーストリア
Ford
は,ロンドンの Science Museum を見学し,乙れより良
_
t
2
8
)
い技術博物館をデトロイトにつくろうと考えた。こうし
て 1929年に The
館は今日,
E
d
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nInstitute が設立され,その博物
HenryFordMuseumandG
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dV
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g
e
の科学技術博物館も,大公 Ferdinand 2 世がインスブル
と称している。現在,
ック近くの Ambras 宮殿に 1560年につくったキャビネッ
f
i
e
l
dV il! age は,
HenryFordMuseumandGreenュ
Ford 社・ Ford 財団とは伺の関係もな
ト以来の長い歴史を有する。 1876 年のウィーン世界博覧
く,非営利の博物館として運営されている。乙の博物館
Exner(1840 年一 1931 年)は技術博
では,米国人の歴史と生活が示されている。米国人がひ
会の折に Willhelm
物館をつくる乙とを着想したが,彼の企図はすぐには実
を結ばなかった。 1893年比彼は,小さな Museum
d
e
r
らいてきた文明は,田舎の農場から都会の工場への変化
であった。 Ford にとって, Edison はこの変化を推進した
G
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e
nA
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b
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t(オーストリア
スピリットであった。それゆえ Ford は,乙の博物館に
工作史博物館)の設立に成功した。 Exner の努力によ
Edison の名を冠したのである。
り Technisches
Museumf
u
rGewerbeundI
n
d
u
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e
展示内容をまず Henry
FordMuseum の方ーについて見
は, 1918年に開館した。時は第一次世界大戦によるハプ
ると, Ford 自身の文明観に基づいて交通・農業・製造業
スブルク王朝崩壊の前夜であり,開館 l 乙は盛大なセレモ
の 3 分野に重点が置かれている。 Henry Ford の事跡 l 乙
ニーもなかったと伝えられる。ウィーンのこの技術博物
関する展示のほか,アメリカン・ドリームと呼ぶべき自
館は,王室キャビネットに由来するウィーン・ポリテク
動車文化の歴史が展示されている。鉄道・航空機のコレ
ニックのコレクションやウィーン市内の鉄道博物館・郵
クションも,見ものである。蒸気機関・発電機をはじめ
便博物館・衛生博物館のコレクションを集めてつくられ
とする動力,工作機械,農業機械,米国の各時代のキッ
た。 Technisches
Museumf
u
rGewerbeundI
n
d
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e
チンの比較などがある。電気関係では,照明・通信の展
von
示もある。以上のようなテクノロジー展示のほか,陶器
は Exner という鼓吹者を持っていた点において,
Millr の Deutsches Museum と似ていたし,建設にあた
・ガラスなど工芸品の展示もある。
って Deutsches Museum を参考とした。しかし,規模
間
は Deutsches Museum よりも小さい。
ストックホルムの Techniska
次 l 乙 Greenfield Village の方を見ると,各時代・各地
方の米国の家屋を移設している。 Ford 自身の生家,飛行
Museet(技術博物館)
機の発明者 Wright 兄弟の生家と工場,辞典で知られる
-8 ー
博物館学雑誌第 15 巻第 1-2 合併号(通巻 18号)
3-19 ページ 1990 年 3 月
人である。米国の博物館を訪問すると見学者の大半が白
Webster の家, Firestone の農場,よろず屋から専門店へ
と変遷する田舎の商店,教会,学校,各種工場,製材所
人であってカラードは少ないことに気づくが..ここだけ
がある。農場,製材所,ガラス,間器・織物の工場では,
は,カラードも多い。外国人見学者の数も非常に多い。
それぞれの実演を見せている。プランテーション農場と
AirandSpaceMuseum
奴隷の家もある。乙乙の見ものは,伺といっても,移設
しているが,よく見ると,“カラード飛行士の貢献"・
された Edison のメンローパーク研究所である。
“女性飛行士のはじめ"といった展示があって,人種差
Edison
は米国の宇宙開発の勝利を認歌
別・性差別を非難されないようになっている。乙れは,
は,乙の研究所で白熱電球の開発 l 乙成功したのであ
後述の National
る。
HenryFordMuseumandG
r
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n
f
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l
dVillage の展示
Museumo
fAmericanHistory が少数人
種の生活様式の展示に力を入れているのに通じる配慮で
andSpaceMuseumI r.もこういう一
は,創立者 Ford の文明観 l 乙貫かれており,ふつうの技術
ある。華やかな Air
史博物館一一そ乙では展示品の選択や展示のモチーフは
面があることは,米国社会の現実のひとつとして非常に
エキセントリックでなくニュートラルである乙とを求め
興味深い。
られるーーとは異なる。 Greenfield Village の家屋にし
1
0
.20 世紀における新しい波一一サイエンスセン
ても,各時代・各地方の典型とはいい難い。展示手法に
ついても,
HenryFordMuseum の建物は巨大なホール
ター
であって壁面が少ないので,展示物は説明パネルなしに
以上見てきた科学技術博物館は,科学技術の歴史を展
ただ置かれているという感じがある。乙れらの点につい
示することを目的としている。その後つくられた現代の
て,科学技術史家からの批判が強い。筆者の印象では,
科学技術博物館の大多数は,科学技術史よりも科学技術
図体の大きいものを展示しているのは賢明な行き方だと
の原理あるいは現状と未来を展示することを志向してい
思った。また,乙乙 l 乙は,技術史上の重要な記念物が多
る。これら新しいタイプの博物館は,参加型(
i
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ュ
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e.p
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i
c
i
p
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o
r
y)博物館であって,見学者自身が
数所蔵されているとの乙とである。
さて,乙の博物館が提示する文明観・テクノロジー観
ボタンを押してモデルを動かしたり展示と見学者とが質
は標準的とは言えないにせよ,ここを見た子供たちは,
問・答えをやりとりしたりして,その体験を通じて学ぶ
技術がいかに自分たちの国の歴史を支えてきたか・今後
ようになっている。これらの施設はしばしば,
の自分たちの生活 lζ 技術がいかに重要であるかを知るで
と呼ばれず,
museum
s
c
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ecenter とかscience andt
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l
o
g
y
あろう。それは米国人が身につけなければならない知で
center と呼ばれる。本稿では,こういった参加型の博物
あり、これら子供たちは市民として教育されるわけであ
館を,純粋科学あるいは応用技術のどちらに比重を置い
る。 Henry
FordMuseumandG
r
e
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n
f
i
e
l
dVillage
ているかにかかわらず,一括してサイエンスセンターと
が果
している役割は,重要かつ有効と考えられる伊)
名づける乙とにする。
一国の教育体系の中で,サイエンスセンターは青少年
第二次世界大戦後につくられた科学技術博物館として,
ミラノの Museo
の科学技術教育を受け持つ。個々の学校では設備・教員
N
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a Sci
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z
aed
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aT
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c
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などの限界があって十分な科学技術教育はできないので,
LeonardodaV
i
n
c
i(国立レオナルド・ダ・ピンチ科学
サイエンスセンターの役割は重要である。
技術博物館, 1953 年開館)がある。 San Vittore 修道院
サイエンスセンターという新しい波のはじめは,
。。
D馗ouverte(日本では発明発見館と呼ばれている)であ
る~2)Palais del
aDécouverte の提唱者 Jean P
e
r
r
i
n(ノ
の展示物と,レオナルド・ダ・ピンチの手稿などがある。
総合技術史博物館ではなく個別分野の技術博物館であ
るが,ワシントン DC の National
1
9
3
7
年のパリ世界博覧会のためにつくられた Palais .
del
a
の建物を利用している。ここには,近代技術史について
A
i
r;
a
r
r
lS軋ceMuseum
ーベル賞を受賞した化学者・物理学者)は,乙のサイエ
(国立航空宇宙博物館)も近年つくられた技術史博物館
ンスセンターの目的について次のように述べた。
。。
として有名である。ここでは,初期の航空機からアポロ
我々の第一の目的は,科学がそれによって創造され
計画等までの,航空と宇宙開発の歴史を見ることができ
たと乙ろの基礎研究に見学者を親しませる乙とであ
る。乙の博物館は,映画館とプラネタリウムを持つ大規
る。それは,これら研究に関する重要な実験を毎日
S
m
i
t
h
s
o
n
i
a
nInsuitution 傘下の博物館の中
くりかえし見せる乙とによって行われる。乙乙で実
で最大の見学者数を持っている。一日の見学者は約 5 万
験のレベルを下げずに,しかもそれが多くの人々に
模なもので,
Qd
科学技術博物館の歴史(高橋)
よって近づきやすいような方法がとられなければな
らない。
P
a
l
a
i
sdel
aDécouverte
は,パリ市の中心地域にある
N
a
t
i
o
n
a
lMuseumo
fAmericanHistory がほとんど唯一
(お)
である。 1960 年代以後も,サイエンスセンターはますま
聞
す優勢になっている。
GrandPalais の一角を占めている。組織としてはこれは
北米大陸にあるサイエンスセンターのうちで重要なも
パリ大学に併設されていて,パリ大学学生をデモンスト
のを所在地と設立年とともに示すと,次の通りである伊
レータとして多数のデモンストレーション実験が行われ
-Museumo
fS
c
i
e
n
c
eandIndustry ,シカゴ,前節
邸)
ている。 Palais
del
aDécouverte は,世界各地のサイエ
l 乙述べたように, 1933 年の開館当時は技術史博物
ンスセンターの中で指導的位置を持ち,国際交流の中心
館であった。
-LawrenceH
a
l
lo
fS
c
i
e
n
c
e(ローレンス・サイエ
となっている。
P
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sdel
aDécouverte は,純粋科学の原理を解説
ンスホー Jレ) ,カリフォ Jレニア 1ii/~ ークレイ,
0
9
)
する乙とを目的としており,応用科学・技術・工業を
1
9
5
9
年創立。
-OntarioS
c
i
e
n
c
eC
e
n
t
e
r(オンタリオ・サイエン
扱わない。その後世界各地にあらわれたサイエンスセン
スセンター) ,トロント, 1969年開館"
ターには,科学の応用から工業までを展示するものも多
-B
o
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o
nMuseumo
fS
c
i
e
n
c
e(ポストン科学博物
く,また,それらの原理を解説するよりも現状と未来を
ω
館) ,ボストン, 1947年開館。
示してテクノロジーの勝利を認歌するものもあらわれた。
-FranklinI
n
s
t
i
t
u
t
eS
c
i
e
n
c
eMuseum(フランク
サイエンスセンターでは,実験講義・デモンストレー
ションに重点を置くとともに,児童自身が実験やフィー
リン研究所科学博物館) ,フィラデルフィア,
1
9
3
4
ルドワークをできるように,クラブや友の会が組織され
年開館 (Franklin Institute 自体は1824年設立)。
る。子供たちはしばしば学校からパスを連ねてやって来
乙こは, 1960 年代には Science
る。デモンストレーション講義を派遣する乙ともある。
(科学を教える博物館)と称していた伊
TeachingMuseum
-E
x
p
l
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r
a
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o
r
i
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m(探検館) ,サンフランシスコ,
もっと遠簡の地には,移動巡回展が行く。たとえば,
P
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l
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i
sdel
aDecouverte の移動展示は,南アフリカや南
1969年開館。物理学者 Frank O
ppenheimer(原
アメリカにも行っている。サイエンスセンターでは,理
子爆弾の父 Robert Oppenheimer の弟)の着想で
科の学校教員のトレーニングも行われる。プラネタリウ
つくられた少
ムや映画館を持つのは,サイエンスセンターではふつう
科学技術博物館の完成形態である Deutsches
MUseum
のことである。その他,放送番組を企画したり,科学啓
は,見学者が参加する乙とによって学ぶ“ education
蒙書のフェアを聞いたり,工場見学を主催したり,子供
w
i
t
h
o
u
te
f
f
o
r
t(努力なしに学べる)
のための科学体験キャンプを組織したりする伊
サイエンスセンターは,
第二次世界大戦後,サイエンスセンターは世界の科学
"乙とを標梼した。
DeutschesMuseum の歴史展示
を切りすてて参加型の手法のみを借りてきたと見ること
技術博物館界で特に優勢になった。観光地の中心である
もできる。 Deutsches Museum ほかの科学技術史博物館
ミュンヘン・ロンドン・パリ・ワシントン・プラハなど
では,参加型展示と言っても見学者がボタンを押してモ
の都市民は,大きな科学技術史博物館があって科学技術
デルを動かしたりスライドやテープレコーダをスタートさせ
史上の貴重な記念物を展示し,多くの見学者を集めてい
ることにとどまることが多かった。サイエンスセンターでは
る。それ以外の科学技術博物館はサイエンスセンターへ
参加型展示はもっと進んでおり,その多くにおいては見学
の道を歩んでいるし,それが適当でもある。近代的科学
者の反応がフィードパックされるループーがある。その反
技術博物館は Conservatoire d
e
sA
r
t
se
tMétiers 以来 2
,05)
応は多様であるから,フィードパックのための反応入力
この 2 世紀につくられた科学技術博物館のうち 70% 以上
の反応によって展示も変化するようになっている。この
世紀の歴史を持っているが, 1960年代の推計によれは,
(見学者が選んで押す)も複数用意されており,見学者
が科学技術の歴史をあつかう博物館である一方,新しい
ような展示は,
博物館のうち科学技術史をあつかうものは 30% 程度で残
己学習のための機械であると見ることができる。サイエ
i
n
t
e
r
a
c
t
i
v
e(相互作用型)と呼ばれ,自
凶
りはサ,イエンスセンターである。米国では,サイエンス
ンスセンターの展示は,大フィルムシアター
センターへの志向が非常に強く,大きな科学技術博物館
Omnimax ,マイクロコンピュータ,ホログラム,オー
Imax.
(自然誌を中心とするものを除く)のうちで科学技術の
ディオビジュアル等を駆使してますますモダンになって
SmithsonianInstitution の
いる。その結果,サイエンスセンターはただの wan-
歴史をあつかうと乙ろは,
-10-
博物館学雑誌第 15 巻第 1-2 合併号(通巻 18号)
3-19 ページ 1990 年 3 月
d
e
r
l
a
n
d(不思議の国)に堕ちてしまうという批判がある。
逆にサイエンスセンター側からは,“従来の博物館では
開発途上国におけるサイエンスセンターについて
見学者が自分の知らないカルチャーについて知識を得た
し述べておこう。これらの国々では,国民一般が科学j
が,新しいサイエンスセンターでは自分自身を発見する
術にふれるほとんど唯一の場が科学技術博物館である(
のだ"という考え方( Exploratorium のキュレータ Ev­
で,サイエンスセンターの設立が切望されている。科E
e
l
y
nShawlとよる)が出されている伊モノ( o
b
j
e
c
t)
者・技術者の養成が焦眉の課題である開発途上国では,
を中心とする場であるはずの博物館にとって,乙の見解
サイエンスセンターは青少年の興味を科学技術に向け 4
は博物館を根底から覆す転換であろう。
と期待される。エジプト・インド・シンガポールなど i
科学技術史博物館からサイエンスセンターへの流れに
工業化をめざしてサイエンスセンターの設立に力を注 L
はいくつかの理由が考えられる。科学技術が発達して広
でいる。国土の全部を少数のサイエンスセンターでカ/
範囲・多岐にわたってくると,ひとつぬ博物館で(それ
ーするために,車載移動展示を工夫したり,中央レベ J
がいかに広大なスペースをもっていても)科学技術の全
・地方レベル・村レベルの 3 階層から成る博物館ネッ i
分野の原理を解説し・歴史をたどり・現状を紹介するの
ワークが構成されたりする。サイエンスセンターを建書
は無理になる。当然,分野なり時間軸上で受け持つ対象
するには莫大な資金が必要であり,開発途上国に対す Z
を特定することになるであろう。また,科学技術博物館
先進工業国および UNESCO 等の国際機関の援助が望司
を新設しようとしても,歴史上の記念物はもはや入手し
れる ρ
にくいという困難もある。サイエンスセンターへの流れ
の最大の理由は,人々が持つ科学技術観の変化であろう。
1 1.科学技術博物館の今後一一第二の新しい波の
可能性
科学技術が万能であることを人々が信じるようになると,
逆に科学技術は人々にとってあって当然になってくる。
以上見たように,
C
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n
s
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e
sArtse
tM騁ier:
そうすると,姿勢をあらため科学技術のなりたちから説
にはじまる近代的科学技術博物館は Deutsches
きおこす必要はなく,科学技術を遊びとしてさりげなく
によって完成し,
Museun
P
a
l
a
i
sdel
aD馗ouverteによってサイ
提供する方が喜ばれる。見学者対象としてサイエンスセ
エンスセンターという草新の波がおきた。科学技術博牧
ンターでは,市民よりも大衆を想定すると考えられる。
館(サイエンスセンターを含む)は今後どのような変事
サイエンスセンターの流れは,大衆社会への流れである
の道をたどるであろうか。米国 Smithsonian
と見ることができる。
の Museum
o
fAmeri
CanHistory
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とパリの La
V
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.
:
l
acité は,新しい道の可能性を示しているように思わホ
現代においては,工業界がサイエンスセンターの後援
をしている乙とが多い。大企業はしばしば,科学技術史
る。その道は,前者においては科学技術と社会との相亙
博物館・サイエンスセンターにおけるモダンな特別展示
関係・相E作用(
の企画者・協力者である。
nogy) をテーマとした展示であり,後者においては現在
s
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li
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no
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c
eandt
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h
および未来のテクノロジーの勝利を認歌するテクノロジ
企業の設立になる博物館も重要である。乙れらの博物
館は,その企業の歴史などを中心にして宣伝するものと,
ーディスプレイとでも呼ぶべき展示である。どちらの道
狭く母体企業にとらわれる乙となくサイエンスセンター
も,モノを展示するという博物館本来の基本からはずれ
の性格を持つものとがある。どちらにせよ,現代の企業
る傾向にある。乙のふたつの道が,かつてのサイエンス
が設立する博物館は,パプリシティ手段として十分ペイ
センターのように世界中の科学技術博物館をおおう大き
すると考えられる。企業の設立したサイエンスセンター
な波になるかどうか,興味深いと乙ろである。本節では
Museum o
fG
l
a
s
s(コ
これら 2 ケ所を見学した印象に基づ、いて,第二の新しレ
ーニング・ガラス博物館,所在地米国コーニング)が知
波の可能性を検討する。乙乙では,筆者の主観が前節ま
られている。これは,この会社の 100 年を記念してつく
J46)ra= ..,L A.,.,.. .J..ー
られた。現代社会におい L は巨大企業が覇権を制してお
でよりも多くはいることになる。
としては, Corning 社の Corning
り,巨大多国籍企業ひとつは中ぐらいの国家をしのぐ強
(1)科学技術と社会との関係を展示する
Smithsonian Institution の National Museum
大な財政力を持つと言われている。その割には企業立の
of American History
本格的な科学技術博物館は少ないが,今後は増加すると
期待される。
科学技術を社会から切り離して科学技術だけの発達史
-11-
科学技術博物館の歴史(高橋)
-原理・現状・未来を展示するととに対する批判がある。
乙の博物館のいまひとつの特徴は,多人種国家として
これらの批判は,近年の米国科学史界における科学技術
の米国の構成( c
o
n
s
t
i
t
u
t
i
o
n)を見学者に示している点
の社会史・制度史( s
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lh
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y/
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にあると思われる。土着民・移民・黒人らの歴史と生活
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y/e
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fs
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c
h
n
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l
o
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y)への
や,参政権の変遺をテーマとする展示は,この例である。
関心の増大 lとともなって強くなってきた。そ乙ではしば
米国が犯した差別や蛮行までが大がかりな展示で示され
しば科学技術博物館(サイエンスセンターを含む)の展
示が,テクノロジーユートピア主義(
る。たとえば,奴隷制度,アメリカンインデグアン・日
t
e
c
h
n
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l
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g
yu
t
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p
i
-
系人等への圧迫などの展示である。乙のような展示を不
anism) ・テクノロジ一決定論( t
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g
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-
断 l乙くりかえして米国が多人種国家であることの問題を
ism) ・進歩のイデオロギー( i
d
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g
yo
fp
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g
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e
s
s)
確認しないと,米国民の統合は成り立って行かないので
等々を意味するとして非難される伊これらの非難は,た
あろう。
しかに当たっていると思われる。 Conservatoire d
e
sA
r
t
s
乙れらふたつの特徴を持つ乙の博物館は,米国とその
e
tMétiers 以来の科学技術史博物館は,科学技術の発展
社会の特質をよくあらわしている。乙の技術博物館が技
を善とし,その発展を鼓吹してきた。 Oskar v
onM
i
l
l
e
r
術と社会との関係をとりあつかおうとするのは,自然な ζ
の Deutsches Museum はこの精神 l 乙染め上げられていた
からこそ,人々をひきつけたと言って良い。 Jean
とである。技術と歴史との結びつきは技術と社会との結
P
e
r
r
i
n
びつきでもあるし,科学技術の発達はしばしば差別を拡
の Palais d
el
aD
e
c
o
u
v
e
r
t
eにおいては,科学の中立性・
大する(社会における変化のしわ寄せはいつも弱者に行
進歩の史観はすでに自明のこととされ,表立って強調さ
く)からである。 1988年 10月現在では,“ Science ,
れることはない。その後のサイエンスセンターがおしな
Power , andConf
1
ic
t"と題した展示があって化学薬品
べてサイエンスユートピア/テクノロジーユートピアの
の悪影響や知能テストの施行が生み出した差別をとりあ
考えに基づいていることは,ほとんど疑う余地がない。
つかっており,環境問題に関する展示もある。そこでは,
科学技術史家からの非難が当たっているとしても,科
技術と社会との相互関係や現代社会における科学技術の
学技術博物館で科学技術と社会との関係を展示すること
影響を示すだけでなく,見学者に乙れらの点について考
が可能か・また適当かは,別の問題であると思われる?)
えてもらおうとする。展示はそこでは,ディスプレイと
N
a
t
i
o
n
a
lMuseumo
fAmericanHistory が近年乙の種の
言うよりもメッセージ(問題提起)である。
展示 l 乙力を入れているのには,乙の National Museum
技術と社会との関係についてのメッセージの例として,
あるいは米国に固有の理由があると考えられる。以下
1990年開設予定の展示“コンピュータ・エージ"につい
乙の博物館の現状を紹介することからはじめる?)
て述べよう。この展示の前半では,通信とコンピュータ
N
a
t
i
o
n
a
lMuseumo
fAmericanHistory は,植民・聞
が別々に時の流れに従って示される:電気通信の方は電
拓・独立以来の米国社会の歴史を技術の発達・工業化の
信からはじまって電話・無線・放送と 11頂次発展し社会の
過程を通じて示す博物館である。展示スペースの約半分
ありょうを変えてきたが,計算機の科学・技術の方は社
は技術に関するものであり,そのとりあつかっている分
会の中で小さい存在でしかなかった。第二次大戦後に通
野は,米国の産業革命・動力・交通・土木・電気・海運
信とコンピュータとは結びつき,以後社会民著しい影響
・農業・物理・コンピュータ(準備中)・医学・繊維・
を及ぼすようになる。展示の後半では,現代のコンピュ
核分裂・印制・写真などである。他方,純技術ではない
ータが市民生活とどう関係しているかが,いくつかの実
展示テーマは次の通りである:独立革命中の国旗,独立
例で示されている。自動車を個人が購入するとき,ボデ
革命後の市民生活,土着民・各国からの移民とその生活
ィカラー・種々のオプションを指定して発注し,工場の
様式,黒人の生活の変選(農場奴隷から工場労働者へ) ,
ラインで指定通りに組み立てられ,支払いはクレジット
黒人・婦人・青年の参政権獲得史,歴代大統領婦人,楽
から引き落とされる一一
器,郵便と切手,ニュース報道の歴
乙れらの諸段階でコンビュー
nL
博物館学雑誌第 15巻第 1-2 合併号(通巻 18号)
3-19 ページ 1990年 3 月
うというわけである。乙のようなコンピュータ社会の現
的にとりあげる乙とは,可能であろうか。科学技術博物
実は,貧富・老若男女・教養の程度・白人かカラードか
館にとって,社会で論争されているテーマを適切・公平
等々を問わず,どの市民にもふりかかってくる(現に,
にとりあげる乙とができるであろうか。ホットな論争テ
この博物館の所在地ワシントン DC の地下鉄の切符販売
ーマは避けるのが,無難ではあるまいか。 National
機・精算機はコンピュータを使っているから,見学者に
seumo
fAmericanHistory では,自国の恥部をあからさ
Muュ
とってコンピュータによる支配は身近な問題である)。
まに暴く展示をしばしば行っている。乙れは,米国民の
科学技術は決して無色中立ではなく社会の弱者にしばし
統合のために必要であるにしてもやはり,勇気あること
ば損害を与えるが,その反面,科学技術は大衆一般に同
である。他の国では,このようなことは稀であろう。科
ーの影響を与える乙とがある。“コンピュータ・エージ
学技術と社会との関係を考えさせるメッセージを送るこ
S
m
i
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s
o
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i
a
nInstitution の National Museumo
f
"展示は乙の面,すなわち“コンピュータの前の平等"
とは,
とでも呼ぶべき側面について問いかけるのであろう。
AmericanH
i
s
t
o
r
yにしてはじめて可能であると言えよう。
いずれにせよ,この博物館が志向している道は困難に満
さて,現代社会は工業社会であり,科学技術によって
ちているであろう。
支えられている。現代の科学技術博物館にとって,科学
技術と社会との相互関係を示す乙とが重要な使命である
(
2
)
のは,自明のように見える。それでは,乙の National
パリ市内東北部のかつて屠殺場があったラ・ピレット
Museumo
fAmericanHistory の行き方は,今後世界中
地区 l 乙,文化都市公園がつくられつつある。乙の公園は
にひろまって一般化するであろうか。それとも,乙の新
LaVillette と呼ばれ,総敷地が 50 万平方メートルあり,
しい傾向は特殊に米国の技術博物館にとどまるであろう
技術博物館・大イベントホール・劇場・コンサートホー
L
.
a Villette の la c
i
t
か。科学技術博物館が科学技術と社会との関係について
ル・美術展示場等を持つ巨大な複合体である。そのうち,
展示するのは,可能なことであろうか(あるいは真の意
技術博物館 La
味において必要かつ現実的なことであろうか)。本稿で
と工業の町,通称 la
は乙の問いに直接答えることはできないが,関連するい
l
acité は,
くつかの点を次に指摘する。
なディスプレイセンターである。そ乙では科学技術の歴
C
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t d
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tdel
'
l
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r
i
e(科学
c
i
t )は 4 万平方メートルを占める。
トップテクノロジーの現状と未来を示す巨大
a) 米国では,生活が科学技術に支えられているとい
史や原理を解説することはなく,ひたすら現代の技術と
うことを,農民から都市生活者までの老若男女すべてが
工業のすばらしさがイメージとして与えられ,特に工業
認めていると思われるり長い歴史の伝統を持つヨーロ
の重要性が強調される。 la cité はその基本コンセプトか
ッパ諸国や発展途上国では,それぞれに米国とは異な
ら展示の手法まで非常に新しいものであって,いま世界
る科学技術観を持つ.。科学技術と社会との関係を考える
中の科学技術博物館界の話題となっている。
問
乙とが必要だとするモチベーションは,米国で最もー強い
であろう。
l
acité の基本構想は,
1979 年にパリ第六大学教授
MauriceL騅yによってまとめられた。開館は 1986年で,
b) 多人種からなる米国民を統合するには,自動車社
Lévy が初代館長となった。構想当初 l 乙は科学技術の歴史
会やコンピュータ社会を例にとって,科学技術が皮膚の
を展示する乙とにも重点が置かれていたが,その後工業
色やサブカルチャーの如何にかかわらず同じ作用をおよ
界からのテコ入れもあって工業への比重が増し,歴史を
ぼすのだということを示すのは必要である。乙のような
あつかう乙とはなくなった。
必要性は,他の国ではほとんどないであろう。
c
i
t
g駮de
1989年における la cité の内容を,紹介しよう。 la
c) 米国の現実として,歴史は白人の歴史であり,博
物館を訪れる人のうち圧倒的多数がホワイトである。“コ
の建物も暫新であり,隣には巨大な球形映像ホール la
(直径36 メートル,スクリーン面積 1 , 000平方メートル,
ンピュータ・エージ"展示は,カラードに支持されるで
360 人収容)がある。 la
あろうか。その支持を云々する以前に,実際問題として
3 万平方メートル)のほか, .広大な特別展示スペース(
N
a
t
i
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a
lMuseumo
fAmericanH
is
t
o
r
y1 乙はカラードは
万平方メートル) ,プラネタリウム,映画館,小劇場が
少数しか来ないであろう。科学技術博物館は白人のため
ある。さらに, inventorium と呼ばれる子供プレイルー
にあるという現実は,変わるであろうか。
d) 国公立の博物館で化学薬品の害や環境問題を大々
c
i
t
e1[. は常設展示 explora (面積
1
ムと, médiathèque と呼ばれる大きな図書館がある。常
設展示 explora は 4 つのいわば学際的なテーマを持って
-13 ー
科学技術博物館の歴史(高橋)
c) 物質
極言すれば,批判なしにテクノロジーを是としてその信
d) 言葉とコミュニケーション。展
奉者となることが,見学者に期待されるわけだ。 la c
i
t
いる: a) 地球から宇宙へ,
・材料とその利用,
b) 生命の探検,
示は“すぐわかる"乙とがモットーとされ,説明を書い
を見た青少年は自然にテクノロジーの将来を信じるであ
たラベルよりもオーディオビジュアルが多用されている。
ろうし,その多くは自分もテクノロジーを担う人になり
情報は乙乙では,説明・解釈として提供されるのではな
たいと思うに違いない。外国人見学者であれば,フラン
く,イメー?として植えつけられる。コンピュータを見
ス工業のすばらしさとその今後の成功を確信する乙とだ
学者に操作させるようにしたディスプレイも多い。 la
ろう。 la cité の企図の底には,フランス(科学技術の中
cité は図書館も含めて,夜は 8 時か 9 時まで開館じてい
心国で、あったと自負している)がハイテク競争民生き残
らなければならないがそれが困難であるという危機感が
る。
図書館 médiathèque は la
c
i
t
において,ディスプレイ
あるように思われる。乙の退勢を挽回するには,テクノ
を補完している重要な存在である。 médiathéque は無料
ロジーに対する国民の支持を無条件にとりつけ,青少年
l
acite のディスプレイ入場料は 30 フラン/約
を科学技術の分野に吸い寄せることが必要である。それ
700 円,子供等の割引で23 フラン/約540 円である)。乙
が la cité のねらいであろう。多くの外国人観光客(先進
である(
の図書館は,一般図書室・児童図書室・専門図書室から
国から開発途上国まで)を集める乙とも,乙の戦略の一
成る。一般図書室では,多数の科学・技術・工業の雑誌
環と見る乙とができる。たとえば,フランスの工業の優
書籍があり,書架と机を分離することなく読書室風に配
越をブラック・アメリカの人々に見せる乙とは,旧宗主
置している。乙乙では,老若男女さまざまな人々が自由
国フランスにとって必須である。フランス・ハイテクを
民本を取り出して読みふけっている。生徒から大人まで,
先進国民示す乙とは,市場獲得のためにも国際政治面か
c
i
t には,乙うして国家の威信がか
熱心にノートをとっている人も多い。人々は la cite のデ
らも重要である。 la
ィスプレイでオーディオビジュアルとして受けたイメー
かっている。 La Villette は,ポンピドゥー・センターと
ジを乙の médiathをque で反すうし,触発された関心から
同じく,ナショナル・プレスティジの産物と見ることが
自分で知識を求めて学習しているのであろう。乙のよう
できる。
さて la cité の行き方は,世界中に広まって科学技術博
に médiathèque は la cite の展示を補完しており,その役
割は重要にして有効であると思われる。見学者が展示か
物館の新しい波となるであろうか。 la cité が提供するイ
ら受けた印象 l 乙圧倒されてしまうだけでなく,テクノロ
メージの内容は結局のところテクノロジ一信仰であり,
ジーについて自ら何か学ぼうとするならば,大成功であ
その意味では科学技術万能論に根ざす従来のサイエンス
る。それは,一般に博物館見学の望ましいかたちである。
センターと異ならない。 la cité の新しさは,言葉による
l
acité の行き方は新しいだけでなく,このように,一面
解説よりもイメージによる伝達を採用した点にあると思
において科学技術博物館の基本に忠実であると言えよう。
われる。科学・技術・工業を理性でなく感性でとらえさ
子供用プレイルーム inventorium も, I
acité の展示を補
(司
せようとするわけだ。乙れは全く新しい手法ではなく,
完している(ただし, inventorium は有料である。)
mediathêque ・ inventorium を含めて,
に成功していると思われる。一方,
l
acité は十分
l
acité は余りにも斬
近年のサイエンスセンターで試みられていた乙とであり,
l
acité はこの傾向を極端まで押し進めたにすぎない。サ
イエンスセンターは Palais
d
el
aDécouverte で科学を解
新であり,“おもちゃ箱"のようだという批判も強い。
説する乙とからはじまったが,イメー?を中心にするよ
乙れがいったい博物館と言えるのかという声も,博物館
うに変わってきた。その行きついた先が,
専門家にはあるようだ。見学者側からの人気は高く,
l
acité である。
フランスの首都ノ f リに la cité が出現したのは,理由が
1986 年(開館の年)は約 350 万人という多数の見学者を
ある乙とと思われる。パリには,すでに Conserva t
o
ir
e
集めた。外国人の見学者も多い。
d
e
sA
r
t
se
tMetiers と
実際 I r.. la cité を見学すると,テクノロジーの重要性を
Palais
del
aDecouverte があった
ので,新しく技術史博物館とサイエンスセンターーをつく
青少年をはじめとする国民に強く印象づけようとする意
る必要はなかった。しかもこれらはそれぞれの創立時に
気込みが感じられる。 la cité の展示においては,科学技
は世界のどこにもそれまでなかった技術史博物館とサイ
術の原理は説明されず,工業と技術の効用(すばらしさ)
エンスセンターであったから,第三の科学技術博物館は
が“事実"というかたちで圧倒的な規模で示される。そ
世界最初の新しいタイプのものでなければならない。乙
こでは“理解"ではなく“印象"が展示の目的である。
うしてテクノロツーの巨大規模イメーヲディスプレイと
-14-
博物館学雑誌第 15巻第 1-2 合併号(通巻 18号)
も言うべき la ci ぬが誕生したと考えられる。乙れにはも
ちろん,前述のようなフランスのナショナル・プレステ
イジもかかっていた。見学者対象としては Palais
d
el
a
Decouverte の場合よりもさらにひろい大衆一般を想定し
3-19 ぺーツ 1990 年 3 月
侒
) B- 6 。
ω
0-5 。筆者は,乙乙をまだ見学していない 0
(
1
2
) B-6 , 0-5 。
ω
Conservatoire des Ar
t
se
t Métiers の歴史と現
状については,
たであろうし,旧植民地からの外国人も考慮にいれたで
あろう。これら大衆にテクノロジーの解説をする乙とは
(
1
4
) B -6 。
容易でもないし必要でもなく,テクノロジーをイメージ
日
B -9 ,
B ー 10 ,
C-2 , C-3o
T-2 。ドアを押して Teylers Museum の展示室
にはいると,そ乙は現代から隔絶された別世界であ
として植えつけるほうが適切であると考えたのではない
る。窓からの光のもと,ガラスケースの列があって,
か。乙のようにして la cit在は生まれたのではあるまいか。
l
acité は,大衆社会・テクノロジ一社会・テクノロジ
昔の物理器具が眠っている。ほ乙りのにおいのたち
一国際競争の進行にともなってあらわれたサイエンスセ
こめた部屋にひとりいると,めまいのような向酔感
ンターの形態である。ハイテクノロジー競争に勝利しよ
を覚える。乙う書くと余りに“文学的"表現に過ぎ
Museum
うとする先進工業国にとって la cité 型のサイエンスセン
るかも知れない。言葉によって Teylers
ターは賢明な選択であろうし,パリだけでなく各地に第
のすばらしさを表現するのは,ほとんど不可能であ
二・第三の la cité が今後つくられる可能性は十分に考え
る。ガラスケースも見学者のいないほこりだらけの
られる。
展示も,ふつう,博物館の最も悪い古いかたちだと
唾棄される。しかし,
Teylers Museum
は最悪の
博物館ど乙ろか,最良の博物館(少なくともそのひ
12. むすび
とつ)である。 Teylers Museum はいちど見るべ
科学技術博物館は,世界を反映する鏡として時代とと
もに変化し,ときには世界に対する草新のさきがけとも
きと乙ろである。乙こを見ない者たちは,たとえモ
なってきた。科学キャビネットの流れを汲む純粋科学の
ダンな博物館・サイエンスセンターの権威者であっ
博物館・科学技術史博物館・サイエンスセンターの三つ
ても,科学技術博物館を知っているとは言えないで
のタイプは,今後とも残る乙とであろうが,科学技術博
あろう。
物館はさらにどう変貌して行くであろうか。科学技術博
同
物館の歴史と現状を見たときに感じられるのは,テクノ
仰向上。
ロジ一社会・大衆社会の活々たる流れである。乙の流れ
ω
Science Museum
の歴史と現状については,
1 , S- 3 , S-7, W - 4
.0 M - 9
の中で,モノを中心とし科学技術知識をひろめるという
科学技術博物館の基本も変わるのであろうか。これらの
筆者はここを見ていない。
S~
も参照。
ωSmithsonian Institution と National
Museum
o
fAmerican H
i
s
t
o
r
yについては, F-3 , F -
聞に対する決まった答えはないように思われる。
5 , D-5 , M- lO, S-5 , S-6 , V-5 , W
注および文献番号
-2 。特許モデルについては,
(
1
) Fー5。
(
2
)
側
B-6 , D-11,
- 4 , A-5 , D-6 , D-7 , D-8 , D-9 ,
K-2 がある。
B-5 , E-2 ,
D-I0 , D-14 , M-3 , M-5 ,
F ー 1 , F ー 2 ,
B-4 ,
F-4 , M-9 も参照の乙と。
ω
ミュージアムやキャビネットなどの語については
E-2 。位2
(
4
) B- 6 。
(
5
) K -2 。
ω
(
6
) I
n
s
c
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i
p
t
i
o
n
e
sv
e
lt
i
t
u
l
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h
e
a
t
r
i amplissimi ,
München , 1
5
6
5
Z ー 1 ,
Z- 2
。
von Miller の生涯と業績については, A-1 , K 4 , M-5 , M-6 , M ー 7 。
B-6 ,
(
7
)
F-7 。
科学技術博物館の通史としては,
F-5 ,
(
3
)
D-13 ,
Deutches Museum の歴史と現状については, A
M -5
。
Deutches Museum の開館後の大戦聞における各
国の科学技術博物館の動向は, B-7 , D-12 , H
- 1, W -1に報じられている。
ω
筆者は,乙乙をまだ見ていない。(25)
(
8
) B-6 , K-20
K-3 , K-5 , P-2 , P ー 3 。前注も参照。
乙の Technisches
Museum f I
n
d
u
s
t
r
i
e und
Gewerbe の歴史と現状については,
(
9
) 筆者は,乙乙をまだ見学していない。
6 , W ー 5 , W -6 。注側も参照。
-15 ー
E-3 , K -
科学技術博物館の歴史(高橋)
。。筆者は乙乙をまだ見ていない。文献としては, A ー
2 , S-8
。注ω も参照。
m 乙の Museum
によるものである。
制)米国における乙のような技術観は,
o
fScienceand Industry の変遷
は興味深い。残念ながら,筆者はこ乙をまだ見てい
ない。乙の博物館の初期については注ω を参照。サ
イエンスセンターになってからは,
D-2 ,
側
ができる。
(包~
La Villtte および la c
i
t については,文献 M-8 ,
日)
大衆化した現代の科学技術博物館においては,見学
Dー 3 ,
F- 1, M -2 , S ー 40
Henry Ford
Museum and G
r
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n
f
i
e
l
dV
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l
a
g
eIr も見る乙と
N-l ,
Sー7。
V-2 ,
V-3 ,
V-4 がある。
者は均質でなく年齢・知識・意識などまちまちであ
(
2
9
) この博物館およびその批判は, F ー 1 , F-6 , H
-3 , L-l ,
る。それゆえ,ディスプレイ・メッセージには複数
S-7 を見よ。
のチャンネルが必要であり,子供ルーム・予習ディ
側
U-l 。
スプレイのようなものが設けられる乙とがある。
ω
S-6 。乙の博物館の批判としては, M-l 。
文献 V ー 1
ß~
R-l 。
側
1989 年 1 月比訪問したと乙ろ,毎日延べ50 間近くの
デモンストレーション実験が行われていた。 Palais
文献
de l
a Découverte は,高校レベルの実験を見せる
A・
E. P
.Al exander, O
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nAlthin ,“百四 Atomarium o
Museum , Stockholm/L'Atomarium duT
e
k
n
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s
k
a
. 7, (
1
19
5
4
)
Museum , Stockholm" , Museum , Vo
大規模デモンストレーションラボラトリであると言
う乙とができる。
倒
D-3 , M-2 。
伺
0-1 。
(
3
6
) T-lo
(
3
7
) K-l 。
側
167・ 173.
G-3 も参照されたい。
倒筆者は乙乙を見ていない。 E ー l 参照。
同筆者は乙乙を見ていない。文献 0-2 。
ωW-2 。
ω
筆者は乙乙を見ていない。文献 L-2 。
附筆者は乙乙を見ていない。文献 D-l , 0-3 , 0
-4 , S-2
0
4
(
4
)
K-l 。
(
45
) S- 2 。
白日
D-4 。
間
開発途上国等の科学技術博物館(サイエンスセンタ
一)に関しては, B-l , B-2 , B-8 , B-l l,
C-l , G-l , G-2 , H-2 , J - l , M-4 ,
P- 1
0
(
4
8
) B- 3 , F- 1 ,
側
F ー 5 , M-l 。
サイエンスセンター側からも,科学技術が文化・社
会の中で持つ意味を考えるという発言がある(文献
D-3 ,
0
G-3 ,
N-l) 。そういう展示がサイエ
ンスセンターにどういうかたちで実現されるのか,
事実を見ないとわからない。
6
0
) 乙の博物館の現状については文献 S-5 , W-3 が
あるけれども,以下は主として筆者自身の実地調査
3 Hermann Auer, “Musees s
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i
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No.2(
19
5
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sMuseum , Munich" , Museum , Vo1
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20 , No.3(
19
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