『相模人形芝居下中座』を知ろう!

国指定重要無形民俗文化財
三十周年記念
『相模人形芝居下中座』を知ろう!
平成二二年度 小田原シルバー大学
上田 文之
栢沼 千代美
高塩 英芳
福島 與一郎
三上 和展
峰尾 久恵
歴史観光コース
第二学年
二班
序文
相模人形芝居は、歴史の豊富なふるさと小田原で唯一の国指定重要無形民俗文化財であ
る。昭和五五年(一九八〇)に国の指定を受け、
『下中座』がその保存団体とされてから本
年で三十年を迎える。江戸時代中期頃の発生から、幾多の苦難や障害を乗り越えて小竹に
伝承され、今日各地で活発に公演活動をし、着実に無形民俗文化財としての使命を果たし、
県内をはじめ国内においても高い評価を得ている。
その反面、小田原市民の『下中座』への理解が尐なく、平成二二年度小田原シルバー大
学歴史観光コース二年生(二十九名)を対象にアンケートを実施したところ、公演を見た
者四名、聞いた事がある者十四名、全く知らなかった者十一名という結果であった。歴史
に関心の高いはずの同コース学生でさえ、実に四割程度が『相模人形芝居 下中座』を全
く知らなかったと言うことは、誠に残念な結果だったとの思いを強く感じた。
相模人形芝居が国指定三十周年を迎えるこの機会に、私達の班は「守りたい私たちの街
の伝統芸能」としての『相模人形芝居下中座』を自主研究によって学び、知り得たことを
分りやすく、「おだわらの心」を伝える気持ちで、紹介したいと思う。
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【目
次】
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序文 表紙
第一章 相模人形芝居を知る
第 1 節 人形芝居の発生
第 2 節 相模人形芝居の生い立ち
第 3 節 相模人形芝居の特徴
第 4 節 相模人形芝居五座紹介
1) 下中座
2) 林座
3) 長谷座
4) 前鳥座
5) 足柄座
第 5 節 人形芝居と人形浄瑠璃の違い
第二章 人形遣いについて
第 1 節 三人遣い
第 2 節 『三人遣い』の始まり
第 3 節 『三人遣い』の意思疎通
第 4 節 『鉄砲ざし』について
第 5 節 『下中座』に伝わるカシラ
1) 鉄砲ざしカシラ
2) カシラの種類
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第 6 節 下中座に伝わる人形操法の『型』
第三章 『下中座』について
第 1 節 『下中座』のふるさと小竹の歴史
第 2 節 『下中座』の歴史
第 3 節 『下中座』の現況
1) 『下中座』の所在地
2) 『下中座』の特徴
3) 現在の活動状況
第四章 年表
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P13
P13
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むすびにかえて
参考文献
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3
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第一章 相模人形芝居を知る
第1節 人形芝居の発生
歴史上における人形芝居の発生は古く、古代において神への祈りや凶事を払う呪い
の対象として“人形”を使ったことが始まりであると考えられている。我が国の人形
芝居も同様の理由で発生したと考えられている。のちに時代の変化により神事が庶民
の娯楽へと、そして動きを持った“くぐつ=人形芝居”として人々に楽しまれた。
人形芝居が多様な展開を見せたのは中世以降で、十五・十六世紀に浄瑠璃と結びつい
て『人形浄瑠璃』となった。人形を扱う技法もさまざまに分化と進化を繰り返し、江
戸時代後期には文楽などに見られる『三人遣い』の技法も生まれ、時代と共に洗練さ
れて人形芝居の主流となった。一方その土地に土着した娯楽性に満ちた素朴な人形芝
居も各地に多く伝承されていった。相模人形芝居はその一つである。
第2節 相模人形芝居の生い立ち
相模人形芝居は、今から約三〇〇年前の江戸時代中期の頃から明治時代にかけて、
旧相模国内の十五箇所に、淡路や阿波の人形遣いによって人形芝居が伝えられたのが
始まりと伝えられている。相模人形芝居は義太夫節に合わせて人形を操りながら演じ
るもので、江戸時代には近松門左衛門と竹本義太夫らによって発展した『人形芝居』
の一つである。
『相模人形芝居』の名称は、昭和二六年(一九
五一)神奈川県文化財調査専門員として、神奈川
県下の人形芝居を調査していた永田衡吉氏が、三
人遣いの人形が県下でも旧相模国のみに分布し、
首(カシラ)の構造や人形の操法などに類似性を
認識した事から、これらの人形芝居を総称して
『相模人形芝居』と命名したことによるとされて
いる。それまでは当時の人形芝居座名(名称)は、
地域名や指導者名、神社など縁の深いものの名前
を冠するなどして決めていた。
相模人形芝居分布図
第3節 相模人形芝居の特徴
相模人形芝居の特徴は、文楽同様一体の人形を、主遣い、左遣い、足遣いの三人が
協力して息を合わせて操る『三人遣い』と人形のカシラを操作する時に鉄砲を構えた
ような格好になる『鉄砲ざし』、さらに戦前までに江戸・東京から姿を消した江戸・東京
人形浄瑠璃の操法『江戸系人形操法』と呼ばれている独特の操法にある。
なお、以前は「相模人形芝居の特徴は『江戸系鉄砲ざし』だ」と言われてきたが、
その後研究が進み『鉄砲ざし』の操法を遣う鉄砲ざしカシラが、江戸人形浄瑠璃とほ
とんど関係のない西日本の人形芝居でも持っていることがわかり、この説は再考を要
するようになってきたようである。相模人形芝居に『鉄砲ざし』が伝承されているこ
とは特徴の一つではあるが、現在では相模人形芝居だけの特徴とは言い切れなくなっ
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てきている。
一方、相模人形芝居の特徴として、戦前までに消滅してしまった江戸・東京
人形浄瑠璃の遣い方『江戸系人形操法』を今に残す全国唯一のものであり、この操法
が国の指定を受ける基となっている。淡路や阿波、文楽などの人形芝居や人形浄瑠璃
とは違った人形の遣い方、人形の演じる『型』(人形のポーズ、『フリ』ともいう)の
数の多さに特徴があり、そのため、
“美的感覚”も文楽と相模人形芝居とでは異なって
いるのである。
第4節 相模人形芝居五座紹介
相模人形芝居には連合会があり、その事務局は平成二二年度は平塚市教育委員会社会
教育課内(平塚市豊原町二番二十一号)にある。
1) 下中座 小田原市小竹 国指定重要無形民俗文化財 【カシラ保有数九十二個】
江戸時代中頃、関西方面から江戸を目指してきた人形遣いの一行が伝えたと
されて、『小竹の人形』と呼ばれた。天保の改革において、諸芸が禁止された
時でも幕府の目を逃れて横穴墓などで稽古をしたと伝えられている。明治後期
から昭和初期にかけて、東京人形浄瑠璃の人形遣いの西川伊左衛門が住み、下
中座や他の座に人形操法の指導をした。
2) 林座 厚木市林 国指定重要無形民俗文化財 【カシラ保有数五十一個】
始まりははっきりしないが、今から二七〇~八〇年の歴史があると言われる。
江戸時代後期には大坂の有名な人形遣い吉田朝右衛門を師匠に迎え、明治時代
まで指導を仰いだので、『林の人形』・『吉田連』とも呼ばれた。
3) 長谷座 厚木市長谷 国指定重要無形民俗文化財 【カシラ保有数五十六個】
始まりは三〇〇年前に淡路の人形遣いが伝えたものと口伝され、それを裏付
ける淡路人形面が、地元の堰神社に伝わっている。
4) 前鳥座 平塚市四之宮 神奈川県指定無形民俗文化財 【カシラ保有数五十個】
江戸時代中期に始まったと言われ『四之宮人形』と呼ばれた。明治四二年(一
九〇九)の大火でカシラや衣装などを多数焼失したが、関係者は生活を犠牲に
して大坂に出向き、人形を買い求めたと伝えられている。一時中断を余儀なく
された時期もあったが、昭和二七年(一九五二)に復興し、四之宮地区の氏神
でもある前鳥神社にちなみ『前鳥座』と命名された。
5) 足柄座 南足柄市班目 神奈川県指定無形民俗文化財 【カシラ保有数五十個】
江戸時代中頃に阿波の人形遣いによって伝えられ『福沢村班目人形芝居』と
呼ばれた。昭和に入り、一時中断した時期もあったが、有志達により再興され
て、班目人形芝居保存会を経て足柄座となる。カシラに優れた人形細工人とし
て知られる《駿府長兵衛》の銘がある史料価値の高いものがある。
※ 小田原には、田島地区に『田島人形』が存在したが、大正初年までに廃絶してい
る。
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第 5 節 人形芝居と人形浄瑠璃の違い
『人形芝居』は、一つの座で人形を操作する人形遣いだけを抱え、義太夫を語る太夫
や三味線などは座員以外の人、即ち趣味人や義太夫協会に属する者などに出演を依頼
して公演する。下中座をはじめとする相模人形芝居はこの形態をとっている。
『人形芝居』のその多くが非劇場型の土着文化として成長していて、寺社の境内など
で観客を集めて小規模公演を行っている。人形もおおむね人形浄瑠璃よりも小さめに
出来ている。芸風の傾向として人形芝居は浄瑠璃より動きが大きいとされている。
『人形浄瑠璃』は、人形遣いと太夫と三味線の三つのパートを抱えていて、セットで
公演する。この芸態をとっている芸能として著名なところは、人形浄瑠璃文楽座、淡
路人形浄瑠璃、阿波人形浄瑠璃などがある。興行収益を得て座を運営しているところ
もある。大勢の観客を集めて公演する都合などの理由で、人形は人形芝居の人形と比
較すると大型化している。
『文楽』とは、本来人形浄瑠璃を演じる専門の劇場の名前であったが、現在は芸能の
正式名称となる。寛政年間(一七八九~一八〇〇)、淡路出身の植村文楽軒が大坂で開
いた浄瑠璃小屋が母体である。明治五年(一八七二)『文楽座』と称した。
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第二章 人形遣いについて
人形の操法とは、『構え(持ち方・機構)』と『型(様式・技巧)』である。
相模人形芝居は、三人遣いであり、『鉄砲ざし』と『江戸・東京の人形浄瑠璃』の面影
を今に伝えているということが、
『国重要無形民俗文化財』の指定理由になっている。人
形芝居を演ずる時は、基本的な構えを堅持して太夫、義太夫協会関係者の協力を得て義
太夫節の曲節と内容に従って人形を操作する。
第1節
三人遣い
『三人遣い』とは、一体の人形を三人の遣い手によっ
て操作する遣い方である。
① 主遣い(おもづかい)三人の中でリーダー的役割を
担う。カシラを左手で操り、右手で人形の右手を操
る。
主遣いは舞台下駄を履く。これは『てすり』に人形
の足が着くように人形を引き上げるためである。遣い
手の身長により下駄の高さが変わる。
三人遣いの図
主遣いが履く舞台下駄
② 左遣い(ひだりつかい)人形の左手を『差し金(さしがね)』と呼ぶ棒によって右手で
操る。
③ 足遣い(あしづかい)人形の足のカカト、またはコ
ムラに鉄、竹など作った『把手(はしゅ)』をつけ、
それを握って足の動作をつける。女の人形には原則
として足は無く、その着物に裾を手でさばいて歩い
ているように見せる。
女の人形着物の裾部分(足はない)
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第2節
『三人遣い』の始まり
約三〇〇年前、近松門左衛門や竹本義太夫の活躍していた頃は、人形は一人遣いで、
まだ複雑な動きを持っていなかった。徐々に目や口、手などの複雑な動きを持つよう
になり、享保一九年(一七三四)に『芦屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかが
み。通称『葛の葉の子別れ』)』という芝居に、奴さんが二人出てくる。この奴さんは
同じ顔、同じ形の人形で同じフリをする。非常に面白い場面だが、ここで一人遣いで
は遣いきれなくなったようで、当時の人形遣いが工夫してカシラ、左手、足を三人で
遣ったのが三人遣いの始まりだとされている。ただし、この奴のみが三人遣いで、他
の人形は一人遣いであった。
約二四〇~二五〇年前に現在の人形と人形遣いの形態がほぼ出来上がったとされて
いる。この三人遣いの考案により人形に動きがより写実的、ダイナミックになり、人
形芝居の内容と技巧は飛躍的に充実し、十八世紀中頃には全盛期を迎えた。人形芝居
は、大坂、京都、そして江戸へと伝わり、相模人形芝居もこの頃始まったようである。
第3節 『三人遣い』の意思疎通
人形の演技は、様式化された人形独特の動作である型の連続で、流れを作り表現し
ているのである。主遣いが、左遣いと足遣いに指令を送り、人形の動きを制御してい
る。左遣いと足遣いの視線は、人形のカシラから肩にかけて注がれる。主遣いの無言
の指令がここから出ている。このカシラのサインを瞬時に読み取り、すばやい反応が
要求されるのが、左遣いと足遣いなのである。
人形遣いの舞台衣装に『黒衣(くろこ)』がある。黒衣は舞台の上では「無」を意味
する。黒衣を着て、黒い頭巾を頭からスッポリかぶり、黒足袋を履く。この衣装を身
につけて人形を遣うことで、人形の衣装や、人形の動きを鮮明にする事が出来るので
ある。
第4節
『鉄砲ざし』について
下中座鉄砲ざしの構え
(左)文楽式の構え
(右)鉄砲ざしの構え
カシラの『心串(しんぐし)』を持つ主遣いの左腕は、やや肱の部分を下に下げ V 型に
して、更に前腕を前方に傾ける。人形遣いの身体の線より前方に倒れている。文楽式
の操作は、人形を持つ時に人形遣いの胸の線と、人形のカシラの線が平行になるよう
にして、人形の動きを人間らしく、自然に見せるようにしている。
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『鉄砲ざし』の操作は、芝居の見せ場でポーズをとる時に、観客に向かって人形を前
に傾けて構える、その構えの操作する姿が鉄砲を構える姿に酷似している所からこの
名がついた。観客に向かって人形を前に傾けるのは、観客に人形の姿かたちを正面(ま
とも)に見せるための工夫であり、人形の顔が同時にうつむく事を避けるため、カシ
ラに仰度をつくって、カシラの顔面と見物客の目が、正面に向かい合うようにしたも
のである。舞台が野外の小屋掛け式から室内の常設舞台になるにつれ、椅子席から見
る舞台と観客の視線の水平化によって、『鉄砲ざし』は姿を消していった。
白髭神社(小船)の舞台と観客
(屋外舞台の実際)
舞台と客席の水平化の実際
下中座では、現在『鉄砲ざし』での公演は減っているが、座員はこの操作はいつで
も出来るように稽古し準備している。なお、近年各地で行われたカシラなどの学術調
査などによって、
『鉄砲ざし』は、相模人形芝居に限られた操作ではなく、日本各地に
存在している操作であることが明らかになっている。
第 5 節 『下中座』に伝わるカシラ
下中座が現在保有するカシラは九十二個で、相模人形芝居五座の中では最多の座で
ある。素材は木曽檜か桐を用い、眉(上下する眉)、目(ひき目・より目)など動くも
のには『仕掛け』を、また内部には『うなづき糸』を付けるなどして、表情を豊かに
する工夫が施されている。カシラを動かすための操作索には、バネとしてナガスクジ
ラのヒゲが使われている。
●カシラの内部構造
(クジラのヒゲがバネに
使用されている。)
カシラの表面
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1) 鉄砲ざしカシラ
人形全体が前方へ二十~三十五度
傾く時、人形の顔面だけを二十~三十
五度仰向かせ観客の目にまともに見
えるように工夫された特殊カシラで
ある。今あるカシラの中では仰度は十
~十五度のものが多い。カシラを修理
する時は、仰度はそのまま残して補修
する。
(左)文楽系カシラ(右)鉄砲ざしカシラ
2) カシラの種類
カシラの名称は最初に演じた役の名前が付けられている。
○ 文七(ぶんしち) 『雁金文七』の役
中年の武士で、武勇に優れ思慮に富んだ役柄に使う。
○ 鬼一(きいち) 『鬼一法眼三略巻(きいちほうげんさんりゃく
のまき)』の『鬼一』から
老けの立役で、眉は太く目が鋭く苦味のある顔で、腹に一物
のある、古武士の風格を思わせる役。
○ 源太(げんだ) 『ひらがな盛衰記』の『梶原源太』から
典型的な美男子の相で、二枚目に広く用いられる。
○ 婆(ばば)
老女に用いる。時代の婆と世話の婆に分けられる。カシラは
小ぶりである。
時代の婆は、根性のしっかりした役柄が多く、品の良いうち
に勝気な表情をしている。髪も多く白の切髪である。また、世
話の婆は根っからの人の良い役柄で、貧しい家の場合が多いの
で、髪もたいてい胡麻のひっくくりになっている。
○ 老女形(ふけおやま)
20 歳以上の既婚の女性に用いられる。時代・世話物ともに用
いられ、根性の正しい役柄が多い。
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この他に『検非違使(けんぴし)』、
『若男』、
『娘』、
『子役』、
『ヤリ手』、
『ツメ』、変わ
ったカシラでは美しい女性の表情が鬼の顔に変化する『がぶ』、刀で斬られた際にカ
シラが二つに割れる『梨割』などがある。
第 6 節 下中座に伝わる人形操法の『型』
人形操法の型は三十五種類ある。その中に文楽と同じものもあるが、概して文楽よ
り素朴である。
「うちみ」は父母など自分の身内を意味する。
「すがた」は自分を表すなど、それぞ
れの型には意味づけのあるものが多い。自分を表す型も、立っている時は「すがた」
で、座っている時は「そとみ」になる。いずれも守っていかなければならない型であ
る。
これらを繋げる『間』は空白になる。この部分を遣い手が、どのように演じていく
かは遣い手の裁量に任せている。過去から受け継いできた型や演出をただ何も思わず
に真似するのではなく、芝居の内容、役の人柄、想いを考え、感じ、自分の頭や心で
表現するように努めなければならない。
①たちみ………歌舞伎の『見得』
にあたる型
たちみ(その1)
たちみ(その2)
②うしろみ……妙齢(歳の若いヒロイン)の女性のみに遣
われる型。これが出来るようになるのが、女形の遣い手に
とっては憧れである。
うしろみ
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③へいえもん…身分の低い人が、身分の高い人に向
けて。もみ手をしながら、
「これだけ
は申し上げたい」と言う時に遣う。
立役の型だが、女形にも遣うことが
ある(妻が夫にもの申す時)。
へいえもん
④すがた………自分を表すときに遣う(立っている時)。
⑤そとみ………自分を表すときに遣う(座っている時)。
などの型がある。
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第三章 『下中座』について
第 1 節 『下中座』のふるさと小竹の歴史
小竹は、もと足柄下郡下中村に属し、座名の『下中座』は県無形文化財に指定された
昭和二八年(一九五三)当時の村名に由来する。下中村は昭和三〇年(一九五五)前羽
村と合併し橘町となり、さらに昭和四六年(一九七一)小田原市と合併した。
小竹周辺は古くは『中村郷』と呼ばれていた。
現在は足柄上郡中井町と小田原市橘地区に分か
れているが、昔は一つの生活圏であった。
『中村
郷』は古くから開けており、天平七年(七三五)
に書かれた古文書・正倉院御物『相模国封戸租
交易帳(さがみのくにふこそこうえきちょう)』
にすでに「相模中村郷」の記載がある。平安末
期には、桓武平氏の子孫・平宗平が中村郷に居
を構え「中村荘司平宗平」と称した。この中村
中村郷の豪族・中村氏居館跡(小竹)
氏は、応永二三年(一四一六)『上杉禅秀の乱』
で上杉側にたち、敗れるまでこの中村郷を治めた。滅亡後は小田原城主大森氏の支配下
となり、明応四年(一四九五)北条早雲が小田原城を攻め取ってからは、小田原北条氏
の支配下になった。戦国時代も天下統一に向かい、天正一八年(一五九〇)豊臣秀吉が
小田原北条氏を滅ぼすと、小田原北条氏の旧領を徳川家康に与えた。
家康は小田原城と中村郷以西の地五万石を、家
臣・大久保忠世に与えたが、徳川幕府の政策により
一つの土地に同じ領主を長く置くことをせず、小竹
地区も小田原藩領と天領支配とを繰り返し、天領で
あった時期は実に一五〇年余に渡っている。特に人
形芝居が、小竹に誕生し定着したとみられる江戸時
代中期に天領であったことは興味深いことである。
このように小竹地区は中世から近世にかけて経済
的に非常に恵まれていた(中世(十二~十四世紀)
東際寺から見た小竹地区の眺望
の居館跡と思われる溝や、戦国期の備蓄銭が発見さ
れるなど、有力な名主等が存在していたと考えられる。)。また交通の要路にあり天領で
あったこともあって、江戸文化に接する機会も多く、文化的に恵まれた地域であったと
考えられる。
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●下中座の碑……小竹八坂神社にある記念碑で、その
撰文は、劇作家・芸能史家であり、相模人形芝居を世
に紹介した永田衡吉(こうきち)博士である。
「小竹の人形は、二百年の伝統に輝き芸能抜群人和し
て楽し昭和二十八年十二月廿二日県文化財指定下
中座人形座と命名す。いまこれを紀念し先人の遺徳
を追慕して碑を立つ」と記されている。
下中座の碑(小竹八坂神社)
碑文:内山岩太郎元県知事揮毫
第 2 節『下中座』の歴史
民俗芸能が成立するためには、信仰を基盤とする他に、その土地の住民の経済繁栄が
絶対条件であった。特に人形芝居は娯楽性が濃く、信仰性が薄かったので、地方によっ
ては村落の生産性を低下させるという非難をあびて定着を妨げた例が数多くあったよう
である。それにもまして人形・衣装の購入や修理、師匠の招聘(しょうへい)などにも
多額の費用を必要とした。したがって、高度の生産と流通に恵まれた村落か、文化意識
の高い名主や豪農の富裕に依存する村落しか伝承できなかったと考えられている。
『小竹の人形』として江戸時代中期から今に伝わる『相模人形芝居 下中座』の存在
した小竹地区は、肥沃な酒匂川流域の農耕経済と箱根道・大山道の流通経済の繁栄に支
えられていたのである。そして人形芝居の良き理解者として古くから開けていた中村郷
の名主が資金を提供し、地域の農民達も芸の上達をすべく一生懸命に技を磨いたと思わ
れる。相模西部のこの地域は、義太夫節の盛んな地域であったため、在野で義太夫を語
っていた商人や富農が多く存在し、座で太夫・三味線を抱える必要がなかったことが、
現在への伝承に大きく影響していると考えられる。下中座のふるさと・中村郷は、この
ように江戸時代から近世にかけて村人達の生活が、経済的に余裕のある集落であったこ
とが、人形芝居を根付かせた要因であったと考えられる。
江戸時代の天保年間(一八三〇~一八四三)に老
中・水野忠邦は、幕府の財政難と幕府権力強化のた
め『天保の改革』を実施した。これにより奢侈禁止
令(しゃしきんしれい。『倹約令』ともいう)で人
形芝居のような芸能活動なども抑圧されて出来な
くなり、村民は人形を隠したり、家の土蔵や横穴墓
(おうけつぼ)の中に隠れて人形芝居を続けたとい
う村の言い伝えがある。しかし近年この横穴墓は人
形芝居を練習するには高さが一.二メートルしかな
小竹にあるものと同型の
く幅も狭いことから、人形を隠しただけではないか
羽根尾の横穴墓
という説が有力になってきている。また時折「虫干
し」と称しては、こっそりと寺の広間などで演じていたようで、それが見つかって役人
からお小言を頂戴して、時の代官江川太郎左衛門英龍にお詫びするため、わざわざ伊豆
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韮山の代官所まで、村人が出向いたという言い伝えもある。この禁止令が解かれるや小
竹地区の名主や識者が率先して復活に動き、人形遣いが村へも来るようになった。幕末
から明治初期には盛況を呈してきたが、時には後継者に困難をきたして、青年団の者達
に義務的に技能の練習をさせることもあったという。
明治中期になると、村に来た名だたる様々な師匠の系譜が明らかになっているが、そ
の指導と当時の小竹の青年達の人形芝居に対する情熱はすごかったようで、活気も次第
に戻ってきたのである。明治の末期になると、東京の人形浄瑠璃の人形遣いであった西
川伊三子(いさし、のち伊左衛門と改名)夫妻が小竹に定住したことで、『小竹の人形』
は更に活況を呈した。
西川夫妻が仮住まいした小竹・東際寺
西川伊左衛門の墓(東際寺)
この西川伊左衛門は、
『相模人形芝居』及び『下中座』の中興の祖と言われ、伝承の上
で重要な人物だったのである。
『下中座』は、今は途絶えてしまった東京の人形浄瑠璃を
伝える貴重な存在となり、師匠から伝承された技能は江戸時代より引き続き活動を続け
ており、地域の人々に愛されてきたのであるが、昭和三〇年(一九五五)過ぎからの高
度経済成長期になると、社会の急激な変化は若者の人形芝居離れを誘発し、座の将来を
危ぶむ声が聞かれるようになってきたのである。この危機に小田原市などの協力があり、
昭和五〇年(一九七五)頃より様々な後継者育成事業が行われるようになったが、思っ
たように座員は増えず、昭和六〇年(一九八五)頃には座員不足で、他座の協力をあお
いで公演にのぞむようになっていた。
この窮地を救ったのは、昭和六二年(一九八七)に『下中座』を立て直す強力なリー
ダーシップと優秀な運営能力を持った三代目座長・岸忠義氏である。岸氏の市役所勤務
時代の能吏ぶりを見込んで座長就任を懇願した前座長・小澤孝蔵(のりぞう)氏と下中
座後援会長・竹見龍雄氏、そして座員の方々からの強い座長就任要請により、民俗芸能
の座長など全く経験のない岸氏ではあったが、「芸はやらない(人形を遣わない)」とい
う条件で座長に就任した。
座長に就任するや、岸座長は座の持つ問題点を的確に洗い出した。
『下中座』にとって
の急務の仕事として演目の映像保存化などを次々と実行し、伝承環境を着実に整備して
いった。とりわけ後継者育成事業は最も力を注いだ仕事だった。次第にその成果も出て
きて、座員の確保の目途も立ち、「新生・下中座」として発展していくのである。
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第 3 節 『下中座』の現況
1) 『下中座』の所在地
下中座は元来常設の公演施設を持っておらず、
小竹地区の寺社の境内(久成寺・受教寺・秋葉
神社など)などを使って公演していたようであ
る。現在でも専用の劇場を持っていない。自主
公演は小田原市民会館小ホールと生涯学習セン
ターけやきホールが主な舞台となっている。小
田原市の橘支所が人形や舞台施設・衣装などの
倉庫として使用されており、また毎月々行われ
ている練習場ともなっている。
現在の練習場・倉庫のある橘支所
昔、公演を行っていた小竹・久成寺(左)と小竹・受教寺(右)
2) 『下中座』の特徴
イ)マネジメントに専念する座長と演技指導を担う副座長
座長の岸氏が人形遣いのベテランではなく、民俗
芸能団体の代表としては全国的にも珍しい「マネジ
メントに専念する座長」であることは、現在の下中
座の大きな特徴と言える。岸座長が出現するまでは
「民俗芸能にマネジメントは必要ない」という認識
があり、大概の民俗芸能の代表者はその芸のベテラ
ン(長老)か地元の名士がなることが多かったよう
である。また「座長がその地域に伝承される芸能の
指導者であるのは当たり前」という考え方が大勢を
占めていたようである。
しかし、全国にある多くの民俗芸能団体が、様々
な理由から経営に行き詰まり苦悩している中で、下
中座を復興させた岸座長の手腕とその存在は、民俗
岸忠義 座長
芸能にも経営概念が必要であると、広く世に再認識
させるまでに至ったのである。
林美禰子副座長は、大学二年生の時、相模人形芝居に出会い、以来研究者として
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取り組み、永田衡吉博士をはじめ、その道の多く
林副座長(右)の教えを受ける。
の師に指導を受けて卒論にまとめた。その後も座
員と共に活動を続けている中で、最も危惧してい
たのが、芸の伝承が口写しであるための伝承変容
である。そこで相模人形芝居座の各座長から聞き
書きしていたことを基にした演技台本の作成に
取り組んだ。下中座二代目座長で、県立二宮高等
学校相模人形部の指導をしていた小澤孝蔵氏の
助手をしながら、演技台本を更に充実させた。小
澤氏に「伝えるべき芸の全ては林さんに伝えた」
と言わしめた程の相模人形芝居の研究家として
エキスパートとなった。このような林副座長の存在は、岸座長にとり頼り甲斐のあ
る素晴らしい「女房役」であり、岸座長は林副座長を良き相談相手として、マネジ
メントに安心して専念できるのである。
この座長と副座長の二人の明確な役割分担とその調和が、下中座の他座にない優
れた特徴であると言える。
ロ)幅広い地域と厚い層を持つ座員達
下中座の座員構成は座長一名、副座長一名、
会計一名、座員三十三名の合計三十六名であ
る。何より他の座と大きく異なっているのは、
座員の出身が多彩なことである。かつては小
竹地区在住の農民に限られていた座員が、過
去の衰退しかけた時の教訓から、広く座員の
募集を呼びかけ、地域や職業を問わずに募っ
た結果、座員の職業は会社員、公務員、教職
夏合宿で技を磨く座員たち
員、農業者、主婦、学生、生徒など多種にわ
たっている。
また出身地も小田原市小竹は勿論、県下一円にわたり、徳島出身の座員もいる。
その座員達の現在の所在地は、小竹、橘地区、小田原市内のほか、近郊や東京在住
の座員までいる。このように非常に座員の構成は広域的になっている。
年齢層は八十代を筆頭に、最も若い座員は十代である。このような座員の多種多
様性が、下中座の現在の活動力をプラスに作用して勢いを得ているようである。
ハ)下中座支援組織の存在
下中座には、元座員の子弟などを中心にした後援会が存在する。この構成は大半
が小竹を含む橘地区の住民の方々だが、下中座が行う公演の補助などを行って支え
ている。このような支援組織は、淡路人形浄瑠璃などにはあるが、相模人形芝居に
は従来なかった。またサブのスタッフ(写真記録だけを行うなど)が存在すること
や、後援会以外にも協力者がかなり存在しており、座の活動環境が充実しているの
である。
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ニ)
『学校教育との連携』と『後継者育成事業』
の展開
下中座の特徴の一つに、中学校・高等学校と
いった学校教育と結びついていることがある。
これは他座にはないシステムで、今後の下中
座の継承に頼もしい制度と言える。指導は林
副座長が行い、愛情を持って指導にあたって
おり、下中座に対する熱意と、
「子供たちに輝
生徒と座員の練習風景
きを持たせてやりたい」という意気込みが強
く感じられる。神奈川県立二宮高等学校には
相模人形部が、小田原市立橘中学校には相模人形クラブがあり、ここから下中座の
座員になる者もいる。
また、平成三年度(一九九一~一九九二)に小田原市支援のもと『後継者育成事
業』を立ち上げた。それが『下中座人形教室』の開講である。開講にあたり
①「市内在住」という地域の枠を外し門戸を広げる。
②練習場所は交通の便を図り、国道沿いの橘公民館とする。
③練習日は隔週の土曜日午後とする。
④広報活動にも力を入れ、多くの人達に知っていただくようにする。
などの工夫がされ、順調に若い後継者が育っている。
ホ)下中座「人形教室開講一周年記念自主公演」について
人形教室の開講にあたり、反響も大きく二十六名の応募者があった。受講者は皆
伝統芸能が好きであったり、やってみようという意欲を持ったりしている人達だっ
た。人形芝居には学ぶことがたくさんある。人形芝居(三人遣い)の基礎知識から
始まり、人形を動かす基礎訓練(立つ、座る、歩く、見る、泣くなど)にと入って
いく。プロの世界では「足遣い十年、左遣い十年」と言われ、一人前になるには長
い年月の修行を要するものである。しかしアマチュアは、楽しさや「やったあ!」
という達成感、更には舞台と客席が一体となった時の感動をまず味わって欲しいと
言う考えのもと、一年後に自主公演を行うことを目標に掲げた。市民会館小ホール
で、この記念の自主公演が行われた。受講生全員で演じ大成功を収めた。日頃の地
道な練習の賜物であり、力を充分に発揮できたのだ。「演じ終えてお客様に挨拶す
る受講生達の笑顔は輝いていた。演じることの楽しさや難しさを学んだ受講生は、
人形芝居に魅せられ座員となっていった。」と林副座長は語る。
3) 現在の活動状況
下中座は、昭和二八年(一九五三)神奈川県無形文化財に指定され、更に昭和五
五年(一九八〇)に国重要無形民俗文化財に指定された価値ある文化財である。現
在では備品なども含め最も充実し、整備が進んでいる人形座と言われているが、現
在に至るまでには幾多の苦難もあった。岸忠義氏が三代目座長(昭和六二年(一九
八七)~)に就任された頃からの活動状況について述べる事とする。
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イ)「新生・下中座」としての出発
一周年記念自主公演で初舞台を踏んだ受講生全員が、下中座の座員になったこと
には驚かされる。ここに「新生・下中座」が誕生したのである。以来、年に一演目
ずつ上演できる演目を増やすことを目標とし、月二回の稽古に励んできているのが
現状である。そしてその成果は、年に十回程の依頼公演、年一回の五座大会、更に
は時々自主公演をするなどの活動として定着している。
ロ)座員の活動
下中座にとって後継者育成は言及するまでもない。市立橘中学校には平成十四年
(二〇〇二)より『相模人形クラブ』が発足し、座員の指導を受けている。県立二
宮高等学校においては、昭和五五年(一九八〇)に相模人形部が発足。毎週木曜日、
林副座長の指導の下で研鑽を積んでいる。そして下中座は月二回、それに夏季合宿
などの計画に基づき練習している。
我々が下中座の稽古風景を見学した時には、岸座長の温かな人柄、林副座長の優
しく細やかな指導により、座員が一丸となりテープに合わせ真剣に練習していた。
橘支所二階の練習場の傍らには主遣いの履く舞台下駄があった。これらの下駄作り
や衣装の修繕も座長をはじめ座員の皆さんが率先して行っていると聞き驚きであ
った。
夏合宿の折に、林副座長が「人形芝居を先ず観て知っていただき、民俗芸能の良
さに触れて欲しい。それが市民の愛する相模人形芝居下中座を支える力となってい
く。」
「中高生が一つのことに真剣に向き合うことにより輝く、その場を与えてあげ
たい。将来他の道に進んでも、きっと自分の生き方に役立つと思う。」と語られた
ことが深く心に残っている。
平成二二年(二〇一〇)十一月七日(日)板橋の香林寺本堂においての相模人形
芝居公演を鑑賞した。始まると同時に客席は『シーン』と静まり返った。黒衣を身
につけている演者の表情は分からない。しかし、人形を操る三人の息遣いが一つと
なり、人形に命が吹き込まれているのを実感した。市民が自分の目で人形芝居を観
る。そして伝統芸能の素晴らしさを体感し、相模人形芝居下中座を、みんなで広く
発信できることを願っている。
ハ)ワークショップ公演
相模人形芝居五座で構成する相模人形芝居連合会と県が連携し、次世代への継承
を目的としたワークショップ公演が、五座の地元の県立高校で開催されている。小
田原では、下中座によるワークショップが県立小田原高等学校視聴覚室で 1 年生を
対象として実施された。当日は、下中座の座員・二宮高等学校相模人形部の生徒が
参加し公演した。人形の解説や人形との触れ合い体験などを通し、相模人形芝居に
ついて知ってもらう機会であった。若い世代の人達に、伝統文化を継承するための
良い活動と言えることである。
ニ)下中座の演目
下中座は、相模人形芝居五座の中でも公演機会が最も多いとされている。しかし
下中座の自主的な企画による公演は尐なく、地方公共団体・企業・福祉施設などよ
り依頼され公演するケースが多いのが現状である。現在、下中座が上演可能として
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いる演目は、
《時代物》絵本太功記 十段目 尼ヶ崎の段(上)
(下)
・伽羅先代萩 政岡忠義の
段(上)(下)・菅原伝授手習鑑 寺子屋の段(上)(下)ほか七演目
《世話物》壷坂観音霊験記 沢市内の段ほか二演目
《創作物》怪童丸物語 足柄山の段(新作演目で『足柄山の金太郎』を題材として
おり、中学生が演じる。)
・怪童丸物語 下鴨神社の段(最新作で高校生
が演じる。)
《景 事》序三番叟
の十九演目である。なお岸座長の話では、戦前まで演じられていたものも、今後順
次練習して、演目を増やしていく予定という事である。
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第四章 年表
年号等
西暦年
項目
正徳年間
1711~1715
地元の伝承ではこの頃小竹の人形が始まったという。
天明年間
1781~1788
三人遣いの人形芝居始まる。カシラの最も古いもの
は、この頃の作といわれる。
天保 12 年
1841
徳川幕府の天保の改革・奢侈禁止令(諸芸禁止令とも
いう)により人形芝居等を含む、諸芸一切の禁止。
小竹の村人が土蔵等に隠れて人形を遣い、代官から叱
られたという伝承がある。
幕末~明治初期
天保の改革後、村人の協力もあり、小竹村の名主小澤
八郎右衛門が、小竹の人形を復興させる。
明治 41 年
1908
東京の人形遣い師匠西川伊三子・語女太夫夫妻小竹に
定住。小竹や四之宮(現平塚市)、林・長谷(現厚木市)
の人形を指導し、相模人形芝居は黄金期を迎える。
昭和 28 年
1953
小竹・林・長谷の三座が『相模人形芝居』として、神
奈川県無形文化財に指定される。
この時、『小竹の人形』は『下中座』と改名する。初
代座長として、小澤弥太郎が就任する。
昭和 37 年
1962
神奈川文化賞受賞
昭和 38 年
1963
受賞記念で『相模人形芝居大会』公演を開催。第一回
連合公演。
昭和 40 年
1965
二代目座長に小澤孝蔵が就任する。
昭和 46 年
1971
下中・林・長谷の三座で『相模人形芝居連合会』を結
成する。
三座は『国の記録作成等の措置を講ずべき無形文化
財』に選択される。
昭和 47 年
1972
国の三座文化財選択記念公演として、第二回『相模人
形芝居大会』が開催される。
昭和 51 年
1976
『神奈川県無形民俗文化財』に指定される。
昭和 53 年
1978
小田原市民功労賞受賞。
昭和 55 年
1980
『国重要無形民俗文化財』に指定される。
昭和 62 年
1987
三代目座長に岸忠義が就任する。
平成 3 年
1991
「下中座・相模人形教室」が開講。現在に至る。
平成 4 年
1992
下中座人形教室開講一周年記念自主公演開催(小田原
市民会館小ホール)
平成 8 年
1996
国・県・市補助を受け念願の屋台が更新される(平成
12 年~18 年にも実施)
平成 9 年
1997
文化財指定四十周年、人形教室開設五周年、更新屋台
披露自主公演開催
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平成 10 年
1998
記録誌『下中座の歩み』発刊
平成 11 年
1999
第一回「(新)後援会」総会開催。初代会長小澤政之
氏就任。
平成 12 年
2000
相模人形芝居連合会文化財保護法五十周年記念式典
で特別功労者文部大臣賞受賞
平成 14 年
2002
市立橘中学校に同好会として相模人形クラブ発足(11
月)
平成 15 年
2003
東日本鉄道文化財段の助成金の贈呈を受ける(平成 17
年まで三ヵ年継続)
平成 15 年
2003
橘中学校学習発表会で『怪童丸物語
演(10 月)
平成 19 年
2007
相模人形芝居連合会、安藤為次章受賞
平成 21 年
2009
相模人形芝居、学校交流ワークショップ公演を開催
(神奈川県立小田原高等学校)
平成 22 年
2010
下中座・林座・長谷座、国重要無形民俗文化財指定三
十周年を迎える。
足柄山の段』初
むすびにかえて
『相模人形芝居下中座』について、私達が自主研究を通じて強く感じた事は、各種の資
料や下中座へのインタビューなどを通して調べてみると、その土地への思いや歴史、ある
いは『魂』などが奥深いこと、民俗芸能を伝承していくのは並大抵のことではないという
こと、今日名を残している師匠といえども、貧しい生活の中で正に『芸に生き、芸に死ぬ』
という強い信条を持ち、自身の生活を犠牲にしてまで今に伝えてくれていたことを知り感
激した。これからも『相模人形芝居』を大切に後世に伝えていくために、微力ながらお手
伝いができたらと思い取り組んだが、我々の力では簡単に指定されたレポート枚数には残
念ながらまとめることが出来なかった。
国指定三十周年記念の年を迎え、全国的にも人形芝居として高い評価を得ている『相模
人形芝居下中座』は、小田原の小竹地区で江戸時代後期までに根付き今日まで発展してき
ている。全般にわたり派手ではないが、近い将来には「能や歌舞伎や文楽などと同様に、
『世界無形遺産』として登録されるだろう。」と言われる程の、優れた誇るべき民俗芸能と
高く評価されているのだが、思いの外市民の方々の認知度は低い。
『下中座』を盛り上げる
ためには、小田原市民である私達は、生の人形芝居に触れ、その素晴らしさを知り、広め
ていくことが大切だと思う。幸い『下中座』は、他座にない後継者育成事業が根付いてお
り、未来への展望もある。
『下中座』が、抱える将来に向かっての不安材料を取り除くため
には、市民の理解と協力が必要と考える。私達は『相模人形芝居中座』を知り、
「守りたい
伝統芸能」を誰にでも分かり易く「伝えようおだわらの心」の気持ちを持ち、この自主研
究を通じて発信するように努めてみた。この研究が尐しでもその力になれば幸いだと思っ
ている。
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小田原には多数の有形・無形の文化財がある。市民は豊かな歴史と文化を知る事が大切
だと思う。座員達が一丸となって郷土芸能を伝承している努力に報いるためにも、市民が
歴史的資料や民俗芸能などの伝統的な郷土の芸術を観る事が出来、公演の場が確保され、
広く世間に紹介できる小劇場機能のある博物館の設立が急がれるのではないかと痛感した。
なお、今回の自主研究の編集にあたり、下中座座長岸忠義氏、副座長で相模人形芝居研
究家としてもご活躍の林美禰子氏の両氏には、一方ならぬご教示の数々を戴いた。また座
員の皆様には、下中座夏季合同合宿や月例練習日などにお伺いし、様々にご指導、ご支援
を戴いた。末筆ながら班員一同お礼申し上げると共に、今後のご活躍を祈念申し上げる。
インタビューを受ける岸座長と林副座長
夏合宿中の座員の皆さんと班員たち
参考文献
・
・
・
・
・
神奈川県文化財協会編「相模人形芝居」神奈川県文化財協会 一九五五年
永田衡吉「神奈川県民俗芸能誌」錦正社 一九六八年
神奈川県編「神奈川県史 各論編五 民俗」神奈川県 一九七七年
宇野小四郎「現代に生きる伝統人形芝居」晩成書房 一九八一年
永田衡吉「小田原市文化財調査報告書十三集 鉄砲ざし・相模人形芝居の特徴」
小田原市教育委員会 一九八三年
・ 朝日新聞社編「生きている人形芝居 みちのくから沖縄まで日本縦断」朝日新聞
社 一九八一年
・ 相模人形芝居下中座編「相模人形芝居下中座の歩み」下中座 一九九八年
・ 小田原市編「小田原市史 通史編 近世」小田原市 一九九九年
・ 林美禰子「夢 岸忠義さん傘寿記念」私家版 二〇〇六年
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