父戦死の知らせに 母は花瓶を落とし泣き崩れた 「お国のために戦死

⑥
歳で戦争未亡人と つになったらこんな状 記されていましたが、
年、 なった母は、子ども3 態 か ら 抜 け ら れ る の 手 紙 を 読 み 返 し な が
年5月のことです。 を強く持って生活する かせたり苦しませたり したのは私一人ではな と、どんなに無念だっ
28
子どもの頃の体験は 私のような苦しみを味
し今、孫を見て、私が それを出迎え、兄と一 仕事をしながら家計を 忘れられません。戦争 わう子どもが出ない世
さんから手紙を受け取 した日に抱きしめたら れたことです。その温 私の人生なんだと受け った木箱だけが帰って から譲り受けた山や土 が耳から離れません。 繰り返されないよう、
もあり、父から母への ます。
り、本堂にいた母に手 よかったと悔いたもの もりを今でも思い出し 入れていました。しか きました。村を上げて 地を売ったり、縫製の
紙を渡しました。
か
ひん
東京都杉並区・伊丹郁子さん
遺族になんて恐ろしいことを」
「お国のために戦死…
つ
小学2年生から袈裟 過ごしたあの時代を二 緒に上座に座らされた 支えてくれました。年 は私の中では終わって の中にしたいです。
阿弥陀さんへのお花 思いがたくさん詰まっ
を着けてお参りし、ご 度を体験させてはなら ことを覚えています。 末になると「除夜の鐘 いないのでしょう。父
(神奈川県座間市・
を供えようとしていた たものでした。
母は、その花瓶を落と
たぶんそれが葬儀だっ が撞き終わるまでに届 の手紙には「大いに戦 恵光寺門徒推進員、
父のことでただ1つ 門徒に育ててもらいま ないと思います。
し て 泣 き 崩 れ 、「 お 父 覚えているのは、出征 した。気が付いたら長
け物をしなくては。い う覚悟であります」と 歳)
(滋賀県高島市・泉 たんでしょう。
ちゃん、なんで死んだ する父を見送った駅で いこと住職をしてきま 慶寺前住職、 歳)
母の言葉が耳から離れない
年末になると口にした
んやぁ」とひざを何度 「賢くして、母さんを泣 した。戦争で父を亡く
もたたいていました。
その手紙は、父の戦死
の通知でした。その晩、
てくれた母が泣いてい
私と妹をお風呂に入れ
父戦死の知らせに
たのを昨日のことのよ
うに覚えています。
ださい」と声を掛けて
いたそうです。しかし
戦後、次兄がニューギ
ニアで戦死したという
知らせを受け取った母
は「なんて恐ろしいこ
とを言っていたのか。
昭和 年、宮崎県の の住む村で初めて戦死 に葬儀が営まれたのを 方の家へ、タスキを掛 になれば、よくもまあ、
専売公社に勤務してい 者が出ました。それが 記憶しています。
けて慰問に出かけてい あんなことを」と悔い
小学3、4年生の頃 袈裟を着けて集まり、 きました。母は国防婦 簡単にあきらめられる
だったと思います。私 父が導師を務め、盛大 人会として戦死された ことではない。わが身
もたちの世話に奮闘し
ンに向け出航し、
大阪の堀川国民学校 男女
年
20
57
疎開しました。
が暮らす鹿児島に縁故
父は終戦直前の昭和
か 。「 お 父 ち ゃ ん 、 な
声を思い出すたびに戦
年7月にフィリピン
紙が出てきました。結
残していた父からの手
理していると、大切に
母は平成 年に亡く
なりました。遺品を整
してしまいます。
す。家に生きて帰れな
戦病死だったそうで
が栄養失調状態からの
できず、ほとんどの人
敗戦状態で闘うことが
のルソン島で戦病死し
たそうです。あの頃、
婚して間もなく出征し
争を思い出し、身震い
んで死んだんやぁ」の
19
かった父のことを思う
20
た父は、母を思い、心
年間戦争の
な が ら 、「 戦 争 は 絶 対
にダメ。
(三重県桑名市・浄
光寺出身、 歳)
す。
とわからないことで
を経験したものでない
しています。あの時代
を感じてほしい」と話
ない時代が続いた重み
70
88
14
死した兄のことを話し
た父に召集がかかりま うちのお寺のご門徒で
その後は、戦死者が ました。遺族の方に「お ていたことが忘れられ
した。そのため、母と した。小学校の校庭に 次々と出て、忠魂碑の 国のために戦死された ません。
神奈川県厚木市・山口格夫さん
72
父は陸軍に入隊。昭 4月にセブ島で戦死し からの学童疎開児を受 ていた母でした。しか
け入れ、小学3年生の し、心の底はどんな気
和 年1月にフィリピ ました。
疎開児を受け入れ、
気丈に振る舞い、子ど
75
人がお寺にいた 持ちだったんでしょう
滋賀県高島市・杉生慶道さん
23
ます。私は郵便配達員 していましたが、出征 と言って頭をなでてく んおられたし、これが 戦死したという紙が入 人を育てるため、祖父 か」と言っていた言葉 ら、あの悲惨な戦争が
今もはっきり覚えてい ようにとあれこれ指示 してはいけませんよ」 く、あの時代はたくさ たことか…。昭和
20
母は花瓶を落とし泣き崩れた
強く心に残っていることを、3人に聞いた。
どめている。その記憶をたどって、子どもの頃に体験し今も
終戦から 年。戦争体験者も高齢化し語れる人も少ない。
当時子どもだったという世代は、おぼろげながらも記憶にと
70
私たち兄弟3人は祖父 たくさんの僧侶が七条 前での葬儀になってい のだからあきらめてく
私も3人の息子がい
ますが、折に触れ、戦
19