ヨーガの意味と目的 デシカチャー

ヨーガの意味と目的
T.K.V.デシカチャー
今日私は、ヨーガの意味についてのいくつかの考えを、あなた方と分かち
合いたいと思います。ヨーガはダルシャナとして知られる、インド思想の6つ
の原理体系の一つです。ダルシャナという言葉は、「見ること」を意味するサ
ドリシュ
ンスクリット語の語根、 drù に由来します。基本的に、ダルシャナは「見解」ま
たは「ある特定の見方」を意味しています。それはまたさらに進んだ意味、私
たち自身を見ることのできる鏡を暗示しています。6 つのダルシャナとしての
ヨーガは、ヴェーダにその源を発しています。ヴェーダという言葉は、「知る
ヴィド
こと」を意味するサンスクリット語の語根、 vid に由来します。それは「私たちが知りたいことの全てを
告げるもの」を意味しています。ヨーガの源泉はヴェーダですが、この独自のダルシャナであるヨーガ
は、インドの偉大な賢人の一人パタンジャリによって、明確に形式化されました。彼の古典聖典はヨーガ・
スートラです。パタンジャリのヨーガ・スートラの後に続く、多くの他の重要なヨーガ論説はありますが、
彼の業績は最も権威あるものです。
ヨーガとは何でしょうか? ヨーガについては多くのことが書かれ、述べられてきました。もし私が、
ヨ ー ガ
すでにあなた方が知っている基礎的なことを繰り返すとすれば、お許しください。「 yoga」という言葉
ユジュ
もまた、yuj という語根に由来するサンスクリット語です。ユジュには二つの伝統的な意味が展開しまし
た。その一つは、「二つのものが一緒になること、交わること、結び付くこと」です。たとえば、この講義
の前には私はマドラス(*チェンナイ)におりました。この会合の前には、あなた方がどこにいらしたのか
私は知りませんでしたが、いま私たちは一緒におります。もう一つの意味はサマーディと同様で、「心の
動きを一点に集中させること」です。これらの定義は外見上は異なりますが、それらは全く同じです。私
たちがここに一緒にいることは、ヨーガの概念ユジュ・ヨーガを表しています。同時に、私たちが様々な
家から、ハミルトン、ニューヨーク、次にコルゲート大学、そして最後にチャペル・ハウスのこの礼拝堂へ
と一か所に集まる様々な道程は、ヨーガの概念ユジュ・サマーディを表しています。私たちは同じ方向
に向かって進みました。私たちは一か所に集まりました。ですから、私たちは一緒にいるのです。
(*ヨーガの)別の意味は、より魅力的であると同様、より一層重要かもしれません。その意味とは、
「私たちが以前には到達していなかった地点に到達すること」です。もし私たちが今日不可能な何かが
あり、それが可能になるある方法を発見するとすれば、その行為がヨーガです。実際、私たちがつま先
が触れるよう、身体を曲げることができる方法を発見することも、書物を通じてヨーガの意味を学ぶこ
とも、会話を通じてヨーガを理解することも、それらのどんな行為もヨーガです。私たちは以前には到
達してはいなかった地点に、到達しました。
ヨーガの他の重要な側面は、行為と共に行わねばならないことです。ヨーガはまた、「私たちの全て
の注意を向けて行う、特別な行為」を意味します。私が心の一部であなた方にヨーガについて語る内
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容を考え、他の部分は何か他のことを考えていると想像してください。私が講義により没頭するとき、
語る行為への私の注意は強まります。私は自身の行為に集中しています。ときどきそれは正反対になり、
私が行為を始めるとき非常に注意深いのですが、それを続けるとき私の注意は揺れ動きます。このこ
とが人間の思考や振舞いの、習慣的過程と様式を発展させる大きな原因です。私たちは条件付けされ
ます。私たちは注意深く行動しているように見えても、そこに注意深さはありません。私たちが活動し
ていても、私たちはそこにいないのです。ヨーガは、全ての行為、全ての瞬間に、いつも私たちがそこ
に在れるような条件付けを生み出そうとします。私たちがこれらの概念でアーサナを実践するとき、い
かにこれらの概念が、私たちの肉体訓練に導入されるかを理解することでしょう。
行為に注意を向ける利点は、私たちがその行為をより良く行い、それと同時に私たちの行為を意識
化するということです。私たちの注意が増大するとき、誤りを犯す機会がより減少することでしょう。そ
の上、私たちが昨日行ったからという理由で、今日それを行う必要はありません。もし私たちの行為に
注意が払われていれば、そこにはいつもその行為を再検討する機会があり、特に無意識に行う行為の
繰り返しは避けられることでしょう。
さらにヨーガの古典的な定義は、「神と一つになること」です。私たちがイーシュヴァラ、神、アラーな
ど、どんな名前を使おうと構いませんが、私たちに私たちよりもより高い何か、を理解させてくれるい
かなる行為もまた、ヨーガです。神と一つになるということは、私たちが昨日理解していたことより高
度な何か、を理解し尊重することを意味しています。私たちが内部で、何か高度なものとの調和を感じ
るとき、それもまたヨーガです。
ヨーガはたくさんの定義が可能ですが、ヨーガの実践においては正しい方向性が必要とされること
を憶えておくことは重要です。この方向性は、特別な動作や前もって予定した結果を要求しません。そ
れは、私たちが歩む一歩一歩の方向を、どのようにどこに歩んでいるかを正確に知るために、注意深い
観察を要求するのです。この注意深い観察は、発見へと導きます。この発見が、神のより優れた理解へ
と導くか、人生のより高度な満足へと導くか、あるいは他の目的地に導くかは、個人的な事柄です。
どのような人がヨーガを実践すべきでしょうか? ヨーガの道に従うために、ある信仰を持つ必要が
ありますか?
ヨーガの実践は、ただ私たちが行動し、それと同時にその行動に注意を払うことだけを要求します。
どんな特別な神の概念を支持する必要はありませんが、そのような概念を尊重はしなくてはいけませ
ん。ヨーガはインド思想にその源を発しておりますが、ヒンドゥ思想の人が実践しなければならないもの
でもなく、また非ヒンドゥ思想の人にはその実践が禁じられているものでもありません。ヨーガは人類に
共通の、ある望ましい新しい状態に到達するための方法です。もし私たちがより幸せになりたいと望み、
その幸せになるための方法を発見するとすれば、それがヨーガです。その呼びかけはインド独自のもの
ではなく、人類全体のものであることを私は確信しています。
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ヨーガの実践を、どこでどのように始めることができますか? それはいつも肉体的なものである
べきなのですか?
どのように始めるかは、個人的な興味によります。たくさんのヨーガ実践方法があります。徐々に、一
つの技法の実践が他の技法へと導きます。私たちは、ヨーガ・スートラの学習から出発するかもしれま
せんし、祈りから出発するかもしれません。私たちは身体の感覚を通じてヨーガを理解するために、ア
ーサナから始めるかもしれません。私たちは内的な動きとしての呼吸の感覚、呼吸法から始めるかもし
れません。どこでどのように始めるかに制限はありません。そこに特定の要求や規律はありません。
ヨーガの教科書や個人指導を通じ、しばしばヨーガを学ぶための前提条件として、ヨーガ実践を始
めるためには規律に従わなければならない、と指示されます。煙草を吸ってはならない。菜食主義でな
ければならない、全ての世間的楽しみは諦めなければならない、ある形式に従わなければならない、
などと言われます。それらの指示は適当ではありません。それらの行為は立派かもしれませんが、しか
しそれらはヨーガの効果として私たちの内部で起こるもので、それらがヨーガの原因ではありません。
たとえば、ヨーガを実践する前には常習的な喫煙者だった人々が私に話したところによると、彼らがヨ
ーガを始めるとその結果として、もはや煙草を欲しくなくなったのでした。彼らはヨーガを実践するた
めに煙草をやめたわけではないのです。私たちは現在の私たち自身の地点から、あるがままの状態か
ら始めればよいのです。そして起こることが起こるのです。
私たちの実践において、重要な点が他にもあります。私たちが、アーサナ、プラーナーヤーマ(呼吸
訓練技法)、祈り、またはヨーガ・スートラのいずれかを通じてヨーガを学び始めるとき、私たちは一つ
の技法を扱います。私たちが進歩すると、私たちは身体と呼吸と心、さらにそれ以上のものによって構
成されている、全体であることに気づきます。アーサナの実践から始めたある人々は、ヨーガの唯一の
意味が肉体訓練であるかのように、ポーズだけをどんどん学ぶことに固執します。これはちょうど一人
の男性が、一本の腕だけを美しく、強靭に発達させ、その他の部分は弱いままに放っておくようなもの
です。それと同時に、ヨーガの概念だけを知的に理解する人々もいます。彼らは素晴らしい本を著し、プ
ラクリティやアートマンについて立派に語ります。しかし書いたり語ったりするために、数分間も背骨を
伸ばして座ることができません。ですからどうか憶えておいてください、どんな地点からでもヨーガを
始めることはできますが、全体的人間として、私たちは徐々に私たち自身の全ての側面を眺めなけれ
ばなりません。ヨーガ・スートラの中では、私たちと他人との関係性(*ヤマ)、私たち自身の振舞い(*ニ
ヤマ)、私たちの健康(*アーサナ)、私たちの呼吸(*プラーナーヤーマ)、私たちのディヤーナ(瞑想)な
どを含む、人間生活の全ての側面が据えられ、強調されていることに気づくのです。
なぜ人はヨーガを実践するべきなのでしょうか?
私は、より良くなることを実際に望まない人がいるとは思えません。「私は貧しい、私はお金持ちに
なりたい」。「私は混乱している、私はこの混乱を無くしたい」。「私は機械工学を学びたい」。「私は薬剤
に熟達したい」。これら全ての事柄は、より良くなりたいという願いではないでしょうか? より良くなり
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たいというこれらの願いは、ヨーガによって叶います。ヨーガの実践を通じて、私たちは集中の能力、自
己信頼、健康、人間関係、・・・実際私たちが行う全ての事柄の能力範囲を、徐々に改善するのです。
ヨーガの源について、・・・ヨーガとは何を意味しているか、それを誰が実践
できるか、なぜ私たちはそれを実践しなければならないか、などについて
手短に述べましたが、・・・私は今度はパタンジャリのヨーガ・スートラの中の、
ある非常に重要な概念について、熟考したいと思います。その概念とは、も
し私たちが正しく理解するならば、人生においてなぜ問題が起こるのかを
説明している概念です。もし私たちがなぜそのような問題が起こるのかを
知れば、それをどのように除去できるのかを知ることでしょう。これがその
重要な概念、アヴィディヤー(avidyá)です。アヴィディヤーは字義的には、
「正しい知識とは異なる知識」を意味しています。それは「正しい知識」を意
味する、ヴィディヤー(vidyá)と混同されてはなりません。アヴィディヤーは、
ある間違った認識状態です。私たちは正しいと考え、それに従って行動しま
す。しかし最終的に、私たちが間違ったことをしていることに気づくのです。また、実際に間違ってはい
ないのに、自分の考えは間違っていると認識するかもしれません。そういう理由で私たちはすべきとき
に行為しないのです。私たちの内部に深く沈潜している、このアヴィディヤーとは何でしょうか?
アヴィディヤーとは、行為の蓄積です。それは私たちが何年間も、機械的に、ほとんど盲目的に繰り返
し続けて来た、たくさんの無意識的行為のある頂点です。私たちの心は、昨日受け入れた行為を今日の
行為の基準にするように、強く条件付けされています。そのような条件付けをサムスカーラと呼びます。
この条件付けが原因で、私たちの心は昨日と同じ条件付け、アヴィディヤーのフィルムで覆われるので
す。
アヴィディヤーは、しばしばそれ自身をアヴィディヤーとして表現しません。もし私たちが理解してい
ないことを確信していれば、私たちは行動しないでしょう。またもし私たちが理解していることを知っ
ていれば、私たちは行動し、それは正しいことでしょう。その行動は知覚のある深いレベルを基礎とし
ています。それとは反対に、アヴィディヤーは表面的な知覚を通じて自身を表現し、その知覚は言いま
す、「私は知っていると思う、そして私は行動する、その後になって私は知らなかったことに気づいた」
と。私たちは実際には知らないのに、知っていると思うために間違いを起こします。あるいはその反対
に、本当は知っているのに知らないと思います。ですから、私たちには二つのレベルの知覚があります。
一つは私たちの内部深くにあるもので、アヴィディヤーのフィルムからは自由です。他の一つは表面的
で、アヴィディヤーに覆われています。
アヴィディヤーのこの概念は、人生で生じること以上のことを説明しています。たとえば、私たちが
静寂を感じる礼拝堂では、アヴィディヤーが拡大することは困難でしょう。少しづつアヴィディヤーは沈
静し、真実が啓示されます。そのあと、私たちはいかに行動するべきかを明確に理解します。アヴィディ
ヤーのフィルムを減らすことによって、正しい行為が可能となること、これがヨーガの目的地です。
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アヴィディヤーはどのように表現されるのでしょうか?
アヴィディヤーは、それ自身をアヴィディヤーとして表現することはほとんどありません。私たちはそ
れを、即座に直接体験することはめったにありません。しかし私たちは、その四人の子供たちを通じて
知ります。一番目はアスミター(asmitá)です。それは、いつも私たちを駆り立てる「私のこと」です。「私
は彼に勝るべきだ」「私は最も偉大だ」「私は自分が正しいと知っている」「私は失敗できない」・・・これ
ら全てはアスミターの表現です。二番目はラーガ(rága)、執着または欲望です。私たちはあるものを必
要としているからではなく、それが昨日楽しかったという理由で今日も求めます。昨日私たちはあるケ
ーキを食べ、とても美味しかった。今日私たちの内部の何者かが、必要ではないのにまたケーキが食べ
たいと言うのです。三番目はドヴェーシャ(dveøa)、ある意味ではラーガの反対ですが、逆の結果を伴
います。もし私たちの欲しいものが得られないならば、それを憎みます。あるいは、もしある悪い経験を
するとすれば、それが再び起こることを望みません。最後 (*四番目)のものはアビニヴェーシャ
(abhiniveùa)で、恐れの源泉です。これはアヴィディヤーの最も不可思議な側面です。たとえその源泉
が何であれ、アビニヴェーシャは私たちの日々の存在の、多くのレベルに広がっています。私たちは不
安を感じます。私たちは生活の境遇について心配します。私たちは、他人が自分をどう判断するか、他
人が自分にいかに近づくか、非常に恐れます。私たちは、自分の継続的な生活方法が妨害されると、不
安を感じます。私たちは、老年に直面したくありません。これら全てがアヴィディヤーの四番目の子供、
アビニヴェーシャに原因を宿します。これら四人の子供たちが、個別的にまたは組み合わさり、アヴィデ
ィヤーの理解を困難にしています。
アヴィディヤーは、いつも私たちの背後で活動し、それは大きな不満の源泉です。ある瞬間の私たち
の悲しみや、別な瞬間の幸福は、理解するのがしばしば非常に困難です。一例をあげれば、アーサナの
実践授業を一つのグループで行うとき、自分を他人と比較する傾向があります。私たちは思います、
「ああ、彼の身体は私よりたくさん曲がる」と。そしてこの思いが不幸を生み出します。しかしアーサナ
の実践は、競争のための運動競技ではありません。ある人が他の人よりたくさん曲がることが、ヨーガ
の実践に優れていることを証明も、否定もしてはおりません。そのような比較が、幸福や不幸の基盤に
はなりません。それらは優越感を基盤にした幸福、劣等感を基盤にした不幸へは導くかもしれません。し
ばしばこの不幸があまりにも過酷なため、私たちの探求を止めさせてしまいます。
アヴィディヤーの存続の別の例を挙げてみましょう。友人との会話の中で、私がある誤りを犯します。
普通は、私はとても謙虚に申し訳なく感じることでしょう。しかしその同じ友人が、別なときにヨーガ・ス
ートラの議論をすることでしょう。彼は、私の話しは馬鹿げているし、この偉大な聖典の私の解釈は間違
っていると言うかも知れません。私の反応はどうなるでしょうか? 私の内部の何かが痛みます。私は
不幸です。どのように反応しようか? 私の友人の誤りを証明しようか? この状況から逃げるべきか?
この例のように、私たちは心がいかに活動するのかがわかります。私たちは自分の立場を失うことを
恐れます。私たちは、昨日のある楽しい出来事による満足が、今日の異なる状況には役立たないかも
知れないと言う理由で、憎しみを表現します。
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結局、アヴィディヤーの子供たちの勢いが強い限り、注意深い思慮と十分な識別がないために、そこ
にはいつも私たちが誤りを犯す機会が存在します。ヨーガを行うことは、真実の理解が優勢となるた
めに、アヴィディヤーの活動を減少させることです。
質問 アヴィディヤーは、私たちが誕生するときにすでに存在しているのですか? それとも私たち
が年を経て行く中で身に付けるものなのですか?
応答 二つの見解があります。それらは四人の子供の一人、恐れの前後関係から熟考してみましょ
う。一つの見解は、恐れの唯一の実際の内容は、死の恐れであると云うものです。私たちは死んでもい
ないのに、死を恐れます。ということは、私たちは前世において死を体験しているに違いなく、その死
の苦い記憶が私たちに起こると云うものです。もう一つの見解は、恐れは私たちの生涯の間に発展す
は し ご
ると云うものです。私は、息子が初めて梯子に上ったときのことを思い出します。彼はその梯子から滑
り、落下するまで全く恐れませんでした。二度目に彼が梯子に登ったとき、泣き叫びました。「梯子を支
えて、梯子を支えて、梯子を支えて」・・・梯子が意味を持ったのです。彼の恐れは、前世からの恐れとい
うよりむしろ、彼の落下によって恐れが発展した、と私は積極的に断言することはできませんが、私た
ちのこの現世の間の多くの行為は、そのような恐れを十分に与える、と私は明確に感じています。ヨー
ガ・スートラは、最も賢明な者でさえ恐れを抱いている、と述べています。どのように恐れは生まれるの
でしょうか? 人は、この生涯の間に過ちを犯したために恐れを抱きます。そしてそれらの過ちが原因と
なり、人は用心深くなります。この用心深さが恐れの始まりです。少しの用心深さは役立ちますが、とき
どき過剰な用心深さは私たちの機能を妨げます。
質問 あなたは、アヴィディヤーはそれ自身をアヴィディヤーとしては直接表現しない、そしてヨー
ガとはアヴィディヤーの減少のことである、と述べました。私たちは自身でアヴィディヤーを減少させ
るために、アヴィディヤーを意識化しなければ、または気づかねばなりませんか? アヴィディヤーが自
身を表現しないとすれば、私たちはどのようにそれを減少できるのでしょうか?
応答 アヴィディヤーの減少は、その結果の減少を通じて知ることができます。そこにアスミター、
ラーガ、ドヴェーシャ、アビニヴェーシャが少ないとき、アヴィディヤーは少ないに違いありません。私た
ちはその存在によってではなく、その不在によってアヴィディヤーに気づきます。私たちが以前の苦し
みを理解するとき、アヴィディヤーが存在していたことを知るのです。
質問 あなたは先程、ときどき私たちは自身が正しいと考え、ときどき自身が間違っていると考え
るけれど、ヴィディヤー(*正しい知識)は自身が正しいことを知っている、つまり、私たちは物事を明晰
に見ている、とおっしゃいました。私たち自身が正しいと考えるときのアヴィディヤーと、自身が正しい
と知っているときのヴィディヤーの違いは何でしょうか? 私たちの心がただ知るのですか? それは
直観ですか?
応答 これは素晴らしい質問です、なぜならそれがある特別な落とし穴を明らかにするのですから。
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私たちが自分は正しいと知っているとき、私たちの内部深くに静けさの感覚があります。そこに緊張は
なく、動揺はなく、興奮もありません。私がゆっくりと慎重に話すとき、私はそこに静けさの源泉がある
ことを、私の内部のヴィディヤーを知っています。しかし私が何を話しているのか不確かなとき、私は不
必要な言葉を使い、私の言葉の流れは途絶えます。私たちの理解が明晰なとき、私たちは自身の内部
深くで、静けさのようなものを感じるのです。そこに動揺はありません。
私が紹介したい、他のいくつかの概念があります。ヨーガによれば、私たちが
見、体験し、感じる全ては、幻影ではなく真実であり、事実です。この概念はサッ
ト・ヴァーダ(sat-váda)と呼ばれます。アヴィディヤー、夢、空想や想像さえも含
む全てが事実です。しかし、これら全ての事柄はいつも変化しています。この変
化する概念は、パリナーマ・ヴァーダ(pariîáma-váda)と呼ばれます。私たち
が今日見る物事の見方は、昨日見た見方とは異なることでしょう。なぜなら、
その物事、物事と私たちの関係性、そして私たち自身が変化するからです。ヨ
ーガでは、私たちが見、経験する全ては真実で事実であるけれど、性質や内容
において変化が起こると告げています。私たちが、アヴィディヤーについて心配しなくてよいのは、こ
の変化の概念のためです。もし物事が悪くなって行くとすれば、それはまたいつでもより良く変化でき
ます。もちろんより悪くすることも可能です。私たちは人生で何が起こるのか全く知りません、ですから
注意深くあらねばなりません。物事がより良くなるのか、あるいは悪くなるのか、私たちの手中にある
のです。そういう理由から、サーダナ(sádhana)と呼ばれるヨーガの実践が提示されるのです。サー
ダナとは、私たちが以前には到達できなかった地点に到達する方法なのです。
しかしヨーガの概念の中には、私たち各自の内部深くに、真実で変化に支配されないあるものがあり
ます。私たちはそれを、ドラシュトル(draøôì)またはプルシャ(puruøa)と呼びます。それは見る者であり、
正しく見ることができる者です。ヨーガの実践は、それを呼び覚ますことです。心がアヴィディヤーに
覆われている限り、私たちの観察は曇っています。私たちが自身の内部深くで静けさを感じ、何かを理
解するとき、その理解がどんな事柄であれ、それは強く肯定的な影響を及ぼすでしょう。しかし、アヴィ
ディヤーの減少の結果として生じるこの真の理解は、普通自然には起こりません。この身体と心の複合
体は、ある特定の様式が習慣化し、非常にゆっくりと変化する傾向があります。どんな場合であれ、混乱
から明晰さへの変化は、衝撃を避けるために漸進的であるべきです。ヨーガ・スートラは、サーダナの初
めには明晰さと混乱が、まるで波のように周期的に交互にやって来ると述べています。それは、私たち
が混乱しながらも、ある明晰さを持っていることを意味します。私たちが進歩するとき、混乱は徐々に
減少し、より多くの明晰さが現れ出ることでしょう。
質問 私の中の最奥の、私のプルシャは、他のどのプルシャとも異なるのでしょうか?
応答 プルシャという言葉は、「都市に住む人」という意味です。プルは「都市、町、区」を意味します。
町の中に滞在する人がプルシャです。この町の性質とは何でしょう? それは、身体、心、感覚器官、私
たちの文化、習慣、そしてアヴィディヤーさえも、によって成り立っています。もし私たちがその町を消
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去するならば、全てのプルシャは完全に同一ですが、プルシャは異なる町に住むため、異なって姿を現
します。
質問 ヨーガの実践を行おうとする意識的決断は、アヴィディヤーの認識による要求なのでしょう
か? それは、より良く在りたいと欲する、アスミターの表現ではないのでしょうか?
応答 この質問は、私たちをアヴィディヤーの目的についての重要な発見へと導くことでしょう。私
たちはアヴィディヤーを持ち、私たちがそれを認識するとき、直接的または間接的に、私たちはそれに
関し何かをしなければならないと理解します。私たちの第一歩、つまり「私はより良く在りたい」という
思いは、アスミターつまりエゴに基づいていることでしょうが、それは正しい一歩です、なぜならそれ
がヨーガの梯子の第一段なのですから。それに、私たちはこの改良という初期の概念に、永続的に委
ねるわけではありません。ヨーガ・スートラによれば、アヴィディヤーの認識と除去とその結果は、私た
ちが上ることのできる唯一の梯子なのです。何かをより良く目指すことは、その梯子の第一段に違い
ないのです。もし私たちが、その第一段、つまり「私はより良く在りたい」よりも、高いところから出発で
きるとすれば、私たちは多分ヨーガを必要とはしません。
私たちはどのようにして、この梯子を上ることができるのでしょうか?
私は再び、ヨーガ・スートラを参照します。私たちがヨーガの意味を探求し始め、それによりアヴィディ
ヤーを感じることができる、三つの行為が提示されています。第一番目がタパス(tapas)です。タパス
は、その語根タプ(tap)、「熱すること、清めること」に由来します。タパスは、私たちが自身を健康にし、
清らかさを保つ方法です。タパスはしばしば、苦行、禁欲、断食などと定義されますが、ここではアーサ
ナとプラーナーヤーマの実践を意味します。他の効果は別として、これらの実践は私たちの身体組織
から不純物を除去する助けになります。その実践により、私たちは全身組織を制御します。それは、金を
純化するために熱することと同じ原理です。
私たちがヨーガを探求可能とする次の方法は、スヴァーデャーヤ(svádhyáya)、私たち自身の学習
です。私たちはどこにいるのか? 私たちは何か? 私たちと世間との関係性は何か? スヴァ(sva)は
「自己」を意味します。アデャーヤ(adhyáya)は、「学習」を意味します。私たち自身の健康を保つだけ
では十分ではありません。私たちは誰か、私たちは他人とどのように関係しているかを知るべきです。
私たちは自身の身体を映す鏡のような、心の鏡を持ってはいないため、それは簡単ではありません。私
たちは心を映す鏡として、読書、学習、論議、熟考に頼らねばなりません。これは、ヨーガ・スートラ、聖書、
マハーバーラタ、コーランなどの偉大な書物においては、特に真実です。そのような聖典集を通じて、
私たちは自身を「見る」のです。
ヨーガ・スートラが提示している第三番目の探究方法は、イーシュヴァラ・プラニダーナ
(Æùvara-praîidhána)です。それは普通「神への愛」と定義されますが、それはまた「行為の質」も意
味します。ヨーガ・アーサナやプラーナーヤーマを実践し、健康を保ち、聖典を読むことだけが、私たち
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の行為の全てではありません。私たちは自身の仕事を遂行し、大学に通わなければなりません。事実、
私たちは全ての義務を行います。それらの行為の全ては、高度な質と共に実行されねばなりません。私
たちの労働の結果は、決して確実ではないのですから、結果に捉われず、行為自体により注意を注ぐほ
うが良いのです。
これら三つ(タパス、スヴァーデャーヤ、イーシュヴァラ・プラニダーナ)が一体となり、人間の全ての
活動、つまり健康、自己探求、行為の質を担っています。もし私たちが健康であれば、自身についてより
理解し、私たちの行為が改善され、私たちが過ちを犯す機会も少なくなります。これらが、アヴィディヤ
ーを減少させるために勧告されている、三つの特別な実践方法です。これらの実践を一緒に行うこと
はクリヤー・ヨーガ(kriyá yoga)、行為のヨーガと呼ばれます。クリヤーは語根クル(kì)、「行うこと」に
由来します。ヨーガは受動的ではありません。私たちは生活に関与しなければならず、その関与のため
には準備が必要なのです。
最後に、そして繰り返すと、ヨーガには二つの側面があります。行為としてのヨーガ、そして結果とし
てのヨーガです。この講義の始めに、ヨーガとは二つの物事が一つの完全な行為になる状態である、
と私は提唱しました。私はまた、ヨーガとは以前には到達不可能だった位置、または地点に到達するた
めに必要な、行為への注意である、と提唱しました。私たちが、そのヨーガの結果を獲得する方法が、行
為のヨーガ、クリヤー・ヨーガです。クリヤー・ヨーガは、ヨーガの部分に過ぎませんが、私たちの生活の
質の改善に着手させる、ヨーガの実践的な側面なのです。
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