鎌倉幕府/承久の乱/御成敗式目/元寇/文化

【中学中間・期末試験問題集(過去問):社会歴史】
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【】鎌倉幕府の成立
[源平の争乱]
[問題](1 学期中間)
源頼朝は,鎌倉を本拠地に定め,武士を結集して関東地方を支配すると,平氏をたお
すために弟の源義経などを送って攻めさせた。源義経によって平氏がほろぼされたのは
どこか。
[解答欄]
[解答]壇ノ浦
[解説]
へ い し ついとう
るざい
1180 年,平氏追討の命令を受けて,伊豆に流罪にな
みなもとのよりとも
っていた 源 頼 朝 をはじめ,各地の武士団が立ち
上がり,全国的な争乱になっていった。源頼朝は
かまくら
みなもとのよしつね
はけん
鎌倉(神奈川県)にいて,弟の 源 義 経 らを派遣した。
いちのたに
やしま
へいけ
義経は一ノ谷の戦い,屋島 の戦いで平家 を破り,
だんのうら
1185 年,壇ノ浦(山口県)の戦いで平氏を滅亡させた。
(平家の人々は御(1185)難の壇ノ浦)
[問題](2 学期期末)
次の文章中の①∼③に適語を入れよ。
1180 年,平氏追討の命令を受けて,伊豆に流罪になっていた( ① )をはじめ,各地
の武士団が立ち上がり,全国的な争乱になっていった。この争乱は,(①)の弟である
( ② )の軍にせめられた平氏が長門(今の山口県)の( ③ )の戦いで滅亡するまで 5 年
間続き,源平の争乱と呼ばれている。
[解答欄]
①
②
③
[解答]① 源頼朝 ② 源義経 ③ 壇ノ浦
1
[問題](3 学期)
次の各問いに答えよ。
(1) 1180 年に源頼朝は挙兵したが,その後どこで指揮をと
ったか。①地名を答えよ。②右の地図中のどこか。
③現在の何県か。
(2) 源義経によって平家がほろぼされた場所はどこか。
①地名を答えよ。②右の地図中のどこか。③現在の何県か。
[解答欄]
(1)①
②
②
③
③
(2)①
[解答](1)① 鎌倉 ② A ③ 神奈川県 (2)① 壇ノ浦 ② E ③ 山口県
[解説]
きょへい
かまくら
源頼朝は,1180 年に挙兵 した後,鎌倉 (神奈川県)を
こんきょち
根拠地にして指揮をとった。鎌倉は東・北・西の三方を
さ が み わん
ようがい
山で囲まれ,南は相模湾に面した天然の要害である。
東・北・西のいずれから鎌倉に入るとしても「鎌倉七口」
きりどお
と呼ばれる,山を切り開いた狭い通路(切通し)を通らねばならなかった。このように,
きょてん
鎌倉は山と海に囲まれているので守りやすい土地であった。頼朝がここを拠点としたの
は,父祖ゆかりの土地であったこととともに,こうした地理的条件による部分が大きか
ったと思われる。
[問題](2 学期期末)
源頼朝は,鎌倉を本拠地に定めたが,その理由を
右の資料を参考にして,
「山と海」という語句を使って
簡潔に説明せよ。
[解答欄]
[解答]山と海に囲まれているので守りやすかったから。
2
[鎌倉幕府の始まり]
[問題](3 学期)
1185 年,源頼朝が朝廷に強くせまって設置することを認めさせた①国ごとに置いた役
職と,②荘園や公領ごとに置いた役職を,それぞれ書け。
[解答欄]
①
②
[解答]① 守護 ② 地頭
[解説]
みなもとのよりとも
ご し ら か わ じょうこう
源 頼 朝 の巨大化を恐れた後白河 上 皇 は,頼朝
よしつね
ふなか
と義経が不仲になったことにつけこみ,義経の願
ついとう
いを受けて頼朝追討を命じた。これに対して頼朝
は軍を京都に送って後白河上皇にせまり,義経を
しゅご
じとう
とらえることを名目に,国ごとに守護を,荘園や公領ごとに地頭を
かまくら
ほんきょち
ばくふ
任命する権利を獲得し,鎌倉を本拠地にして幕府を開いた。これ以
降,1333 年に滅亡するまでの約 150 年間を鎌倉時代という。守護
ご け に ん
とうそつ
はその国の御家人を統率し重い犯罪の取りしまりにあたった。地頭
ねんぐ
は年貢 の取りたてなどの荘園や公領の管理にあたった。義経は
ひらいずみ
こんきょち
おうしゅう
ふじわら し
平 泉 を根拠地にしていた 奥 州 の藤原氏をたよって逃れた。頼朝は
義経をかくまったことを理由に,奥州の藤原氏を攻めほろぼし,これまで独立性の強か
った東北地方も支配下においた。
せ い い たいしょうぐん
1192 年,源頼朝は朝廷より征夷 大 将 軍 に任じられた。 (いい国(1192)めざす)。
※かつては,1192 年に源頼朝が征夷大将軍に任命されたことをもって鎌倉幕府の成立と
かくとく
していたが,現在では,守護・地頭の任命権を獲得した 1185 年を鎌倉幕府成立の時期
とする説が有力になっている。
[問題](2 学期期末)
次の文章中の①∼⑥に適語を入れよ。
平氏滅亡後,源頼朝の巨大化を恐れた後白河上皇は,源頼朝の弟の( ① )に源頼朝
の追討を命じた。これに対して源頼朝は軍を京都に送って上皇にせまり,国ごとに
( ② )を,荘園や公領ごとに( ③ )を任命する権利を獲得し,( ④ )幕府を開いて
武家政治を開始した。さらに,弟の(①)が奥州の( ⑤ )氏のもとにのがれると,平泉を
拠点として栄えていた奥州の(⑤)氏をも攻めほろぼした。1192 年,朝廷より( ⑥ )に
任命された源頼朝は,政治制度を整えていった。
3
[解答欄]
①
②
⑤
⑥
③
④
[解答]① 源義経 ② 守護 ③ 地頭 ④ 鎌倉 ⑤ 藤原 ⑥ 征夷大将軍
[問題](3 学期)
右の肖像画の人物について,次の各問いに答えよ。
(1) この肖像画にえがかれている人物は誰だといわれているか。
(2) (1)の人物が設置した①守護,②地頭は,それぞれどんなところ
に置かれたか。
(3) (1)の人物が幕府を開いたのはどこか。
(4) (1)の人物が幕府を開いてはじまった時代を何時代というか。
(5) (1)の人物が朝廷から征夷大将軍に任命されたのは西暦何年か。
(6) (1)の人物がほろぼした奥州の藤原氏の本拠地であった町の名を書け。
[解答欄]
(1)
(2)①
(3)
(4)
[解答](1) 源頼朝
(2)① 国ごと
②
(5)
② 荘園や公領ごと
(6)
(3) 鎌倉
(4) 鎌倉時代
(5)
1192 年 (6) 平泉
[鎌倉幕府のしくみ]
[問題](2 学期期末)
次の各問いに答えよ。
(1) 鎌倉幕府の中央に置かれた役職で,御家人をまとめ軍事をあつかったのは何か。
(2) 問注所とはどのような仕事を担当する役職か。漢字 2 字で答えよ。
[解答欄]
(1)
(2)
[解答](1) 侍所 (2) 裁判
4
[解説]
さむらいどころ
鎌倉幕府の組織は,御家人をまとめ軍事をあつかう 侍 所 ,一般政務や財政をあつか
まんどころ
もんちゅうじょ
しゅご
しょうえん
こうりょう
う 政 所 ,裁判を行う問 注 所 からなっていた。また,国ごとに守護を,荘 園 や 公 領 ご
じとう
とに地頭を置いた。
しっけん
執権は将軍を助けて政治をおこなう最高職であるが,これが設けられたのは源頼朝の死
ろくはらたんだい
じょうきゅう
らん
後である。また,六波羅探題は,1221 年に起こった 承 久 の乱の後に,朝廷を監視す
るために設置された。
[問題](3 学期)
右の図は鎌倉幕府のしくみである。図の①∼⑥に入る
語句を,次の文を参考に,下の[
]から選んで書け。
① 将軍を助けて政治を行う。
② 御家人の統率,軍事を担当。
③ 幕府の財政などを担当。
④ 裁判を担当。
⑤ 国ごとに置かれ軍事を担当。
⑥ 荘園・公領の管理などを担当。
[ 侍所 執権 地頭 守護 政所 問注所 ]
[解答欄]
①
②
⑤
⑥
③
[解答]① 執権 ② 侍所 ③ 政所 ④ 問注所 ⑤ 守護 ⑥ 地頭
5
④
[御恩と奉公]
[問題](3 学期)
鎌倉時代の将軍と配下の武士(A)の関係は,右の図のようになる。
次の各問いに答えよ。
(1) 配下の武士(A)を何というか。
(2) 図中の a,b にあてはまる語句を次の説明を参考にして漢字で
書け。
a:将軍から,領地を認められ,守護や地頭に任命される。
b :「いざ,鎌倉!」というときには,命がけで戦う。
[解答欄]
(1)
(2)a
b
[解答](1) 御家人 (2)a 御恩 b 奉公
[解説]
ごおん
けらい
ご け に ん
御恩の中で一番重要なのは,家来となった武士(御家人)の
ほしょう
みなもとのよりとも
土地支配を保障したことであった。 源 頼 朝 は御家人に
じとう
せ ん ぞ でんらい
対し,おもに地頭に任命することによって,先祖伝来の
りょうち
領地の支配を保証した。国司や近隣諸勢力との争いに絶え
いっしょけんめい
ず悩まされていた武士にとって,「一所懸命」という言葉
がしばしば用いられたほど大切だった領地の支配権を認め
てもらうことは,何物にもかえがたい御恩であった。
このような御恩に対し,御家人は,平時には,京都や鎌倉
けいご
の警護にあたる義務を負い,戦時には,命をかけて鎌倉殿
ほうこう
(源頼朝)のために戦った。これが,奉公である。さらに,鎌倉殿のために,命をかけて
ぼっしゅう
おんしょう
戦って てがらをたてたときには, 没 収 した敵の領地を 恩 賞 として与えられたが,こ
れも御恩の 1 つである。
せんきょ
※現在なら,土地を暴力で占拠されたときは警察に訴えることができるし,隣の家との
境界線争いが生じたときは,裁判で決着をつけることができる。しかし,武士が発生し
た平安時代はそうはいかなかった。武力で土地をうばわれても国司などの役人が救って
くれるわけでもなく,また裁判に訴えることもできなかったからである。(国司は年貢を
しふく
多く徴収して私腹をこやすことには熱心でも,警察・裁判など本来はたすべき職務には
ほとんど無関心であった。)
鎌倉殿(源頼朝)の御家人となることによって,土地をうばわれそうになったときは,鎌
倉殿の指揮のもと,御家人が結束して敵を撃退してくれるし,また御家人同士の土地争
6
いが生じたときは鎌倉殿が公平に裁いてくれた。
しかし,それだけではまだ十分ではなかった。平安時代,自分で開発した土地であって
き し ん
も,国司からの税の取り立てをまぬかれるために土地を貴族や寺社に寄進し,自分は土
しょうかん
地を管理する荘 官 という私的な管理人という形式をとっており,法的には土地の所有者
し ゅ ご
じ と う
ではなかったからである。1185 年に,源頼朝は,朝廷にせまって守護・地頭を任命する
権限を得て,御家人をそれぞれの土地の地頭に任命した。この地頭職は,公的にも権限
を得た鎌倉殿(源頼朝)によって任命された公職であったから,御家人たちは,はじめて
国家公認の土地所有者になることができたのである。これが,御家人の鎌倉殿への信頼・
忠誠を絶対のものにしたのである。
[問題](2 学期中間)
次の文を読んで,後の各問いに答えよ。
鎌倉幕府の初代将軍の(
)は,彼と主従関係を結んだ武士を
統率し,武士による政治のしくみを整えていった。
(1) 文中の(
)にあてはまる人名を答えよ。
(2) 下線部について,このような武士は何と呼ばれたか。
(3) 右図について,①,②にあてはまる語句を答えよ。
[解答欄]
(1)
(3)①
(2)
②
[解答](1) 源頼朝 (2) 御家人 (3)① 御恩 ② 奉公
[問題](2 学期期末)
次の文章中の①∼③に適語を入れよ。
( ① )とは,将軍(鎌倉殿)が( ② )の領地を保護し,功績をたてたときには新しく
領地を与えることで,( ③ )とは,(②)が京都や鎌倉の警備や「いざ鎌倉」と戦いに一
族を率いて参加する義務のことである。
[解答欄]
①
②
③
[解答]① 御恩 ② 御家人 ③ 奉公
7
[問題](後期期末)
鎌倉時代の将軍と御家人の間の,
「御恩」と「奉公」とはどのようなことを意味するか。
それぞれ簡潔に説明せよ。
[解答欄]
御恩:
奉公:
[解答]御恩:御家人の以前からの領地を保護し,手がらに応じて新しい領地をあたえる
こと。 奉公:将軍に忠誠をちかい,合戦に出て戦ったり,京都や鎌倉の警備に出たり
すること。
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[全般]
[問題](3 学期)
次の年表について,後の各問いに答えよ。
年代
できごと
1185 年
平氏が滅亡。・・・ア
1185 年
源頼朝が鎌倉幕府を開く。・・・イ
1192 年
源頼朝が(
)に任命される。・・・ウ
(1) 年表中のアについて,①平家がほろぼされた地名を答えよ。②その場所を上の地図
中の A∼E から選べ。③平家をほろぼした源頼朝の弟にあたる武将は誰か。
(2) 年表中のイについて,源頼朝が朝廷に強くせまって設置することを認めさせた①国
ごとに置いた役職は何か。②また,荘園や公領ごとに置いた役職は何か。
(3) 年表中のウの(
)にあてはまる語句を答えよ。
(4) 右図は,源頼朝と配下の武士(図の c)の主従関係を表したもの
である。a∼c にあてはまる語句を答えよ。
(5) 鎌倉幕府の役職のうち,次の①∼③はそれぞれ何か。
① 御家人の統率,軍事を担当。
② 裁判を担当。
③ 幕府の財政などを担当。
[解答欄]
(1)①
②
③
(2)①
②
(3)
(4)a
b
c
(5)①
②
③
[解答](1)① 壇ノ浦
② E
③ 源義経
(2)① 守護
② 地頭
御恩 b 奉公 c 御家人 (5)① 侍所 ② 問注所 ③ 政所
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(3) 征夷大将軍
(4)a
【】執権政治
[執権政治]
[問題](1 学期期末)
次の文の①,②に適語を入れよ。
源頼朝の死後,幕府の実権は( ① )氏に移り,(①)氏が( ② )の地位を独占して幕
府の実権をにぎった。これを(②)政治という。
[解答欄]
①
②
[解答]① 北条 ② 執権
[解説]
みなもとのよりとも
よりいえ
1199 年に 源 頼 朝 が死んだ後,第 2 代将軍の源頼家
ご け に ん
と御家人や,御家人どうしの争いが起こり,やがて幕
ほうじょうときまさ
府の実権は有力な御家人をまとめた 北 条 時政(頼朝の
ほうじょう ま さ こ
妻 北 条 政子の父)がにぎった。以後,北条氏は将軍の
しっけん
力を弱めて執権の地位を独占して幕府の実権をにぎった。これを執権政治という。
[問題](2 学期期末)
次の各問いに答えよ。
(1) 源頼朝の死後,将軍の権力を弱めて「執権」の地位を独占した人物は誰か。下の[
]
から選べ。
[ 北条時政 源義経 藤原頼通 ]
(2) (1)の人物以後に行われた幕府の政治を何というか。
[解答欄]
(1)
(2)
[解答](1) 北条時政 (2) 執権政治
[問題](2 学期期末)
源頼朝の死後,北条氏の勢力はどのようになったか。
「執権」
「実権」という語句を使
って説明せよ。
[解答欄]
[解答]執権の地位を独占して幕府の実権をにぎった。
10
[承久の乱]
[問題](1 学期期末)
次の文を読んで,後の各問いに答えよ。
源頼朝の死後,幕府の実権は北条氏に移り,有力な御家人の争いが続いた。第 3 代将
軍の源実朝が殺害される事件が起きると,幕府の動揺を好機とみた上皇は,1221 年に,
執権北条義時追討の命令を出し,幕府を倒そうと兵をあげた。
(1) 文章中の下線部の上皇とはだれのことか。
(2) このできごとを何というか。
[解答欄]
(1)
(2)
[解答](1) 後鳥羽上皇 (2) 承久の乱
[解説]
ちょうてい
きぞく
武士の勢力が全国各地でのびていくにつれて, 朝 廷 や貴族の
しょうえん
じとう
反感は強まった。ことに貴族の経済的基礎である 荘 園 が地頭
によっておかされつつあったことは,危機感をいっそう増大さ
せた。
みなもとのよりとも
ご け に ん
源 頼 朝 の死後,幕府の実権は北条氏に移り,有力な御家人の争いが続いた。第 3 代
みなもとのさねとも
どうよう
こうき
ご と ば じょうこう
将軍の 源 実 朝 が殺害される事件が起きると,幕府の動揺を好機とみた後鳥羽 上 皇 は,
ほうじょうよしときついとう
1221 年に,第 2 代執権の 北 条 義時追討の命令を出し,幕府を倒そうと兵をあげた。こ
じょうきゅう
ときまさ
れが 承 久 の乱である。(人に二色(1221)承久の乱)(北条義時は初代執権北条時政の次男
まさこ
で,北条政子の弟である。)
この時代を「鎌倉時代」といっているが,実質的には朝廷と幕府の二大勢力が共存して
けんい
おり,天皇・上皇の朝廷の精神的な権威はいぜんとして大きかった。この知らせを聞い
ちょうてき
どうよう
た御家人たちは,朝廷方と戦えば「 朝 敵」となるのではないかと動揺した。
みぼうじん
まさこ
このような御家人を前に,源頼朝の未亡人である北条政子が,
「みなの者,よく聞きなさ
い。これが最後の言葉です。頼朝公が 朝廷の敵(平氏)をたおし,幕府を開いてこのかた,
官職といい,土地といい,その恩は山より高く,海よりも深いものでした。・・・名誉を大
ぎゃくしん
事にする者は,京都(朝廷)に向かって出陣し, 逆 臣 をうち取り幕府を守りなさい。
」
政子は次のようにも言っている。
「侍は,昔は 3 年のあいだ京都の守りにつくことを一
ろうとう
生の大事と思い,一族,郎党まで晴れやかに出発したが,3 年の京生活に力つき,国に
下るときははだしでやっと帰ってきた。それを頼朝殿があわれに思われて,3 年を半年
ごおん
に縮めてくださったので,皆よろこんだものだ。この御恩を忘れて,このたび京方へつ
ほうこう
くか,将軍に奉公するか,今はっきり言い切ってみなさい。
」これで流れは変わった。
11
ひさん
きょうぐう
御家人たちは,以前の悲惨な 境 遇 を思い出し,団結して朝廷に刃向かうことを決心し
たのである。
[問題](2 学期中間)
次の文章中の①∼④に適語を入れよ。
源頼朝の死後,幕府の実権は(
①
)氏に移った。朝廷の勢力の回復を図っていた
( ② )上皇は,第 3 代将軍の源実朝が殺害される事件が起きると,1221 年,執権であ
った( ③ )追討の命令を出して,幕府を倒すために兵を挙げた。この乱を( ④ )とい
う。
[解答欄]
①
②
③
④
[解答]① 北条 ② 後鳥羽 ③ 北条義時 ④ 承久の乱
[問題](2 学期中間)
次の資料を読んで,後の各問いに答えよ。
(資料) みなの者,よく聞きなさい。これが最後の言葉です。( A )公が B 朝廷の敵
をたおし,幕府を開いてこのかた,官職といい,土地といい,その恩は山より高く,海
よりも深いものでした。・・・名誉を大事にする者は,C 京都に向かって出陣し,逆臣をう
ち取り幕府を守りなさい。
(1) 資料の言葉は,①何という戦乱のときに,②だれが訴えたものか。
(2) A に入る人物は誰か。
(3) A の人物と(1)②の人物の関係は次の[
]のうちのどれか。1 つ選べ。
[ 兄と妹 母親と息子 父親と娘 夫と妻 ]
(4) 下線部 B は次の[
]のどれをさしているか。次の中から選べ。
[ 源氏 平氏 将軍 ]
(5) 下線部 C の京都で幕府を倒す命令を出した朝廷側の中心人物は誰か。
(6) (5)の人物が倒そうとしていた当時の幕府の執権は誰か。
[解答欄]
(1)①
②
(2)
(4)
(5)
(6)
(3)
[解答](1)① 承久の乱 ② 北条政子 (2) 頼朝(源頼朝) (3) 夫と妻 (4) 平氏 (5) 後
鳥羽上皇 (6) 北条義時
12
[承久の乱の結果]
[問題](1 学期期末)
承久の乱に勝利した幕府は,乱の首謀者である後鳥羽上皇を隠岐へ流し,京都に朝廷
を監視するための役所を置いた。この役所を何というか。
[解答欄]
[解答]六波羅探題
[解説]
じょうこうがた
幕府は大軍を率いて上 皇 方 を破り,後鳥
お き
羽上皇は隠岐(島根県)に流された。乱後,
幕府は,朝廷を監視するために,京都に
ろくはらたんだい
六波羅探題という役所を置いた。
また,上皇方についた貴族や西日本の武士の領地を取り
上げ,地頭に東国の御家人を任命した。これによって,幕府の支配力は全国的に広がっ
ていちだんと強まった。
[問題](2 学期期末)
次の文章中の①∼③に適語を入れよ。
承久の乱に勝利した幕府は,乱の首謀者である( ① )上皇を( ② )へ流し,京都に
( ③ )を置いて朝廷を監視した。また,上皇に味方した貴族や西日本の武士の領地を
取り上げ,その地頭には東日本の武士を任命した。こうして,幕府の支配力は全国的に
広がっていちだんと強まった。
[解答欄]
①
②
③
[解答]① 後鳥羽 ② 隠岐 ③ 六波羅探題
[問題](2 学期中間)
次の各問いに答えよ。
(1) 承久の乱の後,後鳥羽上皇が流された場所を,右図の A∼F
から選べ。
(2) 承久の乱の後,幕府が設置した六波羅探題は,①どこを監視
するために置いたか。②また,何という都市に置いたか。
13
(3) 承久の乱後,上皇に味方をした朝廷の人々や武士からとりあげた土地は(
文中の(
)。
)にあてはまる文を下のア∼ウから選べ。
ア 東国の武士に恩賞として与えられた
イ すべて幕府のものとした
ウ 上皇に味方した武士にもどされた。
(4) 承久の乱の結果について正しいものを,次のア∼エから 1 つ選び記号で答えよ。
ア 幕府の支配力がおとろえた。
イ 幕府の支配力が強まった。
ウ 全国的な戦乱の世となった。
エ 朝廷が政治の実権をにぎった。
[解答欄]
(1)
(2)①
(3)
②
(4)
[解答](1) F (2)① 朝廷 ② 京都 (3) ア (4) イ
[問題](2 学期期末)
承久の乱の後,京都に六波羅探題が新設されたが,その目的は何か。
「朝廷」という語
句を使って説明せよ。
[解答欄]
[解答]朝廷を監視するため。
[問題](3 学期)
承久の乱後に鎌倉幕府の支配力はどのように変化したか。
[解答欄]
[解答]鎌倉幕府の支配力は全国的に広がっていちだんと強まった。
[御成敗式目]
[問題](3 学期)
1232 年に,武家社会でおこなわれていたそれまでのしきたりや裁判の例をもとに 51
か条からなる法律がつくられた。これを何というか。次の[
[ 御成敗式目 大宝律令 建武式目 班田収授法 ]
14
]から選べ。
[解答欄]
[解答]御成敗式目
[解説]
この当時の法律としては,朝廷の律令などがあったが,ほとんど
くうぶんか
空文化していた。武家社会においては,武士がそれまで育んでき
かんしゅう
どうとく
ふんそう
きはん
た 慣 習 や道徳を重んじ,紛争を処理する規範としてきた。しか
し,
当時道理と呼ばれた慣習や道徳は,
地域によって異なったり,
むじゅん
じょうきゅう
じとう
相互に矛盾したりする場合もあった。また, 承 久 の乱の後,地頭の勢力が強くなり
しょうえん
りょうしゅ
荘 園 への支配権を拡大していったため,荘園 領 主 との間で争いがさらに激しくなった
が,このような場合,慣習や道徳だけで裁くことが困難であった。このような状況に対
ほうじょうやすとき
処し,公平な裁判制度を確立する目的もあって,1232 年,執権の北 条 泰 時 は,裁判の
ご せ い ば い しきもく じょうえい
基準として御成敗式目( 貞 永 式目)をつくった。(御成敗式目,一文(ひとふみ)に(1232))
※御成敗式目の中で注目すべきは,
「武士が 20 年の間,実際に土地を支配しているなら
ば,その権利を認める」ことを定めた条文で,これによって,武士の土地所有権が法的
にも保証された。
[問題](1 学期期末)
次の文中の①,②に適語を入れよ。
1232 年に,執権の( ① )は,武士の権利や義務をまとめた( ② )を制定した。
[解答欄]
①
②
[解答]① 北条泰時 ② 御成敗式目(貞永式目)
[問題](2 学期期末)
次の資料を読んで,後の各問いに答えよ。
「この式目は,ものの道理を書いたものである。真実よりもその人の勢力の強さによ
って判決したりすることもあるので,あらかじめ裁判の基準を定めて,公平に裁判でき
るように,こまかく書いておいたのである。律令に比べれば多くの人にわかりやすいよ
うに書いてある。また,武家の人々のためにつくったものであるから,このきまりによ
って朝廷の出す律令のきまりが変更されることはない。
」
(1) 上の資料にある「この式目」とは何か。
(2) (1)を定めた人物は誰か。
(3) (1)を定めた目的を資料から抜き出して答えよ。
15
[解答欄]
(1)
(2)
(3)
[解答](1) 御成敗式目(貞永式目) (2) 北条泰時 (3) あらかじめ裁判の基準を定めて,公
平に裁判できるように
16
[全般]
[問題](3 学期)
次の年表について,後の各問いに答えよ。
年代
できごと
1199 年
源頼朝が死去。・・・ア
1221 年
(
1232 年
武士の社会で行われていた慣習をまとめ
)の乱が起こる。・・・イ
た法律が制定される。・・・ウ
(1) 年表中のアについて,①源頼朝が死んだ後,実権をにぎったのは何氏か。②また,
①は何という地位を独占したか。
(2) 年表中のイの(
)にあてはまる語句を答えよ。
(3) (2)の乱を起こした上皇は誰か。
(4) (2)の乱のとき,御家人に対して「みなの者,よく聞きなさい。これが最後の言葉で
す。頼朝公が朝廷の敵をたおし,幕府を開いてこのかた,官職といい,土地といい,
その恩は山より高く,海より深いものでした。・・・」と説いたのは誰か。
(5) (2)の乱に勝利をおさめた幕府は京都に朝廷を監視するための役所を置いた。この役
所を何というか。
(6) 年表中のウについて,①この法律を何というか。②この法律を制定したのは誰か。
[解答欄]
(1)①
②
(2)
(3)
(4)
(5)
(6)①
②
[解答](1)① 北条氏 ② 執権 (2) 承久 (3) 後鳥羽上皇 (4) 北条政子 (5) 六波羅探
題 (6)① 御成敗式目(貞永式目) ② 北条泰時
17
【】武士と民衆の生活
[地頭の支配]
[問題](1 学期期末)
地頭の勢力が強くなり荘園への支配権を拡大していったため,荘園領主との間で争い
が激しくなった。
荘園領主は幕府に訴えて地頭の年貢未納をおさえようとした。
しかし,
現地に根を下ろした地頭の行動を阻止することは難しかったため,荘園の半分を地頭に
分ける妥協などが行われた。下線部を何というか。漢字 4 字で答えよ。
[解答欄]
[解答]下地中分
[解説]
農民は年貢を荘園や公領の領主におさめていたが,
じとう
地頭になった武士が土地や農民を勝手に支配する
ことが多く,地頭と領主との間には,争いがたび
たび起こった。この争いは幕府によって裁かれ,
したじちゅうぶん
土地の半分が地頭にあたえられたり(下地中分),地頭が一定の額の年貢をうけ負って,
領主におさめるようになったりした。こうして,土地に対する地頭の権利は,しだいに
領主と同じように強いものになっていった。
農民は荘園領主と地頭の二重支配に苦しんだが,農業生産の向上等によって力をつけた
農民は,村を中心に団結を強め,こうした支配にも集団で対抗するようになった。
[問題](2 学期期末)
右の資料は土地を地頭と領主(領家)に分けたことを示す絵
図である。この資料の説明として正しいものをア∼エより 1
つ選べ。
ア 領主の力が強くなった時代で,
地頭は口分田を管理した。
イ 領主の力が強くなった時代で,地頭は領主に従った。
ウ 地頭の力が強くなった時代で,地頭は領主と同等の力が
あった。
エ 地頭の力が強くなった時代で,守護大名になる者がいた。
[解答欄]
[解答]ウ
18
[問題](2 学期中間)
次の資料からわかることをア∼ウから 1 つ選べ。
(資料)『荘園領主への訴状』
材木の納入のことですが,地頭が何かにつけて人夫としてこき使うので,そのひまが
ありません。残されたわずかの者を,材木を山から運ぶために送ると,
「逃げた農民の畑
に麦をまけ」と地頭に追い返されてしまいました。・・・
ア 各地で土地の開墾がすすめられた。
イ 農民は荘園領主と地頭の二重支配に苦しんでいた。
ウ 農業生産が高まり,農民の生活は向上した。
[解答欄]
[解答]イ
[武士の生活]
[問題](2 学期中間)
武士は,つねに馬や弓矢の武芸によって心身をきたえて,武士らしい心がまえを持つ
ように努力していた。これを「何の道」と呼ぶか。
[解答欄]
[解答]弓馬の道(武士(もののふ)の道)
[解説]
ほり
へい
やかた
武士は荘園や公領に堀と塀をめぐらせた 館 を構えて生
げにん
活し,土地の開発を進め,下人や農民を使って農業を営
んでいた。
ぶげい
武士は常に馬や弓矢の武芸 によって心身をきたえた。
きゅうば
,「武士(もののふ)の道」と呼ばれる,名を
「弓馬の道」
はじ
重んじ,恥を知る態度などの武士らしい心構えが育っていった。武芸の訓練方法として
かさがけ
は,例えば,馬の上から的にした笠を射る笠懸,馬の上から連続した 3 つの的を射る
や ぶ さ め
いぬおうもの
流鏑馬,走る馬の上から犬を射る犬追物などがある。
19
そうりょう
武士の家は,一族の長である 惣 領 が中心となって子や兄弟などをまとめ,団結してい
ぶんかつそうぞく
た。領地は分割相続で,女子にもあたえられたので,女性の地頭も多くいた。
[問題](2 学期期末)
次の文章中の①∼④に適語を入れよ。
( ① )や公領に館を構えた武士は,つねに馬や弓矢の武芸によって心身をきたえて
いた。
「( ② )」や「武士(もののふ)の道」などと呼ばれる,名誉を重んじ,恥をきら
う態度や武士らしい心構えが育っていった。武士の家は,一族の長である( ③ )が中
心となって子や兄弟などをまとめ,団結していた。領地は( ④ )相続で,女子にもあ
たえられたので,女性の地頭も多くいた。
[解答欄]
①
②
③
④
[解答]① 荘園 ② 弓馬の道 ③ 惣領 ④ 分割
[問題](2 学期中間)
下の絵は,日ごろ御家人が行っていた武芸の訓練である。それぞれ何と呼ばれていた
か。下の[
]から選べ。
[ 犬追物 笠懸 流鏑馬 ]
[解答欄]
①
②
[解答]① 笠懸 ② 流鏑馬
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[問題](2 学期期末)
下の資料にえがかれている絵の中で,武士の館らしい,敵の攻撃に備えたつくりの特
徴を,簡潔に説明せよ。
[解答欄]
[解答]館のまわりに堀や塀をめぐらせている。
[農業の発達]
[問題](1 学期期末)
鎌倉時代,農業が発達し,1 つの耕地で米と裏作として麦を作る農業が行われた。こ
れを何というか。
[解答欄]
[解答]二毛作
[解説]
鎌倉時代,農業生産が向上した。これに関して,よく
にもうさく
ふきゅう
おもてさく
出題されるのは,二毛作の普及である。二毛作は 表 作
うらさく
として米を作り,裏作として麦を作るものであったが,
土地がやせるのをふせぐために,草や木を焼いた灰が
肥料として使われた。
また,1 つの土地を水田として利用した後,水を落として畑として使い,翌年ふたたび
かんがいようすい
水を引き込んで水田にするためには,灌漑用水の整備や田畑の耕作など手間がかかるよ
うになった。牛や馬の利用,鉄製の農具の普及による農作業の効率化によって,こうし
たことが可能になったと考えられる。
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[問題](3 学期)
次の文章中の①,②に適語を入れよ。
鎌倉時代,農業技術が進歩し,農業生産は高まった。( ① )や馬を使った耕作や,
裏作に麦を作る( ② )が広まり,草や木を焼いた灰が肥料として使われた。
[解答欄]
①
②
[解答]① 牛 ② 二毛作
[問題](3 学期)
鎌倉時代には農業技術が進歩したが,鎌倉時代に普及した農業技術にあてはまるもの
を,次のア∼エからすべて選び,記号で答えよ。
ア 牛馬による耕作
イ 備中ぐわ
ウ 二毛作
エ 灰を用いた肥料
[解答欄]
[解答]ア,ウ,エ
[解説]
イの備中ぐわは江戸時代である。
[商工業の発達]
[問題](2 学期中間)
鎌倉時代,寺社の門前や交通の便利なところで,月に 3 回ほど開かれていた市場を何
というか。
[解答欄]
[解答]定期市
[解説]
農業生産の向上は,農業以外にたずさわる人々を生み出す
よゆう
か じ や
そめもの
余裕を社会に与え,農村には,農具を作る鍛冶屋や染物を
こんや
あつかう紺屋などの手工業者が住みついた。
ていきいち
寺社の門前や交通の便利なところでは,
定期市が開かれ,
これらの物資が売買されるようになった。
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[問題](3 学期)
次の文章中の①,②に適語を入れよ。
鎌倉時代には農業生産が高まり,米の裏作に麦をつくる( ① )も行われるようにな
った。また,寺社の門前や交通の便利なところで( ② )が開かれ,米や布などの日用
品が売買された。
[解答欄]
①
②
[解答]① 二毛作 ② 定期市
[問題](3 学期)
資料のような定期市は,おもにどのような場所で
開かれたか,ア∼ウから 1 つ選び,記号で答えよ。
ア 寺社の門前など,交通の便利なところ。
イ 山に囲まれた交通の不便なところ。
ウ 海岸に築かれた石塁のあるところ。
[解答欄]
[解答]ア
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[全般]
[問題](1 学期期末)
鎌倉時代の武士と民衆の生活について,次の各問いに答えよ。
(1) 地頭と領主(領家)との間には,争いがたびたび
起こった。この争いは幕府によって裁かれ,右
の絵図のように土地の半分が地頭にあたえら
れたりした。これを何というか。
(2) 武士は,つねに馬や弓矢の武芸によって心身を
きたえて,武士らしい心がまえを持つように努
力していた。これを「何の道」と呼ぶか。
(3) 鎌倉時代,米の裏作として麦を作る農業が行われるようになった。この農業を何と
いうか。
(4) 寺社の門前や交通の便利なところで開かれた市場を何というか。
[解答欄]
(1)
(2)
(3)
(4)
[解答](1) 下地中分 (2) 弓馬の道(武士(もののふ)の道) (3) 二毛作 (4) 定期市
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【】鎌倉時代の文化と宗教
[東大寺南大門・金剛力士像]
[問題](2 学期中間)
次の写真を見て,各問いに答えよ。
(1) 写真 A は,現在の奈良市にある寺院の門である。この建物を何というか。
(2) 写真 B の仏像は,A の内部に置かれている。これを何というか。
(3) 写真 B から読みとれる,鎌倉時代の文化の特徴にあてはまるものを,次のア∼エか
ら 2 つ選べ。
ア 優美である イ 貴族の文化 ウ 素朴で力強い エ 武士の文化
[解答欄]
(1)
(2)
(3)
[解答](1) 東大寺南大門 (2) 金剛力士像 (3) ウ,エ
[解説]
かつやく
鎌倉時代には,武士がはなばなしく活躍し,民衆
でんとう
も力をつけ,貴族を中心にした伝統文化のうえに,
武士や民衆の,親しみがあり,力強い感じを与え
る文化が発達した。
ちょうこく
こんごう り き し ぞ う
うんけい
この時代の代表的な 彫 刻 は金剛力士像で,運慶
しゃじつてき
らの作である。写実的で力強い
のが特徴である。金剛力士像が
と う だ い じ なん だいもん
置かれている東大寺 南 大門 (現
在の奈良市にある)は鎌倉時代
に再建された。現在の 7 階建て
の建物ほどの高さがある大建築
で,中国の影響を受けている。
25
[問題](後期期末)
次の各問いに答えよ。
(1) 右の資料の像を何という
か。
(2) (1)の像の作者は誰か。1 人
あげよ。
(3) (1)の像が置かれている寺
の門を何というか。
(4) (3)の寺のある場所を地図
中の a∼d から選べ。
(5) 武士や民衆の力がのびた鎌倉時代の彫刻は,どのような特徴を持っているか。上の
資料を見て,簡潔に説明せよ。
[解答欄]
(1)
(2)
(3)
(4)
(5)
[解答](1) 金剛力士像 (2) 運慶 (3) 東大寺南大門 (4) d (5) 写実的で力強い。
[問題](2 学期期末)
鎌倉時代の文化の特色を「貴族」
「武士や民衆」
「力強い」の語句を使って説明せよ。
[解答欄]
[解答]貴族を中心にした伝統文化のうえに,武士や民衆の,親しみがあり,力強い感じ
を与える文化。
26
[文学]
[問題](3 学期)
琵琶法師によって広められた漢語や口語をまじえた文章で武士の活躍をえがいた物語
]の中から選べ。
は何か。次の[
[ 源氏物語 平家物語 新古今和歌集 方丈記 ]
[解答欄]
[解答]平家物語
[解説]
ぎ お ん しょうじゃ
かね
しょぎょう むじょう
ひびき
「 祇園 精 舎 の 鐘 の 声 , 諸 行 無常 の 響き あ
へ い け ものがたり
り。・・・」で始まるのは平家 物 語 である。平氏の
はんえい
ぼつらく
び わ
繁栄から没落 までをえがいた平家物語は,琵琶
ほうし
法師によって広められた。
ずいひつ
けんこう ほ う し
つれづれぐさ
随筆としては,兼好法師の徒然草(「つれづれな
すずり
かものちょうめい
ほうじょうき
るままに,日ぐらし 硯 にむかいて・・・」), 鴨 長 明 の方丈記(「ゆく河の流れは絶えず
ご と ば じょうこう
して,しかももとの水にあらず。・・・」)がある。和歌集としては,後鳥羽 上 皇 の命令で
し ん こ き ん わ かしゅう
藤原定家らが編集した新古今和歌集がある。
[問題](2 学期中間)
次の各問いに答えよ。
(1) 平氏の繁栄と滅亡を情感豊かにえがいた軍記物は何か。
(2) (1)の軍記物は,誰によって広められていったか。
(3) 次の①,②の随筆の作者を下の[
]からそれぞれ選べ。
① 「方丈記」 ② 「徒然草」
[ 紫式部 兼好法師 清少納言 鴨長明 ]
(4) 後鳥羽上皇の命令で編集された和歌集は何か。
[解答欄]
(1)
(2)
(3)①
②
(4)
[解答](1) 平家物語 (2) 琵琶法師 (3)① 鴨長明 ② 兼好法師 (4) 新古今和歌集
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[問題](2 学期中間)
次の①∼③にあてはまる文学作品を答えよ。
① 後鳥羽上皇の命令で藤原定家らが編集した和歌集。
② 鴨長明が社会のむなしさを説いた随筆。
③ 兼好法師が書いた随筆。
[解答欄]
①
②
③
[解答]① 新古今和歌集 ② 方丈記 ③ 徒然草
[問題](2 学期期末)
次の①∼③の書き出しで始まる文学作品名を書け。
① 祇園精舎の鐘の声,諸行無常の響きあり。・・・
② ゆく河の流れは絶えずして,しかももとの水にあらず。・・・
③ つれづれなるままに,日ぐらし硯(すずり)にむかいて,・・・
[解答欄]
①
②
③
[解答]① 平家物語 ② 方丈記 ③ 徒然草
[鎌倉仏教]
[問題](2 学期中間)
鎌倉時代には,新しい仏教の教えが広まった。これについて,次の各問いに答えよ。
(1) 次の念仏の 3 つの宗派名を下の[
]から選んで,それぞれ書け。
① 法然は,阿弥陀如来の救いを信じて一心に念仏を唱えることを説いた。
② 親鸞は,自分の罪を自覚した悪人こそが救われると説いた。
③ 一遍は,布教の方法として踊念仏を取り入れ,全国を歩きまわって布教した。
(2) 「法華経の題目を唱えれば,人も国家も救われる」と説いた宗派名を下の[
]か
ら選んで書け。
(3) 宋にわたった栄西や道元によって日本に伝えられた宗派名を下の[
書け。
[ 天台宗 時宗 日蓮宗 浄土宗 禅宗 浄土真宗 ]
[解答欄]
(1)①
②
③
(3)
[解答](1)① 浄土宗 ② 浄土真宗 ③ 時宗 (2) 日蓮宗 (3) 禅宗
28
(2)
]から選んで
[解説]
しゅうは
鎌倉時代にあらわれた仏教の各宗派 は簡単で
わかりやすく,実行しやすかったので,民衆の
心をとらえ広がっていった。
じょうどしんこう
ねんぶつ
第一は,平安時代の浄土信仰の流れをくむ念仏
な む あ み だ ぶ つ
ほうねん
じょうどしゅう
(南無阿弥陀仏)の系統である。法然は浄 土 宗 を
開き,きびしい修行を行わないでも,阿弥陀仏
とな
にすがり「南無阿弥陀仏」と唱 えさえすれば
ごくらくじょうど
おうじょう
極楽浄土に 往 生 できると説いた。
しんらん
じょうどしんしゅう
「善人で
法然の弟子の親鸞は浄土 真 宗 を開き,
すら往生できる,まして悪人ならなおさらのこ
あくにんしょうきせつ
とだ」という悪人正機説を唱えた。ここでいう
「悪人」とは「悩みの多い人」という意味である。慈悲深い阿弥
陀仏は,こうした悩める人こそ救おうとしているのだと説いた。
いっぺん
じしゅう
おどりねんぶつ
一遍は時宗を開き,布教の方法として右図のような踊 念 仏 を取
り入れ,全国を歩きまわって布教した。(かねをたたき足をふみな
らして「南無阿弥陀仏」を唱える様子がうかがえる)
ぜんしゅう
えいさい
りんざいしゅう
ざぜん
第二は,禅 宗 の系統である。栄西は宋にわたって禅宗を学び,臨 済 宗 を開いた。座禅
というきびしい修行を通して自分でさとりを開くことを重視したが,これは武士の気風
どうげん
によく合ったため,武士の間に広がり,幕府の保護を受けた。道元は,ただひたすら座
そうとうしゅう
禅に徹せよと説き,山中にこもって曹 洞 宗 を開いた。
だいもく なむみょうほうれんげきょう
にちれん
ほっけしゅう
ほけきょう
第三は,題目(南無妙法蓮華経)の系統である。日蓮は日蓮宗(法華宗)を開き,法華経こ
そ仏教の根本であると説き,他宗をきびしく批判した。
[問題](1 学期期末)
次の表は,鎌倉時代の仏教の宗派である。①∼⑥にあてはまる人物名を入れよ。ただ
し,⑤と⑥は順不同である。
宗 派
人物
内
容
浄土宗
①
一心に念仏を唱えれば極楽浄土に往生できる。
浄土真宗
②
自分の罪を自覚した悪人ほど救われる。
時宗
③
踊念仏
法華宗
④
題目を唱えれば人も国家も救われる。
禅宗
⑤・⑥
座禅を組むことによって自分の力でさとりを開く。
29
[解答欄]
①
②
⑤
⑥
③
④
[解答]① 法然 ② 親鸞 ③ 一遍 ④ 日蓮 ⑤ 栄西 ⑥ 道元
[問題](3 学期)
次の表は鎌倉時代におこった新しい仏教を示したものである。①∼⑧にあてはまる語
句を書け。
宗派名
( ① )
人物名
法然
時宗
( ③ )
( ④ )
親鸞
臨済宗
( ⑤ )
曹洞宗
道元
( ⑥ )
( ⑦ )
教 え
どのような人間でも,阿弥陀如来の力にすがり,( ② )(2 字)
を唱えれば,極楽浄土に生まれ変わることができる。
心ひとすじに(②)を唱え,踊ることによって,仏の境地に達す
ることができる。
自分の罪の深さを自覚し,(②)を唱えるものは,悪人こそ救わ
れる。
仏の教えの中心は禅であり戒律であるとし,国が禅を保護し,
戒律を守る者が増えれば,国は守られる。
文字や知識に頼らず,ひたすらに座禅を行なうことによって,
仏の境地に達することができる。
シャカのほんとうの教えは法華経にあり( ⑧ )(2 字)を唱え
れば,国も人も安らかになる。
[解答欄]
①
②
③
④
⑤
⑥
⑦
⑧
[解答]① 浄土宗 ② 念仏 ③ 一遍 ④ 浄土真宗 ⑤ 栄西 ⑥ 日蓮宗(法華宗) ⑦
日蓮 ⑧ 題目
[問題](2 学期期末)
右の表を見て,次の各問いに答えよ。
(1) 右の表中の A∼D にあてはまる宗派名や開祖名
を書け。
(2) 次の仏教の教えは,表中のア∼オのどれにあて
はまるか。1 つずつ選び,記号で書け。
① 座禅により自分の力でさとりを開く。
宗派
浄土宗
( B )宗
日蓮宗
( C )宗
時宗
② 諸国を歩いて布教し,踊念仏をはじめる。
③ 「南無妙法蓮華経」と唱えれば,人も国家も救われる。
30
開祖
(A)
親鸞
日蓮
栄西・道元
(D)
教え
ア
イ
ウ
エ
オ
[解答欄]
(1)A
B
C
(2)①
②
③
D
[解答](1)A 法然 B 浄土真 C 禅 D 一遍 (2)① エ ② オ ③ ウ
[問題](2 学期中間)
次の各問いに答えよ。
(1) 右の資料は時宗の信仰の様子がえがかれている。何をして
いるところか。漢字 3 字で答えよ。
(2) 「南無阿弥陀仏」を何というか。漢字 2 字で答えよ。
(3) 「南無妙法蓮華経」を何というか。漢字 2 字で答えよ。
(4) 禅宗では,
何による修行を重んじたか。
漢字 2 字で答えよ。
[解答欄]
(1)
(2)
(3)
(4)
[解答](1) 踊念仏 (2) 念仏 (3) 題目 (4) 座禅
[問題](2 学期期末)
次の各問いに答えよ。
(1) 念仏を漢字 6 字で書け。
(2) 題目を漢字 7 字で書け。
[解答欄]
(1)
(2)
[解答](1) 南無阿弥陀仏 (2) 南無妙法蓮華経
[問題](2 学期中間)
鎌倉時代の新しい仏教の特色を次のア∼エから 1 つ選べ。
ア いずれも人里離れた山奥での修行を重んじた。
イ 武士の気風に合った宗派が多かったことから,幕府に保護された。
ウ わかりやすく,実行しやすい教えが多く,武士や民衆の間に広まった。
エ 武家の精神に反するとして,幕府より厳しい迫害を受けた。
[解答欄]
[解答]ウ
31
[問題](2 学期中間)
鎌倉時代に新しい仏教がおこってきたが,それらの教えが急速に広まっていった理由
を簡潔に説明せよ。
[解答欄]
[解答]鎌倉仏教はわかりやすく,実行しやすかったので。
32
[全般]
[問題](3 学期)
次の各問いに答えよ。
(1) 写真 A は,現在の奈良市にある寺院の門である。こ
の建物を何というか。
(2) 写真 B の像は,A の内部に置かれている。この像を何というか。
(3) (2)の作者は誰か。1 人あげよ。
(4) B に見られる,この時代の文化の特徴を次から 1 つ選んで記号で答えよ。
ア 素朴で力強い
イ 世のはかなさ
ウ 貴族の優美な感情
(5) 資料 C は,武士の活躍をえがいた軍記物の代表作の一部である。この作品名は何か。
(6) (5)の軍記物は,誰によって広められていったか。
(7) 後鳥羽上皇の命令で藤原定家らが編集した和歌集は何か。
(8) 「徒然草」の作者は誰か。
(9) 「方丈記」の作者は誰か。
(10) 鎌倉仏教について,次の①∼⑤に関係のある宗派の名前と,それを開いた人物の名
前を答えよ。
① 諸国を歩いて布教し,踊念仏をはじめる。
② 自分の罪の深さを自覚し,念仏を唱えるものは,悪人こそ救われる。
③ 題目を唱えれば人も国家も救われる。
④ 一心に念仏を唱えれば極楽浄土に往生できる。
⑤ 座禅を組むことによって自分の力でさとりを開く。
(宗派名は漢字 2 字で答えよ。人物は 2 人あげよ)
[解答欄]
(1)
(2)
(3)
(4)
(5)
(6)
(7)
(8)
(9)
(10)①
③
②
④
⑤
33
[解答](1) 東大寺南大門 (2) 金剛力士像 (3) 運慶 (4) ア (5) 平家物語 (6) 琵琶法
師 (7) 新古今和歌集 (8) 兼好法師 (9) 鴨長明 (10)① 時宗,一遍 ② 浄土真宗,
親鸞 ③ 日蓮宗(法華宗),日蓮 ④ 浄土宗,法然 ⑤ 禅宗,栄西と道元
34
【】モンゴルの襲来と鎌倉幕府の滅亡
[モンゴル帝国・元]
[問題](2 学期期末)
13 世紀のはじめ,モンゴル高原で遊牧生活をしていたモンゴルの部族を統一して国を
建設したのは誰か。
[解答欄]
[解答]チンギス・ハン
[解説]
13 世紀の初め,チンギス・ハンは,モンゴルの部
族を統一して国を建設した。その子や孫は,その
国を広大なユーラシア大陸の東西にまたがるモン
ていこく
ゴル帝国に成長させた。
5 代目のフビライ・ハンは,モンゴル帝国のうち,
中国・モンゴルなどの地域を本国として,1271
だいと
ぺきん
げん
年に首都を大都(現在の北京)におき,国号を元と定めた。
そう なんそう
さらに,1279 年には宋(南宋)をほろぼし中国全土を支配下に置
いた。イタリアの商人マルコ・ポーロはフビライに 17 年間仕
とうほうけんぶんろく
え,帰国後,その体験をもとに「東方見聞録」を著した。その
中で日本のことを「黄金の国ジパング」として紹介した。
[問題](2 学期期末)
次の文章中の①∼⑤に適語を入れよ。
13 世紀の初め,( ① )はモンゴル民族を統一して国を建設した。(①)の子や孫は,
その国を広大なユーラシア大陸の東西にまたがる( ② )帝国に成長させた。5 代目の
( ③ )は,(②)帝国のうち,中国・モンゴルなどの地域を本国として,国号を( ④ )
と定めた。(④)に来て(③)に仕えたイタリアの商人( ⑤ )は,
「東方見聞録」を著して日
本のことを「黄金の国ジパング」としてヨーロッパに紹介した。
[解答欄]
①
②
④
⑤
③
[解答]① チンギス・ハン ② モンゴル ③ フビライ・ハン ④ 元 ⑤ マルコ・ポー
ロ
35
[問題](3 学期)
右の地図を見て,後の各問いに答えよ。
(1) 地図中 A の国名と都を答えよ。
(2) A の国を建国した皇帝の名前を答えよ。
(3) (2)の人物は,1279 年に中国のある王朝
をほろぼして中国全土を支配下に置い
た。中国の何という王朝をほろぼしたの
か。
(4) 地図中 B は,(2)の人物につかえ,その著
書の中で日本をヨーロッパに紹介した
イタリア商人の通った行路である。
① この商人の名を答えよ。
② 日本を紹介した著書の名前を答えよ。
③ ②の中で日本を「○○の国ジパング」と紹介している。○○にあてはまる語句
を答えよ。
[解答欄]
(1)
(2)
(3)
(4)①
②
③
[解答](1) 元,大都 (2) フビライ・ハン (3) 宋(南宋) (4)① マルコ・ポーロ ② 東
方見聞録 ③ 黄金
[元寇]
[問題](1 学期期末)
元のフビライ・ハンは日本に服属を求める使者を送ってきたが,これを執権の北条時
宗が退けたため,1274 年と 1281 年の 2 度にわたって日本に攻め込み,集団戦法と優れ
た火器で幕府軍をなやませた。この 2 度にわたる元の襲来をあわせて何というか。
[解答欄]
[解答]元寇
36
[解説]
こうらい
せいふく
元のフビライ・ハンは高麗を征服した後,日本も従
しっけん ほうじょう
うようにと使者を送ってきた。幕府の執権 北 条
ときむね
き
きょぜつ
時宗は使者を斬って,これを拒絶した。
はかた
しゅうだん
1274 年,元軍 3 万が九州の博多湾に上陸し,集 団
せんぽう
か き
戦法とすぐれた火器によって日本軍をなやました
ないふん
ぼうふうう
ぶんえい
えき
すえ,内紛や暴風雨のために引き上げた(文永の役)。
さらに,
1281 年,
約 14 万の大軍で,
しゅうらい
襲 来 した。幕府軍は,博多湾沿い
せきるい
に築いた石塁を利用して戦った。元
ぼうふうう
の大軍は上陸できないまま,暴風雨に襲われて大損害を
こうあん
こうあん
受けて退却した(弘安の役)。(一風灰に(1281)に弘安の役)
げんこう
この 2 度の元の襲来をあわせて元寇という。
[問題](後期期末)
次の各問いに答えよ。
(1) 上の絵にえがかれている戦いを何というか。漢字 2 字で書け。
(2) (1)のときの,①幕府の執権は誰か。②敵国の皇帝は誰か。
(3) (1)の戦いで,日本側からみて,敵側の戦い方の特徴を 2 つ書け。
[解答欄]
(1)
(2)①
②
(3)
[解答](1) 元寇 (2)① 北条時宗 ② フビライ・ハン (3) 集団戦法とすぐれた火器を使
用した。
37
[問題](2 学期期末)
次の文章中の①∼⑧に適語を入れよ。
フビライ・ハンは朝鮮半島の( ① )を征服した後,日本も従うようにと使者を送っ
てきた。幕府の執権( ② )は使者を斬って,これを拒絶した。1274 年,元は(①)の軍
勢も合わせて九州の博多湾に上陸し,( ③ )戦法とすぐれた( ④ )によって日本軍を
なやましたすえ,引き上げた(( ⑤ )の役)。さらに,1281 年,約 14 万の大軍で襲来し
た。幕府軍は,博多湾沿いに築いた( ⑥ )を利用して戦った。元の大軍は上陸できな
いまま,暴風雨に襲われて大損害を受けて退却した(( ⑦ )の役)。この 2 度の元の襲来
をあわせて( ⑧ )という。
[解答欄]
①
②
③
④
⑤
⑥
⑦
⑧
[解答]① 高麗 ② 北条時宗 ③ 集団 ④ 火器 ⑤ 文永 ⑥ 石塁 ⑦ 弘安 ⑧ 元
寇
[問題](3 学期)
次の各問いに答えよ。
(1) 元は 1274 年と 1281 年の 2 度にわたって日本に襲来したが,これをあわせて何と
いうか。
(2) (1)のときの元の皇帝は誰か。
(3) (1)のときの鎌倉幕府の執権は誰か。
(4) 図 1 は 1274 年に元が襲来したときの様子である。この戦いを何の役というか。
(5) (4)の戦いのとき,元が攻めてきたのはどこか。①地名を答えよ。②その場所は図 2
のア∼カのうちのどこか。記号で答えよ。
(6) 図 1 の A,B のうち,日本軍はどちらか。
(7) 元軍が日本軍を苦しめた理由について,図 1 を参考に,簡潔に説明せよ。
38
(8) 右の資料は,元軍との 1 回目の戦いの後,元の再度の襲
来に備えて,日本軍が(5)の湾岸に築きあげたものである。
これを何というか。
(9) 元は,中国の何という王朝をほろぼしたあと,ふたたび
日本に襲来したか。
(10) (9)の戦いを何の役というか。
(11) (4)の役と(10)の役では,どちらが日本に来襲した兵の数が多いか。
「○○の役」と
いう形で答えよ。
[解答欄]
(1)
(2)
(3)
(5)①
②
(6)
(4)
(7)
(8)
(9)
(10)
(11)
[解答](1) 元寇 (2) フビライ・ハン (3) 北条時宗 (4) 文永の役 (5)① 博多 ② カ
(6) B (7) 集団戦法とすぐれた火器を使用したから。 (8) 石塁 (9) 宋(南宋) (10) 弘
安の役 (11) 弘安の役
[御家人の不満]
[問題](2 学期期末)
次の文章中の①∼③に適語を入れよ。
元寇は,国内の戦いと違って,戦いに勝っても敵の( ① )を得たわけではないので,
幕府は合戦に参加した武士に恩賞として(①)を与えることができなかった。鎌倉時代の
将軍と御家人の関係は,御家人が一族を率いて戦いに参加するなどの( ② )と,戦い
に勝ったときは(①)を与えるという( ③ )によって支えられていた。戦いに参加したの
に(①)がもらえないというのは,この関係を破るものであり,御家人は幕府に対して不
満をいだくようになった。
[解答欄]
①
②
③
[解答]① 土地 ② 奉公 ③ 御恩
[解説]
国内の戦いに勝ったのであれば,倒した敵の土地を,て
おんしょう
がらに応じて 恩 賞 として分け与えることになる。しか
げんこう
し,元寇の場合は,戦いに勝っても土地が増えたわけで
39
ご け に ん
はなかったので,幕府は御家人に恩賞として土地を与えることができなかった。当時は
出陣のために要する費用はすべて自分持ちであったから,恩賞はそれを補うという意味
ごおん
ほうこう
もあったのである。恩賞を出さない(出せない)というのは,御恩と奉公という関係から
見れば,重大な契約違反といってもよいことなのである。御家人が幕府に対して不満を
いだくようになったのは当然のことである。
[問題](3 学期)
元との合戦に参加した武士が幕府に不満を持つようになった理由を,
「恩賞」という語
句を使って簡潔に説明せよ。
[解答欄]
[解答]幕府が恩賞として土地を与えることができなかったため。
[問題](3 学期)
元寇のとき命がけで戦った御家人に,幕府は恩賞として土地を与えることができなか
ったが,それはなぜか。簡潔に説明せよ。
[解答欄]
[解答]国内の戦いと違って,戦いに勝っても土地が増えたわけではなかったから。
[永仁の徳政令]
[問題](3 学期)
領地の分割相続などによって生活が苦しくなっていた御家人を救うために,1297 年に
鎌倉幕府が出した法律は何か。
[解答欄]
[解答]永仁の徳政令
[解説]
ご け に ん
鎌倉時代の中ごろから,鎌倉幕府を支える御家人の生活
ぶんかつ そうぞく
は苦しくなっていった。その原因は,分割相続である。
ぶんかつそうぞく
当時は兄弟で親の財産(土地)を分けて相続する分割相続
じょうきゅう
らん
おんしょう
が行われていた。 承 久 の乱など国内の戦いで 恩 賞 と
りょうち
して領地を増やすことができる間はよかったが,戦いが
40
なくなって領地の増加がなくなると,何代か分割相続をくりかえしていくうちに領地が
細分化されてしまい,収入が減少し生活が苦しくなっていった。御家人のなかには,高
きゅうぼう
利貸しからの借金が返せず土地を失う者が出てきた。幕府を支える御家人の 窮 乏 を救
えいにん
とくせいれい
うため,幕府は 1297 年に永仁の徳政令を出して,御家人の領地の質入れや売却を禁止
し,それまでに売ったり質流れになったりした土地をもとの持ち主である御家人にただ
で返させることとした。しかし,これによっても御家人の窮乏を救うことはできず,か
えって,それまで金を融通していた高利貸しが金を貸さなくなるなど逆効果になり,幕
府の信用を失わせる結果になった。(皮肉な(1297)結果に徳政令)
[問題](3 学期)
次の各問いに答えよ。
[資料]
領地の質入れや売買は,御家人の生活が苦しくなるもとなので,今後は禁止する。
・・・
御家人以外の武士や庶民が御家人から買った土地については,売買後の年数にかかわり
なく,返さなければならない。
(1) 1297 年に出された上の法律を何というか。
(2) (1)の法律の目的を「御家人」という語句を使って説明せよ。
[解答欄]
(1)
(2)
[解答](1) 永仁の徳政令 (2) 領地を質入れしたり,売ったりした御家人を救うため。
[問題](3 学期)
永仁の徳政令を幕府が出したのは,御家人の生活を救うためである。この当時,幕府
の御家人の生活が苦しくなった原因を「相続」の語句を用いて説明せよ。
[解答欄]
[解答]分割相続によって領地が細分化されたため。
41
[鎌倉幕府の滅亡]
[問題](3 学期)
鎌倉幕府への反感が強まる中,政治の実権を朝廷に取りもどすために兵を挙げ,鎌倉
幕府をほろぼした天皇は誰か。
[解答欄]
[解答]後醍醐天皇
[解説]
かまくら ば く ふ
めつぼう
ご け に ん
1333 年に鎌倉幕府は滅亡した。滅亡の原因の第一は,御家人
きゅうぼう
りょうち
ぶんかつそうぞく
の 窮 乏 と不満である。領地の分割相続によって御家人は次
きゅうぼう
げんこう
おんしょう
第に 窮 乏 していった。また,元寇のとき 恩 賞 がほとんども
ごおん
ほうこう
らえなかったことで幕府への不満が広がった(御恩と奉公に
えいにん
とくせいれい
おける重大な契約違反)。幕府は永仁の徳政令を出したが,そ
の効果はうすく,かえって御家人の不満と不信をまねく結果
どうよう
ほうじょう し
せんせい
に終わった。このような動揺をおさえるため 北 条 氏は専制政治を強化したが,それは
ますます御家人の不満をつのらせる結果になった。
滅亡の原因の第二は,鎌倉中期以降の経済発展によって社会が大きく変動し,それにと
もなって,新しい武士階層が出てきたことである。農村経済の発達とそれにともなう商
業の発達によって経済力をたくわえた御家人ではないあらたな武士が成長していった。
しょうえん
ねんぐ
うば
ちつじょ
みだ
あくとう
彼らの中には,荘 園 の年貢を奪うなど,幕府の秩序を乱す者もおり,悪党とよばれた。
しょうえんりょうしゅ
悪党はやがて各地に広がっていき,百姓の抵抗運動とともに,荘 園 領 主 や幕府を悩ま
すようになっていった。
ご だいご
幕府のおとろえをみた後醍醐天皇は,幕府をたおして天皇中心の政治を取りもどそうと
くすのきまさしげ
考え,楠木正成など,悪党とよばれた武士たちによびかけて兵をあげた。これに対して
あしかがたかうじ
幕府は,大軍を京都にのぼらせた。しかし,有力な御家人の足利尊氏 は,幕府にそむ
ろくはらたんだい
に っ た よしさだ
いて,1333 年,京都の六波羅探題を攻め落とし,新田義貞も鎌倉に攻め込んで,鎌倉
幕府をほろぼした。(一味さんざん(1333)鎌倉滅ぶ)
42
[問題](3 学期)
次の文の①∼⑧にはいる適語を下の[
]からそれぞれ選べ。
御家人は,元寇のときに多くの費用を使ったのに,恩賞を十分に与えられなかったた
め,幕府に不満をもつようになった。また,農業と商業の発達は,御家人たちの生活に
大きな影響をあたえた。御家人のなかには,( ① )からの借金が返せなくて,領地を
失う者も出てきた。幕府は( ② )を出して,売ったり質流れになったりした土地を,
もとの持ち主にただで返させようとした。しかし,効果は一時的なもので,かえって幕
府は信用を失う結果になった。
このようにして,鎌倉幕府はゆるぎはじめた。そのうえ,武士のなかには鎌倉幕府の
政治や荘園の支配に反抗する者も出はじめた。このような人たちを悪党と呼んだ。
こうした幕府のおとろえをみて,( ③ )は,幕府をたおして( ④ )中心の政治を取
りもどそうと考え,( ⑤ )など悪党と呼ばれた武士たちによびかけて兵をあげた。
これに対して幕府は,大軍を京都にのぼらせた。しかし,有力な御家人の( ⑥ )は,
幕府にそむいて,1333 年,京都の六波羅探題を攻め落とし,( ⑦ )も鎌倉に攻め込ん
で,鎌倉幕府をほろぼした。
鎌倉幕府がほろびると,(③)は(④)中心の政治をめざした。
この政治を( ⑧ )という。
[ 足利尊氏 足利義満 足利義政 新田義貞 楠木正成 後醍醐天皇 後鳥羽上皇
高利貸し 徳政令 天皇 貴族 建武の新政 ]
[解答欄]
①
②
③
④
⑤
⑥
⑦
⑧
[解答]① 高利貸し ② 徳政令 ③ 後醍醐天皇 ④ 天皇 ⑤ 楠木正成 ⑥ 足利尊氏
⑦ 新田義貞 ⑧ 建武の新政
43
[全般]
[問題](前期中間)
次の各問いに答えよ。
(1) 13 世紀のはじめ,モンゴル高原で遊牧生活をしていたモンゴルの部族を統一した人
物は誰か。
(2) (1)の子や孫が建設した帝国の名前を答えよ。
(3) (2)の帝国のうち,中国・モンゴルなどの地域を支配した 5 代目の皇帝は誰か。
(4) (3)は国号を何と定めたか。漢字 1 字で答えよ。
(5) (3)に仕えて,のちに「東方見聞録」を書いたイタリア人は誰か。
(6) (4)が,2 度にわたり日本をおそったことを何というか。
(7) (6)のときの日本の執権の名前を答えよ。
(8) (4)の軍隊が日本軍を苦しめた理由について,
「集団」
「火器」という語句を使って簡
潔に説明せよ。
(9) (4)の再度の襲来に備えて,日本軍が博多湾岸に築きあげたものは何か。
(10) 次の文中の①,②にあてはまる語句を書け。
鎌倉時代の将軍と御家人は,御恩と( ① )の関係を築いてきた。しかし(4)との
戦いで,恩賞として( ② )を与えることができなかったため,この関係はゆらぎ
始めた。
(11) 次の資料は,1297 年に出されたものである。この法律を何というか。
領地の質入れや売買は,御家人の生活が苦しくなるもとなので,今後は禁止す
る。・・・ 御家人以外の武士や庶民が御家人から買った土地については,売買後の年
数にかかわりなく,返さなければならない。
(12) 鎌倉時代後期,幕府の政治に抵抗するようになった,御家人ではない武士を何とい
うか。
(13) 鎌倉幕府への反感が強まる状況の中,政治の実権を朝廷に取りもどすために兵を挙
げた天皇は誰か。
(14) 幕府にそむいて,京都の六波羅探題を攻めた有力な御家人は誰か。
[解答欄]
(1)
(4)
(2)
(5)
(3)
(6)
(8)
(7)
(9)
(10)①
②
(13)
(14)
(11)
44
(12)
[解答](1) チンギス・ハン (2) モンゴル帝国 (3) フビライ・ハン (4) 元 (5) マル
コ・ポーロ (6) 元寇 (7) 北条時宗 (8) 集団戦法とすぐれた火器を使用したから。
(9) 石塁
(10)① 奉公
② 土地
(11) 永仁の徳政令
(14) 足利尊氏
45
(12) 悪党
(13) 後醍醐天皇
【】総合問題
[問題](要点整理)
次の年表中の①∼⑰に適語を入れよ。
年代
おもなできごと
1185 年
( ① )が,( ② )(現在の山口県)で平氏をほろぼす。
1185 年
国ごとに( ③ ),荘園や公領ごとに( ④ )を設置し,
( ⑤ )が( ⑥ )幕府を開く。
1192 年
(⑤)が( ⑦ )に任命される。
将軍と( ⑧ )の主従関係:将軍は( ⑨ )として(⑧)に以前からの領地
を保護し新しい領地を与えた。(⑧)は将軍に忠誠を誓い,( ⑩ )をした。
(⑤)の死後,北条氏が( ⑪ )の地位を独占して(⑪)政治を行う。
1221 年
( ⑫ )上皇が( ⑬ )の乱を起こすが,敗れる。
(⑬)の乱後,幕府は,京都に( ⑭ )を置いて朝廷を監視。
1232 年
公正な裁判を行うために,北条泰時が( ⑮ )を制定。
農業:米の裏作に麦をつくる( ⑯ )が行われるようになった。
商業:寺社の門前などで( ⑰ )市が開かれた。
[解答欄]
①
②
③
④
⑤
⑥
⑦
⑧
⑨
⑩
⑪
⑫
⑬
⑭
⑮
⑯
⑰
[解答]① 源義経 ② 壇ノ浦 ③ 守護 ④ 地頭 ⑤ 源頼朝 ⑥ 鎌倉 ⑦ 征夷大将
軍
⑧ 御家人
⑨ 御恩
⑩ 奉公
⑪ 執権
⑫ 後鳥羽
⑮ 御成敗式目(御成敗式目) ⑯ 二毛作 ⑰ 定期
46
⑬ 承久
⑭ 六波羅探題
[問題](要点整理)
次の年表中の①∼⑭に適語を入れよ。
年代
13 世紀初
おもなできごと
( ① )・ハンがモンゴルの部族を統一し,
その子孫が( ② )帝国を建設。
1271 年
5 代目の( ③ )・ハンが,都を大都(北京)に移し国号を( ④ )と定める。
1274 年
文永の役:(④)の軍が,博多湾岸に襲来。幕府の執権は( ⑤ )。
( ⑥ )戦法とすぐれた( ⑦ )により幕府軍をなやませる。
1281 年
弘安の役:博多湾岸に築いた( ⑧ )などの防備で応戦。
文永の役と弘安の役をあわせて( ⑨ )という。
幕府は恩賞として土地を与えることができなかった→御家人の不満。
( ⑩ )相続により土地が細分化されて御家人の生活が苦しくなる。
荘園領主や幕府に従わず,年貢をうばう( ⑪ )と呼ばれる武士も登場。
1297 年
( ⑫ )令:御家人を救うために幕府が出す。
( ⑬ )天皇が,朝廷に実権を取りもどすために幕府を倒そうとする。
1333 年
(⑪)の楠木正成や,有力御家人の( ⑭ )や新田義貞が味方して,鎌倉幕
府をほろぼす。
[解答欄]
①
②
③
④
⑤
⑥
⑦
⑧
⑨
⑩
⑪
⑫
⑬
⑭
[解答]① チンギス
② モンゴル
③ フビライ
④ 元
⑤ 北条時宗
⑥ 集団
⑦
火器 ⑧ 石塁 ⑨ 元寇 ⑩ 分割 ⑪ 悪党 ⑫ 永仁の徳政 ⑬ 後醍醐 ⑭ 足利尊
氏
47
[問題](要点整理)
次の表中の①∼⑱に適語を入れよ
仏教
( ① )宗:( ② )(開祖):念仏を唱えれば極楽浄土に往生できる。
( ③ )宗:( ④ )(開祖):②の弟子。罪を自覚した悪人ほど救われる。
( ⑤ )宗:( ⑥ )(開祖):踊念仏
( ⑦ )宗:(⑦)(開祖):題目を唱えれば人も国家も救われる。
( ⑧ )宗:曹洞宗の( ⑨ ),臨済宗の( ⑩ )。座禅。
美術
A は( ⑪ )門。B は( ⑫ )像で作者は( ⑬ )。
文学
「祇園精舎の鐘の声,・・・」( ⑮ )が語り伝える。
( ⑭ ):
徒然草:( ⑯ )(作者)
方丈記:( ⑰ )(作者)
( ⑱ )和歌集:後鳥羽上皇の命令で編集された。
[解答欄]
①
②
③
④
⑤
⑥
⑦
⑧
⑨
⑩
⑪
⑫
⑬
⑭
⑮
⑯
⑰
⑱
[解答]① 浄土 ② 法然 ③ 浄土真 ④ 親鸞 ⑤ 時 ⑥ 一遍 ⑦ 日蓮 ⑧ 禅 ⑨
道元 ⑩ 栄西 ⑪ 東大寺南大 ⑫ 金剛力士 ⑬ 運慶 ⑭ 平家物語 ⑮ 琵琶法師
⑯ 兼好法師 ⑰ 鴨長明 ⑱ 新古今
48
[問題](後期期末)
右の年表を見て,次の各問いに答えよ。
(1) A について,源義経が平氏をほろぼ
した場所はどこか。
(2) B について,1185 年に,①源頼朝が
国ごとに置くことを朝廷に認めさ
せた,軍事や警察の仕事を担当する
役職を何というか。②荘園や公領に
置くことを朝廷に認めさせた,年貢
の取り立てや犯罪の取りしまりな
どをおこなう役職を何というか。
(3) C の(
)に適語を入れよ。
(4) D の(
)に適語を入れよ。
(5) E について,この乱を起こした上皇
年代
できごと
1185 年
源義経が平氏をほろぼす。・・・A
1185 年
鎌倉幕府の成立。・・・B
1192 年
源頼朝が(
1203 年
北条時政が(
1221 年
承久の乱がおこる。・・・E
1232 年
御成敗式目を制定。・・・F
1274 年
文永の役。・・・G
1281 年
弘安の役。・・・H
1297 年
永仁の(
1333 年
鎌倉幕府の滅亡。
)に任命される。・・C
)になる。・・・D
)令。・・・I
の名前を答えよ。
(6) F について,御成敗式目を制定した人物の名前を答えよ。
(7) F はどのような法律であったか。
「慣習」という語句を使って説明せよ。
(8) G と H をあわせて何というか。
(9) (8)のときの元の皇帝の名前を答えよ。
(10) (8)で日本軍を悩ませたのは元軍の( ① )戦法とすぐれた( ② )の使用であった。
①,②に適語を入れよ。
(11) I は,借金に苦しむ御家人を救うため,幕府が出したものである。I の(
)内に適
する語句を書け。
[解答欄]
(1)
(2)①
②
(4)
(5)
(6)
(7)
(9)
[解答](1) 壇ノ浦
(3)
(8)
(10)①
(2)① 守護
②
② 地頭
(3) 征夷大将軍
(11)
(4) 執権
(5) 後鳥羽上皇
(6) 北条泰時 (7) 武士の社会の慣習にもとづいて定められた法律。 (8) 元寇 (9) フ
ビライ・ハン (10)① 集団 ② 火器 (11) 徳政
49
[問題](3 学期)
右の年表を見て,次の各問いに答えよ。
(1) A,B について,次の図は将
軍とそれに従う武士③の関
係を表している。①∼③に適
語を入れよ。
年代
できごと
1185 年
鎌倉幕府の成立。・・・A
1192 年
(
1203 年
北条氏の(
1221 年
後鳥羽上皇が(
1232 年
北条泰時が(
1274 年
文永の役。・・・F
1281 年
弘安の役。・・・G
1297 年
永仁の徳政令。・・・H
1333 年
鎌倉幕府の滅亡。
)が征夷大将軍になる。・・・B
(2) B の(
)にあてはまる人物名を答えよ。
(3) C の(
)にあてはまる語句を漢字 2 字で答えよ。
(4) D の(
)にあてはまる語句を漢字 2 字で答えよ。
)政治が始まる。・・・C
)の乱をおこす。・・・D
)式目を制定。・・・E
(5) D の乱の後,朝廷を監視する目的で京都に置かれた役職は何か。
(6) E の(
)にあてはまる語句を漢字 3 字で答えよ。
(7) F,G で日本に攻めてきた①中国の王朝名を答えよ。②また,そのときの鎌倉幕府
の執権の名前を答えよ。
(8) F の後,幕府は博多湾の海岸沿いにあるものを築いて,次の襲来に備えた。何を築
いたか。漢字 2 字で答えよ。
(9) H の法律は何のために出されたか。
「御家人」という語句を使って簡潔に説明せよ。
(10) 次の文章中の①,②に適語を入れよ。
鎌倉時代には米の裏作に麦をつくる( ① )作が発達した。また,寺社の門前など
で定期的に( ② )が開かれるようになった。
[解答欄]
(1)①
②
③
(2)
(3)
(4)
(5)
(6)
(7)①
②
(8)
(9)
(10)①
②
50
[解答](1)① 御恩 ② 奉公 ③ 御家人 (2) 源頼朝 (3) 執権 (4) 承久 (5) 六波羅
探題 (6) 御成敗 (7)① 元 ② 北条時宗 (8) 石塁 (9) 領地を質入れしたり,売った
りした御家人を救うため。 (10)① 二毛 ② 定期市
[問題](2 学期中間)
次の各問いに答えよ。
(1) 関東の武士団の棟梁として初めて幕府を開いた人物の名前を漢字 3 字で答えよ。
(2) 壇ノ浦の戦いで平氏を滅亡に追い込んだ,(1)の人物の弟の名前を書け。
(3) 右図は鎌倉幕府を支えていた主従関係を表したものである。X,Y
にあてはまる語をそれぞれ書け。
(4) 次の図は鎌倉幕府の組織図である。①∼⑥にあてはまる役職名を
答えよ。
(5) (4)の図中の六波羅探題は,1221 年に起こった乱の後に設置された役所である。①
1221 年に起きた乱を何というか。②この乱を起こした上皇は誰か。
(6) 武士の慣習をまとめて 1232 年に出され,①武家政治の基準となった法律を何とい
うか。②また,この法律を定めた人物は誰か。
(7) 13 世紀はじめ,モンゴルの部族を統一して国家をつくったのは誰か。
(8) (7)の子孫がつくったユーラシア大陸の東西にまたがる帝国は何か。
(9) 5 代目のハン(王)となったのは,誰か。
(10) (9)の人物は,1271 年に都を大都に移し国号を「元」とした。さらに,1279 年に中国
のある王朝をほろぼして中国全土を支配下に置いた。中国の何という王朝をほろぼ
したのか。
(11) (9)の人物につかえたイタリア商人の名前を答えよ。
(12) (11)の人物は,日本のことを「東方見聞録」の中で,どんな国と紹介したか。
(13) 元が 1274 年と 1281 年の 2 度にわたって日本に攻めてきたできごとを何というか。
(14) (13)で日本軍は元の戦い方や武器のどんな点に悩まされたか。2 つあげよ。
(15) 元との戦いに参加した武士が幕府に不満を持つようになった理由を,「恩賞」とい
う語句を使って簡潔に説明せよ。
51
[解答欄]
(1)
(2)
(3)X
Y
(4)①
②
③
④
⑤
⑥
(5)①
②
(6)①
②
(7)
(8)
(9)
(11)
(12)
(10)
(13)
(14)
(15)
[解答](1) 源頼朝 (2) 源義経 (3)X 御恩 Y 御家人 (4)① 執権 ② 侍所 ③ 政所
④ 問注所 ⑤ 守護 ⑥ 地頭 (5)① 承久の乱 ② 後鳥羽上皇 (6)① 御成敗式目(貞
永式目)
② 北条泰時
(7) チンギス・ハン
(8) モンゴル帝国 (9) フビライ・ハン
(10) 宋(南宋) (11) マルコ・ポーロ (12) 黄金の国ジパング (13) 元寇 (14) 集団戦
法。すぐれた火器の使用。 (15) 幕府が恩賞として土地を与えることができなかったた
め。
[問題](1 学期期末)
次の①∼④の文章にもっとも関係する場所を
地図中から 1 つずつ選び,記号で答えよ。
① 平家が滅んだ。
② 源頼朝が幕府を開いた。
③ 六波羅探題が置かれた。
④ 御家人たちが石塁を築いた。
[解答欄]
①
②
③
[解答]① ケ ② ア ③ キ ④ コ
52
④
[問題](前期期末)
次の文を読み,後の各問いに答えよ。
右の資料は,( ① )の南大門にある( ② )像で,作者は( ③ )
である。この作品は a 鎌倉時代の文化の特色をよく表している。文学
では,軍記物の代表で,源氏と平氏の争いを生き生きとえがいた
「( ④ )」が( ⑤ )法師によって語られ,人々に親しまれた。
随筆では,( ⑥ )が書いた「徒然草」や鴨長明が書いた「方丈記」
がある。和歌集としては後鳥羽上皇の命令で編集された( ⑦ )和歌
集がある。また,この時代には民衆や武士の心のよりどころとして,
b 新しい仏教の教えが広まった。これらはわかりやすく,実行しやすかったので,多く
の人々の心をとらえた。
(1) 文中の①∼⑦に適する語句を答えよ。
(2) 文中の下線部 a について,資料の像からわかる鎌倉時代の文化の特色として適切な
ものを,次のア∼エから 1 つ選べ。
ア 日本の独自の文化
イ 力強い武士の文化
ウ 国際色豊かな文化
エ 優美な貴族の文化
(3) 文中の下線部 b について,次の①∼⑤の教えを説いた人物と,その人物が開いた宗
派をそれぞれ答えよ。ただし,⑤の宗派は 2 文字で,人物は 2 人あげよ。
① 一心に念仏を唱えれば,だれでも極楽浄土に生まれ変われる。
② 自分の罪を自覚した悪人ほど救われる。
③ 法華経の題目を唱えれば,人も国も救われる。
④ 布教の方法として踊念仏を取り入れた。
⑤ 座禅を組むことによって自分の力でさとりを開く。
[解答欄]
(1)①
②
③
④
⑤
⑥
⑦
(2)
(3)①人物:
宗派:
②人物:
宗派:
③人物:
宗派:
④人物:
宗派:
⑤人物:
宗派:
[解答](1)① 東大寺 ② 金剛力士 ③ 運慶 ④ 平家物語 ⑤ 琵琶 ⑥ 兼好法師 ⑦
新古今 (2) イ (3)①人物:法然 宗派:浄土宗 ②人物:親鸞 宗派:浄土真宗 ③
人物:日蓮 宗派:日蓮宗 ④人物:一遍 宗派:時宗 ⑤人物:栄西,道元 宗派:
禅宗
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