水中毒裁判福岡高裁判決に関する日本精神科看護協会理事会声明

平成 27 年 6 月 18 日
水中毒裁判福岡高裁判決に関する日本精神科看護協会理事会声明
一般社団法人日本精神科看護協会
会 長
末 安 民 生
平成 27 年 5 月 15 日、福岡高等裁判所において髙宮病院水中毒裁判の控訴審判決が下さ
れました。この裁判は、県立病院から転院した統合失調症の 30 代の女性患者が水中毒で死
亡したのは、病院が「強制的な水分制限措置をすべき義務を怠った過失」によるとして、患
者の父親が損害賠償を求めて起こした民事訴訟の控訴審です。
第一審の宮崎地裁での判決(平成 26 年 7 月 2 日)は、隔離室入口に設置されている洗面
台の水道の元栓を閉めるよう看護者に指示しなかった主治医の過失と当該患者の死亡には
因果関係があるとして、病院に損害賠償を命じました。
病院は、この判決を不服として控訴していました。福岡高裁は、賠償額を減額したものの、
主治医が水道元栓を閉めるよう指示しなかったこと、あるいは、病院側が主張するように水
道元栓を閉めるかどうかの判断は看護者に委ねたものであるとするなら、水道元栓を閉め
なかった看護師に過失があったとして、病院は損害賠償義務を負うとしています。
なお、一審、二審とも、病院側は、低ナトリウム血症ではあったが解剖結果では脳浮腫等
は軽微であったとして死亡と水中毒との因果関係についても争っていますが、いずれの判
決も因果関係があることを認めています。
この判決は、精神科臨床に多大な影響を及ぼすことが予想されます。精神科病院をはじめ
精神科医療関連施設の看護職で組織された日本精神科看護協会として看過することはでき
ません。よって、下記のとおり見解を表明する次第です。
記
近年、多飲症・水中毒のある患者へのケアは、保護室を使用しての「強制的な飲水制限」
を極力行わず、患者との信頼関係を軸に、患者自身が水分摂取を自己コントロールすること
をめざすべきだとの認識が一般的になってきています。障害者総合支援法の障害支援区分
の調査項目にも多飲症、水中毒のリスク評価があげられています。このことが示しているの
は、たとえこのような病態であっても地域で生活することを想定したケアが求められてい
るということです。このこともまた、多飲症・水中毒のある患者へのケアに関する考え方の
転換を促しています。
高裁判決は、水中毒のリスクが高かったにも関わらず「強制的な水分制限」を行わなかっ
たことを注意義務違反としています。しかし、この判断は、患者の死亡という結果から後知
恵的に導き出されたものでしかありません。患者自身が、水分摂取の自己コントロールがで
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きていない現実を理解できるよう配慮しつつ制限を強化していった看護者らの丁寧な臨床
実践は妥当であり、何ら非難されるものではありません。
髙宮病院に転院後、当該患者は県立病院におけるような「ドア叩き」
「大声」はなく、
「面
会時や歯磨き時に一気飲みする」ような飲水欲求が強い状態でもありませんでした。このこ
とは、転院前の県立病院における興奮や強迫的飲水が拘禁反応的なものであった可能性を
疑わせます。当該患者の入院にあたって、任意入院としたこと、本人の意向を尊重し隔離室
ではなく多床室への入院であったことなどが患者に安心感をもたらしたと考えられます。
患者と病院スタッフの間には信頼関係が形成されつつあり、この関係を壊さないように、
制限はできるだけ本人の同意を得つつ行おうとしたことは当を得たものといえます。それ
でも、多量飲水のリスクがあるとして、最終的には全ての水道栓を閉めており、リスク管理
への配慮はなされています。
県立病院へ搬送し転院となった時と比べ体重増加が著しいとはいえないこと、脳浮腫症
状が見られないこと等からすると、不幸な結果になったとはいえ、治療・看護の流れの中で
死亡もあり得るほどの高リスク状態と認識するのは極めて困難であったといえます。した
がって、本人に理解し納得してもらいつつ制限を強化していくプロセスが踏める状態であ
ったとの判断を批判することはできません。
信頼は、どのような場合もリスクを伴います。看護者らは信頼関係を維持しつつ、リスク
も考慮した対応を行っています。全ての水道栓を閉めたのが遅かったことのみをもって看
護者らに過失があったとするのは、患者に働きかけ、その結果を観察して次のかかわりを考
えていくことを繰り返しつつ展開される臨床におけるケアの方法を理解していない判決と
言わざるを得ません。
そもそも、精神科医療には、可能な限り患者の自由や人権を尊重することが求められてい
ます。当該患者の隔離室への入室は、主治医が提案し本人同意を得た「本人の意思」による
ものであり、法的には隔離とはいえません。飲水の程度は、生命や身体に危険が及ぶほど切
迫したものでなく、看護者らの観察しやすい洗面台の水道栓を閉めなかった判断は、できる
だけ、一方的・強制的な制限を少なくしようとの配慮として理解することができます。
継続的に観察しながら、段階的に飲水制限を強化していった主治医と看護者らの判断は、
医療者の裁量範囲内の合理的判断として承認されるべきです。このことを否定した福岡高
裁判決は、精神科臨床において、葛藤することなく、人権より安全、患者の自由意思の尊重
より強制的対処を優先する風潮を拡大していくのではないかとの危惧を覚えさせます。
日本精神科看護協会理事会はこの福岡高裁判決に左右されることなく、これまで培って
きた「患者との信頼関係を軸に協働して飲水の自己コントロールをめざす」という多飲
症・水中毒患者のケアの基本姿勢が後退することのないよう会員各位にお願いするもので
す。
本協会は今後とも患者の尊厳を守り、権利擁護を図りつつ医療安全の確立に努め、精神
科医療・看護の発展に寄与していく所存です。
最後に、不幸にして亡くなられた患者様のご冥福をお祈りするとともに、ご遺族の皆様に
は心より哀悼の意を表します。
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(資料)
福岡高等裁判所の認定事実
・患者概要 36 歳、女性。
(1)当該患者は、平成 10 年 3 月 13 日(当時 22 歳)
、ビルから飛び降りて自殺を図り、
県立病院で統合失調症と診断され、その後、複数の病院で治療を受け、抗精神病薬を服用し
ていた。医療法人真愛会髙宮病院(宮崎県宮崎市)に初めて入院したのは、平成 23 年 6 月
22 日から同年 8 月 29 日までの間。この入院では、水中毒の症状はなかった。
(2)多飲水するようになったのは平成 24 年 2 月末頃からで、3 月 3 日、3 月 6 日に不眠・
不穏状態を訴えて外来を受診した。さらに、3 月 8 日午前 4 時頃、自宅で 400mℓの器で 30
杯~40 杯の水を飲み、多量に嘔吐し、当該病院を受診。午前 9 時 15 分時点での血清ナトリ
ウム値が 115.1mEq/ℓ(基準値 138~146mEq/ℓで、検査所見上では重症の入口)と低ナト
リウム血症であること等を確認し入院となった。
生理食塩水によるナトリウム補正を行ったが、同日午後 2 時 20 分に瞳孔散大や左上肢痙
攣等を認めたことから、水中毒による脳浮腫の疑いがあるとして、同日午後 2 時 45 分に県
立病院に向けて救急搬送した。この時点の体重は 60.0 ㎏であった。
(3)当該患者は、3 月 8 日から県立病院脳神経外科で入院治療を受け、同月 12 日には、
精神医療センターに転科した。翌 13 日に約 3ℓの飲水をするなどしたため隔離措置を受け、
同月 15 日から水分制限(1 日当たり 1500mℓ)措置を受けた。その結果、同月 21 日には、
血清ナトリウム値は、140mEq/ℓと基準値内に回復した。
(4)3 月 22 日午後 2 時頃、県立病院から髙宮病院に転院し、急性期治療病棟に入院した。
県立病院が作成した「診療情報提供書」には、
「水道水を多量に飲むため隔離を行った」
「隔
離解除困難な状況が続いている」等の記載があり、担当看護師宛ての「患者様申し送りにつ
いて(依頼)
」には、
「残された看護上の問題点:水中毒にて紹介入院となったが意識レベル
改善、その後は退院要求や水分要求の大声・ドア叩きあり。理解されず水分を一気に飲むこ
ともある。1500mℓ/日の制限行っている。引き続き症状観察・指導をお願いします」「現病
歴及び入院中の経過:退院要求や隔離エリア洗面所で多飲水あり、3/13 隔離開始となった。
隔離開始後も退院要求や水分要求のドア叩きや大声があった。飲水は 1500mℓ/日制限で面
会時や歯磨き時に一気飲みすることもある。
」等と記載されていた。
主治医の Y 医師は、
隔離室使用を開始すれば確実に水分制限することが可能である一方、
患者にとって大きなストレスとなりその使用が長期化するおそれがあると考え、一般病室
で治療を開始し、その後に多飲が認められたときは隔離室を使用することとした。このこと
を患者本人や家族に伝えた上で、洗面台が設置された 4 人部屋に入院させた。入院時の患
者の体重は、49.3 ㎏であった。
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(5)付き添ってきた父は午後 2 時 45 分頃、母親は午後 4 時頃に帰った。
(6)患者は、22 日午後 4 時 50 分に髙宮病院のホールでお茶を 3 杯程度飲み、嘔吐、尿
失禁し、看護師がコップを預かることを説明したが聞き入れずに激しく抵抗し、興奮状態に
なった。Y 医師は、同日午後 4 時 55 分、自ら飲水コントロールできない状態にあると判断
して、その旨を患者に説明し、同意を得た上で隔離室に入室させたが、水道の元栓を閉める
かどうかの判断は看護スタッフに委せ、何も指示しなかった。
患者の隔離に使用された隔離室は、病状対応型フレキシブル個室ユニット(エラストピア)
であり、一般個室としての使用も可能で、トイレ及び手洗いがあるスペースと洗面台(本件
洗面台)があるスペースがあり、患者の状態に応じて各スペース間のドアを施錠ないし開放
することができる。また、各スペースの水道詮を個別に開閉できる構造になっている。
看護者らは、エラストピアの入り口ドアを施錠して隔離室として使用し、水分摂取につい
ては必要なときに看護者がコップに水を入れて持参することにしたが、他のスペースの施
錠はせず、①奥に設置されたトイレ及び②トイレ横の洗面台の水道のスイッチを切ったが、
患者が多飲水の危険性をある程度理解していると判断し、③隔離室入口付近に設置された
洗面台の水道は止めず、5 分から 10 分おきに定期的な観察を続けることにした。
(7)担当看護師または急性期治療病棟の看護師長は、午後 5 時、午後 5 時 10 分、午後 5
時 20 分、及び午後 5 時 30 分にそれぞれ当該患者を観察した。患者は、午後 5 時には「コ
ップを頂戴、夜中水を頂戴」などと訴えたが、午後 5 時10 分にはベッドに座っており、午
後 5 時 20 分及び 30 分には父親がいつ来るのかなどと尋ねたが、水を求める言動はなかっ
た。
その後、午後 5 時 45 分に患者が洗面台の蛇口から飲水していたので、担当看護師が洗面
台の水道のコンセントを外した上で、患者に飲水できないことを説明した。
患者は、入院した後は食事を摂らなかったが、同日午後 6 時に「ごはん食べたい」と訴
え、同日午後 6 時 15 分に多量嘔吐や尿失禁をした。午後 6 時時点の体重は 54.5 ㎏。
(8)Y 医師は、午後 6 時 30 分頃に多飲傾向、嘔吐及び尿失禁があったこと、体重が 54.5
㎏であったこと、洗面台の水道のコンセントを外したこと等について、看護師らから電話で
報告を受け、看護師らに経過観察を指示した。
(9)午後 7 時 30 分には多量に発汗し、意味不明な発言があった。午後 8 時 02 分には顔
面蒼白、脈拍不明となったため、心臓マッサージが施行され、同日午後 8 時 10 分に酸素供
給。その後、8 時 27 分に自発呼吸がなくなって瞳孔散大となり、午後 8 時 35 分に救急車
で県立病院に向けて搬送された。
搬送直前の午後 8 時 34 分頃の血清ナトリウム値は 112mE
q/ℓ、
県病院到着直後の午後 8 時 56 分の時点で 113mEq/ℓ、午後 8 時 59 分の時点で 111mE
q/ℓであり、午後 9 時 44 分に死亡した。
(10)県立病院の医師が作成した死亡届では、直接死因が急性低ナトリウム血症、その原因
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が水中毒と記載されている。
(11)司法解剖の結果。肺のうっ血及び脳の軽度な腫脹(一見してわかる程度の脳浮腫、脳
腫脹は認められない。)それ以外、他の臓器等に異常は認められないというものであった。
(12)控訴人病院における看護基準
略
(13)専門家の意見
略
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