11.教恩寺

11. 教恩寺
しょうこくざん きょうおん じ
松 谷山 教 恩寺
宗派
浄土真宗大谷派
茨木市佐保448番地
現在、清溪は、泉原(いずはら)・千提寺(せんだいじ)・佐保(さほ)の三地区で構成され、千提寺に
は、元禅宗で後に浄土真宗に変派した千提寺があったが、明治の初期に廃寺となり現在同
地区内には寺院はない。千提寺は、幕府のキリシタン禁教の弾圧にあいながらも、約三百
年の長きにおよび、密かに我が信ずる信仰を守り続けてきた『隠れキリシタンの里』とし
て広く知れている。この千提寺の隠れキリシタンであった人達は、廃寺となった禅宗千提
寺の檀家を装い弾圧から逃れていた。一方、泉原には長福寺と長徳寺の二ケ寺がある。そ
して佐保は、免山(めざん)、馬塲(ばは)、松谷(まつたに)の三つの集落からなり、免山には教願寺、
馬塲には教圓寺、松谷には当教恩寺が存在し、これら清溪村の五ケ寺の全てが真宗大谷派
である。当教恩寺は松谷の地名を山号にし『松谷山(しょうこくさん)』と号する。
松谷山教恩寺の創建の詳細は不明であるが、粟生岩阪にある榮久寺と当教恩寺は、箕面
の真言宗である勝尾寺の末寺として創建されたと寺伝で伝わる。その当時、当寺は現在地
から少し離れた伏原と言う場所に建立され、弘法大師が開祖であったとのこと。
文明年中(1469 年~1487 年)、伏原の当教恩寺は高山右近(1558 年~1615 年)の兵により
寺院の全てが焼かれ潰された。また、教恩寺の由緒書である教恩寺記に『元和年中(1615 年
~1624 年)、東本願寺の連枝智見院僧都が岩本坊に来り坊を教恩寺の旧地は伏原と言う』と
記されてある。この記録から、伏原にあった教恩寺が現在の場所で再建されたことが確認
できる。
寛永 6 年(1629 年)9 月 16 日、本願寺から本尊免許が恵賜(けいし)されたと伝わり、教恩寺
は当土地で再建され、真言宗から真宗大谷派に改宗した。その後、本堂から棟札が発見さ
れて、享和元年(1801 年)8 月、『本堂建願』を本願寺に提出していたことが判明した。その
修理は大修理で部分的に古い梁や柱が再使用されている。それは今もそれらの部材から確
認出来る。この本堂は教恩寺として寺史を伝える貴重な遺構である。
明治 7 年(1874 年)6 月 17 日、大阪府は当教恩寺を借り、上等・下等小学校を設置した。
これを第八大区一小区第七小学校と命名し、通学区域は佐保村内に住む児童であった。そ
して校長に地元住人の横川胤治氏が就任した。当時、佐保区域は、児童数 98 名・就学児童
33 名・府就学児童 65 名・就学率 33.7%であった。その後、父兄の理解と協力で就学率は
98.06%となり大阪府から高い評価を受けた。
寺院創建
創建の年代は詳細不詳であるが、創建は勝尾寺の末寺で真言宗とあった。
その後、改宗し、真宗大谷派となった。
本
尊
木造阿弥陀如来立像
像高 69.0cm
江戸時代作
主たる什物
◎ 親鸞聖人像
絹本著色
江戸時代作(正保 2 年(1645 年)裱背に墨書下付銘)
◎ 蓮如上人像
絹本著色
江戸時代作
◎ 聖徳太子像
絹本著色
江戸時代作
◎ 浄土七高僧像
◎ 常如上人像
絹本著色
絹本著色
◎ 木像阿弥陀如来立像
建
造
物
江戸時代作
江戸時代作
像高 30.0cm 江戸時代作
本堂
享和元年(1801 年)大修理が行われ現在に至る。
鐘楼
本堂は享和元年に大修理が行われたが、それより百年程前に鐘楼は
建てられた。
法要・行事
住
職
報恩講(9 月)、盂蘭盆会(8 月 16 日)
松村義晴(まつむら よしはる)住職
昭和 45 年、十九代住職に就任。
教恩寺があったと伝わる伏原の土地周辺から、真宗では使用しない禅宗の
五輪塔の遺物が出土している。この痕跡から判断して当寺の創建は真言宗で
ある勝尾寺の末寺であったことは事実であろうと語られる。本堂は享和元年
に大修理が行われ現在至っている。その寺史を知った方が、興味をもち遠方
からお越しになるとのこと。