堺市報道提供資料 平成27年3月17日提供 担当課 直 通 FAX 問い合わせ先 博物館 学芸課 072-245-6201 072-245-6263 17世紀ベトナム中南部産の施釉四耳壺を日本初出土 堺市博物館は、平成27年3月21日(金・祝)から開催する企画展『タイの古陶磁Ⅲアユタヤ王朝とミャンマーの優品-』の準備中に、17世紀頃に作られたとみられるベトナム中 南部産で、灰釉(釉薬の一種)が施された施釉四耳壺(せゆうしじこ)の破片が日本で初め て確認されました。この四耳壺は17世紀の焼土層から出土されており、当時の日本とベト ナムの交流を示す貴重な資料となります。 記 1. 名 称:ベトナム中南部産灰釉四耳壺(かいゆうしじこ) 2.出 土 地 点:堺市堺区熊野町東2丁(堺環濠都市遺跡-SKT1029-) 『堺市埋蔵文化財調査概要報告第 147 冊』(平成26年3月31日刊)掲載 3.出土年月日:平成24年5月10日・17日・31日、6月4日 4.出 土 層 位:慶長20年(1615)大坂夏の陣前哨戦により被災した焼土層 5.現 状:17片に割れているが口縁部から底部まで残り、全体像の復元は可能。 6.評 価 ①これまで国内の発掘調査では、ベトナム中南部(チャンパの故地)産の施釉四耳壺は 確認されておらず、今回が初となる。 ②1615 年の層から出土しており、ベトナム陶磁器の年代がわかる基準資料となる。 ③慶長年間(1596~1615)頃には、日本から朱印船がベトナム中南部のチャンパ(占 城)へ渡航しており、たとえば慶長11年(1606)徳川家康は占城国王宛に親書を送 り香木を懇求している。文献資料でのみ知られていたこの時代の日本とチャンパとの 貿易・交流がこれにより具体的に裏付ける物証となりうる。 ④実態が不明であるチャンパ王国を解明するうえでも大きな一歩になった。 ⑤日本とベトナム社会主義共和国との交流を示す新たな手がかりが得られ、今後の両国 の交流を考えるうえでも良い材料となった。 7.展 示: 堺市博物館企画展『タイの古陶磁Ⅲ-アユタヤ王朝とミャンマーの優品-』 (3月21日~4月19日)内において ■評価の詳細(菊池誠一教授・ルイズ・コート陶芸担当学芸員) ①この四耳壺の胎土に含まれているラテライトは、ベトナム、カンボジア、タイに広く分布 しているが、これまでにベトナム、カンボジア、タイではこの種の壺の出土は確認されて いない。 ②この四耳壺の頸部にみられる突帯はベトナム中部の壺によく見られるものである。 ③中部のホイアン、ダナンでは多くの発掘調査が行なわれているが、これまでにこの種の四 耳壺は見つかっていないことから、この四耳壺は中南部で焼かれたものと考えられる。 以上①②③により、この四耳壺はベトナム中南部で生産されたものと判断できる。 ④これまで発掘調査されたベトナム中部チャンパの陶磁は 13~15 世紀のものといわれ、こ の種の四耳壺は含まれておらず、胎土も異なる。チャンパの盛期にあたる 13~15 世紀の 陶磁の様相は判明しているが、これ以降、特にチャンパが縮小する 17 世紀段階の陶磁に ついてはほとんどわかっていない状況であったが、今回の堺の 1615 年の層からの出土資 料はチャンパを含むベトナム中部の窯業生産の実態を解明するうえで一石を投じたもの といえる。 ⑤朱印船貿易でチャンパ(占城)へ渡航した史料が残っているが、これを裏付ける物証とな りうる。 ⑥ベトナムとの交易は中部の港町ホイアンを経由していたと考えられがちだが、ホイアンで の発掘調査ではこの種の四耳壺は出土しておらず、朱印船貿易ではチャンパ(占城)への 直接渡航の可能性も出てきた。(フィリピンではこの種の四耳壺が出土しているようであ り、そちらを経由した貿易の可能性も残る。) ⑦この四耳壺の文様構成には中国の影響がみられる。 ■昭和女子大学 菊池誠一教授(東南アジア考古学会会長) コメント 「日本とベトナム中南部との朱印船貿易時代の実際の行き来を物語る物的資料である。」 「チャンパの故地で焼かれた陶磁とすれば、この四耳壺は年代が明らかなことから、ベト ナム中部の陶磁器研究に与える影響は大きい。」 ■国立スミソニアン協会、フリーア美術館、アーサー M.サックラー・ギャラリー ルイズ・コート陶芸担当学芸員(Curator for Ceramics) コメント 「タイ、ビルマ、カンボジアではこの手のものは作っていない。残っているのはベトナム だが、北部にはないし南部はまだこの時期に窯はないので、中部のものであろう。」 ベトナム中南部の陶磁の解説 堺市堺区熊野町東2丁で平成24年4月16日~8月1日まで実施された堺環濠都市遺跡(SKT10 29、938㎡)の発掘調査で、現在のベトナム社会主義共和国中南部でつくられた陶磁の四耳壺が出 土していたことがわかりました。 (従来、日本では「チャンパ陶磁」として分類されていた) いまから400年前の慶長20年(1615)大坂夏の陣前哨戦により被災した建物跡から出土していま す。残念ながら17片に割れていますが口縁部から底部まで残り、復元すると口径約17cm・器高約 34cm程度になります。 肩部に把手を4個貼付け外面全体に施釉後に工具で文様を彫っているのが特徴で、胴部に割花文、底 部付近には波状文などを描いています。このような壺は、 「コンテナ陶磁」とも呼ばれ、主に物資の運搬 容器として利用されていました。 日本でのチャンパ陶磁(ヴィンディン省ゴーサイン窯)は、福岡県大宰府で15世紀代の皿が出土し ているだけで、今回のような17世紀ベトナム中南部産の施釉四耳壺の出土は初めてになります。 この陶磁が作られたベトナム中南部は、オーストリロネシア系のチャム族を中心とした国家で、7世 紀頃にチャンパの国名が登場しています。中国では「林邑(りんゆう) ・紀元前二世紀以降」、 「環王(8 世紀後半から9世紀前半) 」 、 「占城(9世紀後半から15世紀後半)」と呼んでいました。 古代よりベトナム中部から南部地域を中心として繁栄し、世界文化遺産で有名なミーソン祠堂群など を建設しています。古くから中国・中東などと積極的に貿易を行い繁栄していましたが、北部ベトナム の大越国の政権による攻撃・圧迫などにより大越国黎朝(1428~1527、1532~1789)の 1471 年にチャ ンパの都ビジャヤが滅亡して国土の北半分を奪われています。そして、中部ベトナム南端のパーンドゥ ランガ地方に残った勢力を阮氏が併合した17世紀末には滅亡した「不幸な小国」と考えられてきまし た。しかし、近年の研究により16~17世紀の東南アジア海域でチャンパの商船が活躍していたこと や史料により17世紀末以降にもチャンパに王権が存続していたことなどが明らかにされ滅亡説は批判 されていますが、その実態は不明な点が数多く残されています。 この四耳壺が出土した年代には、日本からも朱印船がチャンパ(占城)へ渡航していました。慶長9 年(1604)~慶長13年(1608)には有馬晴信などに朱印状が発給されました。また、慶長11年(1606) 徳川家康は占城国王宛に親書を送り香木を懇求しています。慶長16年(1611)には長崎奉行長谷川藤 広が国王に書簡を送り、伽羅などの香木が日本に届いたことがわかります。今回出土した四耳壺がこの ときに運ばれたものかどうかはわかりませんが、当時の堺とチャンパとの貿易関係を証明するものとし て貴重な資料といえます。 堺市博物館で開催される企画展「タイの古陶磁Ⅲ-アユタヤ王朝とミャンマーの優品-」(期間:3月2 1日~4月19日)内で展示いたします。 ・開館時間:午前9時30分~午後5時15分(入館は午後4時30分まで) ・休館日:月曜日 ・入館料:一般200円(160円) 、高大生100円(70円) 、小中学生50円(30円) *( )内は20名以上の団体、65歳以上の方・障害のある方は無料(要証明書) 、堺市内在住在学の小中学生は無料 参考:ベトナム中南部産 褐釉四耳壺( 『特別展東南アジア古陶磁展7』富山佐藤美術館 2000 年)より 今回確認されたベトナム中南部産の四耳壺 破片
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