ことぶき村の春 やなぎもと・みちひこ ノンフィクション作家。著書に﹃台湾・霧社に生 き る ﹄﹃ 台 湾 先 住 民・ 山 の 女 た ち の 聖 戦 ﹄﹃ タ ロ コ峡谷の閃光﹄︵以上現代書館︶、 ﹃台湾革命﹄︵集 英社新書︶、 ﹃明治の冒険科学者たち﹄︵新潮新書︶ など。元日本軍人軍属の最期の声を綴った﹁台湾 戦後 年 http://www.taiwansengo.jp ﹂ を更新中。 第四回高砂義勇隊員としてニューギニ の水﹂を供給している立場だ。 の店主で村民に長寿の元﹁カレンコウ 健在。数年前に病死されたご主人は日 ﹁柴田寅雄と申し 右端のおじさん、 本名、中村武雄という︵大正 年生︶ 。 ます﹂と名乗る彼は、村一番の雑貨屋 らったというのがいちばんの自慢。愛 地に赴き、陛下から勲八等の勲章をも れば、なんと御年 歳。彼も5年間戦 んなが﹁カレンコウの水﹂と称する焼 住民の大半はアミスという台湾先住 民の人たちである。長寿の秘訣は、み 生。最初の夫は出産後7日目に第三回 一人の女性、ドゲバラさんは大正 年 というひょうきんな人柄だった。もう 英語を習得し米兵とも親しくしていた 後再婚したものの亭主は 人の子供を 残して病死し、ドゲバラさんは単身で く。 そんな哀しい歴史を秘めながら、こ とぶき村の昼下がりは今日も過ぎてい してかの大戦には総動員された。 蓮港︶や鉄道の建設に狩り出され、そ 人の定住の手助けをし、 カレンコウ ︵花 満州開拓のモデルとなる。彼らは日本 くった移民村の第一号であり、その後 村と称した。大日本帝国が植民地につ 土地には日本人移民村が築かれ、吉野 所に強制移住させられてきた。彼らの してまもなく︵明治半ば︶ 、現在の場 か つ て 彼 ら の 共 同 体 は﹁ チ カ ソ ワ ン﹂と称していた。日本が台湾を領有 堂に入ったものである。 院・買い物の足は電動自転車、充電も 妻はすでに亡くなり、独りで炊事洗濯 97 んでも大正5年生まれとのこと。とす ではなく、ほんとうに日本時代、 ﹁寿 アに出征し生還後、テポスさんと結婚 65 村﹂と称していた。戦後は﹁壽豊郷﹂ 台湾本島東部の花蓮県に﹁ ことぶ き﹂というおめでたい村がある。愛称 柳本 通彦 と改称されたが、やはり吉祥の字を頂 戴している。 彼らは裸足で、夜目もきいた。 実際にお年寄りが多い。九十前後の おじいちゃん、おばあちゃんが平気で その隣のドゲコモロさんの夫は日本 名、松原敏夫という。フィリピンに派 酎にあるというが、実際は酒盛りを口 高砂義勇隊員として出征し戦死。その 単車を乗り回していたりする。 実に集まる井戸端会議に秘訣があるの 遣され、捕虜の監視をさせられていた。 ではないかと思っている。 庭先に集まっていた老人たち。写真 のみなさんである。そこで、うかがっ 月にはその全員がおばあちゃんの家に すべての子供を育て上げ、現在、孫と 左端の女性。かつては﹁ことぶきの 花﹂と呼ばれていたテポスさん。可愛 集まるという、なんともめでたいお話 ひ孫あわせて 人いらっしゃる。旧正 いだけでなく、歌が抜群にうまいこと たお話の一端をご紹介しよう。 11 である。 花蓮県ことぶき村の人たちはみんな仲良し。酒盛りで出るのは日本の歌だ をこなしながら暮らしておられる。通 10 し た。飲 ん で は、漆 黒 の 闇 の 中 の 上 中央に鎮座するのは長老ライスワノ 陸作戦の手柄話をよくしていたという。 氏。本人もはっきりしないのだが、な 61 10 に由来していたようだ。その喉は今も 33 53
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