日本史史上3本の指に入る有名な2人が明るみにでていた時代。覚える

⑨織豊政権 日本史史上3本の指に入る有名な2人が明るみにでていた時代。覚える内容は中学
の時に勉強したことも多い。ここはさらっとやって次へ進みましょう(+_+) 1
①ヨーロッパ人の東アジア進出 日本の戦国時代にあたる15世紀後半から16世紀にかけて、ルネサンスと宗教改革
をへて近代社会へ移行しつつあったヨーロッパ諸国は、イスラーム世界に対抗するた
めに、キリスト教の布教、海外貿易の拡大などをめざして世界に進出した。 その先頭に立ったのが ・イスパニア 拠点 マニラ ・ポルトガル 拠点 マカオ である。 1543年 (※明船)が種子島に漂着 →そこに乗っていたポルトガル人から種子島時尭が鉄砲2丁を購入 →以降、南蛮貿易の始まり 輸出 銀など 輸入 生糸・鉄砲・火薬 (1584年イスパニア船が平戸入港) ※鉄砲の出現により戦における戦法と城の構造の変化をもたらした。 ※南蛮貿易は、キリスト教宣教師の布教活動と一体化しておこなわれていた 1549年 耶蘇会宣教師 フランシスコ=ザビエルが鹿児島に来航 →カトリックの伝来 ・島津貴久の許可を得て布教→将軍に会って一気に布教作戦(失敗) →1551年 山口の大内義隆の保護を受け地道に布教 この年下剋上されてるww ※キリシタン大名の出現 キーワード (布教と貿易は一体) 布教が認めた領内で貿易をする→大名は潤う →しまいにはキリシタンとなる→3人の大名及びその洗礼名を覚える!!!! ・大友義鎮 フランシスコ ・大村純忠 バルトロメオ ・有馬晴信 ジョン・プロタシオ 2
(その他の宣教師) ・ガスパルヴィレラ(ポルトガル) 「耶蘇会士日本通信」 堺を東洋のベニスと紹介 ・ルイスフロイス(ポルトガル) 織田信長から布教を許可される 「日本史」 ・オルガンチノ(イタリア) 京都に南蛮寺 安土にセミナリオを建てる ・ヴァリニャーニ(イタリア) ・1582年天正遣欧使節の派遣 ~1590 大友義鎮・有馬晴信・大村純忠が派遣 グレゴリウス13世に謁見 正使 伊東マンショ・千々石ミゲル 副使 中浦ジュリアン・原マルチノ ・活版印刷機の導入 ②織田信長 全国統一の野望を一番に抱き、実行に移した男である(・.・;) 1560年 桶狭間の戦い 拠点を清州とする信長が尾張国 桶狭間で今川義元を破り鮮烈デビュー 1562年 清州同盟 三河国 徳川家康 と同盟を組む 1567年 稲葉山の戦い 美濃国 斎藤竜興を破り拠点を稲葉山へ移す(美濃国を岐阜国と改める) →「天下布武」使用開始 ・城下の加納で 楽市を実地 ・近江国 浅井長政 と同盟→お市を嫁がせる 3
1568年 足利義昭を将軍として立てて入京 1570年 姉川の戦い 織田・徳川 VS 朝倉義景・浅井長政 石山合戦(~1580年) 本願寺がナイスな位置にあり、淀川周辺を譲って(・.・;)→嫌です→殺す(^_-) 顕如 VS 信長 顕如にアンチ信長が集結(伊勢長島一向一揆までも) 本願寺は毛利輝元にも協力要請 最終的には正親町天皇の仲介で講和 1571年 延暦寺焼き討ち 強大な宗教勢力を屈服させる 1573年 義昭追放→室町幕府の滅亡 1574年 伊勢長島の一向一揆 越前の一向一揆 1575年 長篠の戦い 三河国で武田勝頼が信長に敗れ敗走 ☆足軽鉄砲隊の活躍 1576年 近江国に 安土城 築城 城下に楽市令 1582年 天目山の戦い 武田勝頼の滅亡 本能寺の変 明智光秀に攻められる ※この時秀吉は備中高松城で毛利氏を攻撃中だった→即講和→即明智 KILL 4
☆信長の政治まとめ ・差出検地 領主に作付面積・収穫高を申告させる ・加納・美濃に楽市・楽座令 市での税を撤廃し座の特権を排除 徳政令は適用させない ・撰銭令 ・関所の廃止→流通経路を柔軟にし商業発達を促進 信長はなぜここまで成り上がれたか? ・地侍を組織化して強力な家臣団を形成 ・堺を直轄地にして畿内の高い経済力を我が物にした ・伝統的なことを克服し新しい支配体制を確立するカリスマ性 ③豊臣秀吉 ~尾張国の農民から天下人へ~ 1582年 山崎の戦い →清州会議=信長の後継者を決する →秀吉と柴田勝家が名乗りを上げる 1583年 賤ヶ岳の戦い 秀吉が柴田勝家を破る 大阪城建築(かつての石山本願寺の場所) 1584年 小牧・長久手の戦い 秀吉 VS 徳川家康・織田信緒 →互いの実力を認め講和 1585年 正親町天皇より関白に任ぜられる 四国平定 長宗我部元親を破る →惣無事令 全国の戦国大名に停戦を命じ、領国確定を秀吉に一任 5
1586年 後陽成天皇より太政大臣に任ぜられる ※このとき豊臣の姓を賜る 1587年 九州平定 惣無事令違反を口実に島津義久を破る 1588年 聚楽第建築→後陽成天皇を歓待 ※同時に諸大名を招き入れ、天皇と秀吉に忠誠を誓わせる 天正大判鋳造 by後藤徳乗 1590年 小田原攻め 北条氏政・氏直を破る (このとき伊達正宗は加勢したため本領安堵された)=奥州平定=全国統一 1591年 各大名に国絵図・検地帳の提出を命じる ☆秀吉の政治 【基盤】 倉入地220万石 直轄都市 京都・大阪・堺・伏見・長崎・・・ 直轄鉱山 佐渡金山・石見大森銀山・但馬生野銀山 【太閤検地】1582年 山城国からスタート~天正の石直し~ 1、単位統一 土地の面積を町・段・畝・歩とする 6尺3寸を1間として基本のものさしとする 1間×1間=1歩 5間×60間=1段 2、石高統一(京枡の使用) 3、石高の計算方法 石高=石盛×面積 上田・中田・下田・下下田 上田1石5斗 以降2斗ずつ減っていく 4、一地一作人の原則 →中間搾取者を否定し(荘園制崩壊)年貢負担者を確定させた 6
【刀狩】1588年~ 農民の武器を没収し農民の身分を明確にす る目的で行われる =兵農分離 一揆の防止 方広寺の大仏建立を口実 【人掃令】1591・1592 転職の禁止し身分秩序を固定させる ☆秀吉の外交 1587年 バテレン追放令 in 博多 大村純忠が長崎の一部を教会に寄進 →教会に領土的野心があるのではないか? →大名のキリスト教信仰を許可制にし →宣教師に国外退去命令(20日以内) ※この時、播磨国明石城城主高山右近は領地没収 1588年 海賊取締令 倭寇の禁圧を豪商に命令 →海上支配を強化するとともに →貿易を奨励(商人に朱印状を与える) 1596年 サンフェリペ号事件 26聖人殉教 in 土佐 スペイン人 山川教科書 P155 16世紀後半の東アジアの国際関係は、中国を中心とする伝統的な国際秩序が明の
国力の衰退により変化しつつあった。全国を統一した秀吉は、この情勢の中で、日本
を東アジアの中心とする新しい国際秩序を作ることをこころざし・・・ (1587年) 宗氏を通じて朝鮮に服属を要求→拒否 1592年 文禄の役 本陣 名護屋 結果 漢城や平壌を占領するが、李舜臣・李如松の活躍により休戦 7
1597年 慶長の役 1598年 秀吉 没 を機に撤退 ※この1592年・1597年の戦いは朝鮮では壬申・丁酉の乱と呼ぶ ※この戦争を機に活字印刷術や有田焼・伊万里焼などが日本に伝わる (江戸時代へ) 8
⑩江戸時代 やっときたかの江戸時代(+_+) ぶっちゃけ江戸時代はつまらない。つまらないけどやるしかない!!! 江戸さえのりきれば・・・ 楽しすぎる明治・大正・昭和が待ってるぜ!!!!! まずは俺メソッド「将軍を最初から最後まで覚えちゃう」 やるっきゃないぜ(^_-) 9
①江戸幕府の成立 1600年 関ヶ原の戦い 五大老の一人である前田利家の死をきっかけに秀吉の家臣が分裂 五大老 前田利家・徳川家康・上杉景勝・毛利輝元・宇喜多秀家(小早川隆景) 五奉行 浅野長政・増田長盛・前田玄以・長塚正家・石田三成 ×文吏派(西) 毛利輝元 VS 武将派(東) 徳川秀康○ 石田三成 加藤清正 小西行長 福島正則 →豊臣秀頼は摂津・河内・和泉の60万石の大名に転落 1603年 徳川家康が征夷大将軍の宣下を受ける→江戸に幕府を開く めんどくさい江戸幕府の職制をまとめます(+_+) (家光のころまでに整備) 老中が政務を統轄 →若年寄が補佐 三奉行 寺社奉行・町奉行・勘定奉行 →評定所 10
幕府の軍事力 大名=1万石以上の領地をあたえられた武士 →藩の形成(260ほど)税率決定の自由など地方分権が認められる 1、親藩 →御三家(尾張・紀伊・水戸) ※御三卿(田安・一橋・清水) 2、譜代 →三河以来の大名 3、外様 →関ヶ原以後 将軍家臣↓ 旗本=「御目見」可能 御家人=「御目見」不可能 藩 初期は地方知行制 17世紀半ばから俸禄制度 →藩権力が確立 幕府の財政 天領400万石 700万石(全国3000万石) 旗本領300万石 鉱山経営 佐渡・伊豆・生野・石見大森など 11
②大名統制 1605年 徳川秀忠 将軍宣下 (家康は駿府に移るが大御所として実権は握り続け
る) 方広寺鐘銘事件「国家安康 君臣豊楽」 1614年 大阪冬の陣 1615年 大阪夏の陣 →秀頼・淀君は自害→滅亡 →元和偃武 1615年 大阪の役直後 一国一城令 大名の居城を1つに限定 武家諸法度 起草者 金地院崇伝(南禅寺) 元和令 秀忠の名で家康が出す ・文武弓馬の道 ・居城の勝手な新築・改築の禁止 ・勝手な婚姻・同盟の禁止 寛永令 家光 起草者 林羅山 ・文武弓馬の道 ・参勤交代 夏4月に大名を招集し1年滞在(例外有) ・五百石以上の船の建造禁止 武家諸法度に違反すると 改易・転封・減封などが行われる さらに 諸大名は軍役を課され、平時には お手伝いを課された 1616年 徳川家康 死去 久能山に埋葬され、翌年 日光に移送→東照大権現として神格化される 12
③朝廷・寺社・のう統制 〇朝廷 1615年 禁中並公家諸法度 天皇・公家に学問を奨励し、政治から遠ざける →京都所司代に監視させる →武家伝奏の選定 1620年 徳川和子 入内 (後水之尾天皇の中宮に) 東福門院 1627年 紫衣事件 後水尾天皇が幕府の許可なしに紫衣を勅許 幕府の対応→取り消し →大徳寺の沢庵らはこれに抗議し処罰 出羽へ →これをきっかけとして、後水尾天皇は幕府の同意を得ずに譲位 →明正天皇の即位(和子の子) ※称徳天皇以来860年ぶりの女天皇(その他 後桜町天皇) 〇寺社 ・諸宗寺院法度 宗派を越えて仏教寺院の僧侶全体を共通に統制する 本山・末寺を区別 ・諸社禰宜神主法度 ・寺請制度 キリスト教や日蓮宗不授布施派に対する厳しい監視 ④村と百姓 ・ ・本百姓 村形三役になれる(名主・組頭・百姓代) ・水呑百姓 ・名子、被官、譜代 13
1643年 田旗永代売買の禁令 ~1872年 本百姓の解体と富裕者への財産集中を防ぐ 田畑勝手作りの禁 1649年 慶安の触書 「おまえら農民は農業だけやってりゃいいんだから、そんな楽なことはねえよな?」 1673年 分地制限令 田畑の相続による細分化を防ぐ 名主 20石(2町) 百姓 10石(1町) を保つ 〇農民の負担 本途物成 (基本四公六民 のち五公五民) 小物成 米以外の作物 高掛物 村高に応じて課せられる付加税 伝馬役など 国役 一国単位で課せられる 治水など 助郷役 人馬不足の際に補助人足を出す村 〇農村の運営 村法の制定 結(もやい) 田植えや稲刈りなどを協力し合う 五人組 村八分 ⑤町と町人 町人 (町年寄・名主・月行事) 地借 借家・店借 その他 商屋の奉公人など 14
⑥初期外交 1600年 オランダ船 リーフデ号が豊後に漂着 ウィリアムアダムス(英)→三浦按針 ヤンヨーステン(蘭)→耶揚子 →イギリス・オランダとの貿易を仲介 1604年 糸割符制度 ポルトガルによる生糸の販売価格上昇に対抗 →京都・堺・長崎(のち江戸・大阪も)の五カ所商人 1609年 オランダが平戸に商館をつくる 1613年 イギリスが平戸に商館をつくる 1609年 己酉約条 対馬の宗氏と朝鮮の間で結ばれる 毎年20隻の歳遣船を朝鮮に出す 回答使兼錯刷還使・通信使 島津家久が琉球征服 →琉球貿易の始まり ・慶賀使 ・謝恩使 1610年 (1609年 イスパニア船が上総に漂着) ドン・ロドリゴとともに田中勝介がノビスパンへ 1613年 慶長遣欧使節 伊達正宗が支倉常長を派遣し通商を求めた(失敗) 朱印船貿易 長崎 末次平蔵 輸入 生糸・絹織物 摂津 末吉孫左衛門 輸出 銀・銅 京都 角倉了以 茶屋四朗次郎 15
⑦鎖国制 鎖国政策の目的 1、キリスト教の閉め出し 2、西国大名の富強傾向を制限し統制する (1609年 岡本大八事件) 1612年 直轄地に禁教令 1613年 全国に禁教令 1616年 入港地を平戸・長崎に制限 1624年 スペイン船の来航を禁じた 1633年 鎖国令Ⅰ ・奉書船以外の海外渡航の禁止 ・海外居住5年以上の邦人の帰国禁止 1635年 鎖国令Ⅱ ・中国船の入港地を長崎に限定 ・在外邦人の帰国禁止 1637年 島原の乱 松倉勝家・寺沢堅高が圧政 天草四朗時貞を首領に原城にて一揆 (幕府の対応) 板倉重昌を派遣→死亡→松平信綱を派遣→鎮圧 禁教の強化→絵踏、宗旨人別帳 1639年 鎖国令Ⅲ ・かれうた(ポルトガル)の追放 1641年 オランダ商館を長崎の出島に移す カピタンにオランダ風説書を提出させる 1688年 唐人屋敷を長崎に設ける 1616年~ 清 成立 16
⑧アイヌとの交易 蠣崎氏→松前氏 1604年 松前氏がアイヌとの交易を独占 →商場知行制(家臣にアイヌとの交易権を与える) 1669年 シャクシャインの戦い →場所請負制(内地の商人に取引を請け負わせる) ⑨文治政治へ 1651年 家光 死去→ 4代 家綱 就任(保科正之の補佐) 幕政はすでに整備され、戦乱のない平和な社会が構築されるなか、その一方で、戦
乱を待望する牢人や、かぶき者の対策が必要になってくる。 1651年 慶安の変 由井小雪、丸橋忠弥らによる討幕計画 幕府の対応→末期養子の禁を緩和・改易や転封を減らす=武断政治から文治政治 1652年 承応の変 戸次庄左衛門による老中暗殺計画 1657年 明暦の大火(振袖家事) →犠牲者供養のために回向院を置く 1663年 寛文令(武家諸法度) ・殉死の禁止 1664年 寛文印知 領地宛行状を発給→将軍の権威を確認 1665年 大名証人制の廃止 →殉死の禁止とともに寛文二大美事 とされる 17
⑩元禄時代 5代将軍 綱吉 前期 大老 堀田正俊の補佐 1683年 天和令 ・「文武弓馬の道」→「文武忠孝を励し、礼儀を正すべきこと」 →儒教の影響 学術の奨励 林信篤を大学頭に任命 →林家の私塾 弘文館を湯島に移す 聖堂学問所→のちの昌平坂学問所 北村季吟 歌学方に任命 安井算哲 天文方に任命 ~貞亨歴をつくる(それまでは宣明歴) 関孝和 和算研究「発微算法」 →これらは元禄文化でしっかりやります(+_+) 1684年 堀田正俊 暗殺 by稲葉正休 →側用人 牧野成貞の補佐 後期 側用人政治 柳沢吉保の重用 1685年 生類憐みの令 綱吉の時代において、比較的豊かであった鉱山収入は減少し、さらに明暦の大火や
寺社造営費などが重なって、財政破綻を招いてしまった。 1695年 元禄の改鋳 by勘定吟味役 荻原重秀 慶長金銀→元禄金銀 小判の金含有率を下げる→452万両の出目 →物価上昇 インフレの発生 18
⑪正徳の治 6代 家宣(~1712) 7代 家継 正徳の治 新井白石、間部詮房 による政治 将軍権力の維持、高揚を目指す 1709年 生類憐みの令 廃止 →柳沢吉保を解雇し、間部詮房が後任となる 1710年 閑院宮家 設置 それまでは京極・伏見・有栖川のみ 天皇家との結びつきを強める 1711年 朝鮮通信使の簡略化 「日本国体君殿下」→「日本国王」 1714年 正徳の改鋳 元禄金銀→正徳金銀(慶長金銀と同質のものに戻す) (→勘定奉行 荻原重秀解雇) →社会に混乱を招いた 1715年 海舶互市新令 金銀の海外流出を防止 清→年30隻、銀6000貫 蘭→年2 隻、銀3000貫 半分は銅で支払う。 ⑫経済の発展 江戸時代の幕藩体制の根底にあったものは「農業」 =農民からの年貢維持が非常に大切 →新田開発の励行 ・代官見立新田 ・町人請負新田 19
農書による農業技術の進歩 宮崎安貞 「農業全書」 大蔵永常 「農具便利論」「広益国産考」 農具や肥料の進歩 ・備中鍬 ・千歯扱 ・唐箕 ・踏車 干鰯・〆粕・油粕などの金肥 農業・商業の発達→運ばなきゃいけない→交通整備 五街道 東海道・中山道・甲州道中・日光道中・奥州道中 ※ 起点 江戸の日本橋 管轄 道中奉行 ・補助的な街道→脇街道 ・宿駅の設置 問屋場が置かれる 大名→本陣・脇本陣 一般→旅籠屋 ・飛脚 幕府→継飛脚 諸藩→大名飛脚 三都商人→町飛脚 ・道標、休憩所→一里塚 ・「入鉄砲に出女」 大量の物資を運ぶためには陸より水上移動が適する 角倉了以→富士川・高瀬川・保津川・天竜川 川村瑞賢→東回り航路・西回り航路・安治川 北前船の活躍 大阪⇔江戸 南海路 菱垣廻船→18世紀 樽廻船 20
〇商業の展開 近世初期の有力商人は、まだ交通体系が整備されない時期に地域による大きな価
格差があったことを利用して、自分の船の蔵を用いて巨大な富をつくった。→初期豪
商 →鎖国や交通整備により衰える 17C 後半 問屋が商業・流通の中心に →仲間・組合をつくり、営業権の独占を図る →江戸 十組問屋 大阪 二十四組問屋 営業の独占権=株 株をもつ商人たちの仲間=株仲間 株仲間のキーワード→徳川吉宗、田沼意次、水野忠邦(微妙に認め→広く認め→解
散) 〇貨幣と金融 江戸幕府における初の全国流通貨幣→慶長金銀 三貨 (金) 江戸と京都 by後藤庄三郎 計数貨幣 (銀) 伏見・駿府→京都・江戸 丁銀・豆板銀 (銭) 江戸・近江坂本 寛永通宝 ※領内では藩札も発行されていた ※東日本では金遣い、西日本では銀遣い →両替商の必要性 十人両替 両替・公金の出納・為替・貸付などの業務を行う 三貨の間の交換率は相場によって常に変動し、統一的な貨幣制度は明治に至るまで
成立せず。 ※江戸時代の経済の中心は江戸・大阪・京都 江戸 「将軍のお膝元」 人口100万人 大阪 「天下の台所」 蔵屋敷の設置→蔵物を蔵元・掛屋に販売させ貨幣を得る 京都 朝廷の権威を利用し、寺院の寺社や宗教を支配するために京都を重視した。 21
⑬享保の改革 8代将軍 吉宗 (紀伊藩主から将軍へ) 7代家継が8歳で死去したために、宗家が断絶→三家から選択せざるをえない キーワード 家康時代への復古(諸事権現様の御定通) →綱吉以来の側用人ありきの政治を一新し、譜代大名や有能な人材を多く登用す
る。 背景 〇米中心の世から物中心の世へ→「米価安の諸色高」 →武士は米を支給され、それをお金にかえて日用品やその他を買って生活 米が豊作で値段が安い場合に、そのほかの物の値段が変わらないので武士の生活
は困窮 →米についての対策(堂島米市場の公認)、および武士の困窮ついての対策 〇財政再建事業 町人請負新田の許可→年貢増徴を目指す 検見法→定免法 株仲間を認め、商業を把握 〇実学奨励→漢訳洋書輸入の禁の緩和 →蘭学のおこり 野呂現丈 青木昆陽 甘藷(サツマイモの研究) 1719年 相対済まし令 金銭トラブルについて、幕府は関わらないよ 1721年 目安箱 設置 in front of 評定所 ・町火消し ・小石川養生所 22
1722年 上米の制 大名は知行1万石につき八木100石を納めよ そのかわり→参勤交代の江戸在府期間を6か月に短縮 質流し禁令 田畑の質流れを禁止 →各地で田畑をとりもどす質地騒動が起こる 出羽長瀞・越後高田 1723年 足高の制 人材登用にあたって、禄高に満たない者は不足の役料を加えて支給する 1732年 享保の飢饉 1733年 享保の打ちこわし 1742年 公事方御定書 大岡越前守忠相が起草した刑事・刑事訴訟法 上巻81巻・下巻103巻 御定書百箇条 ⑭田沼時代 側用人→老中 田沼意次 (9代家重 10代家治) 「商業を重視」経済活動を活発化させ、それに対して税をかける ・株仲間の大幅認可→運上・冥加を徴収 ・専売制の強化(幕府の直営座) 銅座・真鍮座・朝鮮人参座など ・俵物の輸出(いりこ・ふかのひれ・ほしあわび) ・新田開発(印旛沼・手賀沼)の干拓 ・定位貨幣 明和五匁銀(12枚で小判1枚) 南鐐二朱銀(8枚で小判1枚) 23
〇外交 仙台藩医の工藤平助が「赤蝦夷風説考」を献上 →最上徳内を東蝦夷探検にいかせる 1783年 天明の大飢饉 浅間山の噴火を機に 田沼時代のキーワード「都市部は栄え、農村は貧しく」 1784年 田沼意知が佐野政言に刺殺される ⑮寛政の改革 (白河藩主)老中 松平定信 (11代家斉) 「随筆 花月草紙 自伝 宇下人言」 「復古的政治思想に基づく社会復興・引き締め」 天明の大飢饉からの復興策 囲米の制 1万石につき50石を蓄えさせる 社倉・義倉・常平倉 七分金積立 町入用の節約分の70%を貯蓄させる 石川島人足寄場 長谷川平蔵による経営 職業訓練施設 旧里帰農令 故郷へ帰ることを奨励 棄捐令 蔵宿(札差)に対し ・6年以上の借金を帳消しにする ・利息を月に1%、年利12%を上限とする 〇出版統制 林子平「海国兵談」 「三国通覧図説」 長崎が日本の窓口だけど、ほかの場所攻められたら一発だよね(^_-) 山東京伝(洒落本)「仕懸文庫」 恋川春町(黄表紙)「金々先生栄花夢」 →蔦谷重三郎(出版社) 24
1789年 尊号一件 光格天皇が実の父親である閑院宮 宮典親王に太上天皇の称号を与えたい →前例がないためアカン! →武家伝送の公家を処分 →この事件をきっかけに家斉との関係悪化 幕府と朝廷の協調関係が崩れ、尊王論の高まりのきっかけとなった 1790年 寛政異学の禁 朱子学を正学とし、学問所においてはそれ以外の講義を禁止 (儒官)柴野栗山・尾藤二洲・岡田寒泉(→古賀精里) ⇒寛政三博士 ⑯江戸中期の藩政改革 藩も貧乏→財政再建したい→専売制や教育充実化 「細い熊の上に米、佐—―秋だ!」 ・細川重賢(熊本藩) 時習館 蝋の専売 ・上杉治憲(米沢藩) 興譲館 ・佐竹義和(秋田藩) ⑰農村の変容 享保・田沼・寛政~ A、飢饉の連続による困窮 B、貨幣経済の進展 地主手作→寄生地主※→小作農の増加 町人請負新田の増加 多角経営 問屋性家内工業の発展→貧富の差が顕著にあらわれてくる →一揆の増加 ・代表越訴型一揆 佐倉惣五郎 磔茂左衛門 ・惣百姓一揆 ・村方騒動・国訴 ・世直し一揆 ⑱大御所時代~天保の改革 25
大御所時代 11代 家斉の親政 約50年間 1793年 松平定信引退~ 『文化・文政年間』質素倹約から華美へ 都市を中心に庶民文化が花開く ⑰参照に、 豪農や地主が力をつける一方、土地を失う百姓も多く発生。 →治安の乱れ、犯罪の広域化 →1805年 関東取締出役役人から選出、関八州を巡回 1827年 寄場組合すべての農村に設置 1833年 天保の大飢饉 →一揆・打ちこわしが頻発(甲斐郡内・三河加茂・・・) →幕府・諸藩は対策ができず 1837年 大塩の乱 元大坂町奉行の与力 大塩平八郎が救民の旗をかかげ反乱 陽明学者・私塾「洗心洞」 ・「出汐引汐奸賊聞集記」 ※この後、大塩門弟と称し生田万が越後の柏崎で反乱(生田万の乱) 徳川斉昭 「戊戌封事」 一、・・然るところ凶 年にて、百姓の餓死候をもみごろしにしいたし、武備は手薄く
候て、士民惰弱に相成り居り候故、近年、参州 ・甲 州の百 姓一揆 徒党を結び、又は
大阪 の奸賊 容易ならざる企てなり。
一、外患とは海外の夷属日本をねらひ候患いに御座候。・・・・能能深慮熟慮仕り候
へば、この外患ほど油断ならざる義はこれ無く候。
※ 参州・甲州 三河加茂・甲斐郡内 大阪~ 1837年 大塩平八郎 生田万 モリソン号事件 「日本をねらい」詳しくは⑲で。ロシアの接近・・ 徳川斉昭はこの後も出てきます 天保の改革 12代家慶 老中 浜松藩主 水野忠邦 26
華美な大御所時代から質素倹約へ 文学弾圧 為永春水(人情本)「春色梅児誉美」 柳亭種彦(合巻)「偐紫田舎源氏」 復興政策 〇農村復興 江戸に流入した農民がいないと話にならない →人返しの法 →江戸以外の地域はどうなるのよ・・(笑) 〇経済政策 物価騰貴をどうにかしたい! →株仲間解散令 江戸の株仲間を解散させ、以後冥加は払わなくて OK ↑史料は十組問屋と出ているからね 十組=江戸 じゃあ大阪は? 効果は?大失敗!逆効果 混乱を招く →1851年 株仲間再興 棄捐令をここで再び出し、旗本・御家人を保護 〇川越藩援助→川越・庄内・長岡3藩の封地入れ替え(反対されて撤回) 幕府の命令が徹底されなかった→幕府権力の低下と諸藩の自立 →1843年 上知令 江戸・大阪周辺の約50万石の地を直轄地にし、財政の安定や対外防備の強化を図
る。(反対されて失敗) 改革はやることなすこと大失敗 →幕府権力の衰退を示している。 次はちょっと戻って寛政期あたりからの列強との関係をやりますよ(^_-) 27
⑲雄藩のおこり~後期藩政改革~ 後期改革の特徴 A 有能な下級藩士の登用 B 洋式兵備の充実化 覚えるべき藩 ①薩摩藩②長州藩③佐賀藩④幕府 はマスト 薩摩藩 藩主 島津重豪→島津斉彬→島津忠義 財政再建のため【調所広郷】を登用 黒砂糖の専売 琉球貿易 反射炉の築造 紡績工場の建設(現在の集成館) 長州藩 藩主 毛利敬親 下級藩士 【村田清風】の登用 防長大一揆の後始末→専売制の緩和 越荷方の設置 佐賀藩 藩主 鍋島直正 均田制の実地(本百姓体制の再建) 日本初の反射炉建造 →大砲製造所を設け、洋式軍事工業の導入 幕府 江川太郎左衛門に伊豆韮山に反射炉を設けさせる 水戸 徳川斉昭 土佐藩 おこぜ組 宇和島藩 伊達宗城 福井藩 松平慶永 28
⑳幕府の衰退 世界情勢が大幅に変動する中で、日本における外交政策の変更をせまられる重要な
時期 エカチェリーナ2世によるロシア南下政策 1778年 ロシア船が厚岸に来航 1786年 最上徳内 東蝦夷地探検(田沼時代) 1792年 林子平 処罰(松平定信時代) ラックスマン が根室に来航~漂流民 大黒屋光太夫を送り返すという名目 桂川甫周「北槎聞略」 1798年 最上徳内・近藤重蔵らが択捉島を探検→「大日本恵登呂府」 東蝦夷地を直轄地に 1804年 レザノフが長崎に入港 →冷淡な対応で追い返す →キレる→樺太や択捉島を攻撃 1806年 文化の撫恤令 1807年 全蝦夷地と松前藩を直轄地にし松前奉行の支配に置く 1808年 間宮林蔵の樺太探検 シーボルト→間宮海峡 フェートン号事件 長崎奉行 松平康英は責任をとって切腹 1811年 ゴローウニン事件 ゴローウニンは国後島で捕えられ、箱館に抑留→「日本幽囚記」 1812年代わりに、ロシアは高田屋嘉兵衛を捕える 1813年 解決 1825年 異国船打払令 清・オランダ以外の国は無条件に打ち払え! 1828年 シーボルト事件 日本大好きシーボルトさんが国外追放 高橋景保が処罰される 29
1837年 モリソン号事件 アメリカ商船モリソン号が日本人漂流民を送り届る→無二年に打ち払われる これに対し 我々JAP はなんと恥ずべき行為を・・・ 尚歯会による政府批判 高野長英 「戊戌夢物語」 渡辺崋山 「慎機論」 (三河田原藩の家老) →1839年 蛮社の獄 1840年 アヘン戦争 イギリスが清に勝利 南京条約で香港を割譲 1842年 天保の薪水給与令 1844年 ウィレルム2世の開国勧告 for 家慶 (拒否) 1846年 ビッドル(アメリカ)が浦賀に来航し通商を要求(拒否) 1853年 ペリーが浦賀に来航 軍艦4隻(旗艦サスケハナ号) フィルモア大統領の国書を持参 (ロシアのプチャーチンも同様に条約締結をせまる) 1854年 ペリー再来航 (旗艦ポーハタン) 日米和親条約(神奈川条約) 全権 林輝 老中 阿倍正弘 ①アメリカ船の必要とする燃料や食料を供給する ②難破船や乗組員を救助する ③下田・箱館の2港を開き、領事の駐在を認める ④片務的最恵国待遇 ついで、イギリス・ロシア・オランダと同様の条約を締結 日露和親条約 ①下田・箱館・長崎の開港 ②択捉と得撫島の間を国境 ③樺太は両国人雑居 30
約200年間の鎖国時代が終わり、開国した日本 当時の老中首座 阿倍正弘は開かれた政治を始め挙国的な対策をたてようとする →朝廷の権威を高め、諸大名の発言力を強めるもので、幕政を転換させる契機とな
る 〇安政の改革 幕府・諸藩では、軍事力の強化や海外情報の収集や人材育成に努めた。 ・徳川斉昭 を海防参与に登用 ・台場の建造 ・大船建造の解禁 ・長崎に海軍伝習所、江戸に講武所・蕃書調所を設ける 1856年 アメリカ総領事ハリス来日 at 下田 通商条約の締結を要求 当時の老中首座は? 堀田正睦 But→孝明天皇の勅許は得られず ☆将軍継嗣問題 当時の将軍 13代 家定 南紀派 徳川慶福を推す←井伊直弼中心 一橋派 徳川慶喜を推す←阿倍正弘中心 (阿倍が没→井伊直弼が大老に就任) →1858年 14代 徳川家茂 就任 1858年 日米修好通商条約(安政の五か国条約)米英仏蘭露 井伊直弼が勅許を得ずに締結 1860年 批准書交換 全権 新見正興 勝海舟が咸臨丸で付き添い ①神奈川・長崎・新潟・兵庫 を順に開港、神奈川を開いた6か月後に下田は閉鎖 江戸・大阪の開市 ②自由貿易 ③開港場に居留地を設け、一般外国人の国内旅行を禁止 ④領事裁判権(治外法権) ⑤関税自主権の欠如 31
【輸出品】生糸・茶・蚕卵紙・海産物 【輸入品】毛織物・綿織物・軍需品 ・最大の貿易相手はイギリス 港は横浜 ・大幅な輸出超過(国内は急激な品薄状態)→物価高 1860年 五品江戸廻送令 雑穀・水油・蝋・呉服・生糸は江戸の問屋を経て輸出せよ ・金銀比価流出問題→万延貨幣改鋳 →物価上昇に拍車をかける 攘夷運動がおこる →
1859年 安政の大獄 井伊直弼による一橋派、攘夷派の弾圧 三条実万・徳川斉昭・松平慶永・・・・引退 吉田松陰・橋本左内・頼三樹三郎・・・処刑 1860年 桜田門外の変 水戸脱藩の志士が伊直弼を暗殺 ㉑公武合体と尊攘運動 公武合体 (和宮降家) 安藤信正の計画 ※このとき和宮は有栖川宮熾仁親王と婚約していた 糞幕府が(+o+)調子のるなボケ 1862年 坂下門外の変 安藤信正の失脚 同年 文久の改革 by薩摩 島津久光 勅旨 大原重徳 上洛後、寺田屋事件の発生(薩摩藩の尊王攘夷派を排除) ・政治総裁職 松平慶永 ・将軍後見職 一橋慶喜 全員しっかり覚える! ・京都守護職 松平容保 32
(次ページへ) ・参勤交代を3年に1度にし、江戸在府期間を100日に短縮 ・番所調所→洋書調所の設置 (久光が京都に帰る途中) 生麦事件(神奈川)イギリス人殺傷事件 1863年 薩英戦争 イギリス艦隊が薩摩藩をフルボッコ →攘夷が不可能と悟った瞬間 →薩摩とイギリスの急接近 〇同じころの長州藩は尊王攘夷論が藩論 →急進派の公家と結んで朝廷を動かし、将軍を上洛させて攘夷の決行を約束させる →1863年 5月10日を攘夷決行日とする 当日、下関の海峡を通過する、米・仏・蘭の船をつぎつぎに砲撃 1863年 八月十八日の政変 薩摩・会津の両藩が長州藩や急進派公家などの攘夷派を一掃 三条実美ら公家7名を追放(七卿落ち) →長州藩は勢力を取り戻したい 1864年→池田屋事件の発生(新選組の活躍) →これを契機に長州藩は久坂玄瑞らが挙兵し、京に攻めのぼるが、蛤御門の変で敗
れる これにより長州は朝敵となってしまう →第一次長州征討 さらに5月10日の攘夷に対する報復として 四国艦隊下関砲撃事件 米・英・仏・蘭(リーダー英 オールコック) このような動きのなかで、長州藩の上層部は藩内の尊攘派を弾圧し、幕府に恭順 ここで高杉晋作が台頭、藩の実権をにぎる 33
(※攘夷派の主な反乱) ・天誅組の変 吉村寅太郎、中山忠光 ・生野の変 平野国臣 ・天狗党の乱 藤田小四郎 1865年 条約勅許 by孝明天皇 列強さんが怖いので、兵庫港だけは勘弁(+o+) 1866年 改税約書 関税を5%へ引き下げ ※このころからイギリス公使パークスは、幕府の無力を見抜き、天皇を中心とする雄
藩連合政権の実現に期待するようになった。対してフランス公使ロッシュは、あくまで
幕府支持の立場をとり、財政的・軍事的援助を続けた。 ㉓倒幕運動の展開 高杉晋作や桂小五郎らの長州藩尊攘派も下関事件で攘夷の不可能を悟ると、いった
んは幕府に恭順するが、高杉らは1863年に組織した奇兵隊をひきい1864年に藩
の主権を保守派から奪い返し、藩論を恭順から討幕へと変更しイギリスに急接近し
た。 【 】 1866年1月 薩長同盟 土佐藩の坂本竜馬・中岡慎太郎らの仲介 6月 第二次長州征討 幕府陣営大苦戦!(+o+){やばい}→家茂が大阪城で死ぬ→じゃあいったん止めるか 15代 慶喜 就任 年末 孝明天皇の急死→尊攘派であり公武合体派であったので幕府にとっては痛手 開国に伴う物価上昇や政局をめぐる抗争は社会不安を増幅させた。 この当時の社会思想状況を表した言葉を3文字で 世直し 34
㉔幕府の滅亡 第十五代 徳川慶喜 1867年10月 大政奉還 後藤正二郎・坂本竜馬→山内豊信→慶喜 ※土佐藩は薩長と違い、公武合体派であった。この時点で薩長の画策により討幕の
密勅が出ていた。 12月9日 王政復古の大号令 ①天皇直接政治に復活 ②三職(総裁:有栖川宮熾仁親王・議定:岩倉具視など・参与:有力武士ら)を置く ※初の三職会議→小御所会議 徳川慶喜の辞官納地の決定(内大臣・200万石返上) Check! そもそも江戸時代の徳川政治は名目上、幕府が天皇の代わりに行ってあげてた。 それを天皇に返上したということ。言ってしまえば、まだ大名と将軍との関係は断ち切
れていない。 もちろん慶喜さんは納得がいかない! 1868年 戊辰戦争 ① 鳥羽・伏見の戦い(京都) 慶喜の自官納地に反対する旧幕府勢力の反乱 慶喜 lose→大阪湾より江戸へ逃亡←追討令 ②官軍の東征 →勝海舟と西郷隆盛による江戸城無血開城 上野戦争・・一部の幕臣が彰義隊を結成し、上野で官軍と抗戦 ③ 会津戦争 奥羽超列藩同盟(松平容保によって結成)が抵抗 ④函館五稜郭戦争 五稜郭で幕府海軍 榎本武揚が降伏 35
⑪明治時代 そのとき・・歴史が動いたッッッッ!!!!! 個人的には一番好きな時代。一言でいえば ロマン に限るわ! もしあのとき明治維新が起こらなかったら。いまごろ日本はどうなってたんですかね。 国を思って、忠誠して、良き未来のために一武士が革命を起こしたわけですよ。 かっこいいわぁ・・・・ んでな、はっきりいってこの明治時代。一筋縄ではいかないし、難しい。 なぜなら起こったこと(起こるべきであったことなんだが)ありすぎなんだ。 でも、その行動には必ず理由があって、それを流れの中でしっかり覚えていく! これが明治以降攻略の近道でございます。頑張りましょう! 36
①新政府の発足 1868年 五箇条の誓文 起草 由利公正 修正 福岡孝弟 加筆 木戸孝允 ・ 公議世論の尊重 ・ 開国和親 ・ 天皇親政 ○ 天皇が百官を率いて神に制約する形式 翌日、対内的アピールとして五榜の掲示を出す →君臣・父子・夫婦間の儒教的道徳を説き、徒党や強訴・そしてキリスト教を改めて
厳禁ということを示した。 →浦上信徒弾圧事件 社会の急激な変容は庶民の混乱をまねくものと考え、しばらくは江戸時代と大差ない
ものとした。 政体書 アメリカ合衆国の三権分立を手本とする。 立法・・議政官 行政・・行政官 太政官に権力集中 司法・・刑法官 1868年 7月 江戸→東京 9月 慶応→明治に改元 一世一元の制 1969年 2月 首都を東京に ②廃藩置県 戊辰戦争の進行とともに、新政府は、没収した旧幕府領のうち、要地を府、その他を
県 としたが、諸藩では格大名が統治する体制が従来のまま存続していた→府 ・ 藩 ・
県三治制 新政府は政治的全国統一を目指す→残された諸藩も直接統治に組み込む方針 37
1869年 1月 版籍奉還 版(土地)・籍(人)の支配権を天皇に返上するという意 薩摩・長州・土佐・肥前の4藩が出願→多くのその他藩がこれにならう (6月 その後、上記意外の藩にたいしても版籍奉還を命じる) ・旧藩主は知藩事に任命され、石高にかえて家禄をあたえた ※ こうして藩主の家禄と藩財政は分離されたが、旧大名は実質的に温存され、徴税
と軍事の両権はこれまで通り各藩に属していた。このため新政府は限られた直轄
地からの年貢徴収を厳しく行ったので、新政府に対する一揆が各地で多発し、ま
た、諸藩でも江戸時代とかわらない徴税に民衆の不満が高まった。 ※同時に、政体書による太政官制を改め、二官六省制へ 1871年 廃藩置県 ・ 薩摩・長州・土佐から御親兵をつのり、軍事力を固める ・ すべての藩を廃止し、知藩事を東京に召集 ・ かわりに府知事・県令を派遣が地方行政を行う→中央集権化 ※ 同時に二官六省制を改め、三院制へ→藩閥政府へ 廃藩置県を断行して国内統一を達成 →内政改革の必要性 〜身分制改革〜 ○ 四民平等—―華・士・卒・平 平民の名字が許される 1871年 賤民解放令 えた・非人→平民 1872年 壬申戸籍 〜軍事制度〜 1871年 御親兵→近衛兵 1872年 徴兵告諭 大村益次郎の発案・山県有朋の実行 「血税」→血税一揆の発生 1873年 徴兵令 「国民皆兵」 満20歳以上の男子に3年の兵役義務 ※兵役免除 戸主・長男・学生・官吏・代人料270円を納める者 ・鎮台(のちの師団)の整備・・4鎮台から6鎮台へ 38
〜給料〜 政府は華・士族に対して、額は減らしたもののいぜんとして家禄を支給し、さらに王政
復古の功労者に対しては賞典禄を与えていた。この家禄と賞典禄をあわせて秩禄と
いうが、その支出は国の総支出の30%を占めていた。 1873年 秩禄奉還の法 希望者の士族の禄高に応じて、数年分をまとめて秩禄公債を発行し現金を支給 1876年 金禄公債証書 5年〜14年分の額の金禄公債証書を与え、秩禄を全廃→秩禄処分 ※同年 廃刀令 →士族はすべての特権を奪われる(士族民権の要因) →士族の商法、士族授産 ③地租改正 近代化政策を進める上で、財政の安定は重要な課題であった。新政府の重要な財源
は、旧幕府時代のまま受け継いだ年貢で、旧各藩ごとに税額が異なり、米の作柄に
よって年々変動していた。また、新政府は廃藩によって諸藩の債務を引き継いだので
財政は苦しく、財政の安定をめざして、土地制度・税制の改革を行う必要があった。 1871年 田畑勝手作りを許可 1872年 田畑永代売買の禁を解く ・ 土地所有者に地券を発行 →従来の年貢負担者に交付→封建的領有制の解体 1873年 地租改正条例 1) 課税の基準を地価に変更 2) 物納を金納に改め、税率は地価の3% 3) 地券所有者が納税 ※ 田畑が自由に売買されるようになると、お金を持つ者は田畑を買い占め、お金の
無い者は売るしかない。→寄生地主制の増加 ※ 物納→金納に改められたことにより地主は、インフレ・デフレの影響がかなり強く
なる(豪農民権の要因)(後でやるが、松方デフレがそれにあたる) ・地租改正反対一揆 負担軽減、入会地の国有化に反対 →1879年 竹槍でドンと突き出す2分5厘 地租が2,5%に引き下げ 39
④殖産興業 「富国強兵」 →最初に、封建的諸制度の撤廃につとめる ・関所、宿駅、助郷 ・株仲間などの独占禁止 ・身分による制約 1868年 太政官札 1869年 ・民部省札 →藩札の使用が不可能に ・開拓史の設置 →屯田兵を派遣 ○1876年 札幌農学校 お雇い外国人 クラーク アメリカ式の農業の指導 士族授産 ・東 京 〜 横 浜 間に電 信 開通 5年後には長崎・北海道までのばされ、長崎・上海間
の海電線を通じ欧米と接続 1870年 ・工部省 設置 伊藤博文 →鉄道や鉱山経営 ・1873年 内務省 とのライバル 大久保利通 →海運、紡績 三菱(郵便汽船三菱会社)を手厚く保護⇔共同運輸会社 →1885年合併 日本郵船会社 1871年 ・新貨条例渋沢栄一 10進法の 円・銭・厘の導入(1円=100銭=1000厘) ※開港場では銀貨が、国内では紙幣が使われる ※金本位制を建前としたが、実際のところ金銀複本位制 ・ 郵便制度 前島密 飛脚にかわる官営事業 1877年に万国郵便連合条約に加盟 40
1872年 国立銀行条例 渋沢栄一」 ・民営銀行に兌換紙幣を発行させる ・1873年 第一国立銀行 ※結局のところ、うまくいかない・・・ →兌換制度は確立しない ○ 1876年 兌換紙幣の発行義務を廃止 →国立銀行は153行となる 1872年 ・鉄道 開通 新橋〜横浜間 ・ 1874年 大阪〜神戸 ・ 1877年 〜京都 ・ 1889年 東海道全線開通 ・ 官営模範工場 富岡製糸場 設置 群馬県 →フランスの先進技術の導入と普及 ⑤自由民権運動1 士族民権 戊辰戦争に際して政府軍に加わって戦った士族の中には、彼らの主張が新政府に反
映されないことに不平を抱く者が少なくなかった・・・。 1873年 明治六年の政変 〜征韓論争〜 外務卿 副島種臣 が朝鮮に開国を要求したが、「日本は無法の国だ!」と拒否 →征韓論 の発生・・・朝鮮を武力によって開国させるべきだ ※ 内地優先派 大久保利通、木戸孝允は反対 →板垣退助・西郷隆盛・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らが下野 ※1874年の台湾出兵を機に木戸孝允も下野 ※征韓派は翌年より政治批判を積極的に展開する 1874年1月 民選議員設立建白書 を左院に提出 by 愛国公党 板垣退助 後藤
象二郎 →『日新真事誌』に本文が掲載される(有司専制の弊害を批判) イギリス人 ブラック が発行 ※これが、自由民権運動の口火となる 41
○板垣は土佐に戻り、立志社を結成 →1875年 愛国社 in 大阪 1875年 大阪会議 大久保 VS 板垣・木戸 ・ 右院→大審院 ・ 左院→元老院 ・ 地方官会議の設置 →漸次立憲政体樹立の詔 ・ 讒謗律 ・ 新聞紙条例 ∴1874年民選議員設立建白書→1875年大阪会議→立憲政体樹立体制へ ○一方で、保守的な士族のなかには、新政府樹立に功をあげながらも、急激な改革
の中で旧来の特権を失っていくことへの不満から、反政府暴動をおこす者もいた 1874年 佐賀の乱 征韓党による反乱〜江藤新平〜 →これをはじめとして、1876年 廃刀令、秩禄処分が断行されると・・・ 1876年 ・敬神党の乱 太田黒伴雄 ・秋月の乱 宮崎車之助 ・萩の乱 前原一誠 1877年 西南戦争 西郷隆盛 私学校の生徒を中心にした不平士族による最大最後の戦い これを最後に、不平士族による反乱は収まる。 42
⑥自由民権運動2 豪農民権 ○インフレによって余裕ができた農民達による民権運動 1877年 (西南戦争最中)立志社建白を天皇に提出しようとするが却下 ・ 国会の開設 ・ 地
租
軽
減 →自由民権運動の基本要求 ・ 不平等条約の改正 1878年 紀尾井坂の変 大久保利通暗殺 →政府内で正直争いが始まる 伊藤博文(漸進論) VS 大隈重信(即時国会開設) 1878年 三新法 ・ 郡区町村編成法 ・ 府県会規則 ・ 地方税規則 →府会・県会を通してある程度の民意を組み入れられる地方制度となる 1880年 国会期成同盟 結成 (中心)片岡健吉・河野広中ら ・国会開設請願書を提出 →これに対し、政府は集会条例で弾圧 1881年 北海道開拓使官有物払い下げ事件 開拓使長官 黒田清隆(薩摩)が同郷の五代友厚の関西貿易社に格安で施設を払
い下げる。 →この事実を郵便報知新聞がすっぱ抜く・・・ →政府に対する世論の攻撃が激しくなる →明治十四年の政変 郵便報知新聞とのつながりがある大蔵卿の大隈重信が黒
幕であるとし、大隈重信は罷免 国会開設の勅諭 10年後の1890年に国会開設を約束 →「政党の時代」 43
○初期政党 ・ 自由党→板垣退助 ・ 立憲改進党→大隈重信 ・ 立憲帝政党→福地源一郎 ※立志社・愛国社の流れを組む自由党が主として地方農村を基盤にしたのに対し、
立憲改進党は都市の実業家や知識人に支持される。 ○ 松方財政 大隈の後任の大蔵卿に松方正義が就任 兌換義務を取り除かれた国立銀行によって、不換銀行券が次々に発行 →銀貨に対する紙幣の価値が下落 →紙幣で納められる定額の地租を中心とする政府の収入は実質的に現象 →デフレ政策に努める 1) 緊縮財政 軍事費を除く歳出を抑制する一方、増税 →財政余剰で不換紙幣を減らしていく、紙幣整理を進める 2)日本銀行の設置 国立銀行に認めていた紙幣の発行権を奪い、日本銀行からしか紙幣を発行できなく
させた →1885年兌換銀行券条例→日本銀行から、銀貨100円と交換できる銀兌換権が
発行→銀本位制 3)横浜正金銀行設立 特定の目的をもった銀行の設立 ∴上記デフレ政策によりその影響を農民がもろにうける・・・ 米価や繭の値段が下落→地租がきつい! →寄生地主制の成立 44
⑦自由民権運動3 農民民権 1882年 福島事件 福島県令三島通庸の政治に反発 →自由党員が農民をバックアップして反乱 →河野広中が内乱罪で入獄 1883年 高田事件 1884年 激化事件の集中 ・ 群馬事件 ・ 加波山事件(栃木・茨城) →この後、自由党が解散 ・ 秩父事件(埼玉県) 松方デフレに苦しむ農民が困民党を結成、 1885年 大阪事件 大井憲太郎らが、朝鮮に渡りその保守的政治を武力で打倒しようと企てる →事前に大阪で検挙 ※ こうした運動の急進化とそれに対する弾圧の繰り返しの中で、民権運動は次第に
衰退していった・・・ 1887年 三大事件建白運動 星亨の大同団結の呼びかけに後藤象二郎が応じる→井上馨の条約改正交渉失敗 1 言論集会の自由 2 地租軽減 3 外交失策の回復 (政府の対応)→保安条例 天皇の近く3里以内に入るな!入った者は警視総監、
地方長官、内務大臣の許可を得て、退去を命じることができ、その者は3年以内は3
里以内に入ることができない。 45
⑧憲法の制定 政府は、明治十四年の政変の際、天皇と政府に強い権限を与える憲法を制定する方
針を決めていた ○ 「私擬憲法」 ・ 私擬憲法案・・・交詢社 ・ 日本憲法見込案・・・立志社 ・ 東洋大日本国国憲法按・・・植木枝盛 ・ 五日市憲法・・・千葉卓三郎 ・ 私擬憲法意見・・・共存同衆 ・ 日本国憲按・・・元老院 1882年 伊藤博文らをヨーロッパに派遣 ・ベルリン大学グナイスト ・ウィーン大学シュタイン らよりドイツ流憲法理論を学 ※翌年帰国し、「制度取調局」を設置 (メンバー)井上毅、金子堅太郎、伊東巳代治ら (顧問)ロエスレル、モッセ 1884年 華族令 公・侯・伯・子・男 貴族院の土台をかためる 1885年 内閣制度 制定 太政官制を廃す →各省の長官は国務大臣として自省の任務に関して天皇に直接責任を負うだけでな
く、国政全体に関しても総理大臣のもとに閣議の一員として直接に参画するものとな
った。 ※宮中・府中の別(宮内省が内閣から独立し、宮中に内大臣府を設置) (復習)1867年三職→1868年政体書→1869年二官六省制→1871年三院制→1
885年内閣制度 1888年 ・枢密院 設置 初代議長 伊藤博文 ・市制・町村制 (1890年 府県制・郡制) →モッセ、内務大臣山県有朋による。 次ページは大日本帝国憲法 46
1889年2月11日 大日本帝国憲法 発布 紀元節 天皇が定めて国民にあたえる欽定憲法であり、天皇と行政府に強い権限があたえら
れた・・。これにてアジアで初めて近代的立憲国家となる ・ 天皇主権・・天皇は統治権を総覧 ・ 臣民の権利・・法律の範囲内で、自由があった ・ 天皇大権・・文武官の任免、国防方針の決定、陸海軍の統帥、条約締結など ※同時に、議院法、衆議院議員選挙法、貴族院令が公布され、皇室典範も制定され
る。 ○ その他の諸法典 フランスの法学者であるボアソナードを招き、起草させる 1880年 刑法・治罪法 公布 1890年 民法・商法・民事訴訟法・刑事訴訟法 公布 「民法典論争」 反対 穂積八束 「民法出デテ忠孝亡ブ」 賛成 梅謙次郎 →第三議会においてようやく決定→家における戸 主 の絶対的支配権など、家 父 長
制的な家制度を定めた。 ⑨条約改正 旧幕府が欧米諸国と結んだ不平等条約の改正、とくに領事裁判権の撤廃と関税自
主権の回復 は、国家の独立と富国強兵を目指す政府にとって重要な課題であっ
た・・。 ①岩倉具視②寺島宗則③井上馨④大隈重信⑤青木周蔵⑥榎本武揚⑦睦奥宗光⑧
小村寿太郎 ①岩倉具視(右大臣) 1871年 予備交渉(1872年に改正交渉が可能であったため) アメリカと交渉するが、失敗・・。 ※久米邦武「米欧回覧実記」 47
②寺島宗則(外務卿) 「税権回復」交渉を第一目標 1876年 アメリカとの交渉に成功したが、イギリス・ドイツが反対し、無効となる ③井上馨(外務卿、外務大臣) 「一括交渉」(すべての国といっぺんに交渉) 1882年 予備会議(東京に列強の代表を集めておこなう) 1883年 鹿鳴館(東京 日比谷) 建設 設計者 コンドル →鹿鳴館外交 1886年 正式会議 1887年 内地雑居を許可するかわりに、領事裁判権を原則として撤廃する改正案
が一応了承される。 ※さらにもう一つ条件として、欧米同様の法典を編纂し、外国人を被告とする裁判に
は、半数以上の外国人判事を採用せよ・・・ →これに対し、三大事件建白運動 →政府内でも、農商務大臣の谷干城が批判し辞任、ボアソナードも反対・・ ※1886年 ノルマントン号事件 が上記反感を増幅させるものとなっていた →井上辞任 ④ 大隈重信 条約改正に好意的な国から「個別交渉」を開始 アメリカ・ドイツ・ロシアとの間に改正条約を調印 ※しかし、大審院への外国人判事の任用を認めていたことが、ロ ン ド ン タ イ ム ズ に
すっぱ抜かれる→1889年 大隈重信が玄洋社の来島恒喜に爆弾を投げられる・・。 →二つの意味で失脚・・・。 ○この後、条約改正の最大の難関であったイギリスは、シベリア鉄道を計画して東ア
ジア進出をはかるロシアを警戒し、日本に対して好意的になる。 ⑤青木周蔵(松方正義内閣外務大臣) 1891年 大津事件 巡査 津田三蔵がロシア皇太子ニコライ2世を斬りつける・・ →政府は津田を死刑にせよと圧力をかけるが、大審院長である児 島 惟 謙 は無機徒
刑に処す(司法権の独立を守った超有名なケースである) 青木は辞任→後を次いだ⑥榎本武揚の交渉も本格化せず 48
⑦睦奥宗光(第二次伊藤博文内閣外務大臣) 1894年 日英通商航海条約 調印 ※外務大臣は陸奥であるが、全権大使は青木周蔵 ・領事裁判権を撤廃し、関税率を引き上げる ・内地雑居を認める←対外交派連合が猛反発する ・相互対等の最恵国待遇 ⑧小村寿太郎(第二次桂太郎内閣外務大臣) 1911年 日米通商航海条約 調印 関税自主権の回復 これにて条約改正交渉は終了・・・。 ⑩明治の内閣〜初期議会 1) 第一次伊藤博文内閣(長州) 1885年 内閣制度 発足 〜藩閥政治〜 1886年 学校令 森有礼 →文化史で詳しくやります 外務 内務 逓信 海軍 司法 井上馨 文部 森有礼 山県有朋 大蔵 松方正義 榎本武揚 農務 谷干城 西郷従道 陸軍 大山巌 山田顕義 1887年 大同団結運動 星亨 後藤象二郎 党派の対立をこえて団結しよう!議会開設にむけて、自由民権運動を盛り上げよ
う! 1887年 井上馨 辞任 (外交失策)→後任 大隈重信 →三大事件建白運動 ・ 言論の自由 ・地租の軽減 ・外交失策の挽回 →保安条例 49
2)黒田清隆内閣(薩摩) 「超然主義」の超然内閣 政府の政策は政党の意向によって左右されてはいけない 1888年 枢密院 設置 ・ 憲法草案の審議(初代議長 伊藤博文) (憲法制定後は天皇の諮問機関) ・ 市制・町村制 山県有朋、モッセ →人口2万5千人以上の都市を市として郡と対等の行政区域とし、従来の町村は大
幅に合併されて新しい町村とされた。 1889年2月11日(紀元節) ・大日本帝国憲法 ・ 皇室典範 制定 衆議院議員選挙法 →第一回帝国議会総選挙は1890年 ・小選挙区制(定数300) ・選挙権→満25歳以上の男子で直接国税15円以上納める者(全国民の1.1%) ・被選挙権→満30以上 3)第一次山県有朋内閣(長州) 1890年 ・第一回帝国議会総選挙 民党 171(自由党131 立憲改進党40) 吏党 85 ▷総選挙前に再結成 他 41 第一義会 民党 「政費節減・民力休養」 吏党 「軍備拡張」 「主権線」(日本の領土)のみならず「利益線」(朝鮮半島)を確保する ※政府は自由党の土佐派を買収し予算を成立させる ・ 府県制・郡制 実地 モッセ ・ 教育勅語 忠君愛国の精神を養う →これも文化史でやります ・ 民法の制定 ボアソナード →民法典論争 →1898年 新民法 ※ 刑法 1880年 ボアソナード 、商法 1890年 ロエスレル 50
4)第一次松方正義内閣(薩摩) 1891年 大津事件→児島惟謙による司法権の独立 第2議会 民党奮起「海軍腐敗を批判し、予算削減を求める!」 →海相 樺山資紀の蛮勇演説 予算がなかなかとおらない・・・ →衆議院解散 1892年 第二回総選挙〜流血の総選挙〜 内相 品川弥二郎による激しい選挙干渉(政府支持者の当選につとめる) →ここまでしてまさかの民党勝利・・ 第2議会 ボアソナード民法の試行延期 →総辞職 5)第二次伊藤博文内閣 「元勲総出」の元勲内閣 第4議会 民党は軍艦建造費の削減を求める →建艦詔勅「和衷協同の詔書」 天皇「宮廷費と官吏の給料を削減するから協力して」 民党「ぐむむ・・・」 1893年 文官任用令 第5・6議会 予算案をめぐる対立のなかで、自由党が伊藤内閣支持にまわる →立憲改進党・国民協会(元大成会)との対立(対外硬派連合) この時点での条約改正交渉(内地雑居)に猛反対「現行条約励行だ!」 1894年 日英通商航海条約 全権青木周蔵 外相睦奥宗光 英国との間で領事裁判権撤廃 1894年 日清戦争 1895年 下関条約、三国干渉 51
⑪初期外交問題〜戦争へ 琉球がらみ 1871年 琉球漂流民殺害事件 in 台湾 1872年 第一次琉球処分→琉球藩 国王→藩王 尚泰 1874年 台湾出兵〜近代日本最初の海外派兵〜 by 西郷従道 →イギリスの調停もあり、清国は損害賠償を支払う(銀50万両) ※琉球は薩摩藩に支配されているとはいえ、独立した「王国」であった。言ってしまえ
ば、清国と琉球王国の間の問題であったが、これを機に琉球王国は日本の支配下に
あるということを清国側が形上認めたことになる。 ※1879年 第二次琉球処分→沖縄県 設置 (旧慣温存政策) 府県制施行が1909年、衆議院議員選挙法施行が1912年 →沖縄の自由民権運動指導者 謝花昇 北方の領土について 1875年 樺太・千島交換条約 榎本武揚 朝鮮について 新政府は発足とともに朝鮮に国交樹立を求めたが、鎖国政策をとっていた朝鮮は、
日本の交渉態度を不満として正式の交渉には応じなかった。 →これに対して留守政府の面々は征韓論を唱えるが、挫折 1871年 日清修好条規 伊達宗城・李鴻章 平等条約 1875年 江華島事件 1876年 日朝修好条規 黒田清隆・井上馨 不平等条約 ・ 釜山、仁山、元山の開港 ・ 日本に領事裁判権を認めさせる ・ 日本の無関税特権 ※宗主権を否定するこの条約を、清国は認めない 1882年 壬午事変 朝鮮国内の勢力争い ※日朝修好条規以降、朝鮮国内では、親日派勢力が台頭 親清派(大院君) VS 親日派(閔妃・金玉均) 日本公使館焼き討ち 52
→済物浦条約 ・ 朝鮮が日本に対して賠償金を支払う ・ 日本公使館に駐兵を認めさせる ○この間、閔妃は保守的になり、清に接近→事大党を結成 これに対し、金玉均は独立党を結成し抵抗(竹添進一郎がこれを協力) ※ このころ清仏戦争で清が敗北 1884年 甲申事変 独立党によるクーデター 金玉均・朴泳孝ら 1885年 天津条約 伊藤博文・李鴻章 ・ 日本、清は朝鮮から撤兵 ・ 朝鮮出兵の際は相互に事前通告 ○福沢諭吉 「脱亜論」at 時事新報 1889年 防穀令事件 朝鮮における凶作を理由に日本への輸出禁止 →日本「日本商人の損害を賠償しろ(笑)」 1894年 甲午農民戦争 全琫準が率いる東 学 党 が、反乱→朝鮮の要請で清が出兵(日本に通告有→対抗し
出兵) ○睦奥宗光 「蹇蹇録」 どんな手を使ってでも戦争に持ち込もうぜ! 同年 豊島沖海戦をきっかけに日清戦争 開始 日本圧勝 ①平壌の戦い→②黄海の戦い→③旅順・大連占領→④威海衛占領→⑤北京進軍 1895年 下関条約 伊藤博文・睦奥宗光/李鴻章 ・清は朝鮮の独立を認める ・清は遼東半島(奉天省南部の地)、台湾、澎湖諸島を日本に譲る ・賠償金2億両 ・重慶、沙市、蘇州、杭州を開港 ・日本に最恵国待遇をあたえる ○同年 三国干渉 露・独・仏 →遼東半島を返還(そのかわりに3000万両はもらっている) 53
「臥薪嘗胆」 国民のロシアへの敵対心を背景に軍備拡張につとめる ※ 台湾においては、下関条約締結後も現地民が反発し戦闘が続く。「台湾民主国」
の独立を宣言し日本に抵抗。これを武力で制圧し台湾統治開始。 1895年 台湾総督府 設置 初代総督 樺山資紀 (総督は陸海軍の現役大将・中将から任命) 1898年以降は 児玉源太郎総督の下で後藤新平などが民政に力をいれ、土地調
査事業に着手し土地制度の近代化を押し進めた。 ※ロシアは清に変わって朝鮮に介入 →親露派の閔妃が政権を取る→日本公使 三浦梧楼が閔妃を殺害→大院君の親日
内閣の結成 1896 年 山県・ロマノフ協定 (日・露) (同時に露清密約も結ぶ) 1898 年 西・ローゼン協定 (日・露) →朝鮮半島における日本の立場を確保 次 P より「列強の中国進出」 54
⑫列強の中国進出 ※ 教科書の地図を見ながら勉強して欲しい。(山川 P293) ○ロシア ・旅順・大連の租借権(25年) ・東清鉄道の敷設権 ○ ドイツ ・山東半島の鉄道敷設権 ・膠州湾の租借権 ○イギリス ・長江沿岸の不割譲条約 ・威海衛・九竜半島の租借権 ○フランス ・広州湾の租借権 ○日本 ・福建省の不割譲条約 ※アメリカは外交原則としてモンロー主義を貫くが、国務長官ジ ョ ン ヘ イ がモンロー
宣言を放棄。領土保全・機会均等・門戸開放 1889年 義和団事件 列強の清進出に対し「扶清滅洋」を唱える義和団が反乱。 →米・英・日・仏・伊・露・独など8カ国が連合軍を作り出兵し鎮圧(北清事変) 1901年 北京議定書 (清が各国に謝罪) ・ 賠償金 4,5 億両 ・ 列強の北京駐在を認める ※日本「極東の憲兵」 ※ロシアは満州の支配を継続(日露戦争の原因の1つ) 55
⑬日・露の対立 ・日露協商論(満韓交換論) →満州をロシアに、韓国を日本に 同時に、中国福建省に権益を拡大する南進論) 支持者:伊藤博文・睦奥宗光・井上馨 ・日英同盟論(北進論) →ロシアの南下策に対抗するためイギリスと同盟を組む 支持者:山県有朋・小村寿太郎・桂太郎 1902年 日英同盟 (第一次桂内閣) 1923年まで継続 ・日英両国は、互いに清韓両国の独立と領土保全を尊重し、清韓における利権を
守る ・同盟国の一方が戦争をする時、他方は好意的中立を守る ・同盟国の一方が2カ国以上と交戦するとき他方は援助を与える ○ 日本の世論 ・主戦論 東大七博士(富井政章・戸水寛人ら) →「東京日日新聞」に意見書を発表 対露同志会(近衛篤麿・神鞭知常) ・非戦論 内村鑑三 キリスト教的人道主義 幸徳秋水 社会主義的反戦論〜平民社 大塚楠緒子 『お百度詣で』→「太陽」に発表 与謝野晶子 『旅順口包囲群の中にある弟を嘆きて』君死にたまふことなかれ→「明
星」 56
1904年 2月8日 旅順を奇襲 1904年 2月10日 宣戦布告→日露戦争開始 1905年 旅順陥落〜二〇三高地の戦い(中心:乃木希典) 奉天の戦い 日本海海戦〜バルチック艦隊を破る(中心:東郷平八郎) ○日本は戦費の大半を外国債にたよる(7億) ○ロシアでは「血の日曜日事件」がおこり戦争の継続が困難に →セオドアルーズベルトの仲介で講和 1905年 ポーツマス条約(in アメリカ) 小村寿太郎/ヴィッテ ・ 韓国における日本の優越 ・ 旅順・大連の租借権を日本に譲渡 ・ 長春以南の鉄道敷設権(東清鉄道の一部→南満州鉄道) ・ 北緯50度以南の樺太を日本に ・ 沿海州・カムチャッカの漁業権を日本に →賠償金がないことに国民が激怒 →日比谷焼打事件(初の戒厳令) ⑭韓国併合 1904年 日韓議定書—―日露戦争中の日本軍の行動の自由を認めさせる 第一次日韓協約—―韓国の外交権を制限、韓国の財政を指導 1905年(ポーツマス条約後) 第一次日韓協約(一巳保護条約) —―韓国を日本の保 護 国 とする(外交権を接収)、統監府(漢城)の設置(初代:伊 藤
博文) 1907年 ハーグ密使事件(in オランダ) 第二回万国平和会議において韓国が日本の内政干渉を訴える 57
同1907年 第3次日韓協約 ・皇帝の退位 ・日本が内政権を握る ・韓国軍解散 ※韓国国内で反対運動(義兵運動) 1909年 伊藤博文が暗殺(at ハルビン by 安重根) 1910年 韓国併合条約(日韓併合条約) ・韓国の統治権を永久に日本のものとする ・総督府の設置(京城) 初代:寺内正毅 土地調査事業 ・韓国の土地調査 ・地価設定・台帳作成 ・東洋拓殖会社(設立1908年)が韓国最大の土地所有者となる ⑮婦人運動 1911年 青鞜社設立 平塚らいてう(平塚明) ・「原始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今女性は月である」 ・新しい女性 良妻賢母を否定→女性解放運動 ・機関誌「青鞜」 1920年 新婦人協会 平塚雷鳥・市川房枝 ・治安警察法第5条の改正(女子の政治結社・政治集会の禁止) ・機関誌「女性同盟」 1921年 赤瀾会 山川菊枝 女性による社会主義団体 58
⑯続きの内閣 (〜明治)レジュメ感覚で使用してください 第二次松方正義内閣(進歩党) 1896年 立憲改進党→進歩党 大隈重信が外相として入閣→松隈内閣 1897年 ・八幡製鉄所設立(操業は1901年から) →日清戦争による賠償金によって ・金本位制の確立 →新貨幣法 1円=金 0.75g ○労働問題の発生 職工義友会→労働組合期成会 労働組合の育成(高野房太郎・片山潜) 機関誌「労働世界」 ∴労働組合 鉄工組合(1897年) 日本鉄道矯正会(1898年) 活版印刷懇話会(1899年) ※ 地租改正案に大隈が反対→内閣総辞職 第三次伊藤博文内閣 地租増徴案を提出→議会否決 1898年 自由党 + 進歩党→憲政党 59
第一次大隈重信内閣(憲政党) ○我が国初の政党内閣 (隈板内閣)内相に板垣退助 1898年 共和演説事件 文相 尾崎行雄が金権政治を批判 「仮に日本が共和制であったら、三井・三菱が大統領になる」 →問題になり辞任、後任人事が難 →憲政党が分裂 ・憲政党(旧自由党) ・憲政本党(急進歩等) 第二次山県有朋内閣(憲政党) 1899年 ・地租増徴案可決(2,5%→3,3%) ・文官任用令改正(政党員の政界進出禁止) ・北海道旧土人保護法(アイヌの同化政策) 1900年 ・軍部大臣現役武官制 →陸相・海相は現役の大将・中将に限る ・治安警察法 →社会運動、労働運動、小作争議の取り締まり ※労働組合期成会が解散 憲政党→立憲政友会(総裁:伊藤博文) ∴幸徳秋水が「自由党を祭る文」で批判 →黒岩涙香の「万朝報」に掲載 ※日清戦争後、産業革命の中で社会の中核を担う地主、商工業者たちは、公共事業
の充実を求めるようになる。 →政府は政党の重要性を認識 →○選挙権拡大 納税額15円以上→10円以上(有権者の 2,2%) 60
第四次伊藤博文内閣(立憲政友会) 1901年 社会民主党成立(片山潜・幸徳秋水・安部磯雄) →非合法な政党で即日解散 ※伊藤内閣は増税問題で閣内不一致→解散 第一次桂太郎内閣(長州出身・陸軍) 1902年 日英同盟 ロシアの南下政策に対抗 1903年 平民社 幸徳秋水・堺利彦 社会主義思想を紹介「平民新聞」週刊 1904年 日露戦争 1905年 桂・タフト協定 ポーツマス条約(アメリカ) 日英同盟改定(第二次) 韓国保護権の認証と適用範囲をインドにまで拡大 第一次西園寺公望内閣(政友会) 1906年 ・日本社会党成立 堺利彦・片山潜 初の合法的社会主義政党 機関誌「平民新聞」日刊 ※内部分裂により翌年解散 ・鉄道国有法 主要鉄道17社を買収→40%が国有に ・南満州鉄道株式会社設立(総裁:後藤新平 本社:大連) 半官半民の第3セクター 旅順〜長春→東清鉄道の一部 61
・関東都督府の設置(in 旅順) 鉱山経営 関東州の統括→1919年 関東軍設置 1907年 日露協約 1908年 赤旗事件 社会主義者の検挙(堺利彦・大杉栄) 第二次桂太郎内閣 1908年 戊申詔書 明治天皇 国民に質素・倹約を呼びかけ →地方改良運動 財政再建・産業復興・民心向上 「日露戦争後の不況を乗り切ろう!」内務省中心 1910年 大逆事件 アナーキスト(無政府主義者)による明治天皇暗殺計画が発覚 →26名が起訴、12名が死刑(幸徳秋水・菅野スガ 他) 社会主義冬の時代 同1910年 韓国併合(日韓併合条約) 朝鮮総督府の設置(寺内正毅) 帝国在郷軍人会設立 1911年 ・日米通商航海条約 関税自主権の回復(小村寿太郎)
・工場法(初の労働者保護立法) 最低年齢12歳 12時間労働 年少者、女子の深夜労働禁止 ※15人未満の工場は対象外 62
※日露協約 ①1907年 アメリカの満州進出への警戒、東アジアの現状維持、日本の韓国保護
国化とロシアの外蒙古に関する特殊権益を認める。 ②1910年 ③1912年 ※日英同盟 第一次改定 1905年 先述 第二次改定 1911年 ドイツの進出に対応、英米接近により米を対象外に →第一次世界大戦に参加 1921年 4カ条約で廃棄決定、1923年条約発効で廃棄 第二次西園寺公望内閣 1912年 陸軍二個師団増問題 陸軍17師団を25師団にしたい →財政難で2個師団しか増やせない →せめてあと2個(計4個)師団増やせ! →陸相上原勇作が帷幄上奏する(政府を無視して天皇に願い出る) ※ 陸軍側は軍部大臣現役武官制を盾に後任を出さず。 1912年 明治天皇 崩御 ○乃木希典夫妻 殉死 大正時代へ〜 「第2巻完」 63