プラトンの霊魂論

プラトンの霊魂論
幽霊とは、本来の魂がその人の欲望などによって悪い状態になったもので、さまよえる亡
霊のことである。しかし、その亡霊も何かの拍子で成仏できる。そうすれば、その魂も本
来の魂に戻ることができる。さまよえる亡霊が成仏できるかどうかは、僧侶など特別の能
力を持った人に秘儀を行ってもらうか、社会環境の変化で生前の悔しい思いが干渉される
か、それ次第である。皆さんご承知のように、ニーチェはまことの不幸な死に方をした。
私は、ニーチェの亡霊は今なお成仏できずにこの世をさまよっていると思い、「さまよえ
るニーチェの亡霊」という本を書いた。
http://honto.jp/ebook/pd_25249963.html
さまよえるニーチェの亡霊が成仏するためには、ニーチェの真の願いが実現するように、
新たな哲学が必要である。上記の本はそのことを書いたのだが、私たちは不幸な死に方を
した人々のことを思い、神の国に近づく努力をしなければならない。亡霊のことはプラト
ンの最大の哲学的課題であり、プラトンは、その著「パイドン」(岩田靖夫、1998年
2月、岩波書店)の中でも触れている。次の通りである。すなわち、
『 魂が純粋な姿で肉体から離れたとしよう。その場合、魂は肉体的な要素を少しも引き
ずっていない。なぜなら、魂は、その生涯においてすすんで肉体と交わることがなく、む
しろ、肉体を避け、自分自身へと集中していたからである。このことを魂はいつも練習し
ていたのである。そして、この練習こそは正しく哲学することに他ならず、それは、ま
た、真実に平然と死ぬことを練習することに他ならないのだ。』
『 魂が以上のような状態にあれば、それは、自分自身に似たあの目に見えないもの、神
的なもの、不死なるもの、賢いもの、の方へと立ち去っていき、ひとたびそこに到達すれ
ば、彷徨や、狂愚の振る舞いや、恐怖や、凶暴な情欲や、そのたの様々な人間悪から解放
されて、幸福になるのではないか。そして、秘儀を受けた人々について言われているよう
に、残りの時間を真実に神々と共に過ごすのではないか。』
『これに対してもう一つの場合として、魂が汚れたまま浄められずに肉体から解放される
場合がある。というのも、そのような魂はいつも肉体と共にあり、肉体に仕え、これを愛
し、肉体とその欲望や快楽によって魔法にかけられて、その結果、肉体的な姿をしたも
の、すなわち、人が触ったり、見たり、飲んだり、食べたり、性の快楽のために用いたり
するもの、以外の何ものをも真実と思わなくなるからである。そして、肉眼には暗くて目
に見えないもの、しかし、知性によって思惟され哲学によって把握されるもの、このよう
なものを、この魂は憎み、恐れ、避けるように習慣づけられてきたからである。』
『この肉体的なものは重荷である、と考えなければならない。それは、重く、土の性質を
帯び、目に見える。このような魂は、この重荷をもつために、酷い荷物を背負わせれて、
目に見える場所へと再び引きずりおろされる。それは、目に見えないものとハデス(あの
世、字義通りには、目に見えないもの)を恐れるからである。そのような魂は、よく言わ
れるように、墓碑や墳墓の周りをうろつくのであり、墓碑や墳墓の周囲には魂のなにか影
のような幻が見られるのである。』
(1)生成の哲学と霊魂
「パイドン」(岩田靖夫、1998年2月、岩波書店)において、プラトンは、『 「生
者は死者から再びうまれる」のだとすれば、われわれの魂はあの世に存在する他はな
い。』と述べ、以下のように生成の哲学を説明する。すなわち、
『 美が醜に反対であり、正が不正に反対であり、その他無数のものがそのような関係に
あるのだが、・・・そういうものにおいては、その一方は反対である他方からしか生じ得
ないのだ。』
『 反対のものの対(つい)の間には、それらが二つである以上は、二つの生成があ
る。』
『 例えば、眠っていることから目覚めていることが生じ、目覚めていることから眠って
いることが生ずる。そして、両者の生成過程は、一方が眠りに落ちることであり、他方が
目覚めることである。(中略)生きているものから生じるものは何か? 死んでいるも
の。死んでいるものからは何が生じるか? 生きているものである。(中略)こういう事
情であれば、それは、死者たちの魂が必ずどこかに存在していて、そこから再び生まれて
くる筈だ。』
『 一方の生成が、ちょうど円環をなして巡るように、他方の生成を常に補うのではな
く、かえって、生成が一方からその正反対のものへのみ向かう何かが直線的なものであっ
て、再び元に戻ることもなければ向きを変えることもないとすれば、万物は最後には同じ
形をもち、同じ状態になって、生成することをやめてしまうだろう。(中略)すなわち、
ものがすべて死んでゆき、ひとたび死んだならば、死者はその状態にとどまって再び生き
返らないとするならば、最後には万物は死んで、生きているものはなにもない、というこ
とになる筈だ。』・・・・と。
(2)プラトンの想起説と霊魂
プラトンの哲学はイデア論を中心に展開されると言われる。生成変化する物質界の背後に
は、永遠不変のイデアという理想的な範型があり、イデアこそが真の実在であり、この世
界は不完全な仮象の世界にすぎない。不完全な人間の感覚ではイデアを捉えることができ
ず、イデアの認識は「精神の目」で忘却されていたものを「想起」 (アナムネ−シス)す
ることによって得ることができるものであり、その想起からかつて属していたイデアの世
界を憧れ求めるところの愛(エロス)が生じるとした。
イデアの想起(想起説)が主題的に語られるのは、プラトンの『パイドロス』という対話編
である。では、「パイドン」(岩田靖夫、1998年2月、岩波書店)において、プラト
ンがソクラテスをして語らせている要点を以下に紹介しておこう。
ケベス:あなたがよく話しておられるあの理論、・・・それは、われわれの学習は想起に
他ならないというあの想起説ですが・・・それにしたがってもまた、もしそれが真実であ
れば、われわれは何か以前のときに、現在想起していることを学んでしまっている、とい
うことにならざるを得ません。だが、このことは、もしわれわれの魂がこの人間の形の中
に入る前に、どこかに存在したのでなかったならば、不可能です。だから、この点から
も、魂がなにか不死なるものである、と思われるのです。
ソクラテス:もしも誰かが何かを見たり、聞いたり、なにか別の感覚で捉えたりした場合
に、その当のものを認めるばかりでなく、別のものをも想い浮かべるとすれば・・・この
両者については同一のではなく、別の知識が存在するのだが・・・この思い浮かべたもの
を彼は想起したのだ。(中略)人間についての知識と竪琴についての知識とは別のものだ
ね。ところで、恋する人びとは、かれらの愛する少年たちいつも使っていた竪琴とか、上
着とか、なにかそんなものを見ると、今僕が述べたことを経験するということは、君も
知っているね。彼らは竪琴を認めると、その竪琴の持ち主であった少年の姿形を心に思い
浮かべる。これが想起なのだ。(中略)時間の経過と注意を払わなかったために、すでに
すっかり忘れていたものごとについて、この経験をする。
ケベス:まったくその通りです。
ソクラテス:君が何かあるものを見ながら、この見たことをきっかけにして、何か別のも
のを考えつくならば、それが似ていようと似ていまいが、そこに必ず想起がオコッタの
だ。
ケベス:まったくその通りです。
ソクラテス:だれかが何かを見て、自分が現に見ているこのものは存在するもののうちで
何か別のものになろうと望んでいるが、何かが不足していて、かのもののようになれず、
より劣ったものである、ということに気がつくとき、多分このことに気づいた者は、かの
ものを必ず予め見たことがあるのでなければならない。
ケベス:どうしても、そうでなければなりません。
ソクラテス:もしもわれわれが生まれる前に知識を得て、その知識を持ったまま生まれて
きたのだとすれば、われわれは、生まれる以前にも生まれてからすぐにも、「等しさ」や
「より大」や「より小」ばかりでなく、このようなすべてを知っていたことになる。なぜ
なら、われわれの現在の議論は「等しさ」についてばかりでなく、「美そのもの」「善そ
のもの」「正義」「敬虔」などにも同様に関わるからだ。そして、いつも言っているよう
に、対話の議論において問うたり答えたりしながら、われわれが「まさにそのもの」とい
う刻印を押すすべてのものに、関わっているのだから。したがって、われわれはこれらの
すべてについて、生まれる以前に知識を得ていたのでなければならない。その知識を獲得
して、いつもそれを忘れないでいるのならば、われわれは常に知りながら生まれてきて、
生涯を通じて知り続けているのでなければならない。なぜなら、知るということは、何か
について知識を獲得した者がそれを保持して、失わない、ということなのだから。(中
略)われわれが「学ぶこと」と呼んでいる事柄は、もともと自分のものであった知識を再
把握することではなかろうか。そして、これが想起することである。何かを、見たり、聞
いたり、なにか他の感覚を用いて、知覚しながら、このものを機縁にしてすっかり忘れて
いたなにか他のものを考えつく、ということは。このものとかのものとが似ても似ていな
くても、関係がありさえすれば、そういうことが起こるのだ。
ケベス:まったくその通りです。ソクラテス。
想起説については以上だが、最後にプラトンはソクラテスをして次のように語らせてい
る。
ソクラテス:魂は人間の形の中に入る前にも、肉体から離れて存在していたのであり、知
力を持っていたのだ。(中略)もしも、われわれがいつも話し続けているもの「美」や
「善」やすべてのそういう実在が、確かに存在するならば、そして、そういう実在がかっ
てはわれわれ自身のものとしてあったことを再発見しながら、感覚によって把握されるす
べてのものをその実在に遡って関連づけ、相互の類似を確かめるのならば、これらの実在
が存在するように、われわれの魂もまた、われわれが生まれる以前にも存在したのでなけ
ればならない。
「パイドン」(岩田靖夫、1998年2月、岩波書店)では、「魂とイデアの親近性」に
ついて以下のように議論が展開される。
ソクラテス:合成されて出来たものや、自然的に合成物であるものにとっては、それが合
成されたのと同じ仕方で分解される。これに対して、もしなにかが非合成的であるなら
ば、他のものはいざ知らず、このものだけが分解されない。
ケベス:そうだと思います。
ソクラテス:では、常に自己同一を保ち同じように有るものが、非合成的であり、これに
対して、時によってその有り方を変えけっして自己同一を保たないものが、合成的であ
る、とするのがもっとも適切だろうね。
ケベス:はい、私はそう思われます。
ソクラテス:「等しさそのもの」「美そのもの」、何であれまさにそのもの自体、まさに
それで有るところのもの、は、いかなる変化であるにもせよ、変化なるものを受け入れる
ことはまさかあるまいね。いや、これらのそれぞれの「正にそれで有るところのもの」
は、単一の形相であり、それ自身だけで有るのだから、常に同じように自己同一を保ち、
いかなるときにも、いかなる仕方においても、けっして、いかなる変化をうけいれないの
ではないか。
ケベス:そうです、同じように自己同一を保つことは必然です、ソクラテス。
ソクラテス:目に見えないものは常に同一の有り方を保ち、目に見えるものはけっして同
一の有り方を保たない。魂は前者であり、肉体は後者である。ところで、魂は、何かを考
察する際に、視覚なり、聴覚なり、なにか他の感覚を通して、肉体の助けを借りる場
合、・・・というのは、感覚を通してなにかを考察するということは、肉体を通して考察
するということに他ならないのだから・・・そのとき、魂は肉体によってひとときも同じ
有り方を保たない方へと引きずり込まれ、それ自身が彷徨(さまよ)い、混乱して、酔っ
たようになって目眩(めまい)を覚えるのだ。
ケベス:そのとおりです。
ソクラテス:魂が自分自身だけで考察するときには、魂は、かなたの世界へと、すなわ
ち、純粋で、永遠で、不死で、同じように有るものの方へと、赴くのである。そして、魂
はそのようなものと親族なのだから、魂が純粋に自分自身だけになり、また、なり得る場
合には、常にそのようなものと関わり、さまようことを止め、かの永遠なるものと関わり
ながら、いつも恒常的な同一の有り方を保つのである。なぜなら、魂はそういうものに触
れるからである。
ケベス:ソクラテス、あなたの言われることは、まったく美しく、また真実です。
ソクラテス:魂と肉体が同じ者の内に有るとき、自然は、肉体には奴隷として奉仕し支配
されることを命じ、魂には支配し主人であること命ずるのである。
ケベス:私もそう思います。
ソクラテス:では、魂はどちらに似ているのかね。
ケベス:もちろん、明らかに、ソクラテス、魂は神的なものに、肉体は死すべきものに似
ています。
以上を要するに、『 一方には、神的であり、不死であり、可知的であり、単一の形相を
もち、分解され得ず、常に同じように自分自身と同一であるものがあるが、この種のもの
に魂はもっとも似ているのであり、他方では、人間的であり、可死的であり、多様な形を
もち、知性的でなく(無思慮であり)、分解可能であり、けっして自分自身と同一ではな
いようなものがあるが、今度は肉体がこの種のものにもっとも似ているのであ
る。』・・・という結論になる。
(3)霊魂不滅の最終結論(プラトン)
「パイドン」(岩田靖夫、1998年2月、岩波書店)において、シミアスとケベスは、
ソクラテスの根本前提(美や善などは、本質的に、それ自体が存在するという前提、すな
わち、事物の本質=イデアが存在し、その働きによって事物の形態が決まってくるという
前提)に同意しつつも、なお「魂は多数の肉体を何度も着つぶしたのちに最後の肉体をあ
とに残して今度はそれ自身が滅び去ってしまうのではないか」「人間の肉体の中に入った
こと自体が魂にとっては病気のようなもので、魂はこの人生を惨めに苦しみながら生きて
最後にいわゆる死において滅亡するのではないか」という大いなる疑問を拭いさることが
できない。そこで「パイドン」(岩田靖夫、1998年2月、岩波書店)において、シミ
アスとケベスを相手にソクラテスの応答が延々と続くのだが、その議論のやりとりの詳細
は「パイドン」(岩田靖夫、1998年2月、岩波書店)をご覧戴くとして、ここでは議
論の最終結論の部分のみ紹介しておこう。
ソクラテス:身体のうちに何が生ずると、それは生きたものになるのだろうか。
ケベス:魂が生ずると、です。
ソクラテス:すると、魂は、なんであれなにかを占拠すると、そのものに常に生をものと
してやってくるのだね。
ケベス:たしかに、そうです。
ソクラテス:それなら、魂は、自分が常にもたらしたもの「生」とは反対のもの「死」
を、決して受け入れないのではないか。
ケベス:まったくそうです。
ソクラテス:よかろう。では死を受け入れないものを、われわれは何と呼ぶかね。
ケベス:不死なるものと呼びます。
ソクラテス:魂は死を受け入れないのではないか。
ケベス:受け入れません。
ソクラテス:それなら魂は不死なるものだ。
ケベス:不死なるものです。
シミアス:僕自身もまた、少なくともこれまで語られてきたところからすれば、もはや不
信の念を抱きようがない。しかし、言論に関わってきた事柄の大きさのために、また、人
間の弱さを低く評価せざるを得ないために、僕としては語られた事柄に対してなお不安の
思いを抱かざるを得ないのだ。
ソクラテス:シミアス、君のその言の正しさは、ただ単にこれらの結論についてだけでな
く、あの根本前提についても妥当するのだ。たとえ、それらの前提が君たちにとって信ず
るに足るものであっても、それでもより一層明晰にそれらを検討しなければならない。そ
して、君たちがそれらの前提を充分に分析したならば、思うに、人間にとって付き従うこ
とが可能な限り、君たちはこの言論に付き従うことになるだろう。そして、このことその
もの「根本前提」が明らかになれば、君たちはそれ以上探求しなくて良いだろう。
シミアス:おっしゃることは真実です。
議論の最終結論の部分は以上の通りであるが、プラトンはソクラテスをして最後に言わし
めているように、根本前提(美や善などは、本質的に、それ自体が存在するという前提、
すなわち、事物の本質=イデアが存在し、その働きによって事物の形態が決まってくると
いう前提)並びに魂の本質とその形態の問題は今後も探求され続けられなければならない
し、それによって人びとの生き方、国家のあり方を模索し続けなければならない。