『緋龍の子』を読む

緋
龍
の
(偕成社「タイムストーリー」より
子
テーマ「五分間のお話」)
作:渡理五月(渡辺真理子・[email protected])
幼なじみのシャラが連れて行かれて、丸一日が過ぎた。
アッシュは未だに理由が分からなかった。母親に尋ねても「王都の兵隊さん
だからねぇ……」と言葉をにごすばかりだ。けれど村では、シャラの出自が下
級貴族ではなく、王族関係だからではないかと噂されていた。
シャラはアッシュの一つ下で、十歳になる。生後間もない頃、教会の前で産
着にくるまれ泣いているのが見つかった。捨て子自体は、この国では珍しくな
い。ただ、シャラの髪はアッシュたち大半の民と同じ茶色ではなく、焼け付く
夕日の赤だった。赤髪は、王侯貴族の色である。あらかたどこかの下級貴族が、
食いぶちを減らすために捨てたのだろうとささやかれた。シャラはその赤髪を
お下げに結い、誕生日に毎年アッシュがくれる組み糸――アッシュは「俺が編
んだ」と言うが、九割方は母親の作品と言えた――で結んでいた。
シャラは教会で育てられたせいか、境遇に嘆くこともなく、朗らかで優しい
娘に育っていた。アッシュが丘や森へ誘うと「アッシュが行くならシャラも行
く」といつも笑顔でついて来る。そして森で迷ったり怪我をしたりすると、親
やシスターにすこぶる叱られるのだが、決まって「ついて行ったシャラが悪い
の、ごめんなさい」とアッシュをかばった。
そんなシャラが、突然現れた王都の兵士に連れて行かれた。アッシュは、何
もできなかった自分が腹立たしくてならない。しかも前日、シャラと珍しくケ
ンカをしていた。
「大きくなったら、アッシュは何になるの?」
丘で野草をつみながら、シャラが尋ねた。アッシュは草笛の葉を探してしゃ
がむ。
「んー。俺はこの村を出るよ。王都へ行ったり、隣国とか行ったりしたい」
アッシュは特に夢があるわけではなかった。単に自分の知らない世界に憧れ
があった。
「村には、残らないの?」
「うん。だって小さいだろ。もっと広い所に出たい。色んなものを見たい」
「そっか……」
シャラの気乗りしない返事が、アッシュには意外だった。てっきりまた「シ
ャラも一緒に行きたいな」と言うかと思っていた。
シャラを見ると、少し遠くを眺めていた。赤髪が秋の陽に透けて、金色に見
える。
「シャラは、この村が好きだな。シスターがいて、アッシュがいて……本当に、
幸せだと思うの。確かに小さいけれど、ずっとずっと、ここで幸せに暮らせた
らなって思うの」
アッシュは不満だった。小さな村で一生を終えることが、自分を小さく見せ
るような気がした。何より、シャラの同意を得られなかったことで、無視でき
ない波風が心に立った。
「なんだよ。こんな村、ずっといる価値ないって。外の方がもっと楽しいって」
アッシュはわざと非難するように言った。シャラは少しうつむき、やがて言
った。
「ここは素敵よ。シャラとアッシュが育った村だもの。それは世界に一つなの。
大切なものはいつもそばにあるって、昔よく大シスターが言ってた。大切なも
のに気づいたら、手放しちゃいけないって」
シャラの言葉には、ほのかな意志が感じられた。アッシュは、近くにいるは
ずのシャラが、今にも遠くへ歩き出しそうな気がした。はねのけるようにして
立ち上がる。
「……いいよ!シャラはずっと村にいろ、俺は明日にでも出ていくから」
「アッシュ、そんな、違うの」
強い語気にシャラは慌てた。眉が困ったようにゆがんでいる。
「アッシュが外に出るなら、シャラはアッシュの帰りを待ってるよ。シャラは
アッシュが大切なの。何年経っても、ずっと待ってるから……」
シャラの言葉を尻目に、アッシュは勢いよく丘を駆け下りた。伸びた草葉が、
薄いすり傷をつくっていく。それも気にならなかった。
悔しかった。でも何が悔しいのか、アッシュは分からない。お腹の底で、沼
がどろどろうずまいた。そのままベッドに倒れ込む。沈む体。どろどろ、どろ
どろ――全然眠れない。
夜中、アッシュは重い体でベッドを抜け出した。机に向かい火をともす。引
き出しから取り出したのは色糸だ。端を結び、ひとつ編み、ふたつ編み――無
心に手を動かすと、よどんだ気持ちが夜に溶け、澄んでいくのが分かった。す
っかり透明になってしまうと、心の底で、シャラが無邪気に笑っていた。
気づいたら夜は明けていた。よだれの跡をふき、時計を見て焦る。今日は早
朝、家のオレンジを教会に届けることになっていた。月に一度の教会奉仕日で、
前の広場で市場が開かれるのだ。このままだと遅れてしまう。
だが昨日の今日で、シャラにどんな顔をしたものかと思うと手も止まる。ぐ
ずぐずしているうちに時は過ぎ、アッシュは五分遅れて家を出た。オレンジの
カゴを抱え、とつとつとした足取りで教会へ向かう。シャラに会ったら、何て
言おう……
そのとき。地鳴りを感じた。それは一気にふくれて背後に迫る。振り向く間
もなく、馬車、騎馬兵が、大きな音と共にアッシュをのみ込み追い越した。旗
がひらめき小さくなる。あれは緋色の龍紋――ブラスティン王家の紋章だ。
ただならぬ気配を感じ、足早に教会へ向かった。広場に着くと、騎馬隊が教
会を囲み、人だかりができていた。正門から、がちゃがちゃと甲冑を鳴らして
兵士が出て来る。その間に挟まれた仰々しい役人の、さらに真ん中に、うつむ
くシャラの小さな姿が見えた。
「シャラ!」
思わず叫ぶと、シャラが弾かれたように顔をあげた。アッシュと目が合うと、
髪と同じ赤い瞳から、今にも涙があふれそうになった。
それを見ただけで、アッシュはカッと頭に血が上るのを感じた。シャラはめ
ったに泣かない。二人で育てた小鳥が死んだ時や、大シスターの葬儀では静か
に涙した。それぐらいしか記憶にない。そのシャラが、泣きそうだ。
「待て!」
アッシュはカゴを放って兵士の手をつかんだ。だが逆に腕をつかまれ、気づ
いたときには世界が回転し、地に叩きつけられた。散らばったオレンジが、胸
の下でつぶれていた。
「アッシュ!」
悲鳴のような声。立ち上がったときには、シャラは役人と共に馬車の中へ消
えていた。
「おい!シャラをどこに連れてく気だ!」
叫んでも、兵士たちは聞こえないかのように、砂煙を上げて走り去って行っ
た。あっという間の出来事だった。
『大切なものはいつもそばにあるって』
シャラの言葉がこだまする。
『気づいたら、手放しちゃいけないって』
そばにあった大切なもの。どうして守れなかったのか。もっと早くに気づい
ていたら。もっと早く教会に着いていたら。もしあと五分、早く家を出ていた
ら――。だがいくら後悔しても、もう遅い。シャラはアッシュの手の届かぬ所
へ行ってしまった。
アッシュは教会へ向かった。シスター長に会うつもりだった。おそらく、事
情を一番知っているのは彼女だろう。そしてそのまま王都に向かうつもりでい
た。
教会では礼拝を終えたシスターたちが、いつも通り花の手入れや広場の掃除
をしていた。しかし、普段なら真っ先に駆け寄ってくるはずの、赤いお下げ髪
の少女はいない。教会は温かな火が消えたように静かだった。
アッシュは裏へ回った。シスター長は、朝はよく裏庭の池のそばにいる。生
け垣の向こうで、シスター長が長石の上に腰掛けていた。
シスター長は、アッシュを見てほほえんだ。
「おはよう、アッシュ。王都へ行くのですか」
ズバリと言われて詰まったが、アッシュはぐっと口元を引き締めた。
「おはようございます。はい、行きます」
「そうですか」
シスター長は手招きする。アッシュが近づくと、そのほおを両手で包んだ。
固い、しわの深い手のひらがこすれる。
「アッシュ。あなたは、シャラの良き友人です。あなたには、シャラについて、
知る権利があります。ただし時が来るまで口外しないと、ヴィアスの神に誓う
ことができますか?」
シスター長の深い藍色の瞳。よどみを許さぬ色をまっすぐに見つめ、答える。
「はい。誓います」
シスター長は、右手の人差し指と中指を、アッシュの額、胸、口と順番に軽
く当てた。今の言葉を神に誓う印だ。
「よろしい。座りなさい」
隣を差し出され、腰掛ける。
「あなたも気づいていると思いますが、シャラは孤児ではなく、また下級貴族
でもありません。正統な王家の血を引いた、王女です。村でこのことを知って
いるのは、亡き大シスターと私、二人だけです」
予想はしていたが、言葉に出されると夢でも見ている気分だった。現実感が
ない。頭と心がちぐはぐで落ち着かなかった。
「ちょうど十年前、シャラが私たちの元にやってきたとき、一通の手紙も置か
れていました。そこにはシャラの出自と、王家の言い伝えについて書かれてい
ました」
「言い伝え?」
「シャラは第五王女にあたり、王位継承権は高くありません。ただ、彼女は緋
龍の年・緋龍の刻に生まれました。それは、治世に平和をもたらす『緋龍の子』
となる言い伝えがあるそうです。ただし、王宮の外で十年過ごすのが条件です。
無事に十歳となった暁には、王宮より迎えの使者が来るとありました」
シスター長は息をつき、水面を見つめる。
「大変な子を授かったものだと思いました。大シスターが若い頃にも『緋龍の
子』はいたそうですが、民にとっては雲の上の存在だそうです。専属の『緋龍
の騎士団』がつくられ、騎士団長がそばにつき、一生守られ続けます。そのよ
うな子を育てることに、私は恐れすら抱きました。しかし大シスターが『幼子
に変わりはありません。ただ慈しみ育てましょう』とおっしゃったのです」
アッシュは、シャラの姿を思い出していた。赤い髪をきらめかせ、屈託なく
笑うシャラ。小鳥に大粒の涙を流したシャラ。村に残りたい、今が幸せだと言
ったシャラ。
「アッシュ。今あなたが王都へ行っても、シャラに会えないでしょう。会える
とすれば、
『緋龍の子』としてお披露目される式典の日です。私は、わずかです
が、面会を許されています。育ての親として、最後の言葉をかけるために」
「じゃあ……」
「私だけしかお目通りを許されないかもしれません。それでも構いませんか」
「はい。お願いします」
アッシュのまっすぐな瞳に、シスター長は、目尻のしわを一層深くしてうな
ずいた。
十日後――
シスター長とアッシュは、王宮のきらびやかな廊下を歩いていた。
『緋龍の子』
誕生のおふれが出て、王国全土がお祭り騒ぎになっていた。今日は記念すべき
式典の日だ。
二人はシャラがいる部屋の前に案内された。アッシュは背丈の倍ほどもある
扉を見上げ、こぶしをギュッと握った。
「『緋龍の子』への、お祝いの者たちです」
案内役が入り口の兵士に書類を手渡す。二人はうやうやしく礼をする。兵士
は書類を一読し、シスター長、次にアッシュを見た。
「この子は?」
シスター長はおだやかに答える。
「村の代表で参りました。共に『緋龍の子』へのお目通りを願います」
アッシュは再度、頭を下げた。兵士は少し考えた後、腰元から懐中時計を取
り出した。
「面会は十分間だ。悪いが、他人の入場は許されておらぬ」
何か言おうとしたアッシュを、シスター長は優しいまなざしで制する。
「ひとまず、私だけで参ります。アッシュ、ここで待っていなさい」
ここまできて諦める訳にはいかなかったが、シスター長に言われては、アッ
シュは従うより他なかった。
「分かりました」
シスター長は扉の向こうに進む。アッシュは、閉ざされた扉を穴が開くほど
見つめた。
その様子に、兵士が尋ねた。
「お前は、『緋龍の子』の友人か」
「はい。村で一緒に遊んだ、友だちです」
アッシュの目。一切そらさぬ、茶色の瞳。
「でもいきなりのことで、お別れも言えませんでした。前の日にケンカもした
し……。兵士さま、俺は勝手に連れ出したり、そそのかしたりしません。一言、
話ができればそれでいいんです。ヴィアスの神に誓ったっていい」
真剣なまなざしに、兵士は思わず目をそらす。扉が開かれ、シスター長が出
て来た。
「もう良いのか」
「はい。私は結構です」
シスター長は、静かに兵士を見つめる。
「兵士さま。残りの時間を、この子に与えてやってはくださいませんか。
『緋龍
の子』と共に育った、かけがえのない子です。きっと将来も『緋龍の子』を守
る力となるでしょう」
「しかし……」
言いよどんだ兵士に、アッシュは心の底から頭を下げた。
「お願いします。どうか『緋龍の子』に、シャラに会わせてください。お願い
します」
アッシュは頭を上げようとしない。兵士はわきにいた案内役にちらりと視線
をやった。案内役は窓の外ばかりを見て、まったく目を合わせようとしない。
兵士は嘆息し、懐中時計を見る。
「あと五分だ。それ以上は認められん」
アッシュは顔を上げた。瞳が大きく輝く。
「ありがとうございます!」
「アッシュ!」
姿を見るなり、シャラが抱きついてきた。シャラは深紅の衣装を身にまとい、
髪も結わずに下ろしていた。ふわりと波打ち、つみ立てのオレンジのような、
甘酸っぱい香りに包まれる。
「嬉しい。会いたかった。シスター長がアッシュも来てるって。もうシャラ、
それだけで本当に嬉しくて……」
「シャラ……」
アッシュは背後に視線を感じ、シャラの肩に手を当てて、身をひいた。
「シャラ。時間ないから手短に」
「うん」
うなずきながら、シャラが苦笑した。
「時間なんて、気にしたことなかったのにね」
その通りだとアッシュも思った。時間を忘れて遊ぶことが、どれほど貴重で
恵まれたことだったか。丘を駆け回り、野いちごをつんで花の蜜を吸い、小川
で魚になった日々は、もう戻らない。楽しい時間は永遠に続くと思っていた。
まさか場所も時間も、言葉すらも制限されるとは、どうして想像できただろう。
「えっと、まずは」
アッシュは自分の胸元を探る。
「シャラ。ほら、これ」
手を差し出し、開く。握られていたのは、赤とオレンジ、茶色で編まれた組
み糸だった。
「遅れたけど。シャラ、誕生日おめでとう」
シャラは組み糸を受け取った。見ると、ところどころ編み目が飛んでいる。
端の結び目は何重にもきつく結ばれ、なんとも不格好だ。
「なんだか、今までとちょっと違うね」
シャラは笑いながら、小さな手のひらに包み込んだ。アッシュの体温をほの
かに感じる。
「うるさい。笑うな」
アッシュはほおを赤らめる。
「シャラが連れて行かれた日、十歳の誕生日だったろ。実は前の晩に作ってた
んだ。誕生日に渡したかったんだけど、渡せなくて……いや、それはもう、ど
うだっていいんだ」
アッシュは首を振る。
「決めたよ。俺は、あの村を出る」
シャラの目が戸惑いの色を見せる。アッシュはその気持ちを抱きとめるよう
に、シャラの両手を、組み糸と一緒に握り込んだ。
「でもそれは、来年の話だ。十二歳になれば、騎士兵に志願できる。誰よりも
強くなって、いつか『緋龍の騎士団』に入るよ。団長になれば、シャラを一生、
守ってやれるんだ」
「アッシュ、ほんとに……?」
アッシュはうなずいた。
「だからそれまで、シャラは王宮で元気でいろよ。俺も頑張るから。でも待て
るか?いつになるか分からないけど」
シャラの赤い瞳に、涙がふくれる。
「うん。アッシュ、ありがとう。シャラは待ってる。何年経っても、ずっと待
ってるから」
両目から、宝石のように涙がこぼれ落ちた。扉を叩く固い音が、二人の間に
割って入る。
「時間だ。お引き取り願おう」
シャラはあの日ほど、時間をうらめしく思ったことはない。ただ、あの五分
間が希望となって、心の中で輝き続けた。胸に刻み込まれる強さは、長さや年
月に関わらないのだと知った。あのひとときがあったからこそ、王宮でのどん
な辛いことも頑張れた。
「シャリアーン王女、お時間ですが……」
王女と呼ばれたシャラは、掛け時計に目を向ける。予定時刻を五分ほど過ぎ
ている。
「大丈夫です、まもなくでしょう。ありがとう、下がってください」
「かしこまりました」
従者が下がり、シャラは窓の外を眺める。木々の芽吹きが柔らかく、日差し
が暖かい。
目を閉じると、先ほどの式典の様子が思い浮かんだ。今日の団長任命式ほど、
素晴らしいものはなかった。史上最年少、二十歳の『緋龍の騎士団』団長。あ
の見事な体つき、涼しい目元、鮮やかな剣舞。軽快ながらも力強い、誰もがみ
とれるその姿――
胸の鼓動に共鳴するように、シャラの背後で扉がノックされた。
「失礼します」
「はい。どうぞ」
シャラは振り返る。扉が開かれ、目ぶたに描いた青年がそのまま現れた。胸
に真新しい緋龍の勲章、腰に剣を下げ、凛々しく騎士の礼をとる。
「『緋龍の子』シャリアーン王女。『緋龍の騎士団』団長アシュライン、お目に
かかります」
「アシュライン騎士。お待ちしておりました」
答えて、シャラが吹き出した。
「ああ駄目。アッシュに王女なんて言われたら、おかしくて」
騎士となったアッシュも破顔した。
「なんだよ。笑うなよ、まったく」
二人の声が明るく響く。ひとしきり笑って歩み寄った。
「すまん。なんか廊下で色んな人につかまって。待たせたな」
「いいのよ。もういっぱい待ってるし。それにシャラ、アッシュを待つのは楽
しいから」
シャラの口から、幼い頃の口調が滑り出る。
「シャラね、もうすぐアッシュに会えると思ったらね」
時がさかのぼる。そこには、王女と騎士ではなく、野山をかけた幼なじみの
二人がいた。
「この五分間が、今までで一番、ドキドキする時間だったよ」
<了>