1950年代韓国経済の復興と安定化:合同経済委員会を中心に

1950年代韓国経済の復興と安定化:合同経済委員会を中心に
林采成(立教大学)
はじめに
本稿の課題は、朝鮮戦争後の韓国経済の包括的政策を決定した韓米両国の合同経済委員会(Combined
Economic Board:CEB)に注目し、米国援助政策の下に展開された経済復興と安定化を分析し、「開発年
代」の歴史的前提を明らかにすることである。
日本帝国から他律的に分離された韓国経済は、南北分断によって象徴される冷戦体制の下に、資本主義
陣営の一国として内外の経済関係を再編し、新しい国民経済を建設しようとした。そこでのテコとなった
のが、アメリカのECA援助プログラムであって、その実施を前提に韓米経済安定委員会が構成され、物価
安定と生産増加の面で一定の効果を上げ始めた 1。しかし、朝鮮戦争の勃発は新生の国民経済にとって大
きなショックとなった。生産能力の急減や戦時インフレの急騰が生じたのは言うまでなく、ECA韓国復興
プログラムが乱れ、もっぱら軍事力の強化と難民救護にトップ・プライオリティが置かれたのである。
その後、休戦体制の成立に伴って、韓国経済は戦災からの経済復興と戦時インフレからの経済安定化の
二大課題に直面した。これらの目標は長期的には整合性を持つが、戦後日本の「中間安定」と「一挙安定」
をめぐる論争で見られるように、政策の実行段階においては相反する側面を持っている 2。韓米両国の経
済政策決定機構として機能した合同経済委員会では、二つの目標のなかでどちらにプライオリティを置く
かをめぐって「復興」を重視した韓国と「安定」を重n視した米国がたびたび対立していた。ここで留意
すべきなのは、このような対立は単に一国に限られずに、世界史的普遍性をもつことである。第一次世界
大戦から1990年代の社会主義国家の没落にいたるまで、戦時経済(あるいは社会主義経済)から平時経済
(あるいは市場経済)への移行が行われた場合、多くの経済が同様の問題を経験したからである3。
そのなかで実施された安定化政策は多くの国々においてインフレの収束には成功したが、生産低下を同
時にもたらし、成長への基盤を確立できなかった。というものの、韓国の場合、1957年を前後として経済
復興とともに、きわめて良好なインフレの収まりを示した。さらに、この経済成果に基づいて自立経済を
目指した長期開発計画が1950年代後半より立案され始め、一定の案を政府が発表するに至ったことは注目
に値する。
しかしながら、こうした論点について、既存研究はあまり注目せず、経済成長率などの指標からみて19
50年代の経済成果が1960年代のそれに比べて劣っており、しかも外貨割当てをめぐる政治との癒着があっ
たことから、1950年代の韓国経済が「停滞」・「挫折」・「対米従属」したと規定した(洪性囿1962、金
大煥1981、朴玄埰1981、李大根1987など)4。また、経済復興はあくまでもアメリカの援助額が増えたか
1
林采成『戦時経済と鉄道運営:「植民地」朝鮮から「分断」韓国への歴史的経路を探る』東京大学出版会、2005年、25
3-258頁。
2
吉川洋・岡崎哲二「戦後インフレーションとドッジ・ライン」香西泰・寺西重郎編『戦後日本の経済改革:市場と政
府』東京大学出版会、1993年。?????
3
コルナイ、盛田常夫訳『経済改革の可能性』岩波書店、1986年; 盛田常夫『ハンガリー改革史』日本評論社、1990
年; 中兼和津次『体制移行の政治経済学:なぜ社会主義国は資本主義に向かって脱走するのか』名古屋大学出版会、2
010年;野村証券調査部編『赤字財政下のインフレーション研究 : 並に各国戦後インフレーションの諸経験』千倉書房、
1935年。
4
洪性囿『韓国経済와[と]美国[米国]援助』博英社、1962年;金大煥「1950年代韓国経済의[の]研究」『1950年代의[の]
1
ら可能であって、援助額が減少するにつれ、経済危機が現れたと見て、インプットのみを重視した。この
立場は実体の一面を反映しているものの、史的分析を「援助経済論」へと回帰させる危険性を持つ。なぜ
ならば、援助を受ける側にとっての経済運営体制が見逃されてしまうからである。そうした中、国際政治
学から米国側の資料に基づく新しいアプローチが試みられており、1950年代韓国の政治経済に関する韓国
実態が明らかにされた(Macdonald1992、李鍾元1996)5。これらの研究に刺激され、さらにOECDの一国
になった韓国経済の現状を踏まえて、1950年代韓国経済への再評価が行われ、米国政策への韓国側の対応、
輸入代替工業化の推進、長期開発計画の立案などいった歴史的実態が明らかにされた(崔相伍2000、李大
根2002、林采成2005、朴泰均2007、鄭真阿2007、李眩珍2009、高賢来2012、原朗・宣在源2013)6。
そこで本稿は、既存研究を参照しつつ、包括的政策の決定者としてのCEBの対応に注目することで、安
定化政策が強硬に実現されたにもかかわらず、なぜ経済成果が良好な水準を示したのかを明らかにし、テ
イクオフの基盤が整えられたことを検証しようとする。そのなかで、援助の減少ではなく、経済運営にお
ける失政が政治危機と絡んだ経済危機をもたらしたことも明らかにされると思われる。
Ⅰ
朝鮮戦争の勃発と戦時動員
第1図
韓国銀行券発行高とソウル卸売り物価指数の月別推移
出所:財務部『財政金融の回顧』1958年8月、199-200頁。
認識』한길사[ハンギルサ]、1981年;朴玄埰「美[米]剰余農産物援助의[の]経済的帰結」『1950年代의[の]認識』;李大
根『韓国戦争と1950年代の資本蓄積』까치[カチ]、1987年。
5
Donald Stone Macdonald, U.S.-Korean Relations from Liberation to Self-reliance: The Twenty-year Record : an Interpret
ative Summary of the Archives of the U.S. Department of State for the Period 1945 to 1965, Westview Press, 1992(韓
国歴史研究会1950年代班訳『韓米関係20年史(1945-1965年):解放에서[から]自立까지[まで]』한울아카데미[ハンウ
ル・アカデミー]、2001年);李鍾元『東アジア冷戦と韓米日関係』東京大学出版会、1996年。
6
崔相伍「1950年代外換[外国為替]制度와[と]換率[外国為替]政策에[に]関한[する]研究」成均館大学校博士論文、2000
年;李大根『解放後∼1950年代의[の]経済:工業化의[の]史的背景研究』三星経済研究所、2002年;林采成、前掲書;朴
泰均『原型과[と]変容:韓国経済開発計画의[の]起源』서울[ソウル]大学校出版部、2007年;鄭真阿「第一共和国期(19
48–1960)李承晩政権의[の]経済政策論研究」延世大学校博士論文、2007年;李眩珍『美国의[米国の]対韓経済援助政策
1948–1960』慧眼、2009年;高賢来「1950年代の米国の対北東アジア政策と韓国経済の諸問題: 輸出と為替レートを
中心に」『アジア研究』Vol. 58、2012年;原朗・宣在源編『韓国経済発展への経路:解放・戦争・復興』日本経済評論
社、2013年。
2
朝鮮戦争の勃発は回復中の韓国経済に甚大なショックを与えた。物的被害は当時の韓国GNPの2倍に当
たる30億ドルに達すると推算され、生産設備の破壊によって生産水準が低下したことはもとより、通貨量
は急速に膨張し、戦時インフレを引き起こした 7。戦時インフレの要因としては、政府財政の赤字や銀行
信用の拡大を取上げることができる8が、とくに1950年7月28日に「国連軍のウォン貨経費調達に関する協
定」が締結され、毎日最低20億ウォン、最高40億ウォンというウォン貨が米軍を中心とする国連軍へ渡さ
れた。要するに、戦時インフレは需給不均衡の拡大とともに、韓国の戦費調達によるものであった。
これに対し、白斗鎮財務長官の「財政金融に関する公翰」(1951)を出し、「新財政政策」「新租税理
念」「新金融秩序」を打ち出し、強力な増税による歳入の極大化を図った9。その一環として、農村税を
金納税から物納税に切換えるとともに、物納税たる「臨時土地取得税」を実施し韓国軍および公務員配給
用の食糧を確保しようとした。それに伴い、韓国側は国連軍貸与金の償還交渉を始めようとしたが、国連
軍は「貸与金」(loan)ではなく「前渡金」(advance)であり、第1表のようにUNCACK(1950.12)によ
る救護援助がすでに貸与金の数倍に達するとし、それに応じようとしなかった。
そうした中、経済援助の機能が国連軍司令部に転属されると、統合司令部と韓国政府の間で別途の協定
が必要とされた。というものの、白長官は「わが立場は貸与金の回収にあって、新しい援助協定を決定す
ることにあらず」「民間救護物資は国連軍貸与金と相殺されるものではない」と反論した10。その結果、1
951年10月には国連軍貸与金のなかで国連軍将兵用の約1,215万ドルが償還されたが、援助協定の交渉は捗
らなかった11。張勉総理は統合軍総司令官Ridgeway将軍に対韓援助を直接要請し、それに応じて第8軍司令
官James A. Vanfleet将軍が釜山に派遣され、1951年11月に韓国政府との会議に当った。
さらに、新しい協定のためにClarence E. Meyerを団長とする大統領特別使節団(いわばMeyer使節団)
は1952年4月13日に来韓するに至った。交渉に当たって、韓国政府の主な関心事は国連軍貸与金の償還と
償還ドルの使用にあり、もし償還されたドルが放出されると、市中の流動性が吸収できるだけでなく、復
興用資源が確保できると看做された12。1952年5月24日には「大韓民国と統一司令部間の経済調整に関する
協定」および「国連軍貸与金一部決済に対する覚書」が締結された。国連軍貸与金は米軍将校用は毎月40
万ドル、純粋な戦争経費は毎月400万ドル以内で支払うこととなり、既存の貸与金は、1952年1-4月まで
の4ヵ月分(後、5ヵ月分へと再調整)を清算し、その残余分はMeyer協定によって新設される合同経済委
員会で議論することとなった。
合同経済委員会(Combined Economic Board)の開催に当たって、1952年7月にKcomZ司令官Herren陸軍
少将が国連軍代表、韓国財務長官白斗鎮が韓国代表となった。この委員会では、国連軍貸与金の償還方式
と外貨支出の統制方式についての協議が行われ、ドル貨の使用を通じて、経済安定および復興建設を図り
7
李大根(2002)、前掲書、217-219頁、255頁。
1950年の政府収入は予算の22.0%に過ぎず、財政赤字は避けられなかった。さらに銀行信用でも、戦争以前に民間貯
蓄性向が通貨発行高の128%であったものが、1950年末には通貨発行高の21%へと激減した反面、「緊急需要融資」が
増加し、民間経済への銀行金融は民間預金を256億も超過していた。
9
白斗鎮『白斗鎮回顧録』大韓公論社、1975年、112-132頁
10
白斗鎮『白斗鎮回顧録』大韓公論社、1975年、128-132頁
11
Paik Too Chin, Minister of Finance, “UNF Loan and the ROK Government Budget”,Aug. 15, 1951; J. B. Dixson, “Payme
nt to ROK of Won Advances for Direct Sale to US Pernsonnel”, Oct 11, 1951,
RG 319, 319.7 Records of the Office of the Comptroller of the Army 194274, Records of the Foreign Financial Affairs Division, Korea, 1942-64, Entry 207, Box 416, NARA
12
DS, Economic Coordination between the United Command and the Republic Korea, 1952, RG 319, Records of the Office of the
Chief of Civil Affairs Security Classified Correspondence of the Economics Division Relating to Korea, Japan, and the Ryukyu
Islands, 1949-1959, Box No.3, NARA
8
3
ながら、流通貨幣を最大吸収し、それによって確保された見返り資金を政府赤字へ充当することを確認し
た13。CEBの付属常任委員会としては企画委員会(Overall Requirements Committee:CEBORC、1952年7
月)、救護委員会(Relief and Aid Goods Committee:CEBRAG、1952年8月)、財政委員会(Finance Co
mmittee:CEBFIN、1952年12月)がそれぞれ必要に応じて設けられ、その該当業務を担当した。ここで注
意すべきなのは、CEBが機能上援助問題と関連して諮問の役割を果たすことになっていたが、国連援助機
構を全般的に統制できず、統一的経済調整機関とはいい難い。実際の難民救護と経済復興はUNCACKとU
NKRAがそれぞれ担当していた。
経済状況は1952年秋悪化し、既存の増税や金融統制などでは間に毎日放出される大預金のため、インフ
レの収束ができなかった。しかも、国連軍貸与金の一部償還があったものの、李大統領はドルの適期放出
を極めて制限したため、インフレが収束するのには時間がかかったからである。国連軍貸与金の未償還分
について韓国政府側は、Herren少将の代りに経済調整官になっていたB. Hall Hanlon海軍少将に累次抗議
したが、なかなか実施されず、通貨の総発行高は1兆ウォンを突破し、その6割以上の6千億ウォンが未回
収されていた14。当然、物価の昂騰に伴う買占め・売惜しみが生じ、経済は混乱を極めり、破綻状態に達
すると予測された。それに伴い、為替レートは公定価格でも1ドル当り450ウォンから6,000ウォンへと調
整されたが、闇市場では2万余ウォンになっていた。
このような現像を踏まえて、財務部と韓国銀行が中心となって独自的な通貨改革を断行し、大統領緊急
命令第13号をもって、1953年2月17日に新ファン貨(100ウォン→1ファン)を発行した。政府の思惑とし
ては全通貨量を30億ファン以上封鎖して徐々に生産資金として放出するつもりであったが、通貨量は1953
年3月末現在101億ファンに達し、インフレ抑制効果とは通貨改革前の約1割が縮小したのみであった。そ
れにもかかわらず、国連軍総司令官は通貨改革を高く評価し、1953年2月25日に米代表Hanlon少将が合同
経済委員会で韓国側と会合し、清算案を提示した。貸与金の未清算金額を1ドル当り6,000ウォン(=60フ
ァン)の為替レートで8,580万ドルを償還した。なお諒解事項として3ヶ月ごとに卸物価の時勢を参照して
軍ファン貨の為替レートを調整することが決定された。
以上のように、韓国政府は「税金攻勢」、土地収得税、国連軍貸与金の回収、通貨改革を通じて戦時イ
ンフレを収めるとともに、戦災からの経済復興を進める基盤を整えられた。1953年に入ると、第1図のよ
うにインフレの沈静化とGNPの成長が見られたが、休戦協定の締結に伴って韓国軍を70万大軍へと拡大す
るとともに、それをバックアップする経済力を如何に確保できるのかが、韓米両側にとって大きな政策的
課題となった。
Ⅱ
韓米両国における戦後復興の模索
1952年11月にCEBの白長官から「韓国経済は絶望的な状態に陥っている」と、根本対策が要請されると、
Clark国連軍総司令官は「韓国の寄与を最大化することとし、韓国軍と民間経済に対する米国援助の必要条
件を明確する」ため、韓国の経済的地位と能力を完全に再検討することにした。1952年12月に白斗鎮長官
13
Korea Division, Office of Far Eastern Operations, Office of the Deputy Director for Operations, International Cooperation Admin
istration, Department of State, “Organization, Functions and Procedures for Combined Economic Board”, RG 469, Office of the Far
Eastern Operations, Korea Division, Entry # 478, Box No. 10, NARA.
14
白斗鎮『白斗鎮回顧録』大韓公論社、1975年、156-169頁。
4
とHanlon海軍少将間の合意によって「総合予算分析団(Comprehensive Budget Review Group)」が設置さ
れ、韓国側の韓国銀行、財務部、国連側のUNCACK、UNKRAなどから事務者が参加した15。この分析団
は、財政赤字だけでなく国連軍貸与金を含むインフレを引き起こす諸般の要因を分析し、第1表のようなC
RIK、UNKRAなどの援助を総合的に検討し、同年12月30日に報告書を纏めて韓米両側に提出した。この
報告書では、①韓国政府は2年半間とうてい耐えられない財政負担を負っていたこと、②インフレの主要
因は国連軍の戦費であること、③韓国の財政安定と軍事支援のためには大規模の体系的援助が必要である
ことが確認された。
さらに、同月にDwight D. Eisenhowerが大統領就任前に韓国戦線を訪問し、戦争終結を模索した。彼の
訪問中、白長官は経済調整官としてEisenhower当選者に覚書を手交し、戦争被害を説明し、「一面戦争、
一面建設」が絶対必要であると強調した。これに対し、 Eisenhowerは帰国中に「提議を検討したあと最
大限の協力を行う」と返事し、後には大統領使節団が派遣されることとなった。
第1表
年度
外国援助受入総額(単位:1,000ドル、%)
ECA & SEC
49,330
31,971
3,824
232
USA
PL480
ICA
CRIK
UNKRA
合計
財貨別構成(%)
資本財
消費財
1950
9,376
58,706
1951
74,448
122
106,541
1952
155,534
1,969
161,327
1953
5,571
158,787
29,580
194,170
3.2
96.8
1954
82,437
50,191
21,297
153,925
11.8
88.2
1955
205,815
8,711
22,181
236,707
36.8
63.2
1956
32,955
271,049
331
22,370
326,705
21.5
78.5
1957
45,523
323,267
14,103
382,893
20.1
79.9
1958
47,896
265,629
7,747
321,272
19.8
80.2
1959
11,436
208,297
2,471
222,204
16.5
83.5
1960
19,913
225,237
244
245,394
17.1
82.9
1961
44,926
154,319
199,245
18.3
81.7
出所:経済企画院『経済白書』1962年。
注:販売代金の一部は米国側によって援助機関維持費として使用されたものの、本表では便宜上導入総額に含まれる。
それに伴い、国連軍総司令部参謀部J5は1953年4月21日に『対韓援助統合プログラム』(Integrated
Program for Aid to the Republic of Korea)を提出した16。経済援助と軍事援助が統合計画として作成され、
共産主義の侵略に対する強力な防塞を構築しながら、同時に独立民主国家の究極的建設を促進するため、
韓国内に政治的かつ社会的条件を作り出そうとした。韓国政府側も経済復興5ヵ年計画を作成し、海外か
らの最小限の援助をもって、5ヵ年にわたって総額13億6,550万ドルを投資し、最大限の自己防衛力を維
17
持しながら、戦争以前の生活水準を回復しようとするものであった 。
1953年4月9日にはHenry J. Tascaを団長とする「韓国経済問題に関する大統領特別使節団」(いわば、T
15
Foreign Financial Affairs Division, Office of the Comptroller of the Army,
“Preliminary Report of Budget Review Group on the ROK Comprehensive Budget, FY 53-54”,
RG 319, Office of the Comptroller of the Army Foreign Financial Affairs Office, 1952, Entry 207, Korea to Korea (General -
Radios), Box 430, NARA.; 李漢彬『일하며 생각하며[働きながら、考えながら]』朝鮮日報社、1996年、78-80頁。
HQ, UN Command and FEC, Integrated Program for Aid to the Republic of Korea, Apr 21, 1953, RG 319, Records of the Office
of the Chief of Civil Affairs Security Classified Correspondence of the Economics Division Relating to Korea, Japan, and the
Ryukyu Islands, 1949-1959, Box No.2, NARA
17
“The ROK Five Year Program,”Appendix, Henry J. Tasca, Special Representative for Korean Economic Affairs, Strengthening the
Korean Economy, Jun 15,1953, RG 319, Civil Affairs / Military Government Administrative Office, Classified Decimal File, 19521954, Box No.18, NARA; Ministry of Commerce and Industry, ROK, General Survey and Rehabilitation Programs of Industries in
the Republic of Korea, Apr, 1953, RG 319, Records of the Office of the Chief of Civil Affairs Security Classified Correspondence of
the Economics Division Relating to Korea, Japan, and the Ryukyu Islands, 1949-1959, Box No.16, NARA.
16
5
asca使節団)が来韓し、Henry Tasca、Karl Bode、M. N. Tank、Solomon Chafkinなど、Marshall Planに携
18
わったベテランであった 。調査の重点は①韓国軍を20師団へと増強させるという現実的目標と、韓国経
済実体との乖離を克服するために経済援助の量と類型を確定すること、②休戦という新しい状況に相まっ
て援助調整機構を整備することに置かれた。韓国側では物動計画および援助需要についての企画処物動計
画局が作成した経済復興5ヵ年計画のほか、財政および経済全般について 財務部予算局の『韓国予算の要
点』を提示した。とりわけ、白長官は『韓国の苦境(The Plight of Korea)』を提出し、「これからの援
助は従来の緊急救護式援助ではいけない」ことを強調した19。
これらの資料や現地調査を参照し、Tasca使節団は『韓国経済の強化(Strengthening the Korean Econom
20
y)』(1953.6.15)を作成し、その後の対韓援助の重要な典拠となった 。その趣旨を見れば、1956会計年
度まで韓国軍を現在の16師団から20師団に強化する目標であるが、韓国経済の現状は戦災、資源不足、輸
出低迷、技術力不足、インフレを免れず、こうした目標と現実の乖離を克服するため、大規模の援助プロ
グラム(3ヵ年間11億5,600万ドル)を設け、3年以内に韓国は経済自立を達成し、援助を減らせる輸出も可
能であると構想した。そのためには対韓援助機構の調整問題を解決しなければならず、援助機構の分散と
それによる弊害を指摘した。統合援助プログラムを実施するため、特別代表室(Office of Special Represe
ntation)の設置を提案した。それによって、後にはCEBの国連軍側代表が韓国の全ての経済援助プログラ
ムを監督・調整することとなった。
同年7月13日に米国のNSC特別委員会は企画委員会にTasca報告書の検討を依頼し、その検討案を踏まえ
て、7月23日NSC第156次会合を通じてTasca報告書に対する大統領の承認が下された。但し、援助の削減に
もかかわらず、韓国軍の20師団への増強が確認された。そのため、7月29日にMSAのHarold Stassen局長と
予算局長Dodgeらが援助案を協議し、国務省長官Dullesが対韓援助案をEisenhower大統領に提出し、8月4日
にはJohn F. Dulles国務長官はWalter S. Robertsonらの国務省の事務陣を連れて来韓し、韓米防衛条約を仮
調印し、共同声明で援助資金10億ドルの経済復興計画(3-4ヵ年)を実施すると発表した。
この8月中には米国の対外援助機関がMSA(Mutual Security Agency)からFOA(Foreign Operations Ad
ministration)へと変更されるに際して、国連軍総司令部の管轄下に経済調整官室(Office of the Economic
Coordinator: OEC)が設置された21。調整官室の要員は当初30人に過ぎなかったが、後には1,200人規模へ
と拡大された。経済調整官にはMSA副長官であったC. Tyler Woodが任命され、統合経済プログラムの開
発と監督に当たった。ほぼ同時に、UNCACKがKCACに再編され、救護援助と短期復旧プログラム(交
通・通信、電力、福祉、労働等)を担当することとなり、既存のUNKRAは長期復興プログラム(産業、
漁業、鉱業、住宅、教育)に携わり、KCACとUNKRAとの間で事業整理が行われた。
こうして、対韓経済政策が単純な救護レベルから経済安定および復興に向けて変わっていくためには、
李漢彬『일하며 생각하며[働きながら、考えながら]』朝鮮日報社、1996年、80-82頁。
白斗鎮『白斗鎮回顧録』大韓公論社、1975年、173-176頁。
20
Henry J. Tasca, Special Representative for Korean Economic Affairs, Strengthening the Korean Economy, Jun 15,1953, RG 319,
Civil Affairs / Military Government Administrative Office, Classified Decimal File, 1952-1954, Box No.18, NARA
18
19
CINCUNC, to CG AFFE MAIN, COMNAVFE, COMFEAF, CINCREP PUSAN, CG KCAC, “CX 64525. From CofS. Signed
Clark. Deptar pass to JCS for info,” Aug 20, 1953, C. Tyler Wood, UNC Economic Coordinator in Korea, Briefing for the Brownson
Sub-Committee of the United States House of Representatives, Oct, 1953, RG 319, Records of the Office of the Chief of Civil
Affairs Security Classified Correspondence of the Economics Division Relating to Korea, Japan, and the Ryukyu Islands, 19491959, Box No.4, NARA.
21
6
韓米両国間で新しい援助協定が締結されなければならなかった。休戦で節約された軍事費2億ドルの使用
もWood調整官に委任されており、新しい協定が韓国にとって至急のものであった。というものの、1953
年8月より白・Wood会談が開始されたが、争点をめぐって議論が白熱して喧嘩状態になった。
第2図 対米ドル為替レートの推移
1ドル当りファン
700.0
600.0
1955年9月=100
160.0
一般為替レート
140.0
見返り資金為替レート
500.0
120.0
物価指数
100.0
400.0
80.0
300.0
60.0
200.0
40.0
100.0
20.0
0.0
0.0
50.01 50.09 51.05 52.01 52.09 53.05 54.01 54.09 55.05 56.01 56.09 57.05 58.01 58.09 59.05 60.01 60.09
出所:経済企画庁『経済白書』1962年;韓国銀行『物価総覧』1965年。
注: 物価指数は全国卸売り物価指数。
最も大きな争点となったのが為替レートであった22。米国側は為替レートの現実化(60ファン→180ファ
ン)や韓国保有外貨の統制権を要請した。為替レートを引上げることによって、より多くの通貨量が吸収
でき、インフレの抑制が可能となると同時に、より多くの見返り資金が確保されると見た。しかし、これ
はより多くの韓国側の資源が国防あるいは復興予算として動員される結果となる。そのため、韓国側はレ
ートの引上げは経済を破壊すると見、むしろ低い為替レートが輸入物価を抑制するとともに、より多くの
見返り資金を国防予算ではなく復興予算に投入できると反論した。要するに、韓国経済の貿易依存度は低
く、経済運営が全面的に援助に頼っていることから、為替レートはインフレと連動し、なおかつ復興と国
防をめぐる韓米両国の資源配分に強く影響するものであった。また、財政赤字について、Wood調整官は
財政赤字とインフレの進行のため、援助の効率的使用を妨げているので、安定政策の優先的実施を要請す
るが、これは経済復興を目指す韓国政府の意図と合わないことになった。そのほか、援助物資の調達先に
ついて反日の立場を取っていた李大統領は発言権を要求し、日本中心の東アジア政策を講じていたアメリ
カと意見対立を示した。
これらの意見衝突が協定の締結や援助物資の導入を遅らせ、1953年12月14日になって「経済再建と財政
安定計画に関する合同経済委員会協約」が漸く締結された23。合同経済委員会は援助「資金の使用や物資
の購買導入および配定など」の責任をとる一方、韓米両国は「経済再建および財政安定計画の範疇内でイ
ンフレの昂進を防止して財政経済を造成」することとなった。対立の争点が主に援助国たる米国の思惑通
りに実施されたことはいうまでもない。例えば、為替レート(180ファン)、一般銀行の信用提供(年間5
22
為替レートをめぐる韓米両側の立場と思惑については崔相伍「1950年代外換[外国為替]制度와[と]換率[外国為替]政策
에[に]関한[する]研究」成均館大学校博士論文、2000年を参照されたい。
23
李鐘元『東アジア冷戦と韓米日関係』東京大学出版会、1996年、176-185頁。
7
0億ファン)、復興投資(自己資本の充実した企業への優先供給)、自由市場価格、物資購入の韓国政府
への委譲(競争入札方式)において米国の意見が貫徹されたのである。
1954会計年度経済プログラムが米国および国連の援助基金5億600万ドル、韓国の自力保有外貨基金1億2,
200万ドルをもって作成されたが、援助の導入においてインフレと財政赤字のため、消費財の導入を重視
されており、財政赤字の補填のため、見返り資金を国防予算へ優先的に投入する予定であった。財政安定
基調の確保の上、経済復興が実施されたのである24。
果たして経営運営の実態は如何なるものであったのか。援助額は少なかったうえ、調達も遅れ勝ちであ
って、復興のためには不十分であった。そのため、当時国務総理となった白斗鎮はWood調整官に援助資
金運営の主体はあくまでも韓国政府であると主張し、韓米技術団(Technical Pool)の設定、見返り資金の
韓国独自使用、援助物資購入の迅速化、米国購買処(Genearal Service Administration)による購買範囲の
縮小を提案した25。そのほかにも、CEBや分科委員会でかなりの時間が費やされ、業務能率が悪く、国家
のメンツでも良くないため、CEBの会合数が少ないほど有利であると見、韓国側にとってOECの拡充は歓
迎すべきではなかった。しかし、Wood調整官らは経済安定が確保できない限り、大規模援助は難しいと
判断し、1954年5-6月にインフレの抑制のため、更なる為替レート(300ファン)の調整を要求した。
韓米両国間に援助業務が捗らないなか、李大統領が韓米防衛条約協定書の締結のためにアメリカを公式
訪問することとなった。李大統領は白経済調整官に「韓国軍隊の増加と十億ドルの援助」を確保しろと指
示し、1954年8月10日より軍事経済共同会談を進めた26。米国側ではHarold E. StassenFOA長官とWalter S.
Robertson国務次官補が臨んだが、「原則的問題」が合意されず、会談が難航した。経済関連問題に注目
すれば、為替レートの改正について韓国側が改正も可能であるが、その改正されるレートを永久維持して
ほしいと主張し、米国側が反対し、援助額でも10億ドルの韓国側の要求に対して米国側は軍事、経済を合
わせて7億ドル以上は無理であると表明した。会談は李大統領の帰国後も続いたが、合意が得られず、何
週間も費やされ、韓国側は10月上旬に帰国した。
これに対し、米国側は実力行使に出た。国連軍総司令部は1954年8月に貸与金の為替レートを254ファン
への改正を要求したが、韓国政府は当然拒否しており、さらにドル償還中止を理由に10月1日、貸与を中
止した。これに応じて、国連軍総司令部は石油提供を中止するとともに、請負業者や労働者にファン貨で
はなくドルを直接支払った。当然、産業生産や交通運営の低下や物価騰貴が生じ、米国側の措置は韓国経
済に深刻な打撃を与えた。そうした中、国連軍総司令官John E. Hull大将が1954年10月21日に訪韓し、ブ
リクス大使、Wood調整官などの仲裁を得て、1954年11月17日に「韓米合意議事録」を作成するに至った27。
第2図のように、為替レートは公式レート(180ファン:1ドル)が維持されたが、国連軍は韓国銀行を通
じてドルを公売し、ファン貨を獲得できるようになった28。援助導入額は1955会計年度(米国)に米国構
John C. Gotshall, Financial Advisor, J-5, HQ, FEC“U.S. FY 1954 ROK Reconstaruction & Stabilization Program,”HQ, FEC,
Rehabilitation and Reconstruction Korea, Oct 8, 1953, pp.13-14, RG 319, Records of the Office of the Chief of Civil Affairs
Security Classified Correspondence of the Economics Division Relating to Korea, Japan, and the Ryukyu Islands, 1949-1959, Box
No.4, NARA
25
白斗鎮『白斗鎮回顧録』大韓公論社、1975年、224-228頁。
26
白斗鎮『白斗鎮回顧録』大韓公論社、1975年、228-241頁。
27
白斗鎮『白斗鎮回顧録』大韓公論社、1975年、243-247頁。
28
韓国産業銀行調査部『韓国産業経済十年史』1955年、526-528頁;Donald Stone MacDonald(韓国歴史研究会1950年
24
代班訳)『韓米関係20年史(1945-1965年):解放에서[から]自立까지[まで]』한울아카데미[ハンウル・アカデミー]、2
001年、404-407頁。
8
想より1億5,000万ドルを超過した総額7億ドル規模となった。そのほか、購買先(最低価格入札)、韓国
保有外貨の使用に関する情報提供、韓国予算の均衡化がその議事録に組み込まれた。
第3表
主要財政指標(単位:100万ファン)
年度
1949
1950
1951
1952
1953
1954
1955
1957
1958
軍事費
240
1,324
3,298
9,463
32,605
59,918 106,379 112,462 127,323
非軍事費
672
1,105
2,880
12,045
28,078
61,724 116,100 130,603 150,689
歳
内,警察関連
83
404
599
1,381
5,688
13,100
21,914
18,638
23,121
出
復興費
20,720
58,961 106,970 132,957
合計
911
2,430
6,179
21,508
60,683 142,362 281,439 350,034 410,970
国内財源
458
828
6,525
19,049
38,670
81,292 173,240 190,578 209,005
内、租税
136
428
3,924
9,660
20,566
51,431 109,381 115,898 143,487
歳
入
外国援助
2
132
3,070
7,959
44,704 150,536 224,511 245,801
合計
460
960
6,525
22,118
46,628 125,996 323,776 415,089 454,806
財政収支
-451
-1,470
347
610 -14,055 -16,365
42,336
65,054
43,836
出所: 財務部『財務白書』1959年。
注:括弧内は比率。韓国の会計年度は1954年が15ヵ月(1954.4-55.6)、55年が18ヵ月(1955.7-56.12)。
援助は拡大されたが、その経済的効果は韓国側の期待には及ばなかった。財政収入のなかで外国援助に
よる見返り資金は1954年を境に急増したとはいえ、軍事費や警察費・軍警援護事業費40-50%、復興費は19
54年度15%、55年度21%に過ぎなかった(第2表)。FOAがICA(International Cooperation Administration)
に改編され、1955年2月にICA長官Holisterが来韓すると、韓国政府側は、経済復興がなかなか進まない主
要因を説明し、国防予算が民間経済を圧迫しており、援助と言っても、最終消費財の輸入が行われ、国内
生産を阻害していると評価した。そのため、「一つずつの(piece meal)」援助を止揚し、経済力を養成
すべきであり、そうしない限り、援助は成功できないという現状把握を打ち明かした。米大使館側でも、
William S.B. Lacy大使の指示によって国連軍総司令部のA. A. Jordan陸軍中佐、経済調整官補佐官James A.
Carey、駐韓米大使経済顧問Horace H. Smithが対韓援助に関する評価書を提出した。この評価書は不適切
な財政と信用政策は、対外貿易、企業および外国人投資に対する間違った統制と結合して、凄まじいイン
フレ、価格形成の歪み、資本形成の阻害、生産の麻痺問題を引き起こし、「大規模の援助でさえ経済に対
して如何なる進展ももたらさなかった」という悲観的評価を下した。
そうした中、李大統領は複数為替レートに対して不満を表明し、韓国側の経済調整官たる白総理に訪米
し、為替レートの単一化を実現させることを命じた。為替レートは公定為替のほか、国連軍競売為替、IC
A商業公売為替などが設定され、事実上レートの引上げが続けられていた。白調整官は1955年6月15日に渡
米し、為替レートの交渉を開始すると、米国政府は700ファン:1ドルへの改正を主張し、これに対して韓
国側は商業購買の加重平均為替レートが360ファン:1ドルが実勢であると反論した。何れにせよ、韓米両
側は経済安定を基盤として自立経済を速やかに確立するために復興プログラムを加速化しなければならな
い段階に入ったと見、第2図のように1955年8月12日に500ファン:1ドルの単一為替レートを決定し、なお
付加条件として55年9月のソウル卸物価指数を基準に物価上昇率が25%以上になれば、為替レートを変更
することに合意した29。従来より2.8倍の見返り資金を積み立てられ、より多くの通貨量を吸収でき、財政
金融面での緊縮政策に等しい効果を来した。そのため、投資プログラムを削減する形で1955年度予算案が
再編成され、1955年後半にはインフレも収まる気味を示した。
29
朴琪鍾「신환율이후의[新為替レート以後の]国内物価動向」復興部『復興月報』第3号、1956年9月、60頁。
9
Ⅲ
財政金融安定と経済復興の達成
マクロ経済環境が大きく変わるにつれ、経済復興を加速化するため、1955年8月27日に企画処に代わっ
て復興部を設置し、調整局、企画局、経済企画室、外庁としての外資庁を置き、「戦後産業経済の復興に
関する総合的計画とその実施の管理・調整に関する事務」を管掌させた。このことから、復興部長官は経
済長官からなる復興委員会の委員長やアメリカとの援助業務を調整する経済調整官に当たった。
1956年に李大統領は選挙で辛うじて再選されたため、国民の不満を無視することはできなかった。即ち、
物資不足の常態化、中でも米の凶作が発生し、GNP成長率が低下したことはもとより、56年末に物価は前
年より50%も上昇した。そこで、内閣を改編し、有能な経済官僚を任命し始めた30。それによって、復興
部の強化が図られ、1956年5月に金顕哲が復興部長官・経済調整官に任命され、米国教育を受けた官僚と
学者を重視することとなった。さらに、1957年6月に宋仁相長官が任命されると、復興部が外国留学者あ
るいは英語の堪能者によって人的に充たされた。彼らは「沈滞と混沌、無能と腐敗が一般的であった公務
員社会」とは異なって,まさに新鮮な官僚達であった。
一方、アメリカ援助当局でも変化が生じ始めた。米国政府ではProchnow Committeeが設置され、韓国問
題を研究し、1956年6月頃にはNSCに報告書を提出し、「毎年GNP3%の成長を達成するプログラムが、そ
うしない場合に比べて総経費や期間が少なくかかる」と指摘した31。その翌月には駐韓米大使と経済調整
官にWalter C. DowlingとWilliam E. Warneがそれぞれ任命された。米国務省東北アジアと日本貿易係長を
歴任したEdwin M. Cronkも、駐韓米大使館経済参事に任命されたのである。
まず、1956年10月にDowling駐韓米大使は対韓政策の再検討を要請した。Tasca報告書の目標は、経済援
助が10億ドルに達したにもかかわらず、未だに達成できなかったと見、その原因としては①投資部門の減
少とインフレ抑制のための消費財の多量導入、②韓国政府の財政および信用政策の非合理性があると分析
した。それに基づいて韓国軍の縮小を前提に、投資計画だけでなく財政・金融、軍事援助などに関する総
合計画を樹立することを建議した。詳しくは輸入代替産業および輸出拡張、財政・金融改革、為替レート
の現実化、長期開発銀行の設立、外国人資本の投資促進、政府の経済介入の縮小、政府管理の効率化を進
めることを提案したわけである。
それに即する形で、1956年11月にWilliam E. Warne経済調整官は長期経済開発計画の必要性を強調し、
韓国の経済的自立のためには生産能力を拡張しなければならないという援助当局の立場を明らかにした。
Robert Macy米予算局国際課長も訪韓後、1956年10月に報告書を提出したが、そのなかで、米国の対韓政
策の前提が間違っていると指摘した。消費水準が1949-50年水準を回復し、マクロ経済は安定し、一方、
韓国軍も効率的な戦闘力を示しているにもかかわらず、アメリカは韓国が依然と戦時状態にあると仮定す
ると批判し、①軍事側面だけでなく、韓国内状況を重視し、②中小企業の育成と、日本との全面的貿易関
係の回復を進めるとともに、③韓国軍の目標を再定義し、韓国軍の兵力水準と性格を決定することを建議
した。というものの、これらの建議が米国政府内で全面的には反映されるのには時間が必要とされた。
30
宋仁相『淮南宋仁相回顧録:『復興과[と]成長』21世紀북스[ブークス]、1994年、151-153頁; 李起鴻『経済近代化
의[の]숨은 이야기[隠れた話]:国家長期経済開発立案者의[の]回顧録』보이스[ボイス]社、1999年、172-180、202-208頁。
31
Donald Stone MacDonald(韓国歴史研究会1950年代班訳)『韓米関係20年史(1945-1965年):解放에서[から]自立까
지[まで]』한울아카데미[ハンウル・アカデミー]、2001年、412-413頁。
10
こうした韓米両側での変化がCEBの運営を円滑化したことはいうまでもない32。白・Wood調整官時代に
は設立されてから1956年7月までには、定期的に活動せず、会議数も16回すぎなかった。これに対し、金
(および宋)・Warne調整官時代になると、1958年3月に第100回の会議が開かれるまで、84回も開かれ、
その後も続けられたことは言うまでもない33。当然、会議方式や参加範囲でも大きな変化が生じ、1956年7
月26日より毎週定期周会が開催されることとなっており、予め議案が決められ、議論が行われ、会議録が
作成され、る公式議案及び報告の文書化が図られたのである。事務局長および大韓民国と統一司令部両側
の主要委員はすべての会議に参加し、韓国政府の高位官僚だけでなく統一司令部の軍指導者あるいは著名
な訪問客なども参加し、実質的には高い水準の意志決定が行われた。
そのため、CEBで調整された案件は、韓国内で広範な関心を寄せられた。もはやCEBは単に案件を審議
するだけでなく、韓国の問題を米国側の参加者に理解させる場となり、例えば、技術援助、米公法480、
国民の家計収支などといった援助物資の配分だけでなくそれに関連する広範囲の韓国経済についての意見
交換も求められた。それに伴い、機構変更も試みられ、経済実態を反映して救護委員会(CEBRAG)が57
年12月に廃止される一方、技術委員会(Engineering Committee:CEBEC、1956年9月)、地域社会開発委
員会(Community Development Committee:CEBCD、1957年11月)、輸出振興委員会(Export Promotion
Committee:CEBEP、1959年8月)34が新しく設置された。そのほかにも、特別委員会が設置され、肥料、
穀物、住宅および販売財などの割当量を決定した。このような公式機構のほか、「考える人達」(Thinkin
g Peaple)といった韓米の中堅官僚が1957年初より1週間1回木曜日に米国大使館経済担当Edwin Cronk参
事官官舎での晩餐会合を開き、韓国政治や経済に関する意見交換が行われた。
第3表
合同経済委員会の会議数および決定案件の数(1957年12月31日)
区分
合同経済委員会
企画委員会
財政委員会
救護委員会
技術委員会
合計
会議
100
110
97
155
41
503
提案
85
186
83
55
126
535
報告
83
17
205
15
42
362
文書化
された件
168
203
288
70
168
897
CEBで完結
された件
165
184
283
63
138
833
出所: 宋仁相『淮南宋仁相回顧録:『復興과[と]成長』21世紀북스[ブークス]、1994年、175頁。
これらのことがCEBの「黄金時代」をきたし、円滑な運営および好成果が実現された。第3表のように、
1954年以来、CEBは833件を処理して見返り資金3,740億ファンや援助資金13億1320万ドルの使用を決定で
きた35。年間1億5,000万ドル以上に達する新規資金配分や、資金配分および導入予定の変更に関する決定
32
宋仁相『淮南宋仁相回顧録:『復興과[と]成長』21世紀북스[ブークス]、1994年、155-159、162-178、187-189頁; 李
起鴻『経済近代化의[の]숨은 이야기[隠れた話]:国家長期経済開発立案者의[の]回顧録』보이스[ボイス]社、1999年、2
15-218頁; 李眩珍『美国의[米国の]対韓経済援助政策1948–1960』慧眼、2009年、227-240頁。
33
Secretariat, Combined Economic Board, “Board Meeting Minutes, 1952-61, CEB-Min-128-133,” RG 469, Mission to Ko
rea, Office of the Controller, CEB SEC, Entry # 1277DH, Box No. 7, NARA.
34
Secretariat, CEB, “Export Promotion Committee”, 1959-1960, RG 469, Foreign Country Offices, USOM, Mission to Ko
rea, Program Coordination Office, CEB, Secretariat, Entry 1277DI, Subject File, 1954-1961, Exchange Rate(Folder 3) to F
inancial Stabilization Program, Box 4, NARA.
35
合同経済委員会の承認事業(1957年12月31日)を見れば、全体プログラム(1954-58年)1,313,200千ドルのうち、プ
ロジェクト支援448,111千ドル、非プロジェクト支援833,989千ドル、技術支援16,100千ドル、その他15,000千ドルであっ
た。これらの年度別承認事業は1954年200,000千ドル、1955年261,000千ドル、1956年329,100千ドル、1957年302,500千ド
11
を下し、火力発電所、ビル、橋梁、船舶、機関車そして貨車の導入を実現させた。援助プログラムの共同
運営が「成功」すると、CEBは韓国国会に勝る威力を発揮したと評価された。もちろん、施設財と消費財
の導入をめぐって韓米間に意見衝突があって、度々会議が中止されることがあった。というものの、為替
レートなどをめぐる従来のような対立は比較的少なかったといえよう。1950年代後半に韓国経済が安定し、
高い成長率(56年1.3%、57年7.1%、58年6.1%、59年4.6%)を示した。
とくに、本稿が注目している財政安定計画はCEB財政委員会の韓米両国委員達、とくにChawner博士、C
ostanzoなどの協力を得て順調に推進された。韓国金融通貨委員会の各委員等も米国との協定を遵守しよう
とした。1957年4月20日には1957年度財政安定計画がCEBで決定されたが、その計画では韓国政府は税率
の効率的適用と税金の増収、競争入札による援助物資販売代金の回収を通じて歳入の増加を図り、株式公
売、社債発行などによる国有財産と帰属財産の払下げを断行し、新規事業資金を調達することにした36。
「投資計画を推進するためには反インフレ政策による財政安定が優先的に実施」することが貫徹されたの
である。1958年3月12日にはCEBによってこの方針が1958年計画にも続けられた。1957年以降、インフレ
が1955年80.9%、56年31.7%から57年16.2%、58年-6.3%、59年2.4%へと急速に収束した。
この時期、経済運営について見逃してはいけないのはアメリカ援助当局が市場メカニズムの重要性を力
説したことである。すなわち、常に「自由企業の原則」を出して政府の介入を排除し、政府投資企業の払
下げを勧告し、李承晩政権の銀行民営化を大歓迎した。しかし、実際には帰属資産や海外援助のため政府
が主導し、民間企業が付いて来る経済構造であったといわざるを得ない。ともあれ、1957年にいたって
「韓国は戦後最初の大きな転換点を迎えた」とえいよう。安保と治安は確固たるものになっており、より
多くの食糧やより安い燃料が確保され、より低い金利と安定した卸物物価が実現されたのである。
Ⅳ
「開発年代」の前提と政治経済危機
緊縮政策の下で経済復興が達成されると、韓国課題として雇用の改善、国際収支の改善、産業構造の工
業化、基礎産業部門の隘路解消などが取上げられ、長期開発計画が必要された37。インド、中国などで五
ヵ年計画が実施され、一定の経済成果を出し、韓国政府側もECAFE会員国の経済計画とその進捗状況を調
査研究し、India Planning Commissionとの意見交換を行った。とくに、アメリカ援助政策は1957年から60
年にかけて漸進的に変化していくなか、アメリカの資源が援助で浪費されるという批判が強まっていた。
1957年8月にKAVA(Korea Association of Voluntary Agencies)の第三回年次会議で経済調整官Warneがその関
連意見を披瀝しており、実際に援助当局は1957年11月、援助減少を発表した38。これが1958会計年度に反
ル、1958年220,600千ドルであった。見返り資金の承認事項(1957年12月31日)は取扱原価1,790億ファン、国内取扱手
数料100億ファン、使用料およびその他費用1,850億ファン、合計3,740億ファン、そのほかに承認見返り資金支出2,210
億ファンであった(宋仁相『淮南宋仁相回顧録:『復興과[と]成長』21世紀북스[ブークス]、1994年、175-176頁)。
36
Division of Research for Far East, Dept. of State, “Intelligence Report 7563. Recent Developments in South Korean Ec
onomic Stabilization”, Sep. 27, 1957, RG 469, Office of the Far Eastern Operations, Korea Division, Entry # 478, Box
No. 10, NARA.
37
宋仁相『淮南宋仁相回顧録:『復興과[と]成長』21世紀북스[ブークス]、1994年、179-180、193-204頁; 朴泰均『原
型과[と]変容:韓国経済開発計画의[の]起源』서울[ソウル]大学校出版部、2007年、298-306頁; 鄭真阿「第一共和国期
(1948–1960)李承晩政権의[の]経済政策論研究」延世大学校博士論文、2007年、186-208頁。
38
Donald Stone MacDonald(韓国歴史研究会1950年代班訳)『韓米関係20年史(1945-1965年):解放에서[から]自立까
지[まで]』한울아카데미[ハンウル・アカデミー]、2001年、425頁。
12
映され、全般的援助水準を20%カットされた。これに対し、韓国側の宋長官は開発借款5千万ドル、軍需
品域外調達資金2500万ドル、PL480プログラムを要求せざるを得なかった。
対韓援助の縮小と援助の有償化が進められるなか、韓国政府は経済開発計画を立案し始めた。というも
のの、復興部は100人未満のスタッフに過ぎず、全体の60%が援助資金業務を担当し、その立案に携われ
るマンパワーを有しなかった。制度的にも米国予算は伝統的行政慣例によって継続費の支出を許されず、
会計年度ごとに決定され、長期援助の約束や二ヵ年以上の継続事業費の支出が困難であった。さらに、相
互安全保障法(Mutual Security Act)の下では消費財を中心とする経済援助が行われ、その見返り資金の
殆どが国防費に繰り入れられたため、復興部長官は援助資金の使用を重視し、長期計画の立案を率いるほ
どの余裕がなかった。
そこで、計画を立案する別の組織の設置が検討され、李起鴻企画課長が経済開発審議会の創設の計画書
を作成し、1957年3月にCEBの承認を得た。その後、宋仁相長官が同年7月に経済学者と経済界人物を招聘
して委員会発足に関する懇談会を開き、1958年4月に産業開発委員会(Economic Development Committee)
が復興部長官の諮問機関として設置され、5月より活動に入った。同委員会には公共企業、財政・金融、
鉱工業、農林・水産、商易の5分科が設置され、22人の委員以外にも補佐要員、嘱託、顧問などが配置さ
れた。当時、国務委員の俸給が4万2000ファンであったのに対し、委員の報酬が18万ファンに達したこと
から、同委員会が韓米両側に如何に重視されたのかがわかる。
第4表
経済開発三個年計画における国民経済予算(単位:10億ファン)
生産
国内国民所得
海外からの
純要素所得
小計(国民所得)
間接税
補助金(―)
小計
(国民純生産)
資本消耗
合計
基準
年度
1,519.3
第1次
年度
1,646.7
第2次
年度
1,727.0
目標
年度
1,817.0
20.8
21.1
21.4
21.8
1,540.1
128.5
15.7
1,667.8
181.2
16.5
1,748.4
197.6
17.5
1,838.8
212.0
18.4
1,652.9
1,832.5
1,928.5
2,032.4
81.2
1,734.1
76.7
1,909.2
81.8
2,010.3
88.5
2,120.9
支出
国民消費支出
政府消費支出
小計
民間資本形成
政府資本形成
小計
在庫増加
経常海外余剰
誤差
合計
基準
年度
1,365.0
240.7
1,605.7
143.5
63.2
206.7
29.9
-108.2
1,734.1
第1次
年度
1,507.0
285.9
1,792.9
178.3
96.8
275.1
21.4
-172.2
-8.0
1,909.2
第2次
年度
1,562.0
286.8
1,848.8
193.8
102.9
296.7
45.4
-170.3
-10.3
2,010.3
目標
年度
1,620.0
287.7
1,907.7
211.4
112.3
323.7
64.9
- 165.1
- 10.3
2,120.9
出所:復興部産業開発委員会『檀紀4292年度[1959年度]価格基準에[に]依한[る]経済開発三個年計画』1960年、310311頁。
とくに、1958年6月にCEBは、1959年度物動計画および1960年度米国予算編成とそれに関する立法措置
の前に諸般の問題に対する検討が必要であると見、経済開発計画を作成するための研究作業を提案した39。
その目的は①適当な生活水準と適切な国防力を維持できる経済力の育成、②経済安定計画の範囲内での自
給自足を目標とする投資水準の維持、③国民の参与と国民志気の高揚をもたらすための諸般の民主制度の
整備という三点であった。それに従って、産業開発委員会は1958年8月に7ヵ年経済開発計画を提出し、そ
の翌月には復興部長官が訪米し、Huter国務長官代理から長期経済の作成に関する将来の支援が約束され、
後にオレゴン大学教授団が韓国に招請され、それらの経費は見返り資金によって充当された40。それによ
って、マクロ経済学的整合性を持つ試案が1959年初立案され、同年12月に経済開発三ヵ年計画が成案され、
39
復興部「1958年6月25日第111次合経委本会議」『復興月報』3-8、1958年8月、66頁。?????
40
宋仁相『淮南宋仁相回顧録:『復興과[と]成長』21世紀북스[ブークス]、1994年、196-200頁。
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公布された。それによれば、第4表のように高い経済成長率の設定と失業減少、産業構造の均等な発展、
対外依存度の減少などを内容とした。自立経済体制の確立を目標とする総合的経済成長計画であり、その
特徴としては①中小企業の育成と農業分野の発展、②均衡成長論を取上げられる。
このように、経済開発への展望が確実なものになっていくのに対し、それをめぐる政治的不確実性は拡
大していた。即ち、1959年より翌年の大統領選挙を念頭におく政治危機が増幅したのである。李承晩らの
強硬派は政治目標のために経済安定と経済発展を犠牲したため、韓米間の不和と対立が生じ、とくに韓国
側の頑なさによってそれがさらに悪化した。1959年4月にアメリカ側は韓国の財政運用がCEBで合意した
安定プログラムに背馳すると批判した。「韓国とアメリカ政府間に合意された議事録附録A第1項の改定の
件」とその付帯覚書(1955年11月17日)によれば、ソウル卸売り物価(1955.9=100)が125を超えると、
為替レートの改定を行い、経済安定を図ることとなっていた。選挙局面に入ったものの、援助が縮小した
だけでなく、台風「サラ号」による水害が発し、さらに対日貿易も中止されると、市中の投機的心理が刺
激され、なお1959年下半期になると、インフレが生じ、物価指数が125をすでに超えたため、アメリカは
為替レートの現実化を要求したのである。
基準値の100を30.2%超過したため、500ファン:1ドルを650ファン:1ドルに改めればよかったが、韓
国政府としては大統領選挙が1960年にあるため、不適切であると見た。実際の問題になっているのは、駐
韓米軍と宗教団体における為替レートであった41。1ドルの闇市価格は950ファンであったのに対し、公定
為替レートは500ファンに過ぎず、米軍兵士の給料は韓国ファン・ベースでは半分となり、宗教団体は同
様の理由で活動が縮小したため、韓国政府は為替改正を選挙後の1960年7月1日までに延期する代わりに、
中間為替レート(宗教ドル、観光ドル)を採択し、米国側の要求を受容しようとした。この案をもって、
復興長官から財務長官になっていた宋仁相は李大統領を説得したが、李大統領は反対の立場を示し、さら
に1959年12月18日にはMcConaughy大使、MacGrew国連軍司令官、Moyer経済調整官、そして金正濂理財局
長と李漢彬予算局長が参加して一連の韓米会談を実施したものの。米国側は宋長官の思惑に懐疑的であり、
「協定に従って為替レートを改正するしかない」と反応した。
そこで、大統領談話(1960年1月29日)が行われ、為替レートを1ドル:600ファンへと調整しなければ
ならず、物価を下落させ、ファン貨の価値を再び切り上げようと、国民に訴えた。しかし、選挙の前に物
価を協定線までに引き下げることはもはや不可能であった。その翌日の1月30日には、米8軍が米軍保有フ
ァン貨を650:1で将兵に両替すると宣言し、1960年2月5日にはCronk参事官が「650対1ドルの新為替レー
トを即刻実施する」と、最終方針を伝えて、政府予算の追加改編や、物価体系への影響が余儀なくされた。
当然、野党側は財政安定計画と経済政策の失敗などを狙って、一大攻勢を展開し、そのなかで、三ヵ年計
画は実施されできず、「幼児死亡」(Infant Mortality)となった42。アメリカの援助縮小だけでなく経済
運営の失敗が政治危機と絡み合って、自由党政権は四月革命(1960年4月19日)にぶつかり、崩壊してい
ったのである。
おわりに
41
宋仁相『淮南宋仁相回顧録:『復興과[と]成長』21世紀북스[ブークス]、1994年、277-290頁。
42
李漢彬『일하며 생각하며[働きながら、考えながら]』朝鮮日報社、1996年、99-102頁。
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韓国経済における復興と安定化は韓米両国の協調と対立の下で実現された。その中心的役割を果したの
が合同経済委員会(CEB)であった。援助の導入額・構成、見返り資金の積立・使用、為替レートをめぐ
って、 意見衝突が発生したことは事実であるが、CEB当事者達の哲学よりも、経済援助と軍事援助が統
合されていたMSA計画によって規定された側面が大きい。それは結局、戦災復興のための経済資源を韓米
両国が如何に分担するかという問題に帰着するのだろう。
一応、為替レートが物価上昇と連動して500ファン:1ドルと決定されてから、マンパワーの交替ととも
に韓米協調体制は整えられると、韓国経済全般にわたる運営方式が洗練化された。とりわけ、韓国政府が
財政安定計画を実施し、経済安定化を実現でき、当然、為替レートが長期間にわたって維持された。即ち、
白・Woodの交渉過程で見られるような消耗的対立が1950年中ごろ以降には避けられたといえる。大量の
援助物資の導入によって、各種プロジェクトが実施され、朝鮮戦争以前の生産水準を回復し、この経済成
果を土台として自立への能力を増大させるため、長期経済開発計画がアメリカの支援の下で立案された。
しかし、韓国政府が政権再創出のため、物価上昇を抑制せず、さらに米国との為替レート調整にも失敗
し、経済危機に瀕したことから、長期経済開発は「幼児死亡」となった。とはいえ、4.19革命と過渡政府
を経て、第二共和国民主党政府が成立すると、「経済第一主義」の下に第一次経済開発五ヵ年計画が1960
年9月に政府施策として採択された。その実行に際しては、軍事クーデターが生じ、軍事政権の下で1962
年より実施されることとなった。
以上のように、1950年代の韓国経済は既存研究の「挫折」と「停滞」とは異なって、戦災復興と経済安
定化を達成し、「開発年代」を準備する結果になった。それは単に経済援助の増加と低下というインプッ
ト要因のみによって説明されるものではない。すなわち、経済運営主体の成熟と能力の蓄積がなかったか
ら、不可能であったのだろう。この点で、1950年代末の経済危機とは言うものは、単に援助の削減だけで
なく、経済運営が政治的論理によって犠牲されたところから、発生したといわざるを得ない。
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