主の名を呼ぶ者 (ロ ー マ 人 へ の 手 紙 10:11~ 15) 2015年 3月 15日 ソウル聖楽教会 主日礼拝 説教録取 キムキドン 説教 : 元老監督 金箕東牧師 神は 生きておられる父である その方が この世に自分を現されたのは この世を救うためである(ヨハネ3:16) 神は直接遣わした者を信じなかったからといって 復讐されるのではなく、 すでに罪によって滅びるしかない人類に 救いを受けることができる信仰を与えられたのである(Ⅱコリント13:5) それゆえ、 他のものによっては救いを受けることができないということを 神は知って、ただその方が遣わした者、(ヨハネ20:30~31) イエス・キリストだけが信仰の主となるようにされた 人の心や方法によっては救うことができないが、 神の方法と御心によってだけ救うことができる すなわち、イエス・キリストの名である(ヨハネ1:12~13) イエスは 神の御子であり、 神が遣わされたキリストである これを証しされる方は 聖霊である ◎イエスの名を信じなさい その名を呼びなさい その名を絶対的に頼りなさい ◎その方は 神が遣わされたキリストであり、 神のひとり子である ◎誰もこれを否認することができないようにしなさい これを否認する者は 霊魂が死んだのである ※それゆえ、 信じなさいと脅かすのではない 信仰はすなわち真理である 生きておられる父なる神を頼る生涯 神は生きておられます。私たちは迷信を信じる者のように存在もしない神を無理やりに 神として作り上げる者でなく、生きておられる神を信じる者です。生きておられる神に対 する私たちの信仰は聖霊が証ししてくださいます。聖霊は私たちが罪の赦しを受けたとい う事実、救いを受けたという事実、義とされたという事実を私たちの中ではっきりと証し してくださいます。主が再び来られる日に私たちが第一の復活にあずかるという事実も聖 霊が証ししてくださいます。聖霊を受けていない者は自分がもっている信仰に対して確信 をもちにくいです。 ある人は「神は人々がイエスを信じないという事実に腹を立てて、彼らを地獄に送ろう と決められたのだ。」と考えます。これは事実ではありません。アダムがエデンの園で善 悪を知る木の実を食べたときに人間はすでに罪人となり、神が予め「それを取って食べる とき、あなたは必ず死ぬ。」といわれた通りに地獄に行って永遠な刑罰を受けるようにな りました(ヘブル 9:27)。神はこのように滅びに定められた人間を救うためにひとり子イエ ス・キリストをこの世に遣わして「あなたがたは生きるためにいのちを選びなさい!」と 命じられました。 イエスの名の栄光を求めなさい 目に見えない神と人間をつなぐ最も立派な福音仲裁は聖書です。聖書を通して私たちは イエスの功労を知り、神を知り、将来、私たちが受ける栄光について知りました。聖書に はアブラハムの話、ダビデの話、使徒パウロの話など多様な話が記録されています。しか し、聖書が究極的に語ろうとするのはイエス・キリストです(ヨハネ 5:39)。りんごの木に 葉がどんなに多かったとしても農夫が取ろうとするのは葉でなく、りんごの実です。これ と同じように、聖書には多様な内容がありますが、私たちがその中で取らなければならな いのはイエスの名です。 ヨハネの福音書 20 章 30~31 節は「この書には書かれていないが、まだほかの多くのし るしをも、イエスは弟子たちの前で行われた。しかし、これらのことが書かれたのは、イ エスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じ て、イエスの御名によっていのちを得るためである。」といいました。神が私たちに聖書 を与えてくださったのには理由があります。第一に、私たちにイエスが神と等しい神の御 子であるという事実を信じさせるためです。第二に、私たちにイエスが神によって遣わさ れたキリストであるという事実を信じさせるためです。第三に、私たちにイエスの名によ って永遠のいのちを得させるためです。 ヨハネの福音書1章 12 節は「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信 じた人人には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」といいました。イエスの名 をもっている者には神の子としての権勢があります。イエスは神の御子でおられます。そ の方がもつ権勢はどのようなものでしょうか? イエスは死に勝利してよみがえられました。 今、天におられるその方は将来、この世を裁かれます。まさにそのような権勢がイエスの 名を所有した私たちにも与えられたのです。 神は私たちにひとり子と同じ栄光を享受させるために、私たちにイエスの名を与えてく ださいました。残念なのは多くの人がイエスの名の価値を悟ることができないまま、ただ その名を借りて肉体の欲望を満たすことに汲々としているという点です。自分に直面した 問題のために「主よ。助けてください!」と叫ぶ者は多いですが、自分の中に入って来た イエスの名の価値を知っている者は多くありません。 イエスは「また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけませ ん。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをして はいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必 要なものを知っておられるからです。だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父 よ。御名があがめられますように。」(マタイ 6:7~9)といわれました。イエスが願われる のは私たちがイエスの名をあがめてその名に栄光を帰すことです。 イエスの名はほかのどの名とも区別される名です。ピリピ人への手紙2章9節は「それ ゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」といい、 ヘブル人への手紙1章4節は「御子は、御使いたちよりもさらにすぐれた御名を相続され たように、それだけ御使いよりもまさるものとなりました。」といいました。本来、神と 敵であった私たちがこのように聖なる名を所有するようになりました。それゆえ、私たち はその名をあがめなければなりません。その名によって何を求めるにしてもまずその名の 価値を考えなければなりません。 自分の民を罪から救う イエスという名は神の御名です。神がその名を現すときに私たちに覚えさせたその名の 意味があります。マタイの福音書 1 章 21 節は「マリヤは男の子を産みます。その名をイエ スとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」といい ました。神が私たちに現してくださった神の御名、すなわちイエスという名の意味は「罪 からの救い」です。 律法の下にいる限り、人間は罪人という身分を脱け出すことができません。それゆえ、 罪からの救いというのは律法からの救いです。律法には恵みがありません。律法は多くの 戒めを提示しながら人々にそれを守るように要求します。しかし、そのすべての戒めを徹 底的に守っていたとしても瞬間的に戒めを犯してしまう場合があります。そのようになれ ば、その一度の罪によって罪人になるしかありません。このように律法の罪の定めを受け た者は死の権勢者である悪魔の支配を避けることができません。律法が罪の報酬を死と規 定しているためです。 実際に人間は律法が来る前にも永遠に滅びるしかない存在でした。アダムがエデンの園 で神の御言葉に不従順したときに人間の霊はすでに神のいのちから断絶されたためです。 そのような人間が律法を徹底的に守ったからといってそれによって霊が生き返るわけでは ありません。それゆえ、今は律法を守ることによって救いを得ようという試みをあきらめ て、聖霊の法に従わなければなりません。聖霊はイエス・キリストの功労を私たちのもの としてくださいます。 律法の下にいる者は常に自分が罪人であるという考えに抑圧されています。そのような 人は生活に少しでも困難が生じると、それによって罪責感を覚えます。悪魔はそのような 人をそのままにしておきません。悪魔は離間する者です。悪魔は神と聖徒を離間し、教会 と教会員を離間し、夫と妻を離間し、家族と家族を離間し、結局、人を滅ぼします。それ ゆえ、私たちは律法から救いを受けなければなりません。また、そのためにはイエスの名 を頼らなければなりません。私たちが生涯、修養を積んで徳を積んだとしてもそれによっ て救いを受けることはできません。私たちを罪から、死の権勢から、すなわち悪魔から救 うことができるのはイエスの名だけです。 イエスの名の喜び ヨハネの福音書 17 章 11~13 節は「わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におり ますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さってい るあなたの御名の中に彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つと なるためです。わたしは彼らといっしょにいたとき、あなたがわたしに下さっている御名 の中に彼らを保ち、また守りました。彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が 滅びました。それは、聖書が成就するためです。わたしは今みもとにまいります。わたし は彼らの中でわたしの喜びが全うされるために、世にあってこれらのことを話しているの です。」といいました。 父なる神は自分の名を御子に与え、御子に自分の喜びをともに享受させました。そして、 神の御子はその名を私たちに与えてくださいました。これは私たちを神と御子の関係の中 に入って来させ、私たちに神の喜びをともに享受させるためでした。それゆえ、イエスの 名を所有した者は神の喜びに満たされなければなりません。 あなたの霊魂はイエスの名の喜びに満たされているでしょうか? 事業の問題、生活の問 題、子どもの問題、環境の問題などあらゆる問題によってむしろ心配に満たされていない でしょうか? 霊魂にイエスの名の喜びがないというのは罪からの自由がないということで すし、罪からの自由がないというのは死の権勢者の干渉を受けているということです。悪 霊が聖徒の体に出入りしながら苦しめることができる理由がここにあります。 私たちの霊魂はイエスの名の幸せに満たされなければなりません。神の御子もその名に よって幸せになりました。その方はこの地に来てあらゆる冷遇と苦難を受けられましたが、 その心霊は常に幸せでした。天と地のどのような存在も味わったことがない名、すなわち すべての被造物がその前でひざをかがめる名がその方に与えられたためです。 その名が今は私たちの中にもあります。それゆえ、私たちの霊魂はイエスの名の幸せに 満たされなければなりません。多くの人がその名をもって神の御前に出て行き、何かをく ださいと哀願しますが、その御名の幸せについては知りません。彼らは修養を積んで誠意 を尽くすことには慣れていますが、聖霊の導きを受けることには無力です。イエスが私た ちを律法から解放させ、罪から救ってくださったにもかかわらず、多くの人が依然として 律法に抑圧されているのはその御名の幸せを知らないためです。 私たちの霊魂に聖霊が臨まれたというのはイエスの名が臨んだということです(ヨハネ 1 4:26)。聖霊を受けるというのは私たちが具体的に体験することができることです。それゆ え、聖霊を受けた者はイエスの名が自分の中に臨むのを体験した者です。聖霊を迎え入れ た霊魂にはイエスの名の幸せが満ちていなければなりません。イエスの名をもった者はそ れ以上、罪のしもべでも悪魔の子でもなく、神の御子の権勢をもった者です。 心の中に心配や悩みがあったとしてもそれよりもイエスの名が大きくなければなりませ ん。私たちに直面した問題がどんなに大きかったとしてもイエスの名はそれと比べること ができないほど大きいです。神は御子に自分の名を与えられましたし、御子は私たちに自 分の名を与えてくださいました。今、私たちの霊魂はその名の喜びに満たされなければな りません。罪から解放されて神の子となった霊魂に喜びが満ちなければなりません。 翻訳:ソウル聖楽教会 視無言著書翻訳宣教センター 日本語翻訳室
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