野勢善樹サマークラス 2012

野勢善樹サマークラス
2012
レクチャー・コンサート
8 月 11 日(土)午後 8 時(7 時 45 分開場)
松原湖高原教会(小海リゾートシティ・リエックス内)
入場無料(演奏中の出入りはご遠慮下さい)
フルート:野勢善樹
クラリネット:木村健雄
ピアノ:浦壁信二
“ フランシス・プーランク(1899~1963)の魅力 ”
プログラム
・Fr.プーランク:3 つのノヴェレッテ(1927、1928、1959)
・Fr.プーランク:ソロフルートのための「廃墟を見守る笛吹きの像」(1942)
・Fr.プーランク:フルートとピアノのためのソナタ(1956)
・Fr.プーランク:クラリネットとピアノのためのソナタ(1963)
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ク(Francis Jean Marcel Poulenc ,1899年1月7日-1963年1月30日)は、
フランスの作曲家。フランス6人組の一人。声楽、室内音楽、宗教的楽劇、オペラ、バレエ音楽、オーケストラ音楽を含
むあらゆる主要な音楽ジャンルの楽曲を作曲している。その作風から、1950年7月のパリのプレス紙において評論家の
クロード・ロスタンから「ガキ大将と聖職者が同居している」と評された。
1899年にパリの裕福な家庭に生まれる。両親は敬虔なカトリック教徒であった(父エミールは、叔父のカミーユと共に
製薬会社プーラン社の創設者)。5歳の頃より母親からピアノの手ほどきを受け、1914年(15歳)からはスペイン出身
の名ピアニスト、リカルド・ビニェスにピアノを師事し、多大な影響を受ける。1913年にバレエ・リュス(ロシア・バ
レエ団)による『春の祭典』、1917年に『パラード』(台本:ジャン・コクトー、音楽:エリック・サティ、美術:パ
ブロ・ピカソ)の初演を見て感嘆する。1917年頃ビニェスの紹介により、後のフランス6人組のメンバーであり同い年
のジョルジュ・オーリックや、サティ、ポール・デュカス、モーリス・ラヴェル、声楽家のジャーヌ・バトリといった
音楽家と出会う。中でもバトリとの出会いは重要で、プーランクは当時バトリの自宅に毎週のように集まる音楽家の一
員となった。彼はそこでアンドレ・カプレやアルテュール・オネゲルとも出会う。当時、バトリはヴィユ・コロンビエ
劇場の支配人の代理として劇場の運営を任されており、1917年12月にはプーランクの『黒人の狂詩曲』の初演が行われ
た。プーランクは後に「これがその後の6人組の出発点となった」と語っている。また、詩人ジャン・コクトーらのサロ
ンに出入りするようになった。当時18歳だったプーランクは作曲を本格的に学習したいと考えたが、実業家であった父
の反対によりパリ音楽院には進学せず、3年間の兵役についた。この間、1920年に『コメディア』誌上に批評家のアン
リ・コレが掲載した論文「ロシア5人組、フランス6人組、そしてエリック・サティ 」によって「6人組」の名が広まっ
た。除隊後の1921年から1924年にかけて、ダリウス・ミヨーのすすめもありシャルル・ケクランについて本格的に作曲
を学ぶ。1922年にはミヨーなどと共にウィーンのアルマ・マーラー宅を訪れ、そこでアルノルト・シェーンベルク、ア
ントン・ウェーベルン、アルバン・ベルクと会う。この年にはパリを訪れたベラ・バルトークとも会う。1923年にパリ
で行われたイーゴル・ストラヴィンスキーの『結婚』初演の際の4人のピアニストの一人に予定されていたが、プーラン
クは病気となり初演には関われなかった。1923年、ミヨーとともにイタリア旅行中であった24歳のプーランクは、バレ
エ・リュスを主宰するセルゲイ・ディアギレフからの委嘱によってバレエ『牝鹿』を作曲し、翌1924年にモンテカルロ
において初演された。脚本はコクトー、舞台と衣装はマリー・ローランサン、振付・主演はブロニスラヴァ・ニジンス
カによるという豪華なものだった。以来、軽妙洒脱で親しみやすいその作風は大衆に喜んで受け入れられたが、作曲活
動だけでなく、バリトン歌手ピエール・ベルナックとによる自作歌曲のピアノ伴奏をはじめとして積極的に演奏活動も
し、録音も残されている。初のオペラ作品『ティレジアスの乳房』は1948年に初演され、第2作の『カルメル派修道女
の対話』は1957年1月に初演された。晩年には様々な楽器とピアノのためのソナタに取り組む。1962年にはクラリネッ
ト・ソナタ、オーボエ・ソナタを作曲したが、1963年1月30日に心臓麻痺のためパリで死去した。
私生活では、両性愛者とされ、恋人の一人にラディゲがいたことが判っている。フランス滞在時のロシアの作曲家プロ
コフィエフとは、ピアノやブリッジを通じて親交が篤かった。唯一のピアノの弟子としてカンヌ生まれフランスのピア
ニスト、ガブリエル・タッキーノを教えた。