[419]まるで庭石のような言語 成語・ことわざ雑記(17)

上野先生と歩こう 中国語遊歩道 『中国のことばと文化Ⅱ』
[419]まるで庭石のような言語
成語・ことわざ雑記(17)
(65)不见不散!
日本のテレビはたまにニュース番組を見るくらいで,それも家人がかけているのをのぞく程度で,
自分でチャンネルを選ぶことはまずないが,中国のテレビだけは CCTV 大富チャンネルというのを契約
していて,いくつかの番組を視聴している。
ことばの勉強を「発信型」と「受容型」に分けるとしたら,わたくしは受容一辺倒で話したり書い
たりの発信にはあまり熱心ではありません。受容の方ももっぱら読むだけですが,それでもせめて「耳」
ぐらいはと,書斎の片隅にテレビを置いています。
例によって以上が前置きで,そのテレビを見ていると,よくドラマなどで友達や恋人どうしが電話
で会う約束をする時,最後に“不见不散!”と言って電話を切っています。
(66)「会わない」+「離れない」⇒会うまで待つ
この“不见不散”は「会えるまでその場を離れない」,つまり「会うまで待つことにしましょう」
という意味で使われていることは間違いないが,ことばそのものはただ“不见”(会わない)と“不
散”(その場を離れない)が並んでいるだけで,両語の間に条件関係を認める指標があるわけではな
い。にもかかわらず「…しなければ…しない」という意味で通用するのは,コミュニケーションの場
に支えられているからである。この点は先の「桃李不言,下自成蹊」や“没票买票”の場合と変わり
がない。
やや飛躍するが,上に挙げた例に見られるように,ただ語句を並列するだけで,語句と語句の間の
結びつきを明示する文法的指標を欠くというのが,中国語の大きな特徴であると言えなくもない。
(67)不破不立
入門の手ほどきを受けた倉石武四郎博士は,上のような特徴をしばしば日本庭園の庭石にたとえら
れた。庭園にはただ石が飛び飛びに置かれているだけで,その石をどう連続させるかは鑑賞者の眼に
委ねられるというのである。
“不见不散”と同じように“不…不…”で「…しなければ…しない」という意味になる成語に“不
破不立”がある。「ある」というよりも「あった」というべきか。「文革」中にしきりに使われたが,
今は耳にすることも目にすることも,めったにない。「破らなければ立たない」,「破壊なくして建
設なし」,「古いものを捨てなければ新しいものは生まれない」。
(68)不破不立,不塞不流,不止不行
“不破不立”は毛沢東が『新民主主義論』(1940 年 1 月)の中で使っている。
不把这种东西打倒,什么新文化都是建立不起来的。不破不立,不塞不流,不止不行,它们之间的
斗争是生死斗争。(こういうものをうちたおさなければ,どんな新文化もうちたてられない。破
せ
とど
らなければ立たず,塞きとめなければ流れず,止めなければ進まない。〔新と旧〕両者の闘争は
生死をかけた闘争である。)
三つ並んでいる“不…不…”のうち,“不破不立”に続く後ろの二つ“不塞不流”“不止不行”は
ふさ
唐宋八大家の一人である唐の韓愈が「道」を論じた「原道」という文章に出てくる。「片方を塞がな
とど
いと,もう一方は流れない」,「片方を止めないと,もう一方は進めない」。
2015/9/18
Ⓒ2015
一般財団法人日本中国語検定協会
無断で複製・複写・転載することを禁じます。