WIJC151213御子の下さる救い

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2015 年 12月 13 日
聖書:マタイ
聖書:マタイ 1 章18-
18-25節
25節 シリーズ:マタイの福音書に見るクリスマス・メッセージ
シリーズ:マタイの福音書に見るクリスマス・メッセージ
タイトル:御子
タイトル:御子のくださる救い
御子のくださる救い#1
のくださる救い#1「その名はイエス」
#1「その名はイエス」
序 論
●先週も申し上げたように、今年は、このアドベント・シーズンに、マタイの福音書が記すクリスマス
に関する記事からクリスマス
に関する記事からクリスマスの
記事からクリスマスのメッセージを頂くように導かれて
メッセージを頂くように導かれている
頂くように導かれている。
いる。
●クリスマスは言うまでもなく、イエス様の誕生を記念して祝う日である。イエス様は、私たち人間を
救うために、この地上、この世界に、人間として生まれて来られた神様の御子である。
●第三アドベント・サンデーである今日は、マタイ
アドベント・サンデーである今日は、マタイ 1 章から、
章から、このクリスマスに
このクリスマスに生まれた
クリスマスに生まれた「
生まれた「イエス様が
イエス様が
私たちにくださる救い」がどんなものであるかを学びたい。
●日本人にとっては、「すくい」と言う言葉を「音」だけで聞くと、
日本人にとっては、「すくい」と言う言葉を「音」だけで聞くと、すぐに「金魚
すぐに「金魚すくい
「金魚すくい(
すくい(掬い)
掬い)」「ド
」「ド
ジョウ掬い」が頭に思い浮かぶ。
ジョウ掬い」が頭に思い浮かぶ。
●勿論、それが、今問題にしている「すくい」ではない。それは
勿論、それが、今問題にしている「すくい」ではない。それは「
それが、今問題にしている「すくい」ではない。それは「音」では同じ「すくい SUKUI」で
SUKUI」で
も、「金魚すくい」の「すくい」は、英語で言うと
も、「金魚すくい」の「すくい」は、英語で言うと Scoop で、漢字で書くなら「掬い」になる。
●聖書の言う「すくい」は
聖書の言う「すくい」は、
「すくい」は、言うまでもなく「救い Salvation
Salvation」である。しかし、一言で「救い」と言
tion」である。しかし、一言で「救い」と言
っても、「
っても、「救い」
救い」にもいろいろな「救い」がある。
1.「救急車」「救急病院」に象徴されるように、病気からの救いがある。
1.「救急車」「救急病院」に象徴されるように、病気からの救いがある。
2.また、貧困
2.また、貧困や物質的困難、肉体的危険
また、貧困や物質的困難、肉体的危険からの救い
や物質的困難、肉体的危険からの救い、救済
からの救い、救済がある。
、救済がある。
●それでは、キリスト教の言う「救い」、聖書の言う「救い」、クリスマスに生まれ
それでは、キリスト教の言う「救い」、聖書の言う「救い」、クリスマスに生まれたイエス様が私た
、キリスト教の言う「救い」、聖書の言う「救い」、クリスマスに生まれたイエス様が私た
ちにくださる「救い」とは、どんな救い
ちにくださる「救い」とは、どんな救いなのか
「救い」とは、どんな救いなのか?
なのか?
●それが、今日のテーマである。今日読んだ聖書の箇所に記されている天使からヨセフに
それが、今日のテーマである。今日読んだ聖書の箇所に記されている天使からヨセフに語
天使からヨセフに語られた言葉
の中に、私たちは、イエス様がくださる
の中に、私たちは、イエス様がくださる「救い」
、私たちは、イエス様がくださる「救い」がどんな救い
「救い」がどんな救いかを見ることができる
がどんな救いかを見ることができる。
かを見ることができる。
●具体的に言うなら、天使がヨセフに告げた、救い主としてお生まれになる赤ん坊
具体的に言うなら、天使がヨセフに告げた、救い主としてお生まれになる赤ん坊の
言うなら、天使がヨセフに告げた、救い主としてお生まれになる赤ん坊の「名前(
名前(Name)
Name)、
イエス」と
イエス」と、その「肩書き(
肩書き(Title)
Title)、イムマヌエル」
、イムマヌエル」と言う言葉に、イエス様が私たちにくださる救い
がどんなものであるかが表されている。
がどんなものであるかが表されている。
●今日は、この二つの内、最初の「
今日は、この二つの内、最初の「イエス
内、最初の「イエス」と言う名前
イエス」と言う名前を通して
」と言う名前を通して、イエス様が私たちにくださる「救
を通して、イエス様が私たちにくださる「救
い」がどんな救いであるかを学びたい。
本 論
Ⅰ.イエス様がくださる救いはどんな救いか?! 第一に、それは、「私たちを罪から救う救い」である。
A. まず、21 節を読みたい:「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の
民をその罪から救ってくださる方です。」
1.「イエス」
イエス」(ギリシャ語ではイエスース)
ギリシャ語ではイエスース)と言う名前は、
と言う名前は、へブル語の「イエホシュア
へブル語の「イエホシュア」
イエホシュア」「ヨシ
ュア」と言う名前のギリシャ語読みで、「
ュア」と言う名前のギリシャ語読みで、「主は救い
のギリシャ語読みで、「主は救い」という意味である。
主は救い」という意味である。
2.この
2.この 21 節をよく見ると、原語では
節をよく見ると、原語では gar、
gar、英訳では for/because
for/because と言う理由を示す接続詞
が用いられている。
が用いられている。日本語訳
「と言うのは、・
ている。日本語訳でもほとんどが「何故なら」或るい
日本語訳でもほとんどが「何故なら」或るいは
でもほとんどが「何故なら」或るいは「と言うのは、
は、・・・・
からである
からである」
というような理由を示す説明文が続いている。(新改訳聖書は、残念なことで
新改訳聖書は、残念なことで
である」というような理由を示す説明文が続いている。
あるが、どうした訳か、原語の
あるが、どうした訳か、原語の gar という接続詞の訳が落ちている)
という接続詞の訳が落ちている)
3.そして、その説明文
3.そして、その説明文は
そして、その説明文は、このように言う。「この方こそ、ご自分の民をその
このように言う。「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってく
から救ってく
ださる方」だからですと記している。
4.即ち、生まれて来る赤ん坊に、
ち、生まれて来る赤ん坊に、「
生まれて来る赤ん坊に、「救い」
救い」を表す「イエス」と言う名前が
を表す「イエス」と言う名前が付けられるのは、そ
けられるのは、そ
の赤ん坊が、やがて
赤ん坊が、やがて成長し、人を罪から救
から救うお方となるからであると説明するのである。
5.このように、イエス様はその名が示すように、私たちを罪から救う救い主である。
B.聖書は、イエス様が、私たちを罪から救う救い主であることを繰り返し宣言している。
1.例えば、バプテスマのヨハネが、イエス様を指して言った言葉、ヨ
して言った言葉、ヨハネ 1 章 29 節の「見よ。
世の罪を取り除く神の小羊」です。
2.また、使
2.また、使徒ヨハネもこのように言っている。「キリストが現れたのは、罪を取り除くためであった
ことをあなたがたはよく知っています。」(
っています。」(Ⅰヨハネ3章5節)
3章5節)。
3.このように、イエス様は
3.このように、イエス様は私たちを罪から救うためにこの地上に来られたのである。
2
4.しかし、同
しかし、同時に、皮肉にも、イエス様が人を
肉にも、イエス様が人を罪から救う救い主であるという事実こそが、実
は、人
は、人々が、イエス様を嫌い、イエス様を
い、イエス様を十字架に付けるようになった理由であった。
(1)即ち、イエス様は、
ち、イエス様は、その救い主としての生
イエス様は、その救い主としての生涯において、途中まで、否、少なくとも初期
においては
においては、そのお話し、その行う御業、そのご人格によって、すっか
によって、すっかり人々の心を魅
了し、人気を
し、人気を博していた。誰もがイエス様のフ
もがイエス様のファンであり、救い主だと思い
救い主だと思い始めていた。
(2)その理由は、
(2)その理由は、彼らが、イエス様は、当時の属国として、その
として、その支配の下に政治的にも、経
済的にも苦しんでいたイスラエルを救ってくれる救世主だと思っていたからである。即
ち、イエス様を、
ち、イエス様を、い
イエス様を、いわゆる「パンをくれる」救い主だと期待していたからである。
していたからである。
(3)しかし、ある
(3)しかし、ある頃から、
から、少しづつ人々の心は、イエス様から離れ始めていた。彼らはイエ
ス様に失望し始め、最後にはイエス様を捨て、遂には「
には「十字架に付けろ、十字架に付け
ろ」と暴動を起こしそうな勢いで叫びつつイエス様を十字架に付けたのである。
(4)その理由は、イエス様が、どうも
その理由は、イエス様が、どうも「
どうも「パンをくれる救い主」「
ンをくれる救い主」「物質的ご利益をもたらす救
い主」
い主」というよりは、心の問題、神様との関係、罪の問題を解決することを
することを目指す救い
主であることが見え始めたからである。参考:ヨハネ 6 章 56-60、63、66 節。
(5)即ち、「イエス様の救いは、
ち、「イエス様の救いは、罪からの救い」であった。それが見え始めたのである。し
かし、それは、人々にとって余り求めている者ではなかった。もっと欲しいものがあっ
たのである。それでイエス様に
たのである。それでイエス様に失望し始めたのである。
(6)しかし、イエス様は、罪からの救い主となることを貫き続けた。それで、イエス様は捨
てられ、十字架に付けられたのである。
(7)このことは今も変わらない。今も、人
らない。今も、人々は、罪の問題より、心の問題より、神様との関
係をただし、豊かにすることよ
かにすることより、目の前の物質的な安定、事業の成功、とりあえずの
家庭・周囲の人との円満な関係の方によ
の方により関心があり、その意味での救いを求める。
(8)そしてその目的達成のためなら、イエス様をも
のためなら、イエス様をも平気で捨てて行く。だから今もご利益的
香のする教会や信仰は、しばしば「繁栄神学」と呼ばれ、多くの人々を集めている。
(8)しかし、聖書は明確に言う。罪の問題が解決しない限り、罪からの救いがない限り、人
は、たとい一時的な幸せはあっても、決して永続的な幸いを経験することはできないと。
(9)だから、神は御子イエス様
だから、神は御子イエス様を通して
イエス様を通して「物質的繁栄、肉体的、地上的繁栄と救い」ではなく、「罪
からの救い」を私たちのために
私たちのために約束され、準備されたのである。
C.しかし、ここで大切なことは、それでは、「罪からの救い」とはどういうことか? 言い換えるなら、ここで言う
「罪」とは何か?を知ることである。「私が、皆様一人一人が、罪びとである」とはどいう意味かである。
1.今までも何
1.今までも何度も申し上げてき
も申し上げてきたが、今
てきたが、今回も強調したいことは、聖書がここで言う
したいことは、聖書がここで言う「
は、聖書がここで言う「罪」とは、
英語で言うなら Crime(犯罪)ではなく、Sin である。
(1)即ち、法律上の罪のことではない。私たちが法律を犯す犯罪者となることから救われる
というのではない。勿論
というのではない。勿論結果としてそれをも
としてそれをも含むが、それ
が、それ以上、それ以前のことである。
(2)また、聖書でいう
(2)また、聖書でいう罪とは、それ
は、それぞれの国や、民族・部族が持っている「
っている「道徳」や「宗
教」、「文化」の中にある規則やルールを
ルールを破ることでもない。それらは
ることでもない。それらは皆、少しづつ違う
し、変わるし、相対的なものである。
(3)しかし、聖書が言う
(3)しかし、聖書が言う罪とは、民
とは、民族も、部族も、時代も、文
も、文化も、すべてを超えて、す
て、すべ
ての人間の心の奥底に、普遍的に、
的に、共通に存在している人間の
している人間の実存的ルールへの反則で
ある。永遠に変わらない絶対的なものである。
2.更に、聖書が言う「罪」が何であるかを知るために、ここで使
るために、ここで使われている原語に注目したい。
それは
と言うギリシャ語である。
(1)その意味
(1)その意味は
その意味は「的はずれ」である。的に当たるべき弓矢が的から外れる状態である。
(2)それは
(2)それは単に最終的に的から外れてしまったという
てしまったという結果のことではなく、弓矢が的に当たる
為に通るべき道、弾道、軌道、英語なら
英語なら Trajectory が「ずれている」
れている」状態の問題である。
(3)
(3)即ち、聖書がここで言う罪とは、私たち人間が、あるべき姿、歩むべき道からはずれているこ
とを言っているのである。
(4)それゆえ、イエス様を通して、神様が私たちに与えようとされている
ようとされている救いとは、そのあ
いる救いとは、そのあ
るべき姿、歩むべき道から外れている私たち人間を、そこに戻すことである。
「ハマルティア」
マルティア」
3
3.では、人種、民族、文化、宗教、時代を超えて、私たち人間が、
私たち人間が、普遍的に持っているべき実
存的あり方、あるべき姿とは何か?
(1)その
1)その答えを聖書は、「イエス様と私たちとの関
を聖書は、「イエス様と私たちとの関係」から見出すことができると言う
すことができると言う。
と言う。
(2)聖書は
(2)聖書は先ほどの21節
聖書は先ほどの21節で、「
先ほどの21節で、「この方こそ、
で、「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方で
から救ってくださる方で
す」と、イエス様について語る
す」と、イエス様について語る。
語る。
●ここで目を留めたいのは「ご自分の民」と言う言葉である。ご自分の民とは誰のことか?
多くの人々は「イス
は「イスラエル人のこと」と言って片づけてしまう。しかしそうだろうか?
●イエス様は、最
イエス様は、最後にご自分の準備された救いの福音を「
された救いの福音を「全世界に告げ知らせよ」と言わ
れた。その
れた。そのイエス様の
。そのイエス様のお
イエス様のお心とご計画を思うとき、そして、聖書
を思うとき、そして、聖書全体から味わうとき、
●イエス様にとって「ご自分の民」とは、イスラエルの民だけでなく、全世界の人々、全人
類を意味していたことが分かる
を意味していたことが分かる。
ことが分かる。
●このように、私たち人間、一人一人
このように、私たち人間、一人一人が
、私たち人間、一人一人が「イエス様の民」なのである。即ち、「ご自分の
民」とはわたしたちのことなのである。
(3)この
(3)この「ご自分の民」と言う言葉は、クリスマスに関
と言う言葉は、クリスマスに関連してもう一つの聖書箇所を私たちに
もう一つの聖書箇所を私たちに思
私たちに思
い起こさせる。ヨハネの福音書1章1-4,9-12節である。そこに書かれていることは:
である。そこに書かれていることは:
●「言葉(
「言葉(ロゴス)なる神」であるイエス様が、全世界を創造されたこと、この方によって
造られなかったものはこの世界にひとつもないこと。
●イエス様は、ご自分の造った世界、今は暗闇となってしまった世界を照らす光として、
この世に来られたこと。
●その世界に住む人々は、創造者であるイエス様にとって
であるイエス様にとっては
イエス様にとっては、「ご自分の民」であり、「ご
自分のもの」であった。
●しかし、11節に、「この方は
しかし、11節に、「この方はご自分の国に来られたのに、
来られたのに、ご自分の民は彼を受け入れ
なかった」と明確に記されているように、人々は、イエス様を拒絶したのである。
したのである。
(4)この 11 節の姿こそ、聖書の言う罪である。即ち、
●罪とは、イエス様があなたを造られたのに、そのことに対する認識も、感謝もない姿で
ある。これは罪だと聖書は言う。それについてローマ書 1 章 2020-21 節を見たい。
●罪とは、又あなたの創造者であるだけでなく
であるだけでなく、
るだけでなく、羊を導く牧者(羊飼い)のように、あなた
のように、あなた
の命を守り、支え、導いておられるお方への反逆であり、無視することである。預言者
イザヤも、その 53 章6節でその罪について語っている。
について語っている。
(5)イエス様は、
(5)イエス様は、今も
イエス様は、今もイ
今もイザヤ 53 章6節の最後に見たように、そのような
に見たように、そのような罪を十字架でみず
から背負い、私たちを
い、私たちをその
私たちをその罪から救うために来られた
から救うために来られたのである
救うために来られたのである。
のである。
結 論
●今日私たちは、
今日私たちは、私たちの
私たちの為に地上に誕生された
に地上に誕生された御子が
誕生された御子が準備してくださった「
してくださった「救いがどんなものである
か?」について「イエス」
?」について「イエス」と言う名前の意味
「イエス」と言う名前の意味から学んだ。一言で言うなら「
と言う名前の意味から学んだ。一言で言うなら「罪からの救い」である。
●その罪とは、法律的犯罪でも、文化的・道徳的な違反でもない。それは、人間としてある
でもない。それは、人間としてあるべき姿から
「逸脱」「脱線」している状態のことである。
●即ち、神を神とし
ち、神を神として
神を神として崇めず、感謝せず、信じも、
じも、従がいもしない、人間として的外れで、ある
れで、あるべき軌
道から「
から「ずれている」
れている」生涯のことである。
のことである。
●それは丁度、羊飼いと共に歩むべき羊が、羊飼い無しでも生きられるかのように勘違いし、羊飼いの
もとから迷い出ていくのとも
ていくのとも似ている。
●救いとは、そのあるべき姿から迷い出て、的外れの人生を歩んでいたことを悔い改めて、造り主なる
神、イエス様のところに
神、イエス様のところに感謝と喜びをもって立ち返り、その主権の下にひれ伏し、従がい、信頼する
生涯に立ち返り、そのお方と共に生きることである。
に生きることである。
●それは、
それは、すべて<イエス>なるお方を、
なるお方を、その名の通り罪からの<救い主>と受け入れたときに始まる
のである。即ち、的外れの生涯から救われるのである。そのことがヨ
れるのである。そのことがヨハネ 1 章 12 節に記されている。
「彼を受け入れた者、即ちその名を信じた人々には、
には、神の子となる特権をお与えになったのである」。
●それは、誰にでも約束されている救いである。奴隷船の持ち主・商人であった John Newton にも。