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名瀑探訪
初春号
浅間大滝
2016
A S A M AO TA K I
浅 間 大 滝は幅2m、高さ15mで、北 軽 井
沢周辺では最もスケールの大きい滝とい
われています。静かな山間に、滝の水音が
響き渡り、豪快な落水に魅了されます。ま
た、浅間大滝の下流5分程の場所にある
魚止めの滝は「魚が登りきれないほどの
激しさ」があるところから名付けられたと
いい、3段にわたる落差が特徴です。
浅間大滝
北軽井沢
群馬県吾妻郡長野原町北軽井沢
54
浅間大滝
鬼押出し
アクセス
146
上信越道碓氷軽井沢ICから50分
国道146号の北軽井沢交差点から
県道54号線へ入り、
道なりに車で10分
峠の茶屋
(駐車場 あり)
北陸新幹線
146
特集:真田一族
雪景色の玉原高原
軽井沢
〔写真提供:群馬県沼田市〕
乱世を生きる知恵と戦略
◎ 真田街道の山城
◎ 真田氏ゆかりの居城 沼田城
上信越自動車道
◎
特集:
「花燃ゆ」歴史を訪ねて
◎
生糸交易で近代化に貢献した上州人
下村善太郎、中居屋重兵衛
◎ お客様紹介
◎ 名瀑探訪
サクラーレ福住 様
浅間大滝
18
中軽井沢
碓氷軽井沢IC
魚止めの滝
わ ず や ま と
『 和's YAMATO』の 由来
ヤマトの漢字の「和」、Water & Air の頭文字を合わせて「WA」、
「 S」はスタート。ヤマトが発信するメッセージです。
初春号(第27号)2016
株式会社ヤマト情報誌
和's YAMATO 2016 初春号/ 2016年1月発行
発行:株式会社ヤマト
(広報室)群馬県前橋市古市町118 TEL.027-290-1891 FAX.027-290-1896
群馬県前橋市古市町118 〒371-0844 TEL.027-290-1800(代) FAX.027-290-1896
支店/東京、
埼玉、
栃木、
横浜、
千葉、
高崎、
東北
営業所/軽井沢、
伊勢崎、
神奈川県央、
茨城、
太田、
東松山、
新潟、
長野、
渋川、
川口、
多摩、
横須賀、
滋賀
附属施設/大和環境技術研究所、大和分析センター、加工センター、
朝倉工場、サポートセンター、教育センター、コンタクトセンター
ヤマトホームページ www.yamato-se.co.jp/
真田一 族
乱世を生きる知恵と戦略
武田信玄と真田幸 隆
02
03
特集
特集
真田一 族
真田街道の山城
04
05
真田信之が五層の天守閣を建造
(群馬県沼田市)
沼田は北関東の要衝で、重要な軍事拠
利根川
片品川
本丸跡の碑
海野平で海野氏を破る
︶武田・諏 訪・村 上の連 合 軍 、
このころ武田 信玄に出仕
︶真田 幸 隆 、
砥石城を攻めて敗退︵砥石崩れ︶
︶信 玄 、
独力で砥石 城を乗っ取る。真田の本領を回復
︶幸 隆 、
︵第1回︶
︶川 中 島で甲 越 両 軍の戦い
激戦
︶川 中 島で信 玄・謙 信 、
上州の岩下城、岩櫃城を攻略
︶幸 隆ほかの武田 勢 、
配下の武将に起請文を書かせる
︶信 玄 、
三河侵攻の帰途に信州駒場で死去
︶信 玄 、
上 州 沼田 城 攻 略
︶昌 幸 、
昌幸は織田 信長に従属
︶武田 家 滅 亡 。
信長の死後は北条氏に、次いで、徳川家康に属する
上田城 を築き始める
︶昌 幸 、
家康の北条氏への沼田 城明け渡し命令を
︶昌 幸 、
拒否、家康と手を切る。
秀吉の仲介で家康の配下となる
︶昌 幸 、
昌幸父子、大挙して攻める徳川軍を撃退︵第一次上田 合戦︶
真田氏時代の沼田城天守閣の模型
点として上杉、
武田、
後北条氏などが領有
を争い、天正八年︵一五八〇︶に真田昌幸
が支配し、天正十八年︵一五九〇︶に北条
氏が滅びると真田信之
︵信幸︶
が沼田城の
城主となりました。
慶長二年︵一五九七︶
に信之は沼田城の大改修に着手、
五層の
天守を造営。
五層の天守閣を持つ城は、
関
東では江戸城と沼田城だけだったとい
われ、天和二年︵一六八二︶に幕府の命令
年︵
年︵
年︵
年︵
年︵
年︵
年︵
年︵
で破却されるまで、
沼田城は天下の名城
としてその威容を誇っていました。
120
真田一族
寛永11年(1634)2代城主真田信吉により造られ、沼田城の三の丸の楼に掛け時報として
使われた。真田氏改易後、平等寺の梵鐘になったが、明治32年沼田町役場(現在の市役
所)に鐘楼を建て昭和39年に取り壊されるまで沼田の時鐘として活躍した。
沼田公園にあ
る鐘楼は昭和58年に再建されたもので、
現在、
本物の城鐘は中央公民館に展示してある。
日本の歴史公園百選にも選定されています。
天文
天文
天文
天文
天文
永禄
永禄
永禄
年︵
年︵
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年︵
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年︵
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観光案内所
1
5
4
1
沼田
沼田城
上越新幹線
天正元年︵
天正 年︵
天正 年︵
天正
天正
天正
天正
天正
慶長
慶長
慶長
慶長
慶長
元和 年︵
元和 年︵
万治元年︵
︶秀 吉 裁 決で沼田 城は北 条 氏に
真田に残された名胡桃城が北条の猪俣邦憲に奪われる
北条を討伐。沼田城は真田に復す
︶秀 吉 、
真田 父 子 も参 戦
︶秀 吉 が没する
幸村は石田 三成方に属し、犬伏の陣より上田 城に戻る
︶昌幸、
信幸は徳川方に属する。昌幸らは徳川秀忠の大軍を
上田城に迎え討ち、釘づけにする。︵第二次上田 合戦︶
歳
関ヶ原の戦いで西 軍が敗れ、昌幸、幸村は高野山に配流となる
︶九 度 山で昌 幸 病 没 、
豊臣方の挙兵に応じ、九度山を発ち大坂城に入る
︶幸 村 、
65
関越自動車道
真田氏時代の沼田城
沼田城址の鐘楼
真田丸 を築いて、徳川方を破る︵大坂冬の陣︶
大阪城は落ち豊臣氏滅ぶ
大坂夏の陣で家康の本陣に迫る奮戦の後、戦死
︶幸 村 、
このころから上田の統治に専念
︶信 之 、
歳で没す
上田 から松代に移封
︶信 之 、
︶信 之 、
06
07
沼田公園内にある観光案内所。
休憩スペースやお土産売り場がある。
93
上越線
名胡桃城
1
5
4
5
1
5
5
0
1
5
5
1
二の丸(野球場)から本丸の間に設けられ
た堀は、沼田城で最も大きな堀で、幅は約
24m、
石垣の高さは約6mだった。
本丸掘割跡
145
真田三代略年表
1
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3
1
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4
沼田城址公園
中山城
真田鉄砲隊の演武式
1
5
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7
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10 7 4 22 20 19 14 10
10 8
13 11
17 15
18
5 3
19 16
20
8 2
月夜野
17
沼田藩主だった土岐家が居住していた洋館。大正13年(1924)
に建築され、大正時代特有の洋風建築。内部は公開され、資料
館になっている。
国の登録有形文化財。
妻入、板葺の町家で、17世紀末頃の建築と推定され、東日本で最古
の町家造り建築物。国の重要文化財。内部は公開され、資料館に
なっている。
沼田城址公園見取り図
江戸時代後期∼末期の沼田藩邸を再現したもの。旧土岐家住宅洋
館内に展示されている。
A. 平八石(沼田平八郎首石)
B. 村上鬼城句碑
C. 天狗堂
D. 御殿楼
E. 鐘楼
F. 金子刀水句碑
G. 沼田の歌歌碑
H. 英霊殿
I. 久米民之助像
J. 沼田小学校講堂記念体育館
K. 武道場
L. 旧土岐邸洋館
M. 旧生方家住宅(国重文)
N. 生方記念資料館
O. 生方たつゑ歌碑
P. 久米民之助頌歌碑
Q. 寿楽園碑
R. テニスコート
S. ゲートボール
T. 野球場
U. 子供遊園
旧土岐家住宅洋館
市民に親しまれている沼田公園
旧生方家住宅
土岐家沼田藩邸復元模型
特集
沼田城
真田氏ゆかりの居城
NUMATA
「花燃ゆ」歴史を訪ねて 特 集
旧勝山社煉瓦蔵 下村善太郎
生糸改所跡 生 糸 の品 質をチェックする施 設
で、明治11年(1878)に完成したも
のの、5年後の大火で焼失した。
交水堰
(交水社の取水堰)
前橋ガイド 「花燃ゆ」歴史を訪ねて
日本初の
旧安田銀行担保倉庫
器械製糸場の碑
絹の橋
広瀬川に架かる橋の中に、交水
社の従業員が回り道せずに対岸
に渡れるように造った橋「絹の
橋」が あ る。平 成8年(1996)改
修さた。交水社は、現在の市営城
東町駐車場の辺りにあり、県内
最大規模の製糸工場だったとい
うことだ。
下村善太郎像 前橋本町の小間物屋「三好善」の長男に生まれ、16歳で結婚し家業を継ぐが、前橋は藩主不在で博打が流行り、善太郎も
賭博や米相場に手を出し家業が傾く。23歳で再起を決意し妻の兄の紹介で八王子の糸屋を頼り、熨斗(のし)糸買から反
物、生繭へと商売を広げる。横浜開港を機に、中居屋重兵衛を通じて生糸貿易でも商才を発揮し、巨利を得る。父の死後
郷里に戻り、糸繭商として外国取引を開始。一躍前橋の大富豪となり、城の再築に出資した他、ひたすら前橋の発展を願
い、
道路の開設修理、
桃井小学校の新築、
鉄道の前橋延長、
臨江閣の建設、
利根川の架橋、
生糸の品質改善等、地域振興の
ために巨額の私財を投じる。県庁誘致では有志等と先頭に立ち、楫取県令と交渉。庁舎や官舎の準備等多額の寄付をし
ている。明治25年市制施行の際、推されて初代市長に就任したが、惜しくも翌年66歳で永眠。近代前橋建設の父として偉
大な精神と功績を慕われ、
市民の手で二度、
銅像が建立されている。
善太郎は、
前橋の名誉市民の第一号ともなっている。
臨江閣
交水堰
前橋残影の碑
もあったのです。
当時の養蚕業は家内工
04
08
名は知らなくても、
前橋の名は知れ渡っ
﹁県 都 前 橋 生 糸 の 町﹂
。群 馬 県 の 偉 人
業が中心で、
生産者と消費者を結ぶ商人
ていました。
﹁上毛かるた﹂
に
や名所・旧跡を紹介する
が生糸流通を担っていました。
前橋で活
上州は明治十年代まで全国一の生糸
は、
前橋が生糸で繁栄したことを示して
動する商人の中で傑出していたのは、
下
生産地で、
需要先へ出荷する大集積地で
います。
幕末から明治初期のヨーロッパ
村善太郎でした。
生糸は桐生など機織り
前橋と生糸の歴史
では、
日本から輸入された生糸のうち前
地域差を利用して巨利をあげたといわ
れています。
横浜の生糸相場はヨーロッ
パの景気変動によって価格が乱高下し、
その価格情報が前橋に到達するまで数
日間のずれがありました。幕末・維新直
後 は 明 治 三 年︵一 八 七〇︶に 東 京 横
̶浜
間に電信が開通したものの、
横浜 前
̶橋
間には電信の設備が無かったので、
飛脚
が価格情報を前橋に届けていたのです。
はやびきゃく
下村は横浜の相場を伝達する飛脚より
もさらに早く走る飛脚=早飛脚を使い、
一日早く横浜の相場をつかんでいまし
た。これにより、横浜で価格が上がった
ら、
前橋の産地相場がその影響で上昇す
る前日に大量の生糸を買い占め、
利益を
上げたそうです。
下村の全盛期が明治九
年頃といわれていますが、
その隆盛は明
治 十 年︵一 八 七 七︶の 東 京 前
̶橋 間 の 電
信開通と無縁ではないかもしれません。
横浜港の主要な輸出品は生糸と茶で
したが、生糸の輸出金額は万延元年︵一
%だったの
86
六 八〇︶に 生 糸 の 比 率 は
が、
文久二年
︵一八六二︶
になると %に
上昇したそうです。輸出の増加に伴い、
生糸価格は上昇の一途をたどり、
安政三
年︵一 八 五 六︶か ら 慶 應 三 年︵一 八 六 七︶
の間に七倍になったということです。
下 村 ら 荷 主 商 人 に 加 え、上 州 出 身 の 中
居屋重兵衛のように、
横浜港で外国人に生
糸を売却する商人=売込商人は横浜に店
を構え外国人相手の商売を展開します。
横浜が開港した安政六年頃、
ヨーロッ
パでは蚕の病気が流行し、
生糸生産は激
減、
それに加えて主要産出国の中国は内
乱の影響で品質が低下しており、
それに
比べて日本の生糸はヨーロッパの商人
が驚くほどの高品質で、
彼らは競うよう
に買い付けたそうです。
重兵衛は安政六
年︵一八五九︶八月十八日にフランス人
のロヘルに一分銀十二個で前橋の提糸
を二十八個売ったのが、
生糸を提糸とし
09
て売った最初だといわれています。
この
提糸のことをヨーロッパの商品取引所
︵参考資料・みやま文庫 号 号︶
149
では﹁マエバシ﹂と呼ぶようになったと
いいます。
101
66
産業の盛んな地域での需要に加え、
安政
前橋駅
JR両毛線
橋産は一級品でした。元治元年︵一八六
龍海院
六年︵一八五九︶の横浜開港からは主要
清光寺
さげいと
して発展した前橋市の礎となった繭と製糸を象徴したもので、前橋市で
は、広瀬川河畔の緑地化にあわせて記念碑を建てた。この碑には「相葉
有流」先生の前橋残影の句「繭ぐるま曳けばこぼるる天の川」と座繰り
をする女性が刻まれ、その脇には白御影石で造られた繭型の湧水があ
る大きな繭からは、清らかな水が流れ出て、それを「市の紋章」を象った
丸い台座が受け止めている。前橋市住吉町一丁目(国道17号沿い)
前橋本町
郵便局
四︶
のイギリス商館が香港に送った資料
うまやばし
前橋残影の碑 広瀬川に架かる厩橋ぎわにあるこの碑は、生糸の町と
な輸出産品になりました。
下村は上州産
前橋プラザ
元気21
によると、前橋と信州の提糸︵生糸を俵
旧勝山社
煉瓦蔵(箸蔵)
初代市長
下村善太郎銅像
前橋生糸
改所跡碑
にとどまらず、
奥州や信州、
武州
︵埼玉県
前橋市役所
のような形に複雑に結束したもの︶
は八
群馬県庁
群馬会館(群馬県衛生所跡)
や 東 京 都︶か ら も 大 量 の 生 糸 を 買 い 集
中央前橋駅
王子、甲州、奥州産よりも高値で取引さ
17
め、
横浜港の商人に売り渡す荷主商人と
萩原朔太郎
生家跡碑
前 橋 藩は明 治3年(1870)に
スイス人の技師を招き、洋式
製糸機械を導入、
この地に 製
糸 工場「前橋 製糸 所」を設 立
した。動力には 広瀬 川の水
力が利用された。この工場は
小規 模 ではあったが、
「官 営
富岡製糸場」の設立の2年前
のことであり、日本に於ける
最初の洋式機械製糸工場と
されている。前橋は 水が豊富
で繭の調達が容易であったこ
とから、数多くの製糸場が造
られ、前橋の繁栄を築いた。
れ て い た と い う こ と で す。当 時 の ヨ ー
中央イベント広場
して成功を収めます。
下村は生糸価格の
萩原朔太郎像
前橋文学館
前群馬県令
楫取君功徳之碑
日本初の
機械製糸場跡の碑
絹の橋
広瀬川美術館
東照宮
ロッパの人々にとって、
京都や江戸の地
前橋公園
銀行の担保物件として集められた生糸や繭の保管倉庫。高さ約10m、長
さは54m、煉瓦の積み方は長手だけの段と小口だけの段とを一段おき
に積む「イギリス積み」
(富岡製糸場の繭倉庫は、長手と小口を交互に積
む「フランス積み」)。大正2年建設。国の登録有形文化財。ぐんま絹遺産。
SHIMOMURA ZENTARO
この堰が交水堰と呼ばれるのは、このすぐ下流にあった製糸工場「交
水社」に由来するとのこと。
前橋の製糸会社は、前橋藩士が開設した
ものが多く、
「交水社」もその一つ。明治10年(1877)広瀬組として
創立し、その一年後に「交水社」と社名を改称する。当初は、養蚕農
家から座繰り糸を集めて品質を検査し、良質の生糸を作る会社で、
その後、座繰製糸から器械製糸へ、そして養蚕農家を組合員とした
組合製糸所となる。
旧安田銀行担保倉庫
製糸業・織物業で栄えた勝山社
の倉庫として明治36年(1903)
に建造され、主に生糸の保管倉
庫として利用された。生糸の町
として栄えた前橋 市の面影を
残す貴重なレンガ造の建造物。
「花燃ゆ」歴史を訪ねて 特 集
NAKAIYA JUBE
11
10
「花燃ゆ」歴史を訪ねて 特 集
NAKAIYA JUBE
13
12
サクラーレ福住
︻施設概要︼
施設名称 高齢者複合施設 サクラーレ福住
所在地
新潟県長岡市福住
‒
建築面積
、
㎡
、
㎡
延床面積
造 地上 階、
建物概要
塔屋 階
開所日
平成 年 月
設計・監理 ㈱細貝建築事務所
施工
越後交通工業㈱・㈱ヤマト
施設内
階 地域交流スペース、
売店、憩いのベンチ
階 ショートステイ 室
・ 階 特別養護老人ホーム 室
階 サービス付き高齢者向け住宅40室
︻システム概要︼
ヤマト大温度差蓄熱空調システム
空調熱源 空冷ヒートポンプチラー
馬力相当 ×基
㎥
蓄熱槽
水蓄熱槽
空調機
高効率大温度差型ファンコイルユニット
空調ポンプ インバーター変流量制御方式
床暖房
温水方式︵蓄熱槽より供給︶
遠隔監視 ヤマト
給湯設備 蓄熱式ヒートポンプ給湯機
︵業務用エコキュート︶ 馬力 ×基
製 有効容量 ㎥
貯湯槽
20
のお茶の間やサークル活動、演芸、イベント
80
5
4
5
0
4
T
A
S
K
P
R
U
S
20
の 開 催 や、1 階 売 店 で 同 法 人 で 運 営 す る 障
害福祉サービス事業﹁パン工房アルモニエ﹂
の地元素材にこだわったパンの販売などを
通 じ て、日 ご ろ か ら 地 域 の 方 々 と 触 れ 合 う
仕掛けづくりを行っているのが大きな特色
2
1
1
7
1
40
R 8 1
C 3 9
27
6 1
9 3
8
5
5 3 2 1
4
1
0
0
S
U
S
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15
町内クリーン作戦に利用者様と共に参加
売店では長岡三古老人福祉会が運営する工房のパンも販売
です。
地域交流スペースでの地元医療・介護情報交換会
併設する託児所こどもさくら苑園児の訪問