浄 土真 宗 の 法 事

 � 浄土真宗の法事 �
最近法事の意味が解らず�自分の知らない人の法事などは�しなくて
も良いと思う人が増えているようです�ここでは法事の意味を�大きく
二つに分けて考えてみまし�う�
一つは�亡き人を思い�自分自身のいのちの尊さを考えるご縁です�
私の一番大切なものは�自分のいのちでし�う�この世にた�た一つ
の�一度のいのち�かけがえのないいのちです�これを�私のいのち�
さず
�自分のいのち�と思�ていますが�このいのち�私は頭の先から足の
先まで全部親を縁として授か�たものです�自分で作�たものは一つも
ありません�そして生まれた時から親の願いや思いを受けて育てられた
さかのぼ
いのちです�その上両親がいただけではありません�その親がいてまた
その親がいます�五代十代遡れば何千�何万といういのちの中に私が生
まれさせていただいたのです�このいのちいただいたことに感謝し�喜
かな
びを見いだし�その願いに叶うような生き方をしなければなりません�
与えられたいのちを精一杯生きる人生を歩まねばなりません�
次に法事とは法の事と書きます�私が仏法に出で 遇あうことが法事です�
はいどく
そこでお釈迦様の説法である�お経を拝読するのですが�お経は漢文で
書かれていて�それを棒読みするものですから意味も全く解りません�
それでお経拝読の後�そのこころを法話としていただきます�
い
しょうま
江戸時代の話です�四国の高松在ざに
�庄松さんというお念仏を喜ぶ人
あ
がた
がいました�よくお寺参りをしたり�お寺のお手伝いをしていました�
ょうま
庄し松
さんはいつも�南無阿弥陀仏�南無阿弥陀仏 お
…経はありがたい
くちぐせ
な�と�口癖のようにつぶやいていました�それを聞いていたそのお寺
しょうま
のお坊さんは�からかい半分に�庄松さん�そんなにお経が有り難いな
しょうま
ら�このお経を読んでみてくれ�とお経本を手渡しました�庄松さんは
学校で学んだことなどありませんから�文字を書くどころか読むことも
しょうま
だ
み
全くできません�さぞ困るだろうと�庄松さんを見ていると�お経本を
しょうま
いただくと�庄松おまえをたすける�弥陀にまかせよ�安心せよ�と書
いてあると答えました�
長いお経も�突つき詰つめてみると�仏さまが�私たちを�必ず救う�我
よ
にまかせよ�と�喚びたもう�南無阿弥陀仏�に収まるのです�