古 典

第三回 説話
こ ほん
へい
ちゆう
古本説話集 平中が事
学習のポイント
①説話文学について
②助動詞の働きに着目して登場人物の心理を推し量る
③「色好み」という価値観
理解を深めるために
古典の学習の最初は説話文学である。説話とは、人々の間で語り伝えられてい
る話。説話は、もとは物語と呼ばれていた。なぜなら、それは元来「語る」「物
語る」ものだからである。
「語る」
「物語る」とは、ある人物の言動やその生き方、
あるいは事物の由来、特殊な出来事などを人々に伝達しようとする言語行為であ
り、語られたものが「物語」である。その物語のうち、実在・仮構を問わず、あ
る人物の一エピソード、事物の由来、不思議で異常な一事件など、原則として伝
承または自ら見聞した、過去の事実としての一つの出来事や一つの事態に興味関
心をもって語る比較的短いものを、一般的に「説話」と称する。それらを集めて
まとめたものを説話集という。平安時代から鎌倉時代にかけて流行した。
日本の古典作品の中でも説話は人気が高い。話も短く、内容的にもわかりやす
いもがゆ
いし、登場人物も歴史上著名な人物や僧侶・貴族・武士などから名もない庶民ま
でさまざまだ。説話集を素材にして、芥川龍之介の『羅生門』や『鼻』、『芋粥』
* * * などの小説が書かれたことは有名である。
こ ほん
『古本説話集』は、平安時代末期から鎌倉時代初期のころに成立したとされて
いる説話集である。現存する唯一の本に書名が記されておらず『古本説話集』と
通称されている。また、編者も未詳である。前半に和歌説話、後半に仏教説話を
収める二部構成で、前半には紫式部や清少納言など一条天皇時代の女流文学の担
たいらの
い手たちや、紀貫之や藤原公任といった著名な男性歌人たちが名を連ねる貴族好
さだふん
みの風流な話が多く集められている。今回読むのは、その中の「平中が事」、 平
貞文という人にまつわるお話である。平貞文は『古今和歌集』時代の歌人で、歌
じつきんしよう
ざい
ちゆう
物語『平中物語』の主人公でもある。
「 平 中 」 と い う の は、 こ の 平 貞 文 の 通 称 で
ある。その由来は詳らかになってはいないが、説話集『十訓抄』の中に「在中、
齋藤佳子
第3回
平中とてつがひて、世のすきものといはれける」という記述があり、「在中」と
呼ばれた在原業平と並び称されたことから「 平中」と呼ばれたとする説もある。
「すきもの」とは、「風流や恋愛の情趣を解する人」いわゆる色好みという意味で、
王朝文学ならではの価値観を表す言葉である。現代では好色というとあまり好ま
−4−
講師
古典
▼
ラジオ学習メモ
しくないイメージがあるが、平安時代は逆であった。だが貞文は、色好みを名乗
りながら女を口説いても失敗することが多く、当代の理想的な男性像として描か
れる業平とは違って、お人好しで気の弱い滑稽者という印象が強い。その平中像
をさらにおもしろく皮肉ったのが、中世の平中説話の数々である。中でもこのお
−5−
話は、よく知られた有名な話であったようだ。
第3回
さて、色好みを名乗る平中こと平貞文の、いったいどのような滑稽話が展開さ
れるのか。その滑稽味を存分に味わいながら読んでみよう。
古典
▼
ラジオ学習メモ
こ ほん
ちゅう
古本説話集
へい
平中が事
ぬ
すずりがめ
講師・齋藤佳子 を
今は昔、平中といふ色好み、さしも心に入らぬ女のもとにても、泣か
ね
れぬ音をそら泣きをし、涙に濡らさむ料に、硯瓶に水を入れて、緒をつ
ゐ
かた
め
ま ぎ
けて肘に掛けてしありきつ。顔、袖を濡らしけり。
で
ちやう じ
かめ
出居の方を、妻のぞきて見れば、間木に物をさし置きけるを、出でて
たたうがみ
のち取り下ろして見れば、硯瓶なり。また、畳紙に丁子入りたり。瓶の
ねずみ
つばき
水をいうてて、墨を濃くすりて入れつ。鼠の物を取り集めて、丁子に入
れ替へつ。さてもとのやうに置きつ。
け
例のことなれば、夕さりは出でぬ。暁に帰りて、心地あしげにて、唾
ふ
を吐き、臥したり。
「畳紙の物の故なめり。
」と、妻は聞き臥したり。夜
ま くろ
明けて見れば、袖に墨ゆゆしげにつきたり。鏡を見れば、顔も真黒に、
目のみきらめきて、我ながらいと恐ろしげなり。硯瓶を見れば、墨をす
りて入れたり。畳紙に鼠の物入りたり。いといとあさましく心憂くて、
くく
そののちそら泣きの涙、丁子含むこと、とどめてけるとぞ。
今となってはもう昔のことだが、平中という色好みが、それほど気に入っているわけで
【口語訳】
もない女の所でも、
泣けてくるわけでもない(のに)泣き声を立ててうそ泣きをし、
涙で(顔
を)濡らすというために、硯瓶に水を入れて、
(それに)ひもをつけて肘に掛けて持ち歩
(あるとき、
)出居のほうを、妻がのぞいて見ると、長押の上に作った棚に(平中が)何か
き回った。そして、その水を使って顔や袖を濡らした。
を置いたので、
(平中が部屋を)出た後、取り下ろして見てみると、硯瓶である。また、畳
紙に丁子が入っている。
(そこで妻は)硯瓶の水を注ぎ捨てて、
(代わりに)墨を濃くすって
入れた。
(さらに)鼠のふんを取り集めて、丁子と入れ替えた。そうしてもとのように置いた。
(平中が女の所へ出かけるのは)いつものことであるので、
(平中は他の女の所へ)夕方
には出かけた。夜明け方に帰って、気分が悪そうな様子で、唾を吐き、横になっていた。
「畳
紙の中の物のせいであるようだ。
」と(妻は)思って、(夫の様子を)聞きながら妻は横になっ
−6−
ていた。夜が明けて(平中が)見ると、袖に墨がひどくついている。鏡を見ると、顔も真っ
古典
第3回
黒で、目だけがぎょろぎょろ光って、自分でもたいそう恐ろしい感じである。硯瓶を見ると、
墨をすって入れてあった。畳紙には鼠のふんが入っていた。全くもって驚きあきれ返るこ
とで情けなくて、それから後は、うそ泣きの涙を用意することと、丁子を口に含むことは、
やめてしまったということだよ。
*本文は『新日本古典文学大系』によった。
▼
ラジオ学習メモ