︱︱ 俳諧人生の足跡

鬼城の家は父祖代々の鳥取藩士で
した。その城「若桜城」は、別名
を「鬼ヶ城」と呼ばれていたと言
幕末の江戸に武士の子として生まれ、
歳で高崎に移り住んだ
庁へ勤務することになり、一
家は前橋に移ります。その翌
年、鬼城 歳のときに高崎の
詰藩士だった小原平之進︵後
裁判所の構内代書人となりま
宮元町へと移住、平助は高崎
高
埋埋火火⋮灰の中の消えかかった火
崎の地にその人生を詩に紡ぎ続けた偉人
がありました ︱︱︱ 境涯の俳人・村上
鬼 城。 若 く し て 耳 の 病 気 を 患 い、 人 生 の 壁 に
苛 ま れ な が ら も、 五・七・五 の 文 体 が 織 り な す
俳 句 に 情 熱 を 注 ぎ、 後 の 日 本 俳 壇 に 大 き な 足
跡を残しています。鬼城の作品は、師を敬い、
友 を 慕 い、 家 族 を こ の 上 な く 愛 し た 自 身 の 人
生そのものでもあります。
今 回 号 で は、 今 年 生 誕 5 年 を 迎 え る﹁ 村
1888(明治 21) 24 歳 結婚
歳のときに陸軍
1882(明治 15) 18 歳 軍人を志願するも耳の病気で断念
に見事合格しましたが、突然
襲 わ れ た 耳 の 病 気 の た め に、
向学心が強く、 歳で通町の
ら﹁ 村 上 ﹂ 姓 を 継 ぎ ま し た。
に入り法律を学ぶなどして司
田錦町の明治義塾法律研究所
いました。その後上京し、神
士官への道は閉ざされてしま
安国寺内にあった漢字書院に
法官を志しますが、その夢も
婚します。スミとの間には二
人の娘を授かりましたが、そ
年の
月に父・平助が
れ も つ か の 間 の 幸 せ で し た。
明治
1
1895(明治 28) 31 歳 正岡子規との交流始まる
0
1896(明治 29) 32 歳 再婚
1913(大正 2) 49 歳 高浜虚子と出会う
1925(大正 14) 61 歳 句会「五日会」を興す
月にはスミま
1908(明治 41) 44 歳 村上䢚魚と句会「紫苑会」を興す
歳の若さで他界して
鴛⋮オシドリのオス
鬼城
はなれ鴛
美しきほど哀れなり
てんと思へど、
捨つる忍びず
れ、予 が、句 作 の 初 め な り、捨
兒 を 抱 く こ と 十 年︵ 中 略 ︶こ
予 若 か り し 時、妻 を 失 ひ、二
への鎮魂の句を残しています。
しまいました。後年、妻スミ
でもが
亡くなると、
1894(明治 27) 30 歳 高崎裁判所の構内代書人となる
1892(明治 25) 28 歳 父と妻を相次いで亡くす
上鬼城﹂について紹介します。
問い合わせは、
文化課︵☎ 321・1203︶へ。
年、
8 歳 前橋に移住、翌年高崎へ転居
士官学校を受験し、一次試験
明治
1872(明治 5)
並榎 鬼城草庵にて
村上幹也氏提供
1938(昭和 13) 74 歳 永眠
鬼城。向学心旺盛で、幼少のころから勉学に励み、軍人になる
こ と を 志 し ま す。 し か し、 耳 の 病 気 で そ の 夢 は 断 た れ て し ま い
われています。ここから俳号を「鬼
城」としたようです。この若桜鬼ヶ
城跡は、鳥取県八頭郡若桜町若桜
の「鶴尾山(452 m)
」にあり、国
ます。さらに追い打ちをかけるように不運が続き、絶望の中で
見出した一筋の光︱︱︱それが俳諧でした。
月 日、因幡鳥取藩の江戸
に吉川平助と改名︶の長男と
した。後に鬼城も跡を継ぐこ
そして数奇な運命へ
夢に向かって励む日々
とになります。
して、江戸の藩邸に生まれま
した。
年後のこと。廃藩置県後の
年、父・平助が前橋県
1 歳 江戸に生まれる
入り、漢学者・貫名海雲に師
鬼城が 歳になると、母方
の跡継ぎがいなかったことか
― 村上鬼城 略年表 ―
かないませんでした。
事します。また、宮元町にで
きた西群馬教会で牧師の星野 明治 年に三波川村︵現在
の藤岡市鬼石︶の中スミと結
人 に な る こ と を 志 し ま し た。
﹁富国強兵﹂が推し進めら
れる時代にあって、鬼城は軍
す。
光多から英語を学んでいま
16
8
9
お江戸生まれの高崎育ち
向学の志と度重なる不遇
埋火や思い出ること皆詩なり 鬼城
︱︱ 俳諧人生の足跡
特集 生誕 5 年
境涯の句を詠み続けた郷土の偉人
―― 「鬼城」の由来は? ――
2015.4.15(2)
(3)高崎市役所☎ 027-321-1111
11
25
9
村 上 鬼 城︵ 本 名・ 荘 太 郎 ︶
は、 慶 応 元 年︵1865 年 ︶
の史跡に指定されています。
武士の世の終わりを告げた
大政奉還は、鬼城が生まれて
明治
「青年時代の鬼城」明治 15 年(18 歳)の
陸軍士官学校を受験したころ
村上幹也氏提供
1865(慶応元)
0
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5
18
5
7
2
15
21
25
1
村上鬼城
特集 生誕 150 年 村上鬼城
家族に向けられた愛情
▲
▲
▲
明治 30 年創刊。正岡子規、高浜虚子、河東碧梧桐、
内藤
内藤鳴 雪ら名立たる俳人が選者を務めました。
大正
大正・昭和初期における俳壇の最有力誌で、鬼
音無き世界の光明
自らの人生を句で表現
﹁父や妻には死なれる、︵中略︶
俳句雑誌﹁ホトトギス﹂の選
大正 年、 歳のとき、高
崎で開かれた俳句会で鬼城は
なっていきました。
で知られるように
その喜びは鬼城の生きる希
望になったのかもしれませ
で、同会は 魚が大正
月 31 日に発表した作品 30 句 1 組 ●応募方法=
年に
鬼城の歯に衣着せぬ句評は
た﹁ホトトギス﹂誌に投句す
厳しいながらも面白いと評判
円を、投句と同時に払い込み(高校生は無料)。定
年に鬼城
13
とおしての応募で、費用は無料です)。
入して同会へ ●費用= 3,000 円(振替用紙あり)
●募集作品=雑詠 2 句 1 組(未発表の作品だけ)
●賞=本賞 1 人(賞状と副賞 20 万円)、佳作数人(賞
状と記念品)
14
92 円切手を同封した封筒で応募用紙を請求し、記
自身の不遇を吐き出すように始めた俳句は、次第に他には替
え 難 い 自 己 表 現 の 手 段 へ と 変 わ っ て い き ま す。 そ れ を 支 え た
高崎に
﹁鬼城﹂
あり
きました。
えていくための力になってい
のは、俳句をとおして出会った師や友、そして家族でした。
鬼城が俳諧の世界に足を踏
み入れた直接のきっかけは弟
からの紹介でしたが、句を作
耳は遠くなる、絶望しちまツ
者・高浜虚子に出会いました。
高浜虚子との出会い
た。コウなツてくると妙なモ
村上䢚魚との親交
ん。鬼城は発表の場を専ら﹁ホ
る俳人でした。これまで一人
28 回村上鬼城賞の作品を募集
します。いずれの応募も、5 月
31 日㈰までに、〒 370-0867
高崎市乗附町 1854 の 59 村
ゆさゆさと大枝ゆるる
城
城の作品も数多く掲載されました
り始めた理由については次の
ンで、詩歌といふものが人間
そのときの俳句会の題材は
﹁雲雀﹂。我こそはという参加
吐くためのものでした。しか
で句を作り続けていた鬼城に
高 崎 を 去 る ま で 続 き ま し た。
最高点を獲得し、虚子から﹁此
し、その後の俳句をとおして
トトギス﹂誌に求め、高崎で
とって、初めて身近に俳句を
同会の活動は大正
課などにある専用投句用紙に住所・氏名・電話番
号 を 記 入 し て 同 会 へ ● 費 用 = 2 句 1 組 1,000
桜かな
に必要なものになる。人は知
者の中で、鬼城の句﹁百姓に
▲
▲
▲
らないが、僕には弱い音を吐
雲雀揚がって夜明けたり﹂が
魚 ︵本名・
村上
成 之 ︶ は 明 治 年、
ように述懐しています。
く為に必要になツてきて、何
国漢教師として千
出会うさまざまな人との交流
の俳句会以降、せきを切った
語 り 合 え る 友 が で き ま し た。
村上鬼城顕彰会は、第 29 回
村上鬼城顕彰全国俳句大会と第
鬼城
ンとか胸中のムシヤムシヤを
葉から高崎中学校
水魚の交わり
いいあらはさうとする﹂
地方に俳人鬼城君のあること
が、鬼城の俳句観を大きく変
ように投句しました。高崎の
て き ま し た。
えることになります。それが
の後の高崎の俳壇を支える基
発足し、毎年全国俳句大会を
開催しています。
こで育まれる生の営み、そし
て自らの人生を表現し続けた
鬼城。俳句に生涯を賭けた俳
聖・村上鬼城の足跡は、今も
なお色あせることなく息づい
ています。
参考文献 徳田次郎、
1987、
﹃村上鬼城の新研究﹄
、本阿弥書
店
「村上鬼城顕彰 全国俳句大会」
の作品を募集
﹁ 五 日 会 ﹂ に 引 き 継 が れ、 そ
盤になっていきました。
俳聖・村上鬼城の最期と
今に生きるその足跡
年 月 日、鬼城は
昭和
胃がんのため、 歳の生涯を
閉じました。
並 榎 村 舎 は 現 在﹁ 村 上 鬼 城 記
て い ま す。鬼 城 が 住 ん で い た
へも出したのだから身に過ぎ
念 館 ﹂と な っ て い ま す︵ 高 崎
人は専門学校
たことだ。ありがたい﹂と話
日前までに電話での予約が必
9834。見学は希望日の数
市 並 榎 町 288 ☎ 326・
、
と傍らで見守る妻にも薦めま
年
年には、その功績を
50
讃えようと村上鬼城顕彰会が
の昭和
要 ︶。 ま た、 鬼 城 の 没 後
て﹁ う ま い か ら 食 べ て み よ ﹂
し、ブドウを
粒口にし
を受け、男子
鬼城の墓は若松町の龍廣寺
亡くなる前日、鬼城は﹁不 にあり、市の史跡に指定され
如意の身分で大勢の人の見舞
な大往生だったと言います。
の元で結成された俳句会の
鬼城(左)と䢚魚 村上幹也氏提供
二人は﹁紫苑会﹂という俳句
40
俳 人﹁ 鬼 城 ﹂ の 名 は、 全 国
鬼城の墓(龍廣寺・若松町)
49
不運や逆境という壁を乗り越
鬼城にとって、俳句とは当
初、自らの境遇に対し弱音を
を諸君は忘れてはいかぬ﹂と
決定づけるきっかけになりました。
「物をよく見ること」そして「言葉だけで表現
すること」の面白さを知った鬼城は、ますます
俳諧の道へのめり込んでいくことになりました。
会を立ち上げ、毎月句会を開
ました。当時、全くの無名だった鬼城に対し、
子規は丁寧な返事を返しました。
そこには俳句を学ぶ上で重要な「古人ノ名句
︵現在の高崎高校︶に赴任し
連載を読み、衝撃を受けました。
鬼城は、日清戦争の従軍記者として広島に滞
在していた子規宛てに手紙を出し、指導を仰ぎ
絶賛されました。
明治 28 年、31 歳のとき鬼城は新聞「日本」
の誌上で正岡子規による俳諧について書かれた
いては意見を交わしました。
正岡子規との交流
魚自身もま
ヲ読ム事」「自ラ多ク作ル事」「他人ノ批評添削
ヲ乞フ事」という 3 つの教えが書かれていまし
た。これが鬼城が俳句を自らの目指すものだと
今年から一般に加え、高校生からも募集します。
たくさんの句をお寄せください(高校生は学校を
●応募方法=市役所 7 階文化課、各支所地域振興
74 17
3
鬼城は女の子の 7 人を群馬県立高等女学校
に、そのうちの 1 人は師範学校にまで修学さ
せました。男子 2 人は小樽高等学校に進学さ
せています。
村上鬼城賞
●募集作品=平成 26 年 4 月 1 日∼平成 27 年 3
全国俳句大会の雑詠句
9
2
2
した。その最期は、眠るよう
「家の子供ハどれも気が弱い。やさしい、ハ
ニカミ、内気といつた気質の者のみなり。買
額 小 為 替、 現 金 書 留、 郵 便 振 替 の 場 合 は、 東 京
00120-7-156822「村上鬼城顕彰会」へ ●その
他=入選作品は 9 月 20 日㈰の全国俳句大会で発
表します
上鬼城顕彰会へ。
問い合わせは、同会(☎ 329-5221)へ。
13
物さしてコレハイケナイから取替て来いと言
つても取替に行くことが出来ない。一寸見る
と役に立たぬやうなれども、女の子ハコレが
善いのだと思つて居る」
昭和11年4月19日 桜咲く高崎公園
村上幹也氏提供
「ホトトギス」大正 5 年 1 月号
県立土屋文明記念文学館提供
のように書かれています。
2
62
五・七・五、わずか 文字の
世界で郷土の雄大な自然やそ
17
俳句雑誌「ホトトギス」
俳句
鬼城には 2 男 8 女、10 人の子どもがいま
した。耳が不自由なため、代書人の稼ぎが思
うようにいかない貧窮の時期に子どもたちを
育て上げるのには大変な苦労があったとうか
がえます。鬼城は子どもたちの性格を見極め、
個性を大切に育てました。鬼城の日記には次
2015.4.15(4)
(5)高崎市役所☎ 027-321-1111
▲
特集 生誕 150 年 村上鬼城