一寸一息 悟るということ 昨年 11 月 29 日から 12 月 27 日まで、第1部が放送された NHK のスペシャルドラマ、司馬遼太郎原作の 長編小説「坂の上の雲」、本木雅弘、阿部寛、香川照之などそうそうたるメンバーで放送されました。3 部作で、今年の年末と来年の年末に放送が予定されています。その中で、香川照之扮する正岡子規(本 名:常規(ツネノリ))は、愛媛県松山市出身の歌人・俳人。1867 年(慶応3年)に生まれ、1902 年(明 治 35 年)、34 歳の若さで亡くなりました。東京大学に入学するも中退、好んで旅をしましたが、若くして 重症の肺結核を病み、床に伏してからは、病床から庭越しに自然を感じ、多くの歌を残しております。 有名なのは、「柿食えば、鐘が鳴るなり法隆寺」 脊椎を侵され、病の床で殆ど動けない状態の中、激痛に耐えつつ、歌を作り続けました。このため、 「病床六尺我世界」と言い、これでも広すぎると言ったそうです(ちなみに、「尺」は昔からの日本の長さ の単位で、今の1メートルの10/33、約30㎝になります。ですから、六尺とは、ほぼ布団の長さで約1.8m) 。 子規は、病に勝てず没しましたが、晩年、次のように言っていたということです。 「悟るとは、平気で死ぬことと思っていたが違っていた。悟るとは、平気で生きることであった。」 苦しみとは、言わば、ある対象が思うままにならないことで、例えば、ある対象としての病気が、直っ て欲しいと思いつつも、そうはならない、思いに反して直らないことが苦しみと言えます。この状態を解 決するには、両者を一致させればよいこととなり、対象を変えて心に一致させるか、心を変えて対象に一 致させるか、どちらかでしょう。 例えば、医療の場合は、対象である病気を治して、心が望んでいる状態に一致させるのですから、前者 の方法と言えます。 一方で、心の状態を変えて対象に一致させるのは、病気であれば、心の方を「病気の状態でもよし」と いう状態に変える方法、つまり真の原因を対象に求めず、心の側の妄執(渇愛)に求めるもので、他のい ろいろな欲望が満たされないときもまた同じです。 仏教のみならず、いろいろな宗教はこちらの方法をとっていて、少欲知足、心をコントロールして限り ない欲望を抑え、足るを知って満足して生きよと教えています。 死の淵に追いやられた子規は、宗教的な悟りの境地にまで達したのでしょうか。 (F) 30
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