定家と 「ふしまちの月」;pdf

悠
定家と ﹁ふしまちの月﹂
ーー歌謡の取材源としての ﹃源氏物語﹄
端
円刀
FL
新古今時代に﹃源氏物語﹄を摂取した和歌が多く詠まれ
注箇所を原典から引用することさえもしていない。おそら
る。しかし逆に、そうであるからこそ、定家の例人的な
のための備忘録として記したものなのであろうと考えられ
でに多くの研究が重ねられており、対象を定家に限ってみ
﹃源氏物語﹄に対する興味・関心がうかがい知れる資料だ
く、他人に見せるための注釈書というよりも、定家が自身
てもその数は非常に多い。新古今時代の和歌において﹃源
る
。
一見して、何の変哲もない語注のように見えるこの注
ふしまちの月十九日な口(﹃奥入﹄七一丁オ・若菜)
さて、その﹃奥入﹄の﹁若菜﹂には、次のような注があ
ということもできるであろう。
定家の﹃源氏物語﹄注釈書として知られる﹃奥入﹄は、
について考えてみたい。
した先学たちに導かれながら、定家と﹃源氏物語﹄の関係
うことを改めて考えさせられるのであるが、本稿でもそう
氏物語﹄という存在がいかに大きなものであったか、とい
ごとにどのような﹃源氏物語﹂摂取が試みられたのか、す
うに記した程度のものであり、通常の注釈書のように、被
﹁注釈書﹂とはいうものの、そのほとんどはメモ書きのよ
引歌の指摘が中心となっている注釈書である。しかし、
溝
たことは、もはや周知の事実といってよいであろう。歌人
はじめに
注
釈
月﹂に加注しているということ自体に、 定家の個人的な興
第六十輯
(以下、﹁﹃奥入﹄当該注﹂と称する)が、どのような意味
味・関心がうかがえるのではないか。
同文四月子論叢
を持っているのか。この注に該当するのは、﹃源氏物語﹂
夜更けゆくけはひ冷やかなり。則樹釧則はつかにさし
定家の詠歌へどのような影響を与えているかということに
わってみたいと思う。まずは﹁ふしまちの月﹂という語が、
そこで本稿では、この﹃奥入﹄当該注に少しばかりこだ
出でたる、﹁心もとなしゃ、春の臨月夜よ。秋のあは
ついて考える。そうすることで、定家の﹃源氏物語﹄受容
若菜下巻の次の場面であると思われる。
れ、はた、かうやうなる物の音に、虫の声よりあはせ
の一側面を明らかにしたい。
のたまへば、(後略)(若菜下・四ー一九四)
に、陰暦十九日の夜の月を指す言葉である。同義語として
そもそも﹁ふしまちの月﹂とは、定家も注しているよう
一、和歌における﹁ふしまちの月﹂
たる、ただならず、こよなく響きそふ心地すかし﹂と
光源氏四十七歳の年、﹁正月二十日ばかり﹂(若菜下・四
かという﹁春秋優劣論﹂を交わす。その場面に登場する
女性論や音楽論につづいて、春と秋のどちらが優れている
﹁ねまち(寝待)の月﹂があり、つまりは﹁臥して(寝て)
一八五)に催された六条院での女楽の後、光源氏と夕霧は、
﹁臥待の月﹂について、定家は﹁十九日(の月)﹂であると
待つほど夜遅くに昇る月﹂を意味しているが、和歌におい
歌のなかでも同様で、現在のところ二首しか見出しえない。
注解をしているのであるが、﹃奥入﹄では、このような注
先述したように、﹃奥入﹄はその注の大半を引歌の指摘
しかし、この﹁ふしまちの月﹂を複数回詠んだ歌人は、管
ては用例がそれほど多くは見られない語である。定家の詠
に費やしており、語注のような指摘は、漢籍に故事がある
見では定家が最も早いのである。定家の家集﹃拾遺愚草﹄
は非常に珍しいといわねばならない。
場合を除いてはあまり例が見られない。﹁ふしまちの月﹂
旅宿
から、その二首を挙げる。
は珍しいといえる。とすれば、ここで定家が﹁ふしまちの
とは、漢籍に由来しない和語であろうから、こうした請注
①山かげやあらしのいほのさ
k枕ふしまちすきて月もと
ひこず(﹃拾遺愚草﹄中・権大納言家三十首・附)
この秋風
②したをぎもおきふしまちの月の色に身をふきしおると
識がそこに向けられていたのではないだろうか。 このこと
については後述する。
次に、﹁ふしまち(の月)﹂の語誌を確認しておきたい。
中、﹁旅宿﹂題で詠まれた歌である。旅寝を表す﹁さ、枕
①は、一元仁二年(一二二五)三月の﹁権大納言家三十首﹂
ける﹁ふしまち﹂の初例は、管見では﹁古今和歌六帖﹄に
して﹁ふしまち﹂の用いられ方を見ていきたい。和歌にお
ひとまず措き、以下、本稿の興味であるところの和歌に即
からない﹂という。いま﹁一九日の月﹂であるかどうかは
の語は、﹁院政期以前には、一九日の月を示す確例が見つ
﹃日本国語大辞典第二版﹄(小学館)によれば、﹁ふしまち﹂
(篠枕ととの縁で﹁ふし(節)﹂の語を含む﹁ふしまち﹂
(﹃拾遺愚草﹄上・関白左大臣家百首・秋二十首・山)
を用いていると理解される。一方②は、貞永元年(一二三
きみをのみおきふしまちの月見ればうき人しもぞ恋し
見られる次の二首である。
かりける(﹃古今和歌六帖﹄第一・ありあけ・制)
一一)四月の﹁関白左大臣家百首﹂のうち、﹁月﹂題で詠ま
れた五首中の一首である。これは定家が後に﹃定家卿百番
君をのみおきふしまちの月影はやちょもここにありあ
ω
)、本人にとって
も自信作であったことがうかがえる。いずれも﹃源氏物語﹄
白歌合﹄に自撰しており(三十番右・
m
)
される定数歌であることを、すでに伊東祐子氏が指摘され
歌を、定家が自身の詠作の際に本歌として用いた例が確認
らも、定家撰の﹃奥入﹄・﹃新勅撰和歌集﹄双方に見られる
まれた﹁権大納言家三十首﹂・﹁関白左大臣家百首﹂はどち
の月﹂という措辞は、定家の②にも影響を与えていること
月﹂という形ではなかっただろうか。特に﹁おきふしまち
なったのは、この二首のように﹁君をのみおきふしまちの
も、和歌において﹁ふしまちの月﹂を詠む際にまず基本と
この二首は初二句が全く同一である。そのことを考えて
けをせよ(﹃古今和歌六帖﹄第五・人をまつ
ている。それを踏まえて考えてみると、①も②もこの﹁ふ
からも、やはり基本形であったといってよいであろう。こ
との直接的な影響関係は指摘できないものの、①・②が詠
しまち﹂という語を媒介とすることで、定家の物語への意
定家と﹁ふしまちの月﹂
園文曲目子論叢
第六十輯
た文脈を喚起する語という認識であったといってよいであ
次に﹁ふしまち﹂が和歌に現れてくるのは平安中期以降、
ろう。
視点を移す効果があると考えられるが、そこからさらに、
院政期に近くなってからである。例えば次の﹃康資王母集﹄
の措辞には、﹁寝たり起きたりしながら恋人を待っている﹂
恋人を焦がれながら待つ詠歌主体の心情へと再び立ち返っ
右の大殿の頭中将ときこえしときたけのだいに月
の例を見てみよう。
のもりたりしを
とおぼえしこれつけよとのたまはせしかば
たけのよなかにいづる月かな
ふけにけりこやふしまちのほどならん
(﹃康資王母集﹄回)
詠まれた連歌である。前句は﹁よなか﹂の﹁よ﹂に﹁夜﹂
これは、清涼殿東庭の竹の台から差し込む月の光を見て
わがつまをまつといもねぬ夏の夜のねまちの月もやや
あるやまざとに、はくのははなどいきあひて、は
后宮大弐集﹄の例を指摘しておきたい。
また、康資王母に関連した例として、次の﹃二条太皇太
言語遊戯としての側面が強い歌であるといえる。
に﹁竹﹂との縁で﹁ふしまち﹂が用いられた例であろう。
まち﹂に﹁節﹂が掛けられている。これも定家の①と同様
と﹁節﹂が掛けられており、それに対する付句では﹁ふし
m
)
﹁ねまちの月﹂が用いられている。これらの語は、そうし
ほととぎすを待つ﹂という文脈でこの﹁ふしまちの月﹂・
これらも含め、これまでの用例では、いずれも﹁恋人や
こゑもなし(﹃長能集﹄別)
あやめぐさねまちの月はいでぬれど山ほととぎすなく
左衛門督殿にて、かんしんに
かたぷきぬ(﹃恵慶法師集﹄百首歌・夏
ぶきにけり(﹃古今和歌六帖﹄第一・ざふのつき・湖)
君まっとおきたるわれもあるものをねまちの月はかた
できる。
﹁ねまちの月﹂ならば、わずかではあるが確認することが
の語を見出すことはできない。その一方で、同義語である
しかし、この後しばらく、和歌においてこの﹁ふしまち﹂
ねられることになる。
てくることで、夜遅くに昇る月という景物がその心情に重
という人の行動から一日一﹁ふしまちの月﹂という景物へと
四
るの月いづるほどに
いつかまためぐりあふべきあしびきの山ふところにふ
るが、これまでの詠みぶりと大きく変わったところは特に
見受けられない。
以上見てきたように、﹁ふしまち(の月)﹂という語は、
和歌において熱心に詠まれた語であるとはやはりいいがた
し│剖到叫則(﹃二条太皇太后宮大弐集﹄則)
この歌は、﹁はくのはは﹂(康資王母)と山里で行き合っ
い。﹁ふし﹂に﹁節﹂などを掛け、縁語的発想で文脈を広
喚起したりすることなどを考えれば、決して和歌に詠みづ
げたり、﹁恋人やほととぎすの訪れを待つ﹂という文脈を
らい語というわけではないであろう。しかし、逆にいえば
は﹂のことを寝ながら待っていたのであり、そのことを
﹁ふしまち﹂と表現しているのだと考えられる。そして、
そうした詠み方に限定されてしまうことに、この語の限界
たときのもので、詠歌主体(大弐)はおそらく﹁はくのは
そこから﹁ふしまちの月﹂(詞書では﹁はるの月﹂)へと視
があったのかもしれない。ともかく﹁ふしまち﹂は、和歌
においてあまり広まることのなかった語と見るべきなので
の月﹂と同様の措辞といえよう。なお、康資王母と大弐は
血縁関係にあり、この二人が共通して﹁ふしまちの月﹂を
あろう。
点を移していくという、これはいわば先の﹁おきふしまち
詠んでいることは注目すべきことかもしれない。
さて、次の﹃在良集﹄の例は、題に﹁夜深待郭公﹂とあ
ることからもわかるように、﹁ほととぎすを待つ﹂という
文脈で詠まれたものである。
﹁ふしまちの月﹂と物語
代の﹁ふしまちの月﹂に対する認識はどのようなものであっ
まれることの少ない語であったと思われる。では、この時
前節で確認したように、﹁ふしまち﹂は和歌において詠
5)
この歌意は、ほととぎすを待っていたら臥待の月が高く
考えたとき、﹁ふしまちの月﹂が﹁十九日の月﹂を指すか
たのだろうか。というのも、﹃奥入﹄当該注に引きつけて
定家と﹁ふしまちの月﹂
五
昇るほど夜が更けてしまっていた、というようなものであ
らになりぬれ(﹃在良集﹄
ほととぎすまっとせしまにふしまちの月こそたかくそ
夜、深待郭公
、
一
第六十輯
たちでてもひとなみならぬものうさによりふしまちの
園文間四千論叢
どうかは重要な問題であったと思われるが、これまで見て
貯をこそみれ(同・叩・源仲正)
題が﹁寝待月﹂であるにもかかわらず、この二首があえ
確実に﹁十九日の月﹂として﹁ふしまちの月﹂が詠まれ
このことから考えても、﹁ねまちの月﹂と﹁ふしまちの月﹂
臥しごを詠んだことからの縁語的発想によるのであろう。
ずのあみと(篠の網戸)﹂、仲正の場合は﹁よりふし(寄り
て﹁ふしまちの月﹂を選んでいるのは、為忠の場合は﹁す
るのは、﹃為忠家後度百首﹂での例である。この﹃為忠家
は同じものであると認識されていたのはまず間違いない。
つまり、﹁ふしまちの月﹂もまた﹁十九日の月﹂である、
が出題されている。この二十首はすべて﹁月﹂を題とする
が、﹁伊佐与非月(十六夜月)﹂、﹁立待月﹂、﹁居待月﹂、﹁寝
という意識も、歌には表れていないが確実に働いていたと
では、﹁ねまちの月﹂の場合はどうであろうか。﹁ねまち
待月﹂、﹁廿日月﹂の順で出題されており、そのことからこ
の月﹂の用例については、先に挙げたもののほか、和歌本
た歌学的意識のもとで注されていたのであろう。
を踏まえていると思われるが、この時点では確実に﹁寝待
文ではなく詞書に見られる例として、次のようなものが見
思われる。そして、定家による﹃奥入﹄当該注も、そうし
月﹂は﹁十九日の月﹂であるという意識が、少なくとも歌
出された。
れらの題が順に十六、十七、十八、十九、二十日の月を指
学の分野では根づいていたのであろう。その﹃為忠家後度
ねまちの月を
やみなん(﹃公任集﹄山)
ねてまっとこよひの月をいふなれば物思ふ人はみでや
人道摂政ものがたりなどしてねまちの月のいづる
あづまぢのすずのあみどをおしあけてひとりすごくも
(﹃為忠家後度百首﹄秋月廿首・寝待月・凶・藤原為忠)
ふしまちの月
二首挙げる。
百首﹄﹁寝待月﹂題から、﹁ふしまちの月﹂が詠まれた歌を
す語であることがわかる。この出題は﹃能因歌枕﹄の考証
後度百首﹄では、秋部﹁月廿首﹂の一つとして﹁寝待月﹂
ついて確認しておきたい。
きないのである。定家の意識を知るためにも、このことに
きた例では、いずれも﹁十九日の月﹂であるか、判断がで
ム
、
ノ
大納言道網母
ほどにとまりぬべきことなどいひたらばとまらむ
といひはべりければよみはべりける
む月をは
(道綱母)
ひさかたの空に心の出づといへば影はそこにもと
返し、
とて、とどまりにけり。(﹃崎蛤日記﹄上)
まるべきかな(兼家)
づるつきをば(﹃後拾遺和歌集﹄雑一・制)
天暦十一年(九五七)八月の条である。この直前、兼家
いかがせん山のはにだにとどまらでこころのそらにい
このうち、﹃後拾遺和歌集﹂の道綱母の歌は、﹃晴蛤日記﹄
のもとへの通いが途絶えていた。ここでは、久しぶりに通っ
は町の小路の女との聞に子をなしており、しばらく道綱母
てきた兼家と道綱母の贈答歌が交わされているが、二人の
前栽の花いろいろに咲き乱れたるを見やりて、臥しな
の次の場面を出典としている。
がらかくぞいはるる。かたみに恨むるさまのことども
の月﹂が山の端から出てくるほど夜遅くなって、兼家は
関係はよそよそしい状態が続いている。そして、﹁寝待ち
﹁泊まるべき理巾があるならば(泊まろう)﹂と持ちかける
あるべし。
にゃあるらむ(兼家)
ももくさに乱れて見ゆる花の色はただ白露のおく
が、道網母が冷淡に突き返したことで、かえって兼家は道
綱母への愛情を刺激されてしまう、という文脈であろう。
とうちいひたれば、かくいふ。
みのあきを思ひ乱るる花のうへの露の心はいへば
その、道綱母が兼家を冷淡に突き返した歌が﹁後拾遺和歌
集﹄に採られる際に、﹁ねまちの月﹂という叙述が調書に
さらなり(道綱母)
などいひて、例のつれなうなりぬ。寝待ちの月の山の
は、単に﹁夜遅い﹂というこ
そのまま残されたことは注目すべきである。
L
するものとして機能しているのであろう。これまで見てき
とを示すだけでなく、おそらくは道綱母の心理状態を暗示
この場面で﹁ねまちの月
端出づるほどに、出でむとする気色あり。さらでもあ
りぬべき夜かなと思ふ気色や見えけむ、﹁とまりぬべ
きことあらば﹂なと言へと、さしもおぼえねば、
いかがせむ山の端にだにとどまらで心も空に出で
定家と﹁ふしまちの月﹂
七
園文筆論叢
第六十輯
たように、﹁ねまちの月﹂あるいは﹁ふしまちの月﹂は、
ここで﹁ねまちの月
を描くことで、兼家の浮気に対して
﹁恋人の訪れを待つ﹂文脈を喚起する景物なのであった。
L
関白内大臣
なにかうきよし心見よなが月のありあけの月のありや
(﹃物語二百番歌合﹄後百番歌合・五十三番右・川柳)
はてぬと
ちの月﹂が登場することは注目してよいであろう。このよ
定家自身の撲による﹃物語二百番歌合﹄のうち、﹃朝倉﹄
うに、定家の﹁ふしまちの月﹂に対する興味は、物語の文
実は兼家の訪れを待ちわびていたことが表現される。であ
このように考えれば、﹁ねまちの月﹂あるいは﹁ふしま
脈において用いられる語を、歌語として取り込もうとした
から採られた一首である。﹃朝倉﹄は現在では散侠物語ゆ
ちの月﹂は、恋を訪御とさせるものであり、物語的な感興
態度ではなかっただろうか。これまであまり顧みられるこ
るからこそ、﹃後拾遺和歌集﹄に採られる際も、詞書に
を呼び起こすものとして認識されていたのではないだろう
え詳細は不明だが、定家がまとめた詞書にやはり﹁ふしま
か。これらの語は、もともとは和歌で使われていた語であっ
とのなかった語を、物語から摂取しようとしたのである。
そして、そのように考えるとき、定家が﹁ふしまちの月﹂
が合意している存在は何であろうか。﹁旅宿﹂題であるこ
を詠んだ①も②も、やはり物語的なイメージが読み取れる
とから、詠歌主体は旅寝をしていると考えられる。おそら
歌ということになるのではないか。例えば①は、﹁ふしま
右権中納言ときこえし時しらかはにてふしまち
くここで詠歌主体は、例えば都に残してきた恋人などを思
もう一つ、﹁ふしまちの月﹂が物語的感興を呼び起こす
の月まっとて、中納言のきみもろともにながめた
ものとして認識されていたであろうことを示す例を、定家
まふに、見るままに月もうき世にすみわびて山よ
い返しているのであろう。また②は、久保田淳氏が﹃狭衣
ち﹂の時期が過ぎて﹁月もとひこず﹂と詠むが、この﹁も﹂
りゃまにいりやしにけむ、ときこえければ
の周辺から挙げておきたい。
と思われる。
たが、和歌では使用が伸びず、散文に活路を見出したもの
﹁ねまちの月﹂が明記されるのである。
怒り、表面上はつれない態度をとってはいても、道綱母が
/
¥
かやら
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だ源
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ので
では
はな
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注釈作業における﹃古今和歌六帖﹄の重要性に気づいた定
家がそこから歌を抄出して﹁定家小本﹄を試作し、それが
このように、﹃奥入﹄と﹃定家小本﹄との関係は、これ
﹃奥入﹄の注釈に影響を与えたのではないかと論じられた。
までは主として歌の重複から論じられてきている。本稿の
ところで、 定 家 の 和 歌 活 動 と ﹃ 源 氏 物 語 ﹄ 注 釈 と の 関 連
当該注のような語注もまた、定家においては物語と和歌を
あまり顧みられていないように思われる。しかし、﹃奥入﹄
るが、﹁奥入﹄当該注のような引歌以外の部分については、
試みももちろんそうした先行研究の流れに加わるものであ
を示す資料としては、﹃奥入﹄だけでなく、ほかに﹃定家
挙げた﹃古今和歌六帖﹄の﹁ふしまちの月﹂の歌が採られ
で注目したいのは、この﹃定家小本﹄に、先に第一節でも
つなぐものとしであったのではないだろうか。稿者がここ
現在、天理同書館に所蔵されている該書は、﹃占今和歌
ていることである。
﹁和歌の部﹂に採られた一五三首の歌については、すでに
(一二丁オ1 二六丁オ)とに内容が大別される。このうち、
いもとしね、ば(出)
もみぢばのちりのまよひにいゑゐしてよさへぞながき
月かたぷくを(泊)
きみこふとしなへうらぶれわがをればあきかぜふきて
蔵中さやか氏による詳細な研究があり、ただの雑然とした
あしがきに月はのぼりぬいでこ/¥そのいゑのむすめ
のであることが明らかにされている。さらに蔵中氏は、
世中をおもひしれらむ人もがなあきのよひとよ物がた
物がたりせむ
定家と﹁ふしまちの月﹂
九
﹃定家小本﹄と﹃奥入﹄との重複歌の存在から、﹃源氏物語﹄
(
M
)
集成ではなく、歌語に注目しつつ歌群ごとに配列されたも
内容についての考勘がまとめられた後半部分﹁雑記の部﹂
の部﹂(一丁ウ1 二O 丁 オ ) と 、 主 と し て ﹁ 源 氏 物 語 ﹄ の
六帖﹄から撰んだ歌を集成したと思われる前半部分﹁和歌
目して論を進めたい。
小本﹄が知られている。本節では、この﹃定家小本﹄に注
t
J
"9
K
苛
三、﹃定家小本﹄ の﹁ふしまちの月﹂
いも物
だの語
ろの』
閥文四月子論叢
第六十輯
きみをのみおきふしまちの月かげはやちょもこ
りせむ
りあけをせよ(部)
(お)
Lにあ
(﹃定家小本﹄六丁オ1 同 ウ )
これは、﹁和歌の部﹂のうちでも、﹁月﹂を中心に歌群が
形成されている箇所である。蔵中氏はこの歌群について、
か
も待つという女を中心に、右のようなストーリーを描いて
誘いを断る。││おそらく、ここで定家は、その﹁やちょ﹂
配列したのではないか。そして、ここにおいて﹁ふしまち
の月﹂が重要な役割を果たしていることは疑いえない。
つまり、定家にとって﹁ふしまちの月﹂は、﹃源氏物語﹄
注釈のために﹃古今和歌六帖﹄に注目するなかで、物語的
感興を喚起する語として注意されていた語であったと思し
い。定家の﹁ふしまちの月﹂に対する興味は、﹃源氏物語﹄
L
ら﹁いゑゐして﹂に改めることで、川品番歌の﹁そのいゑの
ヲ
(担)
。
h
v
むすめ﹂と対応するようになり、歌群全体がストーリーを
もって展開していくようになると指摘されているが、首肯
すべき見解であろう。
実際、この歌群を注視すれば、秋の夜、恋人の訪れを待
ちわびている女の姿が浮かび上がってくる。回番歌ではも
節でも述べたように、この﹃奥入﹂当該注は基本的に、
ここで再び﹃奥入﹄当該注に戻って考えてみたい。第二
男は﹁月かたぶくし時間になってもやっては来ない。そし
十日ばかり﹂とされる日付を確定させる意味を持っている。
た。しかし、﹃源氏物語﹄の当該場面においては、﹁正月二
女に対して﹁物がたり﹂をしようと誘いかける男の歌であ
﹁ふしまちの月﹂への加注は、単に語への興味というだけ
﹃能因歌枕﹄に見られるような歌学の立場からの注であっ
ろう。それに対して女は、話番歌で﹁きみをのみおきふし
ではなく、物語の内容を受けてのものなのであった。
て、お番歌で女は、そのような恋人と共寝をしない夜の長
まち﹂と、あくまでも当初からの恋人を待つのだと返し、
さを詠んでいる。一方、 M ・話番歌はその﹁いゑゐ﹂する
うすでに﹁飽き﹂を響かせた﹁あきかぜ﹂が吹いており、
おわりに
注釈と定家自身の和歌活動を確かに結びつけているのであ
出番歌の第三句を﹃古今和歌六帖﹄での﹁しぐれして
。
定家の﹃源氏物語﹄注釈には、これまでに先学が指摘し
九輯、武蔵野書院、一九八四・二己、田中初恵﹁定家の
源氏物語受容﹂(﹃和歌文学研究﹄日、一九九0 ・
一O
)、
学会編﹃源氏物語と歌物語研究と資料﹄、古代文学論叢第
(2) ただし、定家の意識としては、現在でいうところの﹁引
学﹄白 l剛、二O 一四・八)などがある。
五月女肇志﹁藤原定家の﹃源氏物語﹄摂取﹂(﹁国語と国文
心に││﹂(﹃東京大学国文学論集﹄ 9、二O 一四・三)、
﹁牒原定家の﹃源氏物語﹄摂取││﹃正治初度百首﹄を中
九二・一二)など、多数。最近のものでも、尾葉石真理
﹃源氏物語の本文と受容﹄、源氏物語講座 8、勉誠社、一九
同﹁定家の和歌における源氏物語受容﹂(今井卓爾ほか編
てきたように、引歌の考証を通して、その引歌の表現を自
身の詠歌に反映させていたという側面がある。本稿で見て
きたのは、そうした間接的な﹃源氏物語﹄摂取とは少しば
かり趣を異にした例であったが、それでも物語の表現や文
脈への注視と、それを和歌へと取り込もうとする意志が垣
間見られる点で、やはり軌を一にしているといえるのでは
ないだろうか。定家の﹃源氏物語﹄注釈は、これまであま
り和歌で詠まれてこなかった語を歌語として取り込むとい
う、取材源としての側面をも有しているのである。
歌﹂││古歌の一部を引用することでその内容や情趣を取
(l) 寺本直彦﹁定家の源氏物語受容 H ・同﹂(﹃源氏物語受
ことについては、大取一馬﹁源氏物語﹃奥入﹄における藤
血六や証歌をも包摂した広い概念であったと思われる。この
異なっており、単に﹃源氏物語﹄の叙述の背景にある、出
り込みつつ、新たな文脈を形成する表現技法ーーとはやや
H の初出は
註
容史論考正編﹄、風間書房、一九七0 ・五
五・五)の影印に拠ったが、池田亀鑑﹃源氏物語大成﹄第
典文学会編﹃奥入・原中最秘抄﹄(貴重本刊行会、一九八
定家自筆とされる大橋寛治氏蔵本を用いる。本文は日本古
(3) 本稿における﹃奥入﹄は、いわゆる﹁二次本﹂のうち、
周辺﹄、思文閣出版、二O 一四・九)に詳しい。
原定家の﹁引歌﹂意識について﹂(同編﹃日本文学とその
﹃立教大学日本文学﹄ 6、一九六0 ・八)、久保山淳﹁﹃源
氏物語﹄と藤原定家、親忠女及びその周辺﹂(﹃藤原定家と
その時代﹄、岩波書底、一九九四・一初出は紫式部学会
編﹁源氏物語と和歌研究と資料 E﹄、古代文学論叢第八輯、
武蔵野書院、一九八二・四)、藤平春男﹁新古今集と源氏
物語ーー定家の本歌取と源氏物諮の引歌││﹂(﹃藤平春男
著作集﹄第五巻、笠間書院、二O O三 ・ 二 初 出 は 紫 式 部
定家と﹁ふしまちの月﹂
園文事論叢
第六十輯
) の叡刻も参照した。
一三冊(中央公論社、一九八五・一 O
なお、以下の引用において、傍線等の加工はすべて稿者に
せしか春のよのこよひの月をいかがみるらん﹂という歌が
日詣﹂に﹁二月二十日﹂のこととして﹁昨日こそねまちも
(8) 註 (6) 前掲伊東氏論文。
(9) ただし、﹁同義語とされる﹁寝待の月﹂は、﹁宇津保 l春
(4) 以 下 、 ﹃ 源 氏 物 語 ﹄ の 本 文 は 、 新 編 日 本 古 典 文 学 全 集
していたと考えられる。また、歌学書にも﹁能因歌枕﹂に
含まれているところから、一九日という特定の日の月を指
よるものであるつ
(小学館)に拠り、引用末尾に(巻・冊頁)を示した。
とも述べられている。しかしどちらにしても﹁ふしまち﹂
﹁十九日ねまち﹂などとある﹂(﹃日本国語大辞典第二版﹄)
(5) 管見では、二次本﹃奥入﹄に見られる語注の多くは、漢
語や有職故実に関わる注である。それらを徐くと、本稿で
らない限りすべて﹃新編国歌大観﹄に拠り、歌番号もすべ
(日)以下、﹃拾遺愚草﹄以外の和歌・歌合の引用は、特に断
という形ではほぼ見られないといってよい。
取り上げる﹃奥入﹄当該注のほかには﹁まくらこと﹂(桐
由慌て﹁ふるき﹂(末摘花)、﹁ひとたまひ﹂(葵)、﹁みつむま
や﹂(初音)の各注が見られるのみである。
(6) なお、﹃奥入﹄の注釈と、それが定家の和歌活動に与え
て同書のものを用いる。
(﹃徳島文理大学文学論叢﹄ 6、一九八九・三)の指摘によ
(日)大伏春美・森本一冗子﹁﹃二条太皇太后宮大弐集﹄注釈回﹂
た影響についての論考には、伊東祐子﹁﹃奥入﹄掲載歌と
﹃新勅撰集﹄について﹂(﹃国語と国文学﹄臼│凶、一九八
であった康資王を指すという。
れば、﹁はくのはは﹂とは﹁伯の母﹂で、﹁伯﹂とは神祇伯
五・四)、上野順子﹁﹃奥入﹄孜││﹁引歌﹂から﹁本歌取﹂
へ││﹂(﹃和歌文学研究﹄加、二OO二・六)、真野道子
家自筆本﹃拾遺愚草﹄の影印に拠り、私に濁点を付した。
(朝日新聞社、一九九三・一 O /一九九五・二)所収の定
(7) ﹃ 拾 遺 愚 草 ﹄ の 本 文 は 、 冷 泉 家 時 雨 亭 叢 書 第 八 ・ 九 巻
ないが、少なくとも非常に近しい血縁関係にあったことは
通宗母と康資王母が同一人物であるとはさすがに判断でき
また康資王母も高階成順女である(﹃和歌文学大辞典﹄)。
原通宗は﹃尊卑分脈﹄に﹁実母筑前守高階成順女﹂とあり、
血縁にあたるという。稿者が確認したところ、大弐の父藤
(ロ)註(日)前掲注釈によれば、康資王母は大弐とは父方の
﹁定家の源氏注釈における万葉歌﹂(﹃中古文学﹄活、二O
また字体については、適宜通行の字体に改めた。歌番号は
O六・一二)などがある。
﹃新編国歌大観﹄のものを用いる。
事実だといえよう。
(日)註 (9) 前掲﹃日本国語大辞典﹄でも触れていたが、
﹃能闘歌枕﹄(広本)には次のようにある。本文は佐佐木信
明白である。ただし、この﹁ふしまちすぎて﹂という措辞
は、定家①から影響を受けたものと思しく、﹁ふしまちの
月﹂を定家が発削附したという事実は変わらないであろう。
の﹁折れ返り起き臥しわぶる下荻の末越す風を人の問へか
巻、河出書房新社、一九八五・三)のなかで﹃狭衣物語﹄
(打)久保田淳氏は②について、﹃訳注藤原定家全歌集﹄(上
し﹂(巻三・狭衣、歌の本文は新編日本古典文学全集﹃狭
に拠った。
網編﹃日本歌学大系﹄第壱巻(風間書房、一九七一・一二)
ゐまち。十九日ねまち。廿月ヨリありあけ。
ち(の月)﹂の場合も、﹃蛸蛤日記﹄のほかは註 (
9) 前掲
管見では﹃源氏物語﹄以前の用例を見出しえない。﹁ねま
を待つ心を込めているとも解される。なお、この﹃狭衣物
れを踏まえれば、②は冷淡な恋人のあり得べからさる訪問
捨てられている宮は、冷淡な態度を崩さない。いま仮にそ
宮の慰問を期待して贈った歌である。しかし狭次に一度見
が、かつて関係を結んだ女二の宮への思慕を抑えきれず、
この歌は物語では、不本意な一 nmの宮との結婚に附む狭衣
衣物語﹄(小学館)に拠った)を参考歌として挙げている。
十六日いさよひ。十ヒ日たちまち。十八日
(日)﹃蛸蛤日記﹄の本文は新編日本古典、文学全集(小学館)
に拠った。
﹃日本国語大辞典﹄が引く﹃宇津保物語﹄くらいである。
証叩﹄の歌は、定家も﹃物語二百番歌合﹄に撰んでいる(源
(日)ただし散文の場合でも、﹁ふしまち(の月)﹂については
出せるが、これも﹁ふしまちの月﹂を確実に﹁十九日の月﹂
(凶)なお、定家と同時代の歌人では、次の家長の例が唯一見
氏狭衣百番歌合・七十三番右・胤)。
一九六七・七)に影印と釈文が、待井新一﹁藤原定家自筆
(同)﹃定家小本﹄については、呉文柄﹃定家珠芳﹄(理想社、
と認識して詠んでいると考えられる。
つれもなきはつかあまりの月影も判叫剖到すぎていふ
研究と資料﹄、古代文学論叢第六輯、武蔵野書院、一九七
﹁定家小本﹂︿翻刻﹀﹂(紫式部学会編﹃源氏物語とその影響
かひもなし(﹃、州院摂政家百首﹄恋二十首・
m ・源家長)
﹁はつかあまりの月﹂を﹁ふしまちすぎて﹂と詠んでいる
とその所収歌の歌番号は待井氏の翻刻に拠るが、私に清濁
八・三)に翻刻と解題がある。以下、﹃定家小本﹄の本文
不遇恋五首
これは、定家②と同じ百首で詠まれた歌であるが、まず
点で、﹁ふしまち﹂が﹁十九日の月﹂を指していることは
定家と﹁ふしまちの月﹂
凶文民千論叢
第六十輯
のちりのまがひにしぐれしてよさへぞながきいもとしねね
意不通。﹃新編国歌大観﹄所収﹃古今和歌六帖﹄﹁もみぢば
(幻)お番歌は、底本では第四句が﹁いさへそなかき﹂とあり、
ば﹂(第五・ひとりねm
) により、改めた。
ただし、﹁和歌の部﹂の大半は定家とは別筆(﹁雑記の部﹂
を分かち、表記も私意で改めた箇所がある。
は定家自筆)。しかし定家筆と思われる朱の合点が施され
(初)蔵中さやか﹁﹃定家小本﹄和歌の部をめぐって││﹃古
該注を媒介として挿入することで、この二つを密接な関係
薄となる﹂としている。しかし稿者は、ここに﹃奥入﹄当
るが、表現のレベルでの指摘にととまり、﹁やや関係が希
(幻)なお、戴中氏も定家②と﹃定家小本﹄との関連を指摘す
ており、注目される。なお、内容の分別、およびその名称
今和歌六帖﹄と﹃新勅撰集﹄、﹃奥入﹄との接点 l│﹂(﹃題
は註(凶)前掲解題に拠った。
詠に関する本文の研究大江千里集・和歌一字抄﹄、おうふ
(本学大学院博士後期課程)
を持つものとして考えたい。
べてこの論に拠る。
九問・六)。以下、蔵中氏の論として言及するものは、す
う、二000・ 一 初 出 は ﹃ 国 語 と 国 文 学 ﹄ 口 刷 、 一 九
(
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型