『祝福』を読む;pdf

祝
福
2015.1.「ゆきのまち幻想文学賞」投稿作品
渡辺([email protected])
隣の香苗は、雪が降ると現れる。
幼い頃はそれが不思議だった。春から秋は隣家に子どもの気配はなく、ネズミ顔の
さ
んが一人で畑の世話をしている。藁色の菅笠が白いまだら模様になると、その足元で香苗
が遊び出す。雪の肌にりんごの頬、桃のジャンパー。近所に同い年の子はいなかったから、
その姿は新鮮に映った。
田んぼを挟んで様子を伺っていると、香苗が気付いて手を振ってくる。ハウスを修理し
ている
さんを見上げ、頷くのを確認してから、こちらに駆け出してくる。
香苗は雪遊びの天才だった。雪合戦や雪道ダッシュで勝てたためしがない。遊びもポン
ポン思いつく。迷路ごっこにハンコ遊び、雪団子屋さん……きっと香苗は、人の姿をした
雪ん子なんだ。密かにそう思っていた。
「あっちゃん、雪って何で白いんやと思う?」
飛び込み勝負が終わって、雪のじゅうたんに大の字になりながら香苗が聞いてきた。香
苗の口調は独特で、何気ない言葉も妙に可笑しく聞こえる。
「そりゃあ、雲が白いからじゃろ」
幼い頃、俺は雲がちぎれて雪になると信じていた。香苗は身を起こし、真剣な眼差しで
言った。
「うちな、お祝いの印やと思うねん」
「お祝い?」
「せや。誕生日も結婚式も、白いケーキでお祝いするやん。花嫁さんなんか真っ白やろ。
雪が白いんも、お空の神様からのご褒美や。暗くて悲しい黒がいっぱいの冬に、ちゃあん
と生きてんのやなって、祝ってくれてんねん」
香苗の言葉は確信に満ちていた。そこには一片の曇りも、ケーキがチョコレートだった
らという仮定すらも存在しない。俺は半信半疑ではあったが、雪ん子の言葉だし本当かも
しれないと、神妙な顔で頷いた。
そんな香苗も、春風の頃には姿を消した。畑には
さんだけ、広い田んぼには俺一人。
消えた日だけは少し寂しく、あとはつくし採りや芋虫探しへ野に出掛ける。次の冬が来る
と、また二人で雪の上を転げ回った。
そうして冬だけの付き合いが続き、小学生に上がる頃、母が言った。
「そうじゃ敦史。隣の家に来とる香苗ちゃん、こっち引っ越してくるんじゃて」
耳を疑った。香苗は雪ん子でも何でもなく、父親と二人で関西に住む、生身の少女だっ
た。
「せやねん。うちのお父ちゃんな、商売うまくいかへんようになってん。せやから、春か
ら
ちゃんとこで一緒に暮らすんや」
香苗はあっさりと話してくれた。
「お父さん、何やっとったんじゃ?」
「お葬式屋さん」
葬式に出た経験がなく、ピンとこなかった。
「お葬式屋さんってな、冬めっちゃ忙しいねんで。お父ちゃん全然うちいいひんから、冬
だけ、
ちゃんとこに居させてもらっててん」
香苗はえくぼを見せた。
「春から同じ学校通えるん、嬉しいなぁ」
屈託のない、この白く清らかな日々を眩しく思うのに、そう時間はかからなかった。
田舎の小さな小学校では、香苗の存在は強烈だった。頭の回転が早くて運動神経も抜群、
それでいて改める気のない関西弁。憧れる子、反発する子、何かしら騒ぎの種だった。
「ほんま、理解できへん!なんでうちが謝らなあかんの?先生なんも分かってへん」
二人で遊ぶ機会は減ったが、帰り道で香苗の武勇伝や不満を聞くのが日課だった。
「あっちゃん、先生に言ってくれへん?香苗ちゃんは人の鉛筆取る子やありませんて」
「俺が言っても説得力ないじゃろ」
「んなことないて!あっちゃんの言葉なら、先生も聞いてくれるて!」
俺は地味な生徒だったが、周囲に「香苗の子分」扱いされていた。諍いに巻き込まれて
は相手にデブだのチビだの罵倒され、体中に擦り傷を作った。早く中学生になりたい。割
れた眼鏡を拾いながら、切実に思った。
と言うのも、中学では四つの小学校が集まるため、香苗と適度な距離感を保てると考え
たからだ。予想通り、中学では同じ組になることは一度もなく、平穏な日常が訪れた。た
だ、
はよく耳にした。
「二組の混合リレー、香苗が出るんじゃて」
「まじかー。勝てるやつおらんじゃろ」
香苗は陸上部に入り、すばしこさに磨きがかかった。容姿もカモシカの手足に色白の小
顔で、相変わらず目立つ。強者が何人か告白して玉砕したとも聞いた。対岸の火事かと思
いきや、最後に火の粉が降り掛かった。
「卒業式に告るわ。敦史、呼び出してくれ」
陸上部の友人が血迷ったことを言い出した。何かと香苗の話をしていた理由が分かった
が、呼び出しすら出来ないチキンが香苗とつり合う訳がなかった。しかしどう説得しても
独りで行く気概を見せないため、渋々ながら前座を引き受けることになった。
̶̶香苗のどこがいいんじゃ。
̶̶何を今更。可愛いじゃろ、香苗は。
盲目とは恐ろしい。卒業式後、浮き立つ生徒の合間を一人、重い足取りで香苗の組に向
かった。探すまでもなく、香苗の白くて小さな顔が見えた。声をかける前に目が合い、香
苗の頬にぱっとりんごが浮かぶ。
「あっちゃん!」
飛ぶようにしてやってきた。久々に近くで見た香苗は、記憶よりも目が小さかったが、
上唇がぽってりと分厚かった。
̶̶可愛いじゃろ、香苗は。
変に顔が紅潮する。振り払って手短に用件を伝えると、香苗の口元が富士山になった。
「あっちゃん、いい人すぎやで!もーあかん。ごめんなさいて言っといて」
もう内容を察したらしい。何人も相手にすると、空気が読めるものなのだろうか。
「阿呆、自分で言え」
「お互い様や!」
そう言い残して去っていった。何がお互い様じゃ。戻って友人に結果を伝えると、散々非
難された。実に後味の悪い卒業式となった。
そのまま喧嘩別れのように高校に進学し、隣とはいえ顔を合わせることもなくなった。
ただ最新情報は、母親の地獄耳ネットワークから受け取っていた。
「香苗ちゃん、陸上の県大会で一位じゃって」
「香苗ちゃん、模試でB判定出たいう話じゃ」
俺の中で、香苗が同じ速度で成長していくのが分かる。伝聞と想像に意識が集中するせ
いか、会わなくなってからの方が近くに感じる程だった。だがそんな錯覚も、ある日のス
クープで簡単に打ち砕かれた。
「香苗ちゃん、彼氏できたんじゃてー!」
帰るなり言われて、パックごと飲んでいた牛乳が気管に入った。香苗に彼氏?冗談だろ。
だがいくら平静を装っても、夕飯は粘土か紙の味しかせず、夜は三十分ごとに時計を見た。
衝撃を受けた自分自身に衝撃だった。
気付かぬ間に、香苗が心の奥底に宿っていた。誰にもなびかないのは俺を好きだからと
思い込み、そうであってほしいと願っていたのだ。会わなくなって気付くとは愚かの極み
である。かと言って、もはやあの頃のように田んぼを超える勇気もない俺は、中三の友人
と同じくらいチキンだった。
俺は進学も就職も県内で方が付き、母の傍聴役として香苗の話を聞き続けた。香苗はく
っついたり離れたり、母と我が家の食卓に飽かぬ話題を提供した。
だがそれも、今日で一区切りを迎える。
「明日の花嫁姿はどんなんかねぇ。香苗ちゃん綺麗じゃろね」
母が夕飯の片付けをしながら、うっとりとつぶやく。部屋に戻るつもりが落ち着かず、
コートを引っ掛けて外に出た。
雪はやんでいた。夜気が冷たく、静寂が痛い。踏みごたえのない真新しい雪の上を行く
と、田んぼの向こうに人影を見つけた。
「あー、あっちゃーん」
紛れもなく香苗だった。
「おい。何やっとるんじゃ」
声が雪に吸われて落ちる。代わりに香苗の足音が近づいてくる。
「雪見たくなってん」
あぜ道の真ん中で、香苗が赤い頬で笑った。途端、幼い頃からの膨大な記憶が脳裏を掠
めていった。思えば今日まで、記憶の隅々までに香苗が棲んでいる。一体、俺の人生をど
こまで侵食すれば気が済むのだろう。
「もう、明日が結婚式なんじゃな」
「せやで。全然実感わかへんわ」
白い吐息が浮かんで消える。
「色々あったけどなぁ。まさかこのスレンダーなうちが、眼鏡かけたカピバラみたいな人
と結婚するとは、夢にも思わんかったわ」
笑いながらふと、空を見上げた。黒塗りの空がほころんで、細やかな雪が舞い降りて来
た。見る間にふくれて視界が埋まる。香苗がフードを冠った。牡丹雪は、頭上に、肩に、
無邪気に降り立ち居場所を作る。一雪ごとに香苗が白く染まる。
̶̶お空の神様からのご褒美や。
幼い香苗の言葉が、雪と共に腑に落ちた。白い雪がご褒美だとしたら、雪ん子は神様が
授けた幸福の結晶だ。それを娶る男は、世界中の男がうらやむ幸せ者だろう。
「風邪ひいたら大変じゃ。中に入れ」
「うん、ありがと」
香苗は轍を戻って行く。小さくなる後ろ姿を眺めていると、途中で香苗が立ち止まり、
振り向いた。
「あっちゃーん」
こちらに手を振る。
「明日、いい式にしようね。おやすみ」
香苗の纏う雪が、冬の闇に淡く光って見えた。
<了>